白夜(まもうさちび)


第三話 『有明の月』

無理して笑っているのが分かった。
記憶を無くしていても、彼の表情が自然ではないことだけは分かったの。
だから、もう一度この部屋に来た時の彼がまた同じように微笑んでいたら今度こそちゃんと聞きたい。そう思った。
あなたは、私にとって『誰』なのかを。




 さっき、私の『両親』と『弟』が訪れていた。
 思い出せないことを謝ると、母親のその人はただ抱き締めて「それでもいいの。今こうして生きて、ママの腕の中にいてくれることが、嬉しいのだから」
 そう言ってくれた。
「ゆっくりでいいから。まずは体を治そうな」
 父親であるその人はとても優しい目でそう言うと頭を撫でる。
「良くなったらまたストツー対戦してやる。それまでに技の出し方思い出しとけよ」
 弟の進悟君はぶっきらぼうに言ったけど、どこかその憎まれ口が懐かしかった。

懐かしい。

 そう思うということは、記憶が少しずつ戻ってきているということだろうか?
「パパ、ママ…進悟君、ありがとう」
 どこかぎこちないお礼も、私にとっては本心で。本当にこの『家族』の三人に感謝した。
「だーかーらー! 進悟でいいって言ってるだろ!」
「ふふ…ごめん」
「ま、でもさ、案外記憶が戻らないほうがしおらしくていいんじゃねえの?」
「「コラ!!」」
 とぼけてそう言う進悟は、両脇にいる二人にげんこつをお見舞いされていた。
「いってえ~!」
 その光景に自然に笑みがこぼれる。それを見た三人はただ嬉しそうに微笑んでくれた。

 
 三人が部屋を出て少し経った頃。コンコンと戸を叩く音がして、「こんにちは!」と一人の小さな少女が入ってきた。
 その女の子を見た瞬間、頭の中が小さく疼いたのを感じたけれど、すぐに収まり体を起こす。
「ホントは、皆と入りたかったんだけど、一気に来るとお姉さんびっくりしちゃうでしょ?」
 にっこりと微笑みながら言う彼女は、やっぱりどことなくさっきの彼のように悲しげだった。
「『お姉さん』って、私のこと?あなたは…妹なの?」
「ううん。違うよ」
「じゃあ、いつも通りに呼んでいいよ。私はあなたのこと何て呼んでた?」
「本当に忘れちゃったんだね……」
 酷く悲しそうな表情で、何かを言いたそうにしている女の子。
「うん…。ごめんね。でも、早く皆のこと思い出したいの。だから、名前教えてくれるかな?」
「ううん。あたしこそ…ごめん」
 『ごめん』という言葉には何か沢山の意味が込められているようで。私はすぐに返事ができなかった。
「うさぎ…っっ!!」
 そう言って、私の胸に飛び込んでくる彼女。
 この抱き締める感覚、彼女の温もり。
 一つ一つが体のどこかで覚えている。心のどこかが叫んでる。
 そんな気がして、私は泣きつく彼女をただ無心に抱き締めた。

「あたしの名前はね…うさぎ。うさぎと同じ名前。大好きなママに付けてもらった名前。でね、皆にはちびうさって呼ばれてるの。
ちびうさは…まもちゃんが付けてくれたあだ名だよ」
「ちびうさ…まもちゃん…」
 なんだろう。
 その名前、その呼び方、その響き…
 すごく…すごく大切なものだった気がする
「うさぎちゃん」
 いつの間にか再び開かれたドアから彼が入ってきていて。
 その低い声が私のことを呼んだ。
 どうしてだろう。頭の中はまだぼんやりと霞がかかっているようにはっきりしないのに、体中が彼と、この少女を必要としている。
 何かを訴えたくてうずうずしている。
 でもそれが何なのかまだ分からなくて目をギュッと閉じる。
 さっきのように悲しそうな笑顔で私を見ているのだろうか。
 私はその時再び彼を正面から見た。
 すると、彼は愛しさと優しさと慈しみを込めた眼差しで私を見つめていたの。
 その姿に。どうしてだか分からないけれど、堰を切ったように涙が溢れ出した。
「まもちゃん」
 腕の中の少女が彼を見てそう呼ぶ。
「あなたが…『まもちゃん』…?」
「ああ。そうだよ。うさぎちゃん」
 パパとは違う、大きな手でくしゃりと頭を撫でられて酷く安心する自分がいた。
 思い出せないのになぜだかそうされるのが自分にとってはとても自然なことで。
 彼が掛けがえのない存在であったということを心のどこかで感じていた。
 それでも全てを思い出すことが出来なくて悔しくて涙が止まらない。
 だけどなんだろう。何かが足りない。
 でもそれよりも彼が私の隣に居てくれることが今は嬉しかったから…
「大丈夫。俺たちが側にいる」
 彼の囁く言葉はさっきの『大丈夫』よりもずっと心に優しく響いて…。
 それはきっと彼が、本当の気持ちでそう言ってくれているからだと思った。
 私の心が不安だったのは、彼の不安がそのまま伝わってきたからだったのかもしれない。 
 思い出したい。彼と、この小さな存在のことを。

 ※※※

 それから数日。うさこの頭の怪我は日に日に良くなり、包帯も外れてそれに合わせるように笑顔も増えていったように思う。退院の日も近付いていた。
「じゃーん!今日はうさぎちゃんが大好きなアイドルのCD持ってきたわよ!」
 美奈子が明るく彼女に言い、俺には分からないが有名らしいアイドルのCDを手渡していた。
「ありがと!美奈子ちゃん」
「いいえ~♪」
 何も違和感のない会話。
「私はマフィン焼いてきたんだ。うさぎちゃん好きだろ?」
「うわ~!ありがとう!まこちゃん大好き♪」
 いただきまーす!と、さっそく一つ頬張るうさこに仲間たちは笑う。
「私は今日も授業のノートをまとめてきたわ」
「亜美ちゃん…助かります…」
 苦笑混じりにノートを受け取る。反対に亜美はとても嬉しそうだ。
「私はこれ」
 そう言ってレイは大きな手提げ紙袋を差し出す。
「わあ!漫画だー!レイちゃん絶対私に漫画貸してくれなかったのに!?」
「…いいから。受け取りなさいよ」
「ありがとー!」
 照れながらそっぽを向いていたレイも、うさこの笑顔を見て目を細めていた。
 うさこは彼女たち仲間を始め、家族のことも、学校のことも自分自身のことも全て思い出していた。
 だが…
「良かったな。うさぎちゃん」
「はい!衛さん!」
 俺のことと、ちびうさのことは思い出せないままだった。
 その事実はどうしても心に影を落とす。うさこは、俺と恋をして共に歩く未来を忘れたいほど嫌になってしまったのではないか。だから俺という存在を記憶から消し、二人の子供でもあるちびうさのことも忘れ、思い出せないままなのではないのか、と。
 そう考えると眠れない夜もあった。うさこが目を覚ます前はただただ心配で、もちろん辛い日々だったのだが、目を覚ませばその苦しみも終わると信じて祈ることができた。
 けれど今は違う。状況はより複雑なものになっていた。彼女にとって本当に俺は、俺たちは必要なのだろうか。ひょっとしたらこのまま忘れたままでいたほうがうさこは幸せなんじゃないか。そう考えると胸が千切れそうにもなるけれど、うさこがうさこらしく笑える日々を取り戻せるならそれでも…。
 そう、思うのに、俺は彼女の病室に通うことをやめられずにいた。
 俺が、おれが……ただうさこにあいたくて。
 忘れていてもいいから、
 ただそばに、いたくて。
 世界で一番大切で、世界で一番大好きな……女の子のそばにすこしでも、一緒にいたい。
 全てはこの俺の…わがままだ。

 俺たち二人のやりとりに、美奈子たちは表情を曇らせる。
「じゃあ、私たちは用があるから帰るわね」
 美奈子がそう言って、うさこに各々別れを告げるとその場を離れていく。
「衛さん…あの…」
 レイが心配そうな様子で言い掛けるのを肩に手を置いて首を振り制する。
「大丈夫だ。ありがとう」
 小さな声でそう言って笑顔を向ける。
「はい…」
 そして彼女たちは部屋を出て行った。
 今日はちびうさは何か用事があるらしくまだ姿を見せていなかった。部屋の中は急に静かになり、うさこは俺にぎこちなく笑みを向けると視線を逸らした。
 心のどこかが僅かに軋んだような気がしたが、それでも彼女が元気になったことが嬉しいのも本当で。
 頭をくしゃくしゃ撫でる。いつもの習慣でほぼ無意識にしてしまったから、すぐにどう捉えられるか不安になる。
 けれど彼女は心なしか頬を染めて、戸惑いながらも嬉しそうな表情で見上げていた。
 その姿は変わらずに可愛いと感じ、俺を安堵させた。
 ベッドの横の椅子に腰掛けると、いつものようにとりとめもない会話を始める。
 うさこは俺の話に熱心に耳を傾け、話している俺以上に笑ったり、時には怒ったりする。
 そんな彼女の一挙一動が愛しくて、まるでもう一度恋を始めているような感覚に陥る。
 俺のことを思い出さないうさこを目の前にするのは、辛くないといえば嘘になる。
 けれど、こうやって彼女の側にいて、話ができるだけで充分だった。そばにいることを君に許されているだけで、俺は……
「衛さん」
「何?」
「私…衛さんに聞いて欲しいことがあるんです」
 不意に真剣な表情で語り掛けてくる彼女につられるように俺の動きも止まる。
「私…」


 つづく
3/4ページ
スキ