ギーマ夢主の名前変換
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イッシュリーグが誇るバトル施設の大規模な点検と改修の時期が訪れ、一年に一度の特別休暇期間が敷かれることとなった。
挑戦者たちの熱気を受け入れる窓口を一時的に閉ざし、戦いに明け暮れる四天王やそれを支える運営スタッフたちにも、しっかりとまとまった休息の時間が与えられる。
心身を休めることもまた、次の激しい戦いへ万全の状態で備えるために不可欠な時間である。
日々の鍛錬を怠らないレンブも、その理屈自体には頭でしっかりと納得していた。
だが、だからといって。
「皆でアローラへ行きましょう!」
静かな四天王控室の重厚な扉を勢いよく開け放ち、旅の浮かれた空気を纏った旅行鞄を片手にシキミからそう宣言される理由には、到底ならないはずだった。
「……なぜ、わたしまで行くことになっている」
黙々と自身の鍛錬を終えたばかりのレンブは、首にかけていたタオルで汗を拭いながら、目の前の呑気な二人を見据えた。
シキミは今すぐにでも船に飛び乗れそうな装いで、目をキラキラと輝かせている。
その隣では、普段はめったに外に出ないカトレアが、優雅に紅茶のカップを口へ運んでいた。彼女の足元にも、すでに職人が仕立てたような品のよい旅行鞄がしっかりと置かれている。
「決まっているでしょう」
カトレアは微塵の疑いもないといった様子で、澄んだ声を響かせた。
「アナタもギーマとフランの様子を見に行くのよ」
「わたしは一言も、アローラへ行くなどとは言っていないのだが?」
「ええ。アタクシたちが決めたもの」
「それは決まったとは言わない、ただの独断だ」
「レンブさんも心配していたでしょう?」
シキミがぐっと身を乗り出し、探るような目を向けてきた。
「前にアタシたちがアローラへ行った時だって、本当はあのとき一緒に来たかったのではありませんか?」
「そのような軽率なことは言っていない」
「言っていませんけど、リーグに残ったとき、ずっとギーマさんの空いた席をチラチラ見ていましたよ!」
「見ていない」
「見ていました!」
「それに」
カトレアが、食い違う二人の会話へと静かに割って入る。
「前回はリーグを完全に空けるわけにいかなかったから、アナタに留守を頼んだだけよ。今回は全員に与えられた正当な特別休暇なのだから、残る理由なんてどこにもないでしょう」
「……休暇中は、誰にも邪魔されずに修行に励むつもりだったんだが?」
「アローラでも修行はいくらでもできるわ」
「わたしは、人里離れたネジ山へこもるつもりだった」
「アローラには広大な火山があるそうです!」
シキミがますます元気よく言いのける。
「山だけでなく、美しい海も広い砂浜も、鬱蒼とした密林もあります!イッシュとは異なる環境で身体を鍛えれば、きっと今までにない新しい強さが見つかりますよ!」
「シキミ、レンブの誘い方がすっかり上手くなったわね」
カトレアがどこか感心したように細い目を細めた。
レンブは、目の前で勝手に話を進める二人を交互に睨みつけた。
ここで意地を張って断り続けたところで、この二人のことだ、きっと既に自分の分のアローラ行きのチケットの手配まで完璧に用意されているに違いなかった。
そして何より、心の奥底で引っかかっていた感情があった。
アローラという見知らぬ土地へ流れ着いたギーマが、今いったいどのような顔で、どんな暮らしを送っているのか。
はるばる海を渡って、たった一人で彼を追いかけたフランが、あの場所で本当に心から笑えているのか。
それを自分の目で一度確かめておきたいという思いが、心の隅にまったくなかったと言えば、それは嘘になる。
「……何日だ」
レンブが低く呟くと、シキミの顔が一気にパッと輝いた。
「来てくださるんですね!」
「何日滞在する予定なのかと聞いただけだ」
「もう行くと言っているようなものじゃない」
カトレアは満足したように、カチャリと音を立ててカップをソーサーに戻した。
「じゃあ、旅支度をなさい。船は明日の朝よ」
「明日だと?」
「善は急げです!」
「急すぎるだろう」
「強者との戦いに臨むとき、万全の準備が整うまで待ってくれなどと相手に懇願するわけにはいかないでしょう?」
カトレアにそうあっさりと論破され、レンブは返す言葉を失って息を詰まらせた。
「……分かった」
最終的に、彼は観念したように深く長い息を吐き出した。
「行けばいいのだろう、アローラへ」
「はいっ!」
「最初から素直にそう言えばいいのよ、本当に頑固ね」
「お前たちが、わたしの意思を完全に無視して話を進めたんだろうが」
不満はあったものの、その日のうちにレンブがしっかりと旅の支度を整えたことについて、カトレアもシキミもあえて何も言わなかった。
***
アローラに到着したレンブは、故郷とはまったく異なるむせ返るような強い日差しに目を細めた。南国特有の熱を帯びた空気が、全身の肌を包み込むようにまとわりついてくる。
「……暑いな」
「南国ですから!」
「それは見れば分かる」
周囲を見渡せば、イッシュでは決して見慣れない多種多様なポケモンたちが、のびのびと歩き回っている。あちこちから聞こえてくる旅行者たちの陽気な声、そして遠くの波音と共に潮の香りを含んだ風が吹き抜けていた。
そうした活気と浮かれた空気を肌で感じながらも、レンブは観光客のようにキョロキョロと辺りを見回したりはしない。彼の視線は常に前を向き、ただ決められた待ち合わせ場所へと真っ直ぐに、揺るぎない足取りで歩いていく。
「レンブさん、楽しみではないのですか?」
並んで歩くシキミが、面白がるような顔で横から覗き込んできた。
「何がだ」
「ギーマさんとフランさんに会うことです」
「特別なことではない。同じ四天王として長く顔を合わせていた相手だ」
「ずっと会っていなかったじゃないですか!」
「便りは届いている」
「素直じゃないですね〜!」
シキミとレンブの噛み合わない、しかしどこか微笑ましいやり取りを聞きながら、少し離れた場所を歩いていたカトレアが上品に小さく笑った。
「……何がおかしいのだ、カトレア」
「ふふ、アナタ……少し緊張しているのではなくて?」
「していない」
「ふーん。そう。じゃあそういうことにしておいてあげる」
からかうようなカトレアの声音に反論しようとレンブが口を開きかけたその時、不意に耳慣れた明るい声が周辺の空気を震わせた。
「シキミさん!カトレアさん!」
髪を南国の風に揺らしながら、フランが満面の笑みを浮かべてこちらへ駆け寄ってくる。その隣には、落ち着いた和装を纏ったギーマの姿があった。
足元ではグラエナのエナ、ブラッキーのキキ、そして気ままなレパルダスが揃って主人の歩みに寄り添っている。
「お二人とも、また来てくださって――」
勢いよく駆け寄ってきたフランは、そこでシキミとカトレアの背後にひっそりと、しかし圧倒的な存在感を放って立つ大柄な男の姿にようやく気づいた。
彼女の瞳が、驚愕で見開かれる。
「レンブさん……?」
「久しいな、フラン」
「本当にレンブさんですか?!」
「わたし以外の何に見える」
「だって、レンブさんがアローラに……!」
激しい動揺の色を浮かべながらも、フランの表情はみるみるうちに隠しようのない喜びに染まり、パッと花が咲いたように明るくなっていく。
「来てくださったんですね!」
「ああ」
「ありがとうございます!」
「礼を言われるほどのことではない」
「レンブさんは最後まで行かないと仰っていましたけれど、アタシたちが連れてきました!」
「シキミ」
「事実でしょう?」
あまりの展開に、フランは思わず声を上げて笑った。
その楽しげな笑顔を目の当たりにして、レンブの険しかった眉間の皺も、ほんのわずかに、しかし確実に緩んだ。
「元気そうだな」
「はい!」
「以前より、顔色もよい」
「アローラのごはんが美味しいので、少し太ったかもしれません」
「それくらいがよい。以前は痩せすぎていた」
「うっ……」
ギーマを探してアローラ中を駆けずり回り、自分の体を省みずに歩き続けていたあの頃のことを突かれ、フランは気まずそうに小さく笑った。
その隣で、静かに事態を見守っていたギーマが、空色の目をレンブへと向けた。
「まさか、きみまで来るとは思わなかったよ」
「わたしも来るつもりはなかった」
「それは残念だ。再会を喜んでもらえていると思ったのだが」
「喜んでいないとは言っていない」
予想外の言葉だったのか、ギーマが僅かに目を見開く。
レンブはそれ以上言い訳じみた説明をせず、ただ静かにかつての仲間の全身を観察するように見つめた。
確かに以前より痩せてはいるが、陰鬱さはなく、弱々しさのかけらもない。その立ち姿には確かな芯が戻り、静かな眼の奥には揺るがぬ力があった。
かつてイッシュリーグの頂点で肩を並べて戦い続けていた頃より、今の彼はいくらか穏やかで、角が取れたように見える。それでも、勝負師としての底知れぬ鋭さは、決して失われていなかった。
「お前も、元気そうだ」
「ああ。おかげさまでね」
「そうか」
交わされた言葉はあまりにも短い。
だが、そのわずかなやり取りだけで、二人の間には長く険しい時間を越えてきた者同士にしか分からない、確かな何かが静かに交わされていた。
シキミはすっかり感動したように胸の前で手を組み、目を潤ませており、カトレアは静かに満足げな笑みを湛えている。
「まずは家へ行きましょう!」
場の空気を切り替えるように、フランが弾んだ声で言った。
「皆さんのために、たくさんごはんを用意したんです。お口に合うか分かりませんけど……」
「フランが朝から張り切っていてね」
ギーマが、どこか誇らしげな、それでいて呆れたような優しい声音で付け加える。
「一人では到底食べきれない量ができている。ぜひ助けてほしい」
「ギーマさん!」
「事実だろう?」
「食べきれるように、皆さんが来てくださったんです!」
「そうだったね」
ギーマは穏やかに目を細めて笑う。
フランがぷいと頬を膨らませると、彼は自然な動作で彼女の頭に手を伸ばし、優しく撫でた。
「よく頑張っていたよ」
「……急に褒めて誤魔化さないでください」
「誤魔化してはいないさ」
目の前で繰り広げられる何気ないやり取りを、レンブは口を挟むことなくじっと見つめていた。その表情には相変わらず厳格さが漂っていたが、その目はどこか温かく細められていた。
二人が暮らす家は、波の音が間近に聞こえる、海からそう遠くない静かな場所にあった。
決して贅を尽くした豪邸というわけではない。だが、開け放たれた窓からは明るい陽射しがたっぷりと差し込み、心地よい潮風が室内を絶え間なく通り抜けていく。
居間の一角にはギーマが好んで読む本やカードが無造作に置かれ、そのすぐ隣にはフランの化粧品や日々の買い物のメモが仲良く並んでいた。
壁に目をやれば、かつてイッシュの四天王として共に過ごした日々を捉えた写真と、アローラの鮮やかな青空の下でポケモンたちと笑顔で写る写真が並んで飾られている。
どちらか一人の空間に相手が間借りしているのではなく、二人の時間と生活が完全に混ざり合い、一つの歴史を築いていることが一目で分かる家だった。
「レンブさん、こちらにどうぞ」
フランが丁寧に椅子を引いて勧めてくれる。
「すまない」
「飲み物は何がいいですか? お茶もありますし、アローラの果物を使ったジュースも――」
「水でよい」
「せっかくですから、何か特別なものを飲んでください!」
「水も身体にとって重要なものだ」
「それはそうですけど……」
「果物のジュースも栄養がありますよ!」
見かねたシキミがすかさず助け舟を出す。
結局、レンブが折れる形で、彼の目の前にはフラン特製の鮮やかな果物ジュースが置かれることになった。
テーブルの上には、アローラの豊かな食材をふんだんに使った料理の数々が所狭しと並んでいる。だが、それらのすべてをフラン一人が作り上げたわけではないらしい。
「この煮込み料理は、ギーマさんが作ってくれたんです」
「ギーマが?」
レンブが信じられないものを見るような目で相棒を見やった。
「何かな、その顔は」
「おまえが台所へ立つ姿を想像したことがなかった」
「わたしとて、生活に必要なことくらいは覚えるよ」
「ギーマさん、お料理上手なんですよ」
フランが嬉しそうに自慢げに微笑む。
「最初から上手だったわけではないけれどね」
「初めて作ってくれた時は、少し味が濃かったです」
「フラン」
「でも、今はすごく美味しいです!」
「付け加えるのが遅いぜ」
ギーマは苦笑しながらも、愛おしそうにフランの皿へ手際よく料理を取り分けていく。
「これはきみが好きだっただろう」
「ありがとうございます。ギーマさんも野菜を食べてくださいね」
「取引かな」
「健康のためです」
「分かったよ」
促されるまま、ギーマは素直に野菜を自分の皿へと移した。
その一連の自然すぎる動作には、作られたところや気負ったところが一切ない。
どちらか一方が一方的に世話を焼いているわけではなく、フランはギーマの細かな体調の変化を常に気遣い、ギーマはフランが無理をしていないかを絶えず確認している。
フランが立ち上がろうとすれば、ギーマがさりげなく空いた食器を引き受け、ギーマが飲み物に手を伸ばそうとすれば、フランが言われずともそのカップをそっと手渡す。
二人がアローラの地で重ねてきた静かな時間が、言葉にしなくても通じ合う細やかな気遣いとなって、すべての動作に染み込んでいた。
「……どうですか、レンブさん」
食事が一段落し、穏やかな空気が流れる中、シキミが隣でこっそりと小声で尋ねてきた。
「何がだ」
「お二人の様子です」
レンブは腕を組み、静かにギーマとフランの姿を交互に見据えた。
「問題はなさそうだ」
「本当ですか?」
「ああ」
その太い肯定の言葉を聞いた瞬間、フランの顔にパッと華やかな笑みが広がった。
「よかったです!」
「なぜ、きみが試験へ合格したような顔をするのかな」
「だって、レンブさんにも安心してほしかったんです」
真摯なその言葉に、レンブは一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「……そうか」
短くそれだけ返すと、彼は目の前のジュースに口をつけた。
普段は甘い嗜好品を好まない硬派な男だったが、その一杯を文句も言わずにすべて飲み干したのだった。
***
午後は、ギーマが日々の鍛錬や腕試しのために勝負を重ねている場所へと案内してもらうことになった。レンブが彼の現在の実力に強い興味を示したためだ。
バトルツリーの広大な勝負台に立ったギーマは、先ほどまで家で見せていたフランに対する柔らかな表情をすっきりと消し去り、かつての冷徹で鮮やかな勝負師の顔へと完全に切り替えていた。
「配られたカードへ文句を言っても、勝負は進まない。さあ、きみの手札を見せてもらおうか」
対戦相手のわずかな隙を見逃さず、鋭く戦局を読み解く。
手持ちのポケモンたちへ、無駄のない的確な指示を飛ばす。
どれほど追い詰められた状況に陥ろうとも、焦りの色は一切見せない。
一度の絶望的な敗北によってすべてを失いかけた男とは思えないほど、その立ち姿には確固たる自信と、深い思慮が戻っていた。
だが、かつての彼とは決定的に違う点があった。
それは、もはや自らの存在価値を証明するために、勝利に執着してしがみついているわけではないということだ。
目の前の勝負の駆け引きを心から楽しみ、共に戦うポケモンたちを心底信頼し、自らの限界と可能性をどこまで高められるのかを純粋に求めている。その境地に達していた。
「レパルダス、つじぎり」
静かに、しかし鮮やかに最後の一撃が決まり、勝負に決着がつく。
周囲から大きな歓声が沸き起こる中、勝利を収めたギーマの視線は、誰よりも早く観客席で息を呑んでいたフランの姿へと向けられた。
「ギーマさん!」
勝負の終わりを確認したフランが、嬉しそうに両手を振る。
ギーマはふっと目を細め、静かにその声に応えた。
「強くなったな」
「以前よりも?」
「ああ」
「アタクシもそう思うわ」
戦いの余韻に浸る観客席で、レンブが低く呟き、その隣に立っていたカトレアも同意するように頷く。
レンブは勝負台の上からこちらへ戻ってくる友の姿を、一瞬たりとも逃さぬように見据えていた。
「技の切れ味だけではない。己の致命的な弱さを完全に認めた者だけが持つ、本当の強さがある」
「レンブさんも、そう感じますか?」
シキミが目を輝かせて尋ねる。
「過去に喫した敗北を、なかったことにはしていない。だが、敗北した惨めな自分という影にいつまでも囚われてもいない」
やがて近くまで歩いてきたギーマへ、フランが真っ先に冷たい飲み物を差し出した。
「お疲れ様です!」
「ありがとう」
「すごく格好よかったです。でも、途中でちょっと危なかったですよね」
「ああ。いい一手だった」
「無茶はしてませんか?」
「していないよ」
「本当に?」
「きみはわたしを何だと思っているのかな」
「勝負になると、少し夢中になりすぎる人です」
「否定は難しいね」
苦笑するギーマを見て、レンブはゆっくりと椅子から立ち上がった。
「ギーマ」
「何かな」
「一戦、わたしと交えぬか」
ギーマの空色の瞳が、戦う悦びを含んで面白そうに細められた。
「それは願ってもない申し出だ」
「えっ、今からですか?」
フランが驚いて二人を見比べる。
「ギーマさん、さっき勝負したばかりですよ」
「心配はいらないよ」
「しかし、疲れが残った状態で挑むのは、相手にも失礼だ」
レンブは武道家としての真面目すぎる矜持を覗かせて首を振った。
「今日はやめておこう」
「おや。きみから誘っておいて?」
「最高の状態でこぶしを交えるべきだ。勝負は明日にする」
「なるほど。異論はないさ」
「では、明日の朝からです!」
シキミが待ちきれないと言わんばかりに両手を合わせた。
「アタシ、特等席で絶対に観戦します!」
「あたしも応援します!」
フランが声を弾ませると、ギーマは優しく彼女に視線を落とした。
「わたしを?」
「もちろんです」
「レンブが相手でも?」
「レンブさんも応援しますけど、ギーマさんを一番応援します」
迷いのない即答だった。
ギーマの口元が、隠しきれない幸福感によって思わず緩む。
「それは心強い」
「だらしのない顔をするな、ギーマ」
「きみにはそう見えるのかい?」
「見える」
容赦のないレンブのツッコミに、シキミが声を上げて笑い、フランも恥ずかしそうに両手で口元を押さえた。
その日の夜。
賑やかな夕食を終えた後、フランは「せっかくレンブさんも来てくださったので、明日の朝ごはんをもっと豪華にしたいんです」と意気込み、シキミとカトレアを連れて近くの市場へと買い物に出かけていった。護衛代わりとして、フランの手持ちであるエナとキキも一緒に付いていっている。
静まり返った家に残されたのは、縁側に腰掛けたギーマとレンブ、そして足元で気ままに丸くなっているレパルダスだけだった。
窓の外には、アローラ特有のどこまでも深い星空が広がり、闇夜の向こうから絶え間なく波の音が心地よく響いてくる。
レンブは縁板に腕を突いて立ち、遠くの暗い水平線を静かに見つめていた。
「静かな場所だな」
「ああ。フランもこの環境をいたく気に入っているよ」
「お前は?」
「もちろん、わたしも気に入っているさ」
ギーマは静かにレンブの隣へと歩み寄り、同じように並んで立った。
「以前は、これほど穏やかな暮らしを好むとは思ってなかったよ」
「変わったのだな」
「そうかもしれない」
「よい方に、だ」
レンブの短い言葉に、ギーマはわずかに驚いたように彼へ目を向けた。
「今日はやけに珍しく褒めてくれるね」
「浮かれるな」
「やはり、そう簡単には褒め殺してくれないか」
ギーマは自嘲気味に小さく肩をすくめた。
短い沈黙が訪れた後、レンブはそれまで海に向けられていた視線を真っ直ぐに友の横顔へと戻し、低く重い声で名を呼んだ。
「ギーマ」
「なんだい」
「一つ、言っておく」
その声の底に宿るただならぬ気配に、ギーマの表情からふっと軽口の笑みが消え失せた。
「何を言うつもりかな」
レンブは少しも視線を外さずに告げる。
「お前は、かつて愚かなことをした」
それはあまりにも率直で、逃げ場のない言葉だった。
「フランに一言も告げず、勝手に姿を消したことだ」
「……ああ」
「己の無力と弱さを直視できず、フランの幸せを言い訳の盾にして逃げた」
「返す言葉もないね」
「言い訳は聞かん」
レンブは厳しい武道家の顔のまま、さらに踏み込んだ。
「お前がどれほど深い絶望に浸り、苦しんでいたか。何を失い、何を恐れていたか。それは同じ時代を駆けた者として理解しているつもりだ」
「……」
「だが、だからといって、フランを深く傷つけてよい理由にはならん」
「ああ」
「彼女は強い」
レンブの脳裏には、イッシュを発つ直前の、あのときのフランの姿が生々しく蘇っていた。
涙で腫らした目をしていながらも、決して折れず、自分の足でこの男を探し出すと決意していた一人の女性の姿が。
「強いが故に、彼女は己の痛みをいつも後回しにする。大切な者のためならば、どれほど限界を越えてでも歩こうとする」
「分かっている」
「本当に分かっているか?」
レンブの眼光が一段と鋭さを増す。
「フランが強いからといって、何度放置し、傷つけてもその都度勝手に立ち上がってくれると思うな」
「思っていない」
「彼女が今回のように追ってきたからといって、次もまた同じように探してもらえるなどと甘えるな」
「……ああ」
「二度と、彼女の強さに甘えるな」
言葉の一個一個が、まるで重い拳のようにギーマの心臓を直撃する。
ギーマは一歩も引かず、そのすべてを正面から受け止めていた。
「肝に銘じているよ」
「ならばよい」
そう言いながらも、レンブはまだ追撃の手を緩めない。
「お前が今、以前より強くなったことは認める」
「光栄だね」
「だが、真の強さとは、勝負の勝敗だけにこだわることではない」
レンブは自らの頑丈な胸元に、ぽんと拳を当てた。
「脆き己を砕き、本当の信念を貫くことだ」
「……」
「怖い時にそこから逃げ出さず、己の弱さを隠さずに口にすることも立派な強さだ。大切な者に一方的に支えられるだけでなく、今度は自分が相手を支えるためにその場に立ち続けることもな」
ギーマは静かに目を伏せ、じっと足元を見つめた。
「カトレアやシキミにも、似たようなことを散々言われたよ」
「ならば、何度言われようとも二度と忘れるな」
「手厳しいね」
「お前は一度、それを完全に忘れた男だ」
即座に突き刺さる言葉に、ギーマは小さく息を吐き出した。
「まったく、その通りだよ」
レンブは再び両腕を組む。
「フランは、勝負の勝利で手に入る賞品ではない」
「ああ」
「お前が一度勝ち取ったからといって、永遠に安全に手元へ置けるものなど何もない」
「分かっているよ」
「ならば、日々向き合え」
短く、しかし圧倒的な説得力をもって告げる。
「彼女を守るという名目で自分の殻に閉じ込めるな。大切にしたいからといって、何もさせずに庇い立てするな。フランはお前を甘やかすためではなく、お前の隣へ対等に立つためにアローラまで来たのだ」
その言葉を聞いた瞬間、ギーマの空色の目がわずかに、激しく揺らめいた。
「隣へ立つ者として扱え」
「……ああ」
「そして」
レンブは一度言葉を切り、先ほどまでの厳しいトーンから、ほんのわずかに、しかし確実に声を和らげた。
「幸せにしろ」
波の音だけが、しばらくの間静かに二人の間を通り過ぎていった。ギーマはすぐには言葉を発さなかった。
「レンブ」
「なんだ」
「わたしは以前、その言葉の本当の意味を酷く誤って受け取っていた」
「……」
「フランを真に幸せにするためには、わたしのような人間が彼女の人生から完全に消え去るべきだと思ったんだ」
「それは、ただの逃避だ」
「ああ。今なら痛いほど分かる」
ギーマは顔を上げ、満天の夜空を見上げた。
「それに、わたし一人が彼女に一方的に幸福を与えてやるという考え自体、あまりにも傲慢だった」
「どういう意味だ」
「フランは、わたしから一方的に施されるだけの、か弱い存在ではない」
ギーマの表情が、これまでにないほど穏やかに緩んでいた。
「彼女は自分の足で幸せを選び、自分の意志でそこへ向かって歩いてくる。わたしはただ、その隣を同じ歩幅で歩きたい」
「……」
「フランを幸せにする。そして同時に、彼女と一緒に、二人で幸せになる」
そこにはもう、一切の迷いぐもりもなかった。
「彼女が疲れた時は、わたしが支える。わたしが弱さに呑まれそうな時は、支えてほしいと素直に伝える。どちらか一方だけがすべてを背負うのではなく、二人でその荷物を持つ」
「それが、おまえの出した答えか」
「ああ」
ギーマは自分の手のひらをじっと見つめた。
かつて、自らの手で愛おしいものを手放し、逃げ出したその手。
今は毎日のように、フランが温かく握り返してくれるその手。
「もう二度と、彼女の手を自分の都合で勝手に離したりはしない」
「言葉だけなら、どんな卑怯者でもいくらでも吐ける」
「分かっているさ」
ギーマは真正面からレンブを見据えた。
「だからこそ、これからの長い人生のすべてで証明するよ」
その空色の瞳には、かつて勝負台の前に立つ時以上の、力強く美しい光が宿っていた。
「たった一度の勝利で終わるような一過性の勝負ではない。明日も、明後日も、毎日彼女を選び続ける」
「……よい目だ」
レンブは満足したように、小さく力強く頷いた。
「今のおまえのその眼差しならば、その言葉を信じよう」
「ありがとう」
「ただし」
「まだ何かあるのかい?」
「次にフランを泣かせるような真似をすれば、今度はわたしが相手になる」
ギーマは片方の眉を面白そうに上げた。
「バトルで?」
「必要ならば、このこぶしでもよい」
「それは全力で勘弁願いたいね」
「ならば、二度と泣かせるな」
「嬉し涙まで厳しく禁止されるのかな」
「屁理屈を言うな」
ついに堪えきれなくなったように、ギーマは声を立てて笑った。
その笑い声には、かつてのイッシュで見せていたような乾いた響きや影は微塵もなく、どこまでも澄み切っていた。
レンブ自身は笑わなかったが、その顔に貼りついていた険しい表情は綺麗にほどかれていた。
「レンブ」
「なんだ」
「きみも、こうしてわざわざ足を運んで、わたしのために心を砕いてくれていたんだね」
「思い上がるな、暇つぶしだ」
「では、フランが絡んでいたから?」
「……どちらでもよいだろう」
「なるほどね」
「妙な含みのある顔をするな」
「いや。ただ、嬉しく思っただけさ」
「浮かれるなと、さっき言ったはずだ」
その時、静寂を破るように、遠くの小道から懐かしい声が響いてきた。
「ギーマさーん!レンブさーん!」
ギーマは迷うことなく、一瞬で声のする方へと顔を向けた。
レンブはその脇で、友の柔らかな横顔を横目に捉える。
たったそれだけの呼び声に、これほどまでに人間らしい、温かな表情を浮かべるようになるとは。以前の彼からは決して想像すらできない姿だった。
「どうやら、帰ってきたようだね」
「ああ」
「それじゃあ、迎えに行ってくるよ」
ギーマはそう言い残すと、待ちきれないといった様子ですぐに家の外へと足を向ける。
「待て」
「何かな」
「ほんの数十歩の距離であろうに」
「距離の問題じゃないさ。荷物が多いかもしれないからね」
「ただ寂しかっただけではないのか」
図星を刺されたのか、ギーマの歩みが一瞬だけピタリと止まる。
「……シキミ達から余計なことでも聞いたかい?」
「昼間の様子を少し見れば、誰にでも分かることだ」
「わたしもすっかり分かりやすい男になったものだね」
自嘲気味に苦笑しながら、ギーマはそのまま玄関の扉を開けて外へ出ていった。
それからほどなくして。
「ギーマさん、わざわざここまで荷物を取りにこなくても……」
「いいんだ、持つよ」
「そんなに重くないですよ」
「わたしが持ちたいんだから、いいじゃないか」
「もう……」
少し困ったような、しかしどこか嬉しそうなフランの声と、それを優しく包み込むようなギーマの楽しげな声が、近づく足音と共に家へと戻ってきた。
レンブは縁側に立ったまま、その様子を静かに聞いていた。
「レンブさん?」
先に戻ってきたシキミが、勝手知ったる様子で首を傾げる。
「ギーマさんと、いったい何をお話しされていたのですか?」
「大したことではない」
「どうせ、ギーマを厳しくお説教していたのではなくて?」
カトレアが、すべてお見通しだといわばかりに優雅に微笑む。
「少し、男同士の言葉を交わしただけだ」
「なんて言ったんですか、教えてください!」
「忘れた」
「嘘です!絶対覚えてますよね?!」
シキミが詰め寄るのを受け流すように、そこへたくさんの買い物袋を両手に抱えたギーマと、その後ろを歩くフランが戻ってきた。
「随分と熱心に、わたしに関する取り調べが行われているようだね」
「ギーマさんは、レンブさんに何を言われたんですか?」
フランもすっかり興味を惹かれたらしく、目を丸くして尋ねる。
ギーマはちらりとレンブの方に視線を投げた。
レンブは、余計なことを口にするなという無言の圧力を瞳に籠めて視線を返す。
「男同士の、他愛のない話さ」
「男同士……」
「心配するようなことは何も言っていない」
ギーマは買ってきた荷物を丁寧に棚に置くと、フランの頭へと自然に手を伸ばし、その柔らかい髪を優しく撫でた。
「これからも、きみを幸せにするようもっと努力しろと、少しばかり発破をかけられただけさ」
「レンブさんが?」
フランが驚愕の表情を浮かべてレンブを振り返る。
「……ギーマ」
「事実だろう?」
「そこまで細かく言う必要はない」
「余計な部分ではないと思うけれどね」
そのやり取りを聞いた瞬間、フランの瞳がゆっくりと潤んでいく。
「レンブさん」
「なんだ」
「ありがとうございます」
「礼は不要だと言ったはずだ」
「でも、あたしたちのことを心の底から心配して、わざわざ遠いイッシュからアローラまで来てくださったんですよね」
「シキミ達に勝手に連れてこられただけだ」
「それでも……すごく、嬉しいです」
フランは真っ直ぐで温かい笑顔を、レンブに向けた。
「ギーマさんとあたしが、こうしてちゃんと並んで暮らしているところを、レンブさんにも自分の目で見てもらえて本当によかった」
「……ああ」
「また、いつでも遊びに来てくださいね」
「修行の予定がある」
「しっかり休むことも、立派な修行のうちですよ!」
シキミがここぞとばかりに元気よく合いの手を入れる。
レンブは思わず大きく眉間へ深い皺を寄せた。
「お前は、自分が都合のよい時だけわたしの過去の言葉を引っ張り出すな」
「よい言葉は、人生の節目で何度でも使うべきです!」
「レンブ。次に来た時にも、わたしと勝負をしよう」
見かねたように、ギーマが穏やかな笑みを浮かべて割って入る。
「それまでに、このアローラの地でさらに腕を磨いておくよ」
「望むところだ」
レンブの眼光に、格闘家としての熱い闘志が一瞬で宿る。
「わたしもここで立ち止まるつもりなど毛頭ない。次に拳を交える時、おまえがどれほど強くなっているか、存分に見せてもらおう」
「楽しみだね」
「ですが、その前にまずは明日の勝負です!」
シキミが自分のことのように嬉しそうに両手を打つ。
「朝から特等席で全力で応援しますからね!」
「あたしもです!」
フランがギーマの隣へと一歩歩み寄り、その肩が自然にふわりと触れ合う。ギーマは迷うことなく、その細い手を自分の手でしっかりと包み込んだ。
「ギーマさん、明日は無理しないでくださいね」
「ああ。きみが目の前で見ているんだ、決して無様な勝負はできないさ」
「そういう問題じゃないですよ」
「分かっているよ」
「もし負けても……ちゃんと美味しいごはんは食べてくださいね」
「もう最初から負ける前提で話が進んでいるのかな」
「だって、レンブさんはすごく強いですから」
「フラン」
「あっ、でももちろん、ギーマさんを一番に応援します!」
「それなら、負けるわけにはいかないな」
指摘されて、ギーマの機嫌がこれ以上ないほど分かりやすく直る。
レンブはその微笑ましいやり取りを静かに見つめながら、大きく息を吐き出した。
フランは今、心から幸せそうに笑っている。
そしてギーマもまた、彼女の無条件の愛情にただ甘えて寄りかかっているわけではない。
勝負師として己の技と心を日々磨き上げ、暮らしの中で細やかに彼女を気遣い、自らの弱さを隠さずに認め合いながら共に支え合う道を選び取っている。
もちろん、まだすべての問題が解決したわけではない。人の心も、二人の関係も、日々の鍛錬と同じだ。
油断すればすぐに錆びつき、少しの気の緩みですれ違うことだってあるだろう。
だからこそ。
互いの顔を真っ直ぐに見つめ、己の未熟さを省み、共に歩き続けなければならない。
「フラン」
レンブが低い声で名を呼ぶ。
「はい?」
「ギーマが万が一また愚かな真似をした時は、遠慮なくイッシュへ知らせろ」
「レンブ、きみという男は……」
ギーマが苦笑交じりに天を仰ぐ。
フランは一度目を丸くしたが、すぐにすべてを包み込むように明るく笑った。
「はい。その時は、すぐにお願いします!」
「頼む相手を少し間違えていないかい?」
「ギーマさんが変なことをしなければいいんです」
「まったく、返す言葉もないな」
ギーマは大げさに肩をすくめてみせる。
だが、その手でフランの細い手を握りしめたまま、決して離すことはなかった。
レンブはその繋がれた手元を一瞥し、すべてを納得したように力強く頷いた。
「貫け、ギーマ」
その一言に、一切の迷いはなかった。
「お前が自らの意志で選んだ道を。そして、その手を取った者を、二度と手放すな」
ギーマの顔から、先ほどまでの軽い冗談がすっきりと消え失せた。
代わりに、そこには果てしない覚悟を宿した真摯な眼差しがあり、彼はレンブの言葉を魂の奥深くまでしっかりと受け止めた。
「ああ」
握りしめた手へ、静かに、しかし揺るぎない力を込める。
「今度こそ、最後まで」
フランもまた、その温もりに応えるようにしっかりと手を握り返した。
南国の夜風が吹き抜けるアローラの空の下。
かつてイッシュリーグの頂点で、それぞれの誇りを胸に共に戦い抜いた四天王たちは、形を変えながらも再び同じ場所へと集い合っていた。
あの頃とは立場も、置かれた環境も、暮らす土地すらも違う。
それでも、互いを深く思いやる絆の形が変わることはない。
レンブという男はどこまでも不器用で、気の利いた甘い言葉を並べることなど一生できない人間だ。
それでも彼は、遠く離れたアローラまでの長い海を自らの足で渡り、友の不甲斐なさを厳しく叱責し、愛する女性の未来をその背中に託した。
それこそが、言葉のいらない、彼なりの最も雄弁な友情の証明だった。
そしてギーマもまた。
その圧倒的な信頼と叱咤に応えるためではなく、他ならぬ自分自身がこの手で掴み取ると誓った未来を守るために。
これからもずっと、フランの隣に立ち続けるのだ。
もう二度と、自らの弱さに負けてその手を離さぬように。
二人で共に生き、共に幸せになるという茨の道を、強い信念をもって貫き通すために。
挑戦者たちの熱気を受け入れる窓口を一時的に閉ざし、戦いに明け暮れる四天王やそれを支える運営スタッフたちにも、しっかりとまとまった休息の時間が与えられる。
心身を休めることもまた、次の激しい戦いへ万全の状態で備えるために不可欠な時間である。
日々の鍛錬を怠らないレンブも、その理屈自体には頭でしっかりと納得していた。
だが、だからといって。
「皆でアローラへ行きましょう!」
静かな四天王控室の重厚な扉を勢いよく開け放ち、旅の浮かれた空気を纏った旅行鞄を片手にシキミからそう宣言される理由には、到底ならないはずだった。
「……なぜ、わたしまで行くことになっている」
黙々と自身の鍛錬を終えたばかりのレンブは、首にかけていたタオルで汗を拭いながら、目の前の呑気な二人を見据えた。
シキミは今すぐにでも船に飛び乗れそうな装いで、目をキラキラと輝かせている。
その隣では、普段はめったに外に出ないカトレアが、優雅に紅茶のカップを口へ運んでいた。彼女の足元にも、すでに職人が仕立てたような品のよい旅行鞄がしっかりと置かれている。
「決まっているでしょう」
カトレアは微塵の疑いもないといった様子で、澄んだ声を響かせた。
「アナタもギーマとフランの様子を見に行くのよ」
「わたしは一言も、アローラへ行くなどとは言っていないのだが?」
「ええ。アタクシたちが決めたもの」
「それは決まったとは言わない、ただの独断だ」
「レンブさんも心配していたでしょう?」
シキミがぐっと身を乗り出し、探るような目を向けてきた。
「前にアタシたちがアローラへ行った時だって、本当はあのとき一緒に来たかったのではありませんか?」
「そのような軽率なことは言っていない」
「言っていませんけど、リーグに残ったとき、ずっとギーマさんの空いた席をチラチラ見ていましたよ!」
「見ていない」
「見ていました!」
「それに」
カトレアが、食い違う二人の会話へと静かに割って入る。
「前回はリーグを完全に空けるわけにいかなかったから、アナタに留守を頼んだだけよ。今回は全員に与えられた正当な特別休暇なのだから、残る理由なんてどこにもないでしょう」
「……休暇中は、誰にも邪魔されずに修行に励むつもりだったんだが?」
「アローラでも修行はいくらでもできるわ」
「わたしは、人里離れたネジ山へこもるつもりだった」
「アローラには広大な火山があるそうです!」
シキミがますます元気よく言いのける。
「山だけでなく、美しい海も広い砂浜も、鬱蒼とした密林もあります!イッシュとは異なる環境で身体を鍛えれば、きっと今までにない新しい強さが見つかりますよ!」
「シキミ、レンブの誘い方がすっかり上手くなったわね」
カトレアがどこか感心したように細い目を細めた。
レンブは、目の前で勝手に話を進める二人を交互に睨みつけた。
ここで意地を張って断り続けたところで、この二人のことだ、きっと既に自分の分のアローラ行きのチケットの手配まで完璧に用意されているに違いなかった。
そして何より、心の奥底で引っかかっていた感情があった。
アローラという見知らぬ土地へ流れ着いたギーマが、今いったいどのような顔で、どんな暮らしを送っているのか。
はるばる海を渡って、たった一人で彼を追いかけたフランが、あの場所で本当に心から笑えているのか。
それを自分の目で一度確かめておきたいという思いが、心の隅にまったくなかったと言えば、それは嘘になる。
「……何日だ」
レンブが低く呟くと、シキミの顔が一気にパッと輝いた。
「来てくださるんですね!」
「何日滞在する予定なのかと聞いただけだ」
「もう行くと言っているようなものじゃない」
カトレアは満足したように、カチャリと音を立ててカップをソーサーに戻した。
「じゃあ、旅支度をなさい。船は明日の朝よ」
「明日だと?」
「善は急げです!」
「急すぎるだろう」
「強者との戦いに臨むとき、万全の準備が整うまで待ってくれなどと相手に懇願するわけにはいかないでしょう?」
カトレアにそうあっさりと論破され、レンブは返す言葉を失って息を詰まらせた。
「……分かった」
最終的に、彼は観念したように深く長い息を吐き出した。
「行けばいいのだろう、アローラへ」
「はいっ!」
「最初から素直にそう言えばいいのよ、本当に頑固ね」
「お前たちが、わたしの意思を完全に無視して話を進めたんだろうが」
不満はあったものの、その日のうちにレンブがしっかりと旅の支度を整えたことについて、カトレアもシキミもあえて何も言わなかった。
***
アローラに到着したレンブは、故郷とはまったく異なるむせ返るような強い日差しに目を細めた。南国特有の熱を帯びた空気が、全身の肌を包み込むようにまとわりついてくる。
「……暑いな」
「南国ですから!」
「それは見れば分かる」
周囲を見渡せば、イッシュでは決して見慣れない多種多様なポケモンたちが、のびのびと歩き回っている。あちこちから聞こえてくる旅行者たちの陽気な声、そして遠くの波音と共に潮の香りを含んだ風が吹き抜けていた。
そうした活気と浮かれた空気を肌で感じながらも、レンブは観光客のようにキョロキョロと辺りを見回したりはしない。彼の視線は常に前を向き、ただ決められた待ち合わせ場所へと真っ直ぐに、揺るぎない足取りで歩いていく。
「レンブさん、楽しみではないのですか?」
並んで歩くシキミが、面白がるような顔で横から覗き込んできた。
「何がだ」
「ギーマさんとフランさんに会うことです」
「特別なことではない。同じ四天王として長く顔を合わせていた相手だ」
「ずっと会っていなかったじゃないですか!」
「便りは届いている」
「素直じゃないですね〜!」
シキミとレンブの噛み合わない、しかしどこか微笑ましいやり取りを聞きながら、少し離れた場所を歩いていたカトレアが上品に小さく笑った。
「……何がおかしいのだ、カトレア」
「ふふ、アナタ……少し緊張しているのではなくて?」
「していない」
「ふーん。そう。じゃあそういうことにしておいてあげる」
からかうようなカトレアの声音に反論しようとレンブが口を開きかけたその時、不意に耳慣れた明るい声が周辺の空気を震わせた。
「シキミさん!カトレアさん!」
髪を南国の風に揺らしながら、フランが満面の笑みを浮かべてこちらへ駆け寄ってくる。その隣には、落ち着いた和装を纏ったギーマの姿があった。
足元ではグラエナのエナ、ブラッキーのキキ、そして気ままなレパルダスが揃って主人の歩みに寄り添っている。
「お二人とも、また来てくださって――」
勢いよく駆け寄ってきたフランは、そこでシキミとカトレアの背後にひっそりと、しかし圧倒的な存在感を放って立つ大柄な男の姿にようやく気づいた。
彼女の瞳が、驚愕で見開かれる。
「レンブさん……?」
「久しいな、フラン」
「本当にレンブさんですか?!」
「わたし以外の何に見える」
「だって、レンブさんがアローラに……!」
激しい動揺の色を浮かべながらも、フランの表情はみるみるうちに隠しようのない喜びに染まり、パッと花が咲いたように明るくなっていく。
「来てくださったんですね!」
「ああ」
「ありがとうございます!」
「礼を言われるほどのことではない」
「レンブさんは最後まで行かないと仰っていましたけれど、アタシたちが連れてきました!」
「シキミ」
「事実でしょう?」
あまりの展開に、フランは思わず声を上げて笑った。
その楽しげな笑顔を目の当たりにして、レンブの険しかった眉間の皺も、ほんのわずかに、しかし確実に緩んだ。
「元気そうだな」
「はい!」
「以前より、顔色もよい」
「アローラのごはんが美味しいので、少し太ったかもしれません」
「それくらいがよい。以前は痩せすぎていた」
「うっ……」
ギーマを探してアローラ中を駆けずり回り、自分の体を省みずに歩き続けていたあの頃のことを突かれ、フランは気まずそうに小さく笑った。
その隣で、静かに事態を見守っていたギーマが、空色の目をレンブへと向けた。
「まさか、きみまで来るとは思わなかったよ」
「わたしも来るつもりはなかった」
「それは残念だ。再会を喜んでもらえていると思ったのだが」
「喜んでいないとは言っていない」
予想外の言葉だったのか、ギーマが僅かに目を見開く。
レンブはそれ以上言い訳じみた説明をせず、ただ静かにかつての仲間の全身を観察するように見つめた。
確かに以前より痩せてはいるが、陰鬱さはなく、弱々しさのかけらもない。その立ち姿には確かな芯が戻り、静かな眼の奥には揺るがぬ力があった。
かつてイッシュリーグの頂点で肩を並べて戦い続けていた頃より、今の彼はいくらか穏やかで、角が取れたように見える。それでも、勝負師としての底知れぬ鋭さは、決して失われていなかった。
「お前も、元気そうだ」
「ああ。おかげさまでね」
「そうか」
交わされた言葉はあまりにも短い。
だが、そのわずかなやり取りだけで、二人の間には長く険しい時間を越えてきた者同士にしか分からない、確かな何かが静かに交わされていた。
シキミはすっかり感動したように胸の前で手を組み、目を潤ませており、カトレアは静かに満足げな笑みを湛えている。
「まずは家へ行きましょう!」
場の空気を切り替えるように、フランが弾んだ声で言った。
「皆さんのために、たくさんごはんを用意したんです。お口に合うか分かりませんけど……」
「フランが朝から張り切っていてね」
ギーマが、どこか誇らしげな、それでいて呆れたような優しい声音で付け加える。
「一人では到底食べきれない量ができている。ぜひ助けてほしい」
「ギーマさん!」
「事実だろう?」
「食べきれるように、皆さんが来てくださったんです!」
「そうだったね」
ギーマは穏やかに目を細めて笑う。
フランがぷいと頬を膨らませると、彼は自然な動作で彼女の頭に手を伸ばし、優しく撫でた。
「よく頑張っていたよ」
「……急に褒めて誤魔化さないでください」
「誤魔化してはいないさ」
目の前で繰り広げられる何気ないやり取りを、レンブは口を挟むことなくじっと見つめていた。その表情には相変わらず厳格さが漂っていたが、その目はどこか温かく細められていた。
二人が暮らす家は、波の音が間近に聞こえる、海からそう遠くない静かな場所にあった。
決して贅を尽くした豪邸というわけではない。だが、開け放たれた窓からは明るい陽射しがたっぷりと差し込み、心地よい潮風が室内を絶え間なく通り抜けていく。
居間の一角にはギーマが好んで読む本やカードが無造作に置かれ、そのすぐ隣にはフランの化粧品や日々の買い物のメモが仲良く並んでいた。
壁に目をやれば、かつてイッシュの四天王として共に過ごした日々を捉えた写真と、アローラの鮮やかな青空の下でポケモンたちと笑顔で写る写真が並んで飾られている。
どちらか一人の空間に相手が間借りしているのではなく、二人の時間と生活が完全に混ざり合い、一つの歴史を築いていることが一目で分かる家だった。
「レンブさん、こちらにどうぞ」
フランが丁寧に椅子を引いて勧めてくれる。
「すまない」
「飲み物は何がいいですか? お茶もありますし、アローラの果物を使ったジュースも――」
「水でよい」
「せっかくですから、何か特別なものを飲んでください!」
「水も身体にとって重要なものだ」
「それはそうですけど……」
「果物のジュースも栄養がありますよ!」
見かねたシキミがすかさず助け舟を出す。
結局、レンブが折れる形で、彼の目の前にはフラン特製の鮮やかな果物ジュースが置かれることになった。
テーブルの上には、アローラの豊かな食材をふんだんに使った料理の数々が所狭しと並んでいる。だが、それらのすべてをフラン一人が作り上げたわけではないらしい。
「この煮込み料理は、ギーマさんが作ってくれたんです」
「ギーマが?」
レンブが信じられないものを見るような目で相棒を見やった。
「何かな、その顔は」
「おまえが台所へ立つ姿を想像したことがなかった」
「わたしとて、生活に必要なことくらいは覚えるよ」
「ギーマさん、お料理上手なんですよ」
フランが嬉しそうに自慢げに微笑む。
「最初から上手だったわけではないけれどね」
「初めて作ってくれた時は、少し味が濃かったです」
「フラン」
「でも、今はすごく美味しいです!」
「付け加えるのが遅いぜ」
ギーマは苦笑しながらも、愛おしそうにフランの皿へ手際よく料理を取り分けていく。
「これはきみが好きだっただろう」
「ありがとうございます。ギーマさんも野菜を食べてくださいね」
「取引かな」
「健康のためです」
「分かったよ」
促されるまま、ギーマは素直に野菜を自分の皿へと移した。
その一連の自然すぎる動作には、作られたところや気負ったところが一切ない。
どちらか一方が一方的に世話を焼いているわけではなく、フランはギーマの細かな体調の変化を常に気遣い、ギーマはフランが無理をしていないかを絶えず確認している。
フランが立ち上がろうとすれば、ギーマがさりげなく空いた食器を引き受け、ギーマが飲み物に手を伸ばそうとすれば、フランが言われずともそのカップをそっと手渡す。
二人がアローラの地で重ねてきた静かな時間が、言葉にしなくても通じ合う細やかな気遣いとなって、すべての動作に染み込んでいた。
「……どうですか、レンブさん」
食事が一段落し、穏やかな空気が流れる中、シキミが隣でこっそりと小声で尋ねてきた。
「何がだ」
「お二人の様子です」
レンブは腕を組み、静かにギーマとフランの姿を交互に見据えた。
「問題はなさそうだ」
「本当ですか?」
「ああ」
その太い肯定の言葉を聞いた瞬間、フランの顔にパッと華やかな笑みが広がった。
「よかったです!」
「なぜ、きみが試験へ合格したような顔をするのかな」
「だって、レンブさんにも安心してほしかったんです」
真摯なその言葉に、レンブは一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「……そうか」
短くそれだけ返すと、彼は目の前のジュースに口をつけた。
普段は甘い嗜好品を好まない硬派な男だったが、その一杯を文句も言わずにすべて飲み干したのだった。
***
午後は、ギーマが日々の鍛錬や腕試しのために勝負を重ねている場所へと案内してもらうことになった。レンブが彼の現在の実力に強い興味を示したためだ。
バトルツリーの広大な勝負台に立ったギーマは、先ほどまで家で見せていたフランに対する柔らかな表情をすっきりと消し去り、かつての冷徹で鮮やかな勝負師の顔へと完全に切り替えていた。
「配られたカードへ文句を言っても、勝負は進まない。さあ、きみの手札を見せてもらおうか」
対戦相手のわずかな隙を見逃さず、鋭く戦局を読み解く。
手持ちのポケモンたちへ、無駄のない的確な指示を飛ばす。
どれほど追い詰められた状況に陥ろうとも、焦りの色は一切見せない。
一度の絶望的な敗北によってすべてを失いかけた男とは思えないほど、その立ち姿には確固たる自信と、深い思慮が戻っていた。
だが、かつての彼とは決定的に違う点があった。
それは、もはや自らの存在価値を証明するために、勝利に執着してしがみついているわけではないということだ。
目の前の勝負の駆け引きを心から楽しみ、共に戦うポケモンたちを心底信頼し、自らの限界と可能性をどこまで高められるのかを純粋に求めている。その境地に達していた。
「レパルダス、つじぎり」
静かに、しかし鮮やかに最後の一撃が決まり、勝負に決着がつく。
周囲から大きな歓声が沸き起こる中、勝利を収めたギーマの視線は、誰よりも早く観客席で息を呑んでいたフランの姿へと向けられた。
「ギーマさん!」
勝負の終わりを確認したフランが、嬉しそうに両手を振る。
ギーマはふっと目を細め、静かにその声に応えた。
「強くなったな」
「以前よりも?」
「ああ」
「アタクシもそう思うわ」
戦いの余韻に浸る観客席で、レンブが低く呟き、その隣に立っていたカトレアも同意するように頷く。
レンブは勝負台の上からこちらへ戻ってくる友の姿を、一瞬たりとも逃さぬように見据えていた。
「技の切れ味だけではない。己の致命的な弱さを完全に認めた者だけが持つ、本当の強さがある」
「レンブさんも、そう感じますか?」
シキミが目を輝かせて尋ねる。
「過去に喫した敗北を、なかったことにはしていない。だが、敗北した惨めな自分という影にいつまでも囚われてもいない」
やがて近くまで歩いてきたギーマへ、フランが真っ先に冷たい飲み物を差し出した。
「お疲れ様です!」
「ありがとう」
「すごく格好よかったです。でも、途中でちょっと危なかったですよね」
「ああ。いい一手だった」
「無茶はしてませんか?」
「していないよ」
「本当に?」
「きみはわたしを何だと思っているのかな」
「勝負になると、少し夢中になりすぎる人です」
「否定は難しいね」
苦笑するギーマを見て、レンブはゆっくりと椅子から立ち上がった。
「ギーマ」
「何かな」
「一戦、わたしと交えぬか」
ギーマの空色の瞳が、戦う悦びを含んで面白そうに細められた。
「それは願ってもない申し出だ」
「えっ、今からですか?」
フランが驚いて二人を見比べる。
「ギーマさん、さっき勝負したばかりですよ」
「心配はいらないよ」
「しかし、疲れが残った状態で挑むのは、相手にも失礼だ」
レンブは武道家としての真面目すぎる矜持を覗かせて首を振った。
「今日はやめておこう」
「おや。きみから誘っておいて?」
「最高の状態でこぶしを交えるべきだ。勝負は明日にする」
「なるほど。異論はないさ」
「では、明日の朝からです!」
シキミが待ちきれないと言わんばかりに両手を合わせた。
「アタシ、特等席で絶対に観戦します!」
「あたしも応援します!」
フランが声を弾ませると、ギーマは優しく彼女に視線を落とした。
「わたしを?」
「もちろんです」
「レンブが相手でも?」
「レンブさんも応援しますけど、ギーマさんを一番応援します」
迷いのない即答だった。
ギーマの口元が、隠しきれない幸福感によって思わず緩む。
「それは心強い」
「だらしのない顔をするな、ギーマ」
「きみにはそう見えるのかい?」
「見える」
容赦のないレンブのツッコミに、シキミが声を上げて笑い、フランも恥ずかしそうに両手で口元を押さえた。
その日の夜。
賑やかな夕食を終えた後、フランは「せっかくレンブさんも来てくださったので、明日の朝ごはんをもっと豪華にしたいんです」と意気込み、シキミとカトレアを連れて近くの市場へと買い物に出かけていった。護衛代わりとして、フランの手持ちであるエナとキキも一緒に付いていっている。
静まり返った家に残されたのは、縁側に腰掛けたギーマとレンブ、そして足元で気ままに丸くなっているレパルダスだけだった。
窓の外には、アローラ特有のどこまでも深い星空が広がり、闇夜の向こうから絶え間なく波の音が心地よく響いてくる。
レンブは縁板に腕を突いて立ち、遠くの暗い水平線を静かに見つめていた。
「静かな場所だな」
「ああ。フランもこの環境をいたく気に入っているよ」
「お前は?」
「もちろん、わたしも気に入っているさ」
ギーマは静かにレンブの隣へと歩み寄り、同じように並んで立った。
「以前は、これほど穏やかな暮らしを好むとは思ってなかったよ」
「変わったのだな」
「そうかもしれない」
「よい方に、だ」
レンブの短い言葉に、ギーマはわずかに驚いたように彼へ目を向けた。
「今日はやけに珍しく褒めてくれるね」
「浮かれるな」
「やはり、そう簡単には褒め殺してくれないか」
ギーマは自嘲気味に小さく肩をすくめた。
短い沈黙が訪れた後、レンブはそれまで海に向けられていた視線を真っ直ぐに友の横顔へと戻し、低く重い声で名を呼んだ。
「ギーマ」
「なんだい」
「一つ、言っておく」
その声の底に宿るただならぬ気配に、ギーマの表情からふっと軽口の笑みが消え失せた。
「何を言うつもりかな」
レンブは少しも視線を外さずに告げる。
「お前は、かつて愚かなことをした」
それはあまりにも率直で、逃げ場のない言葉だった。
「フランに一言も告げず、勝手に姿を消したことだ」
「……ああ」
「己の無力と弱さを直視できず、フランの幸せを言い訳の盾にして逃げた」
「返す言葉もないね」
「言い訳は聞かん」
レンブは厳しい武道家の顔のまま、さらに踏み込んだ。
「お前がどれほど深い絶望に浸り、苦しんでいたか。何を失い、何を恐れていたか。それは同じ時代を駆けた者として理解しているつもりだ」
「……」
「だが、だからといって、フランを深く傷つけてよい理由にはならん」
「ああ」
「彼女は強い」
レンブの脳裏には、イッシュを発つ直前の、あのときのフランの姿が生々しく蘇っていた。
涙で腫らした目をしていながらも、決して折れず、自分の足でこの男を探し出すと決意していた一人の女性の姿が。
「強いが故に、彼女は己の痛みをいつも後回しにする。大切な者のためならば、どれほど限界を越えてでも歩こうとする」
「分かっている」
「本当に分かっているか?」
レンブの眼光が一段と鋭さを増す。
「フランが強いからといって、何度放置し、傷つけてもその都度勝手に立ち上がってくれると思うな」
「思っていない」
「彼女が今回のように追ってきたからといって、次もまた同じように探してもらえるなどと甘えるな」
「……ああ」
「二度と、彼女の強さに甘えるな」
言葉の一個一個が、まるで重い拳のようにギーマの心臓を直撃する。
ギーマは一歩も引かず、そのすべてを正面から受け止めていた。
「肝に銘じているよ」
「ならばよい」
そう言いながらも、レンブはまだ追撃の手を緩めない。
「お前が今、以前より強くなったことは認める」
「光栄だね」
「だが、真の強さとは、勝負の勝敗だけにこだわることではない」
レンブは自らの頑丈な胸元に、ぽんと拳を当てた。
「脆き己を砕き、本当の信念を貫くことだ」
「……」
「怖い時にそこから逃げ出さず、己の弱さを隠さずに口にすることも立派な強さだ。大切な者に一方的に支えられるだけでなく、今度は自分が相手を支えるためにその場に立ち続けることもな」
ギーマは静かに目を伏せ、じっと足元を見つめた。
「カトレアやシキミにも、似たようなことを散々言われたよ」
「ならば、何度言われようとも二度と忘れるな」
「手厳しいね」
「お前は一度、それを完全に忘れた男だ」
即座に突き刺さる言葉に、ギーマは小さく息を吐き出した。
「まったく、その通りだよ」
レンブは再び両腕を組む。
「フランは、勝負の勝利で手に入る賞品ではない」
「ああ」
「お前が一度勝ち取ったからといって、永遠に安全に手元へ置けるものなど何もない」
「分かっているよ」
「ならば、日々向き合え」
短く、しかし圧倒的な説得力をもって告げる。
「彼女を守るという名目で自分の殻に閉じ込めるな。大切にしたいからといって、何もさせずに庇い立てするな。フランはお前を甘やかすためではなく、お前の隣へ対等に立つためにアローラまで来たのだ」
その言葉を聞いた瞬間、ギーマの空色の目がわずかに、激しく揺らめいた。
「隣へ立つ者として扱え」
「……ああ」
「そして」
レンブは一度言葉を切り、先ほどまでの厳しいトーンから、ほんのわずかに、しかし確実に声を和らげた。
「幸せにしろ」
波の音だけが、しばらくの間静かに二人の間を通り過ぎていった。ギーマはすぐには言葉を発さなかった。
「レンブ」
「なんだ」
「わたしは以前、その言葉の本当の意味を酷く誤って受け取っていた」
「……」
「フランを真に幸せにするためには、わたしのような人間が彼女の人生から完全に消え去るべきだと思ったんだ」
「それは、ただの逃避だ」
「ああ。今なら痛いほど分かる」
ギーマは顔を上げ、満天の夜空を見上げた。
「それに、わたし一人が彼女に一方的に幸福を与えてやるという考え自体、あまりにも傲慢だった」
「どういう意味だ」
「フランは、わたしから一方的に施されるだけの、か弱い存在ではない」
ギーマの表情が、これまでにないほど穏やかに緩んでいた。
「彼女は自分の足で幸せを選び、自分の意志でそこへ向かって歩いてくる。わたしはただ、その隣を同じ歩幅で歩きたい」
「……」
「フランを幸せにする。そして同時に、彼女と一緒に、二人で幸せになる」
そこにはもう、一切の迷いぐもりもなかった。
「彼女が疲れた時は、わたしが支える。わたしが弱さに呑まれそうな時は、支えてほしいと素直に伝える。どちらか一方だけがすべてを背負うのではなく、二人でその荷物を持つ」
「それが、おまえの出した答えか」
「ああ」
ギーマは自分の手のひらをじっと見つめた。
かつて、自らの手で愛おしいものを手放し、逃げ出したその手。
今は毎日のように、フランが温かく握り返してくれるその手。
「もう二度と、彼女の手を自分の都合で勝手に離したりはしない」
「言葉だけなら、どんな卑怯者でもいくらでも吐ける」
「分かっているさ」
ギーマは真正面からレンブを見据えた。
「だからこそ、これからの長い人生のすべてで証明するよ」
その空色の瞳には、かつて勝負台の前に立つ時以上の、力強く美しい光が宿っていた。
「たった一度の勝利で終わるような一過性の勝負ではない。明日も、明後日も、毎日彼女を選び続ける」
「……よい目だ」
レンブは満足したように、小さく力強く頷いた。
「今のおまえのその眼差しならば、その言葉を信じよう」
「ありがとう」
「ただし」
「まだ何かあるのかい?」
「次にフランを泣かせるような真似をすれば、今度はわたしが相手になる」
ギーマは片方の眉を面白そうに上げた。
「バトルで?」
「必要ならば、このこぶしでもよい」
「それは全力で勘弁願いたいね」
「ならば、二度と泣かせるな」
「嬉し涙まで厳しく禁止されるのかな」
「屁理屈を言うな」
ついに堪えきれなくなったように、ギーマは声を立てて笑った。
その笑い声には、かつてのイッシュで見せていたような乾いた響きや影は微塵もなく、どこまでも澄み切っていた。
レンブ自身は笑わなかったが、その顔に貼りついていた険しい表情は綺麗にほどかれていた。
「レンブ」
「なんだ」
「きみも、こうしてわざわざ足を運んで、わたしのために心を砕いてくれていたんだね」
「思い上がるな、暇つぶしだ」
「では、フランが絡んでいたから?」
「……どちらでもよいだろう」
「なるほどね」
「妙な含みのある顔をするな」
「いや。ただ、嬉しく思っただけさ」
「浮かれるなと、さっき言ったはずだ」
その時、静寂を破るように、遠くの小道から懐かしい声が響いてきた。
「ギーマさーん!レンブさーん!」
ギーマは迷うことなく、一瞬で声のする方へと顔を向けた。
レンブはその脇で、友の柔らかな横顔を横目に捉える。
たったそれだけの呼び声に、これほどまでに人間らしい、温かな表情を浮かべるようになるとは。以前の彼からは決して想像すらできない姿だった。
「どうやら、帰ってきたようだね」
「ああ」
「それじゃあ、迎えに行ってくるよ」
ギーマはそう言い残すと、待ちきれないといった様子ですぐに家の外へと足を向ける。
「待て」
「何かな」
「ほんの数十歩の距離であろうに」
「距離の問題じゃないさ。荷物が多いかもしれないからね」
「ただ寂しかっただけではないのか」
図星を刺されたのか、ギーマの歩みが一瞬だけピタリと止まる。
「……シキミ達から余計なことでも聞いたかい?」
「昼間の様子を少し見れば、誰にでも分かることだ」
「わたしもすっかり分かりやすい男になったものだね」
自嘲気味に苦笑しながら、ギーマはそのまま玄関の扉を開けて外へ出ていった。
それからほどなくして。
「ギーマさん、わざわざここまで荷物を取りにこなくても……」
「いいんだ、持つよ」
「そんなに重くないですよ」
「わたしが持ちたいんだから、いいじゃないか」
「もう……」
少し困ったような、しかしどこか嬉しそうなフランの声と、それを優しく包み込むようなギーマの楽しげな声が、近づく足音と共に家へと戻ってきた。
レンブは縁側に立ったまま、その様子を静かに聞いていた。
「レンブさん?」
先に戻ってきたシキミが、勝手知ったる様子で首を傾げる。
「ギーマさんと、いったい何をお話しされていたのですか?」
「大したことではない」
「どうせ、ギーマを厳しくお説教していたのではなくて?」
カトレアが、すべてお見通しだといわばかりに優雅に微笑む。
「少し、男同士の言葉を交わしただけだ」
「なんて言ったんですか、教えてください!」
「忘れた」
「嘘です!絶対覚えてますよね?!」
シキミが詰め寄るのを受け流すように、そこへたくさんの買い物袋を両手に抱えたギーマと、その後ろを歩くフランが戻ってきた。
「随分と熱心に、わたしに関する取り調べが行われているようだね」
「ギーマさんは、レンブさんに何を言われたんですか?」
フランもすっかり興味を惹かれたらしく、目を丸くして尋ねる。
ギーマはちらりとレンブの方に視線を投げた。
レンブは、余計なことを口にするなという無言の圧力を瞳に籠めて視線を返す。
「男同士の、他愛のない話さ」
「男同士……」
「心配するようなことは何も言っていない」
ギーマは買ってきた荷物を丁寧に棚に置くと、フランの頭へと自然に手を伸ばし、その柔らかい髪を優しく撫でた。
「これからも、きみを幸せにするようもっと努力しろと、少しばかり発破をかけられただけさ」
「レンブさんが?」
フランが驚愕の表情を浮かべてレンブを振り返る。
「……ギーマ」
「事実だろう?」
「そこまで細かく言う必要はない」
「余計な部分ではないと思うけれどね」
そのやり取りを聞いた瞬間、フランの瞳がゆっくりと潤んでいく。
「レンブさん」
「なんだ」
「ありがとうございます」
「礼は不要だと言ったはずだ」
「でも、あたしたちのことを心の底から心配して、わざわざ遠いイッシュからアローラまで来てくださったんですよね」
「シキミ達に勝手に連れてこられただけだ」
「それでも……すごく、嬉しいです」
フランは真っ直ぐで温かい笑顔を、レンブに向けた。
「ギーマさんとあたしが、こうしてちゃんと並んで暮らしているところを、レンブさんにも自分の目で見てもらえて本当によかった」
「……ああ」
「また、いつでも遊びに来てくださいね」
「修行の予定がある」
「しっかり休むことも、立派な修行のうちですよ!」
シキミがここぞとばかりに元気よく合いの手を入れる。
レンブは思わず大きく眉間へ深い皺を寄せた。
「お前は、自分が都合のよい時だけわたしの過去の言葉を引っ張り出すな」
「よい言葉は、人生の節目で何度でも使うべきです!」
「レンブ。次に来た時にも、わたしと勝負をしよう」
見かねたように、ギーマが穏やかな笑みを浮かべて割って入る。
「それまでに、このアローラの地でさらに腕を磨いておくよ」
「望むところだ」
レンブの眼光に、格闘家としての熱い闘志が一瞬で宿る。
「わたしもここで立ち止まるつもりなど毛頭ない。次に拳を交える時、おまえがどれほど強くなっているか、存分に見せてもらおう」
「楽しみだね」
「ですが、その前にまずは明日の勝負です!」
シキミが自分のことのように嬉しそうに両手を打つ。
「朝から特等席で全力で応援しますからね!」
「あたしもです!」
フランがギーマの隣へと一歩歩み寄り、その肩が自然にふわりと触れ合う。ギーマは迷うことなく、その細い手を自分の手でしっかりと包み込んだ。
「ギーマさん、明日は無理しないでくださいね」
「ああ。きみが目の前で見ているんだ、決して無様な勝負はできないさ」
「そういう問題じゃないですよ」
「分かっているよ」
「もし負けても……ちゃんと美味しいごはんは食べてくださいね」
「もう最初から負ける前提で話が進んでいるのかな」
「だって、レンブさんはすごく強いですから」
「フラン」
「あっ、でももちろん、ギーマさんを一番に応援します!」
「それなら、負けるわけにはいかないな」
指摘されて、ギーマの機嫌がこれ以上ないほど分かりやすく直る。
レンブはその微笑ましいやり取りを静かに見つめながら、大きく息を吐き出した。
フランは今、心から幸せそうに笑っている。
そしてギーマもまた、彼女の無条件の愛情にただ甘えて寄りかかっているわけではない。
勝負師として己の技と心を日々磨き上げ、暮らしの中で細やかに彼女を気遣い、自らの弱さを隠さずに認め合いながら共に支え合う道を選び取っている。
もちろん、まだすべての問題が解決したわけではない。人の心も、二人の関係も、日々の鍛錬と同じだ。
油断すればすぐに錆びつき、少しの気の緩みですれ違うことだってあるだろう。
だからこそ。
互いの顔を真っ直ぐに見つめ、己の未熟さを省み、共に歩き続けなければならない。
「フラン」
レンブが低い声で名を呼ぶ。
「はい?」
「ギーマが万が一また愚かな真似をした時は、遠慮なくイッシュへ知らせろ」
「レンブ、きみという男は……」
ギーマが苦笑交じりに天を仰ぐ。
フランは一度目を丸くしたが、すぐにすべてを包み込むように明るく笑った。
「はい。その時は、すぐにお願いします!」
「頼む相手を少し間違えていないかい?」
「ギーマさんが変なことをしなければいいんです」
「まったく、返す言葉もないな」
ギーマは大げさに肩をすくめてみせる。
だが、その手でフランの細い手を握りしめたまま、決して離すことはなかった。
レンブはその繋がれた手元を一瞥し、すべてを納得したように力強く頷いた。
「貫け、ギーマ」
その一言に、一切の迷いはなかった。
「お前が自らの意志で選んだ道を。そして、その手を取った者を、二度と手放すな」
ギーマの顔から、先ほどまでの軽い冗談がすっきりと消え失せた。
代わりに、そこには果てしない覚悟を宿した真摯な眼差しがあり、彼はレンブの言葉を魂の奥深くまでしっかりと受け止めた。
「ああ」
握りしめた手へ、静かに、しかし揺るぎない力を込める。
「今度こそ、最後まで」
フランもまた、その温もりに応えるようにしっかりと手を握り返した。
南国の夜風が吹き抜けるアローラの空の下。
かつてイッシュリーグの頂点で、それぞれの誇りを胸に共に戦い抜いた四天王たちは、形を変えながらも再び同じ場所へと集い合っていた。
あの頃とは立場も、置かれた環境も、暮らす土地すらも違う。
それでも、互いを深く思いやる絆の形が変わることはない。
レンブという男はどこまでも不器用で、気の利いた甘い言葉を並べることなど一生できない人間だ。
それでも彼は、遠く離れたアローラまでの長い海を自らの足で渡り、友の不甲斐なさを厳しく叱責し、愛する女性の未来をその背中に託した。
それこそが、言葉のいらない、彼なりの最も雄弁な友情の証明だった。
そしてギーマもまた。
その圧倒的な信頼と叱咤に応えるためではなく、他ならぬ自分自身がこの手で掴み取ると誓った未来を守るために。
これからもずっと、フランの隣に立ち続けるのだ。
もう二度と、自らの弱さに負けてその手を離さぬように。
二人で共に生き、共に幸せになるという茨の道を、強い信念をもって貫き通すために。
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