ギーマ夢主の名前変換
ギーマ(BW)×固定夢主💮
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朝、ふと目を覚ました時。
いつもなら手の届く場所にあるはずの、フランの温もりはどこにもなかった。
「……」
ギーマは、静かに目を覚ましたまま、白い天井を見つめてしばらく動かなかった。
南国特有の強い日差しを遮るための薄いカーテンが、潮風を受けてゆっくりと揺れている。窓の向こうからは、アローラらしい明るい陽射しが部屋の中へ斜めに差し込んでいた。
ベッドの隣半分は空いている。
少しだけ乱れたシーツにそっと触れてみれば、まだほんのりと、彼女がそこにいた名残のような温かさが残っていた。
フランは、つい先ほどまで確かにここで、自分の隣で眠っていたのだろう。
「フラン」
静かな部屋に、名を呼ぶ声が響く。
当然、返事はない。
胸の奥がわずかに冷え、不穏な影がよぎったが、以前のような心臓を鷲掴みにされるような激しい恐怖にはならなかった。
なぜなら、自分が頭を乗せている枕のすぐ横に、きちんと折りたたまれた一枚の紙が置かれていたからだ。
『ギーマさんへ。マリエシティまで、朝ごはんのパンと日用品を買いに行ってきます。お昼までには帰ります。ギーマさんが気持ちよさそうに眠っていたので、今日は起こしませんでした。エナとキキも一緒です。ちゃんと帰ってきます。大好きです。フラン』
手紙の最後には、彼女の相棒であるグラエナとブラッキーの、少し歪で愛嬌のある絵が添えられていた。
ギーマはその書き置きを指先でそっと手に取り、丸みを帯びた一生懸命な文字を何度も読み返した。
行き先。目的。帰る時間。同行するポケモンたち。
そして、過去のトラウマに怯える自分に念を押すように、はっきりと書かれた『ちゃんと帰ってきます』という言葉。
フランは、自分とは違い何も言わずにいなくなったりしない。
その事実を彼女は、共に暮らす日々の中で、行動で何度も、何度も示してくれている。
彼女を疑う理由など、もうどこにもない。
「……分かっているよ」
ギーマは、手の中の紙を見つめながら小さく呟いた。
「きみは帰ってくる」
それは、不安に駆られて自分へ言い聞かせるための言葉ではない。
彼女の気持ちを確かめるための言葉でもない。
それはもう、呼吸をするのと同じくらい自然に信じられる、揺るぎない事実だった。
だから、決して不安なわけではない。
彼女に捨てられたなどとは、微塵も思っていない。
フランは昼までに必ず戻る。
あと数時間もすれば、玄関の扉を開けて、いつものように花が咲いたように明るく笑うのだ。
『ただいまです、ギーマさん』
そう言って、迷うことなく自分のところへ帰ってくる。
頭では完全に分かっている。
それなのに。
「……寂しいね」
誰に聞かせるでもなく口から零れ落ちた言葉は、自分自身でも驚くほど、ひどく素直で無防備な響きを持っていた。
***
身支度を整えて居間へ出ると、相棒のレパルダスが窓辺の陽だまりで丸くなっていた。
朝の暖かな光を一身に浴びながら、しなやかで長い尻尾を自分の身体へ巻きつけるようにしている。
ギーマが足音を殺して近づくと、気配を察したレパルダスは片目だけを薄く開いて主を見た。
「おはよう」
「ニャア」
短く返事らしい声を上げた後、レパルダスはまた興味を失ったようにゆっくりと目を閉じる。
いつも通りの、猫らしく気まぐれな態度だった。
ギーマは何も言わずに、その隣の床へ腰を下ろす。
「フランは買い物だそうだ」
その名前に反応したのか、レパルダスの耳が、ぴくりとわずかに動く。
「昼までには帰ると書いてある」
「ニャ」
「もちろん、分かっているよ。彼女は帰ってくる」
レパルダスは「そんな分かりきったことを」とでも言いたげに、興味がなさそうに大きな欠伸をした。
あるいは、そんなことは自分も最初から分かっていると言いたいのかもしれない。
ギーマは、太陽の熱を含んで温かくなったしなやかな背中へ、そっと手を伸ばす。
長い指先で丁寧に毛並みを撫でてやると、レパルダスは心地よさそうに目を細め、ゴロゴロと喉を鳴らした。
その低く響く音は、今のギーマにとってひどく心地よい。
長い間、自分の隣という盤面に留まり続けてくれたポケモン。
気まぐれで、誰にも媚びず、誇り高く、美しく。
ギーマがどんな大勝負に負けても、すべてを失ってどんな見知らぬ土地へ流れ着いても、変わらず傍にいてくれた大切な相棒だ。
「きみがいるというのに、寂しいなどと言えば、失礼かな」
「ニャア」
「怒っている?」
問いかけに対し、レパルダスは身体を起こすと、ギーマの撫でていた手の甲へ自分の前足をぽんと乗せた。
そして、決して爪を立てないまま、主の指先を軽く押さえつける。
「慰めてくれているのかい?」
返事の代わりに、レパルダスはすり、と頭を擦り寄せてきた。
ギーマは目を細め、少しだけ柔らかく微笑む。
「ありがとう」
そのまま、しばらく無言で相棒のしなやかな身体を撫でた。
レパルダスの耳の後ろを優しく掻き、艶やかな顎の下へ指を滑らせる。
満足そうに目を細める姿を眺めていれば、荒立っていた気持ちは確かに穏やかに凪いでいった。
だが。
開け放たれた窓の外、遠くの通りからかすかに聞こえた、若い女性の明るい笑い声。
それに反応し、ギーマは無意識に顔を上げ、声のした方角へ視線を向けてしまう。
もちろん、フランではない。
そんなことは頭では分かっていたのに、胸の奥に、ほんの小さな落胆の色が静かに落ちた。
「……やれやれ」
ギーマは自嘲するように息を吐き、レパルダスの額をゆっくりと撫でる。
「わたしは、ずいぶん面倒な男になったものだね」
数時間。
ほんのたった数時間、フランがいないだけだ。
彼女が何日もかかる長い旅に出たわけでもない。
命の危険があるような場所へ向かったわけでもない。
頼もしい、彼女の相棒達まで一緒にいる。
身を守るという意味でも、これ以上心配する必要のない完璧な手札だろう。
それでも。
朝食のテーブルの向かいの席に、フランがいない。
こちらを見て、花のように笑う顔がない。
『ギーマさん、紅茶とコーヒー、どっちにしますか?』
そう尋ねてくれる、優しい声音が聞こえない。
少し物理的な距離が離れただけで、二人の家の中が、耳が痛くなるほど妙に静かに感じられる。
レパルダスがいてくれる。もちろん、誰よりも愛しい相棒だ。
けれど、それとこれとは完全に別だった。
ポケモンと人間を比べることに、意味などない。どちらもかけがえがない大切な存在だ。
ただ。
フランという一人の人間にしか埋められない場所が、いつの間にか、自分の中の最も深い部分にできてしまっていた。
その事実を、ギーマはもう否定することができなかった。
「以前のわたしなら」
喉を鳴らすレパルダスへ、ぽつりと語りかける。
「一人の朝を、もっと上手く楽しめただろうね」
次の勝負の手順を頭の中で組み立て。
カードを指先で器用に弄び。
誰にも邪魔されない、孤独で静かな時間を好んだ。
一人でいることは、しがらみのない自由だった。
他人に期待しなければ、裏切られることも、失う恐怖もない。
誰かを狂おしいほど深く愛さなければ、その人が少し視界から消えただけで、胸にぽっかりと穴が空くこともない。
けれど、フランを知ってしまった。
彼女の弾むような声がある朝を。
彼女と一緒に向かい合って飲む、温かい飲み物の味を。
何でもない他愛のない話をしながら、共に笑う時間を。
彼女が隣にいるという日常が、あまりにも当たり前で自然になってしまった。
そして一度、自らの愚かな選択で、それを手放し、失う痛みを骨の髄まで知ってしまった。
だからだろうか。
今は、彼女の姿が少し見えないだけで。
彼女がもう戻らないと疑っているのではなく、ただ純粋に、我慢できないほど早く会いたいと思ってしまう。
「……これも、愛情と呼んでいいものなのかな」
レパルダスが、甘えるようにギーマの膝の上へ顎を乗せる。
「それとも、ただの執着や依存だろうか」
「ニャア」
「難しい質問だったね」
ギーマは答えのない問いに苦笑した。
レパルダスは主の葛藤など気にした様子もなく、ただ心地よさそうに喉を鳴らし続けている。
その気ままな態度が、今のギーマには少しだけ羨ましかった。
***
朝食を用意しようとキッチンに立ち、戸棚からいつものようにティーカップを二つ取り出して並べた。
そこで、ギーマの手がピタリと止まる。
フランはいない。当然、カップは自分の一つでいいはずだ。
「……」
ギーマは片方を棚へ戻そうと手を伸ばした。
けれど、結局そのままテーブルへ並べることにした。
空のカップが、主のいない向かいの席にぽつんと置かれている。
それはまるで、自分と同じように、フランの帰りを待ちわびているようだった。
「やれやれ、これは重症だな」
イッシュにいた頃。フランがカトレアとシキミとの女子会で夜まで帰らなかった日。
自分が無意識のうちに、彼女の分のカップと、彼女の好物の焼き菓子をテーブルに用意してしまっていたことがあった。
あの頃から、すでに兆候はあったのかもしれない。
ただ、当時はまだ、自分がここまで彼女に溺れていることを認める気がなかった。
しかし今はもう、自分の感情を誤魔化す理由もない。
寂しい。
会いたい。
早く帰ってきてほしい。
「……まだ一時間も経っていないのだけれどね」
壁掛け時計の針を見て、ギーマは小さく自嘲した。
フランが買い物に出かけたのは、朝早く。彼女が戻ると約束したのは昼。
時間は、まだ十分すぎるほど残っている。
気を紛らわせようと、読みかけの本を開いてみる。
しかし、数ページ視線を滑らせたところで、内容がまったく頭に入っていないことに気づき、本を閉じた。
次にトランプのカードを手に取り、慣れた手つきで指の間で滑らせてみる。
ふとした拍子に、一枚が床へひらりと落ちた。
それを見ていたレパルダスが興味を示し、俊敏な動きで前足で押さえつける。
「返してくれるかな」
「ニャ」
「それはわたしのカードだ」
レパルダスは、前足の下からカードを出そうとしない。
ギーマが手を伸ばすと、今度は器用に尻尾で隠す。
「……遊んでほしいのかい?」
レパルダスは、挑戦的な目で目を細めた。
「なら、お相手しよう」
ギーマは床へ腰を下ろし、手持ちのカードを一枚ずつ、床を滑らせるように投げた。
レパルダスがそれを獲物に見立て、素早い前足で捕まえる。
時には高く飛びつき、時にはわざと見送ってから追いかける。
勝負というほどの大げさなものではない、主と相棒の小さな遊び。
ギーマが右へ投げれば右へ走り。左へ投げれば、今度は興味がないふりをしてその場から動かない。
「きみは本当に気まぐれだ」
「ニャア」
「そこが魅力ではあるけれど」
そのうち、ギーマは思わず声を立てて笑った。
レパルダスがカードを咥えたまま逃げ出し、部屋の中を追いかけっこになる。
久しぶりに、何も難しいことを考えず、ただ相棒と戯れた。
それは確かに楽しかった。
けれど、ふと壁の時計を見上げれば。
まだ昼までは、随分と遠い。
笑い声が消えた部屋へ、波の音と共にまた静けさが戻ってくる。
「……駄目だね」
ギーマは、レパルダスから取り戻した少し皺の寄ったカードを、指先で所在なく弄んだ。
「きみと遊んでも、まだ寂しい」
レパルダスはギーマの顔をじっと見た。
そして、まるで手のかかる主を呆れたように、ふん、と短く鼻を鳴らす。
「自分でも分かっているよ」
たった数時間すら待てないなんて。
フランには、フランの自分の時間がある。
たまには一人で市場を見て回り、気になったものを手に取る楽しみもあるだろう。
エナやキキと水入らずで過ごす時間も、彼女にとっては大切だ。
ギーマ自身の『寂しい』という感情を理由に、何でもかんでも一緒に行動しようとするのは違う。
彼女を無理に自分の傍へ縛りつけたいわけではない。
それでも。
「迎えに行くくらいなら、許されるかな」
レパルダスの耳が、ぴんと上を向く。
「買い物を邪魔するつもりはない。ただ、帰り道を一緒に歩くだけさ」
「ニャア」
「……言い訳に聞こえる?」
レパルダスは立ち上がった。
しなやかな身体を大きく伸ばして欠伸をすると、振り返りもせずに玄関の扉の方へ歩いていく。
そして、扉の前で立ち止まり、ギーマを振り返って見つめた。
「一緒に来てくれるのかい?」
「ニャ」
それは、「ぐずぐずしていないで、さっさと行けばいい」と背中を押しているようだった。
ギーマは、とうとう自分自身の感情に観念した。
「そうだね」
立ち上がり、着流しの和装の襟元を綺麗に整える。
「待てないなら、迎えに行けばいい」
以前の、無駄なプライドに塗れた自分なら。
恋人がいなくて寂しいから迎えに行くなど、絶対に口が裂けても認めなかっただろう。
たまたま近くに用事があった。
フランの荷物が重いと思った。
護衛が必要だと判断した。
いくらでも、もっともらしい理由を飾り立てただろう。
だが、今は違う。
「フランに会いたいから、迎えに行く」
声に出して、その事実を認めてみる。
あまりにも単純で、大の大人の男としてはあまりにも情けなく。
けれど、決して悪くない理由だった。
***
マリエシティの市場は、朝から活気に溢れ、多くの人で賑わっていた。
南国特有の色鮮やかな果物が並ぶ屋台。
鼻をくすぐる、甘い香りの焼き菓子。
アローラらしい、色鮮やかな布や装飾品を売る店。
その賑やかな通りを、ギーマはレパルダスと並んで静かに歩く。
フランがどこにいるか。
それを見つけるのは、彼にとってそう難しくなかった。
市場の奥。小さなパン屋の店先から、聞き慣れた高く澄んだ声がする。
「エナ、それはギーマさんの分だから食べちゃだめだよ」
「わふっ!」
「だめ。ギーマさんが好きそうだから買ったんだもん」
「ブラ」
「キキも狙わないの」
陽光に透ける彼女の美しい髪。
両手には、買ったものを詰め込んだ大きな紙袋を抱えている。
足元には、おこぼれを狙うエナとキキ。
フランはギーマのために選んだらしいパンを死守しながら、二匹のポケモンを一生懸命に叱っていた。
その愛らしい日常の姿を見ただけで。
先ほどまで胸の奥にぽっかりと空いていた空洞が、呆れるほど簡単に、温かなもので埋まっていった。
「……フラン」
少し離れた場所から、名前を呼ぶ。
フランが弾かれたように振り返る。
そして、人混みの中に立つギーマを見つけた瞬間、その顔が花が綻ぶようにぱっと明るくなった。
「ギーマさん!」
その満面の笑顔。
名を呼ぶ弾んだ声。
彼が会いたかったものが、今、すべてそこにある。
フランは紙袋を抱えたまま、驚いたように駆け寄ってきた。
「どうしたんですか? 何か買い忘れですか?」
「いいや」
「じゃあ、レパルダスちゃんのお散歩ですか?」
「それも違う」
ギーマはフランの前に立ち、その顔を見下ろす。
近くで見れば、日差しの中を歩き回ったせいか、白い頬が少し赤く染まっている。
揺れる髪には、アローラの潮風の匂いが微かに混じっている。
その何もかもが、狂おしいほどに愛しかった。
「迎えに来た」
「え?」
フランが驚いて目を瞬かせる。
「でも、あたし、お昼までには帰るって……」
「ああ。読んだよ」
「書き置き、ちゃんと見つけてくれたんですね」
「枕元にあったからね」
「じゃあ、不安になったわけじゃ……」
「不安ではない」
ギーマは、過去の幻影を払拭するように、はっきりと答えた。
「きみが帰ってくることは信じていた」
「……」
「ただ」
そこで少しだけ、言葉に迷う。
ここは市場の真ん中で、周囲には行き交う人もいる。
以前の彼なら、こんな公の場所で自身の弱さを晒すことなど、絶対にありえなかった。
けれど、フランにはもう何も隠さないと決めている。
「寂しかった」
そのストレートな言葉に、フランの瞳が大きく見開かれる。
「……寂しかった?」
「ああ」
「まだ、お昼にもなってないのに?」
「分かっている」
ギーマは少し照れくさそうに苦笑した。
「自分でも、おかしいと思っているよ。ほんの数時間、きみがいないだけだ。ご丁寧に書き置きもあった。レパルダスと遊んだり、本を読んだりして、静かに待とうともした」
傍らのレパルダスが、主の情けなさに同意するように「ニャア」と小さく鳴く。
「それでも、どうにも家が静かすぎた」
フランの驚いた表情が、ゆっくりと、嬉しそうに柔らかく解けていく。
「だから、我慢できずに迎えに来た」
「ギーマさん……」
「迷惑だったかな」
少しだけ不安になって尋ねると、フランはすぐに、勢いよく首を横へ振った。
「迷惑じゃないです」
「本当に?」
「はい」
フランは、両腕に抱えていた紙袋を器用に片側へ寄せた。
そして、空いた手を伸ばし、ギーマの大きな手をしっかりと握る。
「嬉しいです」
「……嬉しい?」
「あたしが少しいないだけで、寂しいって思ってくれたんでしょう?」
「ああ」
「それくらい、ギーマさんの毎日の中にあたしがいるってことですよね」
その前向きすぎる解釈に、ギーマは目を細めた。
「きみは、いつも都合よく解釈してくれるね」
「違うんですか?」
「違わない」
むしろ、まったくその通りだった。
ギーマの日常は、もうフランという存在なしでは完成しない。
朝の寝起きの声。
食卓の向かいの席。
何気ない日常の会話。
手の届く場所にいる確かな温もり。
そのすべてが、いつの間にか彼が生きていく上で必要不可欠なものになっていた。
「レパルダスちゃんと遊んでたんですか?」
「ああ。カードを取られてね」
フランは足元のレパルダスを見る。
「レパルダスちゃん、ギーマさんの相手してくれたの?」
「ニャア」
「ありがとう。ギーマさん、寂しがり屋だから大変だったでしょう?」
「フラン」
ギーマが少しだけ窘めるように低く呼ぶと、フランは悪戯っぽくくすくす笑った。
「だって、本当でしょう?」
「否定はしないが、本人の前で相棒と共有されるのは少し複雑だね」
レパルダスは主のぼやきなど気にする様子もなく、フランの足元へすりすりと擦り寄った。
フランがしゃがんで頭を撫でてやると、満足そうにゴロゴロと喉を鳴らす。
「でも、ギーマさん」
「うん?」
「お迎えに来てくれて、ありがとうございます」
フランは立ち上がり、繋いだ手をきゅっと力強く握った。
「あたしも、買い物しながらずっとギーマさんのこと考えてました」
「わたしのことを?」
「はい。このパン、ギーマさんが好きそうだなとか。この紅茶、一緒に飲みたいなとか。早く帰って見せたいなって」
「……」
「だから、ギーマさんに会えて嬉しいです」
その飾らない言葉に、ギーマの胸の奥が、甘い熱で満たされていく。
数時間の所在ない寂しさなど、彼女のその一言で、すべて報われるようだった。
「では、帰ろうか」
「はい」
「荷物を持つよ」
「でも、ギーマさんを迎えに来させた上に、荷物まで……」
「わたしが持ちたいんだ」
ギーマは半ば強引に、フランから紙袋を受け取る。
フランが抱えていた重さが、そのまま自分の腕へ移る。
その代わり、空いた彼女の小さな手を取った。
そして、隙間なく指を絡める。
「ギーマさん、人が見てます」
「見せておけばいい」
「ええ……」
「きみを迎えに来た男だと分かるだろう」
少しだけ独占欲を滲ませて言うと、フランの顔がみるみるうちに赤くなる。
「またそういう、恥ずかしいことを……」
「嫌かな」
「嫌じゃないですけど」
「では、問題ないね」
「問題あります……心臓に」
フランは困ったように眉を下げて言いながらも、決してその手を離そうとはしなかった。
ポケモンたちを引き連れ、二人で市場を出る。
エナは元気よく先を歩き、キキはその隣を落ち着いた足取りで進む。レパルダスは主であるギーマのすぐ傍に寄り添うように歩いていた。
フランが、歩きながら繋いだ手を見下ろして言う。
「今度から、一緒に来ますか?」
「毎回?」
「ギーマさんが行きたい時は」
「きみが一人で買い物を楽しみたい時もあるだろう」
「その時は、一人で行きたいって言います」
「……そう」
「でも、今日みたいに寂しくなったら、迎えに来てください」
「いいのかい?」
「はい」
フランは、振り返って明るく笑った。
「迎えに来てくれるの、嬉しいですから」
「毎回でも?」
「毎回は、ちょっと恥ずかしいかもしれません」
「手厳しい」
「でも、ギーマさんが本当に寂しかったら、毎回でもいいです」
その果てしない優しさに、ギーマはまた底なしに甘えたくなる。
だが、彼女の自由な時間まで奪いたくはない。
その二つの間で、少しだけ考える。
「では、約束をしよう」
「約束?」
「きみは、出かける時に帰る時間を教えてくれる」
「はい」
「わたしは、その時間まで待つ努力をする」
「努力なんですね」
「ああ。できるとは断言できない」
正直すぎる答えに、フランが声を出して笑う。
「それで、どうしても寂しくなったら?」
「迎えに行く」
「はい」
「ただし、きみの買い物を邪魔しない」
「はい」
「そして帰りは、わたしが荷物を持つ」
「それは助かります」
「手も繋ぐ」
「それは約束に必要ですか?」
「必要だね」
「ギーマさんが繋ぎたいだけでは?」
「それも理由の一つだ」
あっさりと素直に認めると、フランは照れながらも嬉しそうに笑った。
「じゃあ、いいです」
「いいのかい?」
「はい。あたしも繋ぎたいので」
今度は、ギーマが言葉を失う番だった。
何気ない一言。
けれど、フランはいつもこうして、彼が一番欲しい言葉を、嘘のない無防備さで差し出してくる。
「……フラン」
「はい?」
「きみは本当に、わたしを甘やかすのが上手い」
「そうですか?」
「ああ」
ギーマは歩きながら繋いだ手を持ち上げ、彼女の指先へ、誓いを立てるように軽く口づける。
フランは慌てて周囲を見回した。
「ギーマさん! 人前です!」
「お迎えに来たご褒美だよ」
「自分で自分にあげないでください!」
フランの真っ赤になった抗議の声に、ギーマは心底楽しそうに喉の奥で笑った。
つい数時間前まで、静かすぎる家の中で得体の知れない寂しさを持て余していた。
今は、隣にフランがいる。
ただそれだけで、見慣れたはずの海沿いの道までが、まるで別世界のように明るく見えた。
「フラン」
「はい」
「おかしいと思うかい?」
「何がですか?」
「きみがほんの少しいないだけで、こんなにも寂しくなることが」
フランは少し考えた。
そして、優しく首を横に振る。
「おかしくないです」
「そうかな」
「はい。あたしも、ギーマさんがいないと寂しいですから」
「……」
「一緒です」
その言葉に、ギーマの足がわずかに止まった。
フランも立ち止まり、不思議そうに見上げる。
「ギーマさん?」
「もう一度言ってくれるかな」
「あたしも、ギーマさんがいないと寂しいです」
「……そう」
「だから、おあいこです」
フランは少し恥ずかしそうに笑う。
「ギーマさんだけがおかしいわけじゃありません」
その言葉で、胸の奥に残っていた最後の引っ掛かりが、春の雪解けのようにすっと消えていった。
寂しさは、弱さではない。
相手の自由を奪い、鳥籠に閉じ込めない限り。
その気持ちをひた隠しにして、逃げない限り。
ただ、愛する人に会いたいと願う、真っ当で正直な感情なのだ。
「では、これからも寂しくなったら迎えに行こう」
「毎回来るつもりですか?」
「きみも寂しいのだろう?」
「そうですけど……」
「なら、利害は一致している」
「勝負師みたいにまとめないでください」
「いい勝負というものは、双方が満足するものだからね」
「絶対、今考えましたよね?」
「さて、どうかな」
ギーマは笑いながら、フランの小さな手をもう一度強く握る。
フランも、仕方がないというように、けれど嬉しそうに握り返した。
海沿いの道を、二人と三匹で並んで歩く。
帰る先は、同じ家。
帰れば、二つのカップへ温かい茶を注ぎ、フランが一生懸命選んだパンを一緒に食べる。
ほんの数時間離れていただけ。
それでも、会えたことが嬉しい。
迎えに来てよかったと、心から思う。
「フラン」
「はい?」
「ただいまと言う前に、わたしが迎えに来てしまったね」
「そうですね」
「では、家に着いたら改めて言ってくれるかな」
「何をですか?」
「ただいま、と」
フランは目を細め、幸せそうに頷いた。
「はい」
そして、繋いだ手に、さらに確かな力を込める。
「ギーマさんのところに、ちゃんと帰ります」
「ああ」
ギーマも、その小さな手を決して強く締めつけすぎないように気をつけながら、けれど絶対に離さないという意志を込めて握り返した。
少しいないだけで寂しい。
自分でも、ひどく重たくて面倒な男だと思う。
けれど今は、その重さを恥じるよりも。
迎えに行きたいと思った時に、素直に彼女の元へ向かえる自分でいたかった。
フランを家の中に閉じ込めるのではなく。
彼女が帰る道を、一緒に歩くために。
それが今のギーマにとって、愛から生まれる寂しさと上手く付き合うための、新しい勝負の仕方だった。
いつもなら手の届く場所にあるはずの、フランの温もりはどこにもなかった。
「……」
ギーマは、静かに目を覚ましたまま、白い天井を見つめてしばらく動かなかった。
南国特有の強い日差しを遮るための薄いカーテンが、潮風を受けてゆっくりと揺れている。窓の向こうからは、アローラらしい明るい陽射しが部屋の中へ斜めに差し込んでいた。
ベッドの隣半分は空いている。
少しだけ乱れたシーツにそっと触れてみれば、まだほんのりと、彼女がそこにいた名残のような温かさが残っていた。
フランは、つい先ほどまで確かにここで、自分の隣で眠っていたのだろう。
「フラン」
静かな部屋に、名を呼ぶ声が響く。
当然、返事はない。
胸の奥がわずかに冷え、不穏な影がよぎったが、以前のような心臓を鷲掴みにされるような激しい恐怖にはならなかった。
なぜなら、自分が頭を乗せている枕のすぐ横に、きちんと折りたたまれた一枚の紙が置かれていたからだ。
『ギーマさんへ。マリエシティまで、朝ごはんのパンと日用品を買いに行ってきます。お昼までには帰ります。ギーマさんが気持ちよさそうに眠っていたので、今日は起こしませんでした。エナとキキも一緒です。ちゃんと帰ってきます。大好きです。フラン』
手紙の最後には、彼女の相棒であるグラエナとブラッキーの、少し歪で愛嬌のある絵が添えられていた。
ギーマはその書き置きを指先でそっと手に取り、丸みを帯びた一生懸命な文字を何度も読み返した。
行き先。目的。帰る時間。同行するポケモンたち。
そして、過去のトラウマに怯える自分に念を押すように、はっきりと書かれた『ちゃんと帰ってきます』という言葉。
フランは、自分とは違い何も言わずにいなくなったりしない。
その事実を彼女は、共に暮らす日々の中で、行動で何度も、何度も示してくれている。
彼女を疑う理由など、もうどこにもない。
「……分かっているよ」
ギーマは、手の中の紙を見つめながら小さく呟いた。
「きみは帰ってくる」
それは、不安に駆られて自分へ言い聞かせるための言葉ではない。
彼女の気持ちを確かめるための言葉でもない。
それはもう、呼吸をするのと同じくらい自然に信じられる、揺るぎない事実だった。
だから、決して不安なわけではない。
彼女に捨てられたなどとは、微塵も思っていない。
フランは昼までに必ず戻る。
あと数時間もすれば、玄関の扉を開けて、いつものように花が咲いたように明るく笑うのだ。
『ただいまです、ギーマさん』
そう言って、迷うことなく自分のところへ帰ってくる。
頭では完全に分かっている。
それなのに。
「……寂しいね」
誰に聞かせるでもなく口から零れ落ちた言葉は、自分自身でも驚くほど、ひどく素直で無防備な響きを持っていた。
***
身支度を整えて居間へ出ると、相棒のレパルダスが窓辺の陽だまりで丸くなっていた。
朝の暖かな光を一身に浴びながら、しなやかで長い尻尾を自分の身体へ巻きつけるようにしている。
ギーマが足音を殺して近づくと、気配を察したレパルダスは片目だけを薄く開いて主を見た。
「おはよう」
「ニャア」
短く返事らしい声を上げた後、レパルダスはまた興味を失ったようにゆっくりと目を閉じる。
いつも通りの、猫らしく気まぐれな態度だった。
ギーマは何も言わずに、その隣の床へ腰を下ろす。
「フランは買い物だそうだ」
その名前に反応したのか、レパルダスの耳が、ぴくりとわずかに動く。
「昼までには帰ると書いてある」
「ニャ」
「もちろん、分かっているよ。彼女は帰ってくる」
レパルダスは「そんな分かりきったことを」とでも言いたげに、興味がなさそうに大きな欠伸をした。
あるいは、そんなことは自分も最初から分かっていると言いたいのかもしれない。
ギーマは、太陽の熱を含んで温かくなったしなやかな背中へ、そっと手を伸ばす。
長い指先で丁寧に毛並みを撫でてやると、レパルダスは心地よさそうに目を細め、ゴロゴロと喉を鳴らした。
その低く響く音は、今のギーマにとってひどく心地よい。
長い間、自分の隣という盤面に留まり続けてくれたポケモン。
気まぐれで、誰にも媚びず、誇り高く、美しく。
ギーマがどんな大勝負に負けても、すべてを失ってどんな見知らぬ土地へ流れ着いても、変わらず傍にいてくれた大切な相棒だ。
「きみがいるというのに、寂しいなどと言えば、失礼かな」
「ニャア」
「怒っている?」
問いかけに対し、レパルダスは身体を起こすと、ギーマの撫でていた手の甲へ自分の前足をぽんと乗せた。
そして、決して爪を立てないまま、主の指先を軽く押さえつける。
「慰めてくれているのかい?」
返事の代わりに、レパルダスはすり、と頭を擦り寄せてきた。
ギーマは目を細め、少しだけ柔らかく微笑む。
「ありがとう」
そのまま、しばらく無言で相棒のしなやかな身体を撫でた。
レパルダスの耳の後ろを優しく掻き、艶やかな顎の下へ指を滑らせる。
満足そうに目を細める姿を眺めていれば、荒立っていた気持ちは確かに穏やかに凪いでいった。
だが。
開け放たれた窓の外、遠くの通りからかすかに聞こえた、若い女性の明るい笑い声。
それに反応し、ギーマは無意識に顔を上げ、声のした方角へ視線を向けてしまう。
もちろん、フランではない。
そんなことは頭では分かっていたのに、胸の奥に、ほんの小さな落胆の色が静かに落ちた。
「……やれやれ」
ギーマは自嘲するように息を吐き、レパルダスの額をゆっくりと撫でる。
「わたしは、ずいぶん面倒な男になったものだね」
数時間。
ほんのたった数時間、フランがいないだけだ。
彼女が何日もかかる長い旅に出たわけでもない。
命の危険があるような場所へ向かったわけでもない。
頼もしい、彼女の相棒達まで一緒にいる。
身を守るという意味でも、これ以上心配する必要のない完璧な手札だろう。
それでも。
朝食のテーブルの向かいの席に、フランがいない。
こちらを見て、花のように笑う顔がない。
『ギーマさん、紅茶とコーヒー、どっちにしますか?』
そう尋ねてくれる、優しい声音が聞こえない。
少し物理的な距離が離れただけで、二人の家の中が、耳が痛くなるほど妙に静かに感じられる。
レパルダスがいてくれる。もちろん、誰よりも愛しい相棒だ。
けれど、それとこれとは完全に別だった。
ポケモンと人間を比べることに、意味などない。どちらもかけがえがない大切な存在だ。
ただ。
フランという一人の人間にしか埋められない場所が、いつの間にか、自分の中の最も深い部分にできてしまっていた。
その事実を、ギーマはもう否定することができなかった。
「以前のわたしなら」
喉を鳴らすレパルダスへ、ぽつりと語りかける。
「一人の朝を、もっと上手く楽しめただろうね」
次の勝負の手順を頭の中で組み立て。
カードを指先で器用に弄び。
誰にも邪魔されない、孤独で静かな時間を好んだ。
一人でいることは、しがらみのない自由だった。
他人に期待しなければ、裏切られることも、失う恐怖もない。
誰かを狂おしいほど深く愛さなければ、その人が少し視界から消えただけで、胸にぽっかりと穴が空くこともない。
けれど、フランを知ってしまった。
彼女の弾むような声がある朝を。
彼女と一緒に向かい合って飲む、温かい飲み物の味を。
何でもない他愛のない話をしながら、共に笑う時間を。
彼女が隣にいるという日常が、あまりにも当たり前で自然になってしまった。
そして一度、自らの愚かな選択で、それを手放し、失う痛みを骨の髄まで知ってしまった。
だからだろうか。
今は、彼女の姿が少し見えないだけで。
彼女がもう戻らないと疑っているのではなく、ただ純粋に、我慢できないほど早く会いたいと思ってしまう。
「……これも、愛情と呼んでいいものなのかな」
レパルダスが、甘えるようにギーマの膝の上へ顎を乗せる。
「それとも、ただの執着や依存だろうか」
「ニャア」
「難しい質問だったね」
ギーマは答えのない問いに苦笑した。
レパルダスは主の葛藤など気にした様子もなく、ただ心地よさそうに喉を鳴らし続けている。
その気ままな態度が、今のギーマには少しだけ羨ましかった。
***
朝食を用意しようとキッチンに立ち、戸棚からいつものようにティーカップを二つ取り出して並べた。
そこで、ギーマの手がピタリと止まる。
フランはいない。当然、カップは自分の一つでいいはずだ。
「……」
ギーマは片方を棚へ戻そうと手を伸ばした。
けれど、結局そのままテーブルへ並べることにした。
空のカップが、主のいない向かいの席にぽつんと置かれている。
それはまるで、自分と同じように、フランの帰りを待ちわびているようだった。
「やれやれ、これは重症だな」
イッシュにいた頃。フランがカトレアとシキミとの女子会で夜まで帰らなかった日。
自分が無意識のうちに、彼女の分のカップと、彼女の好物の焼き菓子をテーブルに用意してしまっていたことがあった。
あの頃から、すでに兆候はあったのかもしれない。
ただ、当時はまだ、自分がここまで彼女に溺れていることを認める気がなかった。
しかし今はもう、自分の感情を誤魔化す理由もない。
寂しい。
会いたい。
早く帰ってきてほしい。
「……まだ一時間も経っていないのだけれどね」
壁掛け時計の針を見て、ギーマは小さく自嘲した。
フランが買い物に出かけたのは、朝早く。彼女が戻ると約束したのは昼。
時間は、まだ十分すぎるほど残っている。
気を紛らわせようと、読みかけの本を開いてみる。
しかし、数ページ視線を滑らせたところで、内容がまったく頭に入っていないことに気づき、本を閉じた。
次にトランプのカードを手に取り、慣れた手つきで指の間で滑らせてみる。
ふとした拍子に、一枚が床へひらりと落ちた。
それを見ていたレパルダスが興味を示し、俊敏な動きで前足で押さえつける。
「返してくれるかな」
「ニャ」
「それはわたしのカードだ」
レパルダスは、前足の下からカードを出そうとしない。
ギーマが手を伸ばすと、今度は器用に尻尾で隠す。
「……遊んでほしいのかい?」
レパルダスは、挑戦的な目で目を細めた。
「なら、お相手しよう」
ギーマは床へ腰を下ろし、手持ちのカードを一枚ずつ、床を滑らせるように投げた。
レパルダスがそれを獲物に見立て、素早い前足で捕まえる。
時には高く飛びつき、時にはわざと見送ってから追いかける。
勝負というほどの大げさなものではない、主と相棒の小さな遊び。
ギーマが右へ投げれば右へ走り。左へ投げれば、今度は興味がないふりをしてその場から動かない。
「きみは本当に気まぐれだ」
「ニャア」
「そこが魅力ではあるけれど」
そのうち、ギーマは思わず声を立てて笑った。
レパルダスがカードを咥えたまま逃げ出し、部屋の中を追いかけっこになる。
久しぶりに、何も難しいことを考えず、ただ相棒と戯れた。
それは確かに楽しかった。
けれど、ふと壁の時計を見上げれば。
まだ昼までは、随分と遠い。
笑い声が消えた部屋へ、波の音と共にまた静けさが戻ってくる。
「……駄目だね」
ギーマは、レパルダスから取り戻した少し皺の寄ったカードを、指先で所在なく弄んだ。
「きみと遊んでも、まだ寂しい」
レパルダスはギーマの顔をじっと見た。
そして、まるで手のかかる主を呆れたように、ふん、と短く鼻を鳴らす。
「自分でも分かっているよ」
たった数時間すら待てないなんて。
フランには、フランの自分の時間がある。
たまには一人で市場を見て回り、気になったものを手に取る楽しみもあるだろう。
エナやキキと水入らずで過ごす時間も、彼女にとっては大切だ。
ギーマ自身の『寂しい』という感情を理由に、何でもかんでも一緒に行動しようとするのは違う。
彼女を無理に自分の傍へ縛りつけたいわけではない。
それでも。
「迎えに行くくらいなら、許されるかな」
レパルダスの耳が、ぴんと上を向く。
「買い物を邪魔するつもりはない。ただ、帰り道を一緒に歩くだけさ」
「ニャア」
「……言い訳に聞こえる?」
レパルダスは立ち上がった。
しなやかな身体を大きく伸ばして欠伸をすると、振り返りもせずに玄関の扉の方へ歩いていく。
そして、扉の前で立ち止まり、ギーマを振り返って見つめた。
「一緒に来てくれるのかい?」
「ニャ」
それは、「ぐずぐずしていないで、さっさと行けばいい」と背中を押しているようだった。
ギーマは、とうとう自分自身の感情に観念した。
「そうだね」
立ち上がり、着流しの和装の襟元を綺麗に整える。
「待てないなら、迎えに行けばいい」
以前の、無駄なプライドに塗れた自分なら。
恋人がいなくて寂しいから迎えに行くなど、絶対に口が裂けても認めなかっただろう。
たまたま近くに用事があった。
フランの荷物が重いと思った。
護衛が必要だと判断した。
いくらでも、もっともらしい理由を飾り立てただろう。
だが、今は違う。
「フランに会いたいから、迎えに行く」
声に出して、その事実を認めてみる。
あまりにも単純で、大の大人の男としてはあまりにも情けなく。
けれど、決して悪くない理由だった。
***
マリエシティの市場は、朝から活気に溢れ、多くの人で賑わっていた。
南国特有の色鮮やかな果物が並ぶ屋台。
鼻をくすぐる、甘い香りの焼き菓子。
アローラらしい、色鮮やかな布や装飾品を売る店。
その賑やかな通りを、ギーマはレパルダスと並んで静かに歩く。
フランがどこにいるか。
それを見つけるのは、彼にとってそう難しくなかった。
市場の奥。小さなパン屋の店先から、聞き慣れた高く澄んだ声がする。
「エナ、それはギーマさんの分だから食べちゃだめだよ」
「わふっ!」
「だめ。ギーマさんが好きそうだから買ったんだもん」
「ブラ」
「キキも狙わないの」
陽光に透ける彼女の美しい髪。
両手には、買ったものを詰め込んだ大きな紙袋を抱えている。
足元には、おこぼれを狙うエナとキキ。
フランはギーマのために選んだらしいパンを死守しながら、二匹のポケモンを一生懸命に叱っていた。
その愛らしい日常の姿を見ただけで。
先ほどまで胸の奥にぽっかりと空いていた空洞が、呆れるほど簡単に、温かなもので埋まっていった。
「……フラン」
少し離れた場所から、名前を呼ぶ。
フランが弾かれたように振り返る。
そして、人混みの中に立つギーマを見つけた瞬間、その顔が花が綻ぶようにぱっと明るくなった。
「ギーマさん!」
その満面の笑顔。
名を呼ぶ弾んだ声。
彼が会いたかったものが、今、すべてそこにある。
フランは紙袋を抱えたまま、驚いたように駆け寄ってきた。
「どうしたんですか? 何か買い忘れですか?」
「いいや」
「じゃあ、レパルダスちゃんのお散歩ですか?」
「それも違う」
ギーマはフランの前に立ち、その顔を見下ろす。
近くで見れば、日差しの中を歩き回ったせいか、白い頬が少し赤く染まっている。
揺れる髪には、アローラの潮風の匂いが微かに混じっている。
その何もかもが、狂おしいほどに愛しかった。
「迎えに来た」
「え?」
フランが驚いて目を瞬かせる。
「でも、あたし、お昼までには帰るって……」
「ああ。読んだよ」
「書き置き、ちゃんと見つけてくれたんですね」
「枕元にあったからね」
「じゃあ、不安になったわけじゃ……」
「不安ではない」
ギーマは、過去の幻影を払拭するように、はっきりと答えた。
「きみが帰ってくることは信じていた」
「……」
「ただ」
そこで少しだけ、言葉に迷う。
ここは市場の真ん中で、周囲には行き交う人もいる。
以前の彼なら、こんな公の場所で自身の弱さを晒すことなど、絶対にありえなかった。
けれど、フランにはもう何も隠さないと決めている。
「寂しかった」
そのストレートな言葉に、フランの瞳が大きく見開かれる。
「……寂しかった?」
「ああ」
「まだ、お昼にもなってないのに?」
「分かっている」
ギーマは少し照れくさそうに苦笑した。
「自分でも、おかしいと思っているよ。ほんの数時間、きみがいないだけだ。ご丁寧に書き置きもあった。レパルダスと遊んだり、本を読んだりして、静かに待とうともした」
傍らのレパルダスが、主の情けなさに同意するように「ニャア」と小さく鳴く。
「それでも、どうにも家が静かすぎた」
フランの驚いた表情が、ゆっくりと、嬉しそうに柔らかく解けていく。
「だから、我慢できずに迎えに来た」
「ギーマさん……」
「迷惑だったかな」
少しだけ不安になって尋ねると、フランはすぐに、勢いよく首を横へ振った。
「迷惑じゃないです」
「本当に?」
「はい」
フランは、両腕に抱えていた紙袋を器用に片側へ寄せた。
そして、空いた手を伸ばし、ギーマの大きな手をしっかりと握る。
「嬉しいです」
「……嬉しい?」
「あたしが少しいないだけで、寂しいって思ってくれたんでしょう?」
「ああ」
「それくらい、ギーマさんの毎日の中にあたしがいるってことですよね」
その前向きすぎる解釈に、ギーマは目を細めた。
「きみは、いつも都合よく解釈してくれるね」
「違うんですか?」
「違わない」
むしろ、まったくその通りだった。
ギーマの日常は、もうフランという存在なしでは完成しない。
朝の寝起きの声。
食卓の向かいの席。
何気ない日常の会話。
手の届く場所にいる確かな温もり。
そのすべてが、いつの間にか彼が生きていく上で必要不可欠なものになっていた。
「レパルダスちゃんと遊んでたんですか?」
「ああ。カードを取られてね」
フランは足元のレパルダスを見る。
「レパルダスちゃん、ギーマさんの相手してくれたの?」
「ニャア」
「ありがとう。ギーマさん、寂しがり屋だから大変だったでしょう?」
「フラン」
ギーマが少しだけ窘めるように低く呼ぶと、フランは悪戯っぽくくすくす笑った。
「だって、本当でしょう?」
「否定はしないが、本人の前で相棒と共有されるのは少し複雑だね」
レパルダスは主のぼやきなど気にする様子もなく、フランの足元へすりすりと擦り寄った。
フランがしゃがんで頭を撫でてやると、満足そうにゴロゴロと喉を鳴らす。
「でも、ギーマさん」
「うん?」
「お迎えに来てくれて、ありがとうございます」
フランは立ち上がり、繋いだ手をきゅっと力強く握った。
「あたしも、買い物しながらずっとギーマさんのこと考えてました」
「わたしのことを?」
「はい。このパン、ギーマさんが好きそうだなとか。この紅茶、一緒に飲みたいなとか。早く帰って見せたいなって」
「……」
「だから、ギーマさんに会えて嬉しいです」
その飾らない言葉に、ギーマの胸の奥が、甘い熱で満たされていく。
数時間の所在ない寂しさなど、彼女のその一言で、すべて報われるようだった。
「では、帰ろうか」
「はい」
「荷物を持つよ」
「でも、ギーマさんを迎えに来させた上に、荷物まで……」
「わたしが持ちたいんだ」
ギーマは半ば強引に、フランから紙袋を受け取る。
フランが抱えていた重さが、そのまま自分の腕へ移る。
その代わり、空いた彼女の小さな手を取った。
そして、隙間なく指を絡める。
「ギーマさん、人が見てます」
「見せておけばいい」
「ええ……」
「きみを迎えに来た男だと分かるだろう」
少しだけ独占欲を滲ませて言うと、フランの顔がみるみるうちに赤くなる。
「またそういう、恥ずかしいことを……」
「嫌かな」
「嫌じゃないですけど」
「では、問題ないね」
「問題あります……心臓に」
フランは困ったように眉を下げて言いながらも、決してその手を離そうとはしなかった。
ポケモンたちを引き連れ、二人で市場を出る。
エナは元気よく先を歩き、キキはその隣を落ち着いた足取りで進む。レパルダスは主であるギーマのすぐ傍に寄り添うように歩いていた。
フランが、歩きながら繋いだ手を見下ろして言う。
「今度から、一緒に来ますか?」
「毎回?」
「ギーマさんが行きたい時は」
「きみが一人で買い物を楽しみたい時もあるだろう」
「その時は、一人で行きたいって言います」
「……そう」
「でも、今日みたいに寂しくなったら、迎えに来てください」
「いいのかい?」
「はい」
フランは、振り返って明るく笑った。
「迎えに来てくれるの、嬉しいですから」
「毎回でも?」
「毎回は、ちょっと恥ずかしいかもしれません」
「手厳しい」
「でも、ギーマさんが本当に寂しかったら、毎回でもいいです」
その果てしない優しさに、ギーマはまた底なしに甘えたくなる。
だが、彼女の自由な時間まで奪いたくはない。
その二つの間で、少しだけ考える。
「では、約束をしよう」
「約束?」
「きみは、出かける時に帰る時間を教えてくれる」
「はい」
「わたしは、その時間まで待つ努力をする」
「努力なんですね」
「ああ。できるとは断言できない」
正直すぎる答えに、フランが声を出して笑う。
「それで、どうしても寂しくなったら?」
「迎えに行く」
「はい」
「ただし、きみの買い物を邪魔しない」
「はい」
「そして帰りは、わたしが荷物を持つ」
「それは助かります」
「手も繋ぐ」
「それは約束に必要ですか?」
「必要だね」
「ギーマさんが繋ぎたいだけでは?」
「それも理由の一つだ」
あっさりと素直に認めると、フランは照れながらも嬉しそうに笑った。
「じゃあ、いいです」
「いいのかい?」
「はい。あたしも繋ぎたいので」
今度は、ギーマが言葉を失う番だった。
何気ない一言。
けれど、フランはいつもこうして、彼が一番欲しい言葉を、嘘のない無防備さで差し出してくる。
「……フラン」
「はい?」
「きみは本当に、わたしを甘やかすのが上手い」
「そうですか?」
「ああ」
ギーマは歩きながら繋いだ手を持ち上げ、彼女の指先へ、誓いを立てるように軽く口づける。
フランは慌てて周囲を見回した。
「ギーマさん! 人前です!」
「お迎えに来たご褒美だよ」
「自分で自分にあげないでください!」
フランの真っ赤になった抗議の声に、ギーマは心底楽しそうに喉の奥で笑った。
つい数時間前まで、静かすぎる家の中で得体の知れない寂しさを持て余していた。
今は、隣にフランがいる。
ただそれだけで、見慣れたはずの海沿いの道までが、まるで別世界のように明るく見えた。
「フラン」
「はい」
「おかしいと思うかい?」
「何がですか?」
「きみがほんの少しいないだけで、こんなにも寂しくなることが」
フランは少し考えた。
そして、優しく首を横に振る。
「おかしくないです」
「そうかな」
「はい。あたしも、ギーマさんがいないと寂しいですから」
「……」
「一緒です」
その言葉に、ギーマの足がわずかに止まった。
フランも立ち止まり、不思議そうに見上げる。
「ギーマさん?」
「もう一度言ってくれるかな」
「あたしも、ギーマさんがいないと寂しいです」
「……そう」
「だから、おあいこです」
フランは少し恥ずかしそうに笑う。
「ギーマさんだけがおかしいわけじゃありません」
その言葉で、胸の奥に残っていた最後の引っ掛かりが、春の雪解けのようにすっと消えていった。
寂しさは、弱さではない。
相手の自由を奪い、鳥籠に閉じ込めない限り。
その気持ちをひた隠しにして、逃げない限り。
ただ、愛する人に会いたいと願う、真っ当で正直な感情なのだ。
「では、これからも寂しくなったら迎えに行こう」
「毎回来るつもりですか?」
「きみも寂しいのだろう?」
「そうですけど……」
「なら、利害は一致している」
「勝負師みたいにまとめないでください」
「いい勝負というものは、双方が満足するものだからね」
「絶対、今考えましたよね?」
「さて、どうかな」
ギーマは笑いながら、フランの小さな手をもう一度強く握る。
フランも、仕方がないというように、けれど嬉しそうに握り返した。
海沿いの道を、二人と三匹で並んで歩く。
帰る先は、同じ家。
帰れば、二つのカップへ温かい茶を注ぎ、フランが一生懸命選んだパンを一緒に食べる。
ほんの数時間離れていただけ。
それでも、会えたことが嬉しい。
迎えに来てよかったと、心から思う。
「フラン」
「はい?」
「ただいまと言う前に、わたしが迎えに来てしまったね」
「そうですね」
「では、家に着いたら改めて言ってくれるかな」
「何をですか?」
「ただいま、と」
フランは目を細め、幸せそうに頷いた。
「はい」
そして、繋いだ手に、さらに確かな力を込める。
「ギーマさんのところに、ちゃんと帰ります」
「ああ」
ギーマも、その小さな手を決して強く締めつけすぎないように気をつけながら、けれど絶対に離さないという意志を込めて握り返した。
少しいないだけで寂しい。
自分でも、ひどく重たくて面倒な男だと思う。
けれど今は、その重さを恥じるよりも。
迎えに行きたいと思った時に、素直に彼女の元へ向かえる自分でいたかった。
フランを家の中に閉じ込めるのではなく。
彼女が帰る道を、一緒に歩くために。
それが今のギーマにとって、愛から生まれる寂しさと上手く付き合うための、新しい勝負の仕方だった。
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