白夜(まもうさちび)

第二話 『太陽はいつも』

 うさこと喧嘩してしまった直後のルナからの召集は、俺をいつになく動揺させていたことを否定できない。でもまさか、その先にこんな事態が待ち受けているだなんて。

「あなたは………『誰』ですか?」

 彼女から発せられた最初の言葉は、俺のつま先から頭のてっぺんまでを一気に冷やさせるほどの衝撃を持っていた。そう。心臓までも。
「ごめんなさい。あなたに迷惑を掛けたみたいなんですけど…あなたが誰なのか…その、分からないんです。自分も…誰なのか、どうしてここにいるのかさえ…」
 しばらくの沈黙の後、ベッドから体も起こすことが出来ずに不安の混じった遠い目をしながら、彼女は酷く申し訳無さそうに小さな声でそう言った。
 うさこであってうさこではない、俺の知らない彼女がそこにいた。
 言葉が見つからずに黙っていると、再び彼女が不安げに話し出す。
「あの…私…どうしちゃったんでしょうか…?」

忘れてる…?

いつから…いつまで?

前世の事も?

家族の事も、仲間の事も…?

ちびうさの事も

俺の…事も……?

出会った事も、幾多の試練も乗り越えたことも、愛し合ったことも全て…忘れてしまった―――――?

 今の俺は、平静な意識を保つのもやっとの状態だったけれど、何も分からず苦しんでいる彼女。それでも俺のことを気遣ってくれている彼女を前にして、普段のように弱い自分を見せるわけにはいかなかった。
 努めて自然に笑みを作ると、立ち上がる。
「ちょっと頭を強く打っただけだから…大丈夫だよ。今、先生が来るから自分の状態を話せる範囲でいいからきちんと伝えて。俺はその間部屋を出てるよ。君の仲間も心配してるから知らせてくる」
「仲間…?」
「ああ。大丈夫。きっと思い出せるよ」
 自分に言い聞かせるように大丈夫を繰り返し、彼女を見る。すると完全に『他人』として俺を見ているその姿に胸が千切れそうになった。
 しかしそれも何とか堪えてもう一度微笑むと、即座に部屋を出た。
 抑えていたものが溢れ出してしまわないように。

 ※※※

 うさこがちびうさを本気で邪魔に思ってなどいないことくらい分かっていた。でも俺とうさこの大事な娘のことを否定するような言い方をされて、俺が守っていきたい大切な未来と、うさことの愛の証まで否定されたような気持ちになってしまってつい大人げなく腹を立ててしまったんだ。
 気持ちが追い付くよりも早く、本能で庇うほど、本当はうさこが誰よりもちびうさを愛しいと思っていることを分かっていたはずなのに…。
 廊下を歩く重い足取りを止め、壁に力無く寄りかかる。
「…うさこ…ごめん」
 彼女に直接言いたいこの言葉も、何もかも忘れてしまっている今は届けることすら出来ないのだ。
 気が付けば、事故から流していたものとは全く違う涙が片頬を伝っていた。

 うさこは重症だった。敵の攻撃で後頭部を強打された彼女はそのまま倒れて前頭部からも多量に出血をして意識を失った。すぐに家族にも事故として知らせて病院に運び手術をしたが、一週間経っても目覚めなかった。
 俺はその間朝から晩まで毎日彼女に付き添っていたかったけれど、ご両親の手前それはできなかった。
 大学で、全く身に入らない講義を終えると真っ先に病院へ行き、時間が許す限り側にいた。彼女が目覚めるまでは生きた心地がまるで無く、重くて沈んだ時間がゆっくりと流れていくように感じた。
 そんな俺の姿にご両親は心を痛めたのか、夜も交代で付き添うことを了承してくれた。だからさっきうさこが目を開けた時も俺一人だったのだ。
 けれどまさか、目覚めたらそれで笑顔になれるどころか、残酷な現実が襲ってくるだなんて…。
 零れてしまった涙をぐいっと手の甲で拭う。
 俺が泣いている訳にはいかない。本当に辛いのは記憶を失っている彼女自身なのだ。俺にはそれがよく分かる。かつて六歳の頃の自分がそうだったのだから。 どんなにこの先辛い道が続いていたとしても、できるだけ彼女が安心して歩めるように導いていきたい。彼女が俺を救ってくれたように。
 もしかしたら俺のように、以前の記憶を取り戻せないかもしれない。でも、彼女がどんなになろうとも、愛する気持ちは少しも変わる事はないと断言できる。
 ポケットから彼女が目覚めたら渡そうと思っていた物を取り出す。
 これはいつか再び彼女が隣に戻ってきてくれた時までしまっておくことにしよう。
 そうだ。戻ってきてくれることを信じろ。
 記憶が戻らないままだと決まった訳じゃない。
 主治医の話を聞くまでは闇雲に悪い方向ばかり考えるのはよそうと決めた。

 再びそれをポケットに戻すと、彼女の両親と仲間たちに連絡するために歩き出す。歩みを進めるごとに重くなる、とめどない不安を隠して。

 ※※※

 最悪の事態も考えていた俺にとって、うさこの家族が主治医から説明を受けている間は、気の遠くなるような長い時間にも思えた。今、自分という存在はまだその部屋に入れないというもどかしさも当然あって。それでも何もできない現状に、握る拳の力が強くなる。
 ドアが開く音に体が縦に揺れ、ゆっくりとそちらを向いた。
「衛君…!」
 出てきた父親の声と表情が、少なくとも悲しみで彩られていないのを感じて、胸の中に何かが込み上げる。そして、彼の言葉を聞いて鉛のように重かった自分の心が軽くなっていくのを感じていた。
「衛君、入院してから今までありがとう。これからもうさぎを支えてやって頂戴?」
 彼女の母親からの最大の信頼の言葉に目頭が熱くなる。
「はい…もちろんです。彼女は俺にとって掛けがえのない存在ですから」
「僕もそう思っているがね」
 咳払いをした後彼女の父親は少々面白く無さそうに言う。
「パパ、娘の彼氏に対抗してんなよ」
 いつも喧嘩ばかりの姉でも相当心配したのだろう。目元が真っ赤になっている進悟くんが父親をからかった。それを母親と俺はこんな時だが吹き出してしまう。
「全く。それくらいは言ってもいいだろ!第一、僕だって彼には感謝しているんだから」
「え…」
「辛かっただろ?うさぎに自分が分からないだなんて言われて」
「それは…」
 さっきのうさこの様子を思い出して胸が苦しくなり目を伏せると両肩が力強く掴まれて顔を上げる。
「大丈夫だ。うさぎはきっと君の事を思い出す。いざとなったら僕が言うよ。
君がどんなに苦しんで、どんなに真っ直ぐにうさぎのことを想って毎日を過ごしていたかって。喝を入れてやる」
「謙之さん…」
 それ以上は言葉が紡げずに、頭を深く下げる。
 何かが決壊したように涙が溢れて止まらなかった。
 そんな俺の背中を撫でる彼の懐の広さを感じて、記憶にはない自分の『父親』を少しだけ重ねていた。
 『家族』の温かさがそこにはあった。
 
 ※※※

「術後の経過自体は順調だそうだ。記憶障害も、おそらく一時的なもので、退院するまでには戻るだろうという話だ」
「良かった…!!」
 俺は彼女の父親から聞いた話を、先の連絡ですぐに駆けつけた仲間たちにそのまま話す。
「うさぎに会わせて!!」
 顔中をくしゃくしゃにして泣き腫らした目をしているちびうさが前に出てそう言う。
「でもまだ今は…」
 記憶がまだ混濁している今は会っても互いに辛い思いをするだけではと思った俺はすぐには賛成しかねた。
「あたしのこと、分からなくてもいい…!でも、一目で良いの…!!会いたいの……!!」
「ちびうさ…」
「うさぎはあたしのせいで…!あたしを庇ったりしたせいで…!!」
 おそらく何度も自分を責め立てたであろうその言葉を大粒の涙を零しながら言う彼女を抱き締める。
「ちびうさだって、うさこが危なくなったら助けようとするだろ?」
「…うん」
「俺もそうだ」
「まもちゃん…」
「うさこもそうだ。ちびうさが本当に大切だからそうしただけ。誰もお前のせいだなんて思ってないよ。もちろんうさこも」
「う…うわあああん」
 大泣きする彼女をもう一度抱き締めると、まるでさっきの自分と謙之さんのようで小さく笑う。
「会いに行こう」
 美奈子がちびうさの肩に手を置いて笑顔でそう言う。
「私たちがいつもの通り笑顔でいれば、きっとうさぎもすぐに思い出すわよ」
 レイの言葉にちびうさは頷く。
 まことと亜美がちびうさの手を取り、「一緒に行こう」と微笑んだ。
 病室に向かう足取りは、数時間前に想像していたよりもずっと穏やかだった。


つづく
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