没ネタ
恋人疑惑騒動/後編(🪙夢/オリトレが出る)
2026/05/30 08:32 一方、受付前。
ギーマはネルに向かって穏やかに問いかけた。
「ネルは、今日はフランを迎えに来たのかな?」
「そうっす! 久しぶりに帰ってきたんで、飯でも行こうかなって。こいつ、放っておくと仕事ばっかしてそうだし」
「お兄ちゃん、あたしちゃんと休んでるよ!」
「嘘つけ。昔から一回集中すると周り見えなくなるタイプだろ」
「う……」
フランが言葉に詰まる。ギーマはその反応を見て、薄く笑った。
「なるほど。よく見ているね」
「まあ、兄なんで!」
ネルは胸を張る。そのあまりにも真っ直ぐな言葉に、ギーマは一瞬だけ目を細めた。
兄。フランの昔を知り、家族として彼女を心配し、何のためらいもなく頭を撫でられる相手。恋敵ではない。
だが、盤面に置かれた駒としては、決して軽視できない。
この男は、フランの大切な家族だ。
ならば、いずれフランを本気で手に入れるつもりならば――この兄との関係も、雑に扱うわけにはいかない。
「ネル」
「はい?」
「フランは、リーグでとてもよく働いてくれているよ。頑張り屋で、気遣いができて、挑戦者にもポケモンにも真っ直ぐ向き合う。……こちらとしても、得難いスタッフだ」
「……へえ」
ネルの表情が、少しだけ変わった。軽い笑顔の奥に、兄としての目が見える。
「ギーマさん、フランのことよく見てくれてるんすね」
「ああ」
ギーマは迷わず答えた。
「よく見ているよ」
「……っ」
フランは隣で声にならない悲鳴を上げた。ギーマのその言い方は、ただの上司が部下を評価するものにしては甘すぎた。
ネルもそれに気づいたのか、にやりと口角を上げる。
「ふーん?」
「お、お兄ちゃん、その顔やめて」
「いやー? 別に?」
ネルはにこにこしながら、ギーマとフランを交互に見た。
「ギーマさん。うちのフラン、昔から真面目で頑張り屋なんすけど、無理しがちなんで。そこだけ見ててやってもらえると助かります」
急にまっすぐな声になった兄に、フランは驚いて目を見開いた。
「お兄ちゃん……」
「こいつ、しんどくても大丈夫って言うんで。ほんとに大丈夫な時ほど騒ぐし、逆にやばい時ほど笑うんすよ」
「ちょ、ちょっと……」
フランは慌てる。だがネルは続けた。
「だから、まあ……妹の職場の上司にこういうこと頼むのも変かもしんないですけど。よろしくお願いします」
その言葉に、ギーマの瞳が静かに揺れた。
フランが無理をすること。大丈夫ではない時ほど笑うこと。
それは、ギーマもすでに知っていた。けれど、兄から託される形で聞くと、その重みは少し違った。
ギーマはゆっくりと微笑む。
「任せてくれ」
その声は、いつもの飄々としたものではなかった。
「わたしの目が届く限り、彼女を無理に盤面へ立たせ続けるような真似はさせない。必要なら、こちらから手札を切るさ」
フランは胸を押さえた。そんなふうに言われたら、心臓が保たない。
ネルはしばらくギーマを見ていたが、やがて満足そうに笑った。
「なら安心っすね」
「お兄ちゃん……勝手に安心しないで……!」
「いいじゃん。お前、いい職場で働いてるんだな」
そう言われて、フランは少しだけ目を伏せた。
「……うん」
小さく、けれど嬉しそうに笑う。
「あたし、この場所が好き。リーグも、スタッフのみんなも、四天王のみなさんも……すごく大切」
そして、ほんの一瞬。フランの視線がギーマへ向いた。
「……ギーマさんの近くで働けることも、すごく幸せだから」
言ったあとで、自分の言葉の意味に気づいたのか、フランはぼんっと音がしそうなほど赤くなった。
「あ、あの、今のは変な意味じゃなくて! 尊敬している方の近くで学べるのが幸せという意味で……!」
「そうか」
ギーマは優しく笑う。
「わたしも、きみが近くにいてくれて嬉しいよ」
「ひゃ……!」
フランが完全に固まる。ネルはその様子を見て、にやにやと笑った。
「へえー」
「お兄ちゃん、ほんとにその顔やめて……!」
勤務終了まであと一時間。フランはネルに向かって指を突きつけた。
「とにかく! あと一時間は待ってて! 大人しくしててよ? 絶対に変なこと言わないで!」
「はいはい」
「はいは一回!」
「はい」
「それと、スタッフさんたちに迷惑かけないで!」
「分かってるって」
ネルは軽く手を振る。しかし、そこでギーマが口を挟んだ。
「それなら、待ち時間の相手はわたしがしよう」
「えっ」
フランとネルの声が重なる。ギーマは涼しい顔で微笑んでいた。
「フランの兄君を、何のもてなしもなく一時間放っておくわけにはいかないだろう。ちょうど、わたしの控室に良い紅茶がある」
「えっ、マジっすか?! 行きます行きます!」
「お兄ちゃん?!」
ネルは完全に乗り気だ。フランは慌ててギーマの前に立つ。
「あ、あの、ギーマさん! 兄がご迷惑をおかけするかもしれないので、あたしがどこか休憩室に案内しますから……!」
「迷惑ではないよ」
ギーマはフランの耳元に少しだけ顔を寄せる。周囲からは見えない角度で、低く囁いた。
「きみのことを昔から知っている人物と話せる機会だ。降りる理由がないだろう?」
「……っ!」
「それに」
空色の瞳が、甘く細められる。
「きみが家族の前でどんな顔をするのか、もう少し知りたくなった」
フランは口をぱくぱくさせた。何も言えない。
そんな彼女の反応を楽しむように、ギーマはわずかに笑みを深めた。
「では、ネル。こちらへ」
「うっす! フラン、仕事終わるまで大人しく待ってるからなー」
「ほんとに大人しくしててよ?! 余計なこと言わないでよ?!」
「いやー、ギーマさんには昔のフランの話、いっぱいあるからなぁ」
「言わないでぇぇ!!」
フランの悲鳴が、イッシュリーグの廊下に響いた。ネルは笑いながらギーマについていく。
その背中を見送りながら、フランは顔を覆ってその場にしゃがみ込みそうになった。
「終わった……あたしの人生、終わった……」
そこへ、いつの間にか近づいてきていたシキミが、そっと肩に手を置く。
「大丈夫です、フランさん。物語はここから盛り上がるものですから!」
「盛り上がらなくていいですぅ……!」
カトレアはくすりと笑った。
「諦めなさい。ギーマ、相当機嫌が良かったわよ」
「ど、どうしてですか……?」
「恋人疑惑が兄妹だと分かった上に、昔からアナタが自分に夢中だった証言者が現れたのよ。あの男にとっては、思わぬ幸運のカードでしょうね」
「うぅ……」
フランは両手で真っ赤な顔を覆った。
「お兄ちゃん、絶対余計なこと言う……」
「言うでしょうね」
「カトレアさん……!」
「でも、悪いことばかりではないわ」
カトレアは控室へ消えていったギーマの背を思い出すように、目を細めた。
「ギーマは、アナタの過去を知りたがっている。アナタがどんなふうに自分を見つけて、どんなふうにここまで来たのか。……それを知って、きっとますます手放す気をなくすでしょうね」
「え……?」
フランが顔を上げる。
カトレアはそれ以上は言わず、優雅に踵を返した。
「まあ、頑張りなさい。あの勝負師に目をつけられた時点で、もう盤面から降りるのは難しいでしょうけれど」
「……?」
フランは意味が分からず首を傾げる。シキミだけが、にこにこと微笑んでいた。
一方その頃。ギーマの控室では、ネルが出された紅茶を遠慮なく飲みながら、実に楽しそうに妹の話をしていた。
「で、フランってば、ギーマさんのファンレター書く時だけめちゃくちゃ真剣で。普段はわりと勢いで動くタイプなのに、その時だけ辞書まで引っ張り出してきて――」
「ほう」
ギーマは向かいの席で、静かに紅茶を傾けていた。表情は穏やかだ。
しかし、その瞳は一言一句を逃すまいとしている。
「ギーマ様に失礼があったらどうしよう、って何回も書き直してたんすよ。俺が『そんなに悩むなら好きって書けば?』って言ったら、顔真っ赤にして怒って」
「……それは、可愛らしいね」
「でしょ?」
ネルは笑う。
「でも、ギーマさん」
その声が、少しだけ落ち着いたものになる。
「フラン、たぶん自分の気持ちを出すの苦手なんすよ。好きなものには一直線なんだけど、自分が迷惑かけるかもって思うと急に引くんで」
「……ああ」
「だから、もしあいつが変に遠慮してたら、ちょっと強引に引っ張ってやってください」
ギーマはカップを置いた。
「それは、兄としての頼みかな?」
「まあ、そうっすね」
ネルはまっすぐにギーマを見る。
「それと……男同士の勘、みたいなやつです」
ギーマはしばし沈黙した。そして、ふっと笑う。
「面白いね」
「何がっすか?」
「フランの兄であるきみが、わたしにそんなカードを渡してくるとは思わなかった」
ネルは肩をすくめた。
「だって、フランがあんな顔する相手、初めて見たんで」
「……」
「あいつ、ギーマさんの前だとほんと分かりやすいっすね」
「そうだね」
ギーマは甘く目を細める。
「配られたカードの裏まで透けて見えるほどに」
その声に含まれた熱に、ネルは一瞬だけ目を瞬かせた。そして、にやりと笑う。
「あー……なるほど」
「何かな?」
「いや。妹、頑張れって思っただけっす」
ギーマは答えず、ただ静かに笑った。それは余裕のある四天王の笑みであり、同時に、欲しいものを定めた勝負師の笑みでもあった。
フランの隣に突然現れた男。それは恋敵ではなく、兄だった。だがその兄は、思いがけずギーマに多くのものを教えてくれた。
フランの過去や努力。彼女の不器用な好意。そして、彼女が遠慮して自分から退こうとする癖。
なるほど。またひとつ、手札が増えた。
「……ネル」
「はい?」
「今日は来てくれてよかったよ」
「え、そうっすか?」
「ああ」
ギーマは空色の瞳を細めた。
「おかげで、次にわたしが切るべきカードが見えてきた」
ネルはその意味を完全には理解していなかった。けれど、なぜか背筋にぞくりとしたものを感じた。
この人は、やっぱりただの有名人でも、ただの四天王でもない。生粋の勝負師だ。
それも、欲しいものを見つけたら絶対に降りない類の。
「……フラン、ほんと頑張れ」
ネルは小さく呟いた。そして一時間後。勤務を終えたフランが恐る恐る控室へ迎えに来た時、ギーマはいつも以上に機嫌よく微笑んでいた。
「お疲れ様、フラン」
「お、お疲れ様です……。あの、お兄ちゃんが何か失礼なことを……」
「いいや。とても有意義な時間だったよ」
「有意義……?」
嫌な予感しかしない。フランがネルを見ると、兄はどこか遠い目で親指を立てた。
「フラン」
「な、なに……?」
「頑張れ」
「何を?!」
フランの悲鳴に、ギーマが低く笑う。そして彼は、フランの横を通り過ぎるほんの一瞬、彼女の髪を指先でそっとすくった。
「今度、きみがわたしへ初めて書いたファンレターの話も聞かせてもらおうかな」
「なっ……!?」
「ネルから少しだけ聞いてね。何度も書き直したそうじゃないか」
「お兄ちゃぁぁん!!」
フランが涙目で兄を振り返る。ネルは笑いながら両手を上げた。
「いやー、全部は言ってない! 全部は!」
「ちょっとは言ったんでしょ?!」
フランがぽかぽかと兄を叩く。その兄妹のやり取りを見つめながら、ギーマは静かに微笑んでいた。
もう、先ほどのような不快感はない。
むしろ、胸の奥には甘い確信がある。フランが自分を見つけた日。自分へ手紙を書いた日。自分と戦うために努力してきた日。
それらのすべてを、もっと知りたいと思った。
彼女の過去に、自分がどれほど深く刻まれているのか。
そしてこれから先、彼女の未来に、自分がどれほど強く居座れるのか。
確かめたい。いや、違う。確かめるだけでは足りない。その未来を、自分の手で取りに行く。
「……人生は、与えられたカードでの真剣勝負」
ギーマは誰にも聞こえないほど小さく呟いた。配られたカードに文句を言うよりも、どう使いこなすかが大事なのだ。
今日、突然現れた兄というカードは、最初こそギーマの胸をざわつかせた。
だが、正体が見えれば、これほど有用な手札もない。フランをもっと知るためのカード。
フランの家族に、自分の存在を刻み込むためのカード。そして、フラン自身に「ギーマは自分の過去ごと知りたがっている」と意識させるためのカード。
「まあいいさ」
ギーマは甘く笑った。勝負は、まだ始まったばかり。降りるつもりなど少しもなかった。
フランが自分のもとへ来た。ならば今度は、こちらが彼女を逃がさない番だ。
「フラン」
「は、はいっ!」
兄を叱っていたフランが、反射的に背筋を伸ばす。ギーマは優雅に微笑んだ。
「今度、きみの故郷の話も聞かせてくれ。カイナシティで、どんなふうに過ごしていたのか。ポチエナだった頃のエナの話も、ね」
「え……」
フランは驚いたように目を見開く。そして、少しだけ照れくさそうに笑った。
「……はい。あたしの話でよければ」
「きみの話が聞きたいんだよ」
「……っ」
また真っ赤になる。その反応を見て、ギーマは満足げに目を細めた。
ネルが横から小声で言う。
「フラン、顔真っ赤」
「お兄ちゃんは黙ってて!」
兄妹の賑やかな声が響く。カトレアは遠くからそれを眺め、静かに紅茶を傾けた。
「……まったく。面白い盤面になってきたわね」
シキミは嬉々としてメモ帳を開く。
「これは、嵐の前の甘い前奏ですね!」
レンブは腕を組み、何も言わずに頷いた。そしてギーマは、フランの笑顔を見つめながら、胸の奥でひとつの確信を深めていた。
彼女の過去も。現在も。未来も。
配られたカードをすべて使い切ってでも、自分のものにしてみせる。勝負師は、欲しいものを前にして自分から降りたりしない。ましてや、その欲しいものが――自分を追いかけてここまで来てくれた、世界で一番愛おしい小鳥ならば。
尚更だった。
ギーマはネルに向かって穏やかに問いかけた。
「ネルは、今日はフランを迎えに来たのかな?」
「そうっす! 久しぶりに帰ってきたんで、飯でも行こうかなって。こいつ、放っておくと仕事ばっかしてそうだし」
「お兄ちゃん、あたしちゃんと休んでるよ!」
「嘘つけ。昔から一回集中すると周り見えなくなるタイプだろ」
「う……」
フランが言葉に詰まる。ギーマはその反応を見て、薄く笑った。
「なるほど。よく見ているね」
「まあ、兄なんで!」
ネルは胸を張る。そのあまりにも真っ直ぐな言葉に、ギーマは一瞬だけ目を細めた。
兄。フランの昔を知り、家族として彼女を心配し、何のためらいもなく頭を撫でられる相手。恋敵ではない。
だが、盤面に置かれた駒としては、決して軽視できない。
この男は、フランの大切な家族だ。
ならば、いずれフランを本気で手に入れるつもりならば――この兄との関係も、雑に扱うわけにはいかない。
「ネル」
「はい?」
「フランは、リーグでとてもよく働いてくれているよ。頑張り屋で、気遣いができて、挑戦者にもポケモンにも真っ直ぐ向き合う。……こちらとしても、得難いスタッフだ」
「……へえ」
ネルの表情が、少しだけ変わった。軽い笑顔の奥に、兄としての目が見える。
「ギーマさん、フランのことよく見てくれてるんすね」
「ああ」
ギーマは迷わず答えた。
「よく見ているよ」
「……っ」
フランは隣で声にならない悲鳴を上げた。ギーマのその言い方は、ただの上司が部下を評価するものにしては甘すぎた。
ネルもそれに気づいたのか、にやりと口角を上げる。
「ふーん?」
「お、お兄ちゃん、その顔やめて」
「いやー? 別に?」
ネルはにこにこしながら、ギーマとフランを交互に見た。
「ギーマさん。うちのフラン、昔から真面目で頑張り屋なんすけど、無理しがちなんで。そこだけ見ててやってもらえると助かります」
急にまっすぐな声になった兄に、フランは驚いて目を見開いた。
「お兄ちゃん……」
「こいつ、しんどくても大丈夫って言うんで。ほんとに大丈夫な時ほど騒ぐし、逆にやばい時ほど笑うんすよ」
「ちょ、ちょっと……」
フランは慌てる。だがネルは続けた。
「だから、まあ……妹の職場の上司にこういうこと頼むのも変かもしんないですけど。よろしくお願いします」
その言葉に、ギーマの瞳が静かに揺れた。
フランが無理をすること。大丈夫ではない時ほど笑うこと。
それは、ギーマもすでに知っていた。けれど、兄から託される形で聞くと、その重みは少し違った。
ギーマはゆっくりと微笑む。
「任せてくれ」
その声は、いつもの飄々としたものではなかった。
「わたしの目が届く限り、彼女を無理に盤面へ立たせ続けるような真似はさせない。必要なら、こちらから手札を切るさ」
フランは胸を押さえた。そんなふうに言われたら、心臓が保たない。
ネルはしばらくギーマを見ていたが、やがて満足そうに笑った。
「なら安心っすね」
「お兄ちゃん……勝手に安心しないで……!」
「いいじゃん。お前、いい職場で働いてるんだな」
そう言われて、フランは少しだけ目を伏せた。
「……うん」
小さく、けれど嬉しそうに笑う。
「あたし、この場所が好き。リーグも、スタッフのみんなも、四天王のみなさんも……すごく大切」
そして、ほんの一瞬。フランの視線がギーマへ向いた。
「……ギーマさんの近くで働けることも、すごく幸せだから」
言ったあとで、自分の言葉の意味に気づいたのか、フランはぼんっと音がしそうなほど赤くなった。
「あ、あの、今のは変な意味じゃなくて! 尊敬している方の近くで学べるのが幸せという意味で……!」
「そうか」
ギーマは優しく笑う。
「わたしも、きみが近くにいてくれて嬉しいよ」
「ひゃ……!」
フランが完全に固まる。ネルはその様子を見て、にやにやと笑った。
「へえー」
「お兄ちゃん、ほんとにその顔やめて……!」
勤務終了まであと一時間。フランはネルに向かって指を突きつけた。
「とにかく! あと一時間は待ってて! 大人しくしててよ? 絶対に変なこと言わないで!」
「はいはい」
「はいは一回!」
「はい」
「それと、スタッフさんたちに迷惑かけないで!」
「分かってるって」
ネルは軽く手を振る。しかし、そこでギーマが口を挟んだ。
「それなら、待ち時間の相手はわたしがしよう」
「えっ」
フランとネルの声が重なる。ギーマは涼しい顔で微笑んでいた。
「フランの兄君を、何のもてなしもなく一時間放っておくわけにはいかないだろう。ちょうど、わたしの控室に良い紅茶がある」
「えっ、マジっすか?! 行きます行きます!」
「お兄ちゃん?!」
ネルは完全に乗り気だ。フランは慌ててギーマの前に立つ。
「あ、あの、ギーマさん! 兄がご迷惑をおかけするかもしれないので、あたしがどこか休憩室に案内しますから……!」
「迷惑ではないよ」
ギーマはフランの耳元に少しだけ顔を寄せる。周囲からは見えない角度で、低く囁いた。
「きみのことを昔から知っている人物と話せる機会だ。降りる理由がないだろう?」
「……っ!」
「それに」
空色の瞳が、甘く細められる。
「きみが家族の前でどんな顔をするのか、もう少し知りたくなった」
フランは口をぱくぱくさせた。何も言えない。
そんな彼女の反応を楽しむように、ギーマはわずかに笑みを深めた。
「では、ネル。こちらへ」
「うっす! フラン、仕事終わるまで大人しく待ってるからなー」
「ほんとに大人しくしててよ?! 余計なこと言わないでよ?!」
「いやー、ギーマさんには昔のフランの話、いっぱいあるからなぁ」
「言わないでぇぇ!!」
フランの悲鳴が、イッシュリーグの廊下に響いた。ネルは笑いながらギーマについていく。
その背中を見送りながら、フランは顔を覆ってその場にしゃがみ込みそうになった。
「終わった……あたしの人生、終わった……」
そこへ、いつの間にか近づいてきていたシキミが、そっと肩に手を置く。
「大丈夫です、フランさん。物語はここから盛り上がるものですから!」
「盛り上がらなくていいですぅ……!」
カトレアはくすりと笑った。
「諦めなさい。ギーマ、相当機嫌が良かったわよ」
「ど、どうしてですか……?」
「恋人疑惑が兄妹だと分かった上に、昔からアナタが自分に夢中だった証言者が現れたのよ。あの男にとっては、思わぬ幸運のカードでしょうね」
「うぅ……」
フランは両手で真っ赤な顔を覆った。
「お兄ちゃん、絶対余計なこと言う……」
「言うでしょうね」
「カトレアさん……!」
「でも、悪いことばかりではないわ」
カトレアは控室へ消えていったギーマの背を思い出すように、目を細めた。
「ギーマは、アナタの過去を知りたがっている。アナタがどんなふうに自分を見つけて、どんなふうにここまで来たのか。……それを知って、きっとますます手放す気をなくすでしょうね」
「え……?」
フランが顔を上げる。
カトレアはそれ以上は言わず、優雅に踵を返した。
「まあ、頑張りなさい。あの勝負師に目をつけられた時点で、もう盤面から降りるのは難しいでしょうけれど」
「……?」
フランは意味が分からず首を傾げる。シキミだけが、にこにこと微笑んでいた。
一方その頃。ギーマの控室では、ネルが出された紅茶を遠慮なく飲みながら、実に楽しそうに妹の話をしていた。
「で、フランってば、ギーマさんのファンレター書く時だけめちゃくちゃ真剣で。普段はわりと勢いで動くタイプなのに、その時だけ辞書まで引っ張り出してきて――」
「ほう」
ギーマは向かいの席で、静かに紅茶を傾けていた。表情は穏やかだ。
しかし、その瞳は一言一句を逃すまいとしている。
「ギーマ様に失礼があったらどうしよう、って何回も書き直してたんすよ。俺が『そんなに悩むなら好きって書けば?』って言ったら、顔真っ赤にして怒って」
「……それは、可愛らしいね」
「でしょ?」
ネルは笑う。
「でも、ギーマさん」
その声が、少しだけ落ち着いたものになる。
「フラン、たぶん自分の気持ちを出すの苦手なんすよ。好きなものには一直線なんだけど、自分が迷惑かけるかもって思うと急に引くんで」
「……ああ」
「だから、もしあいつが変に遠慮してたら、ちょっと強引に引っ張ってやってください」
ギーマはカップを置いた。
「それは、兄としての頼みかな?」
「まあ、そうっすね」
ネルはまっすぐにギーマを見る。
「それと……男同士の勘、みたいなやつです」
ギーマはしばし沈黙した。そして、ふっと笑う。
「面白いね」
「何がっすか?」
「フランの兄であるきみが、わたしにそんなカードを渡してくるとは思わなかった」
ネルは肩をすくめた。
「だって、フランがあんな顔する相手、初めて見たんで」
「……」
「あいつ、ギーマさんの前だとほんと分かりやすいっすね」
「そうだね」
ギーマは甘く目を細める。
「配られたカードの裏まで透けて見えるほどに」
その声に含まれた熱に、ネルは一瞬だけ目を瞬かせた。そして、にやりと笑う。
「あー……なるほど」
「何かな?」
「いや。妹、頑張れって思っただけっす」
ギーマは答えず、ただ静かに笑った。それは余裕のある四天王の笑みであり、同時に、欲しいものを定めた勝負師の笑みでもあった。
フランの隣に突然現れた男。それは恋敵ではなく、兄だった。だがその兄は、思いがけずギーマに多くのものを教えてくれた。
フランの過去や努力。彼女の不器用な好意。そして、彼女が遠慮して自分から退こうとする癖。
なるほど。またひとつ、手札が増えた。
「……ネル」
「はい?」
「今日は来てくれてよかったよ」
「え、そうっすか?」
「ああ」
ギーマは空色の瞳を細めた。
「おかげで、次にわたしが切るべきカードが見えてきた」
ネルはその意味を完全には理解していなかった。けれど、なぜか背筋にぞくりとしたものを感じた。
この人は、やっぱりただの有名人でも、ただの四天王でもない。生粋の勝負師だ。
それも、欲しいものを見つけたら絶対に降りない類の。
「……フラン、ほんと頑張れ」
ネルは小さく呟いた。そして一時間後。勤務を終えたフランが恐る恐る控室へ迎えに来た時、ギーマはいつも以上に機嫌よく微笑んでいた。
「お疲れ様、フラン」
「お、お疲れ様です……。あの、お兄ちゃんが何か失礼なことを……」
「いいや。とても有意義な時間だったよ」
「有意義……?」
嫌な予感しかしない。フランがネルを見ると、兄はどこか遠い目で親指を立てた。
「フラン」
「な、なに……?」
「頑張れ」
「何を?!」
フランの悲鳴に、ギーマが低く笑う。そして彼は、フランの横を通り過ぎるほんの一瞬、彼女の髪を指先でそっとすくった。
「今度、きみがわたしへ初めて書いたファンレターの話も聞かせてもらおうかな」
「なっ……!?」
「ネルから少しだけ聞いてね。何度も書き直したそうじゃないか」
「お兄ちゃぁぁん!!」
フランが涙目で兄を振り返る。ネルは笑いながら両手を上げた。
「いやー、全部は言ってない! 全部は!」
「ちょっとは言ったんでしょ?!」
フランがぽかぽかと兄を叩く。その兄妹のやり取りを見つめながら、ギーマは静かに微笑んでいた。
もう、先ほどのような不快感はない。
むしろ、胸の奥には甘い確信がある。フランが自分を見つけた日。自分へ手紙を書いた日。自分と戦うために努力してきた日。
それらのすべてを、もっと知りたいと思った。
彼女の過去に、自分がどれほど深く刻まれているのか。
そしてこれから先、彼女の未来に、自分がどれほど強く居座れるのか。
確かめたい。いや、違う。確かめるだけでは足りない。その未来を、自分の手で取りに行く。
「……人生は、与えられたカードでの真剣勝負」
ギーマは誰にも聞こえないほど小さく呟いた。配られたカードに文句を言うよりも、どう使いこなすかが大事なのだ。
今日、突然現れた兄というカードは、最初こそギーマの胸をざわつかせた。
だが、正体が見えれば、これほど有用な手札もない。フランをもっと知るためのカード。
フランの家族に、自分の存在を刻み込むためのカード。そして、フラン自身に「ギーマは自分の過去ごと知りたがっている」と意識させるためのカード。
「まあいいさ」
ギーマは甘く笑った。勝負は、まだ始まったばかり。降りるつもりなど少しもなかった。
フランが自分のもとへ来た。ならば今度は、こちらが彼女を逃がさない番だ。
「フラン」
「は、はいっ!」
兄を叱っていたフランが、反射的に背筋を伸ばす。ギーマは優雅に微笑んだ。
「今度、きみの故郷の話も聞かせてくれ。カイナシティで、どんなふうに過ごしていたのか。ポチエナだった頃のエナの話も、ね」
「え……」
フランは驚いたように目を見開く。そして、少しだけ照れくさそうに笑った。
「……はい。あたしの話でよければ」
「きみの話が聞きたいんだよ」
「……っ」
また真っ赤になる。その反応を見て、ギーマは満足げに目を細めた。
ネルが横から小声で言う。
「フラン、顔真っ赤」
「お兄ちゃんは黙ってて!」
兄妹の賑やかな声が響く。カトレアは遠くからそれを眺め、静かに紅茶を傾けた。
「……まったく。面白い盤面になってきたわね」
シキミは嬉々としてメモ帳を開く。
「これは、嵐の前の甘い前奏ですね!」
レンブは腕を組み、何も言わずに頷いた。そしてギーマは、フランの笑顔を見つめながら、胸の奥でひとつの確信を深めていた。
彼女の過去も。現在も。未来も。
配られたカードをすべて使い切ってでも、自分のものにしてみせる。勝負師は、欲しいものを前にして自分から降りたりしない。ましてや、その欲しいものが――自分を追いかけてここまで来てくれた、世界で一番愛おしい小鳥ならば。
尚更だった。
