★彼氏と彼女

彼氏に電話をかければコールすら鳴らず、すぐにお留守番サービスに繋がった。メールを送れば既読すらつかなくなった。放課後の山吹中の校門に、私を待つ人はいなくなった。私が悩みに悩んだ恋は、あっさりと幕を閉じてしまったのかもしれない。




「最近クソ男迎えに来ねえな」

暇そうに私に問いかける亜久津君は、相変わらず掃除を手伝う事はなく窓にもたれていた。もうすっかり慣れた風と共に香る彼の煙草の匂い。今日で終わる美術室の掃除は、亜久津君と二人でいれる最後の時間だと私は思った。
彼氏の事をクソ男だと言われても、前と違い私は何も反論しなかった。今は彼氏かどうかも分からない男を、私がどうこう言う資格はない。もちろん亜久津君にも。
それよりも掃除しようよと、話をそらし箒を渡せば彼は舌打ちをして嫌々受け取った。私も亜久津君に意見できるなんて強くなったものだ、少しずつ彼への恐怖心はどこかへ飛んでいっているのかもしれない。箒を掃くどころか座った机の上から一歩も動こうとしない亜久津君を尻目に、私はいつも通り掃除をした。
未だに本気なのかどうか分からないけれど、私の事を好きだと言ってくれる亜久津君。彼がたまに出す不器用な優しさに対して、私はどう接すればいいのか分からずに嬉しく思ったり、困惑したり、動揺したりもした。

「もう今日で美術室の掃除終わるからさ、最後に亜久津君も掃除しようよ」

「お前さ」

「なに?」

「いつ俺の女になるんだよ」

またそういう冗談いうのやめてよ。私は適当にごまかして、ちりとりにゴミを集めた。亜久津君は照れる様子もなく、平然とこういう類の言葉を発する。その度に私の心臓は不意にもドキドキと動き出すのだが、亜久津君に対して好きだとか、そういう恋愛感情は湧かなかった。いまだに大好きだった彼氏の事を自分は引きずっていて、またそれを亜久津君は察しているのだと思う。

「別に私は誰のものでもないよ」

「じゃあ俺のもんだな」

「亜久津君ってさ、今までそうやって女の子達を落としてきたんだね」

私も平然を装い意地悪を言った。彼はその言葉に対して何も言わずに黙っていた。亜久津君は相変わらず暇そうに窓から外を見ていた。外の校庭から聞こえる男子達の楽しそうな声、窓から吹く風、それによって揺れるベージュのカーテン。いつもと変わらない日常だった。

「お前しか口説いてねえ」

彼は呟くと突然立ち上がり、ロッカーに箒を適当にしまいこみ掃除という大仕事を残して美術室から去っていった。私は亜久津君に返事も反論もせずに、また一人で箒を掃いた。



私の想像とは違い、美術室の掃除が終わっても。私達はそのうち学校内で自然と言葉を交わすようになった。
おはよう、おう。今日遅刻してきたの?、別にいいだろ。南君が亜久津君の事探してたよ、ほかっとけ。プリント明日までに提出しなくちゃだめだよ、うるせえ。
そんな些細な短い言葉しか話せなかったけど、今までに比べたら私達はかなり親しくなったと思う。それを見た友達や周りの子は困惑したり驚いた様子を見せた。それを私達は面白く思い、小さく笑ったりもした。
必然と亜久津君といる時間が長くなった頃。春だった季節はとうに過ぎ、じわじわと暑い夏になった。亜久津君への恋愛感情はハッキリとしなかったものの、私は段々と大好きだった彼氏の事を忘れ始めていたと思う。電話をかけるのも辞め、メールを送る事も辞めた。未だ彼氏から、連絡はなかった。








「久しぶり!いやーごめん携帯壊れてて!」

友達と帰ろうとしていたある日、大好きだったあの彼氏が校門のあたりで私を待っていた。性欲剥き出しの馬鹿面。過去の亜久津君の言葉が、再度頭によぎるくらいの笑顔だった。
彼氏?一緒に帰ろうとしていた友達は私にそう聞いて気を使い、一人足早に帰っていった。彼氏に何を言われるか分からない。行かないでと友達に伝えることができなかった私は、今ひどく怯えている。

「何でそんなに静かなの?」

会うの久しぶりで緊張してる?固まる私を見た彼氏はヘラヘラと笑い、私に近づいて腰に手を回そうとした。気持ち悪い。前は何とも思わなかったのに、今は腰に回された手が不快にしか思えず手を振り払った。通学路を歩く他の生徒が私達を不思議そうに見て去っていった。いうことを聞かなかった私に、一瞬で不機嫌になった彼氏。けれど周りの生徒の目を恐れたのか焦り、私の機嫌を取ろうとした。

「今まで何してたの?」

「だから携帯が壊れてたんだって。そんなに怒るなよ」

この後俺んち来るよね? 彼氏は私が手を振り払った事も、怒っている事も気にせずにどんどん話を進めていった。嫌がる私の手首を少し無理に掴み、彼氏は歩き始めた。
亜久津君と彼氏は全く違う。無理やり話を進めるし、行きたくないのに家に連れて行こうとするし、なにより私の話を聞いてくれようともしない。嫌い、大嫌い、こんな人。

「私知ってるよ、私以外の女の子と遊んでるでしょ」

「何それ?俺じゃないよ、誰かと勘違いしてない?」

彼氏の家に向かう脚は止まらない、それどころか笑って誤魔化しまた胸を触ろうとしている。私はその手も必死に腕で退かそうとした。それを不審に思った彼氏はやっと手を引っ込めた。

「今日なんでそんな機嫌悪いの?」

「よく今まで放ったらかしにして会いに来れたね」

「だからごめんって謝ってるじゃん」

「夜に駅で女の子と歩いてるの見た!」

いつも彼氏にこんなに反抗する事はない。
何故だかあんなに大好きだった彼氏が凄く不快で、私は今、亜久津君との距離感だとか、雰囲気だとか。私に対するあの言葉達が堪らなく愛おしい。
彼氏は私のこの行為に対して腹を立てたのか、私の肩を乱暴に押した。思わずよろけて転びそうになる。それを見た周りの下校中の生徒達がひそひそ話で私達の事を話していた。けれど私や彼氏と目線が合うと足早に逃げていく。そんな事にも腹を立てた彼氏は、いつもよりもひどく不機嫌だった。

「あー、お前うざい。もういいわ、いらねえ」

人が変わったかのように彼氏の態度は冷たくなった。その言葉を聞いた瞬間、私は胸の奥が痛くなり何も言えなくなった。

「お前みたいな女、誰も本気で好きにならねーよ」

誰がお前にやる事やって仕込んでやったと思ってんだよ。フェラだって上手くなっただろ、感謝してほしいくらいだわ。
私は呆然と立ち尽くし、彼氏の口から出てきた信じられない言葉を聞いていた。これが彼氏の本性だったんだ。私はこんな人に恋をして騙されて付き合って、大事な大事な処女を捧げて、必死に嫌われないよう機嫌をとってセックスしていた事が恥ずかしい。今初めてそう思えた。
悔しくて涙がこぼれ落ちてくる。彼氏と付き合い始めて、一体何回泣いたんだろう。いや、彼は付き合ってるつもりはなかったのだろう。私だけが本気だった、亜久津君の言う通りだった。

「お前みたいな使えねー女が一番嫌い」

彼氏だった男は私に対して馬鹿にしたように笑った。あぁ、私はこのままショックで死んでしまうのではないだろうか。悔しい、でも上手く言い返す事もできない。喉から言い返す言葉が上がってこない。泣いていると全く喋る事が出来ないんだと、こんな時に再度痛感させられる。
突然、誰かが背後から私の肩を持ち引き寄せた。私の背中が誰かの硬い身体にぶつかり、思わず脚がもたつく。

「これ持ってどいてろ」

聞き覚えのある声が頭の上からした。振り返れば、いつもの怖い顔をした亜久津君だった。彼は教科書だとか勉強道具が入っていないのか、かなり軽い鞄を私に押し付けて、彼氏の方に視線を移した。

「なに、お前男いたんだ」

だったら俺の事ごちゃごちゃ言うなよ、クソ女。
彼氏がその言葉を発してすぐさま、亜久津君は怖い顔のまま彼氏に向かって歩いていった。それを見た彼氏は少し怯えたように笑って後ずさんだ。亜久津君は彼氏に近づき、遠慮なく胸ぐらを掴んだ。彼氏が瞬発的に目をつむる。亜久津君、私はやっとの思いで声を出し名前を呼んだ。
彼氏は亜久津君と私の顔を交互に見ている。周りの数人の生徒は事態が飲み込めずにざわついていた。彼は何をするつもりなんだろう。私はなんだかこの状況が怖くなっていた。

「俺のお古でよければこいつやるよ」

お古とは私の事なのだろう。私はまた傷つき、彼氏は罪悪感すら持たずに笑って発言をした。きっと彼氏なりの嫌味を持った攻撃だったのだと思う。彼氏は胸ぐらを掴まれたまま、亜久津君を挑発するように笑っていた。
それを聞いた亜久津君は彼氏を自分の方に寄せて、躊躇なく右の拳で顔を殴った。私は思わず目を瞑る。聞いた事のないような鈍い音がした後、周りにいた女子生徒の小さな悲鳴も聞こえた。
恐る恐る目を開けると彼氏はコンクリートの上に倒れていた。殴られて大丈夫なのか不安になる、けれど心配ではない。私は自分が冷たい人間になってしまったのかと思ったけれど、さっきの彼氏の言葉を思い出すと心配なんてできなかった。殴った亜久津君は前屈みになり、のした彼氏を睨んでいる。

「それ以上喋んなよ」

亜久津君の発言は聞こえているのだろうか、彼氏は声も出さずに顔を抑えてうずくまっている。亜久津君は体勢を立て直して、私に渡した鞄を奪い取った。それと同時に背後では、彼氏がふらふらと立ち上がり足早に逃げていった。
周りの生徒がこの騒ぎに気づいて集まり始めている。それを心配してか、亜久津君は黙って私の腕をとり歩き始めた。手を繋ぐわけでもない、だって付き合ってもいない、好きでもなんでもないはずだから。でも亜久津君は助けてくれた。彼氏に騙され続けた環境から、酷い言葉を言われた場所から。言葉や態度は乱暴だったけれど、私は確かに救われていた。それに私は今、やっと気付いた。

「亜久津君」

「行くぞ」

「亜久津君、ねぇ、ごめんね」

「何で謝るんだよ」

「人を殴らせちゃった、本当にごめんね」

「だからなんだよ、黙ってろ」

俺だったらあんな目には合わせねえ。
亜久津君は怒っているのか、一歩後ろを歩く私と目を合わせようとしなかった。私はひどく不安になった。亜久津君が彼氏のあの言葉を聞いて私の事を嫌いになったら。私は亜久津君に、自分の事を好いていてほしい。嫌われたくない。その想いにも気付くことができた。

「亜久津君、好き」

それは作った言葉ではなくて、私の口から出てきた本心だった。
不器用な優しさとか、いつも私に対して本気で向き合ってくれたりとか。男の人はみんなやりたいだけ。そう思っていた私に、それは間違いだというのを亜久津君は身をもって教えてくれた。
彼は歩くのを止めない。私の腕を掴んでいた手は離れていった。私は一歩先を行く彼の隣に並び顔を見上げた。

「今更かよ」

亜久津君は笑っていた。それだけで私は安堵をし、涙だらけの顔を手で拭った。お前泣きすぎ、彼は歩きながら私の顔をじっと見ていた。見られたくなくて地面を向く、亜久津君の靴と私の靴が見えた。

「私の事嫌いになった?」

「何でなるんだよ」

「処女じゃないし、亜久津君はずっと助けてくれたのに私は何もしなかった」

「くだらねえこと言うな」

お前の彼氏は俺だろ。彼はそう言って私の隣を歩いた。無理に家に誘うわけでもない、一人で帰らせるわけでもない。私は亜久津君の言葉に、耳を赤くしながら頷いた。
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