VY短編【もしも明日があるならば】(+CA,CT)

09.これからはこの場所で愛の歌を


 シドの運転するシエラ号の音が遠ざかり、その悠々と飛ぶ姿が海の向こうへ消えた後、ユフィとヴィンセントはウータイに建った新居に、二人分にしては多少多いと思われる荷物の数々を運び込んだ。
 取り合えず一番広い部屋であるリビングに運び入れたユフィとヴィンセントは、「ちょっと休憩しようか」と、荷物の山からクッションを引っ張り出してそれに腰を下ろして、ホッと一つ、息を吐いた。
「二人分だし、ほとんど飛行機移動だから大したことないって思ってたけど、意外に大変だったねっ」
 微かに肌にまとわり付くジメジメとした空気と、荷物を運ぶ作業で噴き出した汗をタオルで拭いながらユフィが言えば、隣に座るヴィンセントはユフィの言葉に小さく笑って頷くと、持っていたペットボトルの残り少ない水を一気にあおった。
 瞬間、ユフィの心臓が一際大きく動き、苦しくも幸せな思いで胸を締め付けた。
(ホントーに、ア……アタシの旦那、サマ……になったのか)
 隣に座る夫を、タオルで顔を拭く振りをしながら盗み見る。
 自分の些細な言葉にも微笑んで頷き、惜し気もなく見せ付ける濡れた首筋や、水を飲む度に動く喉仏と、手の甲で口元を拭う雄々しい姿に、『こんなエッチな人が自分の夫になってくれたのか!!』と、歓喜と羞恥に耳まで赤くなるのを感じた。
 ユフィはヴィンセントの事がずっと好きだった。いつから好きだったのかと問われれば定かではないが、自覚をしたのはオメガ騒動の混乱の最中で、その時から、ユフィは桜のように淡い恋心を胸に秘めていた。
 始めこそ、「絶対に叶わない」と思い嘆いていたユフィだったが、残念ながら大人しく引き下がるような性分でもなく、人の輪の中で生きるようになったヴィンセントにアタックしに行くようになった。
 仲間が贔屓目に見ても勝ち目のない勝負だったユフィの恋は、ユフィの諦めない想いとヴィンセントの変化が相俟った事で奇跡的に叶い、幾つかの試練を乗り越えて、ついに人生を共に歩む関係にまでやって来た。
 そんな二人は本日、愛を育んで来たジュノンの街から離れ、星に還るその時まで日々を過ごす事になる、ユフィの故郷・ウータイへと引っ越して来たのだった。
 ヴィンセントの短くも熱いプロポーズを受けたユフィは、父親でありキサラギ家当主のゴドーの了承を得ると、昔はユフィの母親が暮らしていた、今ではユフィが一人で住んでいるキサラギ家所有の家を改築・増築し、二人で生活する家へと改造した。
 その家に、大好きな人と夫婦となって一緒にいる事に、ユフィはときめかずにはいられなかった。
(シドには悪いけど、早く帰ってくれて良かったよっ)
 ジュノンから海を二つ越えた先の島国まで、荷物と共に二人を運んだシドに向かって、ユフィは胸中で「ゴメンッ」と舌を出した。
 シドはユフィたちの荷物をシエラ号から家の前まで運び出すのを手伝った後、『じゃあ俺様は帰るからよ!後は二人で仲良く作業しやがれっ』と、明らかに含みのある笑みを浮かべていた。
 自分たちを祝福しているのは十分伝わってきたが、その時は照れのあまり「よけーなお世話だ!」と真っ赤になって憤慨していたユフィだったが、助ける所は助けて引く時は颯爽と去るシドに、今度ウータイの地酒でも贈ろうか、と、今では感謝の念を覚えていた。
 最愛の人との初めての空間を早くに作ってくれたのだ。彼の心遣いに、有り難く思わない訳がない。
 そしてこれから、この空っぽの部屋に二人の色を足して行くのだと思うと、ユフィは口角が上がるのを抑え切れなかった。
 ウータイは基本的に床に座布団を敷いて座る。しかしヴィンセントは生まれた地で床に座る習慣がなかったのと同時に、足が長いのもあり床座りがどうも苦手だった。だから彼のためにソファを置くことに決め、そのために床も畳ではなくフローリングにした。
 そしてユフィは、ジュノンやエッジのように靴のまま家の中を歩き回るのが苦手だ。土埃の付いた靴で室内を歩き、そのままベッドやソファに倒れ込むなど、考えただけで怒りが沸いて来るほどで、だから彼女のために、この家では玄関でしっかり靴を脱ぎ、必要ならばスリッパを履く仕様にしたのだった。
 二人の要望を詰め込み、その生活にこれからまた色んなものを増やしていく喜びに、幸せを感じずにはいられない。
(ヴィンセント・キサラギ……か)
 ウータイでは夫婦になる者はどちらか一方の姓を名乗るようになっている。それは決して強制ではなく夫婦で別の姓を名乗る家もあるが、ユフィの家のような、代々続く名家ではそれは難しい事であった。
 だからユフィは、プロポーズを受けた際に『ヴァレンタインじゃなくなっちゃうけど、いいの?』と尋ねたのだった。
 ユフィの家はウータイを束ねる一族のトップだ。ユフィは近い将来父親であるゴドーの座を継ぎ、五強聖の“総”だけでなく、ウータイの未来を築いて行く立場になる。そんなユフィと一緒になるという事は、自分が何年も使ってきた姓を捨てる事になるのと同じであった。
『ヴィンセントだって、自分のもの、大切だろ?』
 ヴィンセント自身が変わる訳ではない。ヴィンセントを形成する記憶や何かが失われる訳ではないが、それでも何年も自分の一部として存在していたものを捨てる事は難しいだろう。
 そうユフィは思っていたが、ヴィンセントから返って来たのは、真っ直ぐで迷いのないものであった。

『姓が変わるなど、大した事ではない。……この先に待つ未来の方が、私にとって重要だ』

 ヴィンセントの言葉は本心だと、赤い瞳に射し込む、柔らかいオレンジ色の光がそう告げていた。
 ヴィンセントの想いに自然に溢れた涙を流したユフィを、まるで力を入れれば壊れてしまいそうなガラス細工のように優しく触れると、ヴィンセントは細い身体をゆっくりと抱き寄せて、彼女を腕の中に閉じ込めた。
 その包み込む温もりを、耳に届く少し速い鼓動を、ユフィは今でも鮮明に覚えている。
 自分のために変わる事は問題ではない、と言い切ったヴィンセントに、『愛されてるなぁ~』と胸がいっぱいになったユフィだったが、どうやら腹の虫はそれでは満足しないようで、空腹を知らせるために、ぐぅ~、と一つ、盛大に鳴いた。
「荷ほどきの前に、昼食にしよう」
 苦笑いを浮かべるユフィに、ヴィンセントは口元を緩めて優しく微笑んだ。
「う、うん!そーだね!」
 ユフィの返事に頷くと、ヴィンセントは立ち上がって荷物の山に向かい、その上に可愛らしく乗っていた、燃えるような紅葉を連想させる色をしている、ふっくらと膨らんだ風呂敷を手にすると、ユフィの隣に戻り、腰を下ろして包みを解いた。
「ユフィ」
 開いた包みの中から、早朝に握っておいたおにぎりを取り出して、少し大きめのものをユフィに手渡す。
「ん、アリガト」
 おにぎりを受け取ったユフィは、ヴィンセントが自身の分を手に取ったのを見計らってラップを剥がすと、「いっただっきまーす!」と言って、白米が輝くそれにかぶり付いた。
 汗をかいた空腹の身体に、おにぎりの仄かな塩気と米の甘味が染み渡る。
 まるでピクニックにでも来ているのかと思う程、楽しそうにモグモグとおにぎりを食べていたユフィだったが、隣に座り、ゆかりの混ざったおにぎりを黙々と食べるヴィンセントを見て、ふと、彼の今までの生活を振り返った。
 カオスに生命を奪われていた時から根なし草だったヴィンセントは、不老不死の力がなくなりしがらみから解放された後、カームに狭いながらも部屋を取った。
 始めこそ「屋根があれば何でも良い」と言い、ボロ屋敷のようなアパートに家具もなく住んでいた彼に、「コイツはホントーに大丈夫なのか?」と、事ある度に何かと気に掛けていたユフィだったが、次第に家具が増え始め、「ここは冬場は寒い」と引っ越しをして、ボロアパートから新築のアパート、そしてまた引っ越して、今度はジュノンのマンションへと、彼の住む部屋はどんどん変わって行った。
 ジュノンに越して来てからは人付き合いも徐々に変わり、始めは隊員たちと飲みに行くのを拒んでいたヴィンセントだったが、ユフィが連れて行くようになってからは、少しずつだが自ら足を向けるようになって行った。
 今思えば、人の輪の中に三十年ぶりに戻り、忘れてしまった色々な事を思い出し始めたヴィンセントにとって、ジュノンでの生活はこれからだったのかもしれない……。そう思うと、ユフィの心はチクリ、と傷んだ。
 ウータイに戻らねばならない事を、ヴィンセントは言わずとも理解していた。だから自分に合わせてウータイを選んだ事で、これからやりたいと考えていた数々の事を、もしかしたら諦めてしまったのかもしれない。
 ヴィンセントがユフィに告げた想いを疑っている訳ではない。ただ、自分に合わせて無理をしていないかと、それだけがユフィの心の中でしこりのようにこびり付いていた。
「……どうした?」
 いつの間にかおにぎりを食べ終わっていたヴィンセントが、今度は緑茶の入ったペットボトルの蓋を開けながら、物思いに耽っていたユフィの顔を見下ろしていた。
「疲れたのか?」
「え!?う、ううん!?ぜーんぜんヘーキ!」
 心配するヴィンセントに、ユフィは慌てて笑顔を取り繕って、持っていたおにぎりを口に頬張った。
 二人の生活はこれからだというのに、出だしから悲しませるような事はしたくない。
 そう思い何でもない風におにぎりを食べ続けていれば、不意に浮遊感を感じ、すとん、と着地した時には、ユフィはヴィンセントの膝の上に向かい合うようにして座っていた。
「……ユフィ。ウータイに渡る前に約束した事を、忘れた訳ではないな?」
「……」
「『不安な事、悲しい事、一人で抱え込まずに打ち明けて、共に乗り越えよう』と、約束した筈だ」
 婚約をして式の予定も決まり、ウータイに越すと準備をし始めた頃、今と同じように荷物に囲まれながら、確かにそう約束したと、ユフィは当時のヴィンセントの真剣な表情を思い出して、目の前で真っ直ぐ向けられる赤い瞳を、同じように見つめ返した。
「……そー見える?」
「見えないとでも?」
 ヴィンセントはハッキリとそう答えると、ユフィの額に己のそれを合わせて、触れた肌を擦り合わせるように首を数回横に振った。
「……ユフィ」
 さざ波のような優しい声に、ユフィは頬を膨らませる。
 そんな包み込むような雰囲気を醸し出されては、言わない選択肢を選べないではないか。
「……ヴィンセントはさ」
「うん」
「プハッ、『うん』だってっ」
「……」
「あははっ!ゴメンゴメン!!……あのさ、ヴィンセント……ムリ、してない?」
 星を守る戦いの旅から数えれば、もう大分長い付き合いになる。ここでしらばっくれてもヴィンセントは納得せず粘って来るだろうし、何より約束を破る事になってしまう。
 ならこの際スッキリしてしまおうと、笑った事で気持ちが少しばかり楽になった勢いで、考えていた通りの事をそのまま口にすれば、ヴィンセントは目を微かに見開くと、顔を離して小首を傾げた。
「……無理、とは?」
「ここはさ、ジュノンにあったものは何もないじゃん?ヴィンセントがあの街でやりたかった事も好きだった店も、ここには全部ない。あ、ヴィンセントの気持ちを疑ってるワケじゃないからね!?それはホントーだから!でも、でもさ、まだ向こうに居たかったとか、アタシに合わせて、アンタがガマンしてるんじゃないかって……」
 ユフィは告白するに連れ段々と居たたまれなくなり、ヴィンセントの視線から逃れるように、持ったままのおにぎりにかじり付いた。
 悪いことを言った訳ではないが、やはり返事を聞くのには勇気が必要だった。
「……ユフィ」
 ヴィンセントの大きな手の平がユフィの両頬を包み込み、優しくも拒否権を剥奪させて、逸らしていた視線を強制的に合わせる。
 その穏やかながらに真面目な瞳が、ヴィンセントの本気をひしひしと伝えて来る。
 ユフィはヴィンセントの眼差しにおにぎりと一緒に息を呑むと、彼の薄い唇が動き出すのをじっ、と待った。
「……確かに、あの街で試したい事は幾つか残っていた。だが以前言った通り、この先に待つ未来……ユフィと過ごすこのウータイでの生活の方が、私にとっては重要な事だ。この町でお前と共に歩めるのなら、私は本望だ。それに……」
 今度は鼻の頭を合わせて、擽るように触れ合わせる。
 ユフィの紅葉よりも真っ赤な顔に小さく笑うと、ヴィンセントはその続きを口にした。
「いつ、どんな時でも、何かを始められる事を私に教えたのはユフィ、お前だ。だからこの町でも、やりたい事、叶えたい事はきっと見つかる。だから、お前が気にする必要は何処にもない」
 ヴィンセントの言葉に、プロポーズをされた日の事が蘇る。
 ヴィンセントは当時も今も、“未来が大切だ”と言った。それは偽りの想いでもなければ彼の本心なのだと、ユフィはあの日しっかり受け取った筈だった。
「そっか……うん、そーだよねっ。一緒に探せば良いんだもんね!」
 険しい道もある分、楽しい事だってたくさん転がっている。後はそれらを一緒に探せば良い。ジュノンでお気に入りの場所やたくさんの思い出を作ったように、ここウータイでも、同じように作って行けば良いのだ。
 ヴィンセントの言葉に、何も心配する必要はなかったのだと改めて思い知り、同時に待っているであろう数々のこれからに胸を高鳴らせた。
「じゃあさ、ヴィンセントは、まず何がしたいの?」
 悩みが解消されたなら後は行動するまでで、持ち前の切り替わりを発揮してそう尋ねれば、ヴィンセントは「そうだな……」と暫く考えると、頬を包んでいた手を離し、徐にユフィの口の端を中指で拭った。
「……今夜は」
 その指を、ユフィの薄く開いていたそこに差し込んで、指先に付いた米粒を本人に食べさせる。それだけで彼が何を言わんとしているのか理解出来るものだから、ユフィはヴィンセントの続きを聞く前にニヤリ、と笑った。
「亀道楽に、食べに行こう」
「ゆっくり休めるように?」
 悪戯に笑いながらユフィが言えば、ヴィンセントは苦笑しながら彼女の頭を撫でると、膝から下ろして立ち上がった。
「だがその前に、荷ほどきが先だな」
 目の前の問題に戻り、山積みのままの荷物を眺めながら、ユフィは「あははっ!そーだね!」と笑った。
 これからのために、先ずはこの家を二人の色に染める事から始めよう。二人にとって、新たな道のスタートだ。
 ヴィンセントが食べ終わったおにぎりのラップなどを片付け始めたのを見ながら、ユフィも残りのおにぎりを口に詰め込んで、ヴィンセントの下へと小走りで向かった。

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