★彼氏と彼女

ある時、彼氏が情事の最中に知らない女の子の名前を呼んだ。
私は彼氏の下で驚き、演技気味だった声を出すのをやめた。その様子を見た彼氏は少し動揺しながら「ごめん知り合いと間違えた」。いつもと同じくへらへらと笑いながら適当に誤魔化し、止まる事なく必死に腰を揺らした。
窓から差し込んだ夕日が、レースのカーテンの柄を壁に映し出している。彼氏の頭越しに見える部屋の天井はいつもと変わらなかった。外から聞こえる小学生の声、時間が経つにつれどんどんと暗くなっていく部屋。全てがいつもと変わらない私の日常だった。けれど私の上で動き続ける彼氏だけは、いつもと違っていた。
あぁ、やっぱり。頭の中で亜久津君の棘のある言葉が駆け巡った。つい喘ぎ続ける事を忘れた私に彼氏は、どうしたの?気持ちよくない?声出していいんだよ。そんな問いかけをした。
そんな事ないよ、気持ちいいよ。本当は少し痛いし、さっき知り合いだとか言った女の子の名前の事を訊きたいけれど。伝えても行為を中断してくれる事はないだろうし、訊いても上手く誤魔化されるだろう。思ってもいない言葉を吐いて、偽の喘ぎ声をあげることに集中した。
他に付き合ってる女の子がいようと、上手く誤魔化され騙されようが。それでも私は彼氏の事が好きだった。私のことを好きだと言ってくれた、可愛いと褒めてくれた。そんな些細な事を私は嬉しく思い、大好きな彼氏の事を信じたかった。
彼氏は達する事を告げて、私のお腹の上に偽りだらけの欲望を吐き出した。彼氏が優しいのはここまで。後は少し不機嫌になった彼氏が私の目の前にいるだけ。「もう暗くなるし帰るよね?」その問いに私は笑顔を作って頷いた。そうして、私はまた一人で帰路につく。亜久津君の言葉を思い出しながら。





「お前見てると腹が立つ」

開けた窓から吹き込む暖かい風、煙草の匂い、窓際の机に座る亜久津君。もう見慣れてしまったこの光景に、私はうんざりとしていた。

「なんで腹が立つの」

「そんなにあいつの事が好きかよ」

「好きだよ」

私は冷たく言い切ってみせた。亜久津君は私の言葉を聞いて、いつものあの怖い顔をした。
いつまで私は亜久津君と美術室の掃除をさせられるのだろう。もう別の班に交代してもいいくらいだというのに、掃除期間はまだ数日もあった。

「もう構わないでってこの前言いました」

「あいつ、今日の夜もきっと駅前にいるぞ」

「違うよ、今日はバイトだって言ってたから」

亜久津君には強がって見せたものの、彼の言う通り恐らく私の彼氏は駅前で女の子と遊んでいるのだろう。メールの返信は少なくなり、電話に出る事も少なくなった。馬鹿な私にもそれが何を示しているのか分かる。

「お前、夜出てこれるか」

「夜?ほんの少しだったら大丈夫だと思うけど…」

「今日の夜8時。駅前に来い」

「え、でも」

「本当の事知りたくねえのかよ」

亜久津君は退屈そうにつぶやき、欠伸をしてまたこの前のように美術室を去った。
行きたくないけれど、行きたい。もし亜久津君のいう通りに彼氏が女の子といたら、私はどんな顔をすればいいのだろう。そんな姿見たくないけれど、真相が知りたくもあった。
20時なら親を説得すればなんとか駅前に行けるだろう。亜久津君は本当に来るのか、騙されていないだろうか。不安を抱きながらも私は駅前に行く事を決め、また一人で箒を掃きゴミをちりとりにまとめた。



春といえど夜はまだ肌寒くて、自販機で暖かいココアを買い駅前のベンチに座った。ほんのりと熱を持つココアで暖めた指でスマホのボタンを押すと、19時55分と待ち受けに表示された。彼氏からのメールは17時には途絶え、彼氏の言った通りにバイトなのだろうと私は思っていた。
帰宅途中のスーツを着たサラリーマン、学校帰りの大学生、今から遊びに行くのであろう派手な格好をしたお姉さん達。駅前の風景の中に、亜久津君の姿はなかった。
駅前と言えば山吹の生徒の中では学校に一番近いこの駅の事だし、あの亜久津君の事だから飽きてしまったのか、約束したのが面倒になったのか。今日はもう来ないのだろうと、私はなんとなく感じていた。
残量がほんの少しだけになったココアを飲み干す。もう十分に身体は暖まった。私へのあの上から目線すぎる告白も、只のからかいだろうなぁ。暇を持て余した私はぼんやりと考えた。
亜久津君が惚れるほどの魅力が私なんかにあるはずがない。もしかしたら彼も私とやりたいだけなのかもしれない。疑心暗鬼に陥りながら、私は帰るタイミングを見計らっていた。
20時になる直前、駅から人が溢れ出した。電車がこの駅で止まり、人が降りてきたのだろう。コンビニのある路地、大通りの方面、駅裏のラブホテル街。色々な方面へ旅立って行く人の塊を、私はぼんやりと見つめていた。
そして時間は20時を迎えた。駅の改札から見覚えのある人が出てくる。私を好き勝手に抱き、事が終わると不機嫌になる、17時前まで確かにメールをしていた彼氏だった。でも彼氏は一人じゃない。私と会う時よりもお洒落をして、その腕には私よりも一つか二つの歳上だろう、ご丁寧に見知らぬかわいい女の子までくっついている。
彼氏は私に気づく事もなく、またあのヘラヘラとした笑いを浮かべながら見知らぬ女の子の腰に手を回して歩いている。横を歩く女の子は、私とは全く正反対の満更でもない様な態度だった。ねぇやめてよ。猫撫で声のような、甘えた声で彼氏に笑いかけていた。
向かう方面は彼氏の家とは正反対の駅裏のラブホテル街。私とは彼氏の家でしかしないのに。あの女の子にはちゃんとお金を出して愛し合うんだね。見知らぬ女の子と歩く、大好きだった彼氏を見て胸が苦しくなった。
「やりたいだけ」「大事にされてない」
亜久津君の言った言葉が私に重くのしかかって、目で彼氏達を追うのをやめた。
もうとっくに枯れて出なくなったと思った涙が頬を伝っていった。亜久津君が来なくてよかった。こんな姿を見られたら、また馬鹿にされるかもしれない。道歩く人にさえ泣き顔を見られたくなくて、私は顔を伏せて涙を袖で拭った。

「大丈夫か」

どこかで聴いたことのある声が頭の上からして、思わず顔をあげた。
私の座っているベンチの左側には、手に火のついた煙草を持つ銀髪の男が立っていた。いつも学校で会い、特に会話する事もなく、私の大好きだった彼氏を馬鹿にして、上から目線で告白してきたあの亜久津君だった。

「あいつだろ、お前の男」

亜久津君である事を確認した私は首を縦に振り、再度顔を伏せて地面を見た。約束したのにも関わらず、来ないと思っていた彼はちゃんと時刻通りに駅前に来た。彼氏のことを見ていた、そして涙を流した私に声をかけた。

「…亜久津君の言う通り、好きなのは私だけだったみたい」

そう亜久津君に伝えたかったけれど、涙と横隔膜の軽い痙攣は止まらず、とても聴き取れる状態ではなかった。彼は上手く聞き取れなかったのか返事もせずに、ただ立ち尽くすだけだった。
彼が指に挟んだ煙草は私にとって未知の領域で、なんだか少し恐ろしい物に見えた。亜久津って煙草吸ってるんだって、いつの日か噂話でそう聞いたことがあった。確かにいつも服からはこの匂いがしていた。けれど本当に彼が喫煙しているとは思ってもいなかった。彼が私の気持ちを知らないように、私もまた亜久津君の事を何も知らなかった。

「立てるか?」

泣きじゃくって声が出ない。亜久津君の問いに対して、立てない。私は首を横に振った。
煙草消す?、今度は首を縦に振る。亜久津君は地面に煙草を投げ捨て靴で火を消し、私から少し離れてベンチに座った。私が持っていたココアの缶を、彼は私の手から優しく奪いとった。軽く振り、中身がもう無いことを確認してから地面に落ちた吸い殻を取り、そのまま中に入れて灰皿代わりにした。

「あいつがどういう奴か、はっきり分かっただろ」

「…」

「おい、聞いてんのか」

亜久津君は無視をした私に問いかけた。きっと私の方を見ているだろう。こんな泣き顔見られたくない、また亜久津君に馬鹿にされる。そう思った私は、下を向いたままだった。

「お前の事が好きだ」

亜久津君は私の返答を待たずに会話を続けた。
静かに吹いた夜風はやはり、彼からする煙草の匂いを私に運んだ。もう慣れてしまったこの匂いに、うんざりとしていたはずなのに今は何故か恋しく思えた。

「…冗談じゃなくて?」

「そんなくだらねえ冗談言わねえよ」

ベンチの前を通っていった大学生くらいの男達が、私達の方を見てニヤニヤと笑っていた。あいつら今告白してたよな、そう言って盛り上がっているのを見て、私はひどく恥ずかしくなった。それでも亜久津君は周りの人なんて気にしなかった。

「あいつと付き合ってるお前を見ると腹が立った」

「…」

「だから俺の所に来い」

「でも…」

「でもじゃねえよ」

俺ならお前を大事にできる。
亜久津君から発せられる言葉は、確かに私への告白だった。私はまだ泣きじゃくっていて、亜久津君は背中をさするわけでも慰めるわけでもなく、ただ私が泣き止むのを待っているようだった。彼の告白にどう返事をしていいのか。今の私にはまだ分からなかった。



数分経ち、吃逆のようになっていた呼吸はやっと落ち着いた。
けれど未だに顔をあげる事が出来なかった。ずっと下を向いて泣き続けた私は、きっと酷い顔をしているだろう。けれどずっとこうしてもいられない。時間はもう20時半くらいになるだろう。親が心配をする前に、私は家へと帰らなければいけなかった。
鞄からポケットティッシュを取り出して、顔を上げて鼻をかんだ。横目で亜久津君を見ると目が合い、「ひでえ顔」。そう言って小さく笑いやはり私を馬鹿にした。あんまり見ないでね、顔を隠すように背けると彼は小さく笑って返事をした。

「もう帰るぞ」

亜久津君はベンチから立ち上がると、目で私に立ち上がるように指示をした。携帯の時間を見ると20時25分。私の予想通りだった。
じゃあまた明日学校でね。私は立ち上がり、亜久津君に挨拶をして別れようとした。亜久津君は不思議そうに眉間に皺をよせた後、私の名字を呼んだ。

「どこいくんだよ」

「家に帰るよ。亜久津君はまだ帰らないの?」

「なに勝手に帰ろうとしてんだ」

亜久津君はいつものように怒り、私の隣に並んだ。立ち止まった私と同じく、一歩も歩かない亜久津君。彼が隣に来る意味が理解できず、私は頭にはてなマークを抱えたまま亜久津君を見上げた。彼もまた、私を不思議そうに見ていた。

「帰るんだろ?」

「うん、帰るよ」

「じゃあなんで突っ立ってんだよ」

「…もしかして、送ってくれるの?」

「あ?当たり前だろ」

何言ってんだよ。当然のように歩き出した亜久津君に、私はなんだか未知の生物を見ているような気分になった。これが普通なのか、亜久津君が優しいのか。いつも一人で帰る私には分からなかった。
私の肩が亜久津君の腕に当たる。やけに硬い腕、横に並んだ時に合わない背、いつもより香る煙草の匂い。彼氏でもなんでも無い亜久津君と、二人きりで歩くのにほんの少しだけ罪悪感を覚えた。
彼氏は他の女の子と歩くどころか色々な事をしているだろう。けれど心のどこかに未だ残っている彼氏への気持ち。その気持ちをどうしていいのか、私はもやもやと悩み始めた。亜久津君からの告白。彼氏を信じたいと思う気持ち。何も知らなかった亜久津君の本音。嘘で固めた彼氏の言葉。全てが頭の中でこんがらがった。

「早く歩かねえと置いてくぞ」

亜久津君は振り返り、私を急かした。せっかく送ってもらうのに、置いていかれるのは少し困る。

「早いよ、待って」

「くだらねえ事で悩むんじゃねえよ」

あいつの事は早く忘れろ。
亜久津君はまた腹立たしそうに呟いた。私はそれに対して返事が出来なかった。亜久津君はそんな私を見て前を向いて歩き出す。今まで一人で寂しく歩いていた帰り道を、私は亜久津君に置いていかれないように急ぎ足で追いかけた。
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