ギーマ夢主の名前変換
ギーマ(BW)×固定夢主💮
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「ママ、パパと離婚して!」
アローラの朝は、今日もよく晴れていた。
窓の外では海が光り、食卓には焼きたてのパンと切り分けた果物が並んでいる。エナは床に落ちるかもしれない幸運を待って椅子の下に控え、キキは、その鼻先がテーブルへ近づきすぎるたび、無言で前脚を伸ばしていた。
そんな穏やかな朝食の席に、たいへん物騒な要求が響く。フランは、手にしていたジャムの瓶を置いた。
「しません」
「なんで!」
「ママはパパが大好きだからです」
「あたしもパパだいすき!」
「知ってる。でも、絶対譲りません」
母と娘は、真剣な顔で見つめ合った。
娘は父親の膝に座り、その首に両腕を回している。昨日までお気に入りだった花の髪飾りは、今朝にはもう違うものへ替わっていた。身支度のたびに鏡を覗き込み、父親に「可愛いね」と言ってもらうまで、なかなか部屋から出てこない。
おませで、お転婆で、綺麗なものに目がない。
とりわけ、父親によく似た涼しい顔をした男の人を見つけると、少しだけ声がよそ行きになる。
そして目下のところ、娘にとって世界で一番格好いい男の人は、間違いなく自分の父親であるギーマだった。
「パパ、あたしがおおきくなったら、結婚してね」
「それはできない相談だね」
「どうして?!」
「わたしはママと結婚しているし、きみの父親だからさ」
ギーマは、娘の口元についたジャムを布巾で拭ってやる。
「きみには、きみが大きくなってから見つける、大切な相手がいるだろう。その時まで、わたしは父親として、きみを大切にするよ」
ずいぶん丁寧に断られた娘は、納得のいかない顔で頬を膨らませた。
「ママ、ずるい!!」
「ふふ。ママだって、やっと結婚してもらえたんだから」
「おや。申し込んだのは、わたしだったはずだが」
「ギーマさんは今、ちょっと黙っててください」
「これは失礼」
笑いを含んだ声でそう答えた夫を、フランは軽く睨む。もっとも、その目元はちっとも怒っていなかったが。
その隣で、息子は黙々とパンを食べていた。
姉とは対照的に、朝から大声を出すことはない。両親と姉のやり取りをじっと眺め、時々カップを持ち上げるだけで、表情もほとんど変わらない。
けれど、フランが空いた皿を持って立ち上がると、息子はすぐに椅子を引いた。
「母さん、ここ」
「ん?」
「エナ、いるから」
足元に寝そべっているグラエナを示し、自分の側を通るよう促してくれる。
「あ、ほんとだ。ありがとう」
フランが頭を撫でると、息子は目を伏せた。口元だけが、ほんの少し緩む。
娘が父親の膝から飛び降りようとした時も、彼は先に床へ目をやった。
「待って。リボン、おちてる」
「あっ、あたしの!」
拾い上げて手渡し、それから小さな手を差し出す。姉は何のためらいもなくその手を借りて、床に降りた。それを見ていたギーマが、微かに眉を上げる。
「見事なエスコートだ」
息子は何でもないような顔をした。ただ、食べ終えた皿を運ぶ足取りが、先ほどより少しだけ軽くなった。
フランはその背中を見送りながら、笑いを堪える。
父親であるギーマによく似ている。ひとりでいるのを好むところも、気持ちを全部は顔に出さないところも、好きな相手へ何かをしてやる時だけ、やけに細かいところまで目が届くところも。
そして何より、本人が思っているほど、喜びを隠せていないところまで。
***
双子が生まれたばかりの頃、二人に朝食の席で言い合うような余裕はなかった。片方がようやく眠ると、もう片方が泣き出す。
その声で、せっかく寝ついた方も目を覚ます。フランが娘を抱いて部屋を歩き、ギーマが息子を抱いて隣を歩く。ようやく静かになったかと思えば、今度はどちらともなく笑いそうになって、二人で必死に声を潜めた。
いつもなら隙なく整えられている髪も、その頃はしばしば乱れていたこともあった。
「……ギーマさん、髪、はねてます」
「きみもね」
「えっ」
「直す手が空かないという点では、お互い様だ」
そう言う彼の腕の中で、息子が小さく声を上げる。
途端にギーマの顔が真剣になって、フランは疲れたまま、どうしようもなく笑ってしまった。
手持ちのポケモンたちも、そんな二人の暮らしに少しずつ加わっていった。
エナは落ちた服やぬいぐるみをはりきって運んでくれた。ただし頼まれていない靴下まで持ってくるため、回収係のキキが後ろをついて歩くことになる。
レパルダスは最初こそ騒がしい小さな同居人たちを遠巻きに眺めていたものの、泣き声が聞こえると、いつの間にかギーマの袖を引くようになった。
フランが眠り込んでいる時には、起こす相手をきちんと選んでいるらしい。
「きみも、わたし達の手助けをしてくれるのかい?」
「ニャア」
「ふふ、ありがとう」
そう言いながら立ち上がるギーマを、レパルダスは当然だと言いたげに見上げた。
人の助けも、ずいぶん借りた。シキミは訪れるたび、双子に読み聞かせる本と、両親が片手でも食べられるお菓子を持ってきた。カトレアは「アナタたちは少し眠りなさい」と二人を部屋へ追いやり、起きてきた頃には、客間で双子とポケモンたちを従えて悠々と紅茶を飲んでいた。
レンブが来れば、育ち盛りの二人は存分に遊んでもらえた。
「もういっかい!」
「よかろう。だが、その前に水を飲むのだ」
何度でも付き合ってくれるので、娘は彼の姿を見ただけで靴を取りに走ったし、息子も静かにその後を追った。
クチナシは、時折ふらりと顔を出した。
ある日、包みを渡されて、フランが「子どもたちのおやつですか?」と尋ねると、彼は気怠そうに首を振った。
「お前さんらが食う分。どうせ自分たちのことは後回しにしてんだろ」
言い返せずにいる二人を見て、クチナシは小さく鼻で笑った。
「ほら、冷めるよ」
そうして、誰かに手を借りながら、二人は少しずつ親になっていった。
大変なことは、もちろん今もなくならない。
ただ、泣き声を聞き分けることから始まった毎日は、いつしか、二人分の「みて!」に同時に返事をする毎日へ変わっていた。
そして双子は、性格こそまるで違うけれど、ポケモンバトルの話になると、不思議なほどよく似た顔をした。
その日の午前中も、庭では小さな練習会が開かれた。
「エナ、いまだよ!」
娘が弾む声で呼ぶと、エナが勢いよく駆け出す。
向かい側に立つ息子は、レパルダスの動きをじっと見ていた。いつもの静かな目に、はっきりした熱が宿っている。
「……まだ。もうちょっと」
そして、エナが踏み込む直前。
「いま、よけて!」
紫の身体が軽やかに身を翻す。娘が「あーっ!」と声を上げ、息子の唇の端がわずかに上がった。
ギーマは二人の間に立ち、ポケモンたちの様子を見ながら、頃合いを見て休憩を告げる。
「次は、今と違う動き方を考えてごらん。同じ手ばかりでは、相手も覚えてしまうからね」
「パパともバトルしたい!」
「ぼくも」
「それは手強い挑戦だ」
ギーマがフランの方を振り返った。
「援軍を頼めるかい」
「ふふ。じゃあ、次は家族で組み分けですね」
その言葉に、娘と息子は同時に顔を上げた。今度ばかりは、息子の目が輝いたのも、フランにははっきり分かった。
***
午後のお茶の時間は、午前中より幾分静かだった。娘はソファで絵本を広げ、息子は少し離れた低いテーブルで、トランプの塔を作っている。
積み上げる時の横顔は、驚くほど真剣だった。カードの端をそろえる指先まで、どこか父親の仕草に似ている。
ギーマはその傍らに腰を下ろし、邪魔をしないよう、ときどき手元を見るだけにしていた。
フランが飲み物を運んできた時、娘が絵本から顔を上げた。
「ねえ、パパ」
「なんだい」
「はつこいって、いちばん最初に好きになった人のこと?」
「そうだね」
シキミにもらった絵本には、どうやら王子様の初恋のお話が出てくるらしい。
娘は少し考えた。それから、いいことを思いついたという顔で、ぱっと身を乗り出す。
「じゃあ、パパの初恋っていつなの?!」
フランの手が、わずかに止まる。ほんの少しだけ、興味があった。
もちろん、今のギーマが誰を愛しているのかは知っている。けれど彼にも、自分と出会う前の長い時間がある。子どもだった頃の彼が、どんな相手に心を動かしたのか。あまりちゃんと聞いたことがなかったから、興味を惹かれる。
息子も、次の一枚を持ったまま動きを止めていた。
父親の話は、興味がないふりをしても、きちんと聞いているのだ。
ギーマはすぐには答えなかった。一度だけフランを見て、それから、窓の向こうへ視線を向ける。
海から入る風が、カーテンの裾を揺らしていた。
「……きみたちより、もう少し大きかった頃かな」
「こどもの時?」
「ああ」
「どんな人?」
娘が真剣な顔で尋ねてきて、ギーマは目を細めた。
その表情を見た瞬間、フランはなぜか、遠いものに触れたような気がした。
「……昔、わたしが家出をした時にね、砂漠で迷子になっている、ポチエナを連れたお姫様を見つけたんだ」
カップの底が、ソーサーに小さくかちり、と触れた。
「その子は、わたしの拙いエスコートをとても楽しんでくれて、別れ際にわたしの幸せを願ってくれた、とても心優しい子だったのさ」
フランは、かなしばりにでもあったかのように動けなかった。
砂漠。ポチエナ。家出をした男の子。
胸の奥で、長い間、大切にしまっていた引き出しが開く。
肌に当たる砂の痛み。目を開けていられないほどの風。腕の中で不安そうに鳴いていた、小さなエナの体温。
そして、その風を遮るように、自分の前へ立ってくれた誰かの背中。
「……えっ?」
フランが発した声に気づき、娘が振り向いた。
「ママ?」
「えっ……?えっ?!そ、それ……それって……!!」
フランは慌ててカップをテーブルへ置いて、そのままギーマを見る。
いつも見ている顔だ。朝、寝癖のついた髪で振り返る顔も、子どもたちを抱き上げる時の顔も、自分をからかって楽しそうに笑う顔も、全部知っている。
なのに、その瞳を見た瞬間。砂除けの布の奥から覗いた、あの空色が、鮮やかに蘇った。
「……ライモン、シティで」
声が、ひどく小さくなった。ギーマは黙って頷く。
「マカロンを……全部、ひとつずつ、買ってくれて」
「ああ」
「観覧車に乗って……ミュージカルも見て……それから、カフェで、エネココアを……」
「きみは、ずいぶん美味しそうに飲んでいたね」
フランは両手で口元を覆った。記憶の中の少年が、笑う。
綺麗な手を差し出してくれた。
泣いている自分に、我慢しろとは言わなかった。
寂しいと訴える気持ちを、否定しなかった。
嫌いになりかけていた街を、たった一日で、楽しい場所へ変えてくれた。
「……あの時の王子様が」
目の前の夫を、信じられない思いで見つめる。
「ギーマさん、だったんですか……?」
ギーマは、ゆっくり微笑んだ。
「ずいぶん、お待たせしてしまったね。お姫様」
フランの顔が、耳まで赤くなった。息子の手から、カードが一枚滑り落ちる。
娘は父と母の顔を交互に見て、それから大きな声を上げた。
「おひめさまって、ママ?!」
「ああ」
「パパのはつこい、ママなの?!」
「そういうことさ」
娘は、ぽかんと口を開けた。息子は床のグラエナへ目を向ける。
「……ポチエナは、エナ?」
呼ばれたエナが、顔を上げた。ぱたん、と尻尾が床を叩く。
フランはその頭を見下ろした途端、ますます胸がいっぱいになった。
あの日、自分の腕に抱かれていた小さな相棒。
今はすっかり大きくなって、自分の子どもたちと一緒に暮らしている。
「そう……エナ。あの時も、エナが一緒にいて……」
声が揺れた。ギーマが立ち上がり、フランの隣へ来る。
「座ろうか」
差し出された手を見て、フランはまた動けなくなった。あの時と同じだった。
もちろん、大きさも、指の長さも違う。
けれど、急かさずに待ってくれる仕草が。彼女が掴むと、確かに支えてくれる力が。
こんなにも、同じだった。
***
「いつから、分かっていたんですか……?」
ソファへ座っても、フランはまだ落ち着かなかった。
娘は二人の前へ移動し、息子もトランプを置いてそばに来ている。今や、父親の昔話は、塔の続きよりも大切なことになったらしい。
ギーマは、妻の手を握ったまま答えた。
「随分と前……イッシュにいた頃、シキミとカトレアにきみが初恋の話をしていたことがあっただろう?」
「あ……」
引っ越してきたばかりの頃は、あの街が好きではなかったこと。けれど、親切な男の子に案内してもらって、楽しい思い出ができたこと。
フランの初恋を聞かれて、そんな話をした覚えがあった。
「あれを聞いて、ずっと前から確信していた。きみがホウエンから越してきたことも、エナがポチエナだった頃から一緒にいることも、知っていたからね」
「じゃあ……」
「やっと、種明かしができたね」
フランは、しばらく言葉を探した。聞きたいことが、いくつもあった。
どうしてもっと早く気づかなかったのだろう。
どうして、自分たちはこんなに長い間、同じ思い出を別々に抱えていたのだろう。
けれど、ようやく口から出てきたのは、まったく別の言葉だった。
「……拙くなんて、なかったです」
ギーマが目を瞬かせる。
「ん?」
「エスコート、拙くなんてなかったです。あたしには、本当に……王子様みたいでした」
フランは、恥ずかしそうに目を伏せた。
「怖かったのが、どんどんなくなって。楽しくなって……この街にも、こんなに素敵なことがあるんだって、思えて」
思い出せる。観覧車の窓の向こう。灯りのともり始めた街。
隣に座る少年の横顔を、こっそり見つめていた自分。
今日が終わらなければいいのにと、幼いなりに願ったことも。
「でも、お兄さんも家出をしてきたって聞いて……楽しそうなのに、時々、すごく寂しそうだったから」
ギーマは静かに聞いていた。
「あたしばっかり、こんなに嬉しい思いをしていいのかなって。お兄さんにも、いいことがたくさんあったらいいなって……」
「……ああ」
彼の親指が、フランの手の甲をなぞった。
「きみは、そう言ってくれた」
あの時、少女は家族のもとへ帰っていった。
父親と母親に抱きしめられ、兄に頭を撫でられている姿を見て、少年はひとまず安心した。
自分の役割は終わったのだと、その場を離れようとした。
けれど、小さな足音が追いかけてきて、手を掴まれた。
自分が与えた楽しい時間を、最後に、両手いっぱいにして返そうとするように。
「お兄さんに、たくさん幸せなことがありますように」
フランの口から、あの日の言葉がこぼれた。
ギーマは、ほんの少し目を伏せた。
「……そう。その言葉だ」
娘が、二人の手を覗き込んだ。
「パパ、それ、うれしかった?」
「とても」
返事は、すぐだった。
「わたしはあの日、何もかもが少し嫌になっていたんだ。家で教えられたことも、どう振る舞うべきかという話も、全部ね」
子どもたちにも分かるように、ギーマはゆっくり話した。
「それなのに、きみたちのママに会ったら、教わったことが初めて、誰かを喜ばせるために使えた」
手を差し出すこと。歩く速さを合わせること。相手が欲しそうにしているものを見つけること。
堅苦しく思っていた振る舞いのひとつひとつに、少女は驚き、喜び、笑ってくれた。
「屋台の前でも、観覧車でも、ショーを見ている時でも、本当に楽しそうでね。次は何を見せたら喜ぶだろうと、そんなことばかり考えていた」
「……あたし、そんなに」
「そんなに、だよ」
ギーマは笑った。からかう響きはあったけれど、いつもよりずっと優しかった。
「家の名前も、わたしに何ができるかも、きみは何も知らなかった。ただ、一緒に過ごしたわたしの幸せを願ってくれた」
彼は少しだけ言葉を切った。
「嬉しくて……別れるのが、惜しかった」
フランの胸が、きゅっと鳴った。
「当時は、その気持ちを恋と呼んでいいのかも、よく分かっていなかった。ただ、また会えたらいいと思った。あの子が笑っているところを、もう一度見たいとね」
窓の外で、風が鳴った。あの日の砂嵐とは違う、穏やかな海風だった。
ギーマは、隣にいる妻を見る。家出をしていた少女は、大人になった。
リーグで自分に挑み、やがて同じ場所で働くようになり、話しかけるたびに、あの日と同じように表情を変えた。
何度も笑わせてもらった。
何度も、そばにいてほしいと思った。
そして、すべてを失ったと思い込んでいた自分のもとへ、この人は海を渡って会いに来た。
名前を知らなかった頃から、彼女は何度も、彼のいる場所に明かりをともしていたのだ。
「……今にして思えば、わたしはずっと昔から、きみに救われていたんだよ、フラン」
フランの目から、涙が一粒こぼれた。
娘が、ぎょっと顔を上げる。
「ママ、ないてる」
「うん……ちょっと、びっくりしちゃって」
「パパが、かなしませた?」
「違うよ」
フランは慌てて笑った。
「嬉しいの。すごく」
すると、横から小さな手が伸びてきた。息子が、ハンカチを差し出していた。
「……これ」
「ありがとう」
「こっち、かわいてる」
きちんと折って、使っていない面をこちらへ向けてくれている。それがまたどうしようもなく愛しくて、フランは泣き笑いになった。
「もう……二人とも、パパに似て、優しいね」
「あたしも!」
娘が勢いよくフランの膝へ手を置いた。今度は父親ではなく、母親のそばへ来る。
「ママ、ぎゅってしてあげる」
「ふふ。ありがとう」
抱きしめてやると、娘はフランの首に腕を回した。
その小さな背中を撫でながら、フランはギーマを見上げる。
「……あたしの初恋も」
ギーマの表情が、わずかに変わった。
「あのお兄さん、でした」
今度は、彼の方が黙った。フランは視線を落とした。
夫婦になって、子どもまで生まれて、それでもこんなことを言うのは、やはりひどく恥ずかしい。
「名前も分からなかったし、どこに住んでいるのかも知らなかったから……もう会えないんだろうなって、思ってました。でも、ずっと覚えてたんです」
自分を、お姫様と呼んでくれた人。
イッシュを好きになりたいと、思わせてくれた人。
「大人になってからも、時々思い出してました。あのお兄さん、幸せになってたらいいなって」
ギーマの指が、フランの手を握り直した。
「きみは……そんなことまで、願っていてくれたのか」
「だって、好きだったんですもん」
言ってから、フランは真っ赤になった。目の前には子どもたちがいる。
それなのに、まるで初めて告白した時のように、心臓が忙しかった。
「お兄さんと、ギーマさんと……二人の人を好きになったんだと思っていたのに」
涙の残る目で、彼を見る。
「同じ人、だったんですね」
ギーマはしばらく何も言わなかった。ただ、目元をやわらかくして、フランを見つめていた。
やがて、彼は妻の手を持ち上げた。結婚指輪のすぐそばへ、唇が触れる。
「それは……光栄だね」
「ギーマさん……」
「二度も、きみに選んでもらえたのだから」
フランが何も返せずにいると、膝の上から、不満そうな声がした。
「ずるい」
二人は同時に娘を見た。娘は、眉を寄せていた。
「ママ、あたしがうまれる、ずーっと前からパパのこと好きだったの?」
「……そうだね」
「パパも?」
「ああ」
「じゃあ、あたし、まにあわないじゃん」
その言い方があまりにも真剣で、フランはとうとう笑ってしまった。
「そこを競争してたの?」
「してた!」
「そうかあ……ごめんね。でも、ママも、こればっかりは譲れないなあ」
娘はしばらく考え込んだ。父親と母親を交互に見る。
そして、母親の頬に残る涙を、小さな指でそっと触った。
「……でも、ママ、パパといると、うれしい?」
「うん。嬉しいよ」
「パパも?」
ギーマが頷く。
「とてもね」
娘は仕方なさそうに、大きなため息をついた。
「じゃあ、ずっと、けっこんしてていいよ」
「それは、どうもありがとう」
ギーマが真面目な顔で礼を言う。
「でも、パパのとなり、あたしもすわるからね」
「もちろん」
「ママのとなりも」
「いいの?」
「ママもすきだもん」
フランは、娘をもう一度抱きしめた。
小さな声で「知ってるよ」と答えると、娘は得意そうに笑った。
***
「……父さん」
それまで静かに聞いていた息子が、口を開いた。
「なんだい」
「母さんのおねがい、かなった?」
息子は少し考えながら言葉を続ける。
「しあわせなこと、たくさん、あった?」
フランの膝の上で、娘も顔を上げた。二人とも、父親の答えを待っていた。
ギーマは、すぐには返事をしなかった。
目の前には、息子がいる。指先には、カードの端を何度もそろえていた跡がある。父親の真似をしてコインを弾いては、まだ上手く受け止められず、床のどこかへ転がしてしまう。
それでも、毎日また練習をする。
妻の膝には、娘がいる。朝から元気に駆け回り、レパルダスのように綺麗になりたいと言った次の瞬間には、エナと庭へ飛び出している。
自分を取り合っていたはずの母親が泣けば、真っ先に抱きついてやろうとする。
そして、その二人に挟まれて、愛しいポケモン達に囲まれながらフランが笑っている。
窓辺には、結婚式の日に撮った写真。棚には、友人たちから贈られた絵本や玩具。
あまりに日常に溶け込んでいて、ひとつずつ数えようとしなければ見落としてしまいそうなほど、たくさんのものが、そこにあった。
「ああ」
ギーマは息子へ手を伸ばした。小さな身体を、自分の膝へ抱き上げる。
「ママの願いは、よく叶っている。わたし一人では、数えきれないほどに」
父親の顔を見て、双子たちは満足そうに笑う。
「よかったね、パパ」
「本当にね」
フランは娘を抱く腕に、少しだけ力を込める。あの日の自分に、教えてやりたいと思った。
砂漠で迷って、泣いていた、小さな自分。
帰り道も分からず、ポチエナを抱きしめることしかできなかった自分。
あの男の子は、ちゃんと幸せになるよ、と。
貴方の知らないところで、ではなく。
いつか、貴方が隣で笑いながら、確かめられるようになるよ、と。
***
「つぎにイッシュへ行ったら、そのかんらんしゃ、乗りたい」
お茶を飲み終えた頃、娘が言った。
「パパとママが乗ったやつ」
「ぼくも」
息子も、珍しくすぐに続いた。
「いいね。みんなで乗ろうか」
フランが答えると、娘は身を乗り出した。
「エナも?」
「エナも一緒に行こうね」
「バトルもできる?」
話がそちらへ転ぶと、息子まで顔を上げる。ギーマが笑った。
「そちらが本命かな」
「かんらんしゃも!」
「バトルも」
二人とも、譲る気はなさそうだった。
「では、忙しい旅になりそうだ」
ギーマはそう言って、膝の上の息子を下ろした。
息子はトランプの塔へ戻ろうとして、途中で立ち止まる。
娘の足元で、エナが長く伸びて眠っていた。
息子は少し考えてから、姉へ手を差し出した。
「こっちなら、とおれる」
娘は、その手を見た。それから、先ほどの昔話を思い出したのだろう。
「えすこーと?」
息子の耳が、わずかに赤くなった。
「……うん」
「じゃあ、お願い」
小さな手がつながる。
息子は姉の歩幅を確かめながら、エナを踏まないように、ゆっくり進んだ。
その後ろ姿を、フランとギーマは黙って見送った。
「……そっくりですね」
フランが小さく言った。
「きみにも似ているよ」
「そうですか?」
「人に優しくしてもらった時、あんなに嬉しそうにするところはね」
娘は弟に「ありがとう」と言って、満足そうに笑っていた。
息子は何でもないふりで頷いてから、カードの前に座る。
けれど、今度は自分の隣を少し空けた。
姉がそこを覗き込むと、一枚のカードを差し出す。
ひとりで作りたかった塔に、今日は姉の席もできたらしい。
フランは、胸の奥がふわりと温かくなるのを感じた。
「ギーマさん」
「なんだい」
「あの時……あたしを、見つけてくれて、ありがとうございました」
夫がこちらを向いた。
「ちゃんと、お礼を言えたつもりだったんですけど。今、改めて言いたくなっちゃいました」
フランは、そっと彼の手を取った。
「あの日、あたし、すごく幸せでした」
ギーマは、握られた手を見つめた。
あの夕暮れにも、こうして両手で掴まれた。
小さかった手は、大人の手になっている。
薬指には、自分と同じ指輪がある。
「わたしもだよ」
静かな声が返ってきた。
「少なくとも、あの日のわたしは、帰る時には家を出た時とは違う気持ちでいた」
「……はい」
「きみが、わたしの一日まで、楽しいものにしてくれたからね」
フランは照れくさそうに笑った。
「じゃあ……やっぱり、二人とも家出してきて、二人とも助けてもらったんですね」
「そういうことになる」
「子どもたちには、真似してほしくないですけど」
「それには同意するよ」
二人で顔を見合わせ、声を潜めて笑った。
向こうでは、娘がカードを立てる位置について一生懸命相談している。
息子は少し考えてから、ひとつ隣を指した。
エナの尻尾が近づき、キキが間へ入る。
レパルダスは高い場所から、その小さな工事現場を眺めていた。
フランがもう一度、ギーマの手を握る。
「……これからも、たくさん、幸せなことがありますように」
彼が目を上げた。フランは、あの日と同じように笑っていた。けれど今度は、別れ際の祈りではなかった。
「あたしも、一緒に増やしていきますから」
ギーマはしばらく彼女を見つめていた。
それから、額へそっと唇を寄せる。
「頼もしいお姫様だ」
「ギーマさんの、妻ですから」
「そうだった」
その声があまりに嬉しそうで、フランはまた頬を赤くした。
すると、すぐに娘の声が飛んできた。
「パパ!ママにだけ、ずるい!」
フランが吹き出す。ギーマも肩を揺らして笑った。
「きみもおいで」
「いく!」
「走らないで。カードが――」
息子の注意は、ほんの少し遅かった。娘の足音と、エナが起き上がる音。
ひらひらと、数枚のカードが舞った。フランは思わず立ち上がった。
「あっ……!」
小さな沈黙が落ちる。やがて、娘が弟の前へしゃがみ込んだ。
「……ごめん。なおすの、てつだう」
息子は崩れた塔を見ていたが、少しして、小さく頷いた。
「今度は、ここ、走らないで」
「うん」
ギーマも二人の前へ腰を下ろし、散らばったカードを拾った。
「では、今度は四人で作ろうか」
息子が顔を上げる。
「父さんも?」
「ああ」
「ママも?」
フランは、両側から向けられた期待の目に笑った。
「もちろん。エナたちは、ちょっと向こうで応援しててね」
エナが不満そうに鼻を鳴らしたが、キキに促されて少し離れた場所へ移動する。
レパルダスがひとつ、あくびをした。
ギーマが二枚のカードを立て、息子がその横へ次を置く。
娘は息を止め、フランは倒れないよう、テーブルへそっと手を添えた。
四人の顔が、ひとつの小さな塔の周りに集まっている。
その真剣な顔を見回して、ギーマは、ふと笑った。
「父さん、動くと倒れる」
「ああ。すまない」
注意されて、笑いを収めようとする。けれど、どうしても口元が緩んだ。
砂嵐の向こうで出会った少女は、別れ際、彼の幸せを願ってくれた。
その少女が今、隣で息を潜めている。
二人の子どもたちと一緒に、倒れてしまったものを、もう一度作ろうとしている。
あの日の自分に教えてやりたい。砂漠で出逢ったお姫様が、今こんなにも、自分のことを幸せで満たしてくれていることを。
ギーマは指先を静かに動かし、最後の一枚を、息子の小さな手へ渡した。
アローラの朝は、今日もよく晴れていた。
窓の外では海が光り、食卓には焼きたてのパンと切り分けた果物が並んでいる。エナは床に落ちるかもしれない幸運を待って椅子の下に控え、キキは、その鼻先がテーブルへ近づきすぎるたび、無言で前脚を伸ばしていた。
そんな穏やかな朝食の席に、たいへん物騒な要求が響く。フランは、手にしていたジャムの瓶を置いた。
「しません」
「なんで!」
「ママはパパが大好きだからです」
「あたしもパパだいすき!」
「知ってる。でも、絶対譲りません」
母と娘は、真剣な顔で見つめ合った。
娘は父親の膝に座り、その首に両腕を回している。昨日までお気に入りだった花の髪飾りは、今朝にはもう違うものへ替わっていた。身支度のたびに鏡を覗き込み、父親に「可愛いね」と言ってもらうまで、なかなか部屋から出てこない。
おませで、お転婆で、綺麗なものに目がない。
とりわけ、父親によく似た涼しい顔をした男の人を見つけると、少しだけ声がよそ行きになる。
そして目下のところ、娘にとって世界で一番格好いい男の人は、間違いなく自分の父親であるギーマだった。
「パパ、あたしがおおきくなったら、結婚してね」
「それはできない相談だね」
「どうして?!」
「わたしはママと結婚しているし、きみの父親だからさ」
ギーマは、娘の口元についたジャムを布巾で拭ってやる。
「きみには、きみが大きくなってから見つける、大切な相手がいるだろう。その時まで、わたしは父親として、きみを大切にするよ」
ずいぶん丁寧に断られた娘は、納得のいかない顔で頬を膨らませた。
「ママ、ずるい!!」
「ふふ。ママだって、やっと結婚してもらえたんだから」
「おや。申し込んだのは、わたしだったはずだが」
「ギーマさんは今、ちょっと黙っててください」
「これは失礼」
笑いを含んだ声でそう答えた夫を、フランは軽く睨む。もっとも、その目元はちっとも怒っていなかったが。
その隣で、息子は黙々とパンを食べていた。
姉とは対照的に、朝から大声を出すことはない。両親と姉のやり取りをじっと眺め、時々カップを持ち上げるだけで、表情もほとんど変わらない。
けれど、フランが空いた皿を持って立ち上がると、息子はすぐに椅子を引いた。
「母さん、ここ」
「ん?」
「エナ、いるから」
足元に寝そべっているグラエナを示し、自分の側を通るよう促してくれる。
「あ、ほんとだ。ありがとう」
フランが頭を撫でると、息子は目を伏せた。口元だけが、ほんの少し緩む。
娘が父親の膝から飛び降りようとした時も、彼は先に床へ目をやった。
「待って。リボン、おちてる」
「あっ、あたしの!」
拾い上げて手渡し、それから小さな手を差し出す。姉は何のためらいもなくその手を借りて、床に降りた。それを見ていたギーマが、微かに眉を上げる。
「見事なエスコートだ」
息子は何でもないような顔をした。ただ、食べ終えた皿を運ぶ足取りが、先ほどより少しだけ軽くなった。
フランはその背中を見送りながら、笑いを堪える。
父親であるギーマによく似ている。ひとりでいるのを好むところも、気持ちを全部は顔に出さないところも、好きな相手へ何かをしてやる時だけ、やけに細かいところまで目が届くところも。
そして何より、本人が思っているほど、喜びを隠せていないところまで。
***
双子が生まれたばかりの頃、二人に朝食の席で言い合うような余裕はなかった。片方がようやく眠ると、もう片方が泣き出す。
その声で、せっかく寝ついた方も目を覚ます。フランが娘を抱いて部屋を歩き、ギーマが息子を抱いて隣を歩く。ようやく静かになったかと思えば、今度はどちらともなく笑いそうになって、二人で必死に声を潜めた。
いつもなら隙なく整えられている髪も、その頃はしばしば乱れていたこともあった。
「……ギーマさん、髪、はねてます」
「きみもね」
「えっ」
「直す手が空かないという点では、お互い様だ」
そう言う彼の腕の中で、息子が小さく声を上げる。
途端にギーマの顔が真剣になって、フランは疲れたまま、どうしようもなく笑ってしまった。
手持ちのポケモンたちも、そんな二人の暮らしに少しずつ加わっていった。
エナは落ちた服やぬいぐるみをはりきって運んでくれた。ただし頼まれていない靴下まで持ってくるため、回収係のキキが後ろをついて歩くことになる。
レパルダスは最初こそ騒がしい小さな同居人たちを遠巻きに眺めていたものの、泣き声が聞こえると、いつの間にかギーマの袖を引くようになった。
フランが眠り込んでいる時には、起こす相手をきちんと選んでいるらしい。
「きみも、わたし達の手助けをしてくれるのかい?」
「ニャア」
「ふふ、ありがとう」
そう言いながら立ち上がるギーマを、レパルダスは当然だと言いたげに見上げた。
人の助けも、ずいぶん借りた。シキミは訪れるたび、双子に読み聞かせる本と、両親が片手でも食べられるお菓子を持ってきた。カトレアは「アナタたちは少し眠りなさい」と二人を部屋へ追いやり、起きてきた頃には、客間で双子とポケモンたちを従えて悠々と紅茶を飲んでいた。
レンブが来れば、育ち盛りの二人は存分に遊んでもらえた。
「もういっかい!」
「よかろう。だが、その前に水を飲むのだ」
何度でも付き合ってくれるので、娘は彼の姿を見ただけで靴を取りに走ったし、息子も静かにその後を追った。
クチナシは、時折ふらりと顔を出した。
ある日、包みを渡されて、フランが「子どもたちのおやつですか?」と尋ねると、彼は気怠そうに首を振った。
「お前さんらが食う分。どうせ自分たちのことは後回しにしてんだろ」
言い返せずにいる二人を見て、クチナシは小さく鼻で笑った。
「ほら、冷めるよ」
そうして、誰かに手を借りながら、二人は少しずつ親になっていった。
大変なことは、もちろん今もなくならない。
ただ、泣き声を聞き分けることから始まった毎日は、いつしか、二人分の「みて!」に同時に返事をする毎日へ変わっていた。
そして双子は、性格こそまるで違うけれど、ポケモンバトルの話になると、不思議なほどよく似た顔をした。
その日の午前中も、庭では小さな練習会が開かれた。
「エナ、いまだよ!」
娘が弾む声で呼ぶと、エナが勢いよく駆け出す。
向かい側に立つ息子は、レパルダスの動きをじっと見ていた。いつもの静かな目に、はっきりした熱が宿っている。
「……まだ。もうちょっと」
そして、エナが踏み込む直前。
「いま、よけて!」
紫の身体が軽やかに身を翻す。娘が「あーっ!」と声を上げ、息子の唇の端がわずかに上がった。
ギーマは二人の間に立ち、ポケモンたちの様子を見ながら、頃合いを見て休憩を告げる。
「次は、今と違う動き方を考えてごらん。同じ手ばかりでは、相手も覚えてしまうからね」
「パパともバトルしたい!」
「ぼくも」
「それは手強い挑戦だ」
ギーマがフランの方を振り返った。
「援軍を頼めるかい」
「ふふ。じゃあ、次は家族で組み分けですね」
その言葉に、娘と息子は同時に顔を上げた。今度ばかりは、息子の目が輝いたのも、フランにははっきり分かった。
***
午後のお茶の時間は、午前中より幾分静かだった。娘はソファで絵本を広げ、息子は少し離れた低いテーブルで、トランプの塔を作っている。
積み上げる時の横顔は、驚くほど真剣だった。カードの端をそろえる指先まで、どこか父親の仕草に似ている。
ギーマはその傍らに腰を下ろし、邪魔をしないよう、ときどき手元を見るだけにしていた。
フランが飲み物を運んできた時、娘が絵本から顔を上げた。
「ねえ、パパ」
「なんだい」
「はつこいって、いちばん最初に好きになった人のこと?」
「そうだね」
シキミにもらった絵本には、どうやら王子様の初恋のお話が出てくるらしい。
娘は少し考えた。それから、いいことを思いついたという顔で、ぱっと身を乗り出す。
「じゃあ、パパの初恋っていつなの?!」
フランの手が、わずかに止まる。ほんの少しだけ、興味があった。
もちろん、今のギーマが誰を愛しているのかは知っている。けれど彼にも、自分と出会う前の長い時間がある。子どもだった頃の彼が、どんな相手に心を動かしたのか。あまりちゃんと聞いたことがなかったから、興味を惹かれる。
息子も、次の一枚を持ったまま動きを止めていた。
父親の話は、興味がないふりをしても、きちんと聞いているのだ。
ギーマはすぐには答えなかった。一度だけフランを見て、それから、窓の向こうへ視線を向ける。
海から入る風が、カーテンの裾を揺らしていた。
「……きみたちより、もう少し大きかった頃かな」
「こどもの時?」
「ああ」
「どんな人?」
娘が真剣な顔で尋ねてきて、ギーマは目を細めた。
その表情を見た瞬間、フランはなぜか、遠いものに触れたような気がした。
「……昔、わたしが家出をした時にね、砂漠で迷子になっている、ポチエナを連れたお姫様を見つけたんだ」
カップの底が、ソーサーに小さくかちり、と触れた。
「その子は、わたしの拙いエスコートをとても楽しんでくれて、別れ際にわたしの幸せを願ってくれた、とても心優しい子だったのさ」
フランは、かなしばりにでもあったかのように動けなかった。
砂漠。ポチエナ。家出をした男の子。
胸の奥で、長い間、大切にしまっていた引き出しが開く。
肌に当たる砂の痛み。目を開けていられないほどの風。腕の中で不安そうに鳴いていた、小さなエナの体温。
そして、その風を遮るように、自分の前へ立ってくれた誰かの背中。
「……えっ?」
フランが発した声に気づき、娘が振り向いた。
「ママ?」
「えっ……?えっ?!そ、それ……それって……!!」
フランは慌ててカップをテーブルへ置いて、そのままギーマを見る。
いつも見ている顔だ。朝、寝癖のついた髪で振り返る顔も、子どもたちを抱き上げる時の顔も、自分をからかって楽しそうに笑う顔も、全部知っている。
なのに、その瞳を見た瞬間。砂除けの布の奥から覗いた、あの空色が、鮮やかに蘇った。
「……ライモン、シティで」
声が、ひどく小さくなった。ギーマは黙って頷く。
「マカロンを……全部、ひとつずつ、買ってくれて」
「ああ」
「観覧車に乗って……ミュージカルも見て……それから、カフェで、エネココアを……」
「きみは、ずいぶん美味しそうに飲んでいたね」
フランは両手で口元を覆った。記憶の中の少年が、笑う。
綺麗な手を差し出してくれた。
泣いている自分に、我慢しろとは言わなかった。
寂しいと訴える気持ちを、否定しなかった。
嫌いになりかけていた街を、たった一日で、楽しい場所へ変えてくれた。
「……あの時の王子様が」
目の前の夫を、信じられない思いで見つめる。
「ギーマさん、だったんですか……?」
ギーマは、ゆっくり微笑んだ。
「ずいぶん、お待たせしてしまったね。お姫様」
フランの顔が、耳まで赤くなった。息子の手から、カードが一枚滑り落ちる。
娘は父と母の顔を交互に見て、それから大きな声を上げた。
「おひめさまって、ママ?!」
「ああ」
「パパのはつこい、ママなの?!」
「そういうことさ」
娘は、ぽかんと口を開けた。息子は床のグラエナへ目を向ける。
「……ポチエナは、エナ?」
呼ばれたエナが、顔を上げた。ぱたん、と尻尾が床を叩く。
フランはその頭を見下ろした途端、ますます胸がいっぱいになった。
あの日、自分の腕に抱かれていた小さな相棒。
今はすっかり大きくなって、自分の子どもたちと一緒に暮らしている。
「そう……エナ。あの時も、エナが一緒にいて……」
声が揺れた。ギーマが立ち上がり、フランの隣へ来る。
「座ろうか」
差し出された手を見て、フランはまた動けなくなった。あの時と同じだった。
もちろん、大きさも、指の長さも違う。
けれど、急かさずに待ってくれる仕草が。彼女が掴むと、確かに支えてくれる力が。
こんなにも、同じだった。
***
「いつから、分かっていたんですか……?」
ソファへ座っても、フランはまだ落ち着かなかった。
娘は二人の前へ移動し、息子もトランプを置いてそばに来ている。今や、父親の昔話は、塔の続きよりも大切なことになったらしい。
ギーマは、妻の手を握ったまま答えた。
「随分と前……イッシュにいた頃、シキミとカトレアにきみが初恋の話をしていたことがあっただろう?」
「あ……」
引っ越してきたばかりの頃は、あの街が好きではなかったこと。けれど、親切な男の子に案内してもらって、楽しい思い出ができたこと。
フランの初恋を聞かれて、そんな話をした覚えがあった。
「あれを聞いて、ずっと前から確信していた。きみがホウエンから越してきたことも、エナがポチエナだった頃から一緒にいることも、知っていたからね」
「じゃあ……」
「やっと、種明かしができたね」
フランは、しばらく言葉を探した。聞きたいことが、いくつもあった。
どうしてもっと早く気づかなかったのだろう。
どうして、自分たちはこんなに長い間、同じ思い出を別々に抱えていたのだろう。
けれど、ようやく口から出てきたのは、まったく別の言葉だった。
「……拙くなんて、なかったです」
ギーマが目を瞬かせる。
「ん?」
「エスコート、拙くなんてなかったです。あたしには、本当に……王子様みたいでした」
フランは、恥ずかしそうに目を伏せた。
「怖かったのが、どんどんなくなって。楽しくなって……この街にも、こんなに素敵なことがあるんだって、思えて」
思い出せる。観覧車の窓の向こう。灯りのともり始めた街。
隣に座る少年の横顔を、こっそり見つめていた自分。
今日が終わらなければいいのにと、幼いなりに願ったことも。
「でも、お兄さんも家出をしてきたって聞いて……楽しそうなのに、時々、すごく寂しそうだったから」
ギーマは静かに聞いていた。
「あたしばっかり、こんなに嬉しい思いをしていいのかなって。お兄さんにも、いいことがたくさんあったらいいなって……」
「……ああ」
彼の親指が、フランの手の甲をなぞった。
「きみは、そう言ってくれた」
あの時、少女は家族のもとへ帰っていった。
父親と母親に抱きしめられ、兄に頭を撫でられている姿を見て、少年はひとまず安心した。
自分の役割は終わったのだと、その場を離れようとした。
けれど、小さな足音が追いかけてきて、手を掴まれた。
自分が与えた楽しい時間を、最後に、両手いっぱいにして返そうとするように。
「お兄さんに、たくさん幸せなことがありますように」
フランの口から、あの日の言葉がこぼれた。
ギーマは、ほんの少し目を伏せた。
「……そう。その言葉だ」
娘が、二人の手を覗き込んだ。
「パパ、それ、うれしかった?」
「とても」
返事は、すぐだった。
「わたしはあの日、何もかもが少し嫌になっていたんだ。家で教えられたことも、どう振る舞うべきかという話も、全部ね」
子どもたちにも分かるように、ギーマはゆっくり話した。
「それなのに、きみたちのママに会ったら、教わったことが初めて、誰かを喜ばせるために使えた」
手を差し出すこと。歩く速さを合わせること。相手が欲しそうにしているものを見つけること。
堅苦しく思っていた振る舞いのひとつひとつに、少女は驚き、喜び、笑ってくれた。
「屋台の前でも、観覧車でも、ショーを見ている時でも、本当に楽しそうでね。次は何を見せたら喜ぶだろうと、そんなことばかり考えていた」
「……あたし、そんなに」
「そんなに、だよ」
ギーマは笑った。からかう響きはあったけれど、いつもよりずっと優しかった。
「家の名前も、わたしに何ができるかも、きみは何も知らなかった。ただ、一緒に過ごしたわたしの幸せを願ってくれた」
彼は少しだけ言葉を切った。
「嬉しくて……別れるのが、惜しかった」
フランの胸が、きゅっと鳴った。
「当時は、その気持ちを恋と呼んでいいのかも、よく分かっていなかった。ただ、また会えたらいいと思った。あの子が笑っているところを、もう一度見たいとね」
窓の外で、風が鳴った。あの日の砂嵐とは違う、穏やかな海風だった。
ギーマは、隣にいる妻を見る。家出をしていた少女は、大人になった。
リーグで自分に挑み、やがて同じ場所で働くようになり、話しかけるたびに、あの日と同じように表情を変えた。
何度も笑わせてもらった。
何度も、そばにいてほしいと思った。
そして、すべてを失ったと思い込んでいた自分のもとへ、この人は海を渡って会いに来た。
名前を知らなかった頃から、彼女は何度も、彼のいる場所に明かりをともしていたのだ。
「……今にして思えば、わたしはずっと昔から、きみに救われていたんだよ、フラン」
フランの目から、涙が一粒こぼれた。
娘が、ぎょっと顔を上げる。
「ママ、ないてる」
「うん……ちょっと、びっくりしちゃって」
「パパが、かなしませた?」
「違うよ」
フランは慌てて笑った。
「嬉しいの。すごく」
すると、横から小さな手が伸びてきた。息子が、ハンカチを差し出していた。
「……これ」
「ありがとう」
「こっち、かわいてる」
きちんと折って、使っていない面をこちらへ向けてくれている。それがまたどうしようもなく愛しくて、フランは泣き笑いになった。
「もう……二人とも、パパに似て、優しいね」
「あたしも!」
娘が勢いよくフランの膝へ手を置いた。今度は父親ではなく、母親のそばへ来る。
「ママ、ぎゅってしてあげる」
「ふふ。ありがとう」
抱きしめてやると、娘はフランの首に腕を回した。
その小さな背中を撫でながら、フランはギーマを見上げる。
「……あたしの初恋も」
ギーマの表情が、わずかに変わった。
「あのお兄さん、でした」
今度は、彼の方が黙った。フランは視線を落とした。
夫婦になって、子どもまで生まれて、それでもこんなことを言うのは、やはりひどく恥ずかしい。
「名前も分からなかったし、どこに住んでいるのかも知らなかったから……もう会えないんだろうなって、思ってました。でも、ずっと覚えてたんです」
自分を、お姫様と呼んでくれた人。
イッシュを好きになりたいと、思わせてくれた人。
「大人になってからも、時々思い出してました。あのお兄さん、幸せになってたらいいなって」
ギーマの指が、フランの手を握り直した。
「きみは……そんなことまで、願っていてくれたのか」
「だって、好きだったんですもん」
言ってから、フランは真っ赤になった。目の前には子どもたちがいる。
それなのに、まるで初めて告白した時のように、心臓が忙しかった。
「お兄さんと、ギーマさんと……二人の人を好きになったんだと思っていたのに」
涙の残る目で、彼を見る。
「同じ人、だったんですね」
ギーマはしばらく何も言わなかった。ただ、目元をやわらかくして、フランを見つめていた。
やがて、彼は妻の手を持ち上げた。結婚指輪のすぐそばへ、唇が触れる。
「それは……光栄だね」
「ギーマさん……」
「二度も、きみに選んでもらえたのだから」
フランが何も返せずにいると、膝の上から、不満そうな声がした。
「ずるい」
二人は同時に娘を見た。娘は、眉を寄せていた。
「ママ、あたしがうまれる、ずーっと前からパパのこと好きだったの?」
「……そうだね」
「パパも?」
「ああ」
「じゃあ、あたし、まにあわないじゃん」
その言い方があまりにも真剣で、フランはとうとう笑ってしまった。
「そこを競争してたの?」
「してた!」
「そうかあ……ごめんね。でも、ママも、こればっかりは譲れないなあ」
娘はしばらく考え込んだ。父親と母親を交互に見る。
そして、母親の頬に残る涙を、小さな指でそっと触った。
「……でも、ママ、パパといると、うれしい?」
「うん。嬉しいよ」
「パパも?」
ギーマが頷く。
「とてもね」
娘は仕方なさそうに、大きなため息をついた。
「じゃあ、ずっと、けっこんしてていいよ」
「それは、どうもありがとう」
ギーマが真面目な顔で礼を言う。
「でも、パパのとなり、あたしもすわるからね」
「もちろん」
「ママのとなりも」
「いいの?」
「ママもすきだもん」
フランは、娘をもう一度抱きしめた。
小さな声で「知ってるよ」と答えると、娘は得意そうに笑った。
***
「……父さん」
それまで静かに聞いていた息子が、口を開いた。
「なんだい」
「母さんのおねがい、かなった?」
息子は少し考えながら言葉を続ける。
「しあわせなこと、たくさん、あった?」
フランの膝の上で、娘も顔を上げた。二人とも、父親の答えを待っていた。
ギーマは、すぐには返事をしなかった。
目の前には、息子がいる。指先には、カードの端を何度もそろえていた跡がある。父親の真似をしてコインを弾いては、まだ上手く受け止められず、床のどこかへ転がしてしまう。
それでも、毎日また練習をする。
妻の膝には、娘がいる。朝から元気に駆け回り、レパルダスのように綺麗になりたいと言った次の瞬間には、エナと庭へ飛び出している。
自分を取り合っていたはずの母親が泣けば、真っ先に抱きついてやろうとする。
そして、その二人に挟まれて、愛しいポケモン達に囲まれながらフランが笑っている。
窓辺には、結婚式の日に撮った写真。棚には、友人たちから贈られた絵本や玩具。
あまりに日常に溶け込んでいて、ひとつずつ数えようとしなければ見落としてしまいそうなほど、たくさんのものが、そこにあった。
「ああ」
ギーマは息子へ手を伸ばした。小さな身体を、自分の膝へ抱き上げる。
「ママの願いは、よく叶っている。わたし一人では、数えきれないほどに」
父親の顔を見て、双子たちは満足そうに笑う。
「よかったね、パパ」
「本当にね」
フランは娘を抱く腕に、少しだけ力を込める。あの日の自分に、教えてやりたいと思った。
砂漠で迷って、泣いていた、小さな自分。
帰り道も分からず、ポチエナを抱きしめることしかできなかった自分。
あの男の子は、ちゃんと幸せになるよ、と。
貴方の知らないところで、ではなく。
いつか、貴方が隣で笑いながら、確かめられるようになるよ、と。
***
「つぎにイッシュへ行ったら、そのかんらんしゃ、乗りたい」
お茶を飲み終えた頃、娘が言った。
「パパとママが乗ったやつ」
「ぼくも」
息子も、珍しくすぐに続いた。
「いいね。みんなで乗ろうか」
フランが答えると、娘は身を乗り出した。
「エナも?」
「エナも一緒に行こうね」
「バトルもできる?」
話がそちらへ転ぶと、息子まで顔を上げる。ギーマが笑った。
「そちらが本命かな」
「かんらんしゃも!」
「バトルも」
二人とも、譲る気はなさそうだった。
「では、忙しい旅になりそうだ」
ギーマはそう言って、膝の上の息子を下ろした。
息子はトランプの塔へ戻ろうとして、途中で立ち止まる。
娘の足元で、エナが長く伸びて眠っていた。
息子は少し考えてから、姉へ手を差し出した。
「こっちなら、とおれる」
娘は、その手を見た。それから、先ほどの昔話を思い出したのだろう。
「えすこーと?」
息子の耳が、わずかに赤くなった。
「……うん」
「じゃあ、お願い」
小さな手がつながる。
息子は姉の歩幅を確かめながら、エナを踏まないように、ゆっくり進んだ。
その後ろ姿を、フランとギーマは黙って見送った。
「……そっくりですね」
フランが小さく言った。
「きみにも似ているよ」
「そうですか?」
「人に優しくしてもらった時、あんなに嬉しそうにするところはね」
娘は弟に「ありがとう」と言って、満足そうに笑っていた。
息子は何でもないふりで頷いてから、カードの前に座る。
けれど、今度は自分の隣を少し空けた。
姉がそこを覗き込むと、一枚のカードを差し出す。
ひとりで作りたかった塔に、今日は姉の席もできたらしい。
フランは、胸の奥がふわりと温かくなるのを感じた。
「ギーマさん」
「なんだい」
「あの時……あたしを、見つけてくれて、ありがとうございました」
夫がこちらを向いた。
「ちゃんと、お礼を言えたつもりだったんですけど。今、改めて言いたくなっちゃいました」
フランは、そっと彼の手を取った。
「あの日、あたし、すごく幸せでした」
ギーマは、握られた手を見つめた。
あの夕暮れにも、こうして両手で掴まれた。
小さかった手は、大人の手になっている。
薬指には、自分と同じ指輪がある。
「わたしもだよ」
静かな声が返ってきた。
「少なくとも、あの日のわたしは、帰る時には家を出た時とは違う気持ちでいた」
「……はい」
「きみが、わたしの一日まで、楽しいものにしてくれたからね」
フランは照れくさそうに笑った。
「じゃあ……やっぱり、二人とも家出してきて、二人とも助けてもらったんですね」
「そういうことになる」
「子どもたちには、真似してほしくないですけど」
「それには同意するよ」
二人で顔を見合わせ、声を潜めて笑った。
向こうでは、娘がカードを立てる位置について一生懸命相談している。
息子は少し考えてから、ひとつ隣を指した。
エナの尻尾が近づき、キキが間へ入る。
レパルダスは高い場所から、その小さな工事現場を眺めていた。
フランがもう一度、ギーマの手を握る。
「……これからも、たくさん、幸せなことがありますように」
彼が目を上げた。フランは、あの日と同じように笑っていた。けれど今度は、別れ際の祈りではなかった。
「あたしも、一緒に増やしていきますから」
ギーマはしばらく彼女を見つめていた。
それから、額へそっと唇を寄せる。
「頼もしいお姫様だ」
「ギーマさんの、妻ですから」
「そうだった」
その声があまりに嬉しそうで、フランはまた頬を赤くした。
すると、すぐに娘の声が飛んできた。
「パパ!ママにだけ、ずるい!」
フランが吹き出す。ギーマも肩を揺らして笑った。
「きみもおいで」
「いく!」
「走らないで。カードが――」
息子の注意は、ほんの少し遅かった。娘の足音と、エナが起き上がる音。
ひらひらと、数枚のカードが舞った。フランは思わず立ち上がった。
「あっ……!」
小さな沈黙が落ちる。やがて、娘が弟の前へしゃがみ込んだ。
「……ごめん。なおすの、てつだう」
息子は崩れた塔を見ていたが、少しして、小さく頷いた。
「今度は、ここ、走らないで」
「うん」
ギーマも二人の前へ腰を下ろし、散らばったカードを拾った。
「では、今度は四人で作ろうか」
息子が顔を上げる。
「父さんも?」
「ああ」
「ママも?」
フランは、両側から向けられた期待の目に笑った。
「もちろん。エナたちは、ちょっと向こうで応援しててね」
エナが不満そうに鼻を鳴らしたが、キキに促されて少し離れた場所へ移動する。
レパルダスがひとつ、あくびをした。
ギーマが二枚のカードを立て、息子がその横へ次を置く。
娘は息を止め、フランは倒れないよう、テーブルへそっと手を添えた。
四人の顔が、ひとつの小さな塔の周りに集まっている。
その真剣な顔を見回して、ギーマは、ふと笑った。
「父さん、動くと倒れる」
「ああ。すまない」
注意されて、笑いを収めようとする。けれど、どうしても口元が緩んだ。
砂嵐の向こうで出会った少女は、別れ際、彼の幸せを願ってくれた。
その少女が今、隣で息を潜めている。
二人の子どもたちと一緒に、倒れてしまったものを、もう一度作ろうとしている。
あの日の自分に教えてやりたい。砂漠で出逢ったお姫様が、今こんなにも、自分のことを幸せで満たしてくれていることを。
ギーマは指先を静かに動かし、最後の一枚を、息子の小さな手へ渡した。