Coming Closer
クンツァイトの一日は普段とそう変わりなかった。唯一違っていたことは仕事の終わりが昼頃には見えていた、ということだ。久しぶりに定時で上がれるという事を知って、多少気分は浮き立ってはいたが、それだけだった。それなのに―――。
クンツァイトは美奈子を前にして、自分が今抱いている感情が何であるのか分からなくなっていた。
「食事に行けなくなったからって、そんなに怒らなくてもいいじゃない。大体、こっちにも一応用事ってあるんだし。クンツァイトだって用事がある時は、どんなに誘ったって完全無視なくせに」
「無視はしない」
「はぁ!?過去に戻って自分に聞いてみれば?あたしが10回誘ったとして、アンタが応えてくれるのなんかせいぜい3回くらいよ!」
「それに…」
「何よ!?」
「怒ってはいない」
「どう見たって不機嫌丸出しですけどー?」
美奈子が怒っている、ということは理解できた。美奈子が不機嫌である理由もクンツァイトには検討がついた。
去る2時間前、仕事が早めに終わったから食事をしないかというメールを送ったところ、今日は無理という返答が来た。ちょっと用事が、と続いた彼女らしくない曖昧な返事に少しばかり違和感を覚えたが、相手は女子大生、何か言えない事でもあるのだろうと思い直し車を自宅へ走らせた、その途中。郵便物を出そうと偶々車を止めた道の反対側に、美奈子の姿が見えた。隣には、あの男。ぼんやりと頭の隅で描かれていた疑念が確信へと姿を少しずつ変えていく。その場で美奈子に声をかけられる程、大人でも子供でも無かったクンツァイトは車の中から二人の姿を見つめていた。そこで少しだけ窓を開けた自分を情けないと嘲笑いながら。
その後数十分間、2人はただ普通に雑談をしていただけだった。それでもクンツァイトをその場から離れさせなかったのは、あの男の着信音だけが別であることと、美奈子の態度が最近変わってきていることが頭にあったからだった。今はまだ話をしているだけだ。けれど、自分が離れたその瞬間、何かがあったらどうする…そんな暗い感情が渦巻き、クンツァイトは動き出すことが出来ぬまま、車の中に留まり続けた。それから20分経っても2人は道の一角に立ち、話し続けていた。だが、話していただけで、何らかの行動が起こされる事はなかった。
そんな光景を見るのがどこか馬鹿馬鹿しくなり、クンツァイトが車を発進させようとエンジンをかけたその時、美奈子の声が響いたのだ。今思えば、あれは不運だったとしか言いようがない。もしエンジンにかき消されるくらい声が小さければ、こんな事にはならなかった筈なのに。だが、後悔してももう遅い。あの時、聞こえてしまった内容は全ての障害物を通り越して、クンツァイトの心に音もなく落ちてきたのだ。
『こないだ、ありがと!どうしようかなって思ってたから、すごく嬉しかった!』
嬉しそうな、声。
『っていうか、コレ、いいの!?今からすごく楽しみ!ほんとにありがとねっ!!』
弾んだ、声。
花が綻ぶような、笑顔。
周りにいる人間を明るく包み込むような、あの雰囲気。
つい最近は聞くことも受け止めることも出来なくなっていた全てが、そこにあった。
その言葉を聞いて直ぐ、クンツァイトは車を発進させた。あの場に留まっていたいという思いがなかったとは決して言わないが、それよりもこれ以上美奈子を見たくないという思いが先行したのだと思う。そして自宅に戻ってから美奈子の携帯電話に、早く帰ってこいという旨のメールを入れたのだ。
それから1時間後、クンツァイトが待つ家へ戻ってきた美奈子に、遅いだの、用事とは何だったんだだの、大した用事でもないだろうだのと、散々な言葉を投げ掛けた。それが今、美奈子が不機嫌な理由であろう。
しかし、クンツァイトには理解出来ないものがあった。それは今自身が抱いている感情である。美奈子に対し酷い事を言ったという自覚はあった。だが、それを言わせた感情の名前が分からない。いつもと同じような説教…とはまた違う気がする。理性的ではないのだ。余裕を持って相手に接することが出来ていない時点で普段と違っていた。こんな感情は初めてだった。対処の仕方が分からずに何も言えないままでいると、美奈子が僅かに顔を歪め、全てを投げるように吐き捨てる。
「もういい。あたし部屋行く」
そう言って美奈子がソファに放置していたバッグを持ち上げようとした時、半開きになっていたバッグの中から何かが落ちた。ヒラヒラと舞うように床へ落ちていくそれを、美奈子は慌てて拾おうとする。だが、クンツァイトの動きの方が早かった。長方形の形をしたそれにクンツァイトは見覚えがあった。そう、これはあの時、確かに美奈子があの男から貰っていたはずの――。
あの時の光景がフラッシュバックし、感情のままにそれを握り潰そうとしたその瞬間、美奈子の手がそれを奪い取った。まるで大切なものであるかのように、再びバッグへ入れ直そうとするその姿に、クンツァイトは名前の知らない感情に身体の全てが支配されていく感覚を一瞬で味わう。衝動が抑えられなかった。
「あの男は誰だ!?着信音が1人だけ違うくせに仲が普通だと?そんなことあるわけないだろう!」
「―――え?」
「今日もあの男と一緒にいたのか!?帰ってこいと送ってから1時間だぞ!?あれからずっと一緒にいたのか!?」
「…クンツァイト?え、ちょっと待って。あれから……って、今日、あたしに会ったの?」
「あの男と一緒に歩いていただろう!30分近くも話し込んでいた。一体何を話した?俺の愚痴か!?それとも別れ話の切り出し方か!?」
「……ク、ンツァ、イト…」
「話すのは勝手だ。だが時間の無駄だったな。俺はお前と別れる気はない」
「…………」
ここまで言って、クンツァイトは漸く口を閉じた。頭に血が上るという事を初めて体験し、何を言ったかなど正直覚えていないが、こういう時は本音が出ると前に学習した事がある。いい機会だったと思った。これで随分すっきりした。身体中に溜まっていたモヤモヤがどこかへ飛んでいった気がした。そして美奈子を見遣る。先程まで怒り心頭といった表情は、いつの間にか戸惑い、困惑、そしてどこか泣き出しそうな、そんな表情に変わっていた。その様子がとても懐かしく感じられて、クンツァイトは名前を呼ぶ。
「美奈子?」
その声は先程のそれより沈んでいて、抱いていた感情が段々と沈静化されているのが解った。
「もしかして、クンツァイト……嫉妬したの?」
泣きそうに、しかし嬉しそうに言う美奈子にクンツァイトが首を傾げる。その単語に今度はクンツァイトが困惑してしまい、言葉を発するまでに随分と時間がかかってしまった。
「…嫉妬?」
「うん。嫉妬した?知らない人と話して、着信音が別で、それでコレ貰ったから……嫉妬した?」
嫉妬…なのだろうか。なんせ嫉妬というものを今までしたことがない為に、断言することが出来ない。けれど、女々しいことを考えて、大人気ない真似をして、情けないと思いながらも止められなくて、感情の制御が出来なくなる迄に暴走してしまうことをそう言うならば、自分が抱いていたものは間違いなく嫉妬と呼ばれるものなのだろう。
「ああ、嫉妬していた」
言葉にしてしまえばたった3文字の感情。きっと多くの人は早くからその感情に気付いている筈で、今まで自分がこれに気付けなかったのは、美奈子の想いの上に胡座を掻いていたからなのだと思った。
「そっか。そっか」
美奈子が嬉しそうに笑うのを見て、クンツァイトはバツが悪そうに言う。
「すまなかったな。混乱させた。それからさっきの事だが…俺は別れたくはないが、美奈子がもし嫌なら無理強いは…
しない、と言おうとして言葉が止まった。正確には止められたのだ、美奈子の指によって。
「そんなこと言わないでよ。せっかく貰ったんだから、コレ」
言いながら差し出されたのは、少し皺が入った長方形の紙切れ。先程クンツァイトが握り潰そうとしたものだった。よく見ると、テーマパークのチケットだった。
「期間限定の特別ショー?とかあるっていうから、一緒に行こ」
内緒にしとくつもりだったんだけどなあ、と笑う美奈子にクンツァイトの頬が緩んでいく。だが、嫉妬から生まれてしまった疑念を有耶無耶にすることは出来なかった。だからこそ、空気を壊してしまうかもしれないと知りながら敢えて問いかける。
「あの男はいいのか?」
「…まだ気にしてるの?」
「いや、気にしているというか、その、だな…。美奈子を信用していない訳ではないが、一応…」
ここにきて尚女々しいなと思うが、美奈子は別段気にした様子もなく、また嬉しそうに笑って応えた。
「アイツはね、情報屋なの。おにーちゃんたちがいっぱいいるから、年上の男って何考えてるのかアドバイス貰ってるんだ。クンツァイトは男で年上だから」
「…そうか」
「で、あたしも色々教えてあげてるの。アイツ、好きな子がいるんだけど何も出来ないから、時々デート出来るようにしてあげたりして。あー、ギブアンド何とかってやつ!!」
「そうか」
そこまで聞けば解った。何故着信音が1人だけ違うのか。何故あの時美奈子が、無視して、と言ったのか。そこまで解ってしまうと、今までの言動がどことなく恥ずかしくなる。熱が身体中に広がっていくのが分かったが、有難いことに顔には出ていないようだ。そんな自分に安堵していたら、笑っていた美奈子の表情が、拗ねたようなそれに変化した。
「っていうか、嫉妬なんてしなくていいのに。クンツァイトのこと大好きだし」
「そうなのか?」
「そこで聞き返すの、ズルイ。っていうか、嫉妬するの、こっちだし!」
意味が分からず黙っていると、最近は口数が減っただの、メールとか電話の内容がそっけないだのと文句が返され、終いには、好きな人が出来たのかと思った、とか細い声で告げられた。そんな美奈子を前にクンツァイトが出来たのは、チケットを指さしながら一緒に行こうと笑うことだけで。その数瞬後、抱きついてきた美奈子を支えられたのは奇跡だと、クンツァイトは笑った。
END