傘を忘れないで
今日は鬼主任とご飯。最近頑張ってるから奢ってくれるらしい。いっつも怖いのに、誘ってきた時の顔はちょっと頼りなさげに眉を下ろしてて。少し意外…ってじっと見ちゃった。そしたら見過ぎだろバカと言われた。酷くない?けど、あたしも話したいことがあったから二つ返事でOKしたの。「何だ悩み事か?相談くらいなら乗ってやるぞ」なんて、ニブチンなこと言ってた。
「好きなんですケド。主任が」
素敵なレストランで美味しいシャンパンで乾杯。前菜のスモークサーモンが絶品で。あっという間にお皿を綺麗にしたあたしは初めて見る緩い笑みを浮かべた上司に言った。そう、告白ってやつ。
そしたらグラスを持って口に運んでた主任は数秒止まったあと。カタンとそれをテーブルに置いて、「え?!」と言った。こんな風に余裕のない声を聞いたのも初めてで。なんだかあたしは楽しくなってしまう。
「話あるって言ったじゃないですか」
「あ、ああ」
「今のが、それです」
「いや、いやいや待て待て」
「何でですか」
「落ち着け月野。もう酔ったか」
「全然酔ってません」
「相手間違えてるだろ」
「地場主任がすきです」
「は?俺だぞ?お前から好かれる要素なんてないだろ」
「は?なんて言い方ヒドイです」
「そうだよ、俺はお前のこと散々仕事でしごいて酷いことばかり言ってたじゃないか」
「でも好きになっちゃったので」
「なんで」
ーーー
なんで??
最初は本当に、なんて鬼みたいな上司だろうと毎日悔し泣きしそうになってた(実際泣いた)。だけど、思い返せばどの言葉も仕事をする上で大切な事だって分かったし、実際それを次に生かせばちょっとずつだけどできることが増えていって。そして成果を出せば「よし」ととても短いけれどそう言って目を細めて頷いてくれる上司の顔を見れることが嬉しくなった。
あとは…仕事で二人で残ってた時。ひと段落した私は、ふと窓の外を見たら大雨が降っていることに気づいて悲鳴を上げた。傘を持ってなくて困ってたら「抜けてる奴だな。予報見なかったのか?」と呆れられて言い返そうとしたとき。「これ持ってけ。俺はこの仕事しばらくかかる。たぶん終わった頃には止んでるだろうから気にするな」
パソコンから目を離さずに折り畳み傘を渡してくる上司に「気にします!! あたしのせいで地場さんが風邪でも引いたら会社のソンシツですし!!」と返した。
「いい大人がぎゃーぎゃー喚くな」
「喚いてません! 心配してるんです!」
「会社の?…それとも、俺の?」
顔を上げた地場さんと目が合う。
今まで気にならなかったパソコンの音とか、窓の外の雨音だとかが静かなフロアに響いて聴こえてくる。
あたしの返事をどこか揺らいだ瞳で待つ上司は本当に鬼上司地場主任なのだろうか?
て、ゆーか、まって。なに、どゆこと??
そ、そそ、そんなの、
「会社に決まってます!!!!」
全力でそう言ったら、一瞬寂しそうな顔をした気がしたけれどすぐに意地悪な笑みを浮かべて「そうか」と返事をされる。
「月野にそんなに愛社精神があるとは思わなかったよ」
「そーです会社ありきのこのあたしですので! 業務が済んだので帰りますお疲れ様です!!」
くくくと笑われて引っ込みつかなくなったあたしは真っ赤な顔をして去ろうとしたのに。
「まあいいから。傘は持って行け。俺だって部下に風邪でも引かれたら寝覚めが悪い」
押し付けるように黒い傘を手渡してくる上司の顔を何となく見れなくて。
「そーですね。こんなあたしでも、会社にとっては大事な社員ですからね」
俯いてそう言いながら受け取ると、それはもちろんそうだけどと低い声が降ってくる。
「俺は月野の方が心配」
え?
見上げた時にはもう自分のデスクに戻る後ろ姿しか見えなくて。
あれ? 地場さんてこんなに背中広かったっけ?
それに、あんな風に喋る人だったっけ?
今、あたし、なんて言われた…?
今まで気付かなかった彼の部分に触れた気がして、ドクンドクンと傘を持つ手が熱くて何も言えなくなってしまった。
「ほら、さっさと帰れよ。ぼけっとしてると明日遅刻するぞ」
またパソコンの虫になった上司が手をひらっと振ってむしんけーな事を言ってくる。
だけどあたしは何だか胸が苦しくて、「お疲れ様でした」と小さく返すのがやっとで。心臓の音を誤魔化すように駆け足でフロアを後にした。
ーーー
思い出しただけで顔面が赤くなるのを感じて不必要に大きな声が出てしまう。
「し、知らないわよっ! ただ、まぁ、色々ちっちゃなことがちょっとずつ? 積み重なっていって。気付いたら、そーなってたんですっ!!」
「そうか……」
そう言った主任は、あたしの事を眩しそうに見つめた。
え。なんだろうこの顔。すごく……心がポカポカするな。やだ。ドキドキが止まんない。
「えっと…お返事とかもらえたら、嬉しいんですが」
「付き合おう」
「へ?」
「つまり俺には断る理由がない」
「なんで」
「こんないい店にただの部下を食事に誘ったりしない。とーぜん下心もある」
「なにそれ! つまりあたしとエッチしたいって事?!」
「ばっ……落ち着け。月野のことはずっと、いいなって思ってた」
「そ、そーなんですか」
「ああ。だから正直浮かれてる」
「地場主任が? 浮かれる??」
「お前な、俺を何だと思ってる。意中の相手に告白されて、嬉しくない奴があるか」
「それは、あの…確かに。あたしも、その、嬉しい…です」
「うん」
そのやり取りの直後、パスタが来て会話が止まってしまった。
それなのに何だろう。あたしを包む空気がさっきからとても暖かく感じて。ふと彼に視線をやれば、まるで世界で一等大切なものを映しているような眼差しであたしのことを見ていた。なにそれ、ずるい。これじゃあ、自惚れてしまう。すごく、都合よく考えちゃうよ。
「今日は、この後時間あるか?」
無言を打ち消すその言葉は、あたしの心臓をバカみたいに跳ねさせた。
あの時と同じ低い声。けれど、あの時よりもずっと、熱がこもった声。
「あの……」
なんて言ったらいいのか分からなくて顔を赤くしてばかりいるあたしの手をテーブルの上で取った上司は、さっきから続く職場では決して見せない表情で言った。
「月野……」
その声と力を込めた右手に恋人として初めて接してくる彼の事をバクバクした心臓で見た。彼も言葉が続かなくて、もしかしたら緊張してるのかもしれない。そう思ったらちょっとだけ嬉しくて。
そのまま主任の手を取ると、手の甲にちゅっとキスをした。
「ちょ、なに」
かーっと顔を赤くして珍しすぎる表情をされてはっとなる。あれ? あたし、ひょっとしてものすごく恥ずかしい事しちゃった?!
「ご、ごめんなさい!」
「たく、月野にはかなわねぇな」
百戦錬磨の仕事人間にそんなこと言われて。思わず笑っちゃった。
「で、月野。笑ってるけど、返事は?」
「えーと、はい。時間、あります」
そうかと答えた彼はぐっと顔を近づけて小声で言った。
「あとでいっぱい仕返ししてやるからな、覚えとけよ」
ーーー
お店を出た後、流れるように手を恋人繋ぎされて、真っ赤になって見上げたらさっきの大胆な行動はなんだったんだ?って苦笑される。
だって、するのとされるのは違うもん。
…違うよね?
大きな手。長い指にドキドキして、無意識かどうか分からないけれど親指でそっと撫でられてぴくっと反応してしまう。
何がなんやら心が大暴走しそうになっていたら、雨が降り始めて更に慌てた。
「月野、傘持ってるか?」
「も、持ってます!あたしあの日からちゃんと折り畳み傘は持ち歩いてて…っ」
「…そうか」
ふっと笑った気配。そして、開こうとした傘を持つあたしの手首を柔く掴むと「こっち。入って」と言われる。
「傘、ちゃんと持ってきてて偉いな」
「えと、ありがとうございます…? でも、だったら自分の傘使いま…」
言い終わらなかったのは、地場さんに腰をグッと抱き寄せられたから。
「うん。偉いけど、今日は俺の傘に入って」
「地場さん……」
触れ合う体温が熱い。地場さんのブルーの傘の下はこの世で一番落ち着かなくて、だけれどこのままずっと離れないでいたくなる場所だった。
体を寄せ合って心ここに在らずで歩いていたらタクシーがいつの間にか停まってエスコートされてた。こういうスマートなところ、悔しいけれどかっこいい。
タクシーの中で何か喋った気がしたけど、あんまり憶えてない。主任から紡がれる優しい低音が心地よくて。繋がれた体温もドキドキするのに嘘みたいに安心させるから、彼の肩に頭を預けてしまった。
ぴくりと動いた体からふわっと香る匂いは、お日様みたいに柔らかい。あんなに怖かった上司がこんな優しさを隠し持ってたなんて、なんだかくすぐったかった。
本当にずるいなぁって思うのに…胸の中が温かなもので満たされてしまう。こういう距離で彼を感じられるのは今この瞬間は世界で私だけ。それが…すごく嬉しいの。
「月野」
すぐそばで囁かれてふと見上げれば。
職場で見慣れていた厳しさを全てどこかに置いてきたみたいな顔をした彼が視界一杯に広がる。
あたしは目を閉じて、唇に注がれる熱を震える心で受け止めた。
「そういえば、あのとき俺が貸した黒の傘はどうした?」
主任のお部屋のダブルベッド。行為が終わってしばらく甘い触れ合いをしていたら、ふと聞かれてビクッとなる。あたしのその反応にちょっと意地悪な声が降ってきた。
「何だ? 失くしたのか?」
「え、えと! 違います! 家にあります!!」
傘を見るたび返さなきゃ返さなきゃと思っていたけれど、あの時の地場さんの優しい声とか、あたしのことを心配してくれた初めての言葉がありありと浮かんできてはときめいて…なんだかもうお守りみたいになってしまっていたから。なんなら、そう。寝る前にすぐに眺められるようにベッドの横に置いてある。我ながらちょっとキモい。はい。ごめんなさい。
「まあ、いいよ。今度二人で会った時に返して」
「それはダメです!!」
「なんで」
「え、だからその、地場さんが貸してくれた大事なもので…あたしの…」
そこまで言うと恥ずかしくって「何でもないです!!」と言いながら布団を頭から被る。
「あたしの…何?」
布団の上から抱きしめられて低くて甘い声に聞かれると心臓がバクバクして、少し時間を置いたあと。
観念したように小さく返事をした。
「……宝物、なんだもん……」
そのあとガバッと布団を剥がされて、何でかすっかり熱が再沸騰した今日できたばかりの恋人にもう一度激しく求められた。
おわり
2025.9.15
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