緩やかに(クン美奈)


 家に来てソファーに横になって占拠していた美奈子が、キッチンから戻ってきた俺の事を見ると飛び起きて二枚のチケットを意味不明な効果音を口にしながら差し出してきた。
 彼女の腹の上で同じように寛いでいた白猫も突然の主の動きに悲鳴を上げてソファーから落ちる。
「遊園地?」
「そ! うさぎがタダ券くれたのよ」
 美奈子の隣に腰を降ろして彼女にはアイスレモンティ-を置き、自分はコーヒーを一口飲んでからたっぷり間を置いた。
「それで?」
「それで?じゃ、ないでしょ! 一緒に行こうって言ってるの!!」
「そういうのはうさぎさんと行ったらいい」
「何でよ!」
「楽しめる者同士が行った方がチケットも無駄にならない」
 自分としては善意で言ったつもりだったのだが。左隣からは戦闘時のようなオーラが放たれてきて目を見張る。
「あんたには私とデートする時間なんて無駄だってことね?」
「そうは言ってないだろ」
 俯いたまま低い声で言う彼女に、いつもの短気だと思った俺は特に表情も変えずに言い返す。
「そういうことでしょ!? もういいわよあんたなんて!!」
 上げられた顔を見て自分の迂闊さを激しく後悔する。
 彼女の表情はいつものように怒っているというよりも悲しげで。目からは涙が零れ落ちそうになっていた。
 しかし言うが早いか手元のクッションを思いっ切り俺に投げ付けて鞄を引っ掴んでそのまま家を出て行ってしまった。
 取り残されて重く、苦い物が胸の中に広がる。
「美奈!」
 足元にいた白猫が俺が彼女を呼ぶよりも早く叫ぶ。そして俺のことを見る目は明らかに責めているものだった。
「賢人、今のはまずいぜ」
「…分かっている」
「分かってない!! 美奈がチケットもらってどんだけ嬉しそうにしてたか、お前とデートするのをどんだけ楽しみにしてたか!! チケットを出した時の美奈の顔ちゃんと見てたのかよ!」
 アルテミスに正直、返す言葉も無く黙る。
 俺はどこかで安心していたのだ。彼女は自分が何を言っても怒るにせよ結局は隣にいてくれると。
 そんな保証はどこにもないのに。
 知らないうちに俺は随分と美奈子に甘えていたのかもしれない。
 何も言わない俺にアルテミスは「美奈は…」と更に話を続けた。
「今まで何かを守るために何かを無くして。そういうことが沢山あったんだ。でも今は普通の女の子としてもようやく幸せになれた。美奈にとって一番大事なのは今でもうさぎだけど、彼女本来の最高の笑顔を見ることが出来るのは賢人だけなんだぞ」
 そうだ。その笑顔が見れるということも、決して当たり前のことでは無かったはずなのに。
どうして俺はちゃんと彼女の事を見てやれていなかったのだろう。
 こんな胸の痛みは美奈子と付き合うまでは感じたことの無かったものだ。
 膝の上に乗せていた手を握る力が知らず強くなる。
「美奈子のことを随分よく見てるんだな、お前は」
 負け惜しみでも何でもなく思ったままのことを言えば、アルテミスは人間の姿になって鋭い眼で俺のことを見下ろしてきた。
「ああ見てきたよ。前世から一番近くでずっと見てきた。だから、美奈にあんな顔させて何もしないお前が許せない」
 そのピリピリとした怒りのオーラは主を守るそれと、マウ星の戦士としての闘争本能か。
「で? 俺と決闘でもするつもりか」
 美奈子にあんな風に出て行かれて、何より自分自身に苛立っていた俺は容赦なく目の前の白い髪の男を睨んで、ふっと笑いながらそう言った。その様は客観的に見なくても嫌な男だっただろう。
 しかし一番近く、という言葉にとにかく無性に腹が立った。恐ろしく勝手な話だが。
 アルテミスは俺自身の威圧に一瞬怯んだ様子だったが、すぐに睨み返してきた。
「そうやって何でも上から物を言うなよ!大体、本気でやり合ったら怪我するのは間違いなくボクなんだからな!」
 大声で言うには少し情けない内容ではあったが、俺には立ち入れない深い部分で彼と美奈子が繋がっている絆のようなものを感じて、今度は力無く微笑んだ。
「そういう性分なんだ。仕方が無いだろ。これでもショックを受けてない訳じゃない」
「賢人…」
 逸らした目を彼に戻せば、さっきの戦闘色が消えていて友を見るそれになっていた。
「安心しろ。美奈子の大事な相棒に怪我させるような真似は絶対にしないさ」
「じゃ、じゃあ早く追いかけろよっ! この間抜け白髪!」
「分かっている。お前はさっさと猫に戻って大人しくしてろ。あと、デートには付いてくるなよおせっかい白髪君」
 皮肉たっぷりの言葉に呆気に取られた後、「お前だって白髪だろー!!」と既に玄関に向かっていた俺の背中に叫んでくる。
「残念だな、俺は銀髪だ」
 ムキになる自分に嫌気も差すが、それでもそんな言葉を投げて玄関の戸を閉めた。

 戦士としての戦いの日々と、日ごろ運動部で鍛えている体力の持ち主である彼女の後を正攻法で追うには時間が空きすぎてしまっていた。
携帯を取り出して着歴の一番上にある彼女の名前を呼び出すと、たっぷり10コール目で漸く繋がった。
「おい美奈子「ただいま無神経男からの電話に出ることができません。さようなら」
 鼻水を啜りながら受話器越しに言われる内容に頭の中が白くなり、次に沸騰する。
「ふざけるな! 今どこにいる!!」
「何で私が怒られるの…!? 悪いのはあんたじゃない!!」
「いいから教えろ!!」
「…北崎さん? 今美奈は私の家に来てます」
 落ち着いたトーンの声の持ち主に変わる。その後ろでは何でばらすの裏切り者ー!と叫ぶ美奈子の声が聞えてきた。
「レイか? すぐに行く。それまで美奈子を柱にでもなんでも括りつけて待ってろ」
 ブツっと通話終了ボタンを押して火川神社へ走り出す。
 さようなら、だと?
 そんな言葉はもう聞きたくない。
 さようならの本当の意味を前世で何度も味わった。
 アルテミスの言葉が頭をよぎる。
『彼女本来の最高の笑顔を見ることが出来るのは賢人だけなんだぞ』
 俺だってそうだ。
 きっと、本当の自分でいられるのは美奈子の前だけだ。
 何度掴みたくて掴めなかったお前という恋人を俺はもう二度と離さない。

「邪魔するぞ」
 火野家の玄関が開けられるとレイに一言そう言って美奈子がいるであろうレイの部屋に突き進む。襖をガラリと開けると、部屋の隅で膝を抱えて小さくなっている美奈子が真っ赤な目をして恨みがましく俺のことを見ていた。
 普段の彼女の溌剌とした雰囲気が微塵も無いその姿に言葉を飲み込む。それでも彼女にゆっくりと近付いていった。
「何よ、あんたは私に会ってる時間なんて無いんでしょ。早く勉強でもしにいきなさいよ…っ!」
 震える彼女の手をそっと掴む。
 そうだ。彼女は強い精神を持っていてもまだ17歳の少女なのだ。脆い部分だってある。弱い所だってある。
 そんな当たり前なことも恋人である俺が分かってやれないでどうする。
「すまない。美奈子」
 声が僅かに震える。情けない。
「え…」
 俺から謝ることなど絶対に無いと思っていたのだろう。瞳を大きく見開いた彼女のことを包み込んだ。
「だからさようならなんて言うな。今後一切、言うな」
 囁きに近い声とは逆に抱き締める力が強くなる。
「賢人…」
「美奈子…」
 俺は耳元に口を寄せ、恋人に贈る三文字を、今まで殆んど言ったことの無いその言葉を紡いでキスをした。
 ぴくっと彼女の体が動き、俺は彼女のことを見る。
「…こんな時ばっかり、ずるい」
 拗ねるようにそう言った後、彼女は本当に、嬉しそうに微笑んだ。
「こんな時だからだ」
 俺は胸の中に広がる温かなものに満たされて微笑むと彼女の頬を撫でる。
「遊園地、うさぎたちと行くわ。デートはあんたが好きなところでいいから」
「そのことだが、考えが変わった。俺が行く」
「え?」
「楽しみにしていたんだろ? 俺と行くのを。そんな可愛い話を聞いて行かない彼氏がどこにいる」
「あ…アルテミスね!? あんのおしゃべり猫!!」
「いい相棒じゃないか。…それこそ妬けるほどな」
「え!?」
 小さな声で言ったはずだがしっかり聞こえてしまったようで、真っ赤になる美奈子から目を逸らして立ち上がる。
「だからさっさとチケットを寄越せ。」
「え、アルテミスにヤキモチ焼いたの!? 賢人が!!?? ねえねえそうなの!?」
「五月蝿い」
「ちょっとちょっとレイちゃーん!!! 聞いてよ! 賢人ってばねー!!」
 気を利かせて部屋にいなかったレイを襖を開けて呼び出して何やら報告しようとしている美奈子の後ろ襟を掴む。
「ちょっやめてよ!!」
「お前がやめろ」
「えーーーーー!!! 照れてるの!? 賢人が!!?? 嘘!! レイちゃーーーん!!」
「おい」
 静まらない恋人に若干の怒りのオーラを背負って言えば、彼女は楽しそうに声を上げて笑い出す。
 屈託の無い明るい笑顔。
 その表情に結局自分の思いが更に強くなっていくのを自覚して、何とも言えない溜め息を付いたのだった。
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