ギーマ夢主の名前変換
ギーマ(BW)×固定夢主💮
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二人が永遠の誓いを交わす結婚式の当日。アローラの空に広がる朝の気配は、息を呑むほどに穏やかで、澄み切っていた。
どこまでも高く抜けるような青空の下、どこまでも広がる海は昇り始めた朝の光を全身に受け、水面を無数の細かな宝石のようにきらきらと輝かせている。肌を撫でる南国の潮風は決して強すぎず、けれど島に咲き誇る豊かな花々の甘い香りを運ぶには十分だった。白を基調とした小さな式場の入り口では、風が吹き抜けるたびに、飾られた白い花々が微かに擦れ合ってやわらかな音を立てて揺れている。
それは、世間の目を引く派手で絢爛な式では決してなかった。
けれど、ギーマとフランが自分たちの意志で選んだその小さな場所は、二人にとって何物にも代えがたい、大切なものばかりで満たされていた。
どこまでも続くアローラの美しい海が見渡せること。遠いイッシュ地方から、海を越えて駆けつけてくれた大切な人たちが揃って座れること。そして、苦楽を共にしてきたポケモン達も同じ場所で息づいていられること。
飾り立てられた贅沢などなくても、ただそれだけで、フランの胸は張り裂けそうなほどの感謝と幸福で満たされていた。
白壁に囲まれた控室の中で、フランは大きな三面鏡の前に静かに座っていた。
身に纏った純白のドレスは、過度な装飾こそないものの、職人の手によって細部まで驚くほど丁寧に仕立てられている。胸元には清楚な小花の刺繍が施され、キュッと絞られた腰から足元へと流れる薄絹のドレープはやわらかく、ほんのわずかに身じろぎするだけで波のようにしなやかな陰影を作った。髪はゆるやかに編み込まれて背にまとめられ、白い生花と繊細なリボンが慎ましくあしらわれている。
膝の上で重ねられた左手の薬指には、あの日、海辺でギーマが自身のすべてを賭けるようにして贈ってくれた、指輪が静かに光を宿していた。
「……フランさん」
静寂の満ちる部屋に、背後から鼻をすするような震えた声が落ちた。
フランが鏡越しに視線を巡らせると、そこにはすでに両手で口元をしっかりと覆い、今にも決壊しそうな瞳でこちらを見つめるシキミの姿があった。
「シキミさん?」
「だ、だめです……アタシ、まだ式も始まっていないのに、もう涙腺が……!」
「早いです、シキミさん!」
フランが困ったように、けれど愛おしさを隠せずに慌てて笑い声を上げると、シキミの隣に立っていたカトレアが、呆れたようにふうと細いため息を吐き出した。
「本当に早いわね。まだ入場すらしていないのに」
「だって、カトレアさん!フランさんが……フランさんが、こんなに綺麗で、幸せそうで……!」
シキミは堪えきれなくなったようにバッグからレースのハンカチを取り出し、目頭を強く押さえた。
「別荘で泣いていたあの日のフランさんを思い出したら、もう……!」
その一言が耳に届いた瞬間、フランの胸の奥底がきゅっと切なく音を立てて軋んだ。
あの日。ギーマが何も言わずにイッシュリーグから姿を消してしまった直後、サザナミタウンにあるカトレアの別荘で開かれた、泣くためのお茶会。
あの頃の自分は、彼の名前を口にするだけで喉が引き裂かれそうになるほど苦しくて、けれど会いたくて、寂しくてたまらなくて。どうして自分を置いていってしまったのかと声を上げて泣きながら、それでも「あたしが頼りなかったからだ」と自分ばかりを責め立てていた。周囲には笑顔で「大丈夫です」と無理を重ねていた。
本当は、何一つとして大丈夫などではなかったのに。
「……あの時」
フランは鏡の奥に映る自身の瞳をじっと見つめながら、噛み締めるように静かに口を開いた。
「お二人がいてくれなかったら、あたし、今日ここにいなかったと思います」
その言葉に、シキミが濡れた目を見張り、カトレアもまた両手を重ねたまま、静かにフランを見つめ返した。
「あの日、泣いていいって言ってもらえて、会いたいって思っていいって言ってもらえて……だから、あたし、ギーマさんを探しに行けました」
フランは、薬指に指輪がはまった左手をそっと持ち上げ、温もりを確かめるように胸元へと寄せた。
「だから、今日のこのドレス姿を、お二人に見てもらえて嬉しいです」
友のひたむきな言葉に、シキミはもう感情を保つことができず、ドレスの裾に気を遣いながらもフランの華奢な肩へ泣きついた。
「フランさん……!」
「わっ、シキミさんってば……もう!」
シキミの勢いに戸惑いながらも、は困ったように笑い、その背にそっと手を添える。カトレアはそんな二人を見て呆れたように首を振りつつも、その優雅な口元をやわらかく、慈しむように緩めていた。
カトレアは衣擦れの音を立てながら、静かな足取りでフランの傍らへと歩み寄った。
「フラン」
「はい」
「幸せ?」
その簡潔な問いかけは、かつてギーマからプロポーズを受けた夜、通信越しにカトレアが投げかけてくれたものと同じだった。
そしてきっと、サザナミの別荘で幼子のように泣きじゃくったあの日から、カトレアはずっと、この瞬間を、この答えを待ち続けてくれていたのだ。
もう、何の誤魔化しも、虚勢も、気後れも必要ない。
「はい」
フランは鏡の中の自分自身に、そして背後から温かく見守ってくれるかけがえのない二人の友に向かって、花が咲くような笑みを浮かべた。
「あたし、幸せです」
その淀みのない答えを聞いたカトレアの瞳が、ほんの少しだけ潤んだ。けれど彼女は矜持を保つように小さく息を吸い、すぐにいつもの誇り高く優雅な表情へと戻る。
「そう」
短く落とされたその一言。けれど、その響きの中にある深い祝福を、フランはしっかりと受け取っていた。
横では、シキミがますます涙をあふれさせている。
「うう……もう、今日はハンカチ何枚あっても足りません……!」
「アタクシの分も持っているでしょう?」
「もちろんです!」
「なら問題ないわ」
「カトレアさんも泣く予定なんですか?」
「……念のためよ」
その飾らないやり取りに、フランは思わず噴き出すように笑った。朗らかな笑い声が、光の差す控室いっぱいにやわらかく広がっていく。
もう、あの日のように、自身の不甲斐なさに泣き崩れるための部屋ではない。
ここは、大切な人たちと共に、新しく幸せになるための場所だった。
一方、その頃。
渡り廊下を隔てた別の控室では、ギーマが全身鏡の前に一人佇んでいた。
黒と白を基調にした特別な礼装は、アローラで彼が好んで纏うようになった和装の軽やかな趣を残しつつも、冠婚葬祭の場に相応しい威厳と品格を湛えている。左胸には、フランが纏うドレスの装飾と対になるように、小さな白い花が飾られていた。
ギーマは鏡に映る自身の姿を見つめ、張り詰めた肺から静かに息を吐き出した。
「緊張しているのか」
部屋の隅、壁に背を預けていたレンブの重厚な声が静寂を破った。ギーマは振り返ることなく、鏡の中の友へ視線だけを向けて答える。
「わたしが?」
「先ほどから、袖を三度直している」
「相変わらず、よく見ているね」
「お前とは、四天王として長い時間を共にしてきたつもりだからな」
レンブは太い腕を胸の前で組んだまま、格闘家らしい厳格な眼差しでギーマの背中を見据えていた。そのすぐ横の丸椅子では、クチナシが気怠げに深く腰掛け、心底面倒くさそうに足を組み替えている。
「いやあ、珍しいもん見たね。あんたでも緊張するんだ」
「クチナシ」
「何」
「今日くらいは、少し手加減してくれてもいいのではないかな」
「今日だから言ってんだよ。新郎がそんな顔してたら、花嫁さんが心配するだろ」
正論を突きつけられ、ギーマは言葉を詰まらせてわずかに沈黙した。その指摘には、いかなる勝負師の弁舌をもってしても反論の余地がなかった。
クチナシは顎を撫で、気怠げな態度の奥にある、鋭く澄んだ視線をギーマへ真っ直ぐに向ける。
「ねえちゃん、たぶん今日も泣くよ」
「……ああ」
「でも、あの子が泣くのは悪いことばかりじゃないだろ」
ギーマは鏡から視線を外し、足元へ目を落とした。
「分かっている」
「なら、泣かせても逃げんなよ」
クチナシのぶっきらぼうな釘刺しに、レンブも深く頷いて言葉を重ねた。
「ギーマ。今日、お前は多くの者の前で誓うことになる」
「ああ」
「だが、一番大事なのは、皆にどう見えるかではない。フランにどう届くかだ」
ギーマはゆっくりと振り返り、レンブと向き合った。武人の声は、晴れ舞台の日であっても何一つ浮つくことなく、いつものように真摯で、重みがあった。
「格好をつけるなとは言わん。お前にはお前の在り方がある。だが、肝心なところで逃げるな」
「……きみにも、クチナシにも、同じことを言われるね」
「言われるだけの前科がある」
横から容赦なく挟まれたクチナシの毒舌に、ギーマは苦笑を漏らす。
「容赦ないね」
「新郎に優しくする係は、ねえちゃんがやるだろ」
その言葉に、ギーマは一瞬だけ目を伏せた。胸の奥に灯る愛しい彼女の顔を思い浮かべ、やがてふっと、自然な笑みを口元に浮かべる。
「そうだね」
憑き物が落ちたようなその表情を見て、レンブは強面をわずかに緩めた。
「いい顔になった」
「そうかい」
「ああ。昔より、少し隙がある」
「褒めているのかな」
「褒めている」
二人のやり取りを、クチナシが鼻を鳴らして笑い飛ばす。
「分かりづらい褒め方だねえ」
「きみほどではないと思うが」
「おれは褒めてないからね」
「おや」
「ただまあ」
クチナシは内ポケットから、小さく折りたたまれた一枚の紙を取り出した。何度も推敲を重ね、ペンを走らせた跡が見て取れる、スピーチの原稿だった。
「今日くらいは、ちゃんと見届けてやるよ」
ギーマはそのくたびれた紙片を見つめ、静かに、けれど心からの温もりを込めて目を細めた。
「ありがとう」
「だから、礼は式が終わってからにしな」
クチナシは照れ隠しのように露骨に顔を背け、頭を掻いた。
「まだおれは何も言ってないんだから」
その時、コンコンと控室の扉が控えめにノックされた。式場のスタッフが静かに顔を覗かせ、定刻となり式の準備がすべて整ったことを告げる。
ギーマは深く息を吸い込み、胸元に飾られた白い花に、細く長い指先でそっと触れた。
「行ってくる」
レンブは力強く、頼もしく頷いた。
「行け」
クチナシは気怠げに、けれど確かに背中を押すように手を振った。
「逃げんなよ、新郎」
「逃げないさ」
ギーマは静かに、どこまでも清々しく微笑んだ。
「もう、降りるつもりはない」
扉の向こうに広がる式場には、アローラのやわらかな光が満ち溢れていた。
白い布と緑の葉で飾られた木製の椅子には、イッシュから海を越えて集まってくれた人々、アローラの地で出会い支えてくれた人々、そして大切なポケモンたちが、静かにその時を待っていた。
シキミはすでに席についた段階で目を潤ませており、カトレアはその隣でいつでも差し出せるようにハンカチを手に握っている。レンブは背筋を寸分の狂いもなく伸ばして座り、厳粛な面持ちで祭壇を見つめていた。クチナシは少し後ろの列で腕を組み、いつも通りの気怠い顔を装っていたが、その視線はブレることなく祭壇へと注がれている。
フランの相棒であるグラエナのエナは、首回りに小さな白い花飾りを誇らしげに巻き付け、ピンと胸を張っていた。ブラッキーのキキはフラン側の席の足元で静かに侍り、ギーマの相棒であるレパルダスは祭壇の脇で、しなやかに紫の尻尾を揺らしている。
祭壇の前に立つギーマは、海からの風を正面に受けていた。
人前に立つことには、とうの昔に慣れきっているはずだった。数え切れないほどの挑戦者を迎え撃ち、命を削るような大勝負の盤面に立ち続けてきたのだから。
だが、今この胸を支配している緊張は、かつて経験したどんなヒリつく勝負ともまるで違っていた。
相手を打ち負かすための緊張ではない。すべてを失う恐怖に怯える緊張でもない。
ただ一人の女性の手を取り、これから先の果てしない人生を、共に笑い、共に歩んでいくのだと誓うための、温かく誇らしい緊張だった。
奏でられていた音楽が、やわらかな転調を見せる。
参列者たちの視線が一斉に、式場の入り口へと向けられた。
ギィと静かな音を立てて、木製の重厚な扉がゆっくりと開かれる。
そこに、フランが立っていた。
ギーマは、音を立てて息を呑んだ。
純白のドレスに包まれたフランは、アローラの朝の光そのものを身に纏っているかのようだった。決して派手ではないのに、その場の空気を一変させてしまうほどに目を奪われる。ベールの奥の顔には初々しい緊張が浮かんでいたが、その瞳だけは、迷いなく真っ直ぐにギーマの姿を捉えていた。
その時、待ちきれなくなったように、首に花飾りをつけたエナがフランの足元へと駆け寄った。本来ならもう少し厳かに歩調を合わせる手筈だったのだろうが、主の晴れ姿への嬉しさを抑えきれない様子で、太い尻尾をぶんぶんと左右に振っている。
そのフサフサとした尻尾がドレスの裾をかすめそうになるたび、フランが慌てて小声で窘めていた。
「エナ、ゆっくり……!今日はちゃんと歩いてね……!」
「わんっ!」
「お返事はいいんだけど、ちょっと近い……!」
ベールの下で交わされるそのささやかなやり取りに、張り詰めていた式場の中から、ふっと微笑ましい笑いが漏れ広がる。
祭壇の前で立ち尽くしていたギーマの肩からも、ふわりと緊張が解けていった。
ああ、フランだ。どれほど息を呑むほど美しい花嫁姿に包まれていても、相棒に振り回されて少し眉を下げ、慌てふためいているところまで、間違いなく自分が愛した彼女そのものだった。
フランがバージンロードを、ゆっくりと踏みしめて歩んでくる。一歩。また一歩。
近づいてくるその確かな足音に合わせて、これまでの記憶の断片が、走馬灯のようにギーマの胸をよぎっていった。
イッシュリーグの長い廊下を、抱えきれないほどの書類を抱えて懸命に走っていた彼女。
自分を見つけるたび、マトマの実のように頬を染めながらも、真面目に職務を果たそうとしていた彼女。
自分が身勝手に姿を消した後、誰もいない資料室の前で、泣きながら何度も自分の名を呼んでいたという彼女。
遠いアローラの海辺まで追いかけてきて、ボロボロになって泣きながら、それでも自分を叱り、その手を握り返してくれた彼女。
そして、あの海辺で、涙を流しながらプロポーズを受け入れてくれた彼女。
そのすべての時間を越えて、今、彼女は純白の衣を纏い、自らの足で自分の元へと歩いてきてくれているのだ。
ついにフランが、祭壇の前に辿り着いた。
自分の役割をやり遂げたと言わんばかりに胸を張ったエナだったが、ふと鼻先を動かし、何を思ったのかギーマの胸元に飾られた白い花へ興味深そうに顔を近づけようとした。
「エナ!ギーマさんの花飾り、食べちゃだめだってば……!」
静粛なはずの儀式の中で、フランが反射的に漏らした切実な囁き声。その声に、再び式場中がやわらかな笑いに包まれた。
ギーマは口元を綻ばせ、身を屈めてエナの黒い頭をそっと愛おしそうに撫でた。
「今日だけは、きみにも礼を言わなければね」
「ワン!」
エナは誇らしげに短く鳴いて任務完了を告げると、足取りも軽やかにキキの待つ席へと戻っていった。
残されたフランは、ベールの下で顔を真っ赤に染めながら、申し訳なさそうにギーマを見上げる。
「す、すみません……」
「いや」
ギーマは彼女の震える指先を、そっとすくい上げるようにして取った。
「きみらしくて、安心した」
その低く甘い一言だけで、フランの瞳にじわりと熱いものが込み上げた。けれど、泣くのはまだ早すぎる。彼女はギュッと奥歯を噛み締め、零れそうになる涙を必死に堪えた。
神父の声が響き、式は厳かに進んでいく。
互いの意志を問う誓いの言葉、そして、指輪の交換へ。
参列者たちが見守る中、二人の手が祭壇の上で重ねられる。
フランの指先は、隠しきれない緊張と歓喜でかすかに震えていた。ギーマはその震えをまるごと包み込むように、温かい指先で支えながら、ゆっくりと指輪を彼女の薬指へと滑り込ませた。
「フラン」
低く、どこまでも深い慈愛を帯びた声で、愛しい名が呼ばれる。
「はい」
「きみがわたしの名前を呼ぶ限り、生涯、必ず返事をすると誓う」
その誓約を聞いた瞬間、フランの目尻から、堪えきれなくなった透明な雫が一粒こぼれ落ちた。ギーマは彼女の潤んだ瞳から視線を逸らすことなく、言葉を紡ぎ続ける。
「勝った日も、負けた日も、無様な日も、情けない日も、わたしはきみのもとへ帰る。きみに何も言わず、もう一人で降りることはしない」
波の音に混じる彼の声は、静かでありながら、揺るぎない確信に満ちていた。
「わたしは、きみを幸せにする。そして、きみの隣で、わたし自身も幸せになる」
フランは唇を細かく震わせながら、胸がいっぱいになり、何度も何度も力強く頷いた。
今度は、フランの番だった。
彼女は小さな両手でギーマの細く長い手を取り、用意されたもうひとつの指輪をそっと掲げる。
その手はやはり微かに震えていた。けれど、もう迷いから逃げ出すような弱さは微塵もなかった。
「あたしは……」
口を開いたものの、溢れ返る感情に喉が詰まり、声が途切れてしまう。
客席の前列で、シキミが祈るようにハンカチを両手で握りしめた。カトレアもまた、息を潜めて静かに目を伏せる。
フランは深く息を吸い込み、涙を拭うこともせず、凛とした顔つきでもう一度顔を上げた。
「あたしは、ギーマさんの隣にいます」
その揺るぎない響きに、ギーマの空色の瞳が微かに揺れた。
「かっこいい日も、情けない日も、勝った日も、負けた日も……ギーマさんが自分のことを敗北者だって言いたくなる日も」
フランの声に、澄み切った強さと、底なしの愛が宿っていく。
「あたしは、ギーマさんの名前を呼びます。返事が返ってくるまで、何度でも呼びます」
重ねられたギーマの指に、ぎゅっと強い力がこもった。
「それから、ギーマさんが勝手に席を降りようとしたら、あたしが引き戻します」
参列者の間から、温かな笑いが広がった。客席でレンブが深く深く頷き、クチナシが口元を緩めて「いいねえ」と小さく呟く。
フランは涙をボロボロとこぼしながら、太陽のように輝く笑みを浮かべた。
「あたしも、ギーマさんを幸せにします。だから、一緒に幸せになってください」
ギーマは込み上げる熱い感情を必死に堪えるように、一瞬だけ瞼を閉じた。
そして、目を開き、静かに、けれど魂を込めて答える。
「ああ」
それは、生涯を賭けた誓約だった。短くても、これまでのどんな言葉よりも重く、深い返答だった。
指輪の交換が終わり、二人は祭壇の前で向かい合う。
開け放たれた扉から、寄せては返す穏やかな波の音が届く。花が風に揺れ、甘い香りを放つ。
誓いの口づけを交わす直前、フランは照れくささに耐えかねたように、少しだけ視線を伏せた。ベール越しにも分かるほど、その頬は真っ赤に染まっている。
緊張に身を固くしていることが、ギーマには手に取るように分かった。
「フラン」
「は、はい」
「逃げるかい?」
「逃げません……!」
「それはよかった」
「ギーマさん、こういう時まで意地悪です……」
「緊張をほぐそうと思ってね」
「余計に緊張しました……!」
フランの抗議に、ギーマは喉の奥で小さく笑った。そして、愛おしさに満ちた手つきでベールをそっと持ち上げると、静かに彼女の顔へと近づいた。
重なり合った口づけは、穏やかで、優しく、けれどこれからの長い歳月を支え続ける確かな誓いそのものだった。
その瞬間、式場中に割れんばかりの惜しみない拍手が響き渡った。
シキミは完全にハンカチに顔を埋めて号泣しており、カトレアもまた、人目を忍ぶように繊細なレースを目元に当てていた。レンブは武人らしい威厳ある顔のまま、しかし目元を優しく細めて力強く手を叩いている。クチナシは相変わらず億劫そうな顔を崩さずに拍手を送っていたが、その拍手の音は誰よりも長く、最後まで止まることはなかった。
厳かな儀式が幕を閉じ、やがて陽気な披露の時間が訪れた。
アローラの心地よい潮風が吹き抜ける小さなテラス付きの会場には、色鮮やかな島の料理と南国の花々が所狭しと並び、参列者たちだけでなくポケモンたちもそれぞれ思い思いに寛いでいる。
エナは首の花飾りを誇らしげに揺らしながら、ご馳走の匂いに釣られて誰かからお裾分けをもらえないかと、テーブルの間をうろうろと歩き回っていた。
「エナ、それはお客様の分!!食べようとしないの!」
ドレスの裾を持ち上げ、フランが慌てふためいて追いかける。
ギーマはその微笑ましいやりとりをテラスの柱に寄りかかって眺め、楽しげに目を細めていた。
「相変わらず賑やかだ」
「ギーマさん、笑ってないで止めてください!」
「エナ、こちらへ」
ギーマが低く穏やかな声で呼ぶと、エナは嬉しそうに踵を返して駆け寄ってきた。
けれど、そのままギーマの足元に飛びつくと、礼装の袖口に鼻先を突っ込み始める。
「彼も祝ってくれているのだろう」
「絶対おやつ探してます!」
フランの的確なツッコミに、周囲の参列者たちからどっと笑いが沸き起こる。赤面しながらも、フランの瞳には幸せな光が溢れんばかりに宿っていた。
やがて、宴も中盤に差し掛かり、スピーチの時間が告げられた。
司会から名前を呼ばれ、席からゆっくりと立ち上がったのはクチナシだった。
会場中の視線が一斉に自分へと集まる中、クチナシは心底面倒くさそうに頭をガリガリと掻きながら、壇上へと進み出た。
「えー……こういう場は、正直かなり苦手でね」
第一声からして、祝いの席らしからぬ気怠い告白だった。会場にクスクスと小さな笑いが漏れる。
フランは胸元で両手をぎゅっと握りしめて見守り、ギーマはその隣で静かに腕を組んで佇んでいた。
クチナシは懐から折りたたまれたメモを取り出したが、それに一度だけ億劫そうに視線を落とすと、あっさりとポケットの中へとしまい直す。
「まあ、書いてきたことを読むのも性に合わないんで、適当に話すよ」
そのマイペースぶりに、客席のカトレアが小さく目を細めて苦笑する。シキミは期待と不安が入り混じった面持ちで、背筋をピンと伸ばして耳を傾けていた。
クチナシはまず、隣に立つギーマへと視線を向けた。
「ギーマ。あんたがアローラに来た時、正直、面倒くさい男が流れ着いたなと思った」
「クチナシさん?!」
あまりの直球さにフランが思わず声を上げそうになり、慌てて両手で口を押さえる。会場にどっと温かい笑いが広がった。
ギーマは苦笑を浮かべたまま、静かに聞いている。
「負けた顔して、全部分かったような顔して、そのくせ肝心なところは何も諦めきれてない。扱いづらいったらなかったよ」
ギーマは一切反論しなかった。過去の自身の見苦しさをすべて受け止めるように、ただ静かにその言葉を受け止めていた。
クチナシは淡々と続ける。
「でもまあ、そういう奴ほど、本当は何かに引き戻されるのを待ってたりするもんでね」
クチナシの視線が、今度はフランへとスッと移った。
「そこへ、このねえちゃんが来た」
名を指されたフランの華奢な肩が、小さく震える。
「泣きそうな顔して、でも真っ直ぐで。怖いくせに引かない。傷ついてるくせに相手の心配をする。弱そうに見えて、ずいぶん強い子だと思ったよ」
アローラで途方に暮れていた自分を見守ってくれた彼の言葉に、フランの瞳に再びじわりと涙が浮かんだ。ギーマがそっと寄り添い、彼女の震える手を温かく握りしめる。
「この二人は、見ての通り面倒くさい」
会場からまた、共感を含んだ笑いが起きる。
「片方は格好つけて一人で沈みたがるし、もう片方は自分の痛みを後回しにして笑おうとする。正直、見てる方はやきもきする」
客席でシキミが「激しく同意します」とばかりに何度も強く頷き、カトレアもまた深く静かに頷いていた。
クチナシはそんな面々を見渡し、ほんの少しだけ、険のないやわらかな表情を作った。
「でも、そういう二人が、ちゃんと泣いて、怒って、話して、今日ここに立ってる」
クチナシの声が、少しだけ低く、胸に染み入るような優しさを帯びて響く。
「それはまあ、悪くない。いや、かなりいいことだと思う」
フランの目から、ぽろりと大粒の涙が零れ落ちた。
ギーマは彼女の手を強く握ったまま、真っ直ぐにクチナシを見つめ返している。
「ギーマ」
「はい」
クチナシの呼びかけに、ギーマは自然に、一切の気取りなく返事をした。
その素直な反応に、クチナシは少しだけ満足そうに口端を上げた。
「幸せにしろ」
簡潔な言葉。けれど、そこには男が背負うべき人生のすべてが込められていた。
「毎日帰れ。名前を呼ばれたら返事をしろ。勝手に決めるな。黙って消えるな。派手な一手でどうにかしようとするな。地味なことを、毎日やれ」
その泥臭くも真実を突いた言葉に、ギーマの空色の瞳が深く、強く揺れた。
「はい」
今度の返事は、先ほどの誓いの言葉と同じ、魂の底からの重みを持っていた。
クチナシは次に、涙ぐむ花嫁へと向き直る。
「フラン」
「はい……」
「幸せになれ」
真っ直ぐに注がれたその温かな言葉に、フランの涙はもう止まらなくなってしまった。
「この男を幸せにすることばっかり考えるな。あんたもちゃんと幸せになれ。寂しいなら寂しいと言え。怒るなら怒れ。泣きたいなら泣け。嬉しいなら、今みたいに思い切り笑え」
「……はい」
フランは溢れる涙を拭おうともせず、何度も、何度も頷いた。
「はい……!」
二人の返事を聞き届けたクチナシは、ひどく照れくさそうに視線を明後日の方向へと逸らした。
「以上。長いのは苦手なんでね」
それだけぶっきらぼうに言い捨てると、彼はポケットに手を突っ込み、足早に自分の席へと戻ろうとした。
だが、壇を下りる途中で、一度だけ立ち止まる。
振り返らないまま、背中越しに、ぼそりと小さな声を落とした。
「……おめでとう」
その不器用な祝福に、会場中から割れんばかりの温かな拍手と歓声が沸き起こった。
フランは胸元に手を当て、涙で濡れた顔のまま深く頭を下げた。
「ありがとうございます、クチナシさん……!」
ギーマもまた、隣で深く、礼を尽くして頭を下げた。
席に戻ったクチナシは、注がれる温かな視線から逃れるように顔をしかめてみせた。
「泣かせるつもりはなかったんだけどね」
隣に座るレンブが、腕を組んだまま真面目な顔で言った。
「よい言葉だった」
「やめてくれる?そういうの一番困るんだよ」
「本心だ」
「だから困るんだって」
前の席では、シキミがすでにテーブルに両肘をつき、ハンカチで顔を覆っていた。
「素晴らしいスピーチでした……!不器用で、飾らなくて、でも核心だけを突く祝福……!」
「シキミ、記録しようとしていないでしょうね」
カトレアが横目でジト目を向ける。
「今日はしません!でも心には刻みます!」
「それならいいわ」
スピーチがひと段落した後、今度はレンブが静かに立ち上がり、ギーマの前へと歩み寄った。
元より大勢の前で長々と演説を打つ性分ではない彼は、友の前に立つと、短く簡潔に切り出した。
「ギーマ」
「なんだい」
「きみたちの強さ、心に刻み込んだ」
ギーマが静かに目を細める。レンブは視線をスッとフランへと向けた。
「フラン。ギーマは手のかかる男だ」
「はい」
間髪を入れない即答に、会場が再びドッと沸いた。ギーマは思わず片眉を跳ね上げる。
「今日くらい否定してくれてもいいのでは?」
「だって……事実なので……」
申し訳なさそうに呟くフランに、レンブは満足そうに深く頷いてみせた。
「だが、きみならば大丈夫だ。互いに支え合い、互いに鍛え合い、これからも共に歩むがいい」
武人からの混じり気のない信頼を受け、フランは胸を熱くして頭を下げた。
「ありがとうございます、レンブさん」
レンブは再びギーマへと向き直った。
「そしてギーマ。フランを幸せにしろ」
「今日、何度も言われているね」
「何度でも言う」
レンブの眼光は真剣そのものだった。
「言われ続けるだけの覚悟を持て」
その言葉の重みを受け止め、ギーマはふっと口元を緩め、深く頷いた。
「ああ。受けて立つよ」
「よろしい」
その後、駆け寄ってきたシキミは目を真っ赤に腫らしながら、「お二人とも、絶対に幸せになってくださいね!」と手を取り合って祝福を伝えてくれた。そしてカトレアは優雅な口調で、しかしはっきりとギーマに釘を刺した。
「フランを泣かせたら許さないわ」
「心得ている」
「幸せの涙なら見逃してあげる」
「寛大だね」
「アタクシは寛大よ。条件付きで」
ギーマは苦笑し、隣のフランは涙を拭いながら、たまらなく嬉しそうに笑っていた。
宴が進むにつれて、会場の空気はより一層柔らかく、賑やかなものへと変わっていく。
エナは花飾りを首に巻いたまま、気まぐれに歩くレパルダスに構ってほしそうにすり寄り、優雅な前脚で軽くあしらわれては、それでも懲りずに嬉しそうに尻尾を振っている。キキはフランのドレスの裾のそばで伏せ、静かに全体を見守りつつ、エナがはしゃぎすぎてグラスを倒しそうになると、すかさず前脚を伸ばして制止していた。
シキミはフランのドレス姿の細部を「本当に素敵です!」と何度も褒め称え、カトレアはいつの間にか、自分が選んだ装飾品についてのこだわりを語り始めていた。
「やはり、この白い花の刺繍にして正解だったわ」
「カトレアさんが一緒に選んでくれたからです」
「当然よ。アナタに似合わないものを選ぶわけがないでしょう」
「ふふ、ありがとうございます」
フランが無邪気に微笑むと、カトレアは誇らしげに、ほんの少し満足そうに目を細めた。
賑やかな歓談がひとしきり続き、ふと訪れた穏やかな時間の合間。
フランは少しだけ会場を抜け出し、テラスに手を添えて外を眺めていた。
潮風を受け、繊細なドレスの裾がふわりと揺れる。
寄せては返す波の音が、静かに、深く胸の奥へと染み込んでくるようだった。
この海は、かつてギーマを遠くへ連れ去ってしまった海だった。
一人残された自分に、耐え難い孤独と不安を思い知らせた、恨めしいはずの海。
けれど今、その同じ海が、二人の門出を祝福するように穏やかに凪ぎ、優しく見守ってくれている。
「フラン」
背後から、聞き慣れた低く柔らかな声が届いた。振り返るまでもなく、それが誰であるかは分かっている。
「はい、ギーマさん」
ギーマが音もなく歩み寄り、フランのすぐ隣に並び立った。
礼装を纏った彼は、朝の張り詰めた空気から解き放たれ、少しだけ肩の力が抜けた穏やかな空気を纏っていた。
「疲れたかい」
「少し。でも、すごく幸せです」
「そうか」
ギーマは海から視線を外し、隣に立つ花嫁の横顔をじっと見つめた。
「今日のきみは、眩しいね」
「ま、またそういうことを……」
「事実だよ」
フランは恥ずかしさに耐えかねて一度は俯いたが、すぐに意を決したように顔を上げた。
今日は、逃げずに、彼の注いでくれる愛を真っ向から受け取ろうと決めていたのだ。
「ありがとうございます」
予想外の素直な返答に、ギーマは少しだけ驚いたように目を瞬かせた。フランはいたずらっぽく笑う。
「褒めてもらえたら、ちゃんと受け取る練習中です」
「それはいい」
「ギーマさんもですよ」
「わたしも?」
「はい。みんなに祝ってもらったこと、ちゃんと受け取ってください」
ギーマは言葉を失い、静かに口をつぐんだ。フランはそんな彼の大きな手を、そっと両手で包み込む。
「ギーマさんは、もう一人じゃないです」
「……ああ」
「クチナシさんも、レンブさんも、シキミさんも、カトレアさんも、みんな今日ここに来てくれました。ギーマさんのことも、あたしのことも、見守ってくれてます」
フランは、左手の薬指に重なり合う二つの指輪を見つめた。
「だから、これからは一緒に、ちゃんと幸せになりましょうね」
ギーマはしばらくの間、何も言わずにただ海を見つめていた。
けれどやがて、彼は繋がれたフランの手を愛おしむように持ち上げると、重なり合う指輪の上へと、そっと静かに唇を落とした。
「約束する」
その低く響く誓約に、フランは愛おしそうに目を細めた。
ふと、ギーマが何かを思い出したように、悪戯っぽい光を瞳に宿して口を開く。
「そういえば、フラン。結婚した後も呼び方は、やはりギーマさんのままかい?」
唐突に投げかけられた問いに、フランの思考は一瞬でショートし、顔がカッと沸騰するように赤くなった。
「な、なんで今その話をするんですか?!」
「少し気になってね。そろそろギーマと……呼んでくれてもいいんじゃないかな」
「い、いきなりはちょっと……!ギーマさんを呼び捨てにするのは……あたしの心臓が保たないです……!!」
以前と全く変わらずに真っ赤になって両手を振り回すフランの姿を見て、ギーマは心底楽しそうに声を立てて笑った。
「安心した」
「何がですか……!」
「きみがきみのままでいてくれることに」
思わぬ言葉に、フランはポカンと口を開けて固まってしまった。ギーマは水平線に広がる海を背にして、真っ直ぐに彼女を見つめる。
「妻になっても、きみはきみだ。無理に変わらなくていい」
「……ギーマさん」
「ただ、ひとつだけ変わることがある」
「何ですか?」
ギーマは一歩踏み込んで距離を縮めると、フランの細い腰にそっと温かい手を添えた。
「これからは、きみを家族と呼べる」
フランの瞳が、驚きと喜びに大きく揺れた。
家族。
そのあたたかな響きは、あの夕暮れのプロポーズの日にも聞いたはずのものだった。
けれど、こうしてすべての人たちの前で誓いを交わした今日、改めて聞くその言葉は、何倍もの重みを持って心の最深部へと染み渡っていく。
「……はい」
フランは込み上げる涙を堪えながら、くしゃりと笑った。
「あたしも、ギーマさんを家族って呼べるんですね」
「ああ」
「嬉しいです」
「わたしもだ」
ギーマは愛おしさを抑えきれないように、フランの身体をそっと胸の中へと引き寄せた。
心地よい南国の潮風が、白と黒の二つの衣装を優しく揺らす。
その甘やかな静寂を破るように、遠くから元気いっぱいの鳴き声が響いた。
「ワンッ!」
その声に、フランはハッと我に返って顔を上げた。
「エナ?」
テラスの先を見ると、エナが砂浜を蹴立ててこちらへと全速力で駆けてくるところだった。その後ろをキキが慌てて追いかけ、さらに後方からはレパルダスが心底呆れ果てたような足取りで優雅についてきている。
「エナ、どうしたの?」
エナはフランの前まで滑り込むように辿り着くと、ちぎれんばかりに尻尾を振った。そして、なぜかその口には、式場のどこかから取ってきたのであろう小さな花飾りがしっかりとくわえられていた。
「それ、会場の飾りじゃない?!だめだよ、食べちゃ……!」
フランが慌てて取り上げようと手を伸ばした、その時。
エナはくわえていた花飾りを、ぽとりとフランのドレスの足元へと静かに置いたのだ。
まるで、大好きな主への、とっておきの贈り物のように。
フランは驚きに丸く目を見開いた。
「……くれるの?」
「わんっ!」
エナは誇らしげに胸を張って短く鳴いた。後ろに追いついたキキは呆れたように細い尻尾を揺らしていたが、無理に奪い返そうとしなかったところを見ると、どうやらこの相棒の行動を黙認していたらしい。
レパルダスはギーマの足元へと音もなく寄り添い、我関せずといった涼しい顔で腰を下ろした。
ギーマは微笑みを浮かべながら砂浜の花飾りを拾い上げ、フランの手のひらの上へと優しく乗せてやった。
「祝福らしい」
フランは手の中の小さな花を見つめ、ふわりと胸を温かいもので満たした。
「ありがとう、エナ」
主の優しい声に、エナは大喜びで高く吠えた。その勢いのままギーマにも飛びつこうとしたが、すかさずレパルダスが前脚をスッと伸ばし、鼻先を軽く叩いて制止する。
「わふ……」
「ふふ、レパルダスちゃんにも怒られちゃったね」
しゅん……と耳を倒すエナと、すまし顔のレパルダスのやり取りに、ギーマは喉の奥を震わせて静かに笑った。
「賑やかな家族だ」
「はい」
フランはギーマの腕にそっと身を寄せ、もらった花飾りを大切そうに胸に抱きしめた。
「これから、もっと賑やかになりますね」
「ああ」
「大変ですね」
「悪くない」
ギーマはフランの潤んだ瞳を、慈愛に満ちた眼差しで見つめ返した。
「むしろ、望むところだ」
その力強い言葉に、フランは心からの安心感を覚えて微笑んだ。
やがて、二人はポケモンたちを連れて賑やかな披露の会場へと戻った。
テラスの扉をくぐるや否や、シキミが弾かれたように駆け寄ってくる。
「フランさん!ギーマさん!集合写真を撮りますよー!」
「集合写真?」
「はい!全員で!」
続いてカトレアが、優雅に近づいてきた。
「早くしないと、エナがまた飾りを持っていくわ」
「エナ……!」
フランが苦笑いしながら足元のエナを見やる。
庭園の撮影スペースでは、レンブがすでに寸分の隙もない完璧な姿勢で所定の位置に立っていた。クチナシはといえば、どさくさに紛れてフレームの端の方へ逃げようとしていたが、目ざといシキミにしっかりと捕まり、袖を引っ張られて連れ戻されているところだった。
「クチナシさんも一緒です!」
「おじさんは後ろの方でいいって」
「だめです!スピーチ代表ですから!」
「そんな代表、なりたくてなった覚えはないんだけどねえ」
「アナタはちゃんと前に来なさい」
カトレアが有無を言わせぬ冷徹な美貌で言い放つと、クチナシは観念したように深い溜息を吐き出した。
「はいはい」
整えられた立ち位置の中央に、ギーマとフランが並び立つ。
フランのすぐ傍らには、笑顔のシキミと凛としたカトレア。
ギーマの傍らには、不動のレンブと、諦め顔のクチナシ。
そして足元には、エナが誇らしげに座り、キキが落ち着き払って控え、レパルダスが気まぐれに身を横たえている。
カメラマンが構えるものの、全員が一枚の枠に綺麗に収まるまでには、少なからぬ時間がかかった。
エナが突然立ち上がって動く。
シキミが感極まってまた涙ぐむ。
クチナシがわずかに横へ逃げようとする。
カトレアがそれを鋭い視線で引き止める。
レンブが真面目すぎるあまり、眉間に深い皺を刻んでしまう。
それらの光景を目の当たりにして、ギーマが堪えきれずに低く笑う。
そしてフランが、そのすべてを愛おしそうに見渡して、泣き笑いの表情を浮かべる。
「フラン」
シャッターが切られる直前、ギーマが隣で小さく囁いた。
「はい」
「幸せかい」
フランは、自分を取り囲むすべてを見つめた。
泣いて笑って支えてくれた、大切な友達。
厳しくも温かく背中を押してくれた、心強い仲間。
不器用に、けれど誰よりも真っ直ぐに見守ってくれた恩人。
ずっと自分の歩みに寄り添い続けてくれた、愛しいポケモンたち。
そして――何があっても隣にいてくれる、世界で一番愛する人。
もう、胸の中には一片の迷いも残っていなかった。
「あたし、幸せです」
ギーマは深く満ち足りたように、空色の瞳を細めた。
「わたしもだ」
カシャリ、と静かにシャッターが切られた。
フィルムに残されたのは、雑誌の表紙のように完璧に整った一枚などでは決してなかった。
シキミの目元には涙が光り、カトレアはそんな彼女に呆れたような笑みを浮かべている。レンブは勝負の場かと見紛うほどに真剣な顔で、クチナシは少しだけ厄介そうに眉を寄せている。エナはなぜか勝ち誇ったような顔で前を見据え、キキは凛とした表情で座り、レパルダスは気まぐれに横を向いていた。
そして、ギーマはかつてないほど穏やかに微笑み、フランは頬に涙の筋を残したまま、世界中の誰よりも幸福そうに笑っていた。
歪で、温かくて、愛に満ちた、どこまでも二人らしい最高の一枚だった。
長い一日の終わり。
夕暮れの気配が色濃くなり、アローラの空と海が、息を呑むような淡い金色と茜色に染まり始める頃。
フランはギーマと肩を並べ、テラスからもう一度、静かに海を眺めていた。
「終わっちゃいましたね」
「始まった、と言うべきではないかな」
ギーマの柔らかな指摘に、フランは少しだけ小首をかしげて考え、やがて嬉しさを噛み締めるように頷いた。
「そうですね。始まったんですね」
「ああ」
「ギーマさん」
「なんだい」
「これからも、名前を呼んだら返事してくださいね」
ギーマはフランの小さな手を、包み込むようにそっと握りしめた。
二人の薬指で重なり合う指輪が、沈みゆく夕陽の光を受けて、小さく、けれど確かにきらりと輝く。
「何度でも」
「じゃあ、あたしも返事します」
「フラン」
「はい」
「愛しているよ」
フランの白い頬が、茜色の夕陽とは違う、熱い朱色に染まり上がった。
けれど、彼女はもう視線を逸らさなかった。恥ずかしさに震えながらも、しっかりと顔を上げ、大好きな彼の瞳を真っ直ぐに見つめ返して笑った。
「あたしも、愛してます。ギーマさん」
ギーマは深く目を細め、引き寄せるようにして彼女の額へと、優しく、慈しむような口づけを落とした。
遠くから響く波の音が、二人の交わした永遠の誓約を、やわらかく包み込んでいく。
かつて、海はあまりにも残酷に二人を引き離した。
けれど今、この雄大な海は、二人の新たな始まりを祝福するために静かに波打っている。
今日、ギーマとフランが紡ぐ物語は、まっさらな新しいページへと確かに歩みを進めた。
それは、生涯をかけた終わりのない勝負。
互いを幸せにし、互いの手を取って共に幸せであり続けるための、二人だけの穏やかな勝負だ。
そして二人はもう、どんな嵐が訪れようとも、どちらか一人だけで勝手にその席を降りることはない。
フランが名前を呼べば、ギーマは必ずその声に応える。
ギーマが手を伸ばせば、フランは必ずその手を握り返す。
沈みゆくアローラの夕陽の中、二人の指先に重なる指輪は、どこまでも静かに、凛とした光を放ち続けていた。
まるで、これから二人が共に歩んでいく果てしない日々を、優しく照らし出す小さな星のように。
終
どこまでも高く抜けるような青空の下、どこまでも広がる海は昇り始めた朝の光を全身に受け、水面を無数の細かな宝石のようにきらきらと輝かせている。肌を撫でる南国の潮風は決して強すぎず、けれど島に咲き誇る豊かな花々の甘い香りを運ぶには十分だった。白を基調とした小さな式場の入り口では、風が吹き抜けるたびに、飾られた白い花々が微かに擦れ合ってやわらかな音を立てて揺れている。
それは、世間の目を引く派手で絢爛な式では決してなかった。
けれど、ギーマとフランが自分たちの意志で選んだその小さな場所は、二人にとって何物にも代えがたい、大切なものばかりで満たされていた。
どこまでも続くアローラの美しい海が見渡せること。遠いイッシュ地方から、海を越えて駆けつけてくれた大切な人たちが揃って座れること。そして、苦楽を共にしてきたポケモン達も同じ場所で息づいていられること。
飾り立てられた贅沢などなくても、ただそれだけで、フランの胸は張り裂けそうなほどの感謝と幸福で満たされていた。
白壁に囲まれた控室の中で、フランは大きな三面鏡の前に静かに座っていた。
身に纏った純白のドレスは、過度な装飾こそないものの、職人の手によって細部まで驚くほど丁寧に仕立てられている。胸元には清楚な小花の刺繍が施され、キュッと絞られた腰から足元へと流れる薄絹のドレープはやわらかく、ほんのわずかに身じろぎするだけで波のようにしなやかな陰影を作った。髪はゆるやかに編み込まれて背にまとめられ、白い生花と繊細なリボンが慎ましくあしらわれている。
膝の上で重ねられた左手の薬指には、あの日、海辺でギーマが自身のすべてを賭けるようにして贈ってくれた、指輪が静かに光を宿していた。
「……フランさん」
静寂の満ちる部屋に、背後から鼻をすするような震えた声が落ちた。
フランが鏡越しに視線を巡らせると、そこにはすでに両手で口元をしっかりと覆い、今にも決壊しそうな瞳でこちらを見つめるシキミの姿があった。
「シキミさん?」
「だ、だめです……アタシ、まだ式も始まっていないのに、もう涙腺が……!」
「早いです、シキミさん!」
フランが困ったように、けれど愛おしさを隠せずに慌てて笑い声を上げると、シキミの隣に立っていたカトレアが、呆れたようにふうと細いため息を吐き出した。
「本当に早いわね。まだ入場すらしていないのに」
「だって、カトレアさん!フランさんが……フランさんが、こんなに綺麗で、幸せそうで……!」
シキミは堪えきれなくなったようにバッグからレースのハンカチを取り出し、目頭を強く押さえた。
「別荘で泣いていたあの日のフランさんを思い出したら、もう……!」
その一言が耳に届いた瞬間、フランの胸の奥底がきゅっと切なく音を立てて軋んだ。
あの日。ギーマが何も言わずにイッシュリーグから姿を消してしまった直後、サザナミタウンにあるカトレアの別荘で開かれた、泣くためのお茶会。
あの頃の自分は、彼の名前を口にするだけで喉が引き裂かれそうになるほど苦しくて、けれど会いたくて、寂しくてたまらなくて。どうして自分を置いていってしまったのかと声を上げて泣きながら、それでも「あたしが頼りなかったからだ」と自分ばかりを責め立てていた。周囲には笑顔で「大丈夫です」と無理を重ねていた。
本当は、何一つとして大丈夫などではなかったのに。
「……あの時」
フランは鏡の奥に映る自身の瞳をじっと見つめながら、噛み締めるように静かに口を開いた。
「お二人がいてくれなかったら、あたし、今日ここにいなかったと思います」
その言葉に、シキミが濡れた目を見張り、カトレアもまた両手を重ねたまま、静かにフランを見つめ返した。
「あの日、泣いていいって言ってもらえて、会いたいって思っていいって言ってもらえて……だから、あたし、ギーマさんを探しに行けました」
フランは、薬指に指輪がはまった左手をそっと持ち上げ、温もりを確かめるように胸元へと寄せた。
「だから、今日のこのドレス姿を、お二人に見てもらえて嬉しいです」
友のひたむきな言葉に、シキミはもう感情を保つことができず、ドレスの裾に気を遣いながらもフランの華奢な肩へ泣きついた。
「フランさん……!」
「わっ、シキミさんってば……もう!」
シキミの勢いに戸惑いながらも、は困ったように笑い、その背にそっと手を添える。カトレアはそんな二人を見て呆れたように首を振りつつも、その優雅な口元をやわらかく、慈しむように緩めていた。
カトレアは衣擦れの音を立てながら、静かな足取りでフランの傍らへと歩み寄った。
「フラン」
「はい」
「幸せ?」
その簡潔な問いかけは、かつてギーマからプロポーズを受けた夜、通信越しにカトレアが投げかけてくれたものと同じだった。
そしてきっと、サザナミの別荘で幼子のように泣きじゃくったあの日から、カトレアはずっと、この瞬間を、この答えを待ち続けてくれていたのだ。
もう、何の誤魔化しも、虚勢も、気後れも必要ない。
「はい」
フランは鏡の中の自分自身に、そして背後から温かく見守ってくれるかけがえのない二人の友に向かって、花が咲くような笑みを浮かべた。
「あたし、幸せです」
その淀みのない答えを聞いたカトレアの瞳が、ほんの少しだけ潤んだ。けれど彼女は矜持を保つように小さく息を吸い、すぐにいつもの誇り高く優雅な表情へと戻る。
「そう」
短く落とされたその一言。けれど、その響きの中にある深い祝福を、フランはしっかりと受け取っていた。
横では、シキミがますます涙をあふれさせている。
「うう……もう、今日はハンカチ何枚あっても足りません……!」
「アタクシの分も持っているでしょう?」
「もちろんです!」
「なら問題ないわ」
「カトレアさんも泣く予定なんですか?」
「……念のためよ」
その飾らないやり取りに、フランは思わず噴き出すように笑った。朗らかな笑い声が、光の差す控室いっぱいにやわらかく広がっていく。
もう、あの日のように、自身の不甲斐なさに泣き崩れるための部屋ではない。
ここは、大切な人たちと共に、新しく幸せになるための場所だった。
一方、その頃。
渡り廊下を隔てた別の控室では、ギーマが全身鏡の前に一人佇んでいた。
黒と白を基調にした特別な礼装は、アローラで彼が好んで纏うようになった和装の軽やかな趣を残しつつも、冠婚葬祭の場に相応しい威厳と品格を湛えている。左胸には、フランが纏うドレスの装飾と対になるように、小さな白い花が飾られていた。
ギーマは鏡に映る自身の姿を見つめ、張り詰めた肺から静かに息を吐き出した。
「緊張しているのか」
部屋の隅、壁に背を預けていたレンブの重厚な声が静寂を破った。ギーマは振り返ることなく、鏡の中の友へ視線だけを向けて答える。
「わたしが?」
「先ほどから、袖を三度直している」
「相変わらず、よく見ているね」
「お前とは、四天王として長い時間を共にしてきたつもりだからな」
レンブは太い腕を胸の前で組んだまま、格闘家らしい厳格な眼差しでギーマの背中を見据えていた。そのすぐ横の丸椅子では、クチナシが気怠げに深く腰掛け、心底面倒くさそうに足を組み替えている。
「いやあ、珍しいもん見たね。あんたでも緊張するんだ」
「クチナシ」
「何」
「今日くらいは、少し手加減してくれてもいいのではないかな」
「今日だから言ってんだよ。新郎がそんな顔してたら、花嫁さんが心配するだろ」
正論を突きつけられ、ギーマは言葉を詰まらせてわずかに沈黙した。その指摘には、いかなる勝負師の弁舌をもってしても反論の余地がなかった。
クチナシは顎を撫で、気怠げな態度の奥にある、鋭く澄んだ視線をギーマへ真っ直ぐに向ける。
「ねえちゃん、たぶん今日も泣くよ」
「……ああ」
「でも、あの子が泣くのは悪いことばかりじゃないだろ」
ギーマは鏡から視線を外し、足元へ目を落とした。
「分かっている」
「なら、泣かせても逃げんなよ」
クチナシのぶっきらぼうな釘刺しに、レンブも深く頷いて言葉を重ねた。
「ギーマ。今日、お前は多くの者の前で誓うことになる」
「ああ」
「だが、一番大事なのは、皆にどう見えるかではない。フランにどう届くかだ」
ギーマはゆっくりと振り返り、レンブと向き合った。武人の声は、晴れ舞台の日であっても何一つ浮つくことなく、いつものように真摯で、重みがあった。
「格好をつけるなとは言わん。お前にはお前の在り方がある。だが、肝心なところで逃げるな」
「……きみにも、クチナシにも、同じことを言われるね」
「言われるだけの前科がある」
横から容赦なく挟まれたクチナシの毒舌に、ギーマは苦笑を漏らす。
「容赦ないね」
「新郎に優しくする係は、ねえちゃんがやるだろ」
その言葉に、ギーマは一瞬だけ目を伏せた。胸の奥に灯る愛しい彼女の顔を思い浮かべ、やがてふっと、自然な笑みを口元に浮かべる。
「そうだね」
憑き物が落ちたようなその表情を見て、レンブは強面をわずかに緩めた。
「いい顔になった」
「そうかい」
「ああ。昔より、少し隙がある」
「褒めているのかな」
「褒めている」
二人のやり取りを、クチナシが鼻を鳴らして笑い飛ばす。
「分かりづらい褒め方だねえ」
「きみほどではないと思うが」
「おれは褒めてないからね」
「おや」
「ただまあ」
クチナシは内ポケットから、小さく折りたたまれた一枚の紙を取り出した。何度も推敲を重ね、ペンを走らせた跡が見て取れる、スピーチの原稿だった。
「今日くらいは、ちゃんと見届けてやるよ」
ギーマはそのくたびれた紙片を見つめ、静かに、けれど心からの温もりを込めて目を細めた。
「ありがとう」
「だから、礼は式が終わってからにしな」
クチナシは照れ隠しのように露骨に顔を背け、頭を掻いた。
「まだおれは何も言ってないんだから」
その時、コンコンと控室の扉が控えめにノックされた。式場のスタッフが静かに顔を覗かせ、定刻となり式の準備がすべて整ったことを告げる。
ギーマは深く息を吸い込み、胸元に飾られた白い花に、細く長い指先でそっと触れた。
「行ってくる」
レンブは力強く、頼もしく頷いた。
「行け」
クチナシは気怠げに、けれど確かに背中を押すように手を振った。
「逃げんなよ、新郎」
「逃げないさ」
ギーマは静かに、どこまでも清々しく微笑んだ。
「もう、降りるつもりはない」
扉の向こうに広がる式場には、アローラのやわらかな光が満ち溢れていた。
白い布と緑の葉で飾られた木製の椅子には、イッシュから海を越えて集まってくれた人々、アローラの地で出会い支えてくれた人々、そして大切なポケモンたちが、静かにその時を待っていた。
シキミはすでに席についた段階で目を潤ませており、カトレアはその隣でいつでも差し出せるようにハンカチを手に握っている。レンブは背筋を寸分の狂いもなく伸ばして座り、厳粛な面持ちで祭壇を見つめていた。クチナシは少し後ろの列で腕を組み、いつも通りの気怠い顔を装っていたが、その視線はブレることなく祭壇へと注がれている。
フランの相棒であるグラエナのエナは、首回りに小さな白い花飾りを誇らしげに巻き付け、ピンと胸を張っていた。ブラッキーのキキはフラン側の席の足元で静かに侍り、ギーマの相棒であるレパルダスは祭壇の脇で、しなやかに紫の尻尾を揺らしている。
祭壇の前に立つギーマは、海からの風を正面に受けていた。
人前に立つことには、とうの昔に慣れきっているはずだった。数え切れないほどの挑戦者を迎え撃ち、命を削るような大勝負の盤面に立ち続けてきたのだから。
だが、今この胸を支配している緊張は、かつて経験したどんなヒリつく勝負ともまるで違っていた。
相手を打ち負かすための緊張ではない。すべてを失う恐怖に怯える緊張でもない。
ただ一人の女性の手を取り、これから先の果てしない人生を、共に笑い、共に歩んでいくのだと誓うための、温かく誇らしい緊張だった。
奏でられていた音楽が、やわらかな転調を見せる。
参列者たちの視線が一斉に、式場の入り口へと向けられた。
ギィと静かな音を立てて、木製の重厚な扉がゆっくりと開かれる。
そこに、フランが立っていた。
ギーマは、音を立てて息を呑んだ。
純白のドレスに包まれたフランは、アローラの朝の光そのものを身に纏っているかのようだった。決して派手ではないのに、その場の空気を一変させてしまうほどに目を奪われる。ベールの奥の顔には初々しい緊張が浮かんでいたが、その瞳だけは、迷いなく真っ直ぐにギーマの姿を捉えていた。
その時、待ちきれなくなったように、首に花飾りをつけたエナがフランの足元へと駆け寄った。本来ならもう少し厳かに歩調を合わせる手筈だったのだろうが、主の晴れ姿への嬉しさを抑えきれない様子で、太い尻尾をぶんぶんと左右に振っている。
そのフサフサとした尻尾がドレスの裾をかすめそうになるたび、フランが慌てて小声で窘めていた。
「エナ、ゆっくり……!今日はちゃんと歩いてね……!」
「わんっ!」
「お返事はいいんだけど、ちょっと近い……!」
ベールの下で交わされるそのささやかなやり取りに、張り詰めていた式場の中から、ふっと微笑ましい笑いが漏れ広がる。
祭壇の前で立ち尽くしていたギーマの肩からも、ふわりと緊張が解けていった。
ああ、フランだ。どれほど息を呑むほど美しい花嫁姿に包まれていても、相棒に振り回されて少し眉を下げ、慌てふためいているところまで、間違いなく自分が愛した彼女そのものだった。
フランがバージンロードを、ゆっくりと踏みしめて歩んでくる。一歩。また一歩。
近づいてくるその確かな足音に合わせて、これまでの記憶の断片が、走馬灯のようにギーマの胸をよぎっていった。
イッシュリーグの長い廊下を、抱えきれないほどの書類を抱えて懸命に走っていた彼女。
自分を見つけるたび、マトマの実のように頬を染めながらも、真面目に職務を果たそうとしていた彼女。
自分が身勝手に姿を消した後、誰もいない資料室の前で、泣きながら何度も自分の名を呼んでいたという彼女。
遠いアローラの海辺まで追いかけてきて、ボロボロになって泣きながら、それでも自分を叱り、その手を握り返してくれた彼女。
そして、あの海辺で、涙を流しながらプロポーズを受け入れてくれた彼女。
そのすべての時間を越えて、今、彼女は純白の衣を纏い、自らの足で自分の元へと歩いてきてくれているのだ。
ついにフランが、祭壇の前に辿り着いた。
自分の役割をやり遂げたと言わんばかりに胸を張ったエナだったが、ふと鼻先を動かし、何を思ったのかギーマの胸元に飾られた白い花へ興味深そうに顔を近づけようとした。
「エナ!ギーマさんの花飾り、食べちゃだめだってば……!」
静粛なはずの儀式の中で、フランが反射的に漏らした切実な囁き声。その声に、再び式場中がやわらかな笑いに包まれた。
ギーマは口元を綻ばせ、身を屈めてエナの黒い頭をそっと愛おしそうに撫でた。
「今日だけは、きみにも礼を言わなければね」
「ワン!」
エナは誇らしげに短く鳴いて任務完了を告げると、足取りも軽やかにキキの待つ席へと戻っていった。
残されたフランは、ベールの下で顔を真っ赤に染めながら、申し訳なさそうにギーマを見上げる。
「す、すみません……」
「いや」
ギーマは彼女の震える指先を、そっとすくい上げるようにして取った。
「きみらしくて、安心した」
その低く甘い一言だけで、フランの瞳にじわりと熱いものが込み上げた。けれど、泣くのはまだ早すぎる。彼女はギュッと奥歯を噛み締め、零れそうになる涙を必死に堪えた。
神父の声が響き、式は厳かに進んでいく。
互いの意志を問う誓いの言葉、そして、指輪の交換へ。
参列者たちが見守る中、二人の手が祭壇の上で重ねられる。
フランの指先は、隠しきれない緊張と歓喜でかすかに震えていた。ギーマはその震えをまるごと包み込むように、温かい指先で支えながら、ゆっくりと指輪を彼女の薬指へと滑り込ませた。
「フラン」
低く、どこまでも深い慈愛を帯びた声で、愛しい名が呼ばれる。
「はい」
「きみがわたしの名前を呼ぶ限り、生涯、必ず返事をすると誓う」
その誓約を聞いた瞬間、フランの目尻から、堪えきれなくなった透明な雫が一粒こぼれ落ちた。ギーマは彼女の潤んだ瞳から視線を逸らすことなく、言葉を紡ぎ続ける。
「勝った日も、負けた日も、無様な日も、情けない日も、わたしはきみのもとへ帰る。きみに何も言わず、もう一人で降りることはしない」
波の音に混じる彼の声は、静かでありながら、揺るぎない確信に満ちていた。
「わたしは、きみを幸せにする。そして、きみの隣で、わたし自身も幸せになる」
フランは唇を細かく震わせながら、胸がいっぱいになり、何度も何度も力強く頷いた。
今度は、フランの番だった。
彼女は小さな両手でギーマの細く長い手を取り、用意されたもうひとつの指輪をそっと掲げる。
その手はやはり微かに震えていた。けれど、もう迷いから逃げ出すような弱さは微塵もなかった。
「あたしは……」
口を開いたものの、溢れ返る感情に喉が詰まり、声が途切れてしまう。
客席の前列で、シキミが祈るようにハンカチを両手で握りしめた。カトレアもまた、息を潜めて静かに目を伏せる。
フランは深く息を吸い込み、涙を拭うこともせず、凛とした顔つきでもう一度顔を上げた。
「あたしは、ギーマさんの隣にいます」
その揺るぎない響きに、ギーマの空色の瞳が微かに揺れた。
「かっこいい日も、情けない日も、勝った日も、負けた日も……ギーマさんが自分のことを敗北者だって言いたくなる日も」
フランの声に、澄み切った強さと、底なしの愛が宿っていく。
「あたしは、ギーマさんの名前を呼びます。返事が返ってくるまで、何度でも呼びます」
重ねられたギーマの指に、ぎゅっと強い力がこもった。
「それから、ギーマさんが勝手に席を降りようとしたら、あたしが引き戻します」
参列者の間から、温かな笑いが広がった。客席でレンブが深く深く頷き、クチナシが口元を緩めて「いいねえ」と小さく呟く。
フランは涙をボロボロとこぼしながら、太陽のように輝く笑みを浮かべた。
「あたしも、ギーマさんを幸せにします。だから、一緒に幸せになってください」
ギーマは込み上げる熱い感情を必死に堪えるように、一瞬だけ瞼を閉じた。
そして、目を開き、静かに、けれど魂を込めて答える。
「ああ」
それは、生涯を賭けた誓約だった。短くても、これまでのどんな言葉よりも重く、深い返答だった。
指輪の交換が終わり、二人は祭壇の前で向かい合う。
開け放たれた扉から、寄せては返す穏やかな波の音が届く。花が風に揺れ、甘い香りを放つ。
誓いの口づけを交わす直前、フランは照れくささに耐えかねたように、少しだけ視線を伏せた。ベール越しにも分かるほど、その頬は真っ赤に染まっている。
緊張に身を固くしていることが、ギーマには手に取るように分かった。
「フラン」
「は、はい」
「逃げるかい?」
「逃げません……!」
「それはよかった」
「ギーマさん、こういう時まで意地悪です……」
「緊張をほぐそうと思ってね」
「余計に緊張しました……!」
フランの抗議に、ギーマは喉の奥で小さく笑った。そして、愛おしさに満ちた手つきでベールをそっと持ち上げると、静かに彼女の顔へと近づいた。
重なり合った口づけは、穏やかで、優しく、けれどこれからの長い歳月を支え続ける確かな誓いそのものだった。
その瞬間、式場中に割れんばかりの惜しみない拍手が響き渡った。
シキミは完全にハンカチに顔を埋めて号泣しており、カトレアもまた、人目を忍ぶように繊細なレースを目元に当てていた。レンブは武人らしい威厳ある顔のまま、しかし目元を優しく細めて力強く手を叩いている。クチナシは相変わらず億劫そうな顔を崩さずに拍手を送っていたが、その拍手の音は誰よりも長く、最後まで止まることはなかった。
厳かな儀式が幕を閉じ、やがて陽気な披露の時間が訪れた。
アローラの心地よい潮風が吹き抜ける小さなテラス付きの会場には、色鮮やかな島の料理と南国の花々が所狭しと並び、参列者たちだけでなくポケモンたちもそれぞれ思い思いに寛いでいる。
エナは首の花飾りを誇らしげに揺らしながら、ご馳走の匂いに釣られて誰かからお裾分けをもらえないかと、テーブルの間をうろうろと歩き回っていた。
「エナ、それはお客様の分!!食べようとしないの!」
ドレスの裾を持ち上げ、フランが慌てふためいて追いかける。
ギーマはその微笑ましいやりとりをテラスの柱に寄りかかって眺め、楽しげに目を細めていた。
「相変わらず賑やかだ」
「ギーマさん、笑ってないで止めてください!」
「エナ、こちらへ」
ギーマが低く穏やかな声で呼ぶと、エナは嬉しそうに踵を返して駆け寄ってきた。
けれど、そのままギーマの足元に飛びつくと、礼装の袖口に鼻先を突っ込み始める。
「彼も祝ってくれているのだろう」
「絶対おやつ探してます!」
フランの的確なツッコミに、周囲の参列者たちからどっと笑いが沸き起こる。赤面しながらも、フランの瞳には幸せな光が溢れんばかりに宿っていた。
やがて、宴も中盤に差し掛かり、スピーチの時間が告げられた。
司会から名前を呼ばれ、席からゆっくりと立ち上がったのはクチナシだった。
会場中の視線が一斉に自分へと集まる中、クチナシは心底面倒くさそうに頭をガリガリと掻きながら、壇上へと進み出た。
「えー……こういう場は、正直かなり苦手でね」
第一声からして、祝いの席らしからぬ気怠い告白だった。会場にクスクスと小さな笑いが漏れる。
フランは胸元で両手をぎゅっと握りしめて見守り、ギーマはその隣で静かに腕を組んで佇んでいた。
クチナシは懐から折りたたまれたメモを取り出したが、それに一度だけ億劫そうに視線を落とすと、あっさりとポケットの中へとしまい直す。
「まあ、書いてきたことを読むのも性に合わないんで、適当に話すよ」
そのマイペースぶりに、客席のカトレアが小さく目を細めて苦笑する。シキミは期待と不安が入り混じった面持ちで、背筋をピンと伸ばして耳を傾けていた。
クチナシはまず、隣に立つギーマへと視線を向けた。
「ギーマ。あんたがアローラに来た時、正直、面倒くさい男が流れ着いたなと思った」
「クチナシさん?!」
あまりの直球さにフランが思わず声を上げそうになり、慌てて両手で口を押さえる。会場にどっと温かい笑いが広がった。
ギーマは苦笑を浮かべたまま、静かに聞いている。
「負けた顔して、全部分かったような顔して、そのくせ肝心なところは何も諦めきれてない。扱いづらいったらなかったよ」
ギーマは一切反論しなかった。過去の自身の見苦しさをすべて受け止めるように、ただ静かにその言葉を受け止めていた。
クチナシは淡々と続ける。
「でもまあ、そういう奴ほど、本当は何かに引き戻されるのを待ってたりするもんでね」
クチナシの視線が、今度はフランへとスッと移った。
「そこへ、このねえちゃんが来た」
名を指されたフランの華奢な肩が、小さく震える。
「泣きそうな顔して、でも真っ直ぐで。怖いくせに引かない。傷ついてるくせに相手の心配をする。弱そうに見えて、ずいぶん強い子だと思ったよ」
アローラで途方に暮れていた自分を見守ってくれた彼の言葉に、フランの瞳に再びじわりと涙が浮かんだ。ギーマがそっと寄り添い、彼女の震える手を温かく握りしめる。
「この二人は、見ての通り面倒くさい」
会場からまた、共感を含んだ笑いが起きる。
「片方は格好つけて一人で沈みたがるし、もう片方は自分の痛みを後回しにして笑おうとする。正直、見てる方はやきもきする」
客席でシキミが「激しく同意します」とばかりに何度も強く頷き、カトレアもまた深く静かに頷いていた。
クチナシはそんな面々を見渡し、ほんの少しだけ、険のないやわらかな表情を作った。
「でも、そういう二人が、ちゃんと泣いて、怒って、話して、今日ここに立ってる」
クチナシの声が、少しだけ低く、胸に染み入るような優しさを帯びて響く。
「それはまあ、悪くない。いや、かなりいいことだと思う」
フランの目から、ぽろりと大粒の涙が零れ落ちた。
ギーマは彼女の手を強く握ったまま、真っ直ぐにクチナシを見つめ返している。
「ギーマ」
「はい」
クチナシの呼びかけに、ギーマは自然に、一切の気取りなく返事をした。
その素直な反応に、クチナシは少しだけ満足そうに口端を上げた。
「幸せにしろ」
簡潔な言葉。けれど、そこには男が背負うべき人生のすべてが込められていた。
「毎日帰れ。名前を呼ばれたら返事をしろ。勝手に決めるな。黙って消えるな。派手な一手でどうにかしようとするな。地味なことを、毎日やれ」
その泥臭くも真実を突いた言葉に、ギーマの空色の瞳が深く、強く揺れた。
「はい」
今度の返事は、先ほどの誓いの言葉と同じ、魂の底からの重みを持っていた。
クチナシは次に、涙ぐむ花嫁へと向き直る。
「フラン」
「はい……」
「幸せになれ」
真っ直ぐに注がれたその温かな言葉に、フランの涙はもう止まらなくなってしまった。
「この男を幸せにすることばっかり考えるな。あんたもちゃんと幸せになれ。寂しいなら寂しいと言え。怒るなら怒れ。泣きたいなら泣け。嬉しいなら、今みたいに思い切り笑え」
「……はい」
フランは溢れる涙を拭おうともせず、何度も、何度も頷いた。
「はい……!」
二人の返事を聞き届けたクチナシは、ひどく照れくさそうに視線を明後日の方向へと逸らした。
「以上。長いのは苦手なんでね」
それだけぶっきらぼうに言い捨てると、彼はポケットに手を突っ込み、足早に自分の席へと戻ろうとした。
だが、壇を下りる途中で、一度だけ立ち止まる。
振り返らないまま、背中越しに、ぼそりと小さな声を落とした。
「……おめでとう」
その不器用な祝福に、会場中から割れんばかりの温かな拍手と歓声が沸き起こった。
フランは胸元に手を当て、涙で濡れた顔のまま深く頭を下げた。
「ありがとうございます、クチナシさん……!」
ギーマもまた、隣で深く、礼を尽くして頭を下げた。
席に戻ったクチナシは、注がれる温かな視線から逃れるように顔をしかめてみせた。
「泣かせるつもりはなかったんだけどね」
隣に座るレンブが、腕を組んだまま真面目な顔で言った。
「よい言葉だった」
「やめてくれる?そういうの一番困るんだよ」
「本心だ」
「だから困るんだって」
前の席では、シキミがすでにテーブルに両肘をつき、ハンカチで顔を覆っていた。
「素晴らしいスピーチでした……!不器用で、飾らなくて、でも核心だけを突く祝福……!」
「シキミ、記録しようとしていないでしょうね」
カトレアが横目でジト目を向ける。
「今日はしません!でも心には刻みます!」
「それならいいわ」
スピーチがひと段落した後、今度はレンブが静かに立ち上がり、ギーマの前へと歩み寄った。
元より大勢の前で長々と演説を打つ性分ではない彼は、友の前に立つと、短く簡潔に切り出した。
「ギーマ」
「なんだい」
「きみたちの強さ、心に刻み込んだ」
ギーマが静かに目を細める。レンブは視線をスッとフランへと向けた。
「フラン。ギーマは手のかかる男だ」
「はい」
間髪を入れない即答に、会場が再びドッと沸いた。ギーマは思わず片眉を跳ね上げる。
「今日くらい否定してくれてもいいのでは?」
「だって……事実なので……」
申し訳なさそうに呟くフランに、レンブは満足そうに深く頷いてみせた。
「だが、きみならば大丈夫だ。互いに支え合い、互いに鍛え合い、これからも共に歩むがいい」
武人からの混じり気のない信頼を受け、フランは胸を熱くして頭を下げた。
「ありがとうございます、レンブさん」
レンブは再びギーマへと向き直った。
「そしてギーマ。フランを幸せにしろ」
「今日、何度も言われているね」
「何度でも言う」
レンブの眼光は真剣そのものだった。
「言われ続けるだけの覚悟を持て」
その言葉の重みを受け止め、ギーマはふっと口元を緩め、深く頷いた。
「ああ。受けて立つよ」
「よろしい」
その後、駆け寄ってきたシキミは目を真っ赤に腫らしながら、「お二人とも、絶対に幸せになってくださいね!」と手を取り合って祝福を伝えてくれた。そしてカトレアは優雅な口調で、しかしはっきりとギーマに釘を刺した。
「フランを泣かせたら許さないわ」
「心得ている」
「幸せの涙なら見逃してあげる」
「寛大だね」
「アタクシは寛大よ。条件付きで」
ギーマは苦笑し、隣のフランは涙を拭いながら、たまらなく嬉しそうに笑っていた。
宴が進むにつれて、会場の空気はより一層柔らかく、賑やかなものへと変わっていく。
エナは花飾りを首に巻いたまま、気まぐれに歩くレパルダスに構ってほしそうにすり寄り、優雅な前脚で軽くあしらわれては、それでも懲りずに嬉しそうに尻尾を振っている。キキはフランのドレスの裾のそばで伏せ、静かに全体を見守りつつ、エナがはしゃぎすぎてグラスを倒しそうになると、すかさず前脚を伸ばして制止していた。
シキミはフランのドレス姿の細部を「本当に素敵です!」と何度も褒め称え、カトレアはいつの間にか、自分が選んだ装飾品についてのこだわりを語り始めていた。
「やはり、この白い花の刺繍にして正解だったわ」
「カトレアさんが一緒に選んでくれたからです」
「当然よ。アナタに似合わないものを選ぶわけがないでしょう」
「ふふ、ありがとうございます」
フランが無邪気に微笑むと、カトレアは誇らしげに、ほんの少し満足そうに目を細めた。
賑やかな歓談がひとしきり続き、ふと訪れた穏やかな時間の合間。
フランは少しだけ会場を抜け出し、テラスに手を添えて外を眺めていた。
潮風を受け、繊細なドレスの裾がふわりと揺れる。
寄せては返す波の音が、静かに、深く胸の奥へと染み込んでくるようだった。
この海は、かつてギーマを遠くへ連れ去ってしまった海だった。
一人残された自分に、耐え難い孤独と不安を思い知らせた、恨めしいはずの海。
けれど今、その同じ海が、二人の門出を祝福するように穏やかに凪ぎ、優しく見守ってくれている。
「フラン」
背後から、聞き慣れた低く柔らかな声が届いた。振り返るまでもなく、それが誰であるかは分かっている。
「はい、ギーマさん」
ギーマが音もなく歩み寄り、フランのすぐ隣に並び立った。
礼装を纏った彼は、朝の張り詰めた空気から解き放たれ、少しだけ肩の力が抜けた穏やかな空気を纏っていた。
「疲れたかい」
「少し。でも、すごく幸せです」
「そうか」
ギーマは海から視線を外し、隣に立つ花嫁の横顔をじっと見つめた。
「今日のきみは、眩しいね」
「ま、またそういうことを……」
「事実だよ」
フランは恥ずかしさに耐えかねて一度は俯いたが、すぐに意を決したように顔を上げた。
今日は、逃げずに、彼の注いでくれる愛を真っ向から受け取ろうと決めていたのだ。
「ありがとうございます」
予想外の素直な返答に、ギーマは少しだけ驚いたように目を瞬かせた。フランはいたずらっぽく笑う。
「褒めてもらえたら、ちゃんと受け取る練習中です」
「それはいい」
「ギーマさんもですよ」
「わたしも?」
「はい。みんなに祝ってもらったこと、ちゃんと受け取ってください」
ギーマは言葉を失い、静かに口をつぐんだ。フランはそんな彼の大きな手を、そっと両手で包み込む。
「ギーマさんは、もう一人じゃないです」
「……ああ」
「クチナシさんも、レンブさんも、シキミさんも、カトレアさんも、みんな今日ここに来てくれました。ギーマさんのことも、あたしのことも、見守ってくれてます」
フランは、左手の薬指に重なり合う二つの指輪を見つめた。
「だから、これからは一緒に、ちゃんと幸せになりましょうね」
ギーマはしばらくの間、何も言わずにただ海を見つめていた。
けれどやがて、彼は繋がれたフランの手を愛おしむように持ち上げると、重なり合う指輪の上へと、そっと静かに唇を落とした。
「約束する」
その低く響く誓約に、フランは愛おしそうに目を細めた。
ふと、ギーマが何かを思い出したように、悪戯っぽい光を瞳に宿して口を開く。
「そういえば、フラン。結婚した後も呼び方は、やはりギーマさんのままかい?」
唐突に投げかけられた問いに、フランの思考は一瞬でショートし、顔がカッと沸騰するように赤くなった。
「な、なんで今その話をするんですか?!」
「少し気になってね。そろそろギーマと……呼んでくれてもいいんじゃないかな」
「い、いきなりはちょっと……!ギーマさんを呼び捨てにするのは……あたしの心臓が保たないです……!!」
以前と全く変わらずに真っ赤になって両手を振り回すフランの姿を見て、ギーマは心底楽しそうに声を立てて笑った。
「安心した」
「何がですか……!」
「きみがきみのままでいてくれることに」
思わぬ言葉に、フランはポカンと口を開けて固まってしまった。ギーマは水平線に広がる海を背にして、真っ直ぐに彼女を見つめる。
「妻になっても、きみはきみだ。無理に変わらなくていい」
「……ギーマさん」
「ただ、ひとつだけ変わることがある」
「何ですか?」
ギーマは一歩踏み込んで距離を縮めると、フランの細い腰にそっと温かい手を添えた。
「これからは、きみを家族と呼べる」
フランの瞳が、驚きと喜びに大きく揺れた。
家族。
そのあたたかな響きは、あの夕暮れのプロポーズの日にも聞いたはずのものだった。
けれど、こうしてすべての人たちの前で誓いを交わした今日、改めて聞くその言葉は、何倍もの重みを持って心の最深部へと染み渡っていく。
「……はい」
フランは込み上げる涙を堪えながら、くしゃりと笑った。
「あたしも、ギーマさんを家族って呼べるんですね」
「ああ」
「嬉しいです」
「わたしもだ」
ギーマは愛おしさを抑えきれないように、フランの身体をそっと胸の中へと引き寄せた。
心地よい南国の潮風が、白と黒の二つの衣装を優しく揺らす。
その甘やかな静寂を破るように、遠くから元気いっぱいの鳴き声が響いた。
「ワンッ!」
その声に、フランはハッと我に返って顔を上げた。
「エナ?」
テラスの先を見ると、エナが砂浜を蹴立ててこちらへと全速力で駆けてくるところだった。その後ろをキキが慌てて追いかけ、さらに後方からはレパルダスが心底呆れ果てたような足取りで優雅についてきている。
「エナ、どうしたの?」
エナはフランの前まで滑り込むように辿り着くと、ちぎれんばかりに尻尾を振った。そして、なぜかその口には、式場のどこかから取ってきたのであろう小さな花飾りがしっかりとくわえられていた。
「それ、会場の飾りじゃない?!だめだよ、食べちゃ……!」
フランが慌てて取り上げようと手を伸ばした、その時。
エナはくわえていた花飾りを、ぽとりとフランのドレスの足元へと静かに置いたのだ。
まるで、大好きな主への、とっておきの贈り物のように。
フランは驚きに丸く目を見開いた。
「……くれるの?」
「わんっ!」
エナは誇らしげに胸を張って短く鳴いた。後ろに追いついたキキは呆れたように細い尻尾を揺らしていたが、無理に奪い返そうとしなかったところを見ると、どうやらこの相棒の行動を黙認していたらしい。
レパルダスはギーマの足元へと音もなく寄り添い、我関せずといった涼しい顔で腰を下ろした。
ギーマは微笑みを浮かべながら砂浜の花飾りを拾い上げ、フランの手のひらの上へと優しく乗せてやった。
「祝福らしい」
フランは手の中の小さな花を見つめ、ふわりと胸を温かいもので満たした。
「ありがとう、エナ」
主の優しい声に、エナは大喜びで高く吠えた。その勢いのままギーマにも飛びつこうとしたが、すかさずレパルダスが前脚をスッと伸ばし、鼻先を軽く叩いて制止する。
「わふ……」
「ふふ、レパルダスちゃんにも怒られちゃったね」
しゅん……と耳を倒すエナと、すまし顔のレパルダスのやり取りに、ギーマは喉の奥を震わせて静かに笑った。
「賑やかな家族だ」
「はい」
フランはギーマの腕にそっと身を寄せ、もらった花飾りを大切そうに胸に抱きしめた。
「これから、もっと賑やかになりますね」
「ああ」
「大変ですね」
「悪くない」
ギーマはフランの潤んだ瞳を、慈愛に満ちた眼差しで見つめ返した。
「むしろ、望むところだ」
その力強い言葉に、フランは心からの安心感を覚えて微笑んだ。
やがて、二人はポケモンたちを連れて賑やかな披露の会場へと戻った。
テラスの扉をくぐるや否や、シキミが弾かれたように駆け寄ってくる。
「フランさん!ギーマさん!集合写真を撮りますよー!」
「集合写真?」
「はい!全員で!」
続いてカトレアが、優雅に近づいてきた。
「早くしないと、エナがまた飾りを持っていくわ」
「エナ……!」
フランが苦笑いしながら足元のエナを見やる。
庭園の撮影スペースでは、レンブがすでに寸分の隙もない完璧な姿勢で所定の位置に立っていた。クチナシはといえば、どさくさに紛れてフレームの端の方へ逃げようとしていたが、目ざといシキミにしっかりと捕まり、袖を引っ張られて連れ戻されているところだった。
「クチナシさんも一緒です!」
「おじさんは後ろの方でいいって」
「だめです!スピーチ代表ですから!」
「そんな代表、なりたくてなった覚えはないんだけどねえ」
「アナタはちゃんと前に来なさい」
カトレアが有無を言わせぬ冷徹な美貌で言い放つと、クチナシは観念したように深い溜息を吐き出した。
「はいはい」
整えられた立ち位置の中央に、ギーマとフランが並び立つ。
フランのすぐ傍らには、笑顔のシキミと凛としたカトレア。
ギーマの傍らには、不動のレンブと、諦め顔のクチナシ。
そして足元には、エナが誇らしげに座り、キキが落ち着き払って控え、レパルダスが気まぐれに身を横たえている。
カメラマンが構えるものの、全員が一枚の枠に綺麗に収まるまでには、少なからぬ時間がかかった。
エナが突然立ち上がって動く。
シキミが感極まってまた涙ぐむ。
クチナシがわずかに横へ逃げようとする。
カトレアがそれを鋭い視線で引き止める。
レンブが真面目すぎるあまり、眉間に深い皺を刻んでしまう。
それらの光景を目の当たりにして、ギーマが堪えきれずに低く笑う。
そしてフランが、そのすべてを愛おしそうに見渡して、泣き笑いの表情を浮かべる。
「フラン」
シャッターが切られる直前、ギーマが隣で小さく囁いた。
「はい」
「幸せかい」
フランは、自分を取り囲むすべてを見つめた。
泣いて笑って支えてくれた、大切な友達。
厳しくも温かく背中を押してくれた、心強い仲間。
不器用に、けれど誰よりも真っ直ぐに見守ってくれた恩人。
ずっと自分の歩みに寄り添い続けてくれた、愛しいポケモンたち。
そして――何があっても隣にいてくれる、世界で一番愛する人。
もう、胸の中には一片の迷いも残っていなかった。
「あたし、幸せです」
ギーマは深く満ち足りたように、空色の瞳を細めた。
「わたしもだ」
カシャリ、と静かにシャッターが切られた。
フィルムに残されたのは、雑誌の表紙のように完璧に整った一枚などでは決してなかった。
シキミの目元には涙が光り、カトレアはそんな彼女に呆れたような笑みを浮かべている。レンブは勝負の場かと見紛うほどに真剣な顔で、クチナシは少しだけ厄介そうに眉を寄せている。エナはなぜか勝ち誇ったような顔で前を見据え、キキは凛とした表情で座り、レパルダスは気まぐれに横を向いていた。
そして、ギーマはかつてないほど穏やかに微笑み、フランは頬に涙の筋を残したまま、世界中の誰よりも幸福そうに笑っていた。
歪で、温かくて、愛に満ちた、どこまでも二人らしい最高の一枚だった。
長い一日の終わり。
夕暮れの気配が色濃くなり、アローラの空と海が、息を呑むような淡い金色と茜色に染まり始める頃。
フランはギーマと肩を並べ、テラスからもう一度、静かに海を眺めていた。
「終わっちゃいましたね」
「始まった、と言うべきではないかな」
ギーマの柔らかな指摘に、フランは少しだけ小首をかしげて考え、やがて嬉しさを噛み締めるように頷いた。
「そうですね。始まったんですね」
「ああ」
「ギーマさん」
「なんだい」
「これからも、名前を呼んだら返事してくださいね」
ギーマはフランの小さな手を、包み込むようにそっと握りしめた。
二人の薬指で重なり合う指輪が、沈みゆく夕陽の光を受けて、小さく、けれど確かにきらりと輝く。
「何度でも」
「じゃあ、あたしも返事します」
「フラン」
「はい」
「愛しているよ」
フランの白い頬が、茜色の夕陽とは違う、熱い朱色に染まり上がった。
けれど、彼女はもう視線を逸らさなかった。恥ずかしさに震えながらも、しっかりと顔を上げ、大好きな彼の瞳を真っ直ぐに見つめ返して笑った。
「あたしも、愛してます。ギーマさん」
ギーマは深く目を細め、引き寄せるようにして彼女の額へと、優しく、慈しむような口づけを落とした。
遠くから響く波の音が、二人の交わした永遠の誓約を、やわらかく包み込んでいく。
かつて、海はあまりにも残酷に二人を引き離した。
けれど今、この雄大な海は、二人の新たな始まりを祝福するために静かに波打っている。
今日、ギーマとフランが紡ぐ物語は、まっさらな新しいページへと確かに歩みを進めた。
それは、生涯をかけた終わりのない勝負。
互いを幸せにし、互いの手を取って共に幸せであり続けるための、二人だけの穏やかな勝負だ。
そして二人はもう、どんな嵐が訪れようとも、どちらか一人だけで勝手にその席を降りることはない。
フランが名前を呼べば、ギーマは必ずその声に応える。
ギーマが手を伸ばせば、フランは必ずその手を握り返す。
沈みゆくアローラの夕陽の中、二人の指先に重なる指輪は、どこまでも静かに、凛とした光を放ち続けていた。
まるで、これから二人が共に歩んでいく果てしない日々を、優しく照らし出す小さな星のように。
終