ギーマ夢主の名前変換
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プロポーズの翌朝。
窓から差し込むアローラの朝陽はどこまでもやわらかく、カーテンを透かして部屋の中に光の粒を撒き散らしていた。
フランは、目が覚めてからしばらくの間、布団の中で微動だにせず、自分の左手を目の前に掲げてじっと見つめていた。
細い薬指には、昨夜、月光が降り注ぐ波打ち際でギーマから贈られた指輪が、確かに収まっている。
繊細な意匠で象られた小さな白い花と、その中央で寄り添う黒と白の2つの石。
過度な主張をしない控えめな美しさでありながら、朝の光を浴びるたびに、まるで密やかに脈打つ命が宿っているかのように、きらりと深く静かな輝きを放っていた。
「……夢じゃない」
ぽつりとこぼれ落ちた独り言は、あまりにも小さく、朝の静寂に溶けて消えるはずだった。
けれど、すぐ隣から、聞き慣れた低く落ち着いた声が返ってきた。
「夢なら、わたしが困る」
「ひゃっ」
驚きのあまり小さな悲鳴を上げたフランは、飛び起きるようにして顔を跳ね上げた。
すぐ目と鼻の先、枕を並べたすぐ隣で、ギーマが横顔をこちらに向けたままフランを見つめていた。
見慣れた黒髪が少しだけ乱れ、額や頬にかかっている。普段の勝負師としての隙のない佇まいは影を潜め、寝起きの独特なやわらかさを纏った瞳が、穏やかにフランの姿を映し出していた。
昨夜の出来事が、波のように脳裏に押し寄せてくる。
指輪を贈られ、幾度も涙を流し、幾度も笑い合い、そのたびに薬指の輝きを確かめては胸を熱くし……そのまま彼の腕の中で眠りについてしまったのだ。
ギーマはそんなフランの寝顔を、急かすこともなく、ただずっと隣で静かに見守っていてくれたのだろう。
「おはよう、フラン」
「……おはようございます、ギーマさん」
ただ挨拶を交わしただけだというのに、それだけでフランの胸の奥は甘く、切ないほどの温かさで満たされていく。
かつてイッシュリーグの冷たい廊下で、いくら声を張り上げて名前を呼んでも、帰ってくる返事は空虚な沈黙だけだった。どれほど手を伸ばしても届かなかった人が、今は朝一番に自分の名前を呼んでくれている。
しかもその人は、これから先も途切れることのない永遠の時間を、ずっと隣で過ごすと約束してくれたのだ。
込み上げてくる愛おしさに再び目頭が熱くなり、フランは泣き顔を見られまいと、慌てて薄手の布団を引き寄せて鼻先まで顔を隠した。
「泣くのかい」
「な、泣きません」
「昨日はよく泣いていたが」
「ギーマさんのせいです」
「それは責任重大だ」
ギーマは可笑しそうに口元を緩めると、布団から覗いていたフランの左手を、大きな掌でそっと包み込むようにして取った。
そして、指輪のはまった細い薬指の表面を、親指の腹で壊れ物を扱うかのように優しく撫でる。
「痛くないかい」
「はい。ぴったりです」
「それはよかった」
指先から伝わってくる彼の体温を感じながら、フランは照れくささを誤魔化すように、自分の薬指に収まる輝きを見つめた。
そして、胸の中で朝から温めていた思いを、静かに口に乗せる。
「あの……ギーマさん」
「なにかな」
「今日、クチナシさんのところに行きたいです」
ギーマの空色の瞳が、かすかに光を揺らして細められた。
「報告かい」
「はい。結婚することも、式を挙げることも……ちゃんとお伝えしたいです」
フランは言葉をそこで一度区切り、少しだけ躊躇うように視線を泳がせた。
断られるかもしれない、困らせてしまうかもしれないという不安が掠めたからだ。けれど、ギーマの握り返してくれた手の温もりに背中を押され、彼女はまっすぐに彼を見つめ返した。
「それから、お願いしたいことがあって」
「お願い?」
「……結婚式で、スピーチをお願いできないかなって」
思いがけない名前と申し出だったのか、ギーマは珍しく意外そうに瞬きを繰り返した。
「クチナシに?」
「はい」
フランは迷いなく頷いた。
「クチナシさんには、ギーマさんと再会した時も、その後も、たくさんお世話になりました。あの人がいなかったら、あたし、アローラでどうしたらいいか分からなくなってたと思うんです」
ギーマは何も言わず、ただ静かにフランの言葉に耳を傾けていた。
フランの声は静かで穏やかだったが、その響きには、遠い見知らぬ土地で救われた者としての深く確かな感謝が込められていた。
「それに、ギーマさんのことも、ずっと見てくれていたでしょう?」
「……まあ、腐れ縁のようなものさ」
「ふふ。そうですね」
照れ隠しのようなギーマの返答に、フランは小さく笑った。
「だから、クチナシさんにお願いしたいんです。たぶん、すごく嫌そうな顔をされると思いますけど」
「そこまで分かっていて行くのかい」
「はい」
「断られる可能性も高い」
「はい」
「面倒くさいと言われる」
「絶対言われます」
一切の迷いなく真剣な顔で頷くフランの様子に、ギーマは堪えきれなくなったように肩を大きく揺らして笑った。
「それでも?」
「それでもです」
フランは指輪のはまった左手を、自分の胸元にそっと置いた。
指輪の硬質な冷たさと、自身の脈打つ温もりが重なり合う。
「言葉にしてお願いしたいんです。ちゃんと、あたしたち二人で」
その「あたしたち二人で」という響きに含まれた力強さに、ギーマの表情から勝負師らしい鋭さが抜け、ひたすらにやわらかな笑みが浮かんだ。
「……そうだね」
ギーマはフランの手を、より一層強く握り返した。
「では、行こうか」
***
ポータウンへと続く道は、今日もどこか澱んだような気怠げな空気に包まれていた。
アローラの空は高く晴れ渡っているというのに、町全体は薄暗い影が落ち、よそ者を歓迎するような陽気さは微塵もない。
けれど、フランの足取りに躊躇いはなかった。かつて一人でこの道を歩いた時に感じた押し潰されそうな恐怖は、もうどこにもない。
視線を少し横に巡らせれば、そこにギーマの確かな存在があり、彼の手が温かく自分の手を繋いでくれているからだ。
二人の足元には、エナとキキもついて歩いていた。
エナは相変わらず好奇心のかたまりのように、路地の隅や割れた舗装の隙間に鼻を突っ込んではフンフンと匂いを嗅ぎ回っている。対照的にキキは、鋭い赤い瞳で周囲を警戒するように見回しながら、フランのすぐ足元にぴったりと寄り添っていた。
そしてギーマのレパルダスはといえば、少し離れた屋根の塀の上をしなやかな足取りで歩き、気ままに街の空気を楽しんでいた。
「エナ、あんまり変なところに鼻を突っ込まないでね」
「わん!」
「絶対分かってない返事だ……」
「彼なりに分かっているのだろう」
ギーマがフォローするように言うと、エナは待ってましたとばかりに千切れんばかりに尻尾を振り、嬉しそうに吠えた。
「ギーマさんはエナに甘いです」
「きみにも甘いから、今さらだ」
「だからそういうことを外で言わないでください……!」
唐突に投げかけられた甘い言葉に、フランは耳まで真っ赤にして俯いてしまった。
俯いた視線の先で、彼女の左手に光る指輪が、散乱する日差しを反射してきらりと輝く。
その慎ましくも確かな光を目にして、ギーマの瞳がわずかに愛おしげに細められた。
指輪を嵌めて自分の隣を歩くフラン。
ただそれだけの光景が、ギーマの胸の奥深くに残っていた冷たい空洞を、静かに、けれど圧倒的な温かさで満たしていく。
かつて人生を賭けた大一番に破れ、四天王としての立場も、誇りも、手元にあったすべてを失って漂着した男。何もかもを諦め、人生の勝負から降りかけていた自分に対し、彼女は手を伸ばし続けてくれた。
自分が差し出した未来を、彼女が受け取ってくれたということ。
それは、敗北者であった自分にとって、あまりにも贅沢で、奇跡のような救いに他ならなかった。
ポータウンに佇む、交番の前に辿り着くと、フランは一度足を止め、緊張をほぐすように大きく深呼吸をした。
「大丈夫かい」
「はい。大丈夫……じゃなくて、緊張してます」
ギーマが口元を緩めて低く笑う。
「正直でよろしい」
「カトレアさんに『大丈夫は禁止』って言われましたから」
「彼女らしい」
「シキミさんにも、ちゃんと気持ちは言葉にした方がいいって言われました」
「それも彼女らしいね」
遠いイッシュで自分たちを見守ってくれている友人たちの顔を思い浮かべ、フランは小さく頷いた。そして心を決めると、ドアを叩いた。
室内からの返事はない。けれど、扉の向こうからかすかに人の気配を感じる。
「クチナシさん、いらっしゃいますか?」
数秒間の静寂。
それから、いかにも寝起きのような、ひどく億劫そうな声が室内から響いた。
「……開いてるよ」
ギーマとフランは顔を見合わせ、静かにドアを押して中へ足を踏み入れた。
交番の中には、いつも通り気怠げな雰囲気を全身から醸し出したクチナシがいた。
机の前の椅子に深く腰掛け、片肘をついて頬杖をつき、いかにも「面倒な厄介事が飛び込んできた」と言いたげな、半開きの目で二人を睨みつけている。
「なんだい。朝っぱらから揃って」
「お邪魔します、クチナシさん」
「はいはい。で、そっちの色男はまた惚気に来たわけ?」
「……わたしは、そんな頻繁に惚気ているつもりはないが」
「自覚がないのが一番たち悪いんだよ」
クチナシは盛大にため息をつき、頭をガリガリとかいた。
二人のいつも通りの噛み合わないやり取りに、フランは緊張がほぐれて思わずふっと笑ってしまう。
ギーマは心外だと言わんばかりにほんの少し不服そうに目を細めたが、それ以上強い反論はしなかった。
と、その時。
クチナシの鋭い視線が、ふいにフランの左手へと落ちた。
胸元で固く握られていた指先に光る、銀色の指輪。
一瞬だけ、クチナシの目つきがうっすらと細くなる。
「……へえ」
地声よりさらに低く漏らされたその一言に、フランは跳ね上がるように反射的に左手を胸元へ引き寄せた。
「クチナシさん」
「言わなくても大体分かったけどね」
クチナシは面倒くさそうに背もたれへ深く体を預け直した。
「結婚するってわけだ」
ダイレクトな言葉に、フランの顔が一瞬で朱に染まる。
「は、はい……!」
隣のギーマもまた、背筋を伸ばして静かに頷いた。
「フランに、結婚を申し込んだ」
「で、受けてもらえたと」
「ああ」
「物好きだねえ、ねえちゃん」
「えっ」
「こんな面倒くさい男、よく引き受ける気になったもんだ」
「面倒くさいのは否定できないですけど……!」
「否定してくれないのかい、フラン」
「だ、だって……」
慌てるフランと、心底呆れた顔をするクチナシ、そして苦笑するギーマ。
フランは困ったように、けれど愛おしさを隠しきれない笑顔を浮かべた。
「手がかかるところも含めて、ギーマさんなので」
クチナシは一瞬だけぽかんと口を開けた後、こらえきれなくなったように鼻でくくっと笑った。
「言うねえ」
予想外の角度からの言葉に、ギーマは片手を口元に当ててすっと顔を横へ逸らした。耳のあたりが、かすかに赤く染まっている。
クチナシはそれを見逃さず、さらに呆れた顔で肩をすくめた。
「おいおい。そっちが照れてどうすんの」
「照れてはいない」
「へえ」
「……」
「まあ、いいけど」
クチナシは机の上にあった、茶渋のついた湯呑みを億劫そうに持ち上げた。
中の茶はすっかり冷めてしまっているらしく、一口含んだ後に露骨に顔をしかめて卓上へ戻す。
「それで?報告だけなら、そこの扉から入って十秒で済む話だろ。わざわざ二人そろってそんな顔して来たってことは、他にもなんかあるんじゃないの」
雰囲気が一変した。
フランは背筋をぴんと伸ばし、表情を引き締めた。
隣のギーマもまた、静かに佇まいを正す。
部屋を満たした真剣な空気に、クチナシはわずかに眉を跳ね上げた。
「クチナシさん」
フランは深く、丁寧に頭を下げた。
「結婚式を挙げることになりました。まだ日取りや場所はこれからなんですけど……ぜひ、クチナシさんにも来ていただきたいんです」
「……式ねえ」
クチナシはこれ以上ないほど露骨に不機嫌そうな顔を作ってみせた。
「そういう華やかな場所、一番似合わないおじさんに声かけてどうすんの」
「来てほしいんです」
フランは顔を上げ、まっすぐに彼を見つめた。
「クチナシさんに」
その澄んだ、迷いのない声の響きに、クチナシの瞳の奥が一瞬だけ揺れた。
けれど彼はすぐに、いつものやる気のない表情の裏へそれを隠してしまう。
「招待ならまあ、考えとくよ」
「ありがとうございます!」
「まだ行くとは言ってないけど」
「でも、考えてくださるんですよね?」
「……そういうところ、ずるいねえ」
クチナシは頭をかかえるようにぼやいた。
隣でギーマが、クッと喉を鳴らして可笑しそうに笑っている。
「笑ってる場合かい、おまえさん」
「いや。フランには敵わないと思ってね」
「今さらだろ」
「そうかもしれない」
二人の気置けないやり取りに、フランの頬が和らいだ。
けれど、ここからが本当の本題だった。
彼女は胸の前で一度深呼吸をし、隣のギーマを見上げた。
ギーマは静かに、けれど力強く頷き返す。
二人は示し合わせたように、一歩だけクチナシの机の前へ踏み出した。
「それから」
フランの声に、緊張を含んだ硬さが混じる。
「もうひとつ、お願いがあります」
「……嫌な予感しかしないね」
クチナシは再び机に頬杖をつき直した。
「聞かなかったことにしていい?」
「だめです」
「だめかい」
「はい」
フランがあまりにも大真面目に頷くので、クチナシは大げさにため息をついて見せた。
「で、何」
今度は、ギーマが口を開いた。
低く、落ち着いた声が室内を充たしていく。
「結婚式で、きみにスピーチを頼みたい」
静寂が、交番の中に落ちた。
クチナシはしばらくのあいだ、微動だにしなかった。
湯呑みを持ったままの手を止め、目だけを鋭くギーマに向けられている。
「……は?」
「スピーチだ」
「聞こえてるよ。聞こえた上で、は?って言ってんの」
クチナシは心底嫌そうに眉間へシワを寄せた。
「何考えてんの。正気?」
「正気だよ」
「よりによってこんなおじさんに頼むわけ?他にいるだろ。リーグのお偉いさんとか、四天王のあのお嬢様とか、物書きの子とか、やたら真面目な筋肉の人とか」
「レンブのことかい」
「名前は知らんけど、たぶんそれ」
話が逸れそうになり、フランは慌てて間に入った。
「もちろん、シキミさんやカトレアさん、レンブさんにも来ていただきたいです。でも……」
「でも?」
「クチナシさんにも、言葉をいただきたいんです」
クチナシの視線が、フランへと注がれる。
フランは左手の指輪を包むようにそっと手を握り締めながら、逃げずにその視線を受け止めた。
「クチナシさんは、アローラでのギーマさんを見てきた方です」
その言葉に、ギーマの眉がかすかに動いた。
「ギーマさんが一人でここに来た時のことも、あたしがギーマさんを追いかけて来た時のことも、再会してからのことも」
フランは込み上げる感情に声を震わせながらも、決して言葉を止めなかった。
「全部ではないかもしれません。でも、大事なところを見ていてくださったと思うんです」
クチナシはただ黙ってフランを見つめていた。
「だから、クチナシさんにお願いしたいです」
フランはもう一度、深く頭を下げた。
「結婚式で、あたしたちに言葉をください」
「……」
室内を包むのは、途方もない沈黙だった。
ギーマもまた、フランの隣で静かに頭を下げる。
「わたしからも頼む」
その言葉には、普段の彼が纏う勝負師の軽さは一切なかった。
「きみに、話してほしい」
クチナシは持っていた湯呑みを、机の上に置いた。
「……面倒くさいねえ」
吐き捨てられたその言葉は、冷たい拒絶のようにも聞こえた。
けれど、フランは頭を下げたまま微動だにしなかった。隣のギーマも、静かに彼の言葉を待っていた。
数秒。十数秒。
やがて、クチナシは自らの頭を乱暴にかきむしった。
「まったく。揃ってそんなふうに頭下げられたら、断りづらいだろうが」
フランがそっと顔を上げる。
「クチナシさん……」
「まだ受けるとは言ってない」
「でも、断るとも言ってません」
「本当にずるいね、ねえちゃん」
クチナシは重い腰を上げ、椅子から立ち上がった。
「ちょっと外出るよ。狭いところでそういう話されると、肩が凝る」
***
交番の外へ出ると、ポータウンの空気は相変わらず重く澱んでいた。けれど、海側から吹き抜けてくる風だけは、どこかやわらかく湿り気を含んでいる。
クチナシはズボンのポケットに両手を突っ込んだまま歩き、少し離れた塀の脇で足を止めた。
ギーマとフランも、彼の少し後ろをついていく。
「で」
クチナシは振り返りもせず、背中を向けたまま言った。
「スピーチって、何を話しゃいいわけ」
その言葉の意味を理解した瞬間、フランの顔がぱっと明るくなった。
「受けてくださるんですか?」
「まだ仮だよ、仮」
「ありがとうございます!」
「だから仮だっての」
「でも、考えてくださるだけで嬉しいです」
心底嬉しそうに破顔するフランの表情に、クチナシはバツの悪そうな顔をして視線を逸らした。
「そういう顔されると、おじさんは弱いんだよ」
隣でギーマが静かに口を開く。
「彼女は強いだろう」
「強いねえ」
クチナシは深く溜息をつきながら短く答えた。そこには冗談めかした響きはない。
「こんな何考えてるか分からん男追っかけて、知らない土地まで来て、泣いて怒って、それでも隣に立ってる。並の根性じゃできないよ」
褒め言葉に、フランは少しだけ照れたように目を伏せた。
「……クチナシさんには、たくさん助けていただきました」
「別に。たいしたことはしてない」
「しました」
「してないって」
「しました」
珍しく意地になって譲らないフランに、クチナシは思わず片眉を跳ね上げた。
そのやり取りの後ろで、ギーマが口元を手で覆い、必死に笑いを殺している。
「何がおかしいんだよ」
「いや。きみもフランには敵わないと思ってね」
「そりゃお前さんだろ」
「否定はしない」
二人のやり取りに、フランの頬が少し緩んだ。
けれど、彼女の瞳には依然として真摯な光が宿っていた。
「クチナシさんがいてくれたから、あたし、アローラでちゃんとギーマさんと向き合えました」
クチナシの横顔が、わずかに静かになる。
「ギーマさんのことを教えてくれたわけじゃなくても、どこに行けばいいか全部答えてくれたわけじゃなくても……でも、ちゃんと見ていてくれました」
フランは胸元に手を当て、自らの温もりを確かめるように言った。
「あたしが迷ってる時、必要な分だけ背中を押してくれました」
「買いかぶりすぎだよ」
「そんなことないです」
「……やりづらいねえ」
クチナシは心底困ったように深いため息をつき、今度は視線をギーマへ移した。
「で、お前さんはどうなんだい」
「わたしかい」
「そうだよ。ねえちゃんはこんだけ真っ直ぐ頼んでる。お前さんは、おじさんに何を話してほしいわけ」
ギーマはしばし口を閉ざした。吹き抜ける湿った風が、彼の着流しを静かに揺らしていく。
「正直に言えば」
「ああ」
「祝福の言葉をもらえれば、それで十分だと思っていた」
クチナシは片眉を上げた。
「へえ」
「だが、今は違う」
ギーマは一度、隣のフランを見つめた。
彼女の左手に嵌められた指輪が、雲の隙間からのぞいた光を受けてきらりと輝いている。
「わたしがアローラへ来た時の姿を、きみは知っている。わたしがどれだけ無様に沈んでいたかも」
「まあね」
「その後、フランが来た」
「ああ」
「きみは、わたしが彼女に救われたところを見ていた」
クチナシは何も言わず、ただ黙って耳を傾けていた。ギーマは静かな声を繋ぐ。
「けれど、救われただけでは足りないのだと、ようやく分かった」
フランがハッとしてギーマを見上げる。
「ギーマさん……」
「フランに手を伸ばしてもらった。名前を呼んでもらった。何度も、わたしの席に引き戻してもらった」
彼の声はどこまでも穏やかで、飾りのない誠実さに満ちていた。
「今度は、わたしが彼女を幸せにする番だ」
クチナシは相変わらず無表情のまま聞いていた。
「その始まりに、きみの言葉がほしい」
ギーマの瞳が、まっすぐにクチナシを射抜く。
「きみは、わたしの負けた後を知っている。だからこそ、話せることがあると思っている」
長い、長い沈黙が三人の間に流れた。
やがてクチナシは、ポリポリと痒くもない頬をかいた。
「……重いねえ」
「頼む相手を間違えただろうか」
「いや」
クチナシはほんの少しだけ目元を緩めた。
「間違ってはいないんじゃないの」
フランの表情が、一瞬でぱっと華やぐ。
けれどクチナシはすぐに片手を上げてそれを制した。
「ただし、上品なスピーチなんて期待すんなよ」
「もちろんです」
「そこはちょっと期待してほしかったね」
「えっ、す、すみません!」
慌てるフランに、クチナシは小さく鼻で笑った。
「冗談だよ」
ギーマもまた、微かに口元を緩める。
「きみらしい言葉で構わない」
「なら、まあ……考えとく」
フランはパッと目を輝かせた。
「本当ですか?」
「考えとくだけだって」
「ありがとうございます、クチナシさん!」
あまりにも嬉しそうに何度も頭を下げるフランに、クチナシは居心地が悪そうに視線を逸らした。
「だから、まだ本決まりじゃないってのに……」
「クチナシ」
ギーマが静かに、彼の名を呼んだ。
「なんだい」
「ありがとう」
その短い感謝の言葉を聞いて、クチナシは一瞬だけ口を閉ざした。
それから、わざとらしく大きく肩をすくめてみせる。
「礼を言うのはまだ早いんじゃないの」
「いや。今言っておきたい」
「……そうかい」
クチナシはそれ以上何も言わなかった。
少し離れた場所で、フランがエナに水を飲ませ始めていた。
その様子を確認すると、クチナシは手招きをしてギーマだけを呼び寄せた。
「ちょっと」
「なんだい」
「男同士の話」
ギーマは可笑しそうに笑った。
「最近、その言葉をよく聞く」
「知らんよ。こっちはこっちで言うことがある」
離れた場所から、が少し不安そうにこちらを伺っている。
「ギーマさん?」
「すぐ戻る」
「はい」
フランは素直に頷いたものの、その瞳にはどこか影のような不安が揺れていた。
クチナシはその視線を見逃さず、かすかに眉を寄せた。
***
二人は交番の脇にある、薄暗い路地の影へと入る。クチナシはしばらく無言で壁にもたれかかっていた。
やがて、億劫そうに口を開く。
「幸せそうで何よりだね」
「それを言うために呼んだのかい」
「まさか」
クチナシの声から、いつもの軽さが削ぎ落とされた。
「あの子、まだ時々お前さんが消えるんじゃないかって顔するだろ」
ギーマの顔から、ふっと笑みが消えた。
「……分かるのか」
「分かるよ。あの手の顔は見慣れてる」
クチナシは古びた壁に背を預けたまま、静かに息を吐いた。
「笑ってるし、信じようとしてる。けど、ふとした時に目が追ってるんだよ。お前さんが本当にそこにいるかどうか」
ギーマは何も言えなかった。
胸の深いところが、じくりと痛んだ。思い当たる節は、いくらでもあったからだ。
今朝、目覚めた瞬間にフランが左手を見つめ、「夢じゃない」と呟いていたこと。
夜、少し帰りが遅くなると、泣きそうな顔で出迎えてくれること。
静かに海を見つめていると、何も言わずにすり寄ってきて袖を掴むこと。
彼女はもう、一人で「大丈夫です」と無理に笑って閉じこもることはなくなった。
けれど、かつて自分が与えた絶望の傷痕は、完全には消えていないのだ。
「分かっている」
ギーマの低い声が、路地に落ちる。
「ならいいけどね」
クチナシは細めた目でギーマを凝視した。
「結婚ってのは、綺麗な式を挙げて終わりじゃない。指輪渡して、誓いの言葉言って、めでたしめでたしってほど楽でもない」
「そうだね」
「お前さんは勝負師なんだろ」
「ああ」
「なら、ここから先は長丁場だ。派手な一手で勝とうとすんな」
その言葉に、ギーマは静かにクチナシを見返した。
クチナシは気怠そうな立ち姿のままだったが、その眼光だけは鋭く冴え渡っていた。
「毎日帰る。名前を呼ばれたら返事する。話を聞く。黙って消えない。勝手に決めない。そういう地味な手を、毎日毎日、飽きずに切り続けろ」
「……」
「あのねえちゃんには、そういうのが一番効くんじゃないの」
長い沈黙が流れた。
やがてギーマは、深く長い息を吐き出した。
「きみは本当に、痛いところを突く」
「歳食ってるからね」
「感謝している」
「そこで素直になるの、ずるいねえ」
クチナシは鼻で笑った。
「ま、別にお前さんを責めたいわけじゃないよ。お前さんが沈んでたのも知ってる。どうにもならなかったのも、少しは分かる」
ギーマの瞳がわずかに揺れた。
「けどね」
クチナシは壁から身体を離し、ギーマの正面に立った。
「あの子をもう一回同じように泣かせたら、おじさんはたぶん面倒くさがらずに怒るよ」
ギーマは静かに目を伏せた。その言葉には何の飾りもなかったが、だからこそ途方もない重みがあった。
「心得ている」
「本当に?」
「ああ」
ギーマは路地の隙間から見える、フランの姿に視線を向けた。
エナに水を飲ませ終えたフランが、こちらを気にしながらも、二人を邪魔しないように健気に待っている。
その左手には、自分が贈った指輪が静かな光を放っていた。
「もう、彼女の手を離さない」
クチナシはその横顔を、しばらく黙って見つめていた。
漂着した当初、人生の勝負から降りかけ、死んだような目をしていた男の面影は、もうどこにもなかった。
傷も、影もある。けれど今の彼の目は、しっかりと目の前の未来を見つめている。
「……なら、いいんじゃないの」
クチナシはぼそりと呟いた。
「スピーチ、受けてやるよ」
ギーマが振り返る。
「本当かい」
「二回言わせる気?」
「いや」
ギーマは微かに笑った。
「ありがとう、クチナシ」
「ただし、長くは話さない。感動的なのも無理。泣かせる気もない。おじさんのことだから、たぶん場も締まらない」
「きみが来て話してくれるだけでいい」
「……ほんと、そういうところ変わったねえ」
クチナシは呆れたように首を振った。
「昔なら、もうちょい格好つけただろ」
「格好をつけたい相手はいる」
「へえ?」
「だが、彼女にはもう、格好悪いところも知られているからね」
クチナシは一瞬だけ硬直した後、堪えきれずに破顔した。
「惚気かい、それ」
「事実だよ」
「はいはい。ごちそうさん」
***
二人が路地から戻ると、フランはすぐに顔を上げた。
「ギーマさん、クチナシさん」
その表情には、隠しきれない心配と期待が混ざり合っていた。
ギーマはフランの隣へと戻り、自然な動作で彼女の手を包み込む。
「フラン」
「はい」
クチナシは頭をかきむしりながら、わざと大げさに億劫そうに言った。
「スピーチ、やってやるよ」
フランの瞳が、大きく見開かれた。
「……本当ですか?」
「だから、二回言わせないでくれる?」
「本当に……?」
「三回目だよ、ねえちゃん」
次の瞬間、フランの瞳に涙がぶわりと溢れ出した。
「ありがとうございます、クチナシさん……!」
「あー、泣くな泣くな。まだ何も話してないだろ」
「でも、嬉しくて……!」
フランは慌てて涙を拭おうとしたが、手が震えて上手く拭えない。
ギーマが懐からすっとハンカチを取り出し、優しく差し出した。
フランはそれを受け取り、目元を押し当てながら泣き笑いの顔をクチナシに向けた。
「ありがとうございます。あたし、クチナシさんにお願いできて、本当に嬉しいです」
「はいはい」
クチナシは照れ隠しに露骨に目を逸らした。
「言っとくけど、立派なことは言わないよ。おじさんはそういうの柄じゃない」
「はい」
「たぶん、あんたらの面倒くささをちょっと話して終わる」
「はい!」
「そこは嫌がりなよ」
あまりにも嬉しそうに頷くフランに、クチナシは参ったというように溜息をついた。
隣でギーマが静かに微笑んでいる。
「クチナシさんが話してくださるなら、どんな言葉でも嬉しいです」
「……ほんと、強いねえ」
クチナシは小さく呟いた。フランは不思議そうに首を傾げる。
「え?」
「何でもない。……で、招待状は?」
「あっ、はい!」
フランは持っていた鞄の中から、丁寧に用意してきた封筒を取り出した。
まだ日付も場所も仮決定の段階だったが、どうしても手渡ししたくて、昨夜二人で用意したものだ。
白い封筒には、慎ましい花の模様が型押しされている。
ギーマがそれを受け取り、フランと一緒にクチナシの前へ差し出した。
「ぜひ、来てください」
フランが言う。
「きみに見届けてほしい」
ギーマが続ける。
クチナシは、その封筒をしばらく黙って見つめていた。
それから、少し乱暴な手つきでそれを受け取る。けれど、その指先は意外なほど丁寧に紙の端を扱っていた。
「……分かったよ」
フランの表情が、花が開くように一気に華やいだ。
「ありがとうございます!」
「だから、いちいちそんな顔すんなって」
「嬉しいんです」
「知ってるよ」
クチナシは封筒を上着の内ポケットへ大切そうにしまった。
「ま、式までには何か考えとく」
「よろしくお願いします」
ギーマが静かに頭を下げる。クチナシは彼をじろりと睨んだ。
「ギーマ」
「なんだい」
「式当日、変に格好つけすぎてねえちゃんを不安にさせるなよ」
「……そこまで言われるのか」
「お前さんはそういうとこあるだろ」
フランは思わず口元を押さえて笑った。
「ギーマさん、たしかに格好つけますもんね」
「フランまで」
「でも、格好つけてるギーマさんも好きです」
さらりと言い切ってから、フランは自分の発言の重さに気づき、顔を真っ赤にした。
ギーマは一瞬だけ目を見開いた後、口元を押さえて顔を背けた。
クチナシは心底呆れ果てた顔になる。
「はいはい。もう帰んな。朝から甘いもん食わされた気分だよ」
「す、すみません……!」
「謝らんでいいよ。幸せそうで何よりだって言ってんの」
その言葉の温かさに、フランは胸を押さえた。
「クチナシさん……」
「泣くなって」
「泣いてません」
「目がもう泣いてる」
「うう……」
ギーマはフランの肩にそっと手を添え、保護するように抱き寄せた。
「では、今日はこのあたりで失礼しよう」
「そうしてくれると助かるね」
クチナシは面倒くさそうに手を振った。
「式の詳しいことが決まったら、また連絡しな」
「はい!」
「あと」
二人が歩き出そうとした時、クチナシが後ろから呼び止めた。
振り返る二人に対し、クチナシは少しだけ言いづらそうに視線を泳がせた後、ぽつりと言った。
「……おめでとう」
風が、静かに通り抜けた。フランは胸がいっぱいになり、一瞬言葉を失った。
隣のギーマも、静かに目を細める。
派手な祝福ではない。声も小さく、表情も相変わらず不機嫌そうだ。
けれど、その一言には何よりも温かい心が込められていた。
「……ありがとうございます」
フランは深く、深く頭を下げた。ギーマも同じように、静かに頭を下げる。
「ありがとう」
クチナシは照れ隠しのように顔をしかめた。
「ほら、もう行け行け。こっちは仕事があるんだよ」
「お仕事中にすみませんでした」
「仕事してるように見えた?」
「えっ」
「そこで悩むなよ」
あたふたするフランを見て、ギーマが小さく笑った。
クチナシはもう一度しっしっと手を振る。
二人はその場を離れ、ポータウンの影のある道をゆっくりと歩き出した。
しばらく歩いた後、フランは何度も後ろを振り返った。
交番の前には、まだクチナシが佇んでいた。
視線に気づくと、彼は面倒くさそうに片手をひらひらと上げた。
フランもまた、大きく手を振り返した。
「……受けてくださいましたね」
「ああ」
ギーマは静かに答えた。
「意外だったかい」
「いえ。クチナシさんなら、最後は受けてくれる気がしてました」
「信頼しているんだね」
「はい」
フランは微笑んだ。
「クチナシさん、いつも面倒くさそうにするけど、ちゃんと見ていてくれる人だから」
ギーマは少しだけ目を伏せた。
「そうだね」
「ギーマさん?」
「いや」
ギーマはフランの手を握り直した。指輪の金属の感触が、彼の皮膚に触れる。
「アローラに来て、わたしは多くのものを得たのだと思っていた」
「はい」
「きみと再会したこと。きみと暮らせるようになったこと。愛するポケモンたちと穏やかな朝を迎えられるようになったこと」
ギーマは語り続ける。
「だが、それだけではなかったようだ」
フランはギーマを見上げた。
「クチナシさんですか?」
「彼だけではない。レンブも、シキミも、カトレアも。きみを通して、わたしはもう一度、誰かに叱られ、見守られ、祝われる立場へ戻された」
「戻された?」
「ああ」
ギーマは少しだけ自嘲気味に笑った。
「敗北者として一人でいる方が、楽な時もあった。誰にも期待されず、誰も傷つけず、ただ負けた男としてそこにいればいい」
フランは静かに彼の言葉を受け止めていた。
「けれど、きみはわたしをそこから引きずり出した」
「引きずり出したって……」
「違うかい?」
「えっと……ちょっとだけ?」
申し訳なさそうにするフランに、ギーマは優しく笑いかけた。
「遠慮しなくていい。きみはわたしを席に引き戻したんだ」
フランはその言葉を聞いて、少しだけ照れくさそうに視線を落とした。
「……だって、ギーマさんが勝手に降りようとするから」
「そうだね」
「だから、これからも降りようとしたら引き戻します」
「頼もしいな」
「頼ってくださいね」
フランはまっすぐに彼を見つめた。
「あたし、ギーマさんの妻になるんですから」
言った瞬間、二人の間に沈黙が流れた。
フランは自分で口にした言葉の重みに、みるみる顔を真っ赤に染めていく。
「つ、妻……!」
ギーマは口元に手を当てたまま、可笑しさを堪えきれずに肩を揺らした。
「笑わないでください!」
「いや、すまない」
「自分で言ったのに恥ずかしくなりました……!」
「とても可愛らしかったよ」
「ギーマさん!」
足元でエナが嬉しそうに吠え、キキが呆れたように尾を振った。
レパルダスは塀の上から、また始まったと言わんばかりの顔で二人を見下ろしていた。
***
二人の背中が街角に消えた後も、クチナシはしばらく交番の前に立っていた。
上着の内ポケットには、二人から手渡された招待状が入っている。薄い紙の感触が、胸元で妙に存在感を主張していた。
「……結婚式のスピーチねえ」
呟くだけで、肩が重くなる気がした。
柄ではない。絶対に柄ではない。
華やかな式場で、慣れない正装をし、大勢の前で二人を祝う言葉を述べる。考えただけで逃げ出したくなった。
「面倒くさいこと頼んでくれるよ、まったく」
そうぼやきながらも、クチナシはポケットから封筒を取り出した。
型押しされた白い花の模様。
いかにもあの素直なねえちゃんが選びそうな、柔らかく丁寧な仕上がりの封筒だ。
開けるのは後でいい、そう思っていたはずなのに、なぜか指先は勝手に封を切っていた。
中には、仮の日付が記されたカードと一緒に、折りたたまれた小さな手紙が入っていた。
丸みを帯びた、フランの丁寧な文字だった。
『クチナシさんへ。ギーマさんと結婚することになりました。
アローラでギーマさんと再会できたこと、今こうして一緒にいられること、その全部にクチナシさんがいてくださったことを、あたしは忘れません。クチナシさんは「大したことはしていない」と言うかもしれません。でも、あたしにとっては、本当に心強かったです。結婚式の日、ギーマさんとあたしの新しい始まりを、見届けていただけたら嬉しいです。もしご迷惑でなければ、スピーチをお願いしたいです。クチナシさんの言葉で、あたしたちを送り出していただけたら、きっと一生忘れません。フラン』
クチナシは手紙を最後まで読み終えると、しばらく無言で立ち尽くした。それから、手紙を元通り丁寧に折りたたむ。
「……困った子だねえ」
目元に浮かんだ複雑な感情を隠すように、彼はすぐにいつもの気怠げな表情を作った。
けれど、呟いた声には確かな温もりが混じっていた。
「ここまで言われちゃ、断れるわけないだろ」
彼は交番の中へ戻り、引き出しの奥から古びたメモ帳を取り出した。スピーチなど、何を言えばいいのか分からない。人前で長々と話す趣味もない。けれど、少しくらいは考えてやるかという気になっていた。
あの面倒くさい勝負師と、泣き虫のくせに芯の強いねえちゃんのために。
クチナシはペンを持ち、しばらく白紙を睨みつけた。
そして、最初に書きつけた言葉は、ひどく短くぶっきらぼうなものだった。
『幸せにしろ。幸せになれ。』
それだけ書いて、彼はふっと鼻で笑った。
「……説教くさいねえ」
でも、悪くはない。あの男には、それくらいがちょうどいい。あの子には、それくらいまっすぐでいい。
クチナシはメモ帳を閉じ、招待状と一緒に引き出しへ大切にしまった。
外では、アローラの風がゆったりと吹いている。
式当日、あの二人はきっと眩しいほどの顔で並んで立っているのだろう。
ギーマは相変わらず格好をつけて。
フランは泣きそうな顔で、けれど幸せそうに笑って。
そして自分は、最高に面倒くさそうな顔をしながら、その前に立つことになるのだ。
「……やれやれ」
クチナシは椅子にもたれかかり、天井を見上げた。
「本当に、面倒くさい縁に拾われたもんだ」
けれど、その独り言には何の嫌悪も入っていなかった。ただ少しだけ、照れくさそうな温度が含まれているだけだった。
***
帰り道のフランは、終始嬉しそうだった。
「クチナシさん、受けてくれましたね」
「ああ」
「スピーチ、どんな内容になるんでしょう」
「わたしへの苦言が八割ではないかな」
「ふふ、ありそうです」
「笑うところかい」
「でも、クチナシさんらしいです」
フランはギーマの手をぎゅっと握りしめた。
「ギーマさんのことも、あたしのことも、ちゃんと見てくれているから言える言葉だと思うので」
ギーマは静かにフランを見つめた。
「きみは本当に、周りの人間を信じるのが上手いね」
「そうでしょうか?」
「ああ」
「でも、あたしも最初から上手だったわけじゃないです」
フランは少しだけ目を伏せた。
「ギーマさんがいなくなった時、あたし、シキミさんやカトレアさんにもなかなか本音を言えませんでした。迷惑をかけたくなくて、平気なふりを生きて」
ギーマの手に、ぎゅっと力がこもる。
「……フラン」
「でも、お二人が何度も言ってくれたから。泣いていいって。寂しいって思っていいって。会いたいって言っていいって」
フランは顔を上げた。
「だから、今は言えるんです。嬉しい時は嬉しい。寂しい時は寂しい。お願いしたい時は、お願いしたいって」
ギーマは何も言わず、ただその言葉を噛みしめていた。
「クチナシさんにも、ちゃんと言えてよかったです」
「そうだね」
「ギーマさんも、ちゃんと言ってくれて嬉しかったです」
「わたしが?」
「はい。クチナシさんに、スピーチをお願いしたい理由を」
ギーマは少しだけ視線を泳がせた。
「あれは……少し照れたな」
「ギーマさんでも照れるんですか?」
「わたしを何だと思っているんだい」
「かっこつけたがりの、優しくて、ちょっと面倒くさい人です」
ギーマは一瞬言葉を失い、それから低く笑った。
「クチナシに似てきたね」
「えっ、そうですか?」
「なかなか手厳しい」
「でも、大好きです」
フランは今度は照れもせず、真っ直ぐに言った。ギーマの足がピタリと止まる。
フランも立ち止め、不思議そうに見上げた。
「ギーマさん?」
「……いや」
ギーマはフランの左手を持ち上げ、指輪の嵌まった指先へそっと唇を寄せた。
「不意打ちは、きみにも上手くなってきたようだ」
フランの顔が一気に熱を持つ。
「な、何の勝負ですか……!」
「終わらない勝負だよ」
ギーマは愛おしそうに微笑んだ。
「きみとわたしの」
フランは恥ずかしさに耐えながらも、心からの笑顔を返した。
「じゃあ、あたしも降りません」
「ああ」
ギーマは彼女の手を握り直すと、再び歩き出した。
「わたしもだ」
アローラの空はどこまでも高く、風はやわらかい。二人の結婚式までは、まだ少しの時間がある。準備することも、決めることも山積みだ。
向き合うべき過去も、まだ完全には消えていない。けれど、もう一人ではない。
フランは隣を歩くギーマを見上げた。
ギーマもまた、彼女の視線に気づいて目元をやわらげる。
「どうかしたかい」
「いえ」
フランは笑った。
「クチナシさんにも、シキミさんにも、カトレアさんにも、レンブさんにも……みんなに見てもらえる結婚式になるんだなって思って」
「緊張する?」
「します。でも、嬉しいです」
「そうか」
「はい」
フランは左手の指輪をそっと撫でた。
「みんなに、ちゃんと幸せですって言えます」
ギーマの表情が、深く、優しく和らいだ。
「なら、わたしも胸を張らなければね」
「はい。かっこつけすぎない程度に」
「……クチナシの言葉がもう効いている」
「ふふ」
二人の楽しげな笑い声が、アローラの風に乗って広がっていく。
その背中を、エナが楽しそうに追いかけていく。キキは静かに寄り添い、レパルダスは気まぐれに先を行く。
そしてポータウンの交番の引き出しの奥では、一通の白い招待状と、小さなメモが静かに眠っていた。
『幸せにしろ。幸せになれ。』
ぶっきらぼうで、飾り気がなくて、少しだけ説教くさい。
けれどそれは、ふたりを誰よりも見守ってきた男からの、最高に温かな祝福の言葉だった。
窓から差し込むアローラの朝陽はどこまでもやわらかく、カーテンを透かして部屋の中に光の粒を撒き散らしていた。
フランは、目が覚めてからしばらくの間、布団の中で微動だにせず、自分の左手を目の前に掲げてじっと見つめていた。
細い薬指には、昨夜、月光が降り注ぐ波打ち際でギーマから贈られた指輪が、確かに収まっている。
繊細な意匠で象られた小さな白い花と、その中央で寄り添う黒と白の2つの石。
過度な主張をしない控えめな美しさでありながら、朝の光を浴びるたびに、まるで密やかに脈打つ命が宿っているかのように、きらりと深く静かな輝きを放っていた。
「……夢じゃない」
ぽつりとこぼれ落ちた独り言は、あまりにも小さく、朝の静寂に溶けて消えるはずだった。
けれど、すぐ隣から、聞き慣れた低く落ち着いた声が返ってきた。
「夢なら、わたしが困る」
「ひゃっ」
驚きのあまり小さな悲鳴を上げたフランは、飛び起きるようにして顔を跳ね上げた。
すぐ目と鼻の先、枕を並べたすぐ隣で、ギーマが横顔をこちらに向けたままフランを見つめていた。
見慣れた黒髪が少しだけ乱れ、額や頬にかかっている。普段の勝負師としての隙のない佇まいは影を潜め、寝起きの独特なやわらかさを纏った瞳が、穏やかにフランの姿を映し出していた。
昨夜の出来事が、波のように脳裏に押し寄せてくる。
指輪を贈られ、幾度も涙を流し、幾度も笑い合い、そのたびに薬指の輝きを確かめては胸を熱くし……そのまま彼の腕の中で眠りについてしまったのだ。
ギーマはそんなフランの寝顔を、急かすこともなく、ただずっと隣で静かに見守っていてくれたのだろう。
「おはよう、フラン」
「……おはようございます、ギーマさん」
ただ挨拶を交わしただけだというのに、それだけでフランの胸の奥は甘く、切ないほどの温かさで満たされていく。
かつてイッシュリーグの冷たい廊下で、いくら声を張り上げて名前を呼んでも、帰ってくる返事は空虚な沈黙だけだった。どれほど手を伸ばしても届かなかった人が、今は朝一番に自分の名前を呼んでくれている。
しかもその人は、これから先も途切れることのない永遠の時間を、ずっと隣で過ごすと約束してくれたのだ。
込み上げてくる愛おしさに再び目頭が熱くなり、フランは泣き顔を見られまいと、慌てて薄手の布団を引き寄せて鼻先まで顔を隠した。
「泣くのかい」
「な、泣きません」
「昨日はよく泣いていたが」
「ギーマさんのせいです」
「それは責任重大だ」
ギーマは可笑しそうに口元を緩めると、布団から覗いていたフランの左手を、大きな掌でそっと包み込むようにして取った。
そして、指輪のはまった細い薬指の表面を、親指の腹で壊れ物を扱うかのように優しく撫でる。
「痛くないかい」
「はい。ぴったりです」
「それはよかった」
指先から伝わってくる彼の体温を感じながら、フランは照れくささを誤魔化すように、自分の薬指に収まる輝きを見つめた。
そして、胸の中で朝から温めていた思いを、静かに口に乗せる。
「あの……ギーマさん」
「なにかな」
「今日、クチナシさんのところに行きたいです」
ギーマの空色の瞳が、かすかに光を揺らして細められた。
「報告かい」
「はい。結婚することも、式を挙げることも……ちゃんとお伝えしたいです」
フランは言葉をそこで一度区切り、少しだけ躊躇うように視線を泳がせた。
断られるかもしれない、困らせてしまうかもしれないという不安が掠めたからだ。けれど、ギーマの握り返してくれた手の温もりに背中を押され、彼女はまっすぐに彼を見つめ返した。
「それから、お願いしたいことがあって」
「お願い?」
「……結婚式で、スピーチをお願いできないかなって」
思いがけない名前と申し出だったのか、ギーマは珍しく意外そうに瞬きを繰り返した。
「クチナシに?」
「はい」
フランは迷いなく頷いた。
「クチナシさんには、ギーマさんと再会した時も、その後も、たくさんお世話になりました。あの人がいなかったら、あたし、アローラでどうしたらいいか分からなくなってたと思うんです」
ギーマは何も言わず、ただ静かにフランの言葉に耳を傾けていた。
フランの声は静かで穏やかだったが、その響きには、遠い見知らぬ土地で救われた者としての深く確かな感謝が込められていた。
「それに、ギーマさんのことも、ずっと見てくれていたでしょう?」
「……まあ、腐れ縁のようなものさ」
「ふふ。そうですね」
照れ隠しのようなギーマの返答に、フランは小さく笑った。
「だから、クチナシさんにお願いしたいんです。たぶん、すごく嫌そうな顔をされると思いますけど」
「そこまで分かっていて行くのかい」
「はい」
「断られる可能性も高い」
「はい」
「面倒くさいと言われる」
「絶対言われます」
一切の迷いなく真剣な顔で頷くフランの様子に、ギーマは堪えきれなくなったように肩を大きく揺らして笑った。
「それでも?」
「それでもです」
フランは指輪のはまった左手を、自分の胸元にそっと置いた。
指輪の硬質な冷たさと、自身の脈打つ温もりが重なり合う。
「言葉にしてお願いしたいんです。ちゃんと、あたしたち二人で」
その「あたしたち二人で」という響きに含まれた力強さに、ギーマの表情から勝負師らしい鋭さが抜け、ひたすらにやわらかな笑みが浮かんだ。
「……そうだね」
ギーマはフランの手を、より一層強く握り返した。
「では、行こうか」
***
ポータウンへと続く道は、今日もどこか澱んだような気怠げな空気に包まれていた。
アローラの空は高く晴れ渡っているというのに、町全体は薄暗い影が落ち、よそ者を歓迎するような陽気さは微塵もない。
けれど、フランの足取りに躊躇いはなかった。かつて一人でこの道を歩いた時に感じた押し潰されそうな恐怖は、もうどこにもない。
視線を少し横に巡らせれば、そこにギーマの確かな存在があり、彼の手が温かく自分の手を繋いでくれているからだ。
二人の足元には、エナとキキもついて歩いていた。
エナは相変わらず好奇心のかたまりのように、路地の隅や割れた舗装の隙間に鼻を突っ込んではフンフンと匂いを嗅ぎ回っている。対照的にキキは、鋭い赤い瞳で周囲を警戒するように見回しながら、フランのすぐ足元にぴったりと寄り添っていた。
そしてギーマのレパルダスはといえば、少し離れた屋根の塀の上をしなやかな足取りで歩き、気ままに街の空気を楽しんでいた。
「エナ、あんまり変なところに鼻を突っ込まないでね」
「わん!」
「絶対分かってない返事だ……」
「彼なりに分かっているのだろう」
ギーマがフォローするように言うと、エナは待ってましたとばかりに千切れんばかりに尻尾を振り、嬉しそうに吠えた。
「ギーマさんはエナに甘いです」
「きみにも甘いから、今さらだ」
「だからそういうことを外で言わないでください……!」
唐突に投げかけられた甘い言葉に、フランは耳まで真っ赤にして俯いてしまった。
俯いた視線の先で、彼女の左手に光る指輪が、散乱する日差しを反射してきらりと輝く。
その慎ましくも確かな光を目にして、ギーマの瞳がわずかに愛おしげに細められた。
指輪を嵌めて自分の隣を歩くフラン。
ただそれだけの光景が、ギーマの胸の奥深くに残っていた冷たい空洞を、静かに、けれど圧倒的な温かさで満たしていく。
かつて人生を賭けた大一番に破れ、四天王としての立場も、誇りも、手元にあったすべてを失って漂着した男。何もかもを諦め、人生の勝負から降りかけていた自分に対し、彼女は手を伸ばし続けてくれた。
自分が差し出した未来を、彼女が受け取ってくれたということ。
それは、敗北者であった自分にとって、あまりにも贅沢で、奇跡のような救いに他ならなかった。
ポータウンに佇む、交番の前に辿り着くと、フランは一度足を止め、緊張をほぐすように大きく深呼吸をした。
「大丈夫かい」
「はい。大丈夫……じゃなくて、緊張してます」
ギーマが口元を緩めて低く笑う。
「正直でよろしい」
「カトレアさんに『大丈夫は禁止』って言われましたから」
「彼女らしい」
「シキミさんにも、ちゃんと気持ちは言葉にした方がいいって言われました」
「それも彼女らしいね」
遠いイッシュで自分たちを見守ってくれている友人たちの顔を思い浮かべ、フランは小さく頷いた。そして心を決めると、ドアを叩いた。
室内からの返事はない。けれど、扉の向こうからかすかに人の気配を感じる。
「クチナシさん、いらっしゃいますか?」
数秒間の静寂。
それから、いかにも寝起きのような、ひどく億劫そうな声が室内から響いた。
「……開いてるよ」
ギーマとフランは顔を見合わせ、静かにドアを押して中へ足を踏み入れた。
交番の中には、いつも通り気怠げな雰囲気を全身から醸し出したクチナシがいた。
机の前の椅子に深く腰掛け、片肘をついて頬杖をつき、いかにも「面倒な厄介事が飛び込んできた」と言いたげな、半開きの目で二人を睨みつけている。
「なんだい。朝っぱらから揃って」
「お邪魔します、クチナシさん」
「はいはい。で、そっちの色男はまた惚気に来たわけ?」
「……わたしは、そんな頻繁に惚気ているつもりはないが」
「自覚がないのが一番たち悪いんだよ」
クチナシは盛大にため息をつき、頭をガリガリとかいた。
二人のいつも通りの噛み合わないやり取りに、フランは緊張がほぐれて思わずふっと笑ってしまう。
ギーマは心外だと言わんばかりにほんの少し不服そうに目を細めたが、それ以上強い反論はしなかった。
と、その時。
クチナシの鋭い視線が、ふいにフランの左手へと落ちた。
胸元で固く握られていた指先に光る、銀色の指輪。
一瞬だけ、クチナシの目つきがうっすらと細くなる。
「……へえ」
地声よりさらに低く漏らされたその一言に、フランは跳ね上がるように反射的に左手を胸元へ引き寄せた。
「クチナシさん」
「言わなくても大体分かったけどね」
クチナシは面倒くさそうに背もたれへ深く体を預け直した。
「結婚するってわけだ」
ダイレクトな言葉に、フランの顔が一瞬で朱に染まる。
「は、はい……!」
隣のギーマもまた、背筋を伸ばして静かに頷いた。
「フランに、結婚を申し込んだ」
「で、受けてもらえたと」
「ああ」
「物好きだねえ、ねえちゃん」
「えっ」
「こんな面倒くさい男、よく引き受ける気になったもんだ」
「面倒くさいのは否定できないですけど……!」
「否定してくれないのかい、フラン」
「だ、だって……」
慌てるフランと、心底呆れた顔をするクチナシ、そして苦笑するギーマ。
フランは困ったように、けれど愛おしさを隠しきれない笑顔を浮かべた。
「手がかかるところも含めて、ギーマさんなので」
クチナシは一瞬だけぽかんと口を開けた後、こらえきれなくなったように鼻でくくっと笑った。
「言うねえ」
予想外の角度からの言葉に、ギーマは片手を口元に当ててすっと顔を横へ逸らした。耳のあたりが、かすかに赤く染まっている。
クチナシはそれを見逃さず、さらに呆れた顔で肩をすくめた。
「おいおい。そっちが照れてどうすんの」
「照れてはいない」
「へえ」
「……」
「まあ、いいけど」
クチナシは机の上にあった、茶渋のついた湯呑みを億劫そうに持ち上げた。
中の茶はすっかり冷めてしまっているらしく、一口含んだ後に露骨に顔をしかめて卓上へ戻す。
「それで?報告だけなら、そこの扉から入って十秒で済む話だろ。わざわざ二人そろってそんな顔して来たってことは、他にもなんかあるんじゃないの」
雰囲気が一変した。
フランは背筋をぴんと伸ばし、表情を引き締めた。
隣のギーマもまた、静かに佇まいを正す。
部屋を満たした真剣な空気に、クチナシはわずかに眉を跳ね上げた。
「クチナシさん」
フランは深く、丁寧に頭を下げた。
「結婚式を挙げることになりました。まだ日取りや場所はこれからなんですけど……ぜひ、クチナシさんにも来ていただきたいんです」
「……式ねえ」
クチナシはこれ以上ないほど露骨に不機嫌そうな顔を作ってみせた。
「そういう華やかな場所、一番似合わないおじさんに声かけてどうすんの」
「来てほしいんです」
フランは顔を上げ、まっすぐに彼を見つめた。
「クチナシさんに」
その澄んだ、迷いのない声の響きに、クチナシの瞳の奥が一瞬だけ揺れた。
けれど彼はすぐに、いつものやる気のない表情の裏へそれを隠してしまう。
「招待ならまあ、考えとくよ」
「ありがとうございます!」
「まだ行くとは言ってないけど」
「でも、考えてくださるんですよね?」
「……そういうところ、ずるいねえ」
クチナシは頭をかかえるようにぼやいた。
隣でギーマが、クッと喉を鳴らして可笑しそうに笑っている。
「笑ってる場合かい、おまえさん」
「いや。フランには敵わないと思ってね」
「今さらだろ」
「そうかもしれない」
二人の気置けないやり取りに、フランの頬が和らいだ。
けれど、ここからが本当の本題だった。
彼女は胸の前で一度深呼吸をし、隣のギーマを見上げた。
ギーマは静かに、けれど力強く頷き返す。
二人は示し合わせたように、一歩だけクチナシの机の前へ踏み出した。
「それから」
フランの声に、緊張を含んだ硬さが混じる。
「もうひとつ、お願いがあります」
「……嫌な予感しかしないね」
クチナシは再び机に頬杖をつき直した。
「聞かなかったことにしていい?」
「だめです」
「だめかい」
「はい」
フランがあまりにも大真面目に頷くので、クチナシは大げさにため息をついて見せた。
「で、何」
今度は、ギーマが口を開いた。
低く、落ち着いた声が室内を充たしていく。
「結婚式で、きみにスピーチを頼みたい」
静寂が、交番の中に落ちた。
クチナシはしばらくのあいだ、微動だにしなかった。
湯呑みを持ったままの手を止め、目だけを鋭くギーマに向けられている。
「……は?」
「スピーチだ」
「聞こえてるよ。聞こえた上で、は?って言ってんの」
クチナシは心底嫌そうに眉間へシワを寄せた。
「何考えてんの。正気?」
「正気だよ」
「よりによってこんなおじさんに頼むわけ?他にいるだろ。リーグのお偉いさんとか、四天王のあのお嬢様とか、物書きの子とか、やたら真面目な筋肉の人とか」
「レンブのことかい」
「名前は知らんけど、たぶんそれ」
話が逸れそうになり、フランは慌てて間に入った。
「もちろん、シキミさんやカトレアさん、レンブさんにも来ていただきたいです。でも……」
「でも?」
「クチナシさんにも、言葉をいただきたいんです」
クチナシの視線が、フランへと注がれる。
フランは左手の指輪を包むようにそっと手を握り締めながら、逃げずにその視線を受け止めた。
「クチナシさんは、アローラでのギーマさんを見てきた方です」
その言葉に、ギーマの眉がかすかに動いた。
「ギーマさんが一人でここに来た時のことも、あたしがギーマさんを追いかけて来た時のことも、再会してからのことも」
フランは込み上げる感情に声を震わせながらも、決して言葉を止めなかった。
「全部ではないかもしれません。でも、大事なところを見ていてくださったと思うんです」
クチナシはただ黙ってフランを見つめていた。
「だから、クチナシさんにお願いしたいです」
フランはもう一度、深く頭を下げた。
「結婚式で、あたしたちに言葉をください」
「……」
室内を包むのは、途方もない沈黙だった。
ギーマもまた、フランの隣で静かに頭を下げる。
「わたしからも頼む」
その言葉には、普段の彼が纏う勝負師の軽さは一切なかった。
「きみに、話してほしい」
クチナシは持っていた湯呑みを、机の上に置いた。
「……面倒くさいねえ」
吐き捨てられたその言葉は、冷たい拒絶のようにも聞こえた。
けれど、フランは頭を下げたまま微動だにしなかった。隣のギーマも、静かに彼の言葉を待っていた。
数秒。十数秒。
やがて、クチナシは自らの頭を乱暴にかきむしった。
「まったく。揃ってそんなふうに頭下げられたら、断りづらいだろうが」
フランがそっと顔を上げる。
「クチナシさん……」
「まだ受けるとは言ってない」
「でも、断るとも言ってません」
「本当にずるいね、ねえちゃん」
クチナシは重い腰を上げ、椅子から立ち上がった。
「ちょっと外出るよ。狭いところでそういう話されると、肩が凝る」
***
交番の外へ出ると、ポータウンの空気は相変わらず重く澱んでいた。けれど、海側から吹き抜けてくる風だけは、どこかやわらかく湿り気を含んでいる。
クチナシはズボンのポケットに両手を突っ込んだまま歩き、少し離れた塀の脇で足を止めた。
ギーマとフランも、彼の少し後ろをついていく。
「で」
クチナシは振り返りもせず、背中を向けたまま言った。
「スピーチって、何を話しゃいいわけ」
その言葉の意味を理解した瞬間、フランの顔がぱっと明るくなった。
「受けてくださるんですか?」
「まだ仮だよ、仮」
「ありがとうございます!」
「だから仮だっての」
「でも、考えてくださるだけで嬉しいです」
心底嬉しそうに破顔するフランの表情に、クチナシはバツの悪そうな顔をして視線を逸らした。
「そういう顔されると、おじさんは弱いんだよ」
隣でギーマが静かに口を開く。
「彼女は強いだろう」
「強いねえ」
クチナシは深く溜息をつきながら短く答えた。そこには冗談めかした響きはない。
「こんな何考えてるか分からん男追っかけて、知らない土地まで来て、泣いて怒って、それでも隣に立ってる。並の根性じゃできないよ」
褒め言葉に、フランは少しだけ照れたように目を伏せた。
「……クチナシさんには、たくさん助けていただきました」
「別に。たいしたことはしてない」
「しました」
「してないって」
「しました」
珍しく意地になって譲らないフランに、クチナシは思わず片眉を跳ね上げた。
そのやり取りの後ろで、ギーマが口元を手で覆い、必死に笑いを殺している。
「何がおかしいんだよ」
「いや。きみもフランには敵わないと思ってね」
「そりゃお前さんだろ」
「否定はしない」
二人のやり取りに、フランの頬が少し緩んだ。
けれど、彼女の瞳には依然として真摯な光が宿っていた。
「クチナシさんがいてくれたから、あたし、アローラでちゃんとギーマさんと向き合えました」
クチナシの横顔が、わずかに静かになる。
「ギーマさんのことを教えてくれたわけじゃなくても、どこに行けばいいか全部答えてくれたわけじゃなくても……でも、ちゃんと見ていてくれました」
フランは胸元に手を当て、自らの温もりを確かめるように言った。
「あたしが迷ってる時、必要な分だけ背中を押してくれました」
「買いかぶりすぎだよ」
「そんなことないです」
「……やりづらいねえ」
クチナシは心底困ったように深いため息をつき、今度は視線をギーマへ移した。
「で、お前さんはどうなんだい」
「わたしかい」
「そうだよ。ねえちゃんはこんだけ真っ直ぐ頼んでる。お前さんは、おじさんに何を話してほしいわけ」
ギーマはしばし口を閉ざした。吹き抜ける湿った風が、彼の着流しを静かに揺らしていく。
「正直に言えば」
「ああ」
「祝福の言葉をもらえれば、それで十分だと思っていた」
クチナシは片眉を上げた。
「へえ」
「だが、今は違う」
ギーマは一度、隣のフランを見つめた。
彼女の左手に嵌められた指輪が、雲の隙間からのぞいた光を受けてきらりと輝いている。
「わたしがアローラへ来た時の姿を、きみは知っている。わたしがどれだけ無様に沈んでいたかも」
「まあね」
「その後、フランが来た」
「ああ」
「きみは、わたしが彼女に救われたところを見ていた」
クチナシは何も言わず、ただ黙って耳を傾けていた。ギーマは静かな声を繋ぐ。
「けれど、救われただけでは足りないのだと、ようやく分かった」
フランがハッとしてギーマを見上げる。
「ギーマさん……」
「フランに手を伸ばしてもらった。名前を呼んでもらった。何度も、わたしの席に引き戻してもらった」
彼の声はどこまでも穏やかで、飾りのない誠実さに満ちていた。
「今度は、わたしが彼女を幸せにする番だ」
クチナシは相変わらず無表情のまま聞いていた。
「その始まりに、きみの言葉がほしい」
ギーマの瞳が、まっすぐにクチナシを射抜く。
「きみは、わたしの負けた後を知っている。だからこそ、話せることがあると思っている」
長い、長い沈黙が三人の間に流れた。
やがてクチナシは、ポリポリと痒くもない頬をかいた。
「……重いねえ」
「頼む相手を間違えただろうか」
「いや」
クチナシはほんの少しだけ目元を緩めた。
「間違ってはいないんじゃないの」
フランの表情が、一瞬でぱっと華やぐ。
けれどクチナシはすぐに片手を上げてそれを制した。
「ただし、上品なスピーチなんて期待すんなよ」
「もちろんです」
「そこはちょっと期待してほしかったね」
「えっ、す、すみません!」
慌てるフランに、クチナシは小さく鼻で笑った。
「冗談だよ」
ギーマもまた、微かに口元を緩める。
「きみらしい言葉で構わない」
「なら、まあ……考えとく」
フランはパッと目を輝かせた。
「本当ですか?」
「考えとくだけだって」
「ありがとうございます、クチナシさん!」
あまりにも嬉しそうに何度も頭を下げるフランに、クチナシは居心地が悪そうに視線を逸らした。
「だから、まだ本決まりじゃないってのに……」
「クチナシ」
ギーマが静かに、彼の名を呼んだ。
「なんだい」
「ありがとう」
その短い感謝の言葉を聞いて、クチナシは一瞬だけ口を閉ざした。
それから、わざとらしく大きく肩をすくめてみせる。
「礼を言うのはまだ早いんじゃないの」
「いや。今言っておきたい」
「……そうかい」
クチナシはそれ以上何も言わなかった。
少し離れた場所で、フランがエナに水を飲ませ始めていた。
その様子を確認すると、クチナシは手招きをしてギーマだけを呼び寄せた。
「ちょっと」
「なんだい」
「男同士の話」
ギーマは可笑しそうに笑った。
「最近、その言葉をよく聞く」
「知らんよ。こっちはこっちで言うことがある」
離れた場所から、が少し不安そうにこちらを伺っている。
「ギーマさん?」
「すぐ戻る」
「はい」
フランは素直に頷いたものの、その瞳にはどこか影のような不安が揺れていた。
クチナシはその視線を見逃さず、かすかに眉を寄せた。
***
二人は交番の脇にある、薄暗い路地の影へと入る。クチナシはしばらく無言で壁にもたれかかっていた。
やがて、億劫そうに口を開く。
「幸せそうで何よりだね」
「それを言うために呼んだのかい」
「まさか」
クチナシの声から、いつもの軽さが削ぎ落とされた。
「あの子、まだ時々お前さんが消えるんじゃないかって顔するだろ」
ギーマの顔から、ふっと笑みが消えた。
「……分かるのか」
「分かるよ。あの手の顔は見慣れてる」
クチナシは古びた壁に背を預けたまま、静かに息を吐いた。
「笑ってるし、信じようとしてる。けど、ふとした時に目が追ってるんだよ。お前さんが本当にそこにいるかどうか」
ギーマは何も言えなかった。
胸の深いところが、じくりと痛んだ。思い当たる節は、いくらでもあったからだ。
今朝、目覚めた瞬間にフランが左手を見つめ、「夢じゃない」と呟いていたこと。
夜、少し帰りが遅くなると、泣きそうな顔で出迎えてくれること。
静かに海を見つめていると、何も言わずにすり寄ってきて袖を掴むこと。
彼女はもう、一人で「大丈夫です」と無理に笑って閉じこもることはなくなった。
けれど、かつて自分が与えた絶望の傷痕は、完全には消えていないのだ。
「分かっている」
ギーマの低い声が、路地に落ちる。
「ならいいけどね」
クチナシは細めた目でギーマを凝視した。
「結婚ってのは、綺麗な式を挙げて終わりじゃない。指輪渡して、誓いの言葉言って、めでたしめでたしってほど楽でもない」
「そうだね」
「お前さんは勝負師なんだろ」
「ああ」
「なら、ここから先は長丁場だ。派手な一手で勝とうとすんな」
その言葉に、ギーマは静かにクチナシを見返した。
クチナシは気怠そうな立ち姿のままだったが、その眼光だけは鋭く冴え渡っていた。
「毎日帰る。名前を呼ばれたら返事する。話を聞く。黙って消えない。勝手に決めない。そういう地味な手を、毎日毎日、飽きずに切り続けろ」
「……」
「あのねえちゃんには、そういうのが一番効くんじゃないの」
長い沈黙が流れた。
やがてギーマは、深く長い息を吐き出した。
「きみは本当に、痛いところを突く」
「歳食ってるからね」
「感謝している」
「そこで素直になるの、ずるいねえ」
クチナシは鼻で笑った。
「ま、別にお前さんを責めたいわけじゃないよ。お前さんが沈んでたのも知ってる。どうにもならなかったのも、少しは分かる」
ギーマの瞳がわずかに揺れた。
「けどね」
クチナシは壁から身体を離し、ギーマの正面に立った。
「あの子をもう一回同じように泣かせたら、おじさんはたぶん面倒くさがらずに怒るよ」
ギーマは静かに目を伏せた。その言葉には何の飾りもなかったが、だからこそ途方もない重みがあった。
「心得ている」
「本当に?」
「ああ」
ギーマは路地の隙間から見える、フランの姿に視線を向けた。
エナに水を飲ませ終えたフランが、こちらを気にしながらも、二人を邪魔しないように健気に待っている。
その左手には、自分が贈った指輪が静かな光を放っていた。
「もう、彼女の手を離さない」
クチナシはその横顔を、しばらく黙って見つめていた。
漂着した当初、人生の勝負から降りかけ、死んだような目をしていた男の面影は、もうどこにもなかった。
傷も、影もある。けれど今の彼の目は、しっかりと目の前の未来を見つめている。
「……なら、いいんじゃないの」
クチナシはぼそりと呟いた。
「スピーチ、受けてやるよ」
ギーマが振り返る。
「本当かい」
「二回言わせる気?」
「いや」
ギーマは微かに笑った。
「ありがとう、クチナシ」
「ただし、長くは話さない。感動的なのも無理。泣かせる気もない。おじさんのことだから、たぶん場も締まらない」
「きみが来て話してくれるだけでいい」
「……ほんと、そういうところ変わったねえ」
クチナシは呆れたように首を振った。
「昔なら、もうちょい格好つけただろ」
「格好をつけたい相手はいる」
「へえ?」
「だが、彼女にはもう、格好悪いところも知られているからね」
クチナシは一瞬だけ硬直した後、堪えきれずに破顔した。
「惚気かい、それ」
「事実だよ」
「はいはい。ごちそうさん」
***
二人が路地から戻ると、フランはすぐに顔を上げた。
「ギーマさん、クチナシさん」
その表情には、隠しきれない心配と期待が混ざり合っていた。
ギーマはフランの隣へと戻り、自然な動作で彼女の手を包み込む。
「フラン」
「はい」
クチナシは頭をかきむしりながら、わざと大げさに億劫そうに言った。
「スピーチ、やってやるよ」
フランの瞳が、大きく見開かれた。
「……本当ですか?」
「だから、二回言わせないでくれる?」
「本当に……?」
「三回目だよ、ねえちゃん」
次の瞬間、フランの瞳に涙がぶわりと溢れ出した。
「ありがとうございます、クチナシさん……!」
「あー、泣くな泣くな。まだ何も話してないだろ」
「でも、嬉しくて……!」
フランは慌てて涙を拭おうとしたが、手が震えて上手く拭えない。
ギーマが懐からすっとハンカチを取り出し、優しく差し出した。
フランはそれを受け取り、目元を押し当てながら泣き笑いの顔をクチナシに向けた。
「ありがとうございます。あたし、クチナシさんにお願いできて、本当に嬉しいです」
「はいはい」
クチナシは照れ隠しに露骨に目を逸らした。
「言っとくけど、立派なことは言わないよ。おじさんはそういうの柄じゃない」
「はい」
「たぶん、あんたらの面倒くささをちょっと話して終わる」
「はい!」
「そこは嫌がりなよ」
あまりにも嬉しそうに頷くフランに、クチナシは参ったというように溜息をついた。
隣でギーマが静かに微笑んでいる。
「クチナシさんが話してくださるなら、どんな言葉でも嬉しいです」
「……ほんと、強いねえ」
クチナシは小さく呟いた。フランは不思議そうに首を傾げる。
「え?」
「何でもない。……で、招待状は?」
「あっ、はい!」
フランは持っていた鞄の中から、丁寧に用意してきた封筒を取り出した。
まだ日付も場所も仮決定の段階だったが、どうしても手渡ししたくて、昨夜二人で用意したものだ。
白い封筒には、慎ましい花の模様が型押しされている。
ギーマがそれを受け取り、フランと一緒にクチナシの前へ差し出した。
「ぜひ、来てください」
フランが言う。
「きみに見届けてほしい」
ギーマが続ける。
クチナシは、その封筒をしばらく黙って見つめていた。
それから、少し乱暴な手つきでそれを受け取る。けれど、その指先は意外なほど丁寧に紙の端を扱っていた。
「……分かったよ」
フランの表情が、花が開くように一気に華やいだ。
「ありがとうございます!」
「だから、いちいちそんな顔すんなって」
「嬉しいんです」
「知ってるよ」
クチナシは封筒を上着の内ポケットへ大切そうにしまった。
「ま、式までには何か考えとく」
「よろしくお願いします」
ギーマが静かに頭を下げる。クチナシは彼をじろりと睨んだ。
「ギーマ」
「なんだい」
「式当日、変に格好つけすぎてねえちゃんを不安にさせるなよ」
「……そこまで言われるのか」
「お前さんはそういうとこあるだろ」
フランは思わず口元を押さえて笑った。
「ギーマさん、たしかに格好つけますもんね」
「フランまで」
「でも、格好つけてるギーマさんも好きです」
さらりと言い切ってから、フランは自分の発言の重さに気づき、顔を真っ赤にした。
ギーマは一瞬だけ目を見開いた後、口元を押さえて顔を背けた。
クチナシは心底呆れ果てた顔になる。
「はいはい。もう帰んな。朝から甘いもん食わされた気分だよ」
「す、すみません……!」
「謝らんでいいよ。幸せそうで何よりだって言ってんの」
その言葉の温かさに、フランは胸を押さえた。
「クチナシさん……」
「泣くなって」
「泣いてません」
「目がもう泣いてる」
「うう……」
ギーマはフランの肩にそっと手を添え、保護するように抱き寄せた。
「では、今日はこのあたりで失礼しよう」
「そうしてくれると助かるね」
クチナシは面倒くさそうに手を振った。
「式の詳しいことが決まったら、また連絡しな」
「はい!」
「あと」
二人が歩き出そうとした時、クチナシが後ろから呼び止めた。
振り返る二人に対し、クチナシは少しだけ言いづらそうに視線を泳がせた後、ぽつりと言った。
「……おめでとう」
風が、静かに通り抜けた。フランは胸がいっぱいになり、一瞬言葉を失った。
隣のギーマも、静かに目を細める。
派手な祝福ではない。声も小さく、表情も相変わらず不機嫌そうだ。
けれど、その一言には何よりも温かい心が込められていた。
「……ありがとうございます」
フランは深く、深く頭を下げた。ギーマも同じように、静かに頭を下げる。
「ありがとう」
クチナシは照れ隠しのように顔をしかめた。
「ほら、もう行け行け。こっちは仕事があるんだよ」
「お仕事中にすみませんでした」
「仕事してるように見えた?」
「えっ」
「そこで悩むなよ」
あたふたするフランを見て、ギーマが小さく笑った。
クチナシはもう一度しっしっと手を振る。
二人はその場を離れ、ポータウンの影のある道をゆっくりと歩き出した。
しばらく歩いた後、フランは何度も後ろを振り返った。
交番の前には、まだクチナシが佇んでいた。
視線に気づくと、彼は面倒くさそうに片手をひらひらと上げた。
フランもまた、大きく手を振り返した。
「……受けてくださいましたね」
「ああ」
ギーマは静かに答えた。
「意外だったかい」
「いえ。クチナシさんなら、最後は受けてくれる気がしてました」
「信頼しているんだね」
「はい」
フランは微笑んだ。
「クチナシさん、いつも面倒くさそうにするけど、ちゃんと見ていてくれる人だから」
ギーマは少しだけ目を伏せた。
「そうだね」
「ギーマさん?」
「いや」
ギーマはフランの手を握り直した。指輪の金属の感触が、彼の皮膚に触れる。
「アローラに来て、わたしは多くのものを得たのだと思っていた」
「はい」
「きみと再会したこと。きみと暮らせるようになったこと。愛するポケモンたちと穏やかな朝を迎えられるようになったこと」
ギーマは語り続ける。
「だが、それだけではなかったようだ」
フランはギーマを見上げた。
「クチナシさんですか?」
「彼だけではない。レンブも、シキミも、カトレアも。きみを通して、わたしはもう一度、誰かに叱られ、見守られ、祝われる立場へ戻された」
「戻された?」
「ああ」
ギーマは少しだけ自嘲気味に笑った。
「敗北者として一人でいる方が、楽な時もあった。誰にも期待されず、誰も傷つけず、ただ負けた男としてそこにいればいい」
フランは静かに彼の言葉を受け止めていた。
「けれど、きみはわたしをそこから引きずり出した」
「引きずり出したって……」
「違うかい?」
「えっと……ちょっとだけ?」
申し訳なさそうにするフランに、ギーマは優しく笑いかけた。
「遠慮しなくていい。きみはわたしを席に引き戻したんだ」
フランはその言葉を聞いて、少しだけ照れくさそうに視線を落とした。
「……だって、ギーマさんが勝手に降りようとするから」
「そうだね」
「だから、これからも降りようとしたら引き戻します」
「頼もしいな」
「頼ってくださいね」
フランはまっすぐに彼を見つめた。
「あたし、ギーマさんの妻になるんですから」
言った瞬間、二人の間に沈黙が流れた。
フランは自分で口にした言葉の重みに、みるみる顔を真っ赤に染めていく。
「つ、妻……!」
ギーマは口元に手を当てたまま、可笑しさを堪えきれずに肩を揺らした。
「笑わないでください!」
「いや、すまない」
「自分で言ったのに恥ずかしくなりました……!」
「とても可愛らしかったよ」
「ギーマさん!」
足元でエナが嬉しそうに吠え、キキが呆れたように尾を振った。
レパルダスは塀の上から、また始まったと言わんばかりの顔で二人を見下ろしていた。
***
二人の背中が街角に消えた後も、クチナシはしばらく交番の前に立っていた。
上着の内ポケットには、二人から手渡された招待状が入っている。薄い紙の感触が、胸元で妙に存在感を主張していた。
「……結婚式のスピーチねえ」
呟くだけで、肩が重くなる気がした。
柄ではない。絶対に柄ではない。
華やかな式場で、慣れない正装をし、大勢の前で二人を祝う言葉を述べる。考えただけで逃げ出したくなった。
「面倒くさいこと頼んでくれるよ、まったく」
そうぼやきながらも、クチナシはポケットから封筒を取り出した。
型押しされた白い花の模様。
いかにもあの素直なねえちゃんが選びそうな、柔らかく丁寧な仕上がりの封筒だ。
開けるのは後でいい、そう思っていたはずなのに、なぜか指先は勝手に封を切っていた。
中には、仮の日付が記されたカードと一緒に、折りたたまれた小さな手紙が入っていた。
丸みを帯びた、フランの丁寧な文字だった。
『クチナシさんへ。ギーマさんと結婚することになりました。
アローラでギーマさんと再会できたこと、今こうして一緒にいられること、その全部にクチナシさんがいてくださったことを、あたしは忘れません。クチナシさんは「大したことはしていない」と言うかもしれません。でも、あたしにとっては、本当に心強かったです。結婚式の日、ギーマさんとあたしの新しい始まりを、見届けていただけたら嬉しいです。もしご迷惑でなければ、スピーチをお願いしたいです。クチナシさんの言葉で、あたしたちを送り出していただけたら、きっと一生忘れません。フラン』
クチナシは手紙を最後まで読み終えると、しばらく無言で立ち尽くした。それから、手紙を元通り丁寧に折りたたむ。
「……困った子だねえ」
目元に浮かんだ複雑な感情を隠すように、彼はすぐにいつもの気怠げな表情を作った。
けれど、呟いた声には確かな温もりが混じっていた。
「ここまで言われちゃ、断れるわけないだろ」
彼は交番の中へ戻り、引き出しの奥から古びたメモ帳を取り出した。スピーチなど、何を言えばいいのか分からない。人前で長々と話す趣味もない。けれど、少しくらいは考えてやるかという気になっていた。
あの面倒くさい勝負師と、泣き虫のくせに芯の強いねえちゃんのために。
クチナシはペンを持ち、しばらく白紙を睨みつけた。
そして、最初に書きつけた言葉は、ひどく短くぶっきらぼうなものだった。
『幸せにしろ。幸せになれ。』
それだけ書いて、彼はふっと鼻で笑った。
「……説教くさいねえ」
でも、悪くはない。あの男には、それくらいがちょうどいい。あの子には、それくらいまっすぐでいい。
クチナシはメモ帳を閉じ、招待状と一緒に引き出しへ大切にしまった。
外では、アローラの風がゆったりと吹いている。
式当日、あの二人はきっと眩しいほどの顔で並んで立っているのだろう。
ギーマは相変わらず格好をつけて。
フランは泣きそうな顔で、けれど幸せそうに笑って。
そして自分は、最高に面倒くさそうな顔をしながら、その前に立つことになるのだ。
「……やれやれ」
クチナシは椅子にもたれかかり、天井を見上げた。
「本当に、面倒くさい縁に拾われたもんだ」
けれど、その独り言には何の嫌悪も入っていなかった。ただ少しだけ、照れくさそうな温度が含まれているだけだった。
***
帰り道のフランは、終始嬉しそうだった。
「クチナシさん、受けてくれましたね」
「ああ」
「スピーチ、どんな内容になるんでしょう」
「わたしへの苦言が八割ではないかな」
「ふふ、ありそうです」
「笑うところかい」
「でも、クチナシさんらしいです」
フランはギーマの手をぎゅっと握りしめた。
「ギーマさんのことも、あたしのことも、ちゃんと見てくれているから言える言葉だと思うので」
ギーマは静かにフランを見つめた。
「きみは本当に、周りの人間を信じるのが上手いね」
「そうでしょうか?」
「ああ」
「でも、あたしも最初から上手だったわけじゃないです」
フランは少しだけ目を伏せた。
「ギーマさんがいなくなった時、あたし、シキミさんやカトレアさんにもなかなか本音を言えませんでした。迷惑をかけたくなくて、平気なふりを生きて」
ギーマの手に、ぎゅっと力がこもる。
「……フラン」
「でも、お二人が何度も言ってくれたから。泣いていいって。寂しいって思っていいって。会いたいって言っていいって」
フランは顔を上げた。
「だから、今は言えるんです。嬉しい時は嬉しい。寂しい時は寂しい。お願いしたい時は、お願いしたいって」
ギーマは何も言わず、ただその言葉を噛みしめていた。
「クチナシさんにも、ちゃんと言えてよかったです」
「そうだね」
「ギーマさんも、ちゃんと言ってくれて嬉しかったです」
「わたしが?」
「はい。クチナシさんに、スピーチをお願いしたい理由を」
ギーマは少しだけ視線を泳がせた。
「あれは……少し照れたな」
「ギーマさんでも照れるんですか?」
「わたしを何だと思っているんだい」
「かっこつけたがりの、優しくて、ちょっと面倒くさい人です」
ギーマは一瞬言葉を失い、それから低く笑った。
「クチナシに似てきたね」
「えっ、そうですか?」
「なかなか手厳しい」
「でも、大好きです」
フランは今度は照れもせず、真っ直ぐに言った。ギーマの足がピタリと止まる。
フランも立ち止め、不思議そうに見上げた。
「ギーマさん?」
「……いや」
ギーマはフランの左手を持ち上げ、指輪の嵌まった指先へそっと唇を寄せた。
「不意打ちは、きみにも上手くなってきたようだ」
フランの顔が一気に熱を持つ。
「な、何の勝負ですか……!」
「終わらない勝負だよ」
ギーマは愛おしそうに微笑んだ。
「きみとわたしの」
フランは恥ずかしさに耐えながらも、心からの笑顔を返した。
「じゃあ、あたしも降りません」
「ああ」
ギーマは彼女の手を握り直すと、再び歩き出した。
「わたしもだ」
アローラの空はどこまでも高く、風はやわらかい。二人の結婚式までは、まだ少しの時間がある。準備することも、決めることも山積みだ。
向き合うべき過去も、まだ完全には消えていない。けれど、もう一人ではない。
フランは隣を歩くギーマを見上げた。
ギーマもまた、彼女の視線に気づいて目元をやわらげる。
「どうかしたかい」
「いえ」
フランは笑った。
「クチナシさんにも、シキミさんにも、カトレアさんにも、レンブさんにも……みんなに見てもらえる結婚式になるんだなって思って」
「緊張する?」
「します。でも、嬉しいです」
「そうか」
「はい」
フランは左手の指輪をそっと撫でた。
「みんなに、ちゃんと幸せですって言えます」
ギーマの表情が、深く、優しく和らいだ。
「なら、わたしも胸を張らなければね」
「はい。かっこつけすぎない程度に」
「……クチナシの言葉がもう効いている」
「ふふ」
二人の楽しげな笑い声が、アローラの風に乗って広がっていく。
その背中を、エナが楽しそうに追いかけていく。キキは静かに寄り添い、レパルダスは気まぐれに先を行く。
そしてポータウンの交番の引き出しの奥では、一通の白い招待状と、小さなメモが静かに眠っていた。
『幸せにしろ。幸せになれ。』
ぶっきらぼうで、飾り気がなくて、少しだけ説教くさい。
けれどそれは、ふたりを誰よりも見守ってきた男からの、最高に温かな祝福の言葉だった。
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