寸止め(クンヴィ)

『寸止め』

後悔先に立たずと言うが、この状態は正にそれだろう。間近で見てしまった彼女の瞳、唇、紅潮した頬。俺は死ぬほど後悔した。

月の姫の守護戦士ヴィーナスは、主の護衛ではなくごく稀に剣の手合わせをしに俺の下に現れる。
「手加減しないでよ」
そう言って真剣で挑んでくるのだから始末が悪い。
何しろ華奢に見えるその腕は屈強な男戦士のように筋力があり、男よりもしなやかに軽く動く。そんな相手に手加減すればこちらが危ないのだから。
剣がかち合う音がいつしか止み、手に土が付いた俺の喉元に剣先を寸止めして笑う彼女は相変わらず美しかった。
「今日は私の勝ちね」
「見事だ」
「それはどうも」
剣を収めて手を差し出される。ほんの意趣返しのつもりで握った手をグンとこちらに引くと、油断していたのかそのまま悲鳴と共に倒れ込んできた。
「ちょっと!何すんのよ!」
「悪かっ...」
笑って詫びようとしたのだが、見上げた彼女の顔がほんの僅かな距離にあり空気が止まる。
しまったと思ったときにはもう遅かった。想いを告げられない相手が無防備に俺を見つめている。ほんの少し近付けば触れられる距離。
桜色の唇に吸い寄せられるかのように顔を傾けるーーーが。

寸前で止め、立ち上がった。

「すまなかったな。俺は仕事に戻る」
「あ...ええ。手合わせありがとう。私も戻るわ」
視界の隅に映る彼女に胸の奥が軋む音がした。
頼むからそんなに寂しそうに笑わないでくれ。
「また来てもいい?」
立ち去ろうとしたときに掛けられた言葉はどこか頼りない。
「いつでも。ただし、次は負けんぞ」
「それはどうかしら?」
勝気な顔に戻った少女はあっという間に走り去って見えなくなった。

「ヴィーナス」

喉まで出かかっている言いたくても言えない言葉の代わりに、その名を小さく呼んだ。



おわり
2020.10.15
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