最大の試練 編
name change
夢小説設定ここでは名前を自由に入力できるぞ。お前の好きな名前を入れてみてくれ。それにより面白みも増すだろ。
と言っても女性ばかりだが……
ん? 最後だけ男か。奴は、アイツが初めて……
いや、すまん。何でもない。では、よろしく頼む。
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不在着信 1件
紳ちゃん
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To : 綾
件名 :
本文 :
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信じられなかった。
時間が止まってしまったみたいだった。
砂だらけの陸地の中心に碧く輝く湖を見つけた。歓喜した彼女はそれに躊躇なく浸かる。
全身が水に包まれた途端に、どこか乾いてしまった心は一瞬にして湿り気を取り戻す。
が‥‥目にした瞬間
日中、八分咲きだった花びらは閉じてしまった。
――
この日の部活終わり、携帯電話を開くと牧から謎のメールと着信通知がそれぞれ1件ずつ届いていた。
( 一体何があったの……? 紳ちゃん……! )
予期せぬ事態に震撼する綾。
心が、感情が、瞬く間に乱れてゆく。
彼女が特に驚いたのはメールのほうだった。今日に至るまで、彼が件名はおろか本文も無い空のメールを送信してきたことは一度たりともなかったから。
目先の陵南戦まで辛抱してくれと言っていたのに。
父親の許可が下りるまでは連絡できないはずなのに。
もう会えないと、そう諦めかけていたのに。
そんな矢先にこの様なことが起きた。
親に連絡をする余裕などあるはずもなく‥‥
最愛の彼のもとへ駆け出そうと
短い黒髪が揺れ、制服のリボンにプリーツスカート、そして鞄がふわっと宙に浮いた
― その時
「綾……!」
「! 楓くん……!?」
身体の一部分に人肌の温かさを感じる。
骨太の大きな手のひらが片方の細い手首を掴んだ。
「今度はもう、離さねー……」
「え……?」
綾の姿を捉えた流川は、死に物狂いで力任せに掴った。
張り切る桜木に先を越され体育館を占領されてしまったのか。屋外のバスケットコートへ出向こうと下校しようとしたところ、消えゆく影を追いかけ今に至る。
クールな顔立ちはどれほどの重量があるか見当もつかないほどに重々しい表情だ。
相手を威嚇する様な、一重の鋭い瞳。錯覚してしまう。まばたきさえしていないと。
彼はずっと彼女から視線を離さない。
ーー‥
しまった……!! 綾……!!
どあほぅが……負けたのは、俺の責任だ。
スタミナが続いていれば昨日は勝ってたはずだ……!
ああなったのも、俺のせいだ。
鎖をつけてでも、綾のそばにいてやるべきだったんだ!!
‥ーー
目を離した隙に、自身の過失により捕らわれてしまった事実が何度も何度も悔やまれる。
あの日の救出後、幅広い背中から憤りや哀愁を感じたが
殴り合うほど後悔の念を引きずっているとは知らず‥‥
綾はその言葉の意味を理解できずにいた。
「……何かあったのか」
「が……」
「?」
「紳ちゃんが、呼んでる……」
「……!」
「何の意味もなく、あんなこと……
どうしよう……! 楓くん……!」
「綾……」
彼女の笑顔が完全に消えた ――
前例を見ない連絡に取り乱す綾。
落ち着きやがれとでも言った表情に加え、止める権利は無いが行くなとも言わんばかりの姿勢だ。自然体であるため周囲には気付かれにくいが、流川は日頃から大抵綾の近くにいて
つまずきそうな時、心が折れそうな時、危機的状況時。困難に直面したときなど要所要所で彼女を支えている。
いくつも連なる細長い照明の下、男女はやり切れない想いを抱いたまましばらくその場に立ち尽くしていた。
― そして
「……もう、脱走したりしないよ。
だから、力ゆるめて……?」
未だ繋がれたままの状況に、綾は一旦呼吸を整え冷静さを取り戻すが‥‥
「……イヤダ」
ーー‥
楓くん……私、本当に脱走癖があるのかも……
だから、今日も脱走しそうになったら止めてね……?
‥ーー
試合前のあの前フリらしき言葉は当日のことではなかった。まさか翌々日になろうとは誰が予想しただろう。
彼がロックオンをして手首を一切離そうとしない訳。
彼女に脱走癖があるから? 違う。
ひとまず困惑する彼女を止めたかったから? これも違う。万が一の場合には引き止めてと頼まれていたから?
どれもこれも不正解。
後悔なんてものではない。あの日の夜、目を離さなけばこうして鎖のごとく巻きつけ、そばを離れなければ事件を未然に防げた上に傷を負うこともなかったはず‥‥!
「……もうっ。
脱臼しちゃったら、楓くんのせいだからね……?」
( ……かわいい )
綾の発言に目を白黒させている。
187センチの高身長な男子と155センチの小柄な女子。その体格差だけでも性別の差は大きいと感じさせる。
「ん……じゃあ、このくらい」
ごく自然な上目遣いと少々むくれた口調に流川の頬は赤い。彼女の言い分に従い、握力を弱め優しく握り直した。
が、やはりこれは断固拒否。
たとえアザができようと身体に痕跡が残ろうとも、このか細い腕だけは離すことはなかった。
昇降口へと続く道。下駄箱まではあとわずか。
目には見えない鎖で繋がれた今では、なんてことのない単調な廊下も傾斜のある険しい道のりに思える。
見えざる壁に次ぎ、溝までも‥‥
彼女の悩みが尽きることはない。
そんな中、男は淡々と核心を突いてくる。
「綾」
「え……?」
「なんで言わねえ」
「えっ……」
「辛いなら辛いって、泣きたいなら、思いきり泣け」
そうできればどんなに楽か。
淋しいなら淋しいと正直に言えばいいと、相手の真意に迫る流川。この様な緊急事態だとしても本心を突かれてはこれまで制御し、抑え込んできたものが容易に崩れ落ちてしまう。
ーー‥
俺も、運命の女であるお前を帰したくはない。
だが……それは無理だ。
これは言わば、男のケジメだ。
親父さんに認めてもらうためにも……
一度交わした約束を取り下げることはできん。
‥ーー
「……言ったら、ダメなんだもん……
紳ちゃんの決意が、台無しに……
盾に、なるんだもん……
泣いたらダメ……泣いちゃったら強く、なれない……」
「……!」
彼女の心は今、くしゃっと丸めた紙と同じ。
潤いを取り戻した身体のあちこちから目元に向かい生温かい水分が集まる。
「いつまでも、こんな泣き虫じゃ
ユニフォーム……取れない……
こんな脆い盾じゃなくて、鋼鉄みたいな硬い盾に……」
「…………」
連絡をしたい。しかし、できない。してはいけない。
現状、距離を置いている。
頑丈な盾となる。これは自身が心に強く決めたこと。
また、彼に見合った女性になるという目標。
何よりも男のケジメだと話していた恋人の気持ちを優先すると言い張る綾。
やはり演技下手。やせ我慢をしていることは見え見えだった。
誰よりも正直者の彼女。もう隠し通すことはできない。
流川はというと口をつぐみ、彼女の歪んだ泣き顔を切なげに見つめていた。
「私が、我慢すれば、いいだけで……
さみしくなんか……『さみしいって言えば』」
「……!!」
「命令だ」
先ほどから自分の言うことを聞けと言わんばかりにハッキリ伝えるよう念を押し、命令を下した。
この想いをずっと、ずっと、心に留めておけばいい‥‥
そう思っていた綾はこの一大事にも動じない受け答えにひどく驚いている。
――
「乗れ」
「……うん」
この場を牛耳る流川。そのまま2人は外履きに履き替え駐輪場へと移った。
彼女の切ない心の声を耳にした彼は、またしても自転車の荷台にまたがれと話す。
ーー‥
泣かされたら、コートに来い。
チャリ……いつでも乗せてやる。
‥ーー
おとといの試合直後、そう言われたばかり。
ここはバスケットコートではないが、あの言葉の通りの状況になった今、ふたたび彼の厚意に甘えることに。
「奴の場所、分かるか」
「うん……きっと、あそこに……」
両足元にあるペダルを、通常よりも幾分速く動かす。
単なる誤動作であればどんなに良いか‥‥
あれは、もしかしたらSOSのサインかもしれない。
「……っ」
( 綾…… )
不安そうな手つきでワイシャツを掴む。
大丈夫だ。安心しろ。といった大きな背中。
あの時と全く同じ。
硝子の様に今にもひび割れてしまいそうな彼女の不安定な気持ちは
わざわざ振り返らずとも、背中越しに伝わっていた‥‥
こうして流川と共に
綾もまた、例の場所へと向かうのだった。
「あそこ」とは、きっと ――。
あんな風に背中を押されたのは何度目か。
牧の心を揺さぶる綾の存在は非常に大きく、言わずとも顔に出てしまっているのだろう。
単に頭を冷やしてこいというわけではなく、ごちゃっと散らかった机の中を早急に片付けろというものだった。
果たして心の整理はできるのか?
数時間前‥‥
ひとり思い出の地に向かったものの途中で踏みとどまり意味深な着信と空メールを送ってしまっていた。
― そして、数十分後
かたいアスファルトの整備された道にゆるやかな坂道といった海南大附属の生徒たちの通学路。そんな道筋を経て桜の木が立ち並ぶ河原にたどり着いた。その景色の中に、ベンチに座り込む幅広い背中が見える。
最愛の人を目にした途端
閉ざされていた花びらが、みるみるうちに開いていく。
「紳ちゃん……!」
「! 綾……」
思わず名を叫んだ。
思い出の地に、彼はいた。
驚き振り返ると
未来の婚約者になるであろう、彼女の姿があった。
「……ッ」
綾の横顔を見た流川は、小さな背中に伸ばしかけた左手を瞬時に引っ込ませた。
先日の試合では牧のブロックをも跳ね除けスーパープレイを連発した流川だが、敗退した事実は消えることはない。
常に頂点に立つ彼に、高台からある捨てゼリフを吐く。
「俺は、あんたのずっとずっと先を行く」
「何……?」
「えっ……楓くん……?」
どういう意味なのか? 無表情ではその真意は分かりかねるが、個人的に負けを認めることもなければ強き者にはびこる様子も見られない。
クールな外見とは裏腹に熱い闘志を燃やす湘北のスーパーエース・流川。
野望や何かを意識しての発言だったことに間違いない。
「楓くん……!
本当に、ありが『礼ならいらねえ』」
「……!」
感謝の言葉を投げかけるも、消しゴムの様に真っ白くかき消されてしまう。
そう返すとサドルにまたがりハンドルを握り締め、役目を終えた様にこの場を去っていった。
( 楓くん……
色々と、ありがとう…… )
そんな言葉は必要ない。物品とて不必要。彼は見返りを求める様な人間ではない。
やはり自身では笑顔にすることはできない。
もっと上手く、誰よりも強くなって、彼女に報いたい。
喜んでもらえる手段はそれだけ‥‥
― そして
「隣……いい?」
「ああ……」
真っ暗になりかけの空の下、ぼんやりとした外灯が辺りを照らす。ここは2人にとってゆかりのある場所であり拠点でもある。
両親に無断で来てしまった。しかし彼に会えたことがたまらなく嬉しく、つい先ほどその感情が顔に表れていた。何があったのか。どうしたのかと不安を抱く中、相席をしても良いかと少々強張った面持ちで声をかけた。
「あのような連絡をして、すまん。驚いただろう」
「うん。すっごく……何か、あった……?」
牧の髪色と同等のベンチは背もたれが無く、切り株を半分に切った様なデザインで周りの景観に馴染んでいる。
並んで腰かけると彼は不安を取っ払う様にしてすぐさま例の謎めいた連絡について謝罪をした。
数十分前、頬を濡らし目を赤くしていた綾。が、暗さを帯びた外の景色にそれに気付かれることはない。
「いや……何だか、心がちぎれちまいそうでな……」
「え……?」
「実はな……」
「えっ……!? お父さんが……!?」
自宅に呼び出され、父親との契りが解消されたことを聞かされた。
最愛の人と、もっと、ずっと、一緒にいたい ――。
牧の心も、枝の様に、花の様に
もげそうに、しおれそうになっていた‥‥
彼とて全く淋しくないわけではなかった。
衝動的に身体が彼女を求め、動いてしまった。
過去に決めたルールに従い報告すべきだが連絡はしてはいけない。しかし、ずっとこのままでいいのかとひとり葛藤に葛藤を重ね、最終的に「会いたい」という気持ちが携帯電話を持つ男の指を動かした。
「親父さんに交際を許可してもらったが
男なら、一度口にしたことはやり通さねーとな。
それに……俺はお前を、ひどい目に……」
「紳ちゃん……」
「心の隙間は埋まっても、傷はそう簡単には治らんだろ。これは一種の加害者だ。本当に、申し訳ない……」
キャンセル(白紙)となった、男同士の約束。
堅物主義の父親に再度交際の許しを得た。
距離を置いてからたった一週間足らずの期間だが父親は改心し、牧のことを見直した上によろしくと綾を託した。
しかし、その様に言われても
彼は今もなお一本筋を通したまま‥‥
彼女を傷つけた事実は変わらない。身体や心の傷口は思っている以上に深いはず。
それが心の中を渦巻く一番のネックとなっていた。
これに対し、綾は
「そんな……謝らないで。
私なら、この通り! もう何ともないよ!」
「…………」
「……かおりさんは、紳ちゃんのことが大好きだったんだね」
「!」
胸に手を当て、彼の目を真っ直ぐに見つめるも元恋人のことを思うと途端に伏し目がちに。
「キスって、特別だもん。
思い出にしてほしかったのかもしれないよ?
思い出すと、辛いけど……
私も紳ちゃん以外の人にされたこと、あるし……
だから、私だって加害者だよ。ごめんなさい……」
「綾……」
既に終わったことだというのに、いつまでも笑い話にはならない。自身は問題ないと主張する綾。
路地裏でのキスを目撃した時は身体に力が入らなくなるほどのショックを受けた。
が、思い出にしてほしかったのだと語る。
神に流川。過去に頬や口にされたことは事実。
己とて加害者だと言及し、謝罪の言葉を口にしていた。
「もう、1人だけで悩まないで。背負わないで……
どんなことも二人三脚で乗り越えていくんでしょ?」
「綾、」
「いつだって、私がそばにいるよ!
だから、大丈夫だよ!」
「……!」
段々と目頭が熱くなる。活気のある声は次第にゆっくりと、くぐもった声に。
「大丈夫だよ……! 本当に、大丈夫、なんだから……」
「綾……」
「私が、ついてるから……安心して、紳ちゃん……」
ーー‥
紳ちゃんは、運命の人だって思ってる……!
ウチのユニフォームみたいな、真ーっ赤な糸で繋がってるんだよ。
私がそばにいるよ。だから、大丈夫!
どこにも行ったりしないよ。だから、安心して!
紳ちゃんみたいに身体は大きくないし力もないけど……
今までずーっとおんぶに抱っこだったでしょ?
だからこれからは、おんぶに抱っこはもちろん
腕枕でも膝枕でも、なんでもするよ!
‥ーー
「ああ……そうだな……」
この直後‥‥大地に伸びた影が重なり合うと同時に、あたたかな体温に包まれる。
「ずっと……さみしかった……」
干上がったかと思われた、心の涙。
今それが滝の様にどばっとここぞとばかりにあふれた。
いつまでもよちよち歩きの子供じゃない。
自らの足で、考え、心の赴くままに進んでいける。
次は君が彼女の手を取り、共に歩んでほしい‥‥
愛のバトンは父から最愛の男性(パートナー)へと受け継がれてゆく。
ーー‥
紳ちゃんへ
快復おめでとう!カゼ治って良かったね!
いつも支えになってくれて、ありがとう。
一方でいつもいつも困らせてばかりでごめんね。
だけど、これからもずーっとよろしくね!
綾より
‥ーー
込められた4つの想い。
試合後サプライズとして受け取った、端にワンポイントの刺繍が施されたブランド物のスポーツタオル。
ラッピング袋にはこの様な手紙が封入されていた。
( 綾……
男の胸板ってのは
女の涙を受け止めるためにあるのかもな……
今、俺の頭の中は
得体の知れない謎の感情に支配されている。)
― そして
牧は小刻みに震えた綾の両肩を掴み、身体をゆっくりと引き離す。
「綾……」
「もう、永遠に会えないんだって思ってた……」
「何……? 6日後には会えると、そう言っただろ」
「ぐすっ……だって、だって……
お父さんにまた反対されたら、って……
試合だって、背中しか見られないなら、会えないこととおんなじだよ……」
「…………」
数日どころか無期限で会えないと思っていた。
目先に試合を控えているものの父親に反対されれば観戦することはできない。
仮に応援できたとしても、遠目から眺めるだけ。
それでは会えないことと変わりない。
彼を近くに感じるも、またしても壁を感じてしまう。
「なにより、紳ちゃんに会えないことのほうが
ずっと、ずっと、つらい……」
( 綾…… )
ーー‥
アイツを……
もう、泣かせんなよ……
‥ーー
「俺は、重罪だな……」
「え……?」
三井の言葉が頭に浮かぶ。
思い浮かんだそばから泣かせてしまっていることに、怒りや苦しさにも似た表情でそう嘆いていた。
自分が負った傷よりも会えないという精神的ダメージはそれはそれは地中深く大きなもの。罪悪感という月並みな言葉ではきっと軽すぎるだろう。牧の心は今、紐できゅっと巾着袋の口を絞った様にきつく狭まっている。
「確かに、頑固なのは俺のほうか……」
「頑固……?」
またしても独り言の様に嘆き、依然として泣きじゃくる愛しき人の顔を一心に見つめた。
「綾、もう泣くな……
親父さんにも頼まれた今、お前を泣かせてまで意地を張ろうとは思っちゃいない」
「! えっ……それじゃあ……」
「ああ。もう距離を置くのはやめた」
「……!!」
ハッキリとそう告げた。
この厳しい試練に固執することや
これ以上、意固地を張るのは如何なものかとためらっていた気持ちはどこかへ飛んでいった。
長年、先輩たちから受け継いできたもの。常勝の看板を背負う者として、その延長線上に海南大バスケット部の勝利があること。責務があることを1ミリたりとも忘れてはいないだろう。
監督が発していたことも重々理解できているはず。
彼女の涙と訴えは間違いなく彼の心に響いたのだ。
「うれしい……すっごく、すっごく、うれしいよ……」
「綾……」
「これは嬉し泣きだもん。心配いらないよ……!」
右手の中指で肌にそっと触れ、彼女の嬉し涙を拭った。
自分のためだけに流してくれた、温かくて綺麗な水。
喜怒哀楽のどれでもない。心からの愛だけを胸に抱きとても優しい目をしてこう告げた。
「俺は……
お前の笑った顔が、誰よりも好きだ……」
「紳、ちゃ……」
「笑ってくれるか……?」
「うん……!」
一度は停滞した、先ほどまでの複雑な想い。
過去に同所で決めた2人だけの特別なルール。
葛藤を繰り返す中でも逐一連絡を入れ、通話と送信のボタンを押したことにより
最愛の人の苦しみを解放し、愛おしい笑顔に出逢えた。
よって不正解じゃない。正解どころか、大正解。
牧の判断は正しかった ――。
また、笑ってと言われ笑うことは難しいかもしれない。
が、泣き疲れていようが目が赤くなっていようとも幸福な感情がごく自然に顔に出ていた。
( 実際は限りなく白に近い
薄い灰色だがな……
綾……
お前はいつだって
そうやって明るく照らして……
階段の踊り場で上ることも下ることもできなかった俺を最善の方向へと導いてくれた。
赤くなってることがバレてなければいいが……
まずいな。
所々セーブをかけねーと、気が狂っちまいそうだ…… )
――
気付けば、辺りは人の顔が全く見えないほどの暗さになっていた。何の気なしに立ち上がろうとすると
「きゃっ!」
「ん?」
思わず声と悲鳴が上がる。
「冷たい……お尻、濡れちゃったね……?」
「ああ。迂闊だったな……」
2人は制服のズボンとスカートのヒップラインを触り、衣服が濡れていたことに気付く。
腰掛けていたベンチはゆうべの大雨の余韻を残しており、生乾きのままだったのだ。
ーー‥
今までもこれからも、たくさん思い出を作ればいい。
消え失せることはないだろ。
お前の悩みは俺の悩みでもある。
どんなことも、二人三脚で乗り越えていこうぜ。
‥ーー
直筆の手紙でも通話時でも心に響いた、愛の言葉。
「これも新しい思い出になるかな?」
「もうなったろ」
「そっか……
だけど思い出す時、ちょっぴり恥ずかしいね……?」
「フッ……」
「ふふっ……」
ちょっとした珍事件に小さく笑い合う。
牧がこんな風に失態を見せることは滅多に無く、それほど余裕が無く周りが見えていなかったという証拠か。
少し前まで心の涙が乾ききっていた綾。この湿っぽさは今となっては舞い上がってしまうほど嬉しく、そしてどこか可笑しかった。
もう、何の心配もいらない。
誰に足をすくわれることもない。
いつだって好きな時に逢える。
際限なく一緒にいられる。
言えずに留めていた想いを吐き出し、そして
それを受け入れることができた。
心の中を見せ合った牧と綾。
こうして彼らは無事分かり合えたのだった。
2人だけの時間は、まだまだ続く‥‥