VY短編【もしも明日があるならば】(+CA,CT)
07.唇に想いを
連日雨が降り注いでいたジュノンの空は数日ぶりに雲一つなく晴れ渡り、コスタへと続く海辺では、キラキラと輝く海面を進む船の後を、数羽のカモメが風に乗って優雅に飛び交っていた。
明け放たれた窓からは穏やかな陽光が差し込み、それらは室内の白い壁に反射して、ユフィとヴィンセントがひょんな事から仲間として共同生活を始め、その関係は幾つかの出来事の果てに形を変え、恋人になった今でも変わらず暮らしている部屋を明るく照らし、そして優しく包み込んでいた。
連日の激務でなかなか一緒の時間を過ごすことの出来なかった二人は、やっと取れた休日、しかも数日というまとまった休みを、誰に邪魔されるでもなくじっくりと堪能していた。
そんな久しぶりに迎えた休日をまったりしながら過ごす中で、キッチンでコーヒーを淹れていたユフィは、カウンター越しにチラリ、とリビングを見ると、テレビの前に置かれているソファに座り、恋人が淹れるコーヒーを待ちながら読書をしているヴィンセントの姿を目に留めた。
本に視線を落とす瞳を睫毛で陰らせながら、背もたれにゆったりと身を任せ、少し脚を伸ばして組んでいる姿を見て、ユフィは湧き上がる緊張を解すようにハッ、と一つ、息を吐いた。
別におかしい事をしようとしている訳でもなければ、いつもの様に悪戯をけしかけようとしている訳でもない。
恋人なら誰もがする愛情表現を、本日ユフィは自ら進んで実行しようと意気込んでいた。
それを表すように、ユフィの唇は決意を表すように形よく引き締まっている。
(……よしっ!!)
両頬を軽く叩いて気合いを入れると、ユフィは二人分のコーヒーカップを手に持って、黙々と読書を続けるヴィンセントの下へと向かった。
人知れずヴィンセントへ恋心を抱いていたユフィは、始めこそ『芽生えた想いを摘み取ってしまおう』と、そう考えていた。
だって相手はヴィンセントだ。年齢も離れているのに加え、彼の想い人も知っている。
ユフィはディープ・グラウンド・ソルジャーとの戦いの時に自覚したヴィンセントへの恋心を知り、そして彼の想いを知っているが故に「アタシには無理だ」と、心の花が散り始めるのを感じた。
けれど悔しいかな、時間が経つとともに想いの蕾はどんどん増えては膨らんで行き、一つ、また一つと開花する度に、ユフィは益々ヴィンセントに惚れ込んで行った。
──こうなったら、やれるだけやってやろうじゃん!!
自分の気持ちにどうしても嘘が吐けなかったユフィは、それなら思い切って派手に当たって砕けてやろう、と、想いを新たに動き始めたのだった。
恋が叶うとは思わない。けれど潔く諦めるのも性に合わない。
そんな風に頑張っていたユフィの想いは、孤軍奮闘していた甲斐があったのか、ヴィンセントの心へしっかり届き抱き留められ、彼の応えで晴れて恋人同士となった。
そんな二人の始まりから早半年。
半年関係を続けていれば、愛情の証として唇を重ね合わせることは普通のことであり当然のこと……なのだが、誘うのも先に触れるのもいつもヴィンセントからで、歩んで来た人生の上で誰かと夢のような行為をする経験が無かったユフィは、彼の甘く熱い誘いを受けるだけで精一杯で、未だに自ら彼にキスをしたことがなかった。
そのことで、ヴィンセントがユフィに不満を言ってきたことは一度もない。 しかしそれは、今でも顔を真っ赤にして慌てふためく自分を気遣ってくれてのことだということを、ユフィ自身十分理解していた。
だからこそ「このままではダメだ!」と、常日頃から思っていたユフィは、休日のゆったりとした時間を楽しみながら読書を続けるヴィンセントの、形の整った薄く綺麗な唇をこっそりと盗み見ながら、「やるなら今だ!」と決意を固め、テーブルにコーヒーを置くと、ソファに座っていた彼の隣に、ボスッ、と品のない音を立てて腰を下ろした。
「ありがとう」
「うぇっ!あ……う、うん!!」
隣に座った恋人に目を向け、コーヒーを淹れた事への礼を言うヴィンセントの優しい微笑みに、ユフィの心拍数は一気に上昇する。
思い立ったら直ぐ行動に移すのが自身でも評価出来る長所ではあったが、いざ行動に出ると心臓が爆発しそうになり、思うように身体が、脳が、言うことを聞いてくれない。
(しっかりしろ!ユフィ・キサラギ!!アンタはスーパー忍だろ!?)
忍なことと恋人とのあれこれに関係は無いが知ったことではない。
今は自分よりも強い敵に声高らかに挑みに行く、ウータイに咲く一輪の花の力が必要なのだ。
そうだその意気だ!と、何度も頷きながら、今回のミッションのために決めていた行動を、頭の中で何度も繰り返しイメージしていたユフィだったが、案の定いつもと違う態度に気付いたヴィンセントが、先程よりもしっかりとユフィを見つめ、小首を傾げて様子を窺ってきた。
「……どうした?ユフィ」
静かな声で、しかしはっきりとヴィンセントが尋ねてくる。
「へ!?イヤあの……ナニ、も?」
明らかに同様している様子に、ヴィンセントはユフィの顔を覗き込んで、彼女の黒曜石の瞳をじっと見つめた。
深紅の薔薇のような色を持つ瞳
筋の通った形の良い鼻
透き通るような色白の肌
以前より大分血色の良くなった薄い唇……
ヴィンセントを形成する全てが自分に向いているのを感じ取った瞬間、途端にユフィの鼓動が大きく跳ね、一気に頬に熱が集中した。
恋や愛を知らなかった自分にそれらを教えてくれた、大切で大好きな者に見つめられ平常心を保っていられる程、ユフィは忍耐強くはない。
「……ユフィ?」
徐に伸びてきた手が、真っ赤なりんごのようになっているユフィの頬に触れ、果実の表面を包むようにふわり、と撫でる。
(うわぁぁぁそれやめろよぉ~!!)
緊張のせいで呼吸は苦しく軽く眩暈さえ覚えるのに、それに加えて親密な関係ならではの接し方をされ、『心臓に悪いじゃんか!!』と内心叫ばずにはいられなかった。
「あ、あの、ヴィン……!!」
「……熱でもあるのか?」
「なんでだよっ!!」
思わず突っ込みを入れてしまったユフィが、はっ!となって我に返れば、目の前には口と目を開いて呆けた表情を浮かべるヴィンセントの端正な顔があった。
──し、しまった……
ムードも何もあったものではない。
流れどころかスタートもわからなくなってしまったユフィは、固まっているヴィンセント同様、石化したように硬直して動けなくなってしまった。
(どどどどどどどーしよっ!?)
聳えるダチャオ像のように動かない身体とは裏腹に、その内で燃え盛る炎のように脳は忙しなく働く。
(で、出直した方がいーかな……)
この雰囲気の欠片もない状況から、そんなバニラアイスのように甘く蕩けそうなムードを作るなど、経験のない自分には到底不可能だ、と、半ば逃げ出しそうになっているユフィだった……が、彼女の瞳はヴィンセントから外れる事なく真っ直ぐ向いていた。
それはヴィンセントも同じで、時に優しく、時に情熱的にその瞬間へ誘う、ユフィしか見る事のない熱がこもった瞳はしていなかったが、その赤い瞳はユフィ以外を写す事なく彼女に向けられていた。
──もう……もう、どーにでもなれ!!
照れ臭さはある。敵前逃亡しそうな程の緊張もしている。けれど本から顔を上げ、わざわざ自ら顔を寄せに来ているこの好機を無駄にするわけにはいかない。
ユフィは一つ深呼吸をすると、何も言わない彼女を見つめていたヴィンセントの懐にボスン、と、ソファに腰掛けた時のように品もなく飛び込んだ。
「ユフィ?」
キョトン、とした彼の声が降ってきて、耳に届いた低く安定した声に、ユフィはふるり、と、一つ身を震わせた。
背に回る腕の心地良さに、頬に触れる布越しの胸板の厚さに、相変わらず心臓はバクバクと暴れているが、ああ……好きだな、と、安心感にも似た感情を再認識した。
声も、瞳も、彼が卑下する傷だらけの逞しい身体も、過去に傷付いた心も、ヴィンセント・ヴァレンタインの全てが大好きだ、と、ユフィは改めてそう思った。
その相手に、自分を欲してくれる恋人に、言葉にせずとも喜んでもらおうと思う事は、何らおかしい事ではない。
キッチンでヴィンセントの姿を見た時の決意を取り戻したユフィは、頬の火照りを感じながら、背伸びをするようにヴィンセントの顔目掛けて上体を上げると、いつもは拝めない彼の首にスルリ、と腕を回した。
「ああ、熱か……うーん。どーだろ?」
──測ってみてっ
そう口にする前に、いつも優しく愛情を伝えてくれる、目の前にある薄く開いた唇に、思い切って己の唇を重ねた。
勢い余って狙いが外れ、口の端に口付けてしまった事に苦笑しながら、少しずらして、己のものとは弾力も温もりも違うそれの中心に触れる。
自ら唇に触れたクセに蕩けそうになるのをぐっ、と堪えながら、ユフィはいつも自身が受けている全てをヴィンセントに伝えた。
(ん~……変わんないやっ)
ユフィはヴィンセントのひんやりとした唇を感じながら、こうして触れ合うようになってから今まで抱え込んでいた疑問に、うっすらと口角を上げて小さく笑った。
キスを「する」のと「される」のとでは、やっぱり感じかたは違うのだろうか……と、ユフィはヴィンセントとキスを交わしながら何度か考えたことがあった。
けれど毎度の如く深くなるヴィンセントの口付けに次第に意識を奪われ、考えていたことなど情熱の波に呑まれて消えてしまい、長く短いキスが終わっても、その問いは結局分からず終いになっていた。
そして今も、口付けをしながら考えてみたけれど結論は出ず、おまけにどうでもよくなってしまった。
愛する人と、唇を重ねる。
その幸福を感じていれば良いのだと、ヴィンセントに触れながらユフィはそう思った。
(ヴィンセントは、どう感じてるんだろ……)
自分と同じように、キスをして、想いを肌で受けて、甘い幸せを感じているのだろうか。
そんな恋人の想いが気になって、ヴィンセントの様子を窺うために、ユフィはうっすらと瞼を上げてみた……が、想像していたものとはかけ離れた光景に、彼女は思わず目を見開き、目の前にある彼の顔を凝視した。
(……はい?)
あまりの夢のない表情に、ユフィは眉を寄せる。
ヴィンセントは――真顔だった。
(えぇ~……ちょっと、マジで?)
顔を赤らめるでもなく、驚いて目を見開くでもなく、だからといって幸せを感じているわけでもなさそうな、ユフィが見馴れた、ヴィンセントのいつもの無表情があっただけであった。
(……チェッ。何だよ、その顔)
愛情の熱が冷めていくのと同時に、憤怒の炎がユフィの中で次々と燃え広がっていく。
(こっちは心臓が止まるんじゃないかと思うぐらいキンチョーしたのにっ)
初めて自分からキスをしたというのに、無反応とは一体どういう事なのか。
せめて少しくらい変化を見せてくれても良いではないか……と、半ば理不尽にも似た怒りに胸が締め付けられる。
(もう……いーや)
振り絞った勇気が無駄に思え、ユフィはそっと唇を離し『気持ちよくなくて悪かったなっ!!』と、胸中で悪態を吐くと、ヴィンセントに背を向け立ち上がろうとした。
しかしその時――
「うわっ!!ヴィ、ヴィンセント!?」
背後から伸びてきた手はユフィの滑らかな曲線を描く腰を捕らえ、そのまま力強く後ろに引っ張ったかと思えば、次の瞬間には既にヴィンセントの腕の中に戻されていた。
「なっ、今更ナニさっ!!」
放せ放せ!!と、ヴィンセントの逞しい腕をベチベチと叩きながら逃げ出そうとするユフィの小さな耳に、今しがた己の唇で触れて感じていたものが当てられた。
「……自ら仕掛けておきながらそれはないだろう」
耳に触れる吐息と伝わってくる振動に、不覚にも背中にビリリ、と甘い電流が流れ、ユフィは思わず身体を震わせた。
ヴィンセントの唇は先程のヒヤリとした低温から一転、自分の頬よりも熱いのでは?と思うほどの熱を発している。
大手裏剣を振り回すように力を入れて、腰に回るヴィンセントの腕を押そうともびくともしない。
「……ユフィ」
名を呼ぶ声音はどことなく楽しそうな雰囲気まで混じっており、これ以上抵抗してもヴィンセントを楽しませるだけだ、と悟ったユフィは、暴れるのを止めると、観念してその身をヴィンセントに預けた。
「だって……なんの反応もなかったんだもん」
膨れっ面をしてつっけんどんな態度で告白する。子どもの様な言い方しか出来ない自分自身にほとほと呆れたユフィだったが、ヴィンセントは彼女の耳輪に一つキスを落とすと、「すまない」と詫びた 。
「余りにも唐突だったものでな」
「アンタだって人を誘う時にはトートツだろっ」
「その割には応えが早いな」
ヴィンセントはうっすらと生える産毛が陽の光を受けて浮かび上がるそこに再び唇で触れると、軽く挟んでその弾力を楽しむように引っ張った。
「……ズルい」
耳たぶを弄られる刺激にぐずぐずとした感覚を覚えながら、吐息混じりに訴える。
「私が?」
「他に誰がいるんだよ!!ほーんとズルい!ズルいヤツ!!」
ズルいズルい!と連呼しながらも、彼が何も感じていなかった訳ではなかった事実に嬉しさを感じながら、未だ与えられる刺激に身を捩った。
(まったくも~っ!嬉しいなら嬉しいって言えっつーのっ)
怒って損した、と、ユフィは先程まで沸いていた怒りに苦笑した。
どんなに怒って憤慨していても、彼の言葉や仕草、嘘偽りのない想いを前にすると、惚れた弱味か、どう足掻いても甘くなってしまい、ユフィは「やっぱりヴィンセントには敵わない」と痛感した。
「……ところで、ユフィ」
「ん?なに……」
返事をしたのも束の間、人を閉じ込めて捕まえていた腕に力が入り多少の痛みを感じた瞬間、ユフィの視界がグルリと回転した。
「うわわっ!!」
急な動きに咄嗟にヴィンセントに抱き付いてバランスを取る。
一体何が起きたのか理解出来ずにいれば、その勢いは直ぐに止まり、ふと気が付けば、ソファーに仰向けになっているヴィンセントの上に跨がるように乗っ掛かっていた。
「はぁ!?ちょ、ちょっとナニしてんのさ!!」
驚いて起き上がるも、ヴィンセントを跨ぐようにして見下ろす体勢に、先程よりも更に恥ずかしさが強まるだけであった。
自分の下で横になっているヴィンセントを見下ろしながら、あまりの体勢に口をパクパクさせているユフィの唇を、下から伸びてきた長く細い指が優しく撫でる。
「今ので終わり……では無いのだろう?」
口に緩やかな曲線を描いて微笑む彼の表情と行動に、全身がカッと熱くなる。
「え、えへっ?なな、なんのこと?」
しらを切ろうとするも、漂う色香に自然と目が泳ぐ。
有無を言わせない言動と、誘うように見つめてくる、深みを増したヴィンセントの紅い瞳に射ぬかれて降参しそうになるものの、このまま屈するのも悔しく思い、せめてもの反抗の意味も込めて完全にそっぽを向けば、ユフィの唇をなぞっていた指がピタリ、と止まると、あっさりとそこから離れて行った。
(お?やけに素直に……!?)
そう思ったのもつかの間。
今度はショートパンツから伸びている剥き出しの太腿を、指先で付け根に向かいながら焦らすようになぞり始めた。
「ちょっ!!ヴィンセント!!」
慌ててヴィンセントの手を掴んでキッ、と睨み付けるが、当の本人は「それで?」とでも言うようにユフィを見上げて、彼女に追い込みをかける。
「わ、わかったよ!!やればいいんでしょやれば!!」
もうこれ以上は無理だ。色んな意味で身が持たない。
根負けしたユフィはボスンッ、とヴィンセントの上に倒れると、「しょうがないなぁ」と、照れ隠しに上から目線の言葉を口にして、彼の顔の両側に手を突いて顔を近付けた。
「目……閉じてよね」
ぶっきらぼうに言ったユフィに何を思ったのか、ヴィンセントは薄く笑った後に静かに瞼を閉じた。
(ホント……ズルいヤツ)
深紅の瞳が瞼の向こうに隠れたのを確認してから、ユフィはゆっくりと顔を寄せた。
──大好きだよ、このバカ
想いを込めながら、ユフィはヴィンセントの唇にそっと口付けた。
連日雨が降り注いでいたジュノンの空は数日ぶりに雲一つなく晴れ渡り、コスタへと続く海辺では、キラキラと輝く海面を進む船の後を、数羽のカモメが風に乗って優雅に飛び交っていた。
明け放たれた窓からは穏やかな陽光が差し込み、それらは室内の白い壁に反射して、ユフィとヴィンセントがひょんな事から仲間として共同生活を始め、その関係は幾つかの出来事の果てに形を変え、恋人になった今でも変わらず暮らしている部屋を明るく照らし、そして優しく包み込んでいた。
連日の激務でなかなか一緒の時間を過ごすことの出来なかった二人は、やっと取れた休日、しかも数日というまとまった休みを、誰に邪魔されるでもなくじっくりと堪能していた。
そんな久しぶりに迎えた休日をまったりしながら過ごす中で、キッチンでコーヒーを淹れていたユフィは、カウンター越しにチラリ、とリビングを見ると、テレビの前に置かれているソファに座り、恋人が淹れるコーヒーを待ちながら読書をしているヴィンセントの姿を目に留めた。
本に視線を落とす瞳を睫毛で陰らせながら、背もたれにゆったりと身を任せ、少し脚を伸ばして組んでいる姿を見て、ユフィは湧き上がる緊張を解すようにハッ、と一つ、息を吐いた。
別におかしい事をしようとしている訳でもなければ、いつもの様に悪戯をけしかけようとしている訳でもない。
恋人なら誰もがする愛情表現を、本日ユフィは自ら進んで実行しようと意気込んでいた。
それを表すように、ユフィの唇は決意を表すように形よく引き締まっている。
(……よしっ!!)
両頬を軽く叩いて気合いを入れると、ユフィは二人分のコーヒーカップを手に持って、黙々と読書を続けるヴィンセントの下へと向かった。
人知れずヴィンセントへ恋心を抱いていたユフィは、始めこそ『芽生えた想いを摘み取ってしまおう』と、そう考えていた。
だって相手はヴィンセントだ。年齢も離れているのに加え、彼の想い人も知っている。
ユフィはディープ・グラウンド・ソルジャーとの戦いの時に自覚したヴィンセントへの恋心を知り、そして彼の想いを知っているが故に「アタシには無理だ」と、心の花が散り始めるのを感じた。
けれど悔しいかな、時間が経つとともに想いの蕾はどんどん増えては膨らんで行き、一つ、また一つと開花する度に、ユフィは益々ヴィンセントに惚れ込んで行った。
──こうなったら、やれるだけやってやろうじゃん!!
自分の気持ちにどうしても嘘が吐けなかったユフィは、それなら思い切って派手に当たって砕けてやろう、と、想いを新たに動き始めたのだった。
恋が叶うとは思わない。けれど潔く諦めるのも性に合わない。
そんな風に頑張っていたユフィの想いは、孤軍奮闘していた甲斐があったのか、ヴィンセントの心へしっかり届き抱き留められ、彼の応えで晴れて恋人同士となった。
そんな二人の始まりから早半年。
半年関係を続けていれば、愛情の証として唇を重ね合わせることは普通のことであり当然のこと……なのだが、誘うのも先に触れるのもいつもヴィンセントからで、歩んで来た人生の上で誰かと夢のような行為をする経験が無かったユフィは、彼の甘く熱い誘いを受けるだけで精一杯で、未だに自ら彼にキスをしたことがなかった。
そのことで、ヴィンセントがユフィに不満を言ってきたことは一度もない。 しかしそれは、今でも顔を真っ赤にして慌てふためく自分を気遣ってくれてのことだということを、ユフィ自身十分理解していた。
だからこそ「このままではダメだ!」と、常日頃から思っていたユフィは、休日のゆったりとした時間を楽しみながら読書を続けるヴィンセントの、形の整った薄く綺麗な唇をこっそりと盗み見ながら、「やるなら今だ!」と決意を固め、テーブルにコーヒーを置くと、ソファに座っていた彼の隣に、ボスッ、と品のない音を立てて腰を下ろした。
「ありがとう」
「うぇっ!あ……う、うん!!」
隣に座った恋人に目を向け、コーヒーを淹れた事への礼を言うヴィンセントの優しい微笑みに、ユフィの心拍数は一気に上昇する。
思い立ったら直ぐ行動に移すのが自身でも評価出来る長所ではあったが、いざ行動に出ると心臓が爆発しそうになり、思うように身体が、脳が、言うことを聞いてくれない。
(しっかりしろ!ユフィ・キサラギ!!アンタはスーパー忍だろ!?)
忍なことと恋人とのあれこれに関係は無いが知ったことではない。
今は自分よりも強い敵に声高らかに挑みに行く、ウータイに咲く一輪の花の力が必要なのだ。
そうだその意気だ!と、何度も頷きながら、今回のミッションのために決めていた行動を、頭の中で何度も繰り返しイメージしていたユフィだったが、案の定いつもと違う態度に気付いたヴィンセントが、先程よりもしっかりとユフィを見つめ、小首を傾げて様子を窺ってきた。
「……どうした?ユフィ」
静かな声で、しかしはっきりとヴィンセントが尋ねてくる。
「へ!?イヤあの……ナニ、も?」
明らかに同様している様子に、ヴィンセントはユフィの顔を覗き込んで、彼女の黒曜石の瞳をじっと見つめた。
深紅の薔薇のような色を持つ瞳
筋の通った形の良い鼻
透き通るような色白の肌
以前より大分血色の良くなった薄い唇……
ヴィンセントを形成する全てが自分に向いているのを感じ取った瞬間、途端にユフィの鼓動が大きく跳ね、一気に頬に熱が集中した。
恋や愛を知らなかった自分にそれらを教えてくれた、大切で大好きな者に見つめられ平常心を保っていられる程、ユフィは忍耐強くはない。
「……ユフィ?」
徐に伸びてきた手が、真っ赤なりんごのようになっているユフィの頬に触れ、果実の表面を包むようにふわり、と撫でる。
(うわぁぁぁそれやめろよぉ~!!)
緊張のせいで呼吸は苦しく軽く眩暈さえ覚えるのに、それに加えて親密な関係ならではの接し方をされ、『心臓に悪いじゃんか!!』と内心叫ばずにはいられなかった。
「あ、あの、ヴィン……!!」
「……熱でもあるのか?」
「なんでだよっ!!」
思わず突っ込みを入れてしまったユフィが、はっ!となって我に返れば、目の前には口と目を開いて呆けた表情を浮かべるヴィンセントの端正な顔があった。
──し、しまった……
ムードも何もあったものではない。
流れどころかスタートもわからなくなってしまったユフィは、固まっているヴィンセント同様、石化したように硬直して動けなくなってしまった。
(どどどどどどどーしよっ!?)
聳えるダチャオ像のように動かない身体とは裏腹に、その内で燃え盛る炎のように脳は忙しなく働く。
(で、出直した方がいーかな……)
この雰囲気の欠片もない状況から、そんなバニラアイスのように甘く蕩けそうなムードを作るなど、経験のない自分には到底不可能だ、と、半ば逃げ出しそうになっているユフィだった……が、彼女の瞳はヴィンセントから外れる事なく真っ直ぐ向いていた。
それはヴィンセントも同じで、時に優しく、時に情熱的にその瞬間へ誘う、ユフィしか見る事のない熱がこもった瞳はしていなかったが、その赤い瞳はユフィ以外を写す事なく彼女に向けられていた。
──もう……もう、どーにでもなれ!!
照れ臭さはある。敵前逃亡しそうな程の緊張もしている。けれど本から顔を上げ、わざわざ自ら顔を寄せに来ているこの好機を無駄にするわけにはいかない。
ユフィは一つ深呼吸をすると、何も言わない彼女を見つめていたヴィンセントの懐にボスン、と、ソファに腰掛けた時のように品もなく飛び込んだ。
「ユフィ?」
キョトン、とした彼の声が降ってきて、耳に届いた低く安定した声に、ユフィはふるり、と、一つ身を震わせた。
背に回る腕の心地良さに、頬に触れる布越しの胸板の厚さに、相変わらず心臓はバクバクと暴れているが、ああ……好きだな、と、安心感にも似た感情を再認識した。
声も、瞳も、彼が卑下する傷だらけの逞しい身体も、過去に傷付いた心も、ヴィンセント・ヴァレンタインの全てが大好きだ、と、ユフィは改めてそう思った。
その相手に、自分を欲してくれる恋人に、言葉にせずとも喜んでもらおうと思う事は、何らおかしい事ではない。
キッチンでヴィンセントの姿を見た時の決意を取り戻したユフィは、頬の火照りを感じながら、背伸びをするようにヴィンセントの顔目掛けて上体を上げると、いつもは拝めない彼の首にスルリ、と腕を回した。
「ああ、熱か……うーん。どーだろ?」
──測ってみてっ
そう口にする前に、いつも優しく愛情を伝えてくれる、目の前にある薄く開いた唇に、思い切って己の唇を重ねた。
勢い余って狙いが外れ、口の端に口付けてしまった事に苦笑しながら、少しずらして、己のものとは弾力も温もりも違うそれの中心に触れる。
自ら唇に触れたクセに蕩けそうになるのをぐっ、と堪えながら、ユフィはいつも自身が受けている全てをヴィンセントに伝えた。
(ん~……変わんないやっ)
ユフィはヴィンセントのひんやりとした唇を感じながら、こうして触れ合うようになってから今まで抱え込んでいた疑問に、うっすらと口角を上げて小さく笑った。
キスを「する」のと「される」のとでは、やっぱり感じかたは違うのだろうか……と、ユフィはヴィンセントとキスを交わしながら何度か考えたことがあった。
けれど毎度の如く深くなるヴィンセントの口付けに次第に意識を奪われ、考えていたことなど情熱の波に呑まれて消えてしまい、長く短いキスが終わっても、その問いは結局分からず終いになっていた。
そして今も、口付けをしながら考えてみたけれど結論は出ず、おまけにどうでもよくなってしまった。
愛する人と、唇を重ねる。
その幸福を感じていれば良いのだと、ヴィンセントに触れながらユフィはそう思った。
(ヴィンセントは、どう感じてるんだろ……)
自分と同じように、キスをして、想いを肌で受けて、甘い幸せを感じているのだろうか。
そんな恋人の想いが気になって、ヴィンセントの様子を窺うために、ユフィはうっすらと瞼を上げてみた……が、想像していたものとはかけ離れた光景に、彼女は思わず目を見開き、目の前にある彼の顔を凝視した。
(……はい?)
あまりの夢のない表情に、ユフィは眉を寄せる。
ヴィンセントは――真顔だった。
(えぇ~……ちょっと、マジで?)
顔を赤らめるでもなく、驚いて目を見開くでもなく、だからといって幸せを感じているわけでもなさそうな、ユフィが見馴れた、ヴィンセントのいつもの無表情があっただけであった。
(……チェッ。何だよ、その顔)
愛情の熱が冷めていくのと同時に、憤怒の炎がユフィの中で次々と燃え広がっていく。
(こっちは心臓が止まるんじゃないかと思うぐらいキンチョーしたのにっ)
初めて自分からキスをしたというのに、無反応とは一体どういう事なのか。
せめて少しくらい変化を見せてくれても良いではないか……と、半ば理不尽にも似た怒りに胸が締め付けられる。
(もう……いーや)
振り絞った勇気が無駄に思え、ユフィはそっと唇を離し『気持ちよくなくて悪かったなっ!!』と、胸中で悪態を吐くと、ヴィンセントに背を向け立ち上がろうとした。
しかしその時――
「うわっ!!ヴィ、ヴィンセント!?」
背後から伸びてきた手はユフィの滑らかな曲線を描く腰を捕らえ、そのまま力強く後ろに引っ張ったかと思えば、次の瞬間には既にヴィンセントの腕の中に戻されていた。
「なっ、今更ナニさっ!!」
放せ放せ!!と、ヴィンセントの逞しい腕をベチベチと叩きながら逃げ出そうとするユフィの小さな耳に、今しがた己の唇で触れて感じていたものが当てられた。
「……自ら仕掛けておきながらそれはないだろう」
耳に触れる吐息と伝わってくる振動に、不覚にも背中にビリリ、と甘い電流が流れ、ユフィは思わず身体を震わせた。
ヴィンセントの唇は先程のヒヤリとした低温から一転、自分の頬よりも熱いのでは?と思うほどの熱を発している。
大手裏剣を振り回すように力を入れて、腰に回るヴィンセントの腕を押そうともびくともしない。
「……ユフィ」
名を呼ぶ声音はどことなく楽しそうな雰囲気まで混じっており、これ以上抵抗してもヴィンセントを楽しませるだけだ、と悟ったユフィは、暴れるのを止めると、観念してその身をヴィンセントに預けた。
「だって……なんの反応もなかったんだもん」
膨れっ面をしてつっけんどんな態度で告白する。子どもの様な言い方しか出来ない自分自身にほとほと呆れたユフィだったが、ヴィンセントは彼女の耳輪に一つキスを落とすと、「すまない」と詫びた 。
「余りにも唐突だったものでな」
「アンタだって人を誘う時にはトートツだろっ」
「その割には応えが早いな」
ヴィンセントはうっすらと生える産毛が陽の光を受けて浮かび上がるそこに再び唇で触れると、軽く挟んでその弾力を楽しむように引っ張った。
「……ズルい」
耳たぶを弄られる刺激にぐずぐずとした感覚を覚えながら、吐息混じりに訴える。
「私が?」
「他に誰がいるんだよ!!ほーんとズルい!ズルいヤツ!!」
ズルいズルい!と連呼しながらも、彼が何も感じていなかった訳ではなかった事実に嬉しさを感じながら、未だ与えられる刺激に身を捩った。
(まったくも~っ!嬉しいなら嬉しいって言えっつーのっ)
怒って損した、と、ユフィは先程まで沸いていた怒りに苦笑した。
どんなに怒って憤慨していても、彼の言葉や仕草、嘘偽りのない想いを前にすると、惚れた弱味か、どう足掻いても甘くなってしまい、ユフィは「やっぱりヴィンセントには敵わない」と痛感した。
「……ところで、ユフィ」
「ん?なに……」
返事をしたのも束の間、人を閉じ込めて捕まえていた腕に力が入り多少の痛みを感じた瞬間、ユフィの視界がグルリと回転した。
「うわわっ!!」
急な動きに咄嗟にヴィンセントに抱き付いてバランスを取る。
一体何が起きたのか理解出来ずにいれば、その勢いは直ぐに止まり、ふと気が付けば、ソファーに仰向けになっているヴィンセントの上に跨がるように乗っ掛かっていた。
「はぁ!?ちょ、ちょっとナニしてんのさ!!」
驚いて起き上がるも、ヴィンセントを跨ぐようにして見下ろす体勢に、先程よりも更に恥ずかしさが強まるだけであった。
自分の下で横になっているヴィンセントを見下ろしながら、あまりの体勢に口をパクパクさせているユフィの唇を、下から伸びてきた長く細い指が優しく撫でる。
「今ので終わり……では無いのだろう?」
口に緩やかな曲線を描いて微笑む彼の表情と行動に、全身がカッと熱くなる。
「え、えへっ?なな、なんのこと?」
しらを切ろうとするも、漂う色香に自然と目が泳ぐ。
有無を言わせない言動と、誘うように見つめてくる、深みを増したヴィンセントの紅い瞳に射ぬかれて降参しそうになるものの、このまま屈するのも悔しく思い、せめてもの反抗の意味も込めて完全にそっぽを向けば、ユフィの唇をなぞっていた指がピタリ、と止まると、あっさりとそこから離れて行った。
(お?やけに素直に……!?)
そう思ったのもつかの間。
今度はショートパンツから伸びている剥き出しの太腿を、指先で付け根に向かいながら焦らすようになぞり始めた。
「ちょっ!!ヴィンセント!!」
慌ててヴィンセントの手を掴んでキッ、と睨み付けるが、当の本人は「それで?」とでも言うようにユフィを見上げて、彼女に追い込みをかける。
「わ、わかったよ!!やればいいんでしょやれば!!」
もうこれ以上は無理だ。色んな意味で身が持たない。
根負けしたユフィはボスンッ、とヴィンセントの上に倒れると、「しょうがないなぁ」と、照れ隠しに上から目線の言葉を口にして、彼の顔の両側に手を突いて顔を近付けた。
「目……閉じてよね」
ぶっきらぼうに言ったユフィに何を思ったのか、ヴィンセントは薄く笑った後に静かに瞼を閉じた。
(ホント……ズルいヤツ)
深紅の瞳が瞼の向こうに隠れたのを確認してから、ユフィはゆっくりと顔を寄せた。
──大好きだよ、このバカ
想いを込めながら、ユフィはヴィンセントの唇にそっと口付けた。