VY短編【もしも明日があるならば】(+CA,CT)

06.甘くて酸っぱいふわふわしたもの


 日中青々とした空の色を写していた海は、星が瞬く夜空の色を溶かしたように漆黒に染まり、心地良いさざ波の音をジュノンの街に届けている。
 対する街には明かりが灯り、煌々と輝くそれらは闇夜を受け付けない程街中を華やかに彩っていた。
 そんなジュノンの街角にある、小さくも評判の良い、メテオ騒動の時から存在しているパンケーキショップで、ユフィとヴィンセントは少し早めの夕食を取ろうとしていた。
「……先食べなよ」
 先に運ばれて来たオレンジジュースを飲みながら、テーブルを挟んで座る恋人にユフィが進める。
「いや……待つ」
 対するヴィンセントも、眉を寄せて彼女の進言を断った。
 ヴィンセントの目の前には彼が注文したアボカドとサーモンのパンケーキが既に配膳されており、後はユフィの注文した、ホイップクリームと苺がふんだんに使われたパンケーキを待つばかりであった。
「せーっかく温かい状態で出てきたんだからさっ!アタシのももーそろそろ来ると思うし、気にしないで食べなって!」
 先にヴィンセントのパンケーキが出てきたものの、ユフィのパンケーキが来ない事を気にして、ヴィンセントは一向にユフィのために食べずに待っている。それはユフィが何度進めても同じで、意外に頑固な一面を見せるヴィンセントに、ユフィも徐々にムキになり始めていた。
「……私のは冷たい方が美味なのだが」
「細かいことはどーだって良いんだよ!アタシが良いよって言ってるんだから良いんだって!」
「しかし……」
 まるで叱られた仔犬のように、シュン……と落ち込むヴィンセントに、不覚にも『そんな顔すんなよ~!』と、キュッ、と締め付けられる胸の痛みに胸中で悶え苦しんだ。
 ユフィはこのパンケーキショップが大好きだ。苦いコーヒーが苦手なユフィでも飲める甘めのコーヒーが食後に提供されていたり、この店自慢のパンケーキは、ナイフを入れれば僅かな力も必要なく切れる程ふわふわとしていて、味も甘いものから塩辛いものまで種類は豊富だった。
 それはユフィだけでなくヴィンセントも同じで、付き合う前から二人は何かとこの店に食事をしに来ていた。
 だからヴィンセントに出来立てを食べてほしいという思いは事実で、周囲に人も少ない事から先に食べる事を進めているのだが、もう一つ、ユフィには目的があった。

(アタシのが来てからじゃ、アンタの食べる姿が堪能出来ないだろ~!?)

 渋るヴィンセントに胸中で叫ぶ。
 付き合ってから……いや、それ以上前、ヴィンセントがWROに加入して同じ諜報員として活動するようになってからというもの、ユフィはヴィンセントが飲食をする姿を眺めるのが大好きになっていた。
 ナイフやフォークを持つ手付き、音も立てずに食事を切る滑らかな動き、口元に運ぶ流れはユフィを虜にさせる。
 だが自分が食事を始めてしまうと、目の前にある大好きなものを食べる事に夢中になってしまい、気が付いた時にはヴィンセントは既に食べ終わっている状態という事が殆どで、そのうっとりとする仕草を十分に観察する事が出来ずにいた。
 だから今回、自身の分がまだ運ばれて来ない事をチャンスだと思い、この絶好の機会を逃すまい、と、ヴィンセントに先に食べるよう促しているのだが、ヴィンセントはなかなか食事に手を付けずにいた。
「アタシのことは気にしなくていーからさっ!」
「……いや、待つ」
「アタシはいっちばん美味しい状態で食べてほしいんだってば!周りもそんなに人いないし、人目とか気にしないでいーからさっ、だからエンリョすんなって!」
「……しかし」
 何度も繰り返すこのやり取りに、自分の料理が運ばれて来てしまう焦りが徐々に強くなって行く。
 しかしこんなところで諦めるユフィでもない。
(ちょーっとタチ悪いけど……ゴメン!ヴィンセント。アンタをじっくり観察するチャンスなんだ!)
 使いたくはなかったがこの際仕方がない。
 ユフィは抱えていた案を使う決心をすると、一体何を言い出すのか……と、若干身構えているように見えるヴィンセントに向かって挑戦的に言い放った。
「じゃあさ、ジャンケンで決めよ!アタシが勝ったら素直に食べてよねっ」
 得意気な笑顔を浮かべながら、目の前で明らかに嫌そうな渋い顔をしているヴィンセントを見据える。
 既に勝ったも同然な勝負に、ユフィは『ゴメン、ヴィンセント』と再び謝りながらも、まるで商談しに来た悪徳業者のようにニヤリ、と笑った。
 ユフィは過去に一度も、ヴィンセントとジャンケンで負けた事がなかった。
 相手はヴィンセントだ。自分が出すであろう手は十分わかっている筈。けれどヴィンセントは一度も勝つ手を出さず、ユフィに勝利を譲っている。
 いつもは『わざと負けたりすんな!』と怒るユフィだが、今回に限っては知ったことではない。
 ヴィンセントの食事風景を拝められるのなら、どんな姑息な手も使うつもりだった。
「……ことわ」
「はい!ジャーンケーンぽいっ!!」
 四の五の言わさず強行突破を決めたユフィの拳は、案の定ヴィンセントの二本指を制して勝利を納めた。
「へっへーん、アタシの勝ち!」
 ジト目で見つめて来るヴィンセントの視線を無視して、満面の笑みを浮かべる。
 言いたい事はわかるが今回ばかりは許してくれ、と、何度も謝りながらも、待ち受けている至福の時に突き進んだ。
「はい、アタシが勝ったんだから、どーぞ召し上がって下さい?」
 おあずけを喰らった分、今から美味しい思いが出来る、という気持ちを滲ませながら最終通告をすれば、ヴィンセントは諦めたように一つ溜め息を吐くと、フォークとナイフを持って「では、先に頂く」と告げて、フォークの先をパンケーキに軽く当てると、ナイフを入れて音も無く切り始めた。
(はぁ~……)
 一口分に切ったパンケーキにアボカドとサーモンを乗せて、薄い唇が開いた先へ入れては咀嚼する姿を真っ正面から見つめ、ユフィは感動の溜め息を吐いた。
(ホント……キレイだなぁ)
 フォークに刺して、口に運んで、噛んで飲み込む。自分でも行う単純な行為でも、ヴィンセントがすれば途端に色が付き、まるで歴史に残る色褪せない絵画を見ているような気にさえなってくる。
 いつだったか、『美人は三日で飽きる』と聞いた事があった。だがユフィは、そんな戯言など、笑いながらデコピンで弾く勢いであった。
(美人だって、ず~っと見てられるし……)
 付き合う前から惚れ込んで、そして付き合って数ヶ月経った今も、その想いは深くなるばかりだった。
「……ユフィ?」
「へ?なに?」
「いや、視線が……」
 モグモグと動いていたと思っていた口が、ユフィの名を不思議そうに呼び、浴びていた熱い視線を訴えて来た。
「あの!その!え~っと!……な、何でもない!!」
 隠すようなことではないが見惚れていたと言えるほど素直な性格でもなく、ユフィは再びオレンジジュースのストローを咥えると、チューチューと勢いよく飲み始めた。
(アタシ、そんなに見てたか……ていうかヴィンセント、ちゃっかりアタシのことも見てたのか!!)
 見ていた筈が逆に見られていた事実に悶絶する。確かにヴィンセントの食事をする姿を拝めようと気合いを入れてはいたが、まさか気が散るまで視線を注いでいたとは夢にも思わず、『次は気を付けよ』と内心舌を出せば、何が可笑しいのか、ヴィンセントが息を吐くように小さく笑った。
「なにさっ」
「……素直に言えば良いものを」
「へ!?な、なななに!!がっ……」
 含み笑いを浮かべながら言い放ったヴィンセントに、慌ててオレンジジュースを置いて自分の過ちを取り繕ったが、目の前にパンケーキを皿ごと静かに差し出してきた彼の行動に、ユフィは眉を寄せて首を傾げた。
「えっと……?」
「……?食べたかったのだろう?」
「は……アタシは食いしん坊かっ!」
 どうやら注がれていた視線の意味を、自身が食べていたサーモンとアボカドのパンケーキを食べたいのだと感じ取ったようで、まるで「しょうがない子だ」とでも言わんばかりにパンケーキを差し出して来るヴィンセントに、ユフィは予想外の答えに思わず突っ込みをかましてしまった。
「違う、のか?」
「へっ……?あ、いやその……ち、違くない違くない!!ちょー美味しそうだったからさっ、ヴィンセントくれないかな~って」
 普段は鋭い眼光で人を射抜く赤い瞳を、まるで主の期待に応えられなかった番犬のような目で見つめてくるヴィンセントに、自分の取った失態をはたと思い出したユフィは持ち前の早口でしゃべりまくると、ヴィンセントが差し出した皿を受け取って、既に切られ準備されていた、少し大き目のそれをフォークで刺すと、口を開けてパクッ、とその中に詰め込んだ。
 サーモンの塩気とアボカドのまろやかさが、パンケーキのほんのりとした甘さによく合う。
 口を動かしながらちらりとヴィンセントを見れば、口元を緩めてとても満足そうな表情を浮かべており、その微笑みと行動に羞恥とときめきと、そして多少の悔しさがない交ぜになり、ユフィはパンケーキで膨らんだ頬を更に膨らませた。
 普段から、ヴィンセントはユフィに食べ物を与えたがる。
 それは街中でだったり家の中でだったりと、場所状況関係なく、ヴィンセントはユフィの口に食べ物を入れて来ては満足そうに見つめてくる。
 先日も、二人はWRO社内で隊員から飴玉をもらい、ユフィは後で食べようとポケットに入れたが、ヴィンセントは徐に包みを開けると、中から取り出した飴玉を自分の口にではなく、隣で喋っているユフィの口に入れて来たのだった。
 唇に触れた指先の温もりと硬さは、未だにそこに残っている。
 その感触を不意に思い出しては度々転げ回るユフィは、「いつか同じ気持ちを味わわせてやりたい」と常日頃から考え、そして今もまた、目の前で微笑んでいるその顔を羞恥に赤く染まらせたい、と企んでいた。

「お待たせしました~!」

 ヴィンセントに皿を返したのと同時に、ウェイトレスがユフィの注文した料理を運びにやって来た。
 目の前に置かれた皿の上を彩る赤い色を見た瞬間、先程の悔しさは何処へやら、ユフィは店内の照明を反射する、キラキラとした苺の輝きと同じように瞳を輝かせた。
「おお~、外のポスターに載ってた通りじゃん!いっただっきまーす!」
 何を食べようかと、まだ夕食前の空いている時間帯に街を歩いて店を選んでいたユフィとヴィンセントは、彼女の「あ!」という高揚感のある声を出したと同時に足を止め、行きつけの店の外に張り出されていたポスターに載る、たくさんの苺と山のようなホイップクリームが使われたパンケーキに心を奪われた彼女の願いを聞いて、腕を組みながら店に入ったのだった。
 そして今、待ち望んだパンケーキを頬張り、クリームの甘さと苺の酸味が絶妙に合わさったその味に身悶えしながら、ユフィは身に染み渡るその美味さを堪能し始めた。
「おーいし~い!ポスター見てから美味しそうだな~って思ってたけど、ユフィちゃんの目は正しかったよっ」
 一口サイズに切ったパンケーキをホイップクリームと苺のソースを着けてフォークに刺し、口に運んでモグモグと咀嚼する。
 最近の激務で疲弊した身体が喜んでいるのを感じながら、しゃべる事も忘れてパクパクと食べ続けていたユフィだったが、空腹が落ち着き始めた頃、ヴィンセントへの報復をどうするかという考えをふと思い出し、自分の中に消えて行く予定のパンケーキを見つめて、ヒヒヒ、と、ほくそ笑んだ。
(よーし!!)
 気合いを入れると、パンケーキをヴィンセントの口よりも少し大きめに切り、ホイップクリームと苺を忘れず乗せると、それを自分の口ではなくヴィンセントに向けて「はいっ!ヴィンセント」と、満面の笑みを浮かべながら差し出した。
「一口どーぞ!」
「……食べないのか?」
「一口もらったからさっ。お礼だよお礼~」
 今まで一言もしゃべらずにパンケーキを頬張っていたユフィの突然の行動を、小首を傾げて不思議そうに見つめて来るヴィンセントに、ユフィは更にフォークを彼の口元へと差し出した。
(これで恥ずかしがってフォークを取って食べたらアタシの勝ちぃ!!)
 人前で絵に描いたような恋人のやり取りをされる羞恥に顔を歪めながら、躊躇しつつもフォークを受けとる恋人の姿を想像して、ユフィはその時を今か今かと待ちわびた……が、返って来たのは予想を遥か斜めに上回るものであった。

「……ありがとう」

「えっ」

 返ってきた台詞に間の抜けた声を出した時には、既にヴィンセントは身を乗り出して、ユフィのフォークに刺さっていたパンケーキを口の中に収めていた。
「……ごちそうさま」
 口の端に付いたクリームを親指で拭い、そこに着いたクリームをペロリ、と舐めとる。
 見たことのない大口に、フォークを咥えた薄い唇に、指を舐めるその仕草に、口を開けてポカン、としていたユフィだったが、状況を理解し始めるとともに顔の熱が急激に上昇し、人数は少ない筈の店内から集まる周囲の視線と、やたら色っぽい恋人の仕草に羞恥が全身を駆け巡った。
「──~っ!!」
「どうした?ユフィ」
 顔を真っ赤にしている恋人に、ヴィンセントは何事もなかったかのように尋ねて来る。
 おかしい、計画では今恥ずかしい思いをしているのはヴィンセントの筈……
「アンタさぁ……」
「何だ」
「あの、その……て、テレたりって、しないの?」
 ユフィは思い出す。そう言えば、先程ヴィンセントからパンケーキを受け取った時も、飴玉を口の中に放り込んで来た時も、周囲に人が居ようが居まいが関係なく、ヴィンセントは己の行為に照れるような素振りは見せていなかった。

「……何故?」

 案の定、ヴィンセントは不思議そうな表情を浮かべるばかりであった。
(うっそ……)
 どうやらヴィンセントは、するのもされるのも、特に何とも思わない性分らしい。
(もしかして……これが素なの?)
 ユフィが普段思い返していたヴィンセントの仕草は涼しいものばかりであった。だからきっと、ヴィンセントはこういう恋人にしか出来ないようなやり取りは苦手なのだろう、と、何の疑いもなく考えていたが、改めて回想すると、額を合わせたり、指を絡ませたり、髪を弄ったりと、人目がある場所でも平然としていた。
 その自然な手付きに、ユフィも嬉しい以外の感情を然程感じてはいなかったが、よくよく考えれば人前でとんでもない事を繰り広げていたと、照れや恥ずかしさが益々増し、それを隠すように段々と身体が小さくなっていった。
(え~……マジ?ホント?これがヴィンセントなの??)
 自分と一緒になった事で、三十年以上前に忘れてしまったヴィンセントの一部であろう顔が出始めたのは嬉しい。
 だがこんなにも甘い人だったのかと、耐性のないユフィは飴玉一つ口に入れられただけで照れるあまり動揺する自分が更に恥ずかしく思え、同時に『ヴィンセントばっかりズルい!』という、なんとも理不尽な悔しさも覚え始めた。
「ユフィ?」
「な、なんでもないっ!」
 悔しさと恥ずかしさに赤面しながら、ユフィは自身のパンケーキを切って口に入れた。
 パンケーキの熱で乗っていたホイップクリームはどろどろになり、苺も冷たさを無くしつつあるが、それでもパンケーキは美味しく、まるで思うように行かない恋人だが、それでも好きなのと変わらない自分の心のようで、ユフィはまた頬を膨らませた。
(こうなったら、次はぜーったい!テレさせてやるんだからなっ!!)
 そう固く決意をしながら、残りのパンケーキを次から次へと食べていく。
 その姿を見ながら穏やかに微笑んでいるヴィンセントの表情は、周囲の者だけが気付いていた。

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