secret smile
毎年秋になるとどこの大学も学祭があって賑やかになる。俺が通うKO大学も同じく、一年のうちに最も活気づく学祭に向けて、学生達はサークルごとに様々な準備を始めていた。
といっても、医学部在籍の俺は研究発表も学祭後に控えているため、学祭の三日前であるにも拘わらず所属しているテニスサークルの出店の準備に全くと言っていいほど参加できていなかった。
それは隣にいる友人、地場も同じだ。
最もこの男はサークルに入っていないから当然なのだが。
俺達は研究の合間を縫って、研究室の片隅で買ってきたカップラーメンを侘しく啜っていた。
「なあ地場」
「ん?」
「お前、今度は絶対抜けるなよ?」
「……ああ」
地場は一ヶ月前の特別授業のときに行われた研究発表を、一週間前を切ったところで急に出れないと言い出してリーダー自ら欠席するという前科があった。
レジュメを完璧に仕上げていたから何とかなったものの、普段責任感が人一倍強くて真面目で隙のないこの男らしからぬ行動に俺を初めとした研究仲間皆は戸惑いを隠せなかった。
しかもいくら理由を聞いても、どうしても行かなくてはいけない予定ができたの一点張りで、問い詰めても地場から無言の圧力が掛かって誰も真相に迫ることができなかったのだ。
「土屋」
地場が呼び掛ける。これは俺の名前。フルネームは土屋貴士。医学部二年で地場とは一年の初めに出席番号が近くて授業のグループ分けで一緒になってからの仲。一緒のグループだと必然的に話すことも増えて、二年では同じ研究室になったから更に一緒にいる時間が長くなった。
でも正直そんなに仲が良いのかと言われれば微妙なところで、例えばサシで飲んだり休みの日に会ったりすることは全くない。
大学以外で地場に会うのは想像がつかない。
つまり私生活は互いに謎だ。
その代わり、研究仲間としての彼の実力はかなり信頼している。いや、尊敬していると言った方が正しいだろう。
地場と一緒に医学を学んでいるとかなりの刺激になるから、俺の学生生活にとってこの男は無くてはならない存在だと勝手に思っていたりもする。
「学祭の日は研究も休みだったよな?」
地場の質問に頷いて答える。
「俺の場合は店番の時は当然休み。学祭は三日間あるけど、基本的には自由だぜ?三日間遊んでもいいし、ずっと研究してもいいし。まあ俺はさすがにそれはきついから店番の日に一日休むぞ。本当は全部休みたいけどな~……」
チラリと山積みの研究課題を見て、それが無理なことを再確認してげんなりする。
「そうか……」
地場は微笑みながら一言そう言うと、食べ終えたカップラーメンの汁を備え付けのシンクの流しに捨ててきちんと容器を洗うと燃えないゴミ表記のゴミ箱に捨てる。
俺はその几帳面な一連の流れをぼんやりと見て、何だか漠然と、こういう奴の彼女ってどういう子なんだろう……と思った。
既に去って持ち場に戻る白衣の地場の姿勢のいい後ろ姿を見ながら、隣に歩く彼女もきっと完璧な女性であるに違いない。
そう想像して、空の容器を乱雑にゴミ箱へそのまま捨てる。そしてなんとは無しに溜め息を一つ付き、自分も持ち場へと戻っていった。
学祭の二日目までは気が重くなりながらも研究室に缶詰で作業をこなして、ようやく三日目の今日は解放されて学祭の空気を楽しんでいた。
同じ様に研究漬けの地場にも一応声をかけたけれど、これだけは仕上げたいからと断られた。
ある程度予想していた答えだったからさして驚くこともなく俺は研究室を後にしたのだった。
サークルの出店は定番だけどたこ焼きとフランクフルトの販売。俺の担当時間はそんなに混まずに適度に売れて、想像していたより大分楽に終わる。
店番が終わり、そのままサークルのわりと仲のいい友人三人と、昼飯の食べ歩きをしたり結構本格的な映研を見たりして過ごした。
その後、一息つこうと中庭のベンチで缶コーヒーを飲みながら雑談をしていた時。
「あのー、すみません」
躊躇いがちに俺達に声を掛けてくる一人の女の子が不安そうに立っていて、会話がプツリと途切れた。
「医学部の研究棟ってどこでしょうか?」
2つのお団子頭の彼女は眉毛を下げきって困り顔で聞いてくる。
「あれ、君高校生?」
校内に馴れない感じと化粧っ気のないあどけなさの残る表情に一緒にいた友人の一人がそう聞いた。
「あ、はい。そうです。今日は内緒で遊びに来たんですけど、迷っちゃって……」
あははと恥ずかしそうに笑いながらそう言う彼女の飾らない自然な姿に好感を覚えて微笑む。
「俺、医学部だから案内するよ。でもあそこは何も出店とか面白いもの無いし、本当に研究してるだけだよ? いいの?」
「はい! いいんです! ありがとうございます!! えと……」
「俺、土屋貴士」
「土屋さん! ありがとうございます! あ、私、月野うさぎっていいます」
真っ直ぐに言う笑顔の彼女は素直に可愛い。そう思った。
俺は友人達にちょっと行ってくると告げて、嬉しそうにしている彼女と並んで歩き始めた。
「内緒で遊びに来たって言ってたけど、それって友達?」
そう聞くと顔を赤らめて口ごもる彼女にピンとくる。
「あー、彼氏か」
ボボン!
そんな音が聞こえそうなくらい、更に顔が赤くなる様子が可笑しくて笑ってしまう。
「そんな笑わなくても……」
「ごめんごめん! で、何で内緒なの?」
「彼に、研究しかしてないからつまらないだろうし来なくていいよって言われたんですけど……」
少し寂しそうに呟く彼女だったがすぐに今度は怒ったような表情になる。
「だけどせっかくの学祭なんですよ!? どんなところで毎日過ごしてるのか知りたかったし、一緒に出店とか回りたいじゃないですか!それに何より会いたかったんです!!」
一気に捲し立てて我に返った彼女はまた一気に赤くなる。
「わ……なんかすみませんいきなり」
頭をポリポリ掻く決まり悪そうな彼女にまたしても爆笑してしまった。
「本当に大好きなんだね彼のことが」
ひとしきり笑い終えてそう聞けば、彼女は眩しい笑顔を浮かべて頷く。
「はい! 大好きです!」
この子にこんなに想われている幸せな奴は一体どんな男なのか興味が沸いた。
「どんなところが好きなの?」
「えー!? そりゃあもう全部!! 優しくって、かっこよくて~、いつも守ってくれるんです」
聞いたことを若干後悔した。こうも生き生きとのろけられるとどう返事して良いのか分からない。
俺はただ苦笑していると、急に彼女の顔が真剣になってそれにつられてはたと立ち止まる。
「守ってくれるんです。私の心を。それってすごく安心できるんです。私は、私でいいんだって……ありのままの私でいていいんだって、思えるんです」
「そうなんだ」
「はい! だから、私も彼のことをずっと守っていきたいって思ってます!」
明るいさっきまでの表情に戻った彼女はそう言った。
「守る……か」
自分の、今まで相手に求めてばかりいた恋愛を思い出して僅かに心が曇った。自分の状況や心を理解して欲しいと思うだけで、相手の気持ちをあまり考えていなかったあの頃を。
「土屋さん?」
「あ、いや。ほらここが研究棟。彼氏、なんの研究してるか分かる?」
「それがその……よく分からないんです」
ごめんなさいと言いながら苦笑する彼女に微笑む。
「じゃあ彼氏の名前は? 知ってる奴なら研究室も分かるかもしれないから。そこまで案内するよ」
「ありがとうございます!」
「いいからいいから。で? 名前は?」
そんなに毎回飛び切りの笑顔を向けられたら男なんてみんな勘違いしてしまうんじゃないかな。きっと彼氏も大変だ。そんな風に呑気に考えていた俺に衝撃が走ったのはそのすぐ後。
「はい! まもちゃん……じゃなかった。地場衛です!!」
「え?」
想定外の名前を聞いた俺はその場でしばらく固まった。
「うさ!?」
廊下の奥から聞き覚えのある声が、俺達の方に向かって響いてきた。
それは紛れもなく研究仲間の白衣を着た地場だった。
「まもちゃん!!」
まもちゃん?まもちゃんって呼ばれてるのか?あの地場が??そういやさっきも言い直してたか?
しかしあいつも、「うさ」とか呼んでるのか?彼女をあの堅物真面目エリートの地場が!?いやいやでもそれは普通か!?
そんな半ばパニック状態の俺をよそに、二人の距離はあっという間に縮んでいた。
互いに駆け寄ったかと思えば、大胆にも彼女が地場に抱き付いた。もちろん地場はクールに距離を取るかと思ったけれど、何だか物凄く嬉しそうに抱き締め返している。
お…おいおい。一応校内なんだけど。俺、いるんだけど。
「あ、俺ごめん昨日は学校泊まったから……」
おそらく風呂に入っていないことなどを気にしているのだろう。そんなことを言いながらようやく離れようとする地場に、
「うさはそんなこと全然気にしないもーん♪」
そうやって再び抱き付き直す彼女。
「そうか……」
いや待て。そうか(フッ…)じゃねーー!!
そして完全に二人の世界に入っている彼らはお構い無しに顔を近付けていく。
「ちょ……!ストップ!!」
さすがに堪り兼ねて二人の横に立つと手を差し出しながら止めに入る。
「土屋?」
こっちを見て初めて俺の存在に気付いた素振りで呼んでくる。しかも腕は恋人を抱いたまま離れない。呆れて半笑い状態の俺のことを彼女はニッコリと微笑んで話し出す。
「この人がここまで案内してくれたの! 土屋さん、ありがとうございます!」
「いや…」
「まもちゃん知り合いだったんだね!」
「研究仲間だ」
地場は笑顔で俺のことを見る彼女に何となく面白くなさそうな顔をして答えた。
「ねえまもちゃん、研究はまだ終わらないの?」
「うーん……実はほとんど片付いた」
え!あの大量のデータをまとめたのか?一人で?
「あとは印刷できる状態にすればいいだけだ」
俺の心を読んだかのように地場はこちらを見ながらそう言った。
ん?なんか俺、二人に見られてる…?
期待を込めた眼差しを送られていたたまれなくなり、遂に心の中で白旗を揚げた。
「えーと…俺がそれやるよリーダー」
「いいのか?」
俺がそう言うのを分かっていたくせに聞き返す地場に若干腹も立ったけれど、とにかくこの公衆面前バカップルを追い出したい気持ちが先立った。
「ああ。俺もそこそこ休めたし。彼女と会うの、久しぶりなんだろ? 行ってこいよ。白衣預かるぜ」
「おう。ありがとな」
そして白衣を俺に手渡すと、信じられないほど優しい表情で彼女に柔らかく微笑んでそのまま手を繋いで行ってしまった。
地場がこんなに臆せずスキンシップをする男だとは思っていなかったから、展開に付いていけず放心状態で見送っていた。
それにあの笑顔……。ここであんなの振り撒いてたら今以上に女がほっとかないだろうな……。彼女が地場に惚れてるのはよく分かった。だけどそれ以上に地場は彼女に惚れてることも分かって研究仲間の意外な情熱的な部分を知った。
これはもしかしたら前回の研究発表のドタキャンも、案外彼女絡みで非常事態でもあったのかもしれない。
だとしたら、全く隙がないと思っていた地場も、普通の男なんだとどこか安心した。いや、ドタキャンはやっぱりよくないけれど。
窓から見下ろすと二人が研究棟の出口から出てくるのが見えた。きっと誰も見てないと思ったのだろう。不意に二人の影が重なる。
あーもう。好きなだけやっててください。
俺は頭をわしゃわしゃ掻いてやれやれと微笑すると、地場の残した仕事が待つ研究室へと一人寂しく向かっていった。
といっても、医学部在籍の俺は研究発表も学祭後に控えているため、学祭の三日前であるにも拘わらず所属しているテニスサークルの出店の準備に全くと言っていいほど参加できていなかった。
それは隣にいる友人、地場も同じだ。
最もこの男はサークルに入っていないから当然なのだが。
俺達は研究の合間を縫って、研究室の片隅で買ってきたカップラーメンを侘しく啜っていた。
「なあ地場」
「ん?」
「お前、今度は絶対抜けるなよ?」
「……ああ」
地場は一ヶ月前の特別授業のときに行われた研究発表を、一週間前を切ったところで急に出れないと言い出してリーダー自ら欠席するという前科があった。
レジュメを完璧に仕上げていたから何とかなったものの、普段責任感が人一倍強くて真面目で隙のないこの男らしからぬ行動に俺を初めとした研究仲間皆は戸惑いを隠せなかった。
しかもいくら理由を聞いても、どうしても行かなくてはいけない予定ができたの一点張りで、問い詰めても地場から無言の圧力が掛かって誰も真相に迫ることができなかったのだ。
「土屋」
地場が呼び掛ける。これは俺の名前。フルネームは土屋貴士。医学部二年で地場とは一年の初めに出席番号が近くて授業のグループ分けで一緒になってからの仲。一緒のグループだと必然的に話すことも増えて、二年では同じ研究室になったから更に一緒にいる時間が長くなった。
でも正直そんなに仲が良いのかと言われれば微妙なところで、例えばサシで飲んだり休みの日に会ったりすることは全くない。
大学以外で地場に会うのは想像がつかない。
つまり私生活は互いに謎だ。
その代わり、研究仲間としての彼の実力はかなり信頼している。いや、尊敬していると言った方が正しいだろう。
地場と一緒に医学を学んでいるとかなりの刺激になるから、俺の学生生活にとってこの男は無くてはならない存在だと勝手に思っていたりもする。
「学祭の日は研究も休みだったよな?」
地場の質問に頷いて答える。
「俺の場合は店番の時は当然休み。学祭は三日間あるけど、基本的には自由だぜ?三日間遊んでもいいし、ずっと研究してもいいし。まあ俺はさすがにそれはきついから店番の日に一日休むぞ。本当は全部休みたいけどな~……」
チラリと山積みの研究課題を見て、それが無理なことを再確認してげんなりする。
「そうか……」
地場は微笑みながら一言そう言うと、食べ終えたカップラーメンの汁を備え付けのシンクの流しに捨ててきちんと容器を洗うと燃えないゴミ表記のゴミ箱に捨てる。
俺はその几帳面な一連の流れをぼんやりと見て、何だか漠然と、こういう奴の彼女ってどういう子なんだろう……と思った。
既に去って持ち場に戻る白衣の地場の姿勢のいい後ろ姿を見ながら、隣に歩く彼女もきっと完璧な女性であるに違いない。
そう想像して、空の容器を乱雑にゴミ箱へそのまま捨てる。そしてなんとは無しに溜め息を一つ付き、自分も持ち場へと戻っていった。
学祭の二日目までは気が重くなりながらも研究室に缶詰で作業をこなして、ようやく三日目の今日は解放されて学祭の空気を楽しんでいた。
同じ様に研究漬けの地場にも一応声をかけたけれど、これだけは仕上げたいからと断られた。
ある程度予想していた答えだったからさして驚くこともなく俺は研究室を後にしたのだった。
サークルの出店は定番だけどたこ焼きとフランクフルトの販売。俺の担当時間はそんなに混まずに適度に売れて、想像していたより大分楽に終わる。
店番が終わり、そのままサークルのわりと仲のいい友人三人と、昼飯の食べ歩きをしたり結構本格的な映研を見たりして過ごした。
その後、一息つこうと中庭のベンチで缶コーヒーを飲みながら雑談をしていた時。
「あのー、すみません」
躊躇いがちに俺達に声を掛けてくる一人の女の子が不安そうに立っていて、会話がプツリと途切れた。
「医学部の研究棟ってどこでしょうか?」
2つのお団子頭の彼女は眉毛を下げきって困り顔で聞いてくる。
「あれ、君高校生?」
校内に馴れない感じと化粧っ気のないあどけなさの残る表情に一緒にいた友人の一人がそう聞いた。
「あ、はい。そうです。今日は内緒で遊びに来たんですけど、迷っちゃって……」
あははと恥ずかしそうに笑いながらそう言う彼女の飾らない自然な姿に好感を覚えて微笑む。
「俺、医学部だから案内するよ。でもあそこは何も出店とか面白いもの無いし、本当に研究してるだけだよ? いいの?」
「はい! いいんです! ありがとうございます!! えと……」
「俺、土屋貴士」
「土屋さん! ありがとうございます! あ、私、月野うさぎっていいます」
真っ直ぐに言う笑顔の彼女は素直に可愛い。そう思った。
俺は友人達にちょっと行ってくると告げて、嬉しそうにしている彼女と並んで歩き始めた。
「内緒で遊びに来たって言ってたけど、それって友達?」
そう聞くと顔を赤らめて口ごもる彼女にピンとくる。
「あー、彼氏か」
ボボン!
そんな音が聞こえそうなくらい、更に顔が赤くなる様子が可笑しくて笑ってしまう。
「そんな笑わなくても……」
「ごめんごめん! で、何で内緒なの?」
「彼に、研究しかしてないからつまらないだろうし来なくていいよって言われたんですけど……」
少し寂しそうに呟く彼女だったがすぐに今度は怒ったような表情になる。
「だけどせっかくの学祭なんですよ!? どんなところで毎日過ごしてるのか知りたかったし、一緒に出店とか回りたいじゃないですか!それに何より会いたかったんです!!」
一気に捲し立てて我に返った彼女はまた一気に赤くなる。
「わ……なんかすみませんいきなり」
頭をポリポリ掻く決まり悪そうな彼女にまたしても爆笑してしまった。
「本当に大好きなんだね彼のことが」
ひとしきり笑い終えてそう聞けば、彼女は眩しい笑顔を浮かべて頷く。
「はい! 大好きです!」
この子にこんなに想われている幸せな奴は一体どんな男なのか興味が沸いた。
「どんなところが好きなの?」
「えー!? そりゃあもう全部!! 優しくって、かっこよくて~、いつも守ってくれるんです」
聞いたことを若干後悔した。こうも生き生きとのろけられるとどう返事して良いのか分からない。
俺はただ苦笑していると、急に彼女の顔が真剣になってそれにつられてはたと立ち止まる。
「守ってくれるんです。私の心を。それってすごく安心できるんです。私は、私でいいんだって……ありのままの私でいていいんだって、思えるんです」
「そうなんだ」
「はい! だから、私も彼のことをずっと守っていきたいって思ってます!」
明るいさっきまでの表情に戻った彼女はそう言った。
「守る……か」
自分の、今まで相手に求めてばかりいた恋愛を思い出して僅かに心が曇った。自分の状況や心を理解して欲しいと思うだけで、相手の気持ちをあまり考えていなかったあの頃を。
「土屋さん?」
「あ、いや。ほらここが研究棟。彼氏、なんの研究してるか分かる?」
「それがその……よく分からないんです」
ごめんなさいと言いながら苦笑する彼女に微笑む。
「じゃあ彼氏の名前は? 知ってる奴なら研究室も分かるかもしれないから。そこまで案内するよ」
「ありがとうございます!」
「いいからいいから。で? 名前は?」
そんなに毎回飛び切りの笑顔を向けられたら男なんてみんな勘違いしてしまうんじゃないかな。きっと彼氏も大変だ。そんな風に呑気に考えていた俺に衝撃が走ったのはそのすぐ後。
「はい! まもちゃん……じゃなかった。地場衛です!!」
「え?」
想定外の名前を聞いた俺はその場でしばらく固まった。
「うさ!?」
廊下の奥から聞き覚えのある声が、俺達の方に向かって響いてきた。
それは紛れもなく研究仲間の白衣を着た地場だった。
「まもちゃん!!」
まもちゃん?まもちゃんって呼ばれてるのか?あの地場が??そういやさっきも言い直してたか?
しかしあいつも、「うさ」とか呼んでるのか?彼女をあの堅物真面目エリートの地場が!?いやいやでもそれは普通か!?
そんな半ばパニック状態の俺をよそに、二人の距離はあっという間に縮んでいた。
互いに駆け寄ったかと思えば、大胆にも彼女が地場に抱き付いた。もちろん地場はクールに距離を取るかと思ったけれど、何だか物凄く嬉しそうに抱き締め返している。
お…おいおい。一応校内なんだけど。俺、いるんだけど。
「あ、俺ごめん昨日は学校泊まったから……」
おそらく風呂に入っていないことなどを気にしているのだろう。そんなことを言いながらようやく離れようとする地場に、
「うさはそんなこと全然気にしないもーん♪」
そうやって再び抱き付き直す彼女。
「そうか……」
いや待て。そうか(フッ…)じゃねーー!!
そして完全に二人の世界に入っている彼らはお構い無しに顔を近付けていく。
「ちょ……!ストップ!!」
さすがに堪り兼ねて二人の横に立つと手を差し出しながら止めに入る。
「土屋?」
こっちを見て初めて俺の存在に気付いた素振りで呼んでくる。しかも腕は恋人を抱いたまま離れない。呆れて半笑い状態の俺のことを彼女はニッコリと微笑んで話し出す。
「この人がここまで案内してくれたの! 土屋さん、ありがとうございます!」
「いや…」
「まもちゃん知り合いだったんだね!」
「研究仲間だ」
地場は笑顔で俺のことを見る彼女に何となく面白くなさそうな顔をして答えた。
「ねえまもちゃん、研究はまだ終わらないの?」
「うーん……実はほとんど片付いた」
え!あの大量のデータをまとめたのか?一人で?
「あとは印刷できる状態にすればいいだけだ」
俺の心を読んだかのように地場はこちらを見ながらそう言った。
ん?なんか俺、二人に見られてる…?
期待を込めた眼差しを送られていたたまれなくなり、遂に心の中で白旗を揚げた。
「えーと…俺がそれやるよリーダー」
「いいのか?」
俺がそう言うのを分かっていたくせに聞き返す地場に若干腹も立ったけれど、とにかくこの公衆面前バカップルを追い出したい気持ちが先立った。
「ああ。俺もそこそこ休めたし。彼女と会うの、久しぶりなんだろ? 行ってこいよ。白衣預かるぜ」
「おう。ありがとな」
そして白衣を俺に手渡すと、信じられないほど優しい表情で彼女に柔らかく微笑んでそのまま手を繋いで行ってしまった。
地場がこんなに臆せずスキンシップをする男だとは思っていなかったから、展開に付いていけず放心状態で見送っていた。
それにあの笑顔……。ここであんなの振り撒いてたら今以上に女がほっとかないだろうな……。彼女が地場に惚れてるのはよく分かった。だけどそれ以上に地場は彼女に惚れてることも分かって研究仲間の意外な情熱的な部分を知った。
これはもしかしたら前回の研究発表のドタキャンも、案外彼女絡みで非常事態でもあったのかもしれない。
だとしたら、全く隙がないと思っていた地場も、普通の男なんだとどこか安心した。いや、ドタキャンはやっぱりよくないけれど。
窓から見下ろすと二人が研究棟の出口から出てくるのが見えた。きっと誰も見てないと思ったのだろう。不意に二人の影が重なる。
あーもう。好きなだけやっててください。
俺は頭をわしゃわしゃ掻いてやれやれと微笑すると、地場の残した仕事が待つ研究室へと一人寂しく向かっていった。
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