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人払いしていた書庫で俺は一番隅にある彼女の国に関する数少ない文献全てを抜き取って、そのまま床に座りこんで読んでいた。
読んでいた、のとは少し違う。ここに書かれているのは既に知っているものばかり。月の住人のことについてはおそらくこの国の誰よりも知っているという自負がある。
俺がページを進める手を止めて「見て」いたのは、そこに描かれる月の女神セレーネの挿絵だった。
透き通るようなドレスに長い髪、美しい横顔。
そのどれもが彼女を思い起こさせて、これを見ているときは彼女と対話しているかのような気持ちになれた。
「セレニティ…もう、俺のことは…忘れた?」
セレーネの頬をそっと撫でて掠れた声で呟く。
「あんな贈り物だけで…俺の君への想いが思い出にでもなると思った…?」
あの贈り物を最後にヴィーナスに託して。君は俺の前に二度と現れなくなった。
それ以来、『贈り物』という言葉を聞くだけでそれが国交を正常化する大事なものだと分かっているものだとしても、中身も見ずに相手国に返す始末だった。
『そのようなもので俺の機嫌を取ろうという魂胆か!?属国は属国らしくただこの国のやり方に従っていればいいんだ。そんなもので今までの条件を変えることなどないとしかと伝えておけ!!!』
そんな言葉を吐いた俺に臣下は震えて何も言えなくなってしまっていた。中には非難する様な表情で俺を伺う者もいて、そんな臣下には『なんだその目は。お前も従えないのなら今すぐにでもこの場にいられないようにしてやってもいいのだぞ。』と、冷たく見下ろし黙らせた。
最早自分が恐怖、中には憎悪の対象になっていることも分かってる。けれど、人の心を通わせながら国政を行うことなどもうできなかった。
素の自分に戻ってしまったら、こんな風に脆く。ただ一人の女性のことを忘れられない愚かな姿を晒して、まともに仕事など出来ないということを理解していたから。
四天王たちは俺の悪政を勿論諌めてきた。しかしそれだけではなく、ただ黙ってじっと何かを訴えかけるような、諭すような目で見てくることがある。そんなときは胸の奥が千切れそうになる。
もうやめてくれ。もう俺の為に何かしようと考えるのも無駄なんだ。だから放っておいてくれ。
全てから逃れるように挿絵の女神を空虚な目で眺める。
「どうしてそんなに微笑んでいられるんだ…?俺は君を失って、笑い方すら忘れてしまったよ。色んな感情を忘れて…捨ててしまったのに、君へのこの想いだけは消えない。忘れることなんて…できない…っ」
すっかり冷え切ってしまった心は、セピア色のその女神に彼女の微笑みを重ねて胸の一番奥の一点だけが痛いほど熱くなって。
「返事をして?セレニティ…」
頬に伝うものが重力に従い、そのページに幾つもの黒い点を作っていく。
そしてその黒い染みは、自分の心にも深く、重く染み渡っていった。
