赤井が僕と一緒に退院して、僕の家に来て、半月が経った。毎日、とても穏やかな時間が流れている。広くはないアパートだけど、赤井が休みやすいように寝具などを追加して、ベッドは赤井に使ってもらっている。
「押しかけて、ベッドまで奪ってしまっては悪い」
「あなたには早く治ってもらわないと困るんです。殴り合いの約束、まだ果たしていないんですからね」
 強がってそう言うと、とても優しい目で見つめられた。
 そうなんだ。入院していた時から、よくこういう目で僕を見る。いや、前にもあったかもしれない。何ていうか、僕がここにいることが嬉しくて、触れてみたいけどもったいないな、っていう目。落ち着かない。そわそわする。
 食事は、入院中に研究したのを赤井が好きそうなアレンジを加えて、感想を聞いてさらに改良している。楽しい。
「君の料理は繊細で大胆だな。実にうまい」
「よかった……」
 褒めてくれる。また落ち着かない。
「グレープフルーツが入っているのには驚いたよ」
「ライの時、おいしそうに食べてたから。好きなのかなって」
「覚えていてくれて嬉しいよ」
「赤井……」
 食事の時間がこんなに甘くて、ふわふわして、幸せなものに感じられるなんて。
 まだ二人とも自宅療養が必要だから、無理のない程度に体を動かしながら、たくさんの話をして過ごした。何か取っ掛かりがあれば、話はどんどん広がっていった。お互いもう隠すものは何もなくて、半生をかけた念願を果たして、それまで押し殺していたものが解放されたような勢いで喋った。赤井はよく笑ったし、僕も笑った。退院後の最初の通院の日が来る頃には、その笑いは、僕にとってなくてはならないものになっていた。

 病院に着き、一通り検査をして診察室の前の椅子で待っていると、赤井が診察を終えて出てきた。明るい表情で出てきたのが、僕を見て一層明るく、花が咲いたようになった。
「お疲れ様です」
「順調に回復しているそうだ。薬が合っていると治りも早いものだと感心されたよ」
「何か特別な薬、飲んでたっけ?」
「ああ。この世に一つしかない、特別な薬をな」
「ふうん……?」
 何だろう?食事が合ってるとかそういうことかな?と首を傾げていると、僕の名前を呼ばれた。
「行っておいで。待ってるから」
「うん」
 心地よい声に送られて、診察室に入った。僕も、経過は良好だと言われた。
「ふむ」
 先生は、手元の書類にさらさらと何かを書き込み、それを終えると僕をじっと見た。
「何か?」
「あなたにも、薬がよく効いたようですね」
「あ、はい。おかげ様で」
「大事にしてください。人との出会いは奇跡ですから」
「……先生と、以前どこかでお会いしたことが?」
「あなたは小さかったですからねえ。覚えておられるかどうか。もう二十七年前になりますか。私はイギリスで医学を学んでいたことがあるんですよ。そこで膝を擦りむいた坊やのことが忘れられなくてね」
「……そんなことが、あったような、なかったような」
「ハハ、いいんですよ」
 それから少し、今後の経過について注意があって、基本的にはもう安心してよいということで、お礼を言って診察室を出た。
 イギリス。二十七年前。僕は二歳か。うーん、何の話だったんだろう。
「お疲れ様」
「……あ」
 低く優しい声に、ふんわりと包まれた。顔を上げると、落ち着いて見えるのに実は世界に対する好奇心でいっぱいの、どんな宝石も敵わない瞳が僕をとらえていた。
「転ぶなよ」
「それって……」
 差し伸べられた手を、思わず取る。すとん、と隣に座る。大きな手。大きな体。今では僕をしっかりと支えてくれる。
「思い出したかな」
「夢だと思ってた……」

 公園だったと思う。僕は小さすぎて、前後のことは覚えていない。優しいお兄ちゃんが遊んでくれて、僕はその人のことが大好きになって。絶対にずっと一緒に遊ぶんだ、って決めていた。「転ぶなよ」って、心配そうに見ている前で、僕は頭から地面に突っこみそうになって、お兄ちゃんが僕の下に滑りこんできたんだ。僕は足を擦りむいただけで済んだけど、お兄ちゃんはあちこち傷を作っていた。それを見て僕がわーっと泣いて……「どうしたんだい、坊やたち」と、誰かが声をかけてくれた。そこで、いつも目が覚めた。

「何回も見た。あんまり何度も見るから、僕の深層心理を表す特別な夢かな、ぐらいに思ってた。赤井の声は今の声とは違うし、顔は目が覚めれば朧気で……」
「うん」
 握られた手。伝わってくる温もり。予約は僕たちが最後だったようで、待合室にはほかに患者は残っていない。
「赤井は、いつから気づいてた?」
「大人になった君と出会って、何とも利かん気な性格を知った頃にな。最初から、よく似ているとは思っていたが」
「先生も気づいていたしなあ。僕、そんなに変わってないのか」
 覚えていてもらえるのは嬉しいけど、複雑な気もする。でも……。
 僕は、ぎゅっと手を握り返した。
「ん?」
 自然な動作で覗きこんでくる赤井と目が合って、胸がキュンとした。
「顔が赤いな」
 微笑む赤井。言われてみれば、顔が熱い。それはこの人のせいだという気がするのに、目が離せない。離したくない。絶対、ずっと、一緒にいて。
「心臓も、すごいことになってる……診てもらった方がいいのかな」
「いや……ドクターの手を煩わせるまでもないな。俺が診てやる」
「ほんと?」
「ああ。それが一番効くだろうな」
 ゆっくりと細められる瞳に捕捉されて、場所も考えずに抱き着きたい衝動が沸き起こった。その時、赤井が会計に呼ばれた。「続きは帰ってからな」と囁かれて、茹で上がったみたいな気持ちで、カウンターに向かう広い背中を見た。頭のてっぺんから足の爪先までキュンキュンして、やっと分かった。
 赤井、好き。

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