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『世界がいくつあったとしても』

第29話:“隼人じぶんの想い”

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「隼人、それはな……」

 七瀬はそう言い掛けるが、何故かその続きを言う事なく黙り込んでしまう。

 思考の渦に巻き込まれたまま俯くように、目の前の避妊具モノ辺りに視線を彷徨わせていた隼人も、その突然の出来事に気付き顔を上げる。
そうして七瀬の様子を窺おうとした隼人であったが、彼が見た世界は半分だけが酷く滲み歪んだ光景が広がっているではないか。
異常な状態に何事かと驚いた隼人は、自然と手で目を擦ろうと顔に触れ自分に何が起きているのかを悟る。

 隼人は自分でも気付かぬ間に涙を流していたのだ。

 涙が持つ意味。
隼人が何故なにゆえ涙を流しているのか、その原因を最も理解しているのは七瀬であろう。
だから、彼女は自身が招いた結果、隼人の涙というものを前にし、胸が締め付けられ言葉を失っていた。
同時に“何か言わなければ”そう思い口にしかけた言い訳ことばを、もしそのまま伝えていたらと思うとゾッとしてもいた。

 今口にする言葉は全て隼人を傷付け、取り繕えば嘘になる。
何一つ言葉の見つからないままであったが、だからと言って何も言わないことが正しいとも思えず、七瀬はどうするべきなのか考えあぐねる。

「ははっ、何してるんだろう……ごめん。 びっくりさせちゃったね」

 そんな七瀬に対し、突然驚かせる事をしてしまったことを詫びながら、隼人は誤魔化すように笑うと涙をサッと拭った。
誰の目から見ても何もないわけがないにも関わらず、それでも「大丈夫だから」と努めて明るく振る舞う隼人。

「隼人……」

 七瀬は自分が人同士の縁を結ぶ“好き”という言葉の“力”を享受する一方、同時に生まれる言葉への“責任”からは考えるふりをして逃れようとしていたことを、隼人の涙を通し実感することになる。
その結果、最も苦しんでいるであろう恋人に、作り笑いまでさせてしまった自分の愚かさを七瀬は大いに恥じた。

 だが、隼人の名を呼んでも、その先を口にしようとする言葉のどれにも未来さきがあるようには思えず、結局黙り込む選択肢しか七瀬には残されていなかった。
自分が招いたことであるにも関わらず、自分一人では解決することのできない状況に、七瀬は自らの無力さを痛感した。

 自分へ対する怒り、悲しみ、不安、緊張、そして後悔――。

 七瀬の中をあらゆる負の感情が止めどなく駆け巡っていく。
それを操る術を持たない七瀬にとって過多と言える感情の濁流に見舞われ、心のバランスが一瞬にして崩れる。
一度そうやって感情のコントロールを失うと、大人になった今でも治る気配のない“泣き虫”が姿を現す。
唐突に訪れる鼻奥からの刺激に、七瀬はこのまま泣いてはダメだとグッと堪えようとするのだが、意識すればする程余計に鼻奥がジンとし視界も滲んでいく。
もうこうなっては自分でどうすることも出来ず、後は泣くしかなかった。

 見ていた世界が次第に滲み、そして白く霞んだようにして消えてゆく。
それはコケタニくんに始まり、部屋のあらゆるものが白い世界に消えていく。
そして、次第に隼人の姿すら滲み始めた。

「待って! 隼人!」

 徐々に滲み白い世界に同化するように飲み込まれていく隼人の姿に、自分の前から本当に消え去ってしまうようで、恐怖に怯えた七瀬は必死に手を伸ばし掴もうとする。
だが、その手が何かを掴むことなく指先は空を切り、結果目の前から隼人は姿を消した。

……。

 七瀬の目の前には全ての存在が消え、音すらも失せた純白の世界が広がっていた。
不思議なことに七瀬は地に足が着いて居るのを感じながら、それでいて現世と彼女を隔てる影すら足元には存在していなかった。
まるで世界から自分という存在が、切り離されたかのような錯覚に陥る七瀬。
これまでにない未知の状況であったが、既視感デジャヴというこれも不思議な体験をしていた七瀬は、この世界で自分は“孤独ひとり”なのだと無意識に理解していた。

 それまで空を切ったまま宙を彷徨っていた手は、力を失ったようにだらんと垂れ下がり、それに引っ張られるように七瀬は俯く。
他者の存在しない世界とは孤独であると同時に、何人にも干渉されない世界でもある。
隼人の前で泣いては駄目だと抑えていた感情が、堰を切ったように溢れ七瀬は泣きだした。

 わんわんと七瀬が声を上げ泣く度、流れた涙は重力に引かれポロポロと零れると白い地面へと落ち、染みは痕跡すら残さず消えていく。
誰も居ないこの世界で七瀬は、隼人からの偽らざる好意を裏切ったことへの、後悔と悲しみでひたすら泣き続けた。

 七瀬の口から発せられた嗚咽を受け止めるのは唯一自身の耳だけで、それは口と耳をずっと行き来する永久機関のように繰り返えされた。

『……さい……』

 だが、そんな自分の嗚咽の中に、微かな異音が混じっていることに七瀬は気付く。

『……めん、ほんまに……なさい!』

 それは紛れもなく人の声であり、もっと言えば自分の声と似ていた。
例えるならテレビやラジオから流れる一度録音されたものを聴いた時のような声。
自分以外いないはずの世界で、突如として自分以外の存在を認識した七瀬は驚きと共に顔を上げる。

 すると目の前に、まるで何もない空間に浮遊するように投影された不思議な映像ビジョンと、音声こえがそこから流れていた。

 映像に映っていたのは自分ななせと隼人の2人。
場所は家具インテリアに違いこそあれ、この家のリビングであった。
そこで自分ななせは、隼人に泣きながら謝罪の言葉を口にしていた。
その様子を見て七瀬は、先ほど自身の嗚咽に交じり聞こえていた声こそ、もう一人の自分の謝罪こえであったことに気付く。

 これまで不思議な体験のどれもが追体験のようなものであったのに対し、これはまるで映画を観ているような感覚に七瀬は陥っていた。
そのためか、謝り続けるもう1人の自分の気持ちを、以前のように汲む事ができない。
其ればかりか経緯というもの自体把握できず、映像を見続けるしかこの状況を知る手立てがなかった。

 涙で濡れ顔をぐしゃぐしゃにしながら謝り続けるもう一人の自分の横で、隼人はソファーに座り無言で一点を見つめていた。
視点はゆっくりと隼人の見つめる視線の先へと移っていき、七瀬はそんな映像に釘付けとなっていた。
そして“それ”が映像の片隅に映し出された瞬間、まるでグラビア撮影にでも使うフラッシュを目の前で焚かれたような光に襲われ、再び七瀬は光りに包まれた。

「キャッ」

 小さな悲鳴と共に咄嗟に目を瞑ってしまい、七瀬は映像に何が映っていたのかを見ることは叶わなかった。
だが、それが見ることが出来ていたとしても、良い結果に繋がることなどないと思わざる得ない状況であった。
映像の真偽がどうあれ、結局自分はこういう事になる運命さだめから逃れられない、そんな啓示であるように感じずにはいられなかった。

 七瀬がそう考えている間に、瞼を閉じてもなお煌々としていた光が収まりをみせる。
瞼を通し暗さや周囲の雰囲気が変化したの感じた七瀬は、次は何を見せられるのか不安を抱きつつ恐る恐る目を開ける。
すると七瀬の目に飛び込んできたのは、眼前で心配そうに覗き込むように自分を見つめる隼人の顔だった――。

 一方、隼人はあの時に何故涙したのか、自分でもその理由が定かではない事に考えを巡らせていた。
それというのも、不意の感情の高まりだったとはいえ、七瀬へ泣き顔を見せてしまったことに関係があった。
付き合ったばかりの恋人の家で、他所の男との情事の痕跡を見つければショックなのは当然で、殊に交際経験のない隼人であれば尚更のはず。
ところが、不思議なことに事の大きさにショックを受け涙を流したのとは裏腹に、“悲しみ”と言うには心が軽かったのだ。
隼人はそんな自身のバランスを欠いた心と体の状態の原因が、何であるかを自分に問うた。

 何故自らに問うたのか?
それは隼人は自分の内に、この出来事を既知の事実として何処か知っているような節があったと感じたからだった。
だが、一方で何も知らない自分もいて、目の前の事実があまりにショック過ぎて涙した、そんな風に一連の自分の言動を分析していた。
奇想天外とも思える発想ではあったが、自分の心の不均等アンバランスさも、そう考えれば辻褄が合うように感じた。
何より自分では認知していない“既知の事実”が存在するという発想も、“夢”という通常では有り得ない体験をしている隼人にとって、あながち荒唐無稽な事ではない。
既知の事実として自分が知り得ないが知っているという感覚の答えは、きっとこれまで見てきた夢の中に隠されていて、何かを自分が見落としている……そんな気がしていた。

 だが、理由はどうあれ七瀬に涙を見せたり、余計に不安にさせるような言葉を、あの場で口にするべきではなかった。
その結果、七瀬を泣かせることになってしまったことを、隼人は目の前で俯き嗚咽を漏らす彼女を前にしながら激しく後悔していた。

 そうこうしていると、隼人の前で俯いたまま泣いていた七瀬の嗚咽が止んだ。
徐々にではなく唐突だったことを心配し、隼人は七瀬の顔を覗き込んだ――。

「「……」」

 すると目を開けた七瀬と、そんな彼女を心配し覗き込む隼人、2人の視線が重なる。
見つめ合う2人の間に言葉はなく、互いの瞳の内を読み取ろうとするかのように、暫しの沈黙が流れた。

 そんな沈黙を先に破ったのは隼人の方だった。
ベッドサイドで俯き加減の七瀬を、隼人は下から覗き込み少しばかり首を傾けると視線を合わせるように語りかける。

「……七瀬、大丈夫?」

 その言葉を聞いて七瀬は目を丸くした。
何を言われるのか……もしかしたら先程見た映像こうけいのように取り返しのつかない事になるやも知れない。
そんな風にさえ思いながら、ビクビクし隼人と見つめ合っていた七瀬。
ところが、隼人から掛けられた言葉は、それとは正反対で自分を傷付けようなどという意思は微塵も感じなかった。

「……うん」

 思うことも、言いたいことも、きっと隼人には沢山あるだろう。
それでも自分への気遣いを優先してくれる隼人に、七瀬は何を言われるかと考えた自分が恥ずかしかった。
そう思うと七瀬の瞳に、それまで浮かんでいた恐怖や迷いの色が消え、代わりに“決意”にも似た色が浮かぶ。

「……隼人、あのな――」

 七瀬はしっかりとした視線で隼人を見つめると、落ち着いた様子で経緯いきさつを話し始めた。

………………

…………

……

 “使用済みコンドームあれ”が、ベッドの下あそこに落ちていた、または置かれていたことを七瀬は知らなかったという。
一方、この部屋で性行為セックスを行った事は事実であった。

 相手はフリーの番組ディレクターで、過去にはAKB48のドラマのメイキングを担当したこともあり、今は七瀬たち乃木坂46が出ている冠番組を制作する大手制作会社に籍を置いている男性。
その男性はアイドル好きとして周囲にも有名で、以前から他のメンバー含め七瀬もそれとなくアプローチをされていたが、お互い立場が立場なだけに一線を引いていたそうだ。

 ところがある日、2人はアイドルと番組スタッフという境界を越えた。
切っ掛けはとある番組の打ち上げの席でのこと。
その日、飲み会の流れの中で、偶然かそれとも意図的か、その男性が隣に座ってきたという。
それまで紳士的ともいえた態度は一変、今までにない熱烈なアタックを受けた。
とは言ったものの、他のメンバーもいる手前、始めは冗談めかした口説き方だった。
ところが時間ときが経つにつれ言葉に真剣さが混じり、人生の中でも受けた事のない熱烈に口説かれた結果、その熱にほだされた七瀬はなし崩し的に肉体関係を持ってしまったという。

 しかし、七瀬は何故越えてはならない一線を越えたのか。
それは1人の人間として“西野 七瀬”という女性にも、性に対する欲求があるからに他ならなかった。
そもそもアイドルであるからといって、性欲が皆無などということはない。
昭和のアイドル像のようにトイレに行かないと信じているファンは絶滅したに違いないが、平成の世であっても“アイドルの性”に関する話題は未だ禁句タブー扱いで表に出ることは少ない。
何より運営側だけでなく業界全体でも、外向けには“アイドルの恋愛はご法度”としている所が多い。
ところがその実、七瀬と男性ディレクターたちのような関係は日常的にあることであった。
しかも、相手は番組共演者やスポンサーなどを思い浮かべるだろうが、実際にはマネージャーであったり運営スタッフなど多岐に渡る業界人達と関係を持っているのだという。
それは七瀬たちのような個人的な関係性の者たちもいれば、金や権力といった政治的な意味合いを持つ関係など様々で、いわゆる業界内では公然の秘密となっているそうだ。
だが、流石にそれが表沙汰になることは、世間一般が持つアイドル像との激しい乖離にファンが離れていくのは必至である。
その矛盾を生じさせぬよう、トカゲの尻尾切のように影響を踏まえ“活動自粛”ないしは“卒業”、そして最悪“解雇”などを言い渡されることになる。
それでも後を絶たない背景には、発覚する者たちなど氷山の一角に過ぎず、それ以上のメリットがあるからに他ならない。
乃木坂46で現在活躍中のメンバーの中にも、そういった関係を持っている者は多いという。

 では、七瀬が関係を持つに至った理由というのは何であったのか。
運営から推されるメンバーであったり、芸能界という世界で登り詰めるという野望が存在するならば別だが、初期の七瀬はそこまで推される存在ではなかったし、本人も芸能界という世界に“強い想い”を抱いてはいなかった。
だから、以前の七瀬であれば個人的な性欲などは、自らを慰めることで落ち着かせていた。
ところが、運営から推されず徐々に後列へと下がる事になっていく七瀬を、ファンが推し上げてくれるようになった頃から風向きが変わり始める。
有名ファッション誌の専属モデルに選ばれたり、自身も女優の面白さに気付き芸能界への想いが強くなっていき、幸運が幸運を呼び込むように図らずも乃木坂46のセンターという地位ポジションを得る事となった七瀬。
一見すると順風満帆にも見えるが、周囲からセンターに寄せる過度な期待は“重責”というストレスを七瀬に負わせ、同時に得た“名声”という多少の無理は許されるだろうという慢心を彼女の心に生んでいた。
そこにタイミング良く現れた男性ディレクターの甘い囁きによって、いとも簡単にほだされてしまったのだ。

 それからというもの2人はまるで盛りがついた動物のように、時間を見つけては七瀬の部屋で逢い引きを重ね、時にはベッドで、時にはソファーで身体を重ねる日々を過ごした。
だが、結局2人の関係を繋いでいたのはセックスという行為でしかなく、特に七瀬が元々本気で相手の男性に好意を持っていた訳ではなく、そして最後まで持つことが出来なかったという。
そのため七瀬自身から解消を申し出ると、相手もリスクを避けてか特に何か揉めることもなく、2人の関係は半年足らずでの終了となる。
それが隼人と出会う半月程前の出来事だった――。

………………

…………

……

 話を聞き終え隼人がまず感じたのは、お互い好き合って関係を持ったのではなく、性欲を満たすだけの所謂“セックスフレンド”だったことに、何処かほっとしていた。

 芸能人、しかも今をときめくアイドルとの交際が初めてなら、そもそも恋人が出来ること自体初めての隼人。
初めてづくしで前例ふつうを知らないとなれば、真っ当な男……いや、性差なく相当ショックな出来事のはず。
それなのに恋人から半月前までセフレが居ましたと告白されて受けるショックからすると、隼人は明らかに違うであろう心の軽さを自分の内に再び感じていた。

 だが、七瀬の話を聞く前とは異なり、自分が何故このように感じるのかの解を隼人は自らの内に見出していた。

 それは“夢”の内でのこと、いつ訪れるか定かではなく、だが遠くもないだろう未来の出来事の中にあった。
ある日、七瀬のこの一件が過去の交際として、週刊誌によって暴露され世間に知れ渡ることになる。
当然それは恋人である隼人の知るところとなり交際前の話ではあったが、七瀬は涙ながらの謝罪の言葉を幾度も繰り返した。
この時、もう一人の“隼人じぶん”が、七瀬の言葉を聞き感じていた感覚こそ、先程自分が感じたものと同質のものだった。

 その時、もう一人の“隼人じぶん”は、決して七瀬を責めることはしなかった。
責めることはおろか、恋人のスキャンダルを前にしても落ち着き払った様子で、謝り続ける七瀬を優しく抱き寄せた。
そして、涙で顔をぐしゃぐしゃにさせた七瀬の背中を、落ち着くまで優しく摩りながら安心させる言葉をかけ続けていた。

 何故もう一人の自分はやとは顔色一つ変えることなくいられたのか……それはこの事実を以前から知っていたからに他ならなかった。
付き合って日が浅く、夢での情報も断片的なものばかりの隼人とは違い、もう一人の自分はやとと七瀬の付き合いは長く、その間にあった紆余曲折を一緒に乗り越えてきた2人の絆は固い。
今回の一件にしても何時如何にして知り得たのか経緯こそ不明ながら、以前から知っていたようなのだ。
だから、事が起こったその時、もう一人の自分はやとは心乱されることなく、平然としていられたのだった。

 夢の内で隼人は“もう一人の自分”とは一方的な同調シンクロ状態にある。
それは物事への感じ方や、捉え方など、ありとあらゆる思考が、もう一人の自分と同じになると言うこと。
即ちこの時の事を、もう一人の自分はやとが“大したことではない”と認識すれば、自ずと隼人も同様の感じ方となり記憶に残る印象もそれに準ずることになる。
そのため七瀬からは初めて聞かされた事だというのに、まるで知っているかのような錯覚に陥ったのだ。
ところが、それはあくまで疑似体験に過ぎず、同じ事を現実世界で初めて体験すれば、やはり本人にとっては初体験となる。
その結果、相反する感情が混在することになり、心身のバランスを欠く状態になってしまったのだ。
これこそが受けた衝撃とは裏腹に、隼人が堪えきれず涙した一件の真実こたえであった。

 こうして不可解だった涙の理由を理解するに至った隼人。
一方、理解が問題解決に繋がる訳ではなく、隼人の目の前には乗り越えなければないない問題が残されていた。

「……七瀬は、その男性ひとの事まだ好き?」

 隼人は静かな調子で七瀬へ問いかける。
それは七瀬の話から後、初めて隼人が口にする言葉であると共に、その内容もあって答えによっては2人の今後が変わる程の意味を持っていた。

「好きやないっ!」

 七瀬は間髪を入れずといった様子で首を振り隼人の問い答える。
キッパリとした口調で首を振る時でも隼人から視線を外さない。
眼差しも真剣そのもので、隼人に信じて欲しいという一心で見つめているようであった。

「そう、か……」

 そんな七瀬に、隼人はそう一言告げると再び黙り込んだ。
表情を見れば七瀬が嘘を吐いていないことは明らかであるし、付き合う前の交際にとやかく言える立場になければ、元から言うつもりもなかった。
本来は自分の気持ちの落とし所だけなのだが、黙り込んだ理由は2人分のない交ぜになった感情が邪魔をして、心の着地点を見出せないでいたからだった――。

「……連絡先だって消したし、あれ以来1度も会うたりしてへんっ」

 それでも七瀬は、男性おとこへの気持ちが無いことを、涙ながら必死に隼人へと訴え続けた。

 人生には、あんなことしなければ……と後悔する場面に幾度となく遭遇する。

 早起き出来なかった日には、夜更かししなければと……。

 言い合いになった時は、あんなことを言わなければと……。

 ほんの些細な場面でさえ、起きてしまえば事実を後から変えることも、なかったことにすることも出来ない。
まして今回のような事が起きた今、七瀬は過去の行動に対し後悔しかなかった。

 思い返すと男性おとことの関係でで得られたものと言えば、乃木坂46のセンターという重圧を忘れられる刹那のときと、愛のない行為の虚しさを知った事だけ。
触れられ抱かれれば身体は反応し当然に熱を帯びる。
しかし、そんな風にして得た熱など行為の後では瞬く間に冷め、跡には何も残りはしなかった。
それは相手に対する気持ちも然り、色欲だけで繋がった気持ちなど無いにも等しい事を、七瀬はこの時知った。

 それでも苦い経験として、知るだけならば良かった。
だが、それが原因となり恋人を前に自分の気持ちを証明できなくなるとは考えてもみなかった七瀬。
もし分かっていたならば、あの時身体を許そうなどと思わなかっただろう。
一時的でも欲望に身を任せても良い、そう感じさせたあの時の男性おとこが嫌いだった。
でも、何より悪いのは、好いた相手を傷付けた自分自身であり、本当に自分が憎かった――。

 七瀬の表情の内に後悔や自己嫌悪、様々な感情を見て取った隼人。
その様々に混ぜこぜになった感情内に、夢の中のもう1人の彼女ななせにも見た“ある気持ち”を見つけ、隼人は探していた自分の心の着地点を見出した。

 そして、隼人は見出した着地点を伝えるべく、首を横に振りながら七瀬へ告げた。

「……なら、もう謝ってはダメだ」

「え……」

 謝る事で誠意を伝えていると思っていた七瀬にとって、それは思いがけない言葉であり、まるで否定されたような言葉に思わず驚きの声を漏らす。
だが、真意が見えず次に何か言う言葉の出てこない七瀬、対して隼人は真っ直ぐ見つめ語り掛けるように言葉を続けた。

「その男性ひととしたことを七瀬は後悔しているのかも知れない……でも、その後悔で過去が変わる事はない……そうだよね?」

「うん……」

 過去は変えられない、だから七瀬は隼人に謝罪する事で今の自分の気持ちを伝えようとした。
だが、それでも隼人に言われたように過去という呪縛から逃れる事は不可能であるから、七瀬は頷く事しかできなかった。

「だけどね、今こうして俺と七瀬が一緒にいられるのは、あの日乃木坂のあの場所に俺たちが居合わせたから。 つまり、それは過去に選択してきた事の結果が、今に繋がっているんだ……だから、その選択肢のどれか1つ違っていたら、俺たち出会えなかったんじゃないかって思うんだ……」

 ifもし、母親が乃木坂46のオーディションに申し込まなければ、今ここにはいなかった……。

 ifもし、あの日乃木坂のSMEビルに居なければ、隼人と出会う事はなかった……。

 ifもし、あの夜に夢を見なければ、LINEすることもなく今夜こうして隼人と一緒には居なかった……。

 過去の選択の先に今の自分たちがある……隼人の言うそれは七瀬も実感出来ることであった。

「それは……だけど!」

 だが、そうであるならば重要でない選択肢のどれかが抜けていたとしても、同じ未来へ繋がる可能性は存在するのではないか……そんな風に考えてしまう七瀬。
なら、隼人を傷付けずに済んだ選択肢もあったはずだと思うに至り、自分の選んだ過去を悔やむ気持ちを晴らすことはできなかった。
一度ネガティブスパイラルにはまると抜け出せない、そんな自分の悪い癖を理解していたが、七瀬は自身の内にそれを覆せるだけの材料を見出せず、結局は否定的な言葉が口を吐いて出てしまうのだった――。

 隼人は、自分の考えに対し否定的な七瀬の物言いにも、眉をひそめることはなかった。
寧ろそんな事を言われた後だというのに、隼人はまるで気にする素振りもなく柔らかい表情を向けると、七瀬にとって再び思いがけない言葉を伝える。

「七瀬が他の男性ひとをどう思っているのか、俺には見当もつかない……だけど自分が七瀬に好かれているのかぐらいは分かるつもりだよ」

 「自惚れじゃないといいんだけど……」と、少し恥ずかしそうに続けながら七瀬に微笑む隼人。

 この件の本質は良い悪いではないし、許す許さないでもない。
ただ、変えようのない事実が目の前にあって、それを受け入れることでしか2人で一緒ともに歩む未来みちがないことを示しているに過ぎなかった。
そして、七瀬を“好き”だという純然たる気持ちを抱く隼人に、それを選ばないという選択肢はなかった。
それは、この先も心の痼りとなって残り続けるやもしれない選択で、今の隼人にとって茨の道とも言えた。
だが、そんなifもしよりも、2人の“西野 七瀬ななせ”の内に自分に対する理屈ではない“好き”という想いを垣間見た事実が、隼人に自らの進む道を選ばせた。

 そして、自分が選んだ道が何であるかを七瀬に示めそうと隼人が動こうとしたとき、それは起こった。

「自惚れなんかやないっ! ななは隼人のことが好き、絶対別れたくないっ!」

 七瀬はそう言いながら、隼人に抱き付こうとする。
しかし、2人が居るのはベッドの上と下、咄嗟であったことや予想外な出来事に、隼人は七瀬を支えきれず倒れ込む。

「っ?!」

 ドサッと言う鈍い音共に、どちらともつかない呻き声が上がった。
一瞬の衝撃から解放された隼人が気付くと、七瀬に押し倒されたような体勢となっていた。

「な、七瀬?」

 突然のことに驚きを隠せない様子の隼人。
それもそのはず、自分も七瀬を抱き締めようとしていた矢先の出来事だったのだ。

 一方、七瀬は隼人を見つめていた。
今し方まで隼人へ言葉で伝えようとしていたのが嘘のように、無言のまま見つめる七瀬。
寝たままの隼人へ覆い被さり見下ろす様にする七瀬の瞳は熱を帯びたように潤み、隼人をジッと見つめ離さなかった。

 七瀨の情熱的な瞳から隼人は逃れられなかった。
其ればかりか、凜とした表情の美しさに見惚れ、気付いた時にはそれは眼前に迫っていた。

「なな、せ……」

 思わず名を呼ぶものの意味をなさず、視界の全てが七瀬で覆い尽くされていく。

 やがて、テーブルランプの淡い灯りに照らされた2人の影は1つとなった――。
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