第六話 『呼ぶ声』
「とっても可愛らしい子だったのよはるか。」
「へえ。君より可憐な女の子がいるのかい?みちる。」
「うふふ。彼女、月野うさぎさんって言うの。名前も可愛いでしょう?」
「ほんとだ。月のうさちゃんか。僕も会ってみたいな。」
「今度お友達を連れて遊びに来るって言っていたから楽しみにしていて?あら地場くん、おはよう。」
「…ああ。」
俺は巷で名物と言われている天王と海王との会話の中で今一番考えたくない名前が出てきて反応が遅くなる。なぜ海王が月野うさぎと知り合ったのかよく分からない。
よく分からないと言えば、なぜ女生徒の天王が男子の標準服を着るのが許されているのかだ。しかしここの学長はよく言えばキレ者。言い方を変えれば変わり者と聞いていたから俺個人がいくら熟考した所で答えなど見つかることは無いのだろう。
法律で決まっているわけでも無いし、あまりにも自然に着こなしているから特に問題も無いように思えてくる。
気を逸らしてそんなことを表情に出さず逡巡してる間に、海王も特に気にする様子も無く再び天王に顔を戻していた。
両親が死んで父方の祖母も住むこの街に戻ってきて五年。あいつが入学してから二年。
全くその存在にすら気付いていなかったというのに、この数日で頻繁に俺の周りに登場する。もう関わらないと決めたのに、まるで運命とやらがそうはさせないと言っているかのように。
「おや?またサボりかい?王子様。」
腰を上げて図書室に行こうとしていると天王が目ざとく声を掛けてくる。
「別に。借りていた本を返してくるだけだ。」
「それなら私が返しておいても良くてよ?」
「…いや、いい。」
教室を後にして図書室の戸を開く。
今日は何を読もうか。この棚は全部読んでしまったし、今の気分としては徹底的に何か専門的なことを叩き込んで余計なことを考える隙間をなくしたかった。
理数系分野の前にきて、量子力学、ルベーグ積分、微分、位相幾何など目に付くものをとにかく抜き取っていつもの席へと向かう。
結局授業にも出る気もせずそのまま読書に没頭してるといつの間にかかなりの時間が経ち、昼休みを告げるチャイムが鳴り響いていた。
大体は読み終わってしまったから一つ伸びをして慣れ親しんだ疲労感に軽く肩を回す。そしてぼんやりと窓の外を眺めた。
昔一緒に見上げた空はもっと綺麗だった。朝も、昼も、夜のあの月も。一緒に見たものは、全部。
結局、俺だけだったんだな。幼馴染のことを忘れずに宝箱にしまい込んでいたのは。
俺だけだった。
つきりと痛む心を隠して最後の本を読み始めようとした時。ガタッと正面の椅子が引かれる音がして見てみると息が止まった気がした。
「ここ、いいですか?」
「え、」
いいも悪いも答えを出す前から持っていた本を読み始めるその姿に言葉がうまく出てこない。
「……本なら、教室や中等部の図書館でも読めるだろ?」
漸く出てきた声は少し掠れていて自分でも嫌になる程辛辣で。人との関わり合いをやめてきてしまった自分の人生に舌打ちしたくなった。
本当はもっとかけてやれる言葉があるはずだ。
こんな風に思ってしまうこと自体久しぶり過ぎて。認めたくなくても、忘れようと頭の中から排除しようとしても、やはり目の前のこの少女に限ってはどうしても特別なのだと心の中の一番柔らかい場所が騒いでいるようだった。
ここにはお前の彼氏も来ないぞ。
そう言いたいのになぜか言えない。そこで前のように彼氏ではないという否定の言葉ではなく肯定されてしまったら。
昨日の廊下での告白。あんな風にストレートに想いを告げられたら彼女の心も変わるもしれない。俺が知っている月野うさぎは、素直で優しく、嘘がつけない性格だ。三つ子の魂百までと言うならばきっとその本質は変わっていないだろう。
あの会長の一途な想いにほだされてそのまま付き合うということも充分に考えられた。ましてや彼女にきちんと幼馴染認定されているのだから俺とは重ねてきた年月がまるで違うのだ。
そこまで考えてふと我に帰る。
なんなんだ俺は。動けず、何も言わず。こんなことをグルグルと悩んでいて。これじゃただのヘタレだ。
自嘲気味に息を小さく吐くと気持ちの置き所が無くなり堪らなくなって席を立とうとした。
しかし彼女の読んでいる本の表紙に瞠目する。
『竜と月の船』
「その本、どうした?」
「借りたの!私普段全然本読まないのに、授業の合間の休み時間にちょっと読んでみたらすっっごく面白くて!早く続きが読みたくてここに来たんです!」
俺がこの前借りた本を手にキラキラとした表情を向けてくる。
専門分野の本とは別に借りたファンタジー。たまに借りるその系統の本は、心のどこかでいつも考えていた幼馴染。あの子だったらどういう本なら好きだろうか。
そんなことを思いながら借りた本、だった。
ーこの本面白いね!まもちゃん!ー
そう言ってくれる気がして。
思い描いていた笑顔が、成長しても変わらない笑顔が。俺の欲しかった言葉と共に眩しく映る。
気付けば身を乗り出す自分。
不意に作られた影に驚き目を上げる彼女。
いつか見た空みたいに綺麗な瞳に胸が焦げる。
頭が、考えることを放棄する。
瞬間。唇を重ねた。
目が見開かれたままの状態で唇が離れて。やかましく鳴る心臓を誤魔化すように放心状態の彼女に小さく吹き出すと、迫り上がる感情を押し殺して耳打ちする。
「馬鹿。早く、思い出せ。
"うさちゃん"」
一層開いた目をして固まる彼女を置いて、人気の全くない図書室を後にした。
そして、一歩も二歩も遅れた所で盛大な叫び声が校舎に響き渡るのだった。