救われた掌

 冷たい湖の中に突き落とされる。私が溺れる様子を見て、男の人達は愉快そうにけらけらと笑っていた。

(……ああ、わたし、ここで……)

 しんじゃうのかなあって、漠然と思う。必死に手足をばたつかせたって、無駄に体力を消耗するだけ。息ができない苦しさから、もう解放されたい気持ちでいっぱいになっていく。
 ……もういいや。私がここでしんだって、喜ぶ人達はたくさんいても、悲しむ人なんて誰一人としていないから。だからもう……このまま、近づいてくる死に身を委ねて、楽になってしまおう。

「――おい!」

 ふっ……と、身体の力を抜いたその時。誰かが、私の腕を力強く引っ張った。

「…………え……?」

 冷たい水の中から引き上げられる。そうして、私の瞳は、めいっぱいの美しい青色のその人を映し出した。
 私を捉える、鋭いアイスブルーの三白眼はとても印象的で。これから先……私はずっと、この人のことを忘れることなんてできないだろうなって。そう思えるほどに、心臓が熱くなった。

「あなた、は……?」

 生まれてはじめて、私に触れてくれた人。私を助けてくれたその人は。どうしてか、私のことを、複雑そうに見つめていた。


***

 気付けば、オレは見に覚えのない街にいた。先程までいた街並みとはがらりと変わった風景に、オレは混乱する。
 いったい何が起きたというのか、そんな疑問を胸に……オレはひたすらに歩みを進めるしかない。もしや、知らないうちに敵バンカーの攻撃か何かを喰らって、幻かなにかでも見せられているのか? そうだとしたら、かなり腹立つことこの上ないが。

「チッ……とにかく、この辺探ってみるしかねえか……」

 石造りの歩道を、かつかつと音を鳴らしながら歩く。街並みを注意深く観察する中で、オレはあることに気付く。この街は一見すると……洒落た建物が並ぶ、いかにも金持ち達が住まう街に見えるが……狭い路地裏には、ところ狭しとゴミが放られている。その光景に、否が応でも既視感を覚えて、苛立つ。
 ……この街は、自分が昔育った……スラム街とよく似ているのだ。ゴミ溜めの路地裏に住まう自分を、嘲笑う貴族達が住んでいた……あの街に。

「ケッ! このオレさまに精神攻撃ってやつか……?! 上等だ、やってやんよ……!」

 不敵な笑みを形造りながら、オレは吐き捨てる。苛立ちながら歩みを進めていく中で、なにやら言い争う声が聞こえてきた。

「やだっ……! やめて、くださ……っ!!」

 その声は。オレにとっては物凄く聞き覚えのあるものだった。

(ニコラシカ……?!)

 悲鳴じみた声に、さあと血の気が引いていく。まさか、あいつも巻き込まれていたというのか。
 声が聞こえた方へと、オレは駆けていく。その間にも、言い争う声が……耳に入ってくる。

「うるせーなー! おとなしくしろよ!!」
「抵抗してんじゃねーよ!」
「やだっ、やだぁ!! きゃっ……?!」

 ばしゃあっ……と、水の中に突き落とされたような音が聞こえる。その音ともに、女の声が聞こえなくなった。

「ほらなー! 俺達に刃向かうから……バチが当たったんだよ!!」
「これであの魔女死んでくれたら、俺ら英雄じゃね?」
「たしかになー!」

 げらげらと愉快そうに笑う声。それが酷く不愉快で……ぶちり、と。理性が切れる音がした。

「……てめえら、そこ退けよ」
「は? なんだおま、」

 男達が振り返る前に、レモネードは次々と容赦なく水の弾丸を撃ち出す。あたりに、醜い断末魔が響き渡っていく。

「ニコラシカ……っ!!」

 男達をとっとと退けた後、レモネードはニコラシカが落ちた湖へと駆ける。自身の服が濡れるのも構わず、水面が揺らいでいる場所へと足を進めて……溺れる彼女の、腕を掴む。

 そうして、引き上げたのは。

「あなた、は……?」

 ニコラシカであり、ニコラシカではない少女だった。長く伸ばされた金色の髪。ちらりと見える、深紅の瞳は……光を宿していない。それは、遠い昔……自分と出逢ったばかりのニコラシカが、そのまま大人になった姿だった。


***


「……どうして、こんな私を……助けてくれたのですか?」

 ニコラシカを湖から引き上げた後。レモネードは彼女を抱えて、適当な宿を取って入った。
 湖に突き落とされたことにより、身体が冷え切ってしまっていた彼女をまず風呂に放り込んで。彼女が風呂に入っている間に、適当な食事と暖かな飲み物を頼んでやった。風呂から出てきたニコラシカは、それはそれは驚いたような表情を浮かべながら……そんなことを、呟いていた。

「……別に、ただのきまぐれだ。つーかとっとと食え。冷めるぞ」

 レモネードに促され、彼女はおずおずと申し訳なさそうにソファに腰掛ける。いただきます、と行儀よく手を合わせた後……ニコラシカはゆっくりと、用意されていた、オムライスを口に運ぶ。

「……! おいしい……!」

 それからもぐもぐと、ニコラシカは夢中になってオムライスを頬張っていた。その様子は……まぎれもなく、レモネードが知っている……ニコラシカの姿と重なってしまう。姿形は一見するとかなり違うかもしれないが……細かな仕草や表情が、彼女はニコラシカであると物語っている。

「こんなにおいしい料理、食べたことないです……っ!」

 その一言で。このニコラシカは……自分と出逢うことのなかった、彼女なのだと。レモネードに確信させた。

「わたし、こんなに幸せなの……はじめてです……! ……ぐす、」
「……泣いてんじゃねえよ」

 オムライスを食べながら、ニコラシカは泣いていた。ぽろぽろと零れ落ちていく雫を、拭ってやりたくなるが……レモネードは、ぐっと堪えた。

「……あの、わたし、ニコラシカっていいます。あなたのお名前を……聞いても、よろしいですか?」

 本当は、あまり教えたくなどなかった。けれど、自分を無垢に見つめている……深紅の瞳が、先程までには見受けられなかった、光を宿していたから。オレは……。

「……レモネード」

 目もロクに合わさずに、ぶっきらぼうに告げていた。
 ニコラシカは、それだけで、嬉しそうに笑って。

「レモネード、さん……! えへへ、かっこよくて、素敵なお名前ですねっ!」

 オレのよく知る、ニコラシカと同じトーンの明るい声で。オレの名前を呼んでいた。
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