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ギーマと劇的な再会を果たしてから、あっという間に数日が過ぎた。
朝、差し込む陽光に目を覚ませば、すぐ隣には愛しい彼が穏やかな寝息を立てている。二人で温かい朝食を取り、潮風を感じながら海沿いを歩き、日が暮れればまた、明かりの灯る同じ家へ帰る。まるで夢のような、けれど確かな温もりを伴った穏やかな日々。そんな満ち足りた時間を過ごしながらも、フランの胸の奥には、小さな棘のようにずっと引っかかっていることがあった。
――クチナシさんへ、きちんとお礼を言えていない。
慣れないアローラ地方の片隅で途方に暮れ、絶望しかけていたフランへ、クチナシはギーマの名をはっきり口にすることなく、いくつもの重要な手がかりを与えてくれた。
黒と白の着流しを着た、妙な男。
海辺の酒場。
月がよく見える、人気のない海沿いの道。
そして同じ頃、彼はギーマにもあの道を歩くよう、密かに仕向けていたという。
すべてはただの偶然だった、気まぐれだったと言われてしまえば、それまでのことだ。けれど、あの人がいなければ。あの不器用な優しさがなければ。
フランとギーマは、今もアローラの広大な空の下のどこかで、すれ違い続けていたかもしれない。
「……よし」
フランは小さく気合を入れるように呟き、手にした紙袋をしっかりと抱え直した。
中に入っているのは、マリエの市場で買った人気の焼き菓子と、少し苦みの強いこだわりのコーヒー豆。
無気力なあのクチナシが甘いものを好むのか、本当のところは分からない。けれど、交番で一緒に働く人々や、彼が世話をしているニャース達と分けてもらえれば、決して無駄にはならないだろう。
フランは足元に寄り添うエナとキキを連れ、灰色の雲が重く垂れ込めるポータウンへと向かい、クチナシが所属する古びた交番の前に立った。
「クチナシさん、いらっしゃいますか?」
扉を少し開け、隙間からそっと顔を覗かせる。すると、室内の奥、椅子に深く座っていたクチナシが、ひどく気怠そうな動きでこちらを見た。
使い込まれた机の上には、書類が無造作に積まれている。本人はその中の一枚を片手に持っていたが、果たして真面目に文字を追っていたのか、ただ空虚に眺めていただけなのかは、その眠たげな表情からは全く読み取れない。
「ああ?」
気だるげな赤い目がゆっくりと動き、扉の前に立つフランを捉える。次いで、彼女の足元で行儀よくお座りをするエナとキキへ、興味なさそうに視線を移した。
「なんだ、ねえちゃんか」
「こんにちは。えっと……お仕事中でしたか?」
「ここにいるんだから、一応な」
一応。
地域の安全を守る警察官として、その返答で本当にいいのだろうかという疑問が頭をよぎったが、フランは賢明にも口には出さなかった。
クチナシは面倒くさそうに手元の書類を机に放り投げ、ギシッと音を立てて椅子の背へ深く寄りかかった。
「で。あいつと会えたんだろ」
一切の前置きがない単刀直入な言葉に、フランは驚いて目を瞬かせた。
「……はい」
「なら、そんな神妙な顔して来る必要ねえだろ。喧嘩でもしたか?」
「してません!」
図星を突かれたようなからかいに思わず声を大きくすると、クチナシがやれやれといった様子で片方の眉を上げた。
「そうかい」
「今日は、その……お礼を言いに来ました」
「礼?」
「ギーマさんと再会できたことのです」
フランは扉を開け放って交番の中へ入り、クチナシの机の前までまっすぐに歩み寄ると、腰から深く頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました」
「……」
「クチナシさんが教えてくださらなかったら、あたし、ギーマさんを見つけられなかったかもしれません」
「おじさんは何も教えちゃいねえよ」
ある程度予想していた通りの、すげない返事だった。
フランが顔を上げると、クチナシは机に肘をつき、ひどく面倒そうに頬杖をついていた。視線はフランから外れ、窓の外の何もない空間へ向けられている。
「妙な格好の男を見たって話をしただけだ。お前さんが勝手に探しに行って、勝手に見つけた」
「でも、海沿いの道へ行くように言ってくれました」
「月がきれいだって言っただけだろ」
「ギーマさんにも、同じ道を歩くように言ったんですよね?」
「さあねえ、どうだったかね」
子どもでも見抜けるような、分かりやすすぎるほどのとぼけ方だ。
フランは、少し困ったように、けれど嬉しそうに笑った。
「ギーマさんから聞きました」
「あいつ、余計なことしゃべりやがって」
「クチナシさんに言われなかったら、あの夜は外へ出なかったって」
クチナシは露骨に顔をしかめ、小さく舌打ちをした。
強く否定しないところを見ると、やはり彼が背中を押してくれたのは紛れもない事実なのだろう。
「それに、クチナシさんはギーマさんに言ってくれたんですよね」
フランは、あの星の綺麗な夜に、海沿いの道でギーマから直接聞いた言葉を思い出す。彼の心を動かした、不器用で鋭い一言を。
「逃げたままの男に、勝ちはないって」
「……ああ」
「ありがとうございました」
「だから、礼を言われるようなことはしてねえ」
クチナシはふいと視線を逸らし、首の後ろを掻いた。
「目の前でうじうじしてる男が鬱陶しかっただけだ」
「それでもです」
「しつこいねえちゃんだな」
「はい。今日はちゃんとお礼を言うまで帰らないつもりで来ました」
「それ、警察相手に言う台詞か?」
「悪いことはしてません」
「居座りも度を越しゃ迷惑行為だぜ」
口では冷たいことを言いながらも、クチナシは立ち上がって本気で彼女を追い返そうとする素振りは一切見せなかった。
フランは胸の内でそっと安堵し、大切に持ってきた紙袋を机の空いているスペースへ差し出した。
「これも、よかったら受け取ってください」
「賄賂か?」
「違います!」
「冗談だよ」
クチナシは気怠い動作のまま身を乗り出し、袋の中を片目で覗き込んだ。
「焼き菓子とコーヒーです。お口に合うか分かりませんけど……」
「物まで持ってくる必要はねえっての」
「でも」
「ま、置いてくならもらっとく。ここにいる連中で食うだろ」
あくまで素っ気ない口調だったが、突き返されなかったことにフランはほっと胸をなでおろした。
「ありがとうございます」
「礼を言うのはこっちじゃねえのか」
「あ、そうですね」
「やれやれ」
クチナシは紙袋を邪魔にならない机の隅へ押しやると、頬杖をつくのをやめ、改めてまっすぐにフランを見た。その赤い瞳に、先ほどまでのふざけた色は無い。
「それで」
「はい?」
「あいつは、ちゃんとやってんのか」
主語のない問いだったが、フランはすぐに、彼が誰のことを指して聞いているのか理解した。
「ギーマさんですか?」
「他に誰がいる」
「はい。ちゃんと……というのが、どのくらいかは分かりませんけど」
「また何も言わず消えたり、一人で勝手に答えを出したりしてねえかってことだ」
「してません」
フランは迷うことなく、はっきりと力強く答えた。
「不安になった時は、不安だって言ってくれるようになりました。怖い夢を見た朝も、あたしがいなくなるのが怖いって、ちゃんと話してくれました」
「へえ」
その報告を聞いて、クチナシはわずかに目を細めた。
「そりゃ大した進歩だ」
「はい」
「ねえちゃんが全部吐かせてんじゃなく?」
「……時々は、聞きますけど」
「だろうな」
すべてを見透かすような鋭い言葉に、フランは少しだけ恥ずかしくなって俯いた。
クチナシは、そんな彼女のつむじをしばらく静かに眺めていた。やがて、ぽつりと口を開く。
「ねえちゃん」
「はい」
「あいつを支えてやりてえって気持ちは分かる」
「……」
「あいつが弱ってる時、傍にいたいってのもな」
クチナシの低くかすれた声から、いつもの投げやりな響きが少しだけ消えていた。それは、人生の先輩としての、あるいは彼なりの不器用な心配の表れだった。
「けどよ。支えるってのは、あいつが沈む時に一緒に沈んでやることじゃねえぞ」
静かな交番の中に、その言葉が深く、重く響いた。
フランははっと息を呑み、ゆっくりと顔を上げた。
「ギーマさんと、一緒に沈む……?」
「あいつが自分を責めてるからって、ねえちゃんまで自分を責める必要はねえ。あいつが苦しいからって、ねえちゃんが全部背負ってやる必要もない」
「でも、あたしは……」
「傍にいたい。助けたい。分かってるよ」
反論しようとしたフランを制するように、クチナシは短く息を吐いた。
「だが、あいつの痛みはあいつのもんだ。ねえちゃんが代わりに背負えるもんじゃねえ」
その突き放すような言葉は、表面的にはひどく冷たく聞こえるようでいて、不思議と底知れぬ優しさを孕んでいた。
「ねえちゃんは、あいつの帰る場所になるって言ったんだろ」
「……はい」
「帰る場所ってのは、燃えてる家の中まで迎えに行くことじゃねえ。自分で帰ってこられるように、明かりをつけて待ってる場所だ」
燃えている家の中まで、迎えに行くことではない。
その比喩の的確さに、フランは大きく目を見開いた。クチナシは自身の放った小っ恥ずかしい台詞に耐えきれなくなったのか、気まずそうにまた窓の外へ視線を逸らす。
「……柄にもねえこと言わせんな」
「すみません」
「謝るところじゃねえよ」
フランは、ワンピースの裾を掴むように、膝の上でぎゅっと手を握った。
大好きなギーマを支えたい。
彼が過去の幻影に囚われて苦しむなら、少しでもその苦しみを軽くしてあげたい。
そう強く思っていた。
けれど、ともすればフランは、愛情のあまり自分自身の心を後回しにしてでも彼を守ろうとしてしまう。自分が無意識のうちにすり減っていることにすら気づかずに。
何も言わずにギーマに置いていかれて、あんなにも深く傷ついたことさえ、「彼の方がずっと苦しんでいるのだから」と自分に言い聞かせ、心の奥底へ飲み込みそうになる時がある。
クチナシは、そんな彼女の危うい献身を見抜いていたのだ。
「……あたし」
フランは自分自身に言い聞かせるように、小さく呟いた。
「ギーマさんが、また一人で全部抱え込むのが怖いんです」
「ああ」
「だから、あたしが傍にいなきゃって思ってしまって」
「傍にいるのはいい」
クチナシは静かに頷き、言葉を継いだ。
「だが、あいつの足までねえちゃんが動かしてやる必要はない。歩くのは、あいつの仕事だ」
「ギーマさんの仕事……」
「そうだ」
クチナシは、机の上の書類を顎でしゃくり、指先でトントンと軽く叩く。
「一度逃げた男が、今度は逃げずに隣へ立てるかどうか。そいつはあいつ自身がやる勝負だろ」
勝負。
いかにもあの男が好きそうな、彼にふさわしいその単語の響きに、フランの強張っていた肩の力が抜け、少しだけ笑みがこぼれた。
「ギーマさんにも、同じことを言ったんですか?」
「似たようなことはな」
「何て?」
「忘れた」
「教えてください」
「忘れたって言ってんだろ」
頑なにそっぽを向く態度を見るに、どうやら絶対に言うつもりはないらしい。
フランはそれ以上追及することを諦め、代わりにまっすぐな瞳で彼を見つめ、深く頷いた。
「分かりました」
「本当に分かってんのか?」
「全部は、まだ分からないかもしれません。でも……ギーマさんを支えるために、あたしまで自分をなくしちゃ駄目なんですよね」
「そういうことだ」
「あたしも、嫌なことは嫌だって言います。寂しい時は寂しいって言います。ギーマさんがまた勝手に決めようとしたら、怒ります」
「そのくらいでいい」
「それで、ギーマさんが自分で帰ってくるのを待ちます」
揺るぎないフランの宣言を聞いて、クチナシは一瞬黙った後、呆れたように、けれどわずかに口元を緩めた。
「それなら、まあ」
彼が最後まで言い終える前に、交番の外の静寂を破るように、規則正しい足音が近づいてきた。
「フラン」
ひどく聞き慣れた、心地よく鼓膜を揺らす低い声。
驚いて振り返ると、開け放たれた扉の向こうに、ギーマが静かに立っていた。
薄暗いポータウンには不似合いなほどに洗練された、黒と白の着流し姿。その足元の隣には、しなやかな尾を揺らすレパルダスがぴったりと寄り添っている。
「ギーマさん?」
「迎えに来たよ」
「でも、帰る時間はちゃんと伝えましたよね?」
「ああ」
「まだ、その時間より早いです」
「分かっている」
言い当てられたギーマは、少しだけ気まずそうに空色の目を細めた。
「待っているつもりだったのだけれどね」
その堂々とした開き直りに、クチナシが特大の呆れたような鼻を鳴らす。
「待てなかったのかよ」
「……否定はしないよ」
「重てえ男だな」
「自覚している」
以前のプライドばかりが高かったギーマなら、こんな時、適当なもっともらしい用事を作って自分の感情を誤魔化しただろう。
近くまで来たついでだ。
レパルダスの散歩の途中で寄っただけだ。
フランの帰りが遅いと思ったから、心配になったのだ。
けれど今の彼は、少し気恥ずかしそうに視線を彷徨わせながらも、自身の不器用な執着を、言葉を飾ることなく素直に認めた。
「フランがきみへ礼を言いに行くと聞いていた。何も心配することはないと分かっていたのだが……」
「寂しくなったんですか?」
フランが核心を突いて尋ねると、ギーマは降参したようにふっと笑った。
「ああ」
たまらずといった様子で、クチナシが本日一番の大きなため息をつく。
「数時間も離れてねえだろ」
「時間の長さと寂しさは、必ずしも比例しないものらしい」
「開き直んな」
ギーマはクチナシの尤もな小言を涼しい顔で受け流すと、フランの傍へ歩み寄り、その顔を覗き込んだ。
「話は終わったかな?」
「はい。クチナシさんに、ちゃんとお礼を言えました」
「そう」
フランが頷くのを確認すると、ギーマはゆっくりとクチナシを見た。
その整った横顔から柔らかい気配が消え、表情がわずかに改まったものになる。
「クチナシ」
「ああ?」
「あの夜、フランをわたしのところへ導いてくれたこと。改めて礼を言う」
「お前さんまで始めるなよ」
「わたしに礼を言う資格がないとは言わせないよ」
「面倒くせえな」
クチナシはガリガリと乱暴に頭を掻いた。
「ただ道を教えただけだ。歩いたのは、そこのねえちゃんだろ」
「それでもだ」
「……ああ、そうかい」
心底鬱陶しそうに、クチナシは投げやりに答える。
それから、鋭い刃のような視線を真っ直ぐにギーマへ向けた。
「そのねえちゃん、今度こそ大事にしろよ」
「言われるまでもない」
「そういう格好つけた返事が一番信用ならねえんだ」
手厳しい指摘に、ギーマの整った眉がわずかにピクリと動く。
「大事にするってのは、抱え込んで隠すことじゃねえ。勝手に幸せを決めて手放すことでもねえ」
「……分かっている」
「本当に?」
「ああ」
ギーマは迷いなく手を伸ばし、フランの小さな手を取った。
逃がさないように強く縛り付けるのではなく、彼女の意思を確かめ、答えを求めるような、ひどく優しい触れ方だった。
フランがその温かな手をきゅっと握り返すと、彼の表情から強張りが抜け、少しだけ安堵したように和らぐ。
「今度は、怖いなら怖いと言う。弱さを見せることから逃げない」
「へえ」
「そして、フランに支えてもらうだけでなく、わたしも彼女を支える」
揺るぎない覚悟を込めた宣言を聞いて、クチナシは繋がれた手と、二人の顔を交互に見た。
「なら、まあ……好きにしろ」
「クチナシさん」
フランは立ち上がり、もう一度、心を込めて深々と頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました」
「分かったから、何度も下げんな」
「また会いに来てもいいですか?」
「用もねえのに来るな」
「じゃあ、用事を作ります」
「作んな」
クチナシは心底嫌そうな、苦虫を潰したような顔をする。
けれど、机の隅に置かれたコーヒーと焼き菓子の贈り物を、突き返そうとはしなかった。
フランはそれを見て、花が咲いたように嬉しそうに笑う。
ギーマはそんな彼女を見て優しく微笑むと、繋いだ手を軽く引いた。
「帰ろうか、フラン」
「はい」
すべての用事を終え、二人が連れ立って交番を出ようとした時だった。
「おい」
背後からかけられた低い声に、二人は同時に足を止め、振り返った。
クチナシは椅子へ深く腰掛けたまま、こちらを見ようともせず、相変わらず窓の外の虚空を見つめている。
「せっかく、くっついたんだ」
相変わらずの、ぶっきらぼうで無愛想な声。
「もう、こっちに泣きついてくるような真似すんなよ」
「……はい」
フランが朗らかに答える。
ギーマも、その背中へ向かって静かに頷いた。
「肝に銘じよう」
「あと」
クチナシは、首だけを少し回し、ほんの少しだけ、肩越しに二人へ視線を向けた。
「せいぜい、幸せになれ」
予想もしていなかった不器用な祝福の言葉に、フランの瞳が大きく見開かれる。
じんわりと、温かいものが胸の奥から湧き上がり、全身を満たしていった。
「はい!」
交番の中に響き渡るほど明るく大きな声で返事をすると、クチナシは露骨に顔をしかめて耳を塞ぐ仕草をした。
「声がでけえよ」
「すみません」
「さっさと帰れ」
しっしと追い払うように手を振られ、フランとギーマは顔を見合わせて微笑み合い、ポータウンの交番を後にした。
どんよりとしたポータウンを抜け、マリエシティの明るい海沿いの道を、二人と三匹でゆっくりと歩く。
エナは嬉しそうに尻尾を振りながら先を進み、キキとレパルダスがその後ろをつかず離れずの距離で並んで歩いていた。
フランは、歩きながらギーマとしっかり繋いだ手を見下ろす。
「ギーマさん」
「うん?」
「迎えに来てくれて、ありがとうございます」
「待てなくて来ただけだよ」
「それでも、嬉しいです」
「そう言ってもらえると助かる」
ギーマは、絡めた指へ少しだけ力を込め、彼女の温もりを確かめるようにした。
「クチナシと、何を話していたんだい?」
「ギーマさんを支えることについてです」
「わたしを?」
「はい」
フランは、先ほど交番で言われたばかりの大切な言葉を、心の中で反芻しながら答える。
「支えることと、一緒に沈むことは違うって」
その言葉の重みに、ギーマの足がわずかに止まった。
「……そうか」
「ギーマさんが自分で歩くところまで、あたしが代わりに歩こうとしちゃ駄目だって言われました」
「クチナシらしいね」
「あたし、時々、ギーマさんが苦しいなら、あたしが全部何とかしなくちゃって思っちゃいます」
「フラン」
「でも、それは違うんですよね」
フランは足を止め、長身の彼をまっすぐに見上げた。
「ギーマさんが自分で帰ってくることを信じて、あたしは帰る場所で待っていればいい」
迷いのないフランの言葉を聞いて、ギーマの空色の瞳が、驚きと愛おしさで優しく揺れる。
「ああ」
「ちゃんと帰ってきてくれますか?」
「帰るよ」
そこには微塵の躊躇いもない、はっきりとした迷いのない返事だった。
「きみのところへ」
その確かな誓いに、フランは心の底から安心したように笑う。
「じゃあ、あたしは待ってます」
「ただし」
「はい?」
「待つだけでなく、きみも寂しい時はわたしを呼んでほしい」
ギーマは繋いだ手を優しく引き寄せ、自分の胸元、心臓の鼓動が伝わる位置へと当てた。
「わたしが帰る場所であると同時に、きみにとっても、わたしが帰りたい場所でありたい」
「……はい」
「あの男の言う通りだ。支えてもらうばかりでは、隣に立っているとは言えないからね」
ギーマの誠実な響きに、フランは、彼の胸元にある繋いだ手をさらに強く握り返した。
「じゃあ、二人で支え合いましょう」
「ああ」
「どっちかが沈みそうになったら、一緒に沈むんじゃなくて、引っ張り上げるんです」
「いい勝利条件だ」
「勝負じゃないです」
「わたしにとっては、大切な勝負だよ」
ギーマは、アローラの陽射しよりも穏やかで、柔らかな笑みを浮かべた。
「きみと幸せになるためのね」
甘い言葉に、フランの白い頬が少しだけ赤く染まる。
それでも今度は照れて俯くことはせず、まっすぐに彼を見つめ返して笑い返した。
「じゃあ、負けられませんね」
「ああ。自分から降りるつもりもない」
二人は、もう一度並んで歩き出す。
波音が絶え間なく聞こえる道を、二人の帰る場所へ向かって。
遠くから吹き抜ける潮風は心地よく、空はどこまでも青く澄み渡っていた。
その道の途中で、フランはふと思い出したように隣を歩く彼に言った。
「クチナシさん、焼き菓子を食べてくれるでしょうか」
「どうだろうね。甘いものは苦手だと言いながら、誰も見ていないところで食べるかもしれない」
「そうだったら嬉しいです」
「次はわたしも礼の品を用意しよう」
「クチナシさん、嫌がりそうですね」
「だからこそ、渡す価値がある」
「ギーマさん、意地悪です」
「お互い様だよ」
他愛のない会話と共に、フランの明るい笑い声が、アローラの果てしなく広い空へ心地よく溶けていく。
その愛しい声をすぐ隣で聞きながら、ギーマは繋いだ彼女の小さな手を、決して離さないと誓うように、もう一度確かめるように握った。
クチナシが、不器用な手つきで結んでくれた縁。
けれど、これから先、どんな道であろうと歩き続けるのは二人自身だ。
もう決して逃げずに。
深い闇に沈まずに。
互いの手を引き、足並みを揃えながら。
そしていつかもう一度、あの気怠げな恩人へ顔を見せる時には。
余計な言葉や飾り立てた報告などではなく、ただ二人が隣に立ち、当たり前のように幸せに生きている姿そのものを、最大の礼として見せられればいい。
きっと彼は、また心底面倒そうな顔をして、こう言うのだろう。
用もないのに来るな、と。
それでも最後には。
ほんの少しだけ、あの赤い目を細めてくれるのだと、今の彼らには確信できた。
朝、差し込む陽光に目を覚ませば、すぐ隣には愛しい彼が穏やかな寝息を立てている。二人で温かい朝食を取り、潮風を感じながら海沿いを歩き、日が暮れればまた、明かりの灯る同じ家へ帰る。まるで夢のような、けれど確かな温もりを伴った穏やかな日々。そんな満ち足りた時間を過ごしながらも、フランの胸の奥には、小さな棘のようにずっと引っかかっていることがあった。
――クチナシさんへ、きちんとお礼を言えていない。
慣れないアローラ地方の片隅で途方に暮れ、絶望しかけていたフランへ、クチナシはギーマの名をはっきり口にすることなく、いくつもの重要な手がかりを与えてくれた。
黒と白の着流しを着た、妙な男。
海辺の酒場。
月がよく見える、人気のない海沿いの道。
そして同じ頃、彼はギーマにもあの道を歩くよう、密かに仕向けていたという。
すべてはただの偶然だった、気まぐれだったと言われてしまえば、それまでのことだ。けれど、あの人がいなければ。あの不器用な優しさがなければ。
フランとギーマは、今もアローラの広大な空の下のどこかで、すれ違い続けていたかもしれない。
「……よし」
フランは小さく気合を入れるように呟き、手にした紙袋をしっかりと抱え直した。
中に入っているのは、マリエの市場で買った人気の焼き菓子と、少し苦みの強いこだわりのコーヒー豆。
無気力なあのクチナシが甘いものを好むのか、本当のところは分からない。けれど、交番で一緒に働く人々や、彼が世話をしているニャース達と分けてもらえれば、決して無駄にはならないだろう。
フランは足元に寄り添うエナとキキを連れ、灰色の雲が重く垂れ込めるポータウンへと向かい、クチナシが所属する古びた交番の前に立った。
「クチナシさん、いらっしゃいますか?」
扉を少し開け、隙間からそっと顔を覗かせる。すると、室内の奥、椅子に深く座っていたクチナシが、ひどく気怠そうな動きでこちらを見た。
使い込まれた机の上には、書類が無造作に積まれている。本人はその中の一枚を片手に持っていたが、果たして真面目に文字を追っていたのか、ただ空虚に眺めていただけなのかは、その眠たげな表情からは全く読み取れない。
「ああ?」
気だるげな赤い目がゆっくりと動き、扉の前に立つフランを捉える。次いで、彼女の足元で行儀よくお座りをするエナとキキへ、興味なさそうに視線を移した。
「なんだ、ねえちゃんか」
「こんにちは。えっと……お仕事中でしたか?」
「ここにいるんだから、一応な」
一応。
地域の安全を守る警察官として、その返答で本当にいいのだろうかという疑問が頭をよぎったが、フランは賢明にも口には出さなかった。
クチナシは面倒くさそうに手元の書類を机に放り投げ、ギシッと音を立てて椅子の背へ深く寄りかかった。
「で。あいつと会えたんだろ」
一切の前置きがない単刀直入な言葉に、フランは驚いて目を瞬かせた。
「……はい」
「なら、そんな神妙な顔して来る必要ねえだろ。喧嘩でもしたか?」
「してません!」
図星を突かれたようなからかいに思わず声を大きくすると、クチナシがやれやれといった様子で片方の眉を上げた。
「そうかい」
「今日は、その……お礼を言いに来ました」
「礼?」
「ギーマさんと再会できたことのです」
フランは扉を開け放って交番の中へ入り、クチナシの机の前までまっすぐに歩み寄ると、腰から深く頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました」
「……」
「クチナシさんが教えてくださらなかったら、あたし、ギーマさんを見つけられなかったかもしれません」
「おじさんは何も教えちゃいねえよ」
ある程度予想していた通りの、すげない返事だった。
フランが顔を上げると、クチナシは机に肘をつき、ひどく面倒そうに頬杖をついていた。視線はフランから外れ、窓の外の何もない空間へ向けられている。
「妙な格好の男を見たって話をしただけだ。お前さんが勝手に探しに行って、勝手に見つけた」
「でも、海沿いの道へ行くように言ってくれました」
「月がきれいだって言っただけだろ」
「ギーマさんにも、同じ道を歩くように言ったんですよね?」
「さあねえ、どうだったかね」
子どもでも見抜けるような、分かりやすすぎるほどのとぼけ方だ。
フランは、少し困ったように、けれど嬉しそうに笑った。
「ギーマさんから聞きました」
「あいつ、余計なことしゃべりやがって」
「クチナシさんに言われなかったら、あの夜は外へ出なかったって」
クチナシは露骨に顔をしかめ、小さく舌打ちをした。
強く否定しないところを見ると、やはり彼が背中を押してくれたのは紛れもない事実なのだろう。
「それに、クチナシさんはギーマさんに言ってくれたんですよね」
フランは、あの星の綺麗な夜に、海沿いの道でギーマから直接聞いた言葉を思い出す。彼の心を動かした、不器用で鋭い一言を。
「逃げたままの男に、勝ちはないって」
「……ああ」
「ありがとうございました」
「だから、礼を言われるようなことはしてねえ」
クチナシはふいと視線を逸らし、首の後ろを掻いた。
「目の前でうじうじしてる男が鬱陶しかっただけだ」
「それでもです」
「しつこいねえちゃんだな」
「はい。今日はちゃんとお礼を言うまで帰らないつもりで来ました」
「それ、警察相手に言う台詞か?」
「悪いことはしてません」
「居座りも度を越しゃ迷惑行為だぜ」
口では冷たいことを言いながらも、クチナシは立ち上がって本気で彼女を追い返そうとする素振りは一切見せなかった。
フランは胸の内でそっと安堵し、大切に持ってきた紙袋を机の空いているスペースへ差し出した。
「これも、よかったら受け取ってください」
「賄賂か?」
「違います!」
「冗談だよ」
クチナシは気怠い動作のまま身を乗り出し、袋の中を片目で覗き込んだ。
「焼き菓子とコーヒーです。お口に合うか分かりませんけど……」
「物まで持ってくる必要はねえっての」
「でも」
「ま、置いてくならもらっとく。ここにいる連中で食うだろ」
あくまで素っ気ない口調だったが、突き返されなかったことにフランはほっと胸をなでおろした。
「ありがとうございます」
「礼を言うのはこっちじゃねえのか」
「あ、そうですね」
「やれやれ」
クチナシは紙袋を邪魔にならない机の隅へ押しやると、頬杖をつくのをやめ、改めてまっすぐにフランを見た。その赤い瞳に、先ほどまでのふざけた色は無い。
「それで」
「はい?」
「あいつは、ちゃんとやってんのか」
主語のない問いだったが、フランはすぐに、彼が誰のことを指して聞いているのか理解した。
「ギーマさんですか?」
「他に誰がいる」
「はい。ちゃんと……というのが、どのくらいかは分かりませんけど」
「また何も言わず消えたり、一人で勝手に答えを出したりしてねえかってことだ」
「してません」
フランは迷うことなく、はっきりと力強く答えた。
「不安になった時は、不安だって言ってくれるようになりました。怖い夢を見た朝も、あたしがいなくなるのが怖いって、ちゃんと話してくれました」
「へえ」
その報告を聞いて、クチナシはわずかに目を細めた。
「そりゃ大した進歩だ」
「はい」
「ねえちゃんが全部吐かせてんじゃなく?」
「……時々は、聞きますけど」
「だろうな」
すべてを見透かすような鋭い言葉に、フランは少しだけ恥ずかしくなって俯いた。
クチナシは、そんな彼女のつむじをしばらく静かに眺めていた。やがて、ぽつりと口を開く。
「ねえちゃん」
「はい」
「あいつを支えてやりてえって気持ちは分かる」
「……」
「あいつが弱ってる時、傍にいたいってのもな」
クチナシの低くかすれた声から、いつもの投げやりな響きが少しだけ消えていた。それは、人生の先輩としての、あるいは彼なりの不器用な心配の表れだった。
「けどよ。支えるってのは、あいつが沈む時に一緒に沈んでやることじゃねえぞ」
静かな交番の中に、その言葉が深く、重く響いた。
フランははっと息を呑み、ゆっくりと顔を上げた。
「ギーマさんと、一緒に沈む……?」
「あいつが自分を責めてるからって、ねえちゃんまで自分を責める必要はねえ。あいつが苦しいからって、ねえちゃんが全部背負ってやる必要もない」
「でも、あたしは……」
「傍にいたい。助けたい。分かってるよ」
反論しようとしたフランを制するように、クチナシは短く息を吐いた。
「だが、あいつの痛みはあいつのもんだ。ねえちゃんが代わりに背負えるもんじゃねえ」
その突き放すような言葉は、表面的にはひどく冷たく聞こえるようでいて、不思議と底知れぬ優しさを孕んでいた。
「ねえちゃんは、あいつの帰る場所になるって言ったんだろ」
「……はい」
「帰る場所ってのは、燃えてる家の中まで迎えに行くことじゃねえ。自分で帰ってこられるように、明かりをつけて待ってる場所だ」
燃えている家の中まで、迎えに行くことではない。
その比喩の的確さに、フランは大きく目を見開いた。クチナシは自身の放った小っ恥ずかしい台詞に耐えきれなくなったのか、気まずそうにまた窓の外へ視線を逸らす。
「……柄にもねえこと言わせんな」
「すみません」
「謝るところじゃねえよ」
フランは、ワンピースの裾を掴むように、膝の上でぎゅっと手を握った。
大好きなギーマを支えたい。
彼が過去の幻影に囚われて苦しむなら、少しでもその苦しみを軽くしてあげたい。
そう強く思っていた。
けれど、ともすればフランは、愛情のあまり自分自身の心を後回しにしてでも彼を守ろうとしてしまう。自分が無意識のうちにすり減っていることにすら気づかずに。
何も言わずにギーマに置いていかれて、あんなにも深く傷ついたことさえ、「彼の方がずっと苦しんでいるのだから」と自分に言い聞かせ、心の奥底へ飲み込みそうになる時がある。
クチナシは、そんな彼女の危うい献身を見抜いていたのだ。
「……あたし」
フランは自分自身に言い聞かせるように、小さく呟いた。
「ギーマさんが、また一人で全部抱え込むのが怖いんです」
「ああ」
「だから、あたしが傍にいなきゃって思ってしまって」
「傍にいるのはいい」
クチナシは静かに頷き、言葉を継いだ。
「だが、あいつの足までねえちゃんが動かしてやる必要はない。歩くのは、あいつの仕事だ」
「ギーマさんの仕事……」
「そうだ」
クチナシは、机の上の書類を顎でしゃくり、指先でトントンと軽く叩く。
「一度逃げた男が、今度は逃げずに隣へ立てるかどうか。そいつはあいつ自身がやる勝負だろ」
勝負。
いかにもあの男が好きそうな、彼にふさわしいその単語の響きに、フランの強張っていた肩の力が抜け、少しだけ笑みがこぼれた。
「ギーマさんにも、同じことを言ったんですか?」
「似たようなことはな」
「何て?」
「忘れた」
「教えてください」
「忘れたって言ってんだろ」
頑なにそっぽを向く態度を見るに、どうやら絶対に言うつもりはないらしい。
フランはそれ以上追及することを諦め、代わりにまっすぐな瞳で彼を見つめ、深く頷いた。
「分かりました」
「本当に分かってんのか?」
「全部は、まだ分からないかもしれません。でも……ギーマさんを支えるために、あたしまで自分をなくしちゃ駄目なんですよね」
「そういうことだ」
「あたしも、嫌なことは嫌だって言います。寂しい時は寂しいって言います。ギーマさんがまた勝手に決めようとしたら、怒ります」
「そのくらいでいい」
「それで、ギーマさんが自分で帰ってくるのを待ちます」
揺るぎないフランの宣言を聞いて、クチナシは一瞬黙った後、呆れたように、けれどわずかに口元を緩めた。
「それなら、まあ」
彼が最後まで言い終える前に、交番の外の静寂を破るように、規則正しい足音が近づいてきた。
「フラン」
ひどく聞き慣れた、心地よく鼓膜を揺らす低い声。
驚いて振り返ると、開け放たれた扉の向こうに、ギーマが静かに立っていた。
薄暗いポータウンには不似合いなほどに洗練された、黒と白の着流し姿。その足元の隣には、しなやかな尾を揺らすレパルダスがぴったりと寄り添っている。
「ギーマさん?」
「迎えに来たよ」
「でも、帰る時間はちゃんと伝えましたよね?」
「ああ」
「まだ、その時間より早いです」
「分かっている」
言い当てられたギーマは、少しだけ気まずそうに空色の目を細めた。
「待っているつもりだったのだけれどね」
その堂々とした開き直りに、クチナシが特大の呆れたような鼻を鳴らす。
「待てなかったのかよ」
「……否定はしないよ」
「重てえ男だな」
「自覚している」
以前のプライドばかりが高かったギーマなら、こんな時、適当なもっともらしい用事を作って自分の感情を誤魔化しただろう。
近くまで来たついでだ。
レパルダスの散歩の途中で寄っただけだ。
フランの帰りが遅いと思ったから、心配になったのだ。
けれど今の彼は、少し気恥ずかしそうに視線を彷徨わせながらも、自身の不器用な執着を、言葉を飾ることなく素直に認めた。
「フランがきみへ礼を言いに行くと聞いていた。何も心配することはないと分かっていたのだが……」
「寂しくなったんですか?」
フランが核心を突いて尋ねると、ギーマは降参したようにふっと笑った。
「ああ」
たまらずといった様子で、クチナシが本日一番の大きなため息をつく。
「数時間も離れてねえだろ」
「時間の長さと寂しさは、必ずしも比例しないものらしい」
「開き直んな」
ギーマはクチナシの尤もな小言を涼しい顔で受け流すと、フランの傍へ歩み寄り、その顔を覗き込んだ。
「話は終わったかな?」
「はい。クチナシさんに、ちゃんとお礼を言えました」
「そう」
フランが頷くのを確認すると、ギーマはゆっくりとクチナシを見た。
その整った横顔から柔らかい気配が消え、表情がわずかに改まったものになる。
「クチナシ」
「ああ?」
「あの夜、フランをわたしのところへ導いてくれたこと。改めて礼を言う」
「お前さんまで始めるなよ」
「わたしに礼を言う資格がないとは言わせないよ」
「面倒くせえな」
クチナシはガリガリと乱暴に頭を掻いた。
「ただ道を教えただけだ。歩いたのは、そこのねえちゃんだろ」
「それでもだ」
「……ああ、そうかい」
心底鬱陶しそうに、クチナシは投げやりに答える。
それから、鋭い刃のような視線を真っ直ぐにギーマへ向けた。
「そのねえちゃん、今度こそ大事にしろよ」
「言われるまでもない」
「そういう格好つけた返事が一番信用ならねえんだ」
手厳しい指摘に、ギーマの整った眉がわずかにピクリと動く。
「大事にするってのは、抱え込んで隠すことじゃねえ。勝手に幸せを決めて手放すことでもねえ」
「……分かっている」
「本当に?」
「ああ」
ギーマは迷いなく手を伸ばし、フランの小さな手を取った。
逃がさないように強く縛り付けるのではなく、彼女の意思を確かめ、答えを求めるような、ひどく優しい触れ方だった。
フランがその温かな手をきゅっと握り返すと、彼の表情から強張りが抜け、少しだけ安堵したように和らぐ。
「今度は、怖いなら怖いと言う。弱さを見せることから逃げない」
「へえ」
「そして、フランに支えてもらうだけでなく、わたしも彼女を支える」
揺るぎない覚悟を込めた宣言を聞いて、クチナシは繋がれた手と、二人の顔を交互に見た。
「なら、まあ……好きにしろ」
「クチナシさん」
フランは立ち上がり、もう一度、心を込めて深々と頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました」
「分かったから、何度も下げんな」
「また会いに来てもいいですか?」
「用もねえのに来るな」
「じゃあ、用事を作ります」
「作んな」
クチナシは心底嫌そうな、苦虫を潰したような顔をする。
けれど、机の隅に置かれたコーヒーと焼き菓子の贈り物を、突き返そうとはしなかった。
フランはそれを見て、花が咲いたように嬉しそうに笑う。
ギーマはそんな彼女を見て優しく微笑むと、繋いだ手を軽く引いた。
「帰ろうか、フラン」
「はい」
すべての用事を終え、二人が連れ立って交番を出ようとした時だった。
「おい」
背後からかけられた低い声に、二人は同時に足を止め、振り返った。
クチナシは椅子へ深く腰掛けたまま、こちらを見ようともせず、相変わらず窓の外の虚空を見つめている。
「せっかく、くっついたんだ」
相変わらずの、ぶっきらぼうで無愛想な声。
「もう、こっちに泣きついてくるような真似すんなよ」
「……はい」
フランが朗らかに答える。
ギーマも、その背中へ向かって静かに頷いた。
「肝に銘じよう」
「あと」
クチナシは、首だけを少し回し、ほんの少しだけ、肩越しに二人へ視線を向けた。
「せいぜい、幸せになれ」
予想もしていなかった不器用な祝福の言葉に、フランの瞳が大きく見開かれる。
じんわりと、温かいものが胸の奥から湧き上がり、全身を満たしていった。
「はい!」
交番の中に響き渡るほど明るく大きな声で返事をすると、クチナシは露骨に顔をしかめて耳を塞ぐ仕草をした。
「声がでけえよ」
「すみません」
「さっさと帰れ」
しっしと追い払うように手を振られ、フランとギーマは顔を見合わせて微笑み合い、ポータウンの交番を後にした。
どんよりとしたポータウンを抜け、マリエシティの明るい海沿いの道を、二人と三匹でゆっくりと歩く。
エナは嬉しそうに尻尾を振りながら先を進み、キキとレパルダスがその後ろをつかず離れずの距離で並んで歩いていた。
フランは、歩きながらギーマとしっかり繋いだ手を見下ろす。
「ギーマさん」
「うん?」
「迎えに来てくれて、ありがとうございます」
「待てなくて来ただけだよ」
「それでも、嬉しいです」
「そう言ってもらえると助かる」
ギーマは、絡めた指へ少しだけ力を込め、彼女の温もりを確かめるようにした。
「クチナシと、何を話していたんだい?」
「ギーマさんを支えることについてです」
「わたしを?」
「はい」
フランは、先ほど交番で言われたばかりの大切な言葉を、心の中で反芻しながら答える。
「支えることと、一緒に沈むことは違うって」
その言葉の重みに、ギーマの足がわずかに止まった。
「……そうか」
「ギーマさんが自分で歩くところまで、あたしが代わりに歩こうとしちゃ駄目だって言われました」
「クチナシらしいね」
「あたし、時々、ギーマさんが苦しいなら、あたしが全部何とかしなくちゃって思っちゃいます」
「フラン」
「でも、それは違うんですよね」
フランは足を止め、長身の彼をまっすぐに見上げた。
「ギーマさんが自分で帰ってくることを信じて、あたしは帰る場所で待っていればいい」
迷いのないフランの言葉を聞いて、ギーマの空色の瞳が、驚きと愛おしさで優しく揺れる。
「ああ」
「ちゃんと帰ってきてくれますか?」
「帰るよ」
そこには微塵の躊躇いもない、はっきりとした迷いのない返事だった。
「きみのところへ」
その確かな誓いに、フランは心の底から安心したように笑う。
「じゃあ、あたしは待ってます」
「ただし」
「はい?」
「待つだけでなく、きみも寂しい時はわたしを呼んでほしい」
ギーマは繋いだ手を優しく引き寄せ、自分の胸元、心臓の鼓動が伝わる位置へと当てた。
「わたしが帰る場所であると同時に、きみにとっても、わたしが帰りたい場所でありたい」
「……はい」
「あの男の言う通りだ。支えてもらうばかりでは、隣に立っているとは言えないからね」
ギーマの誠実な響きに、フランは、彼の胸元にある繋いだ手をさらに強く握り返した。
「じゃあ、二人で支え合いましょう」
「ああ」
「どっちかが沈みそうになったら、一緒に沈むんじゃなくて、引っ張り上げるんです」
「いい勝利条件だ」
「勝負じゃないです」
「わたしにとっては、大切な勝負だよ」
ギーマは、アローラの陽射しよりも穏やかで、柔らかな笑みを浮かべた。
「きみと幸せになるためのね」
甘い言葉に、フランの白い頬が少しだけ赤く染まる。
それでも今度は照れて俯くことはせず、まっすぐに彼を見つめ返して笑い返した。
「じゃあ、負けられませんね」
「ああ。自分から降りるつもりもない」
二人は、もう一度並んで歩き出す。
波音が絶え間なく聞こえる道を、二人の帰る場所へ向かって。
遠くから吹き抜ける潮風は心地よく、空はどこまでも青く澄み渡っていた。
その道の途中で、フランはふと思い出したように隣を歩く彼に言った。
「クチナシさん、焼き菓子を食べてくれるでしょうか」
「どうだろうね。甘いものは苦手だと言いながら、誰も見ていないところで食べるかもしれない」
「そうだったら嬉しいです」
「次はわたしも礼の品を用意しよう」
「クチナシさん、嫌がりそうですね」
「だからこそ、渡す価値がある」
「ギーマさん、意地悪です」
「お互い様だよ」
他愛のない会話と共に、フランの明るい笑い声が、アローラの果てしなく広い空へ心地よく溶けていく。
その愛しい声をすぐ隣で聞きながら、ギーマは繋いだ彼女の小さな手を、決して離さないと誓うように、もう一度確かめるように握った。
クチナシが、不器用な手つきで結んでくれた縁。
けれど、これから先、どんな道であろうと歩き続けるのは二人自身だ。
もう決して逃げずに。
深い闇に沈まずに。
互いの手を引き、足並みを揃えながら。
そしていつかもう一度、あの気怠げな恩人へ顔を見せる時には。
余計な言葉や飾り立てた報告などではなく、ただ二人が隣に立ち、当たり前のように幸せに生きている姿そのものを、最大の礼として見せられればいい。
きっと彼は、また心底面倒そうな顔をして、こう言うのだろう。
用もないのに来るな、と。
それでも最後には。
ほんの少しだけ、あの赤い目を細めてくれるのだと、今の彼らには確信できた。