Coming Closer




君と出会って、知らなかった自分を知った。















静まり返っていた空間に音が響き渡る。音色、というには耳障りなそれは携帯電話の着信音だった。聞く限り、クラシックの類ではない。おそらく流行りの歌謡曲か何かだろう。そんな事を思いつつも、一向に鳴り止まない音に苛立ち、原因を作り出している人物に声をかけようと口を開いた。姿は見えないが、出掛けた様子はない。きっと部屋の何処かにいるはずだ。

「おい、鳴ってるぞ」
「うん、聞こえてる!でも大丈夫、無視して!」

案の定、少し大きめの声で直ぐに返事があった。声を張り上げているのを考えると、洗面所辺りにいるようだ。午前9時という時間から察するに、きっと洗濯物でもしているのだろう。それはそうと、とクンツァイトは首を傾げた。返事があったのはいいとして、その内容はあまりにも相手に失礼ではないか。無視して、とはどういうことだ。メールならいいとしても、この長さはどう考えても電話の着信音だ。何か用件があるに違いないのに。そこまで考えた時、音が途絶えた。気の毒にと息を吐き、コーヒーを淹れようとソファから立ち上がった時、再び響く音。さっきと同じ音だった。きっとまた電話の着信音だろう。時間を全くかけていないことを考えれば、相当重要な用件なのだと察するに難くない。クンツァイトは鳴り響く音に顔をしかめながら、リビングを出て洗面所へ向かった。



「ちゃんと出ろ。誰かは知らんが無視というのは相手に失礼だ」

洗濯機の電源を入れた美奈子に、諌めるようにして携帯電話を渡した時、また音が途切れた。

「いーのよ。どうせ大した事じゃないし」
「何故そう言い切れる?」

差し出した携帯電話を受け取りながらも、反省の色が全く感じられない美奈子にクンツァイトは眉を顰める。そんなクンツァイトを気にすることもなく、美奈子は質問に応じながらリビングへ歩いて行った。

「相手、分かってるし。いつもそーなの。遊びに行こーとか、暇?とか」
「履歴、確認していないだろう」

リビングに通じる扉を開けると、強い風に身体を包み込まれる。この衝撃で今の言葉も飲まれてしまったかと思ったが、前を歩く美奈子が口を開け閉めしている様子を見ると、その心配は無いように思えた。とすると十中八九、痛いところを突かれて言い訳を探しているだけなのだろう。ここまできたら何が何でも反省させてやる、と思っていたクンツァイトに降ってきたのは予想を遥かに上回るものだった。

「着信音で分かるの。アイツ、他の人と違うから」
「―――男か?」

声が低くなったのが自分でも分かったが、何故こうなったのかは理解の範疇外だった。けれど、どうしてか感情を制御することは難しく、気分の降下は止められない。声に出ていたのだ、きっと顔にも出てしまっただろうとクンツァイトは思ったが、心の何処かにそれならそれで構わないという思いが確かに存在していた。だからだろう、クンツァイトは意識的に眉根を寄せる。だが、美奈子はそれに気付かないのか敢えて無視しているのかは不明だが、特に気にした風もなく、いつもと同じような口調でクンツァイトの質問に応えた。

「そだけど?あ、こないだ会ったはず…。ほら、3日くらい前に、ご飯食べに行った所で。向こうから声かけてきた……覚えてない?」
「―――覚えている。仲、良いのか?」
「別にフツー」

どうでも良さそうに返ってくる答えにクンツァイトは内心苛立った。特別仲が良い訳でもない悪い訳でもない、美奈子曰く『別にフツー』の関係にある男の着信音が他の奴らと違うとは一体どういうことだ、と。女々しいとは思うが、気になってしまって仕方ない。なんせ、クンツァイトの着信音は他の人と同じバイブ音なのだから。何も恋人だけを特別視する必要性はどこにもないと思うし、そうしろと強制するつもりもない。そんなことをすれば関係悪化は免れない。しかし、これはいよいよ楽観視出来なくなってきたなとクンツァイトは傍で雑誌を捲る美奈子に気付かれないよう、そっと息を吐いた。


クンツァイトがこのような考えを抱くようになったのは、つい最近のことである。出逢った頃、そして恋人という関係になった直後から暫くの間は、こんな感情を抱くことは無かった。その理由は美奈子から向けられる愛情が受け止めきれない程大きなものであったためだ。電話をするだけで嬉しそうな声が聞こえ、名前を呼ぶだけで花が綻ぶような笑顔を向けられた。デートに行けば待ち合わせ場所で急に抱きつかれる事はしょっちゅうで、その行動に毎度苦笑しながら美奈子の腕を解いていた。

けれど、今は違う。否、違うというのは些か言い過ぎだろうか。しかしあの頃とは違うのだ。

電話をしていても受話器の向こうから流れてくるのは冷静な声。名前を呼んでもあの頃のような笑みを浮かべられることはなくなった。デートにしたってそう、急に抱きつかれる事など今はない。確かにあの頃から月日は経ったし同棲もし始めたが、それだけでこうも態度が変わるものなのだろうか。それだけではない。美奈子から受け止めきれない程の愛情を感じられなくなった要因は、美奈子の態度に加え、その人付き合いにあった。美奈子は元来の性格から友人の幅が非常に広かった。裏表のないあの性格は男女ともに付き合いやすいのだろう。度々紹介された友人の中には異性も多かった。それは美奈子が大学生になった今でも変わらない。昔は微笑ましく感じたそれが、今では不安要素になっていることにクンツァイトは今更ながら頭を抱えていた。

そして、昔は抱きもしなかった感情に振り回される日々が今では続いている。こんな感情を抱いたことが無かったから処理方法が全く分からない。一度、誰かに相談すればとも思ったが、当事者にしか分からないようなことを第三者に相談するのは時間の無駄であると思い直した。その結果、誰にも話せず、そうかと言って美奈子に直接話す事も中々出来ないままでいたのだ。


その矢先に、今回の携帯電話の件である。ジュースを片手に雑誌を捲りながらブツブツと独りごちている美奈子を横目で見つつ、一体何を考えているんだと心の中で言葉を吐き出す。態度が変わり始めている恋人、着信音が他と区別されている男の存在……行き着く先が一つしかないような気がしてクンツァイトは再び息を吐き、コーヒーを淹れに席を立つ。その直後、美奈子が何か言いたそうに雑誌から顔を上げたが、背を向けたクンツァイトにそれが届くことはなかった。

美奈子の態度と自分との間に出来ていく距離、そして例の男のことが原因で、冷静な性格故に周囲に当たることはないものの、日に日に苛立っていくクンツァイトの感情が遂に制御不能の状態に陥ったのは、それから5日後の事だった。
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