愛の夢(ゾイ亜美)
店を出る頃にはもう彼の演奏は終わっていて、店内を確認したけれどどこにも姿がない。
お礼をしたかったから残念な思いと、もう少しだけ話したかったというどこか淋しい気持ちが胸に宿る。
私達親子の間にはすっかり時間の溝も埋まっていて、仲良く並んで店を出る。時計は夜10時を回っていた。
「もう遅いから家まで送るよ。」
パパがそう言ったとき、店の入り口の横から人影が近付いてきて私達の前で足を止めた。
「亜美さんは僕が送りますよ。」
「西園寺さん!」
影の正体が彼だと気付いて思わず声を上げる。
「君は…?」
パパは怪訝そうに西園寺さんを見ていた。
「あ、パパこの人はね…」
「申し遅れました。僕は西園寺要といいます。亜美さんとはお付き合いさせてもらっています。」
「え!?」
付き合ってません!
「君が、亜美の…?」
「はい♪彼氏です。」
驚いている私とパパににっこりと答える西園寺さんに頭が痛くなる。
「ちょっと待ってくださ…」
「そうかね君が。さっき亜美が言っていた大切な人だね?」
「パパ!」
パパまで何を言い出すの!!
「はい♪」
西園寺さんもはい♪じゃなあああい!!
赤面しながら口をパクパクすることしかできない私の肩を西園寺さんは引き寄せた。
「亜美が幸せそうで良かった。パパは嬉しいよ。」
そんなに嬉しそうにされたら何も反論できなくなってしまう。
「亜美さんは無事に家まで送り届けます。」
「ああ。頼んだよ。」
なぜかどこまでも男の人バージョンの西園寺さんは余裕の表情。
私は諦めて父親に別れを切り出して彼と家まで歩いていくことに決める。
「お父さんとはちゃんと話せたでしょ?」
あのあとすぐに肩の手はおろされて、私と彼の間には一人分の距離が空いていた。
「はい。西園寺さんの…ピアノのお陰です。ありがとうございました。」
「いーのいーの。私は仕事をしただけなんだから。」
そう言って悪戯っぽく笑う彼に微笑み返した。
「父は、再婚するそうです。相手は外国の方だそうで、絵画の幅を広げるためにこれからはその人と世界中を回るんだって言っていました。
そうなるとなかなか会えないからこうして時間を作ってくれたんです。」
「そう。…寂しいわね?」
少しだけ眉毛を下げて心配そうに聞いてくることが嬉しくて微笑んで首を振る。
「どんなに離れていても私は父の娘なんだって言ってくれました。私も、そう思います。だから…大丈夫ですよ。」
「大切な人もいるしね♪」
「もう!」
私達は笑い合う。
『大切なたくさんの友達と、大切な人がそばにいるから大丈夫』
私はパパにそう言って、混じり気のない、素直な笑顔を向けたのだった。
「ところで、私達付き合っていた覚えはないんですけど?」
横目でチラリと彼を見る。
「いいじゃない。付き合っちゃいましょ?」
何でそんな大事なことをさらっと言えるの?
カアッと顔が熱くなる。
「付き合いません!」
「ちょっと!」
「あ、い…家に着きました!ありがとうございます。」
ペコリ。頭を下げてそのままマンションの入り口に入ろうとした。
ガシ!
腕を掴まれて途端に引き寄せられる。
一瞬何が起きたのか分からなかったけれど、聴いたことのない心音が間近から聴こえてきて彼に抱き寄せられていることに気付き身体中が信じられないほど熱くなった。
頭の中が痺れたみたいにうまく考えられない。
「亜美。いいから、付き合えよ。」
「!!」
突然のことだった。
それは強引で、自分勝手な言い方で…。だけど耳元で囁かれる甘い響きは抗えない魔力を持っていた。
それでも生まれて初めての体験に何もできない自分がもどかしい。
私の心はもうとっくに彼に奪われている。
だから答えは一つしかないのだけれど、体が全然思うように動かない。
西園寺さん
私が頷くまで
もう少しだけこのまま…
待っていてくれますか?
おわり