紫陽花の前で逢いましょう
四月は桜、五月はつつじ、六月は紫陽花…
ピンクや白や紫、青。様々な色をした花が咲いては散っていく。けれどこの少年の目にはどの色も映っていないようだった。少年自身の瞳はとてもとても綺麗な蒼であるのに。全てのものをその瞳に映すのを拒んでいるようだった。
両親が他界してから四年の月日が流れていたが、一切の記憶を無くしてしまった彼にとっては傷が癒えることなど無かった。体の傷は癒えても、心は、どの状態が自分にとっての普通なのか分からない彼には癒えたのかどうかすら分からないと言ったほうが正しいのかもしれない。
彼は住んでいる場所から少し離れた図書館にいたのだが、今日は梅雨らしく朝から雨が降り続いていて何となく気持ちが乗らなかった。じめじめするこの季節は決して明るくは無い彼の気持ちに輪を掛けていく。
小学四年生にして既にこの図書館の常連となっていたこの少年は定位置でもある窓際の一番隅の席で本から目を離して灰色の雲、そして降りしきる雨をただ見つめていた。
ランドセルを背負うと本を戻し図書館を後にした少年は、黒い傘を広げてゆっくりとその足を進めていく。
何も見ず、ただ何度も通っているこの道を辿るだけの彼の歩みを不意に止める色があった。
あかと、きいろ。そしてピンク。
「すごーい!!おっきーー!!」
花の色ではない。その色の持ち主は大きな声でそう言ってとても見事な紫陽花が咲き乱れる場所で感嘆の声を上げていた。
赤はその小さな少女のランドセル。黄色はその帽子。そしてピンクは彼女の持つ傘の色だった。
少年は紫陽花に目を奪われている彼女の後ろに立ち止まったまま動かない。
どうしてだろう。突然『色』が彼の瞳に映す風景に戻ってきた。彼は戸惑い、だが目を離せずに立ち尽くす。
「あ!お兄ちゃん!見てみて!!ここにね、おっきいでんでんむしがいるのっ!」
「え…?」
後ろに気配を感じたのか少女は振り返って紫陽花の葉を指差しながら笑顔で言った。
紫陽花ではなく、かたつむりに目を奪われていたのかと思うと、少年は何故だか分からないが口元が緩んだ。
「ほんとだ。大きいね。」
柔らかく微笑む少年に嬉しくなった少女は「ねー!」と無邪気に笑い返した。
雨の日なのにこの小さな生物と遭遇しただけで胸を躍らせて笑顔でいる少女。
自分とは対照的なその姿を目の当たりにして、普段の彼なら目を背けてしまっただろう。けれどその微笑みがあまりにも温かくて。彼はその場を離れることができずにいた。
だからかたつむりについて彼は自分の知っているだけの知識を幼い少女にも分かりやすいように話したり、ついでに紫陽花のことも教えてあげたりしていた。
夢中で話していた。少女はそんな彼の話をとても面白そうに聞いていて。「すごーい!お兄ちゃんってものしりハカセだね!」とキラキラした瞳で彼を見つめていた。
そんな反応が嬉しくて。「そんなことないよ」と小さく返事をすると彼は途端に襲った恥ずかしさで目を逸らしてしまった。
「あ!たいへんだっ!お兄ちゃん、今何時か分かる?」
突然の質問とめまぐるしく変化する表情に驚きつつも彼は図書館を出るときの時間を思い出して大体の時刻を伝える。するとわーーどーしよー!と大声で慌て出す少女。
「もうかえらなきゃ!今日ね、わたしのたんじょうびなのっ!ママが心配しちゃうっ」
「そうなんだ…」
寂しそうに微笑む少年に少女の眉も下がる。
「お兄ちゃん、またね!」
「え?」
「わたしの家、近くなんだ。だからまた会えるよ!」
「うん。」
「そしたらそのときはまたいろんなこと教えてね!!」
「いいよ。」
「バイバイ!!」
「ばいばい。」
笑顔で手を振り合う少年と少女。
しかしこの二人の再会はそれから七年も後になってしまうのだった。