ギーマ夢主の名前変換
ギーマ(BW)×固定夢主💮
🪙夢主の名前
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カトレアたちがアローラでの滞在を終え、イッシュへと帰国してから数日が過ぎた。
嵐のような賑やかさが去った家には、いつもの静けさと穏やかな朝の空気が戻っている。
木枠の窓から差し込む朝陽はどこまでもやわらかく、遠い海から吹き抜けてくる風は、かすかに潮の湿り気を含んでいた。
台所ではフランがトントンと軽快な包丁の音を響かせ、朝食の支度に追われている。その足元にはエナが床に座り込み、今か今かと期待に満ちた瞳を輝かせながら、パタパタと勢いよく尻尾を振っていた。そのすぐ横ではキキが体の丸みを崩さず静かに丸くなっており、窓辺の一番日当たりのいい特等席には、レパルダスが自分の領域だと言わんばかりの澄ました顔で横たわっている。
「エナ、ごはんは皆揃ってから食べるよ。まだ我慢して」
大皿に盛りつけられた出来立ての卵料理へ、辛抱たまらず鼻先を近づけようとしたエナを、フランは慌てて手で制した。
制止されたエナは、わかりやすくしょんぼりと耳を伏せて小さく唸ったが、その直後、横からすっと伸びてきた白い手が、こんがりと焼けたきのみをひとつ、鼻先へ差し出した。
「これくらいなら構わないだろう」
「ギーマさん!」
不意の声にフランが振り返ると、そこにはいつの間にか台所の入口の柱に寄りかかっていたギーマの姿があった。
いつもの着流しを緩やかに纏い、どこか楽しげに細められた彼の瞳がフランを映している。
「またエナを甘やかして……」
「きみに叱られるのも、悪くないからね」
「そういう問題じゃないです!」
フランが頬を膨らませて抗議すると、ギーマは喉を鳴らすように小さく笑った。
その微笑みがあまりにも穏やかで暖かく、フランは言葉を呑み込んでしまう。
アローラの地で二人で暮らし始めてからというもの、ギーマは以前よりずっとよく笑うようになっていた。
もちろん、周囲の誰もが気づくほど派手に表情を崩すわけではない。けれど、一緒に過ごすフランには手に取るようにわかった。
朝、お茶を淹れている時。エナに袖口を引っ張られて困ったように首を傾げる時。レパルダスがしなやかに膝の上へと乗ってきた時。キキが無言でそっと足元にすり寄ってきた時。
そして何より——フランが彼の名前を呼んだ時。
ギーマは以前よりもずっと自然に、まるで長い間凍りついていた心がゆっくりと体温を取り戻していくように、やわらかな表情を浮かべるようになったのだ。
その姿を目にするたびに、フランの胸の奥が暖かくなる。
それと同時に、胸の深いところが締め付けられ、少しだけ涙がこぼれそうにもなるのだった。
かつて、冷たい空気が漂うイッシュリーグの資料室の前で、いくら声を張り上げて名前を呼んでも、扉の向こうからの返事はなかった。
どれほど手を伸ばしても届かず、ただすれ違っていくばかりだった過去。
けれど、今は違う。
「ギーマさん」
ふと溢れ出た思いのままに名前を呼ぶと。
「なんだい、フラン」
間髪を入れず、あの低く落ち着いた声が必ず返ってくる。
ただそれだけのことが、フランの心を何度となく救い、今の日常を支えていた。
***
温かな朝食の時間を終え、フランが食器を洗っている間、ギーマはテーブルの端で一枚のコインを指先に走らせていた。
それは彼が昔から、イッシュリーグの控室や勝負の合間によく見せていた癖だった。
親指の腹で弾かれたコインが空中でくるりと弧を描き、落ちてくるそれを滑らかな指先で寸分の狂いもなく受け止める。
けれど、今日のギーマの手元は、どこか集中を欠いて上の空だった。
「ギーマさん?」
水音を止めてフランが声をかけた瞬間、コインが彼の指先からかすかに滑り落ちそうになった。ギーマは瞬時に掌を返して受け止めたものの、そのわずかな指の動きの乱れを、ずっと彼を見続けてきたフランが見逃すはずもなかった。
「珍しいですね」
「何がだい?」
「ギーマさんが、コインを落としそうになるなんて」
「……そう見えたかい」
「はい。何か考え事ですか?」
フランが心配そうに顔を覗き込むと、ギーマは少しだけ困ったように眉を下げ、視線を下に落とした。
そのわずかな逡巡の仕草に、フランの胸がきゅっと鳴る。
ギーマがこういう影のある顔をする時は、たいてい何か重大な思いを一人で抱え込み、胸の奥に仕舞い込もうとしている時だった。
昔のフランであれば、そこで一歩踏み込むことができなかっただろう。
自分が踏み込んで邪魔にならないだろうか、身の程知らずな迷惑になるのではないかと躊躇い、結局は何も言えないまま、無理に明るく笑って誤魔化していたはずだ。
けれど、幾多の苦しみを経て彼の隣に立つと決めた今は違う。
「ギーマさん」
フランはいつもより少しだけトーンを落とし、真剣な声を紡いだ。
「一人で考え込んでいるなら、あたしにも話してくださいね」
静寂の中、ギーマの空色の瞳が、吸い寄せられるようにフランの姿を映し出した。
その瞳の奥深くに、一瞬だけ弾けたような驚きの色が浮かぶ。
そして次の瞬間、深く愛おしむようなやわらかさへと変わっていった。
「……きみは強くなったね」
「ギーマさんを支えるって決めましたから」
フランは少しだけ胸を張り、まっすぐに彼を見つめ返した。
「頼もしいな」
「頼もしいなら、ちゃんと頼ってください」
「そうだね」
ギーマは指先で弄んでいたコインをキュッと手の中に収め、深く、少しだけ長い息を吐き出した。
「では、ひとつ頼みがある」
「はい」
「今夜、わたしに時間をくれるかい」
「今夜、ですか?」
思わぬ提案に、フランはパチパチと瞬きをした。
「どこか行くんですか?」
「少し、海を見に」
「海……」
返答したフランの声が、わずかに震えて揺れた。
ギーマがイッシュから姿を消したあの忌まわしい事件以来、海という場所はフランにとって、あまりにも複雑で、感情を掻き乱される場所となっていた。
アローラの青い海は、奇跡的に彼と再会を果たせた愛おしい場所でもある。
けれど同時に、海は容赦なくギーマを奪い去り、見知らぬ場所に一人で漂着させた恐ろしい存在でもあったのだ。
海は、大切なものを奪うものでもあり、奇跡のように返してくれるものでもある。
だから今でも波の音を聞くと、胸の奥が締め付けられるような恐怖と切なさに襲われることがあった。
そんなフランの瞳の奥に走った小さな動揺を、ギーマは見逃さなかった。
彼は静かに椅子から立ち上がると、長い足でフランの前まで歩み寄ってきた。
「無理にとは言わない」
「い、行きます!」
怯えを見透かされたくなくて、フランは慌てて顔を上げた。
「ギーマさんと一緒なら、行けます」
迷いのない強い瞳でそう言い切ると、ギーマはほんの少しだけ目を見開いた。
それから、降参したように困った顔で微笑む。
「……そういうところだよ、フラン」
「え?」
「いや」
ギーマは伸ばした手で、フランの柔らかい髪にそっと触れた。
長い指先が、まるで壊れ物を扱うかのように優しく毛先を梳いていく。
「今夜は、よろしく頼むよ」
「はい」
フランはしっかりと頷いた。
その胸の深いところで、あたたかくも静かな予感が、小さく灯っていた。
***
その日の夕方、フランはどうしても気持ちが落ち着かなかった。
夕食の準備を進めようと台所に立っても、なぜか指先がふわふわと浮ついているようだった。エナのごはんを用意している最中に別の皿を出してしまったり、キキに脚を突かれているのに、レパルダスの方を向いてしまったりしていた。
「……あたし、変かな」
ぽつりと零した独り言に、足元のキキが静かに尾を振って応えた。その澄んだ瞳は、どこか呆れたようにフランを見上げている。
一方のエナは何も分かっていない様子で、ただ楽しそうにフランの周りをクルクルと回り続けていた。
「エナは楽しそうだね」
「わふん!」
「ギーマさんとお出かけだから?」
「わふ!」
「ふふ。そうだよね。あたしも楽しみ」
言葉にしながらも、フランは胸元をぎゅっと手で押さえた。
楽しみなのは嘘ではない。
でも、それ以上に胸を占めているのは、正体のわからない緊張感だった。
ギーマが何か大きなことを考えているのはわかる。
それが決して悪いことではないはずだとも信じている。
けれど、彼があんな風に静かで深い目をしていると、フランの心の奥底に眠るトラウマが疼いてしまうのだ。
——また、どこか遠い場所へ行ってしまう準備をしているのではないか。
そんなはずはないと頭では分かっていても、過去の絶望が残した小さな傷痕が、時折じくりと疼くのを止められなかった。
その時、静かな玄関の方から、低く落ち着いた声が届いた。
「フラン」
ハッとしてフランは顔を上げた。
「はい!」
弾むように玄関へ向かうと、ギーマが立っていた。
普段の着流し姿ではあるものの、髪や帯の結び目がいつもよりどこか綺麗に整えられており、その立ち姿の美しさにフランは思わず息を呑んで見とれてしまった。
「……どうかしたかい」
「い、いえ!ギーマさんが綺麗だなって……!」
勢いで口にしてから、フランは自分の発言のストレートさに気づき、耳まで一気に熱くなった。
「す、すみません!綺麗っていうか、かっこいいっていうか、その……!」
ギーマは目を細め、可笑しそうに口元を緩めた。
「きみにそう言われるのは悪くない」
「うう……」
「きみも、とても綺麗だよ」
畳みかけるような言葉に、今度こそフランは完全に沈黙した。
白いワンピースの上に薄手のカーディガンを羽織っただけの、ごく普通の外出着だ。
特別なドレスアップなど何もしていない。
それなのに、ギーマの瞳はまるで特別な宝物を見るかのような熱を帯びて自分を見つめてくる。だから余計に、恥ずかしくて顔が上げられなくなるのだ。
「ギーマさん、そういうことをさらっと言うの、ずるいです」
「勝負師だからね」
「それ、勝負師関係あります?」
「あるとも」
ギーマはフッと微笑み、滑らかな動作で自然に手を出した。
「では、行こうか」
フランは差し出された大きな手を、少しだけ見つめた。
かつて、自分の手からすり抜けて離れてしまった手。
必死で追いかけて、泣いて、怒って、泥臭くもう一度掴み直した手。
それが今は、彼の方から優しく差し出されている。
フランはその大きな掌に、そっと自分の手を重ねた。
「はい」
夜のアローラは、昼間の陽気な顔とはまるで違う表情を見せていた。
日中の燦々と降り注ぐ陽射しは影を潜め、漆黒の空には吸い込まれるような星々が散らばっている。頭上に浮かぶ月明かりが夜の海面に一本の真っ直ぐな光の道を作り出し、波打ち際へ寄せては返す静かな水音が、二人の足元へ届いていた。
エナとキキもとことこと二人の後ろについて歩いている。少し離れた砂浜では、レパルダスが気まぐれに夜風を味わうように散策していた。
「ここ、久しぶりですね」
波音に混じって、フランがぽつりと呟いた。
そこは、ギーマとアローラで奇跡の再会を果たした後、互いの距離を確かめ合うように何度も訪れた浜辺だった。
最初にここへ連れて来られた時、フランは海がもたらす記憶の重さに押し潰されそうになり、波の音を聞くだけで涙がこぼれそうだった。
けれど、ギーマが何も言わずにずっと隣で手を握っていてくれたから、少しずつ海を怖がらずにいられるようになったのだ。
いまやこの場所は、フランにとってもかけがえのない思い出の地となっていた。
悲しみの記憶の場所ではない。
もう一度、二人で新しい歩みを始めた場所として。
「フラン」
月光が照らす波打ち際で、ギーマがふと足を止めた。
繋いだ手に引っ張られるようにして、フランも隣で立ち止まる。
「はい」
「少し、昔の話をしてもいいかい」
フランの胸がドクンと小さく鳴った。
けれど、目線を逸らさず、逃げなかった。
「はい。聞きます」
ギーマは広大な海へ視線を向けたまま、ぽつり、ぽつりと、言葉のピースを確かめるように話し始めた。
「イッシュを出た時、わたしは自分が何もかも失ったと思っていた」
フランは余計な口を挟まず、静かに耳を傾けた。
「勝負に負けた。立場も、居場所も、自分の誇りも、すべて手元からこぼれ落ちたような気がした。あの時のわたしには、自分の手に残っているものが何ひとつ見えなかった」
ギーマの声には静かな響きがあった。
気取った風もなく、過去を美化することもない、あまりにも誠実で無防備な告白だった。
「だから、きみの手まで離した」
フランの指先が、ぴくりと跳ねるように震えた。
ギーマはその僅かな揺れを指先から感じ取ったのか、握っていた手に少しだけ力を込めた。
「それがきみを守ることだと、自分勝手に決めた。きみをわたしの敗北に巻き込まないためだと、自分に言い聞かせた」
「……ギーマさん」
「けれど、本当は違った」
ギーマがゆっくりと身体を巡らせ、フランの方を向いた。
青白い月明かりの下で、彼の瞳が静かに揺れている。
「わたしは、きみの強さを信じるのが怖かった」
フランは思わず息を呑んだ。
「きみが、落ちぶれたわたしを見てもなお隣に立つと言ってくれることが怖かった。そんなきみの覚悟を受け取ってしまえば、わたしはもう二度と、自分を敗北者だという言葉の陰に隠れられなくなるから」
「……」
「弱かったのは、わたしだ」
フランの瞳に、じわりと温かい涙が滲み始めている。
けれどそれは、悲しみや絶望で一人耐えていたあの頃の涙ではなかった。
彼の痛みに寄り添い、その言葉のすべてを胸で受け止めている証の涙だった。
「レンブにも言われたよ」
ギーマは少しだけ自嘲気味に苦笑した。
「きみを、隣へ立つ者として扱えと」
「あ……」
フランの脳裏に、レンブの姿が浮かんだ。厳格で、不器用で、けれど誰よりも真っ直ぐにギーマの背中を見続けていた武道家。
きっと彼は、ギーマに必要な激を飛ばしてくれたのだろう。
「彼は、きみに感謝すべきだと言ったわけではない。償えと言ったわけでもない」
ギーマは両手でフランの手を優しく包み込んだ。
「フランを幸せにしろ、と言った」
フランの目からこぼれ落ちた一粒の涙が、頬を伝って顎へと落ちていく。
「……レンブさんらしいです」
「ああ。本当に、彼らしい」
ギーマはそっと親指の腹を伸ばし、フランの頬の涙を拭った。
「だから、考えていた」
「何をですか?」
「きみを幸せにするとは、どういうことか」
波の音が、二人の間の静寂を優しく満たしていく。
ギーマは逃げ場のない眼差しで、まっすぐにフランを見つめていた。
「きみに甘い言葉を囁くことか。きみを守ることか。きみを泣かせないことか。毎朝おはようと言い、毎晩ただいまと言うことか」
フランは何も言えず、ただ彼の言葉を全身で受け止めていた。
ギーマの声が、さらに深く、低く紡がれる。
「そのどれも、きっと間違いではない。だが、それだけでは足りないと思った」
「足りない……?」
「ああ」
ギーマは着流しの懐へ手を差し入れ、そこから一つの小さな角型の箱を取り出した。
フランの心臓が、ドクンと暴れるように跳ね上がる。
その箱が何を意味しているのか、まだ蓋が開かれていないというのに、察してしまった。
けれど信じられない。信じた瞬間に、胸がいっぱいになって視界が涙で潰れてしまいそうだった。
「ギーマ、さん……?」
ギーマは箱を手に携えたまま、静かにフランの前で片膝をついた。
夜の砂浜に膝をつく動作など、かつて華やかな勝負師としてイッシュに名を轟かせていた男には不釣り合いなはずなのに、今の彼が見せるその所作は、恐ろしいほど美しく自然だった。
まるで今この瞬間だけは、勝者も敗者も、元四天王も落ちぶれた男も関係なく、ただ一人の男として、愛する女性の前に立っているのだと証明するかのように。
「フラン」
深く呼ばれた名前に、フランの目からポロポロと涙が溢れ出した。
「はい……」
「これは、昔の家に残っていたものではない。過去の名残でも、失った栄光の欠片でもない」
ギーマの指先が、ゆっくりと箱の蓋を開く。
月光を浴びて現れたのは、細身で極めて上品な造りの指輪だった。
繊細な銀色の指輪には、小さな白い花を思わせる繊細な彫刻が施されている。そしてその中央には、夜の海のように深い黒を湛えた石と、月明かりのように透き通る白い石が、互いに寄り添い合うように並んでいた。
派手な主張はない。けれど、ため息が出るほど美しい指輪だった。
「今のわたしが、今のきみへ贈りたくて用意したものだ」
言葉を吐き出すギーマの声が、わずかに震えているのがわかった。
いつも余裕に満ちた笑みを絶やさず、どんな極限状態でも勝負師としての仮面を崩さなかった人。
その人が今、こんなにも真剣に、指先すら震わせながら自分の前で言葉を紡いでいる。
「配られたカードを、わたしはこれまで何度も失った」
ギーマは静かに語り続ける。
「勝負にも負けた。誇りも折れた。きみに見せたくないほど無様な姿も晒した」
「……」
「それでも、きみはわたしの名前を呼んだ」
フランの唇が激しく震える。
あの日、冷たい資料室の前で叫んだ名前。
サザナミの別荘で、涙でぐしゃぐしゃになりながら呼び続けた名前。
アローラの海を越えて追いかけ、もう一度その胸に届けた名前。
「ギーマさん……」
「きみが名前を呼んでくれたから、わたしはもう一度、自分の席に戻ることができた」
ギーマは、開かれた箱をフランの胸元へと差し出した。
「フラン。わたしと結婚してほしい」
周囲の波の音が、一瞬で遠のいた。
世界からすべての雑音が消え去り、フランの耳にはギーマの声だけが響いていた。
「勝った日も、負けた日も、無様な日も、情けない日も、わたしはきみのところへ帰りたい」
傾いた月明かりが、ギーマの白の混ざった黒髪を淡く照らし出している。
「朝には、きみにおはようと言いたい。夜には、必ずおやすみと言いたい」
フランは込み上げる感情に耐えきれず、両手で口元を固く覆った。ポロポロと涙が留まることなく溢れ出てくる。
「きみが寂しいと言うなら抱きしめたい。怒るなら、逃げずに聞きたい。笑うなら、その隣にいたい」
ギーマの瞳が、一筋の迷いもなくフランを見つめていた。
「きみがわたしの名前を呼ぶ限り、生涯、必ず返事をする」
その言葉が引き金となり、フランの胸の奥で堰き止めていた感情がすべて決壊した。
悲しさから来る涙ではない。寂しさでもない。
ずっとずっと欲しくて堪らなかった約束が、今、目の前で差し出されているのだ。
「だから、フラン」
ギーマの瞳が、ほんのわずかだけ不安げに揺れた。
「わたしの妻に、なってくれるかい」
フランはすぐに「はい」と答えようとした。けれど、喉がぎゅっと詰まってしまい、声にならない。
何度も大きく頷こうとするのだが、ボロボロとこぼれる涙で視界が歪み、上手く言葉を作れなかった。
ギーマは催促することなく、静かに待ち続けてくれた。
焦らせることもなく、照れ隠しで笑い飛ばすこともせず、彼女の口から言葉が紡がれるその瞬間まで、ただ真剣な眼差しで待っている。
その誠実な佇まいを見て、フランはようやく掠れた声を絞り出した。
「……あたしで、いいんですか」
ギーマの美しい眉が、わずかに寄った。
「きみがいい」
「ギーマさんは、四天王で、かっこよくて、強くて、あたしなんかよりずっと……」
「フラン」
低く窘めるように名前を呼ばれ、フランは言葉を呑み込んだ。
ギーマは静かに首を横に振る。
「きみはもう、自分を小さく見積もらなくていい」
「……っ」
「あの日、きみはわたしを探しに来た。泣いて、怒って、それでも手を伸ばしてくれた。そんなきみを、わたしは誰よりも強いと思っている」
フランの目から、新たな涙の粒が零れ落ちる。
「わたしが欲しいのは、釣り合う相手ではない」
ギーマは一言一言を噛みしめるように言った。
「隣にいてほしい人だ」
「……ギーマさん」
「それが、きみだ」
その決定的な言葉に、フランはもう感情を抑えることができなかった。
しゃくりあげて泣きながら、それでも顔を上げて何度も何度も頷いた。
「はい……!」
声は震えて途切れがちだった。
けれど今度は、はっきりと彼の胸へ届いた。
「あたし、ギーマさんと結婚したいです……!」
ギーマの空色の瞳が、大きく揺れ動いた。
「ギーマさんの隣にいたいです。勝った日も、負けた日も、かっこいい日も、情けない日も、全部、隣で見ていたいです」
「フラン……」
「あたしも、ギーマさんにおはようって言いたいです。おやすみなさいって言いたいです。名前を呼んだら返事してほしいし、ギーマさんがあたしを呼んだら、あたしも絶対に返事します」
フランはぐしゃぐしゃになった顔のまま、心からの笑顔を咲かせた。
「あたしを、ギーマさんの妻にしてください」
ギーマは一瞬、息を呑んで固まったように見えた。
それから、フランがこれまで見たこともないほど、甘くやわらかな笑みを浮かべた。
「……ああ」
彼はフランの震える左手をそっと取り、その薬指へ、静かに指輪を滑らせた。
月光を浴びて、白い花と二つの石が指先で美しく輝きを放つ。
フランは己の薬指にしっかりと収まった指輪を見つめた。
夢のようで信じられない。けれど、ズシとした確かな冷たさと温もりがそこにあった。
ギーマがくれた、二人の未来の証明。
「綺麗……」
「よく似合っている」
ギーマはフランの手を両手で優しく包み込み、その甲へそっと唇を落とした。
いつものような、彼女をからかうための軽い仕草ではない。
神に捧げる誓いのように、深い祈りのように、丁寧で温かな口づけだった。
フランの涙がまた溢れ出す。
「ギーマさん……」
「愛しているよ、フラン」
真っ直ぐに紡がれたその告白に、フランは息を詰まらせた。
何度聞いても胸が跳ねる言葉。けれど今夜のそれは、いつも以上に深々と魂にまで届いていた。
「あたしも……愛してます」
フランがそう答えると、ギーマは静かに立ち上がり、そのまま彼女の身体を強い力で腕の中へ抱き寄せた。
夜の海の目の前で、二人はしばらく無言のまま抱き合っていた。
もう言葉など必要なかった。
フランはギーマの広い胸に顔を埋め、彼の力強い鼓動に耳を澄ませていた。
彼がちゃんとここにいる。
脈を打ち、生きている。
もう二度と離れていかない。
自分の名前を呼んでくれ、これから続く途方もない未来も隣にいると約束してくれた。
ただその事実だけで、心が満たされていく。
「……ギーマさん」
「なんだい」
「幸せです」
ギーマの抱きしめる腕に、少しだけ力がこもった。
「そうか」
「はい。すごく、幸せです」
「……それは困ったな」
「え?」
フランが首をかしげて顔を上げると、ギーマは少しだけ悪戯っぽい光を瞳に宿して細めていた。
「これ以上幸せにするつもりでいたのに、もうそんな顔をされたら、わたしの勝ち筋がなくなる」
「勝ち筋って……!」
フランは涙で濡れた顔のまま、思わず吹き出してしまった。
「こういう時まで勝負の話ですか?」
「わたしらしいだろう」
「そうですね」
フランは指輪が光る左手を、そっとギーマの胸元に当てた。
「でも、この勝負なら、あたしも降りません」
ギーマの眉が興味深げに跳ね上がる。
「ほう」
「あたしも、ギーマさんを幸せにします。だから、勝ち負けじゃなくて……二人でずっと続ける勝負です」
「終わらない勝負か」
「はい」
ギーマはしばらくフランの顔を見つめていたが、やがて満足そうに静かに笑った。
「悪くない」
「ふふ」
二人が微笑み合ったその時だった。
「わふんっ!」
静寂を破り、エナが二人の足元へ勢いよく飛び込んできた。
「わっ、エナ!」
エナはフランの左手に光る指輪の存在に気づいたのか、興味津々で鼻先をクンクンと近づけてくる。
すると横からキキがすかさず割り込み、前脚でエナの顔をペシッと押し退けた。
少し離れた岩の上では、レパルダスが呆れたように尾をゆったりと振っている。
「エナ、だめ!これは食べ物じゃないよ!」
「わんっ!」
「ギーマさんからも言ってください!」
「エナ」
ギーマがいつになく真面目なトーンで呼びかけると、エナはピタリと動きを止めた。
「これはフランの大事なものだ。守ってやってくれ」
エナは一瞬だけきょとんとした顔を見せたが、意味を理解したのか、誇らしげに胸を張って吠えた。
「わうんっ!」
フランは思わず口元を緩めた。
「頼もしいね、エナ」
キキはそれが当然だと言わんばかりにフランの足元に体をすり寄せ、レパルダスもまた、優雅な足取りでギーマの隣へと戻ってきた。
ギーマはその愛くるしい光景を見つめながら、しみじみと呟いた。
「賑やかな家族になるな」
——家族。
その温かな響きに、フランの胸が再び熱く満たされていく。
「……はい」
フランはギーマの着流しの袖を、ぎゅっと指先で掴んだ。
「ギーマさんと、家族になれるんですね」
「ああ」
ギーマはフランの頭に手を置き、愛おしそうに撫でた。
「きみが望んでくれるなら」
「望んでます。ずっと」
「ずっと?」
「ずっとです」
フランは照れくさそうに目線を下に落とした。
「ギーマさんと一緒に朝を迎えたり、同じ家に帰ったり、そういうの……夢みたいだなって思ってました」
「今は?」
「夢じゃないです」
フラン左手の指輪を見つめ直した。
「ちゃんと、現実です」
ギーマは何か込み上げる感情を耐えるように、すっと目を伏せた。
その表情の微かな変化を見て、フランはそっと手を伸ばし、今度は自分からギーマの温かい頬に触れた。
「ギーマさん」
「……なんだい」
「もう、自分だけが幸せになっちゃいけないなんて思わないでくださいね」
ギーマはすぐには答えず、ただ彼女の手のひらに頬を寄せる。
フランは言葉を紡ぎ続けた。
「あたし、ギーマさんを幸せにしたいです。でも、ギーマさんが自分で幸せになることを許してくれないと、あたしだけじゃ届かないから」
月明かりに照らされた夜浜で、フランはまっすぐに彼を見つめた。
「あたしの隣で、ちゃんと幸せになってください」
ギーマの瞳が、微かに揺れた。
やがて彼は、フランの頬にある手に己の手をゆっくりと重ね合わせた。
「ああ」
返ってきた言葉は、拍子抜けするほど短いものだった。
けれど、フランにはそれで十分すぎるほど伝わっていた。
「約束する」
ギーマは噛みしめるように、静かに言った。
「わたしは、きみの隣で幸せになる」
その言葉を聞いた瞬間、フランの目からまたポロポロと涙が溢れ出してしまう。
ギーマは参ったというように困った顔で笑いながら、彼女の身体をもう一度抱きしめた。
「今日はよく泣くね」
「ギーマさんのせいです……」
「なら、責任を取らなければ」
「もう取ってます」
フランは指輪を見せるように左手を少し持ち上げて見せた。
ギーマはそれを見て、満足げに目を細める。
「そうだった」
家への帰り道、フランはずっとギーマの手を握りしめていた。
指輪の金属が夜風に冷やされ、けれど握り合うギーマの手の体温で少しずつ温められていく。
その確かな感覚が愛おしくてたまらず、フランは何度も指先の感触を確かめるように動かしていた。
「気になるかい」
「気になります……だって、指輪が……」
「外すかい?」
「絶対に外しません!」
喰ってかかるような勢いで即答したフランに、ギーマは小さく肩を揺らして笑った。
「安心した」
「ギーマさん、からかいましたね?」
「少しだけ」
「もう……!」
フランはぷくっと頬を膨らませたが、すぐに幸福感に耐えかねて笑い出してしまった。
***
家に戻ってくると、閉めて出たはずの客間の明かりが明るく灯っていた。
「あれ?」
フランが首をかしげる。
「消して出たはずなのに……」
疑問を抱きながら扉を開けた瞬間。
『フランさん!!』
『おめでとう、フラン』
『うむ』
「わああっ?!」
驚きに跳ね上がるフランの視線の先には、シキミとカトレア、そしてレンブの姿があった。
正確には、テーブルの上に置かれた端末の通信画面の向こう側に、だ。
イッシュへ戻ったはずの三人が、画面越しに揃い踏みしていたのである。
シキミはすでに感極まった様子で目を潤ませており、カトレアはソファーに腰かけて優雅に微笑み、レンブは胸の前で腕を組んで重々しく頷いていた。
フランは顔をマトマの実のように真っ赤にして、隣のギーマを振り返った。
「ギーマさん?!」
「報告は必要だろう」
「い、いつから準備してたんですか?!」
「さて」
「さてじゃないです!」
画面の向こうでシキミが乗り出すようにカメラへ顔を近づける。
「フランさん!指輪!指輪を見せてください!」
「えっ、あの、その……!」
フランが急な展開にオドオドと戸惑っていると、カトレアが優美にティーカップを置きながら静かに言った。
「見せなさい。アタクシたちには見る権利があるわ」
「権利……?」
「アナタがあれだけ泣いたところを見ているもの」
その言葉に、フランの胸がキュッと詰まった。
サザナミの別荘での日々。フランが泣くためだけに開かれたお茶会。「彼に会いたい」と涙で声を詰まらせて訴えたあの辛い日々。
あの時、彼女たちは友達としてフランの側に寄り添ってくれていたのだ。
そして今、こうしてどん底を乗り越えて幸せを掴んだ姿を、誰よりも見届けようとしてくれている。
フランはそっと左手を持ち上げ、画面のカメラへ向けた。
月光とは違う室内の明かりを受け、白い花と二つの石が誇らしげに輝く。
シキミが画面の向こうで「きゃあっ!」と声にならない悲鳴を上げた。
「綺麗です……!フランさんにぴったりです!」
「ええ。悪くないわ」
カトレアは素っ気なくそう口にしたが、その目元はどこまでもやわらかく緩んでいた。
レンブは画面越しに、じっとギーマを見つめた。
「ギーマ」
「なんだい」
「逃げなかったな」
「きみにあれだけ言われた後で逃げれば、今度こそ叩き伏せられそうだからね」
「分かっているならよい」
レンブは真剣な顔つきのまま、力強く頷いた。
「フランを幸せにしろ」
ギーマはいつものように茶化したりしなかった。
真っ直ぐにレンブの瞳を見返し、低く静かに答える。
「ああ。必ず」
「そして、お前も幸せになれ」
その一言に、ギーマの表情がわずかに和らいだ。
「それも、約束したところだ」
レンブは深く満足したように頷いた。
シキミはもう感情を抑えきれなくなったのか、画面の向こうで目頭にハンカチを押し当てている。
「フランさん、本当に、本当におめでとうございます……!」
「シキミさん……ありがとうございます」
「アタシ、今日のことは原稿には書きません!でも、一生覚えています!」
「はい」
フランの目にも、再び温かな涙が浮かんだ。
「覚えていてくれたら、嬉しいです」
カトレアは画面越しに、静かにフランの瞳を見つめた。
「フラン」
「はい」
「幸せ?」
フランが一瞬言葉に詰まる。
けれど、もう以前のように「大丈夫です」と無理な笑顔で誤魔化す必要はどこにもなかった。胸を張り、心からの言葉を言える。
「はい」
フランは指輪のはまった左手を胸元にぎゅっと寄せた。
「あたし、幸せです」
カトレアの美しい瞳が、一瞬だけ揺れて潤んだように見えた。
けれど彼女はすぐに視線を逸らし、いつもの尊大な態度の裏に優しさを隠した表情へ戻る。
「そう」
「はい」
「なら、いいわ」
その短い一言に、どれほど深い安堵と祝福が込められているか、フランにはよく分かっていた。
ギーマが横からフランの肩をそっと抱き寄せると、カトレアの視線が即座に険しくなった。
「ギーマ」
「なんだい」
「泣かせた分、幸せにしなさい」
「心得ている」
「もしまた勝手に自己完結して、この子を置いていくような真似をしたら」
「しないよ」
ギーマは静かに言葉を遮った。
その声には、かつての彼につきまとっていた逃げ道や諦観は一切存在しなかった。
「もう二度と、フランの手を離さない」
フランは息を呑み、胸を熱くした。
画面の向こうでシキミが再び感極まって泣き出し、レンブは深く頷いている。
カトレアはしばらくギーマの顔をじっと見つめていたが、やがてフッと溜息を吐き出した。
「……少しだけ、許してあげる」
「まだ少しだけかい」
「当然でしょう」
カトレアはすました顔でティーカップを持ち上げた。
「この先ずっとかけて、評価を上げなさい」
ギーマは苦笑交じりに首を振った。
「長い勝負になりそうだ」
「降りるの?」
「まさか」
ギーマは隣のフランを見つめた。
「一生降りる気はないよ」
フランはその言葉を聞いて、心から嬉しそうに笑った。
***
通信が切れ、画面が暗くなると、家の中は再び静寂に包まれた。
エナは一連の騒ぎに疲れたのか床の上で丸くなって寝息を立てており、キキはフランの足元にぴったりと寄り添っている。レパルダスはギーマの膝の上に前脚を乗せ、満足そうに目を細めていた。
フランはソファに深く腰掛け、何度も何度も自分の左手を持ち上げては見つめていた。
ギーマは隣でその微笑ましい様子を眺めている。
「そんなに見つめられると、指輪も照れるだろうね」
「照れるのはあたしです……」
「なら、見なければいい」
「見たいんです」
食い気味に即答すると、ギーマは楽しそうにまた笑った。
フランは指輪の輝きを見つめながら、ふと思いついたように顔を上げた。
「あの、ギーマさん」
「なんだい」
「結婚したら……呼び方って、変えた方がいいんでしょうか」
ギーマが少し意外そうにパチパチと目を瞬かせた。
「呼び方?」
「その……夫婦になるなら、ギーマさんのこと、名前で呼び捨てにした方がいいのかなって……」
口にしながら、自分の発言の気恥ずかしさにフランの顔はみるみる赤くなっていった。
数秒後、彼女は想像しただけで耐え切れなくなったのか、両手で顔を覆って突っ伏した。
「む、無理〜!!やっぱりギーマさんを呼び捨てになんてできない……!し、心臓が保たない……!!」
ギーマは一瞬ポカンとした後、肩を揺らして笑った。
「そこまで動揺するとはね」
「笑わないでください!」
「いや、すまない。あまりにきみらしくて」
「もう……!」
ギーマはフランの手を優しく取り、顔からそっと外させた。
「フラン」
「はい……」
「きみの好きなように呼べばいい」
「いいんですか?」
「ああ。ギーマさんでも、ギーマでも、きみが呼んでくれるなら何でもいい」
彼は少しだけ目を細め、甘い声で付け加える。
「ただし、呼ばれたら必ず返事をする」
フランの胸が、またぎゅっと熱く締め付けられた。
「……じゃあ、ギーマさんのままで」
「分かった」
「でも、いつか……呼べるようになったら、その時は」
「その時は?」
フランは真っ赤になった顔を伏せながら、消え入りそうな小さな声で言った。
「一回だけ、呼んでみます」
ギーマは心底愉快そうに微笑んだ。
「楽しみにしているよ」
「期待しないでください……」
「期待して待つさ」
「ギーマさん!」
からかわれていると分かっていても、嫌な気持ちは一切なかった。
むしろ、こんな他愛もない会話を交わせる日常が、たまらなく愛おしく幸福だった。
フランは少しだけ身体を傾け、ギーマの肩に頭を預けた。
ギーマは自然な動作で腕を回し、彼女の肩を心地よい強さで抱き寄せる。
「フラン」
「はい」
「今日は、ありがとう」
「それはあたしの台詞です」
「いや」
ギーマは静かに首を横に振った。
「わたしの差し出した未来を、受け取ってくれてありがとう」
フランはギーマの胸元に額をすり寄せた。
「受け取りたかったんです」
「……そうか」
「あたし、ギーマさんの隣にいられる未来が欲しかったから」
ギーマは答える代わりに、フランの柔らかい髪へそっと唇を押し当てた。
その愛おしむような仕草があまりにも優しく、フランは気持ちよさそうに目を閉じる。
「これから、忙しくなりますね」
「式の準備かい?」
「はい。イッシュのみなさんにも報告しないといけないですし、クチナシさんにも伝えたいです」
「彼には、少しからかわれそうだ」
「ふふ、きっと呆れながら聞いてくれますよ」
「そうだろうね」
「あと、シキミさんは泣きそうです」
「すでに泣いていたが」
「カトレアさんは、たぶんすごく綺麗なドレスを選んでくれそうです」
「きみに似合うものを選ぶだろうね」
「レンブさんは……」
フランは少しだけ首をかしげて考えた。
「すごく真面目な顔で、おめでとうって言ってくれそうです」
「そして、わたしにはまた釘を刺す」
「それは……刺されてください」
「きみまで」
ギーマが参ったというように苦笑する。
フランはくすくすと楽しそうに笑いながら、彼の手をしっかりと握りしめた。
「だって、みんな心配してくれているんです。ギーマさんのことも、あたしのことも」
「分かっている」
ギーマは温かな眼差しで言った。
「ありがたいことだね」
その深い声を聞いて、フランはまた胸が熱くなった。
以前のギーマなら、こうした他者からの情や温もりに素直に感謝を口にすることは少なかった。
今でも口数は決して多くはない。
けれど、大切なことから目を背けず、言葉にして伝えてくれるようになった。
その変化が、たまらなく嬉しかった。
「ギーマさん」
「なんだい」
「幸せになりましょうね」
ギーマは抱きかかえたフランを見下ろした。
その瞳には、かつて彼を苛んでいた敗北の暗い影は完全に消え去っていた。傷痕はある。背負った過去も消えはしない。
けれど、その奥底には確かに、未来を見つめる強い光が宿っていた。
「ああ」
ギーマはフランの左手を持ち上げ、指輪の嵌まった指先を包み込んだ。
「共に」
夜更けのアローラの家に、遠い波の音がどこまでも静かに響いていた。
かつて、海はふたりを遠く引き裂いた。
けれど今は、同じ海がふたりの新しい誓いを静かに見守っている。
フランはギーマの体温を感じながら、ゆっくりと目を閉じた。
もう、名前を呼んでも返事の返ってこない寂しい朝を恐れる必要はない。
もう、一人で「大丈夫」と強がって笑う必要もない。
いくつもの悲しみを乗り越え、奇跡のような再会を経て、いま物語は新しい未来のページへと進んでいく。
二人で選んだ、終わらない勝負。
その始まりを告げる夜、フランの左手には、月明かりを映した小さな指輪がどこまでも静かに輝き続けていた。
嵐のような賑やかさが去った家には、いつもの静けさと穏やかな朝の空気が戻っている。
木枠の窓から差し込む朝陽はどこまでもやわらかく、遠い海から吹き抜けてくる風は、かすかに潮の湿り気を含んでいた。
台所ではフランがトントンと軽快な包丁の音を響かせ、朝食の支度に追われている。その足元にはエナが床に座り込み、今か今かと期待に満ちた瞳を輝かせながら、パタパタと勢いよく尻尾を振っていた。そのすぐ横ではキキが体の丸みを崩さず静かに丸くなっており、窓辺の一番日当たりのいい特等席には、レパルダスが自分の領域だと言わんばかりの澄ました顔で横たわっている。
「エナ、ごはんは皆揃ってから食べるよ。まだ我慢して」
大皿に盛りつけられた出来立ての卵料理へ、辛抱たまらず鼻先を近づけようとしたエナを、フランは慌てて手で制した。
制止されたエナは、わかりやすくしょんぼりと耳を伏せて小さく唸ったが、その直後、横からすっと伸びてきた白い手が、こんがりと焼けたきのみをひとつ、鼻先へ差し出した。
「これくらいなら構わないだろう」
「ギーマさん!」
不意の声にフランが振り返ると、そこにはいつの間にか台所の入口の柱に寄りかかっていたギーマの姿があった。
いつもの着流しを緩やかに纏い、どこか楽しげに細められた彼の瞳がフランを映している。
「またエナを甘やかして……」
「きみに叱られるのも、悪くないからね」
「そういう問題じゃないです!」
フランが頬を膨らませて抗議すると、ギーマは喉を鳴らすように小さく笑った。
その微笑みがあまりにも穏やかで暖かく、フランは言葉を呑み込んでしまう。
アローラの地で二人で暮らし始めてからというもの、ギーマは以前よりずっとよく笑うようになっていた。
もちろん、周囲の誰もが気づくほど派手に表情を崩すわけではない。けれど、一緒に過ごすフランには手に取るようにわかった。
朝、お茶を淹れている時。エナに袖口を引っ張られて困ったように首を傾げる時。レパルダスがしなやかに膝の上へと乗ってきた時。キキが無言でそっと足元にすり寄ってきた時。
そして何より——フランが彼の名前を呼んだ時。
ギーマは以前よりもずっと自然に、まるで長い間凍りついていた心がゆっくりと体温を取り戻していくように、やわらかな表情を浮かべるようになったのだ。
その姿を目にするたびに、フランの胸の奥が暖かくなる。
それと同時に、胸の深いところが締め付けられ、少しだけ涙がこぼれそうにもなるのだった。
かつて、冷たい空気が漂うイッシュリーグの資料室の前で、いくら声を張り上げて名前を呼んでも、扉の向こうからの返事はなかった。
どれほど手を伸ばしても届かず、ただすれ違っていくばかりだった過去。
けれど、今は違う。
「ギーマさん」
ふと溢れ出た思いのままに名前を呼ぶと。
「なんだい、フラン」
間髪を入れず、あの低く落ち着いた声が必ず返ってくる。
ただそれだけのことが、フランの心を何度となく救い、今の日常を支えていた。
***
温かな朝食の時間を終え、フランが食器を洗っている間、ギーマはテーブルの端で一枚のコインを指先に走らせていた。
それは彼が昔から、イッシュリーグの控室や勝負の合間によく見せていた癖だった。
親指の腹で弾かれたコインが空中でくるりと弧を描き、落ちてくるそれを滑らかな指先で寸分の狂いもなく受け止める。
けれど、今日のギーマの手元は、どこか集中を欠いて上の空だった。
「ギーマさん?」
水音を止めてフランが声をかけた瞬間、コインが彼の指先からかすかに滑り落ちそうになった。ギーマは瞬時に掌を返して受け止めたものの、そのわずかな指の動きの乱れを、ずっと彼を見続けてきたフランが見逃すはずもなかった。
「珍しいですね」
「何がだい?」
「ギーマさんが、コインを落としそうになるなんて」
「……そう見えたかい」
「はい。何か考え事ですか?」
フランが心配そうに顔を覗き込むと、ギーマは少しだけ困ったように眉を下げ、視線を下に落とした。
そのわずかな逡巡の仕草に、フランの胸がきゅっと鳴る。
ギーマがこういう影のある顔をする時は、たいてい何か重大な思いを一人で抱え込み、胸の奥に仕舞い込もうとしている時だった。
昔のフランであれば、そこで一歩踏み込むことができなかっただろう。
自分が踏み込んで邪魔にならないだろうか、身の程知らずな迷惑になるのではないかと躊躇い、結局は何も言えないまま、無理に明るく笑って誤魔化していたはずだ。
けれど、幾多の苦しみを経て彼の隣に立つと決めた今は違う。
「ギーマさん」
フランはいつもより少しだけトーンを落とし、真剣な声を紡いだ。
「一人で考え込んでいるなら、あたしにも話してくださいね」
静寂の中、ギーマの空色の瞳が、吸い寄せられるようにフランの姿を映し出した。
その瞳の奥深くに、一瞬だけ弾けたような驚きの色が浮かぶ。
そして次の瞬間、深く愛おしむようなやわらかさへと変わっていった。
「……きみは強くなったね」
「ギーマさんを支えるって決めましたから」
フランは少しだけ胸を張り、まっすぐに彼を見つめ返した。
「頼もしいな」
「頼もしいなら、ちゃんと頼ってください」
「そうだね」
ギーマは指先で弄んでいたコインをキュッと手の中に収め、深く、少しだけ長い息を吐き出した。
「では、ひとつ頼みがある」
「はい」
「今夜、わたしに時間をくれるかい」
「今夜、ですか?」
思わぬ提案に、フランはパチパチと瞬きをした。
「どこか行くんですか?」
「少し、海を見に」
「海……」
返答したフランの声が、わずかに震えて揺れた。
ギーマがイッシュから姿を消したあの忌まわしい事件以来、海という場所はフランにとって、あまりにも複雑で、感情を掻き乱される場所となっていた。
アローラの青い海は、奇跡的に彼と再会を果たせた愛おしい場所でもある。
けれど同時に、海は容赦なくギーマを奪い去り、見知らぬ場所に一人で漂着させた恐ろしい存在でもあったのだ。
海は、大切なものを奪うものでもあり、奇跡のように返してくれるものでもある。
だから今でも波の音を聞くと、胸の奥が締め付けられるような恐怖と切なさに襲われることがあった。
そんなフランの瞳の奥に走った小さな動揺を、ギーマは見逃さなかった。
彼は静かに椅子から立ち上がると、長い足でフランの前まで歩み寄ってきた。
「無理にとは言わない」
「い、行きます!」
怯えを見透かされたくなくて、フランは慌てて顔を上げた。
「ギーマさんと一緒なら、行けます」
迷いのない強い瞳でそう言い切ると、ギーマはほんの少しだけ目を見開いた。
それから、降参したように困った顔で微笑む。
「……そういうところだよ、フラン」
「え?」
「いや」
ギーマは伸ばした手で、フランの柔らかい髪にそっと触れた。
長い指先が、まるで壊れ物を扱うかのように優しく毛先を梳いていく。
「今夜は、よろしく頼むよ」
「はい」
フランはしっかりと頷いた。
その胸の深いところで、あたたかくも静かな予感が、小さく灯っていた。
***
その日の夕方、フランはどうしても気持ちが落ち着かなかった。
夕食の準備を進めようと台所に立っても、なぜか指先がふわふわと浮ついているようだった。エナのごはんを用意している最中に別の皿を出してしまったり、キキに脚を突かれているのに、レパルダスの方を向いてしまったりしていた。
「……あたし、変かな」
ぽつりと零した独り言に、足元のキキが静かに尾を振って応えた。その澄んだ瞳は、どこか呆れたようにフランを見上げている。
一方のエナは何も分かっていない様子で、ただ楽しそうにフランの周りをクルクルと回り続けていた。
「エナは楽しそうだね」
「わふん!」
「ギーマさんとお出かけだから?」
「わふ!」
「ふふ。そうだよね。あたしも楽しみ」
言葉にしながらも、フランは胸元をぎゅっと手で押さえた。
楽しみなのは嘘ではない。
でも、それ以上に胸を占めているのは、正体のわからない緊張感だった。
ギーマが何か大きなことを考えているのはわかる。
それが決して悪いことではないはずだとも信じている。
けれど、彼があんな風に静かで深い目をしていると、フランの心の奥底に眠るトラウマが疼いてしまうのだ。
——また、どこか遠い場所へ行ってしまう準備をしているのではないか。
そんなはずはないと頭では分かっていても、過去の絶望が残した小さな傷痕が、時折じくりと疼くのを止められなかった。
その時、静かな玄関の方から、低く落ち着いた声が届いた。
「フラン」
ハッとしてフランは顔を上げた。
「はい!」
弾むように玄関へ向かうと、ギーマが立っていた。
普段の着流し姿ではあるものの、髪や帯の結び目がいつもよりどこか綺麗に整えられており、その立ち姿の美しさにフランは思わず息を呑んで見とれてしまった。
「……どうかしたかい」
「い、いえ!ギーマさんが綺麗だなって……!」
勢いで口にしてから、フランは自分の発言のストレートさに気づき、耳まで一気に熱くなった。
「す、すみません!綺麗っていうか、かっこいいっていうか、その……!」
ギーマは目を細め、可笑しそうに口元を緩めた。
「きみにそう言われるのは悪くない」
「うう……」
「きみも、とても綺麗だよ」
畳みかけるような言葉に、今度こそフランは完全に沈黙した。
白いワンピースの上に薄手のカーディガンを羽織っただけの、ごく普通の外出着だ。
特別なドレスアップなど何もしていない。
それなのに、ギーマの瞳はまるで特別な宝物を見るかのような熱を帯びて自分を見つめてくる。だから余計に、恥ずかしくて顔が上げられなくなるのだ。
「ギーマさん、そういうことをさらっと言うの、ずるいです」
「勝負師だからね」
「それ、勝負師関係あります?」
「あるとも」
ギーマはフッと微笑み、滑らかな動作で自然に手を出した。
「では、行こうか」
フランは差し出された大きな手を、少しだけ見つめた。
かつて、自分の手からすり抜けて離れてしまった手。
必死で追いかけて、泣いて、怒って、泥臭くもう一度掴み直した手。
それが今は、彼の方から優しく差し出されている。
フランはその大きな掌に、そっと自分の手を重ねた。
「はい」
夜のアローラは、昼間の陽気な顔とはまるで違う表情を見せていた。
日中の燦々と降り注ぐ陽射しは影を潜め、漆黒の空には吸い込まれるような星々が散らばっている。頭上に浮かぶ月明かりが夜の海面に一本の真っ直ぐな光の道を作り出し、波打ち際へ寄せては返す静かな水音が、二人の足元へ届いていた。
エナとキキもとことこと二人の後ろについて歩いている。少し離れた砂浜では、レパルダスが気まぐれに夜風を味わうように散策していた。
「ここ、久しぶりですね」
波音に混じって、フランがぽつりと呟いた。
そこは、ギーマとアローラで奇跡の再会を果たした後、互いの距離を確かめ合うように何度も訪れた浜辺だった。
最初にここへ連れて来られた時、フランは海がもたらす記憶の重さに押し潰されそうになり、波の音を聞くだけで涙がこぼれそうだった。
けれど、ギーマが何も言わずにずっと隣で手を握っていてくれたから、少しずつ海を怖がらずにいられるようになったのだ。
いまやこの場所は、フランにとってもかけがえのない思い出の地となっていた。
悲しみの記憶の場所ではない。
もう一度、二人で新しい歩みを始めた場所として。
「フラン」
月光が照らす波打ち際で、ギーマがふと足を止めた。
繋いだ手に引っ張られるようにして、フランも隣で立ち止まる。
「はい」
「少し、昔の話をしてもいいかい」
フランの胸がドクンと小さく鳴った。
けれど、目線を逸らさず、逃げなかった。
「はい。聞きます」
ギーマは広大な海へ視線を向けたまま、ぽつり、ぽつりと、言葉のピースを確かめるように話し始めた。
「イッシュを出た時、わたしは自分が何もかも失ったと思っていた」
フランは余計な口を挟まず、静かに耳を傾けた。
「勝負に負けた。立場も、居場所も、自分の誇りも、すべて手元からこぼれ落ちたような気がした。あの時のわたしには、自分の手に残っているものが何ひとつ見えなかった」
ギーマの声には静かな響きがあった。
気取った風もなく、過去を美化することもない、あまりにも誠実で無防備な告白だった。
「だから、きみの手まで離した」
フランの指先が、ぴくりと跳ねるように震えた。
ギーマはその僅かな揺れを指先から感じ取ったのか、握っていた手に少しだけ力を込めた。
「それがきみを守ることだと、自分勝手に決めた。きみをわたしの敗北に巻き込まないためだと、自分に言い聞かせた」
「……ギーマさん」
「けれど、本当は違った」
ギーマがゆっくりと身体を巡らせ、フランの方を向いた。
青白い月明かりの下で、彼の瞳が静かに揺れている。
「わたしは、きみの強さを信じるのが怖かった」
フランは思わず息を呑んだ。
「きみが、落ちぶれたわたしを見てもなお隣に立つと言ってくれることが怖かった。そんなきみの覚悟を受け取ってしまえば、わたしはもう二度と、自分を敗北者だという言葉の陰に隠れられなくなるから」
「……」
「弱かったのは、わたしだ」
フランの瞳に、じわりと温かい涙が滲み始めている。
けれどそれは、悲しみや絶望で一人耐えていたあの頃の涙ではなかった。
彼の痛みに寄り添い、その言葉のすべてを胸で受け止めている証の涙だった。
「レンブにも言われたよ」
ギーマは少しだけ自嘲気味に苦笑した。
「きみを、隣へ立つ者として扱えと」
「あ……」
フランの脳裏に、レンブの姿が浮かんだ。厳格で、不器用で、けれど誰よりも真っ直ぐにギーマの背中を見続けていた武道家。
きっと彼は、ギーマに必要な激を飛ばしてくれたのだろう。
「彼は、きみに感謝すべきだと言ったわけではない。償えと言ったわけでもない」
ギーマは両手でフランの手を優しく包み込んだ。
「フランを幸せにしろ、と言った」
フランの目からこぼれ落ちた一粒の涙が、頬を伝って顎へと落ちていく。
「……レンブさんらしいです」
「ああ。本当に、彼らしい」
ギーマはそっと親指の腹を伸ばし、フランの頬の涙を拭った。
「だから、考えていた」
「何をですか?」
「きみを幸せにするとは、どういうことか」
波の音が、二人の間の静寂を優しく満たしていく。
ギーマは逃げ場のない眼差しで、まっすぐにフランを見つめていた。
「きみに甘い言葉を囁くことか。きみを守ることか。きみを泣かせないことか。毎朝おはようと言い、毎晩ただいまと言うことか」
フランは何も言えず、ただ彼の言葉を全身で受け止めていた。
ギーマの声が、さらに深く、低く紡がれる。
「そのどれも、きっと間違いではない。だが、それだけでは足りないと思った」
「足りない……?」
「ああ」
ギーマは着流しの懐へ手を差し入れ、そこから一つの小さな角型の箱を取り出した。
フランの心臓が、ドクンと暴れるように跳ね上がる。
その箱が何を意味しているのか、まだ蓋が開かれていないというのに、察してしまった。
けれど信じられない。信じた瞬間に、胸がいっぱいになって視界が涙で潰れてしまいそうだった。
「ギーマ、さん……?」
ギーマは箱を手に携えたまま、静かにフランの前で片膝をついた。
夜の砂浜に膝をつく動作など、かつて華やかな勝負師としてイッシュに名を轟かせていた男には不釣り合いなはずなのに、今の彼が見せるその所作は、恐ろしいほど美しく自然だった。
まるで今この瞬間だけは、勝者も敗者も、元四天王も落ちぶれた男も関係なく、ただ一人の男として、愛する女性の前に立っているのだと証明するかのように。
「フラン」
深く呼ばれた名前に、フランの目からポロポロと涙が溢れ出した。
「はい……」
「これは、昔の家に残っていたものではない。過去の名残でも、失った栄光の欠片でもない」
ギーマの指先が、ゆっくりと箱の蓋を開く。
月光を浴びて現れたのは、細身で極めて上品な造りの指輪だった。
繊細な銀色の指輪には、小さな白い花を思わせる繊細な彫刻が施されている。そしてその中央には、夜の海のように深い黒を湛えた石と、月明かりのように透き通る白い石が、互いに寄り添い合うように並んでいた。
派手な主張はない。けれど、ため息が出るほど美しい指輪だった。
「今のわたしが、今のきみへ贈りたくて用意したものだ」
言葉を吐き出すギーマの声が、わずかに震えているのがわかった。
いつも余裕に満ちた笑みを絶やさず、どんな極限状態でも勝負師としての仮面を崩さなかった人。
その人が今、こんなにも真剣に、指先すら震わせながら自分の前で言葉を紡いでいる。
「配られたカードを、わたしはこれまで何度も失った」
ギーマは静かに語り続ける。
「勝負にも負けた。誇りも折れた。きみに見せたくないほど無様な姿も晒した」
「……」
「それでも、きみはわたしの名前を呼んだ」
フランの唇が激しく震える。
あの日、冷たい資料室の前で叫んだ名前。
サザナミの別荘で、涙でぐしゃぐしゃになりながら呼び続けた名前。
アローラの海を越えて追いかけ、もう一度その胸に届けた名前。
「ギーマさん……」
「きみが名前を呼んでくれたから、わたしはもう一度、自分の席に戻ることができた」
ギーマは、開かれた箱をフランの胸元へと差し出した。
「フラン。わたしと結婚してほしい」
周囲の波の音が、一瞬で遠のいた。
世界からすべての雑音が消え去り、フランの耳にはギーマの声だけが響いていた。
「勝った日も、負けた日も、無様な日も、情けない日も、わたしはきみのところへ帰りたい」
傾いた月明かりが、ギーマの白の混ざった黒髪を淡く照らし出している。
「朝には、きみにおはようと言いたい。夜には、必ずおやすみと言いたい」
フランは込み上げる感情に耐えきれず、両手で口元を固く覆った。ポロポロと涙が留まることなく溢れ出てくる。
「きみが寂しいと言うなら抱きしめたい。怒るなら、逃げずに聞きたい。笑うなら、その隣にいたい」
ギーマの瞳が、一筋の迷いもなくフランを見つめていた。
「きみがわたしの名前を呼ぶ限り、生涯、必ず返事をする」
その言葉が引き金となり、フランの胸の奥で堰き止めていた感情がすべて決壊した。
悲しさから来る涙ではない。寂しさでもない。
ずっとずっと欲しくて堪らなかった約束が、今、目の前で差し出されているのだ。
「だから、フラン」
ギーマの瞳が、ほんのわずかだけ不安げに揺れた。
「わたしの妻に、なってくれるかい」
フランはすぐに「はい」と答えようとした。けれど、喉がぎゅっと詰まってしまい、声にならない。
何度も大きく頷こうとするのだが、ボロボロとこぼれる涙で視界が歪み、上手く言葉を作れなかった。
ギーマは催促することなく、静かに待ち続けてくれた。
焦らせることもなく、照れ隠しで笑い飛ばすこともせず、彼女の口から言葉が紡がれるその瞬間まで、ただ真剣な眼差しで待っている。
その誠実な佇まいを見て、フランはようやく掠れた声を絞り出した。
「……あたしで、いいんですか」
ギーマの美しい眉が、わずかに寄った。
「きみがいい」
「ギーマさんは、四天王で、かっこよくて、強くて、あたしなんかよりずっと……」
「フラン」
低く窘めるように名前を呼ばれ、フランは言葉を呑み込んだ。
ギーマは静かに首を横に振る。
「きみはもう、自分を小さく見積もらなくていい」
「……っ」
「あの日、きみはわたしを探しに来た。泣いて、怒って、それでも手を伸ばしてくれた。そんなきみを、わたしは誰よりも強いと思っている」
フランの目から、新たな涙の粒が零れ落ちる。
「わたしが欲しいのは、釣り合う相手ではない」
ギーマは一言一言を噛みしめるように言った。
「隣にいてほしい人だ」
「……ギーマさん」
「それが、きみだ」
その決定的な言葉に、フランはもう感情を抑えることができなかった。
しゃくりあげて泣きながら、それでも顔を上げて何度も何度も頷いた。
「はい……!」
声は震えて途切れがちだった。
けれど今度は、はっきりと彼の胸へ届いた。
「あたし、ギーマさんと結婚したいです……!」
ギーマの空色の瞳が、大きく揺れ動いた。
「ギーマさんの隣にいたいです。勝った日も、負けた日も、かっこいい日も、情けない日も、全部、隣で見ていたいです」
「フラン……」
「あたしも、ギーマさんにおはようって言いたいです。おやすみなさいって言いたいです。名前を呼んだら返事してほしいし、ギーマさんがあたしを呼んだら、あたしも絶対に返事します」
フランはぐしゃぐしゃになった顔のまま、心からの笑顔を咲かせた。
「あたしを、ギーマさんの妻にしてください」
ギーマは一瞬、息を呑んで固まったように見えた。
それから、フランがこれまで見たこともないほど、甘くやわらかな笑みを浮かべた。
「……ああ」
彼はフランの震える左手をそっと取り、その薬指へ、静かに指輪を滑らせた。
月光を浴びて、白い花と二つの石が指先で美しく輝きを放つ。
フランは己の薬指にしっかりと収まった指輪を見つめた。
夢のようで信じられない。けれど、ズシとした確かな冷たさと温もりがそこにあった。
ギーマがくれた、二人の未来の証明。
「綺麗……」
「よく似合っている」
ギーマはフランの手を両手で優しく包み込み、その甲へそっと唇を落とした。
いつものような、彼女をからかうための軽い仕草ではない。
神に捧げる誓いのように、深い祈りのように、丁寧で温かな口づけだった。
フランの涙がまた溢れ出す。
「ギーマさん……」
「愛しているよ、フラン」
真っ直ぐに紡がれたその告白に、フランは息を詰まらせた。
何度聞いても胸が跳ねる言葉。けれど今夜のそれは、いつも以上に深々と魂にまで届いていた。
「あたしも……愛してます」
フランがそう答えると、ギーマは静かに立ち上がり、そのまま彼女の身体を強い力で腕の中へ抱き寄せた。
夜の海の目の前で、二人はしばらく無言のまま抱き合っていた。
もう言葉など必要なかった。
フランはギーマの広い胸に顔を埋め、彼の力強い鼓動に耳を澄ませていた。
彼がちゃんとここにいる。
脈を打ち、生きている。
もう二度と離れていかない。
自分の名前を呼んでくれ、これから続く途方もない未来も隣にいると約束してくれた。
ただその事実だけで、心が満たされていく。
「……ギーマさん」
「なんだい」
「幸せです」
ギーマの抱きしめる腕に、少しだけ力がこもった。
「そうか」
「はい。すごく、幸せです」
「……それは困ったな」
「え?」
フランが首をかしげて顔を上げると、ギーマは少しだけ悪戯っぽい光を瞳に宿して細めていた。
「これ以上幸せにするつもりでいたのに、もうそんな顔をされたら、わたしの勝ち筋がなくなる」
「勝ち筋って……!」
フランは涙で濡れた顔のまま、思わず吹き出してしまった。
「こういう時まで勝負の話ですか?」
「わたしらしいだろう」
「そうですね」
フランは指輪が光る左手を、そっとギーマの胸元に当てた。
「でも、この勝負なら、あたしも降りません」
ギーマの眉が興味深げに跳ね上がる。
「ほう」
「あたしも、ギーマさんを幸せにします。だから、勝ち負けじゃなくて……二人でずっと続ける勝負です」
「終わらない勝負か」
「はい」
ギーマはしばらくフランの顔を見つめていたが、やがて満足そうに静かに笑った。
「悪くない」
「ふふ」
二人が微笑み合ったその時だった。
「わふんっ!」
静寂を破り、エナが二人の足元へ勢いよく飛び込んできた。
「わっ、エナ!」
エナはフランの左手に光る指輪の存在に気づいたのか、興味津々で鼻先をクンクンと近づけてくる。
すると横からキキがすかさず割り込み、前脚でエナの顔をペシッと押し退けた。
少し離れた岩の上では、レパルダスが呆れたように尾をゆったりと振っている。
「エナ、だめ!これは食べ物じゃないよ!」
「わんっ!」
「ギーマさんからも言ってください!」
「エナ」
ギーマがいつになく真面目なトーンで呼びかけると、エナはピタリと動きを止めた。
「これはフランの大事なものだ。守ってやってくれ」
エナは一瞬だけきょとんとした顔を見せたが、意味を理解したのか、誇らしげに胸を張って吠えた。
「わうんっ!」
フランは思わず口元を緩めた。
「頼もしいね、エナ」
キキはそれが当然だと言わんばかりにフランの足元に体をすり寄せ、レパルダスもまた、優雅な足取りでギーマの隣へと戻ってきた。
ギーマはその愛くるしい光景を見つめながら、しみじみと呟いた。
「賑やかな家族になるな」
——家族。
その温かな響きに、フランの胸が再び熱く満たされていく。
「……はい」
フランはギーマの着流しの袖を、ぎゅっと指先で掴んだ。
「ギーマさんと、家族になれるんですね」
「ああ」
ギーマはフランの頭に手を置き、愛おしそうに撫でた。
「きみが望んでくれるなら」
「望んでます。ずっと」
「ずっと?」
「ずっとです」
フランは照れくさそうに目線を下に落とした。
「ギーマさんと一緒に朝を迎えたり、同じ家に帰ったり、そういうの……夢みたいだなって思ってました」
「今は?」
「夢じゃないです」
フラン左手の指輪を見つめ直した。
「ちゃんと、現実です」
ギーマは何か込み上げる感情を耐えるように、すっと目を伏せた。
その表情の微かな変化を見て、フランはそっと手を伸ばし、今度は自分からギーマの温かい頬に触れた。
「ギーマさん」
「……なんだい」
「もう、自分だけが幸せになっちゃいけないなんて思わないでくださいね」
ギーマはすぐには答えず、ただ彼女の手のひらに頬を寄せる。
フランは言葉を紡ぎ続けた。
「あたし、ギーマさんを幸せにしたいです。でも、ギーマさんが自分で幸せになることを許してくれないと、あたしだけじゃ届かないから」
月明かりに照らされた夜浜で、フランはまっすぐに彼を見つめた。
「あたしの隣で、ちゃんと幸せになってください」
ギーマの瞳が、微かに揺れた。
やがて彼は、フランの頬にある手に己の手をゆっくりと重ね合わせた。
「ああ」
返ってきた言葉は、拍子抜けするほど短いものだった。
けれど、フランにはそれで十分すぎるほど伝わっていた。
「約束する」
ギーマは噛みしめるように、静かに言った。
「わたしは、きみの隣で幸せになる」
その言葉を聞いた瞬間、フランの目からまたポロポロと涙が溢れ出してしまう。
ギーマは参ったというように困った顔で笑いながら、彼女の身体をもう一度抱きしめた。
「今日はよく泣くね」
「ギーマさんのせいです……」
「なら、責任を取らなければ」
「もう取ってます」
フランは指輪を見せるように左手を少し持ち上げて見せた。
ギーマはそれを見て、満足げに目を細める。
「そうだった」
家への帰り道、フランはずっとギーマの手を握りしめていた。
指輪の金属が夜風に冷やされ、けれど握り合うギーマの手の体温で少しずつ温められていく。
その確かな感覚が愛おしくてたまらず、フランは何度も指先の感触を確かめるように動かしていた。
「気になるかい」
「気になります……だって、指輪が……」
「外すかい?」
「絶対に外しません!」
喰ってかかるような勢いで即答したフランに、ギーマは小さく肩を揺らして笑った。
「安心した」
「ギーマさん、からかいましたね?」
「少しだけ」
「もう……!」
フランはぷくっと頬を膨らませたが、すぐに幸福感に耐えかねて笑い出してしまった。
***
家に戻ってくると、閉めて出たはずの客間の明かりが明るく灯っていた。
「あれ?」
フランが首をかしげる。
「消して出たはずなのに……」
疑問を抱きながら扉を開けた瞬間。
『フランさん!!』
『おめでとう、フラン』
『うむ』
「わああっ?!」
驚きに跳ね上がるフランの視線の先には、シキミとカトレア、そしてレンブの姿があった。
正確には、テーブルの上に置かれた端末の通信画面の向こう側に、だ。
イッシュへ戻ったはずの三人が、画面越しに揃い踏みしていたのである。
シキミはすでに感極まった様子で目を潤ませており、カトレアはソファーに腰かけて優雅に微笑み、レンブは胸の前で腕を組んで重々しく頷いていた。
フランは顔をマトマの実のように真っ赤にして、隣のギーマを振り返った。
「ギーマさん?!」
「報告は必要だろう」
「い、いつから準備してたんですか?!」
「さて」
「さてじゃないです!」
画面の向こうでシキミが乗り出すようにカメラへ顔を近づける。
「フランさん!指輪!指輪を見せてください!」
「えっ、あの、その……!」
フランが急な展開にオドオドと戸惑っていると、カトレアが優美にティーカップを置きながら静かに言った。
「見せなさい。アタクシたちには見る権利があるわ」
「権利……?」
「アナタがあれだけ泣いたところを見ているもの」
その言葉に、フランの胸がキュッと詰まった。
サザナミの別荘での日々。フランが泣くためだけに開かれたお茶会。「彼に会いたい」と涙で声を詰まらせて訴えたあの辛い日々。
あの時、彼女たちは友達としてフランの側に寄り添ってくれていたのだ。
そして今、こうしてどん底を乗り越えて幸せを掴んだ姿を、誰よりも見届けようとしてくれている。
フランはそっと左手を持ち上げ、画面のカメラへ向けた。
月光とは違う室内の明かりを受け、白い花と二つの石が誇らしげに輝く。
シキミが画面の向こうで「きゃあっ!」と声にならない悲鳴を上げた。
「綺麗です……!フランさんにぴったりです!」
「ええ。悪くないわ」
カトレアは素っ気なくそう口にしたが、その目元はどこまでもやわらかく緩んでいた。
レンブは画面越しに、じっとギーマを見つめた。
「ギーマ」
「なんだい」
「逃げなかったな」
「きみにあれだけ言われた後で逃げれば、今度こそ叩き伏せられそうだからね」
「分かっているならよい」
レンブは真剣な顔つきのまま、力強く頷いた。
「フランを幸せにしろ」
ギーマはいつものように茶化したりしなかった。
真っ直ぐにレンブの瞳を見返し、低く静かに答える。
「ああ。必ず」
「そして、お前も幸せになれ」
その一言に、ギーマの表情がわずかに和らいだ。
「それも、約束したところだ」
レンブは深く満足したように頷いた。
シキミはもう感情を抑えきれなくなったのか、画面の向こうで目頭にハンカチを押し当てている。
「フランさん、本当に、本当におめでとうございます……!」
「シキミさん……ありがとうございます」
「アタシ、今日のことは原稿には書きません!でも、一生覚えています!」
「はい」
フランの目にも、再び温かな涙が浮かんだ。
「覚えていてくれたら、嬉しいです」
カトレアは画面越しに、静かにフランの瞳を見つめた。
「フラン」
「はい」
「幸せ?」
フランが一瞬言葉に詰まる。
けれど、もう以前のように「大丈夫です」と無理な笑顔で誤魔化す必要はどこにもなかった。胸を張り、心からの言葉を言える。
「はい」
フランは指輪のはまった左手を胸元にぎゅっと寄せた。
「あたし、幸せです」
カトレアの美しい瞳が、一瞬だけ揺れて潤んだように見えた。
けれど彼女はすぐに視線を逸らし、いつもの尊大な態度の裏に優しさを隠した表情へ戻る。
「そう」
「はい」
「なら、いいわ」
その短い一言に、どれほど深い安堵と祝福が込められているか、フランにはよく分かっていた。
ギーマが横からフランの肩をそっと抱き寄せると、カトレアの視線が即座に険しくなった。
「ギーマ」
「なんだい」
「泣かせた分、幸せにしなさい」
「心得ている」
「もしまた勝手に自己完結して、この子を置いていくような真似をしたら」
「しないよ」
ギーマは静かに言葉を遮った。
その声には、かつての彼につきまとっていた逃げ道や諦観は一切存在しなかった。
「もう二度と、フランの手を離さない」
フランは息を呑み、胸を熱くした。
画面の向こうでシキミが再び感極まって泣き出し、レンブは深く頷いている。
カトレアはしばらくギーマの顔をじっと見つめていたが、やがてフッと溜息を吐き出した。
「……少しだけ、許してあげる」
「まだ少しだけかい」
「当然でしょう」
カトレアはすました顔でティーカップを持ち上げた。
「この先ずっとかけて、評価を上げなさい」
ギーマは苦笑交じりに首を振った。
「長い勝負になりそうだ」
「降りるの?」
「まさか」
ギーマは隣のフランを見つめた。
「一生降りる気はないよ」
フランはその言葉を聞いて、心から嬉しそうに笑った。
***
通信が切れ、画面が暗くなると、家の中は再び静寂に包まれた。
エナは一連の騒ぎに疲れたのか床の上で丸くなって寝息を立てており、キキはフランの足元にぴったりと寄り添っている。レパルダスはギーマの膝の上に前脚を乗せ、満足そうに目を細めていた。
フランはソファに深く腰掛け、何度も何度も自分の左手を持ち上げては見つめていた。
ギーマは隣でその微笑ましい様子を眺めている。
「そんなに見つめられると、指輪も照れるだろうね」
「照れるのはあたしです……」
「なら、見なければいい」
「見たいんです」
食い気味に即答すると、ギーマは楽しそうにまた笑った。
フランは指輪の輝きを見つめながら、ふと思いついたように顔を上げた。
「あの、ギーマさん」
「なんだい」
「結婚したら……呼び方って、変えた方がいいんでしょうか」
ギーマが少し意外そうにパチパチと目を瞬かせた。
「呼び方?」
「その……夫婦になるなら、ギーマさんのこと、名前で呼び捨てにした方がいいのかなって……」
口にしながら、自分の発言の気恥ずかしさにフランの顔はみるみる赤くなっていった。
数秒後、彼女は想像しただけで耐え切れなくなったのか、両手で顔を覆って突っ伏した。
「む、無理〜!!やっぱりギーマさんを呼び捨てになんてできない……!し、心臓が保たない……!!」
ギーマは一瞬ポカンとした後、肩を揺らして笑った。
「そこまで動揺するとはね」
「笑わないでください!」
「いや、すまない。あまりにきみらしくて」
「もう……!」
ギーマはフランの手を優しく取り、顔からそっと外させた。
「フラン」
「はい……」
「きみの好きなように呼べばいい」
「いいんですか?」
「ああ。ギーマさんでも、ギーマでも、きみが呼んでくれるなら何でもいい」
彼は少しだけ目を細め、甘い声で付け加える。
「ただし、呼ばれたら必ず返事をする」
フランの胸が、またぎゅっと熱く締め付けられた。
「……じゃあ、ギーマさんのままで」
「分かった」
「でも、いつか……呼べるようになったら、その時は」
「その時は?」
フランは真っ赤になった顔を伏せながら、消え入りそうな小さな声で言った。
「一回だけ、呼んでみます」
ギーマは心底愉快そうに微笑んだ。
「楽しみにしているよ」
「期待しないでください……」
「期待して待つさ」
「ギーマさん!」
からかわれていると分かっていても、嫌な気持ちは一切なかった。
むしろ、こんな他愛もない会話を交わせる日常が、たまらなく愛おしく幸福だった。
フランは少しだけ身体を傾け、ギーマの肩に頭を預けた。
ギーマは自然な動作で腕を回し、彼女の肩を心地よい強さで抱き寄せる。
「フラン」
「はい」
「今日は、ありがとう」
「それはあたしの台詞です」
「いや」
ギーマは静かに首を横に振った。
「わたしの差し出した未来を、受け取ってくれてありがとう」
フランはギーマの胸元に額をすり寄せた。
「受け取りたかったんです」
「……そうか」
「あたし、ギーマさんの隣にいられる未来が欲しかったから」
ギーマは答える代わりに、フランの柔らかい髪へそっと唇を押し当てた。
その愛おしむような仕草があまりにも優しく、フランは気持ちよさそうに目を閉じる。
「これから、忙しくなりますね」
「式の準備かい?」
「はい。イッシュのみなさんにも報告しないといけないですし、クチナシさんにも伝えたいです」
「彼には、少しからかわれそうだ」
「ふふ、きっと呆れながら聞いてくれますよ」
「そうだろうね」
「あと、シキミさんは泣きそうです」
「すでに泣いていたが」
「カトレアさんは、たぶんすごく綺麗なドレスを選んでくれそうです」
「きみに似合うものを選ぶだろうね」
「レンブさんは……」
フランは少しだけ首をかしげて考えた。
「すごく真面目な顔で、おめでとうって言ってくれそうです」
「そして、わたしにはまた釘を刺す」
「それは……刺されてください」
「きみまで」
ギーマが参ったというように苦笑する。
フランはくすくすと楽しそうに笑いながら、彼の手をしっかりと握りしめた。
「だって、みんな心配してくれているんです。ギーマさんのことも、あたしのことも」
「分かっている」
ギーマは温かな眼差しで言った。
「ありがたいことだね」
その深い声を聞いて、フランはまた胸が熱くなった。
以前のギーマなら、こうした他者からの情や温もりに素直に感謝を口にすることは少なかった。
今でも口数は決して多くはない。
けれど、大切なことから目を背けず、言葉にして伝えてくれるようになった。
その変化が、たまらなく嬉しかった。
「ギーマさん」
「なんだい」
「幸せになりましょうね」
ギーマは抱きかかえたフランを見下ろした。
その瞳には、かつて彼を苛んでいた敗北の暗い影は完全に消え去っていた。傷痕はある。背負った過去も消えはしない。
けれど、その奥底には確かに、未来を見つめる強い光が宿っていた。
「ああ」
ギーマはフランの左手を持ち上げ、指輪の嵌まった指先を包み込んだ。
「共に」
夜更けのアローラの家に、遠い波の音がどこまでも静かに響いていた。
かつて、海はふたりを遠く引き裂いた。
けれど今は、同じ海がふたりの新しい誓いを静かに見守っている。
フランはギーマの体温を感じながら、ゆっくりと目を閉じた。
もう、名前を呼んでも返事の返ってこない寂しい朝を恐れる必要はない。
もう、一人で「大丈夫」と強がって笑う必要もない。
いくつもの悲しみを乗り越え、奇跡のような再会を経て、いま物語は新しい未来のページへと進んでいく。
二人で選んだ、終わらない勝負。
その始まりを告げる夜、フランの左手には、月明かりを映した小さな指輪がどこまでも静かに輝き続けていた。