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ギーマ(BW)×固定夢主💮
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その知らせが届いたのは、どこまでも澄み渡るようなイッシュリーグの穏やかな午後のことだった。
四天王控室では、カトレアが豪奢なソファに深く腰を掛け、立ち上る湯気を眺めながら優雅に紅茶を傾けていた。向かいの席では、シキミが愛用のペンを握りしめ、新作小説の構想を練るためのメモ帳を机いっぱいに広げている。ペン先が紙を走る微かな音と、陶器が触れ合う静かな音だけが、部屋を満たしていた。
数ヶ月前までは。ちょうどこの時間帯に、フランが抱えきれないほどの書類を胸に抱えて「失礼します」と元気よく顔を出すはずだった。
けれど、今のフランはここ、イッシュ地方にはいない。
彼女は今、広大な海を越えたはるか遠い地、アローラ地方にいる。すべてを捨てて姿を消した大好きな恋人、ギーマを追いかけて。
時計の針が進む音だけが静寂を際立たせていた、その時だった。
『……カトレアさん! シキミさん!』
静かな控室に唐突に鳴り響いたライブキャスターの着信音。慌てて通話ボタンを押したシキミの端末の小さな画面越しに映し出されたフランの顔は、とてもじゃないが見栄えが良いとは言えないほど、涙でぐしゃぐしゃだった。
けれど、その頬を伝う涙は、これまでイッシュで人知れず流していたような、悲しみや絶望の色に染まったものではなかった。赤く泣き腫らしたその瞳の奥には、確かな希望の光が、力強く灯っていた。
『あたし……ギーマさんに、会えました……っ』
その言葉を聞いた瞬間、シキミは弾かれたように両手で口元を覆い、言葉にならない歓喜の息を呑んだ。
向かいに座っていたカトレアは、手の中で微かに震えそうになったティーカップを、音を立てないようにゆっくりと、静かにソーサーへと戻した。
「……そう」
カトレアの声は、彼女自身でも驚くほどに穏やかで、そして深く安堵していた。
「会えたのね」
『はい……! 会えました……っ。ちゃんと、話せました……! ギーマさん、やっぱりアローラにいて……あたし、ずっと探してて……っ』
フランの口から紡がれるそれらは、嗚咽に遮られてまともな言葉になっていなかった。画面越しであっても、彼女がこれまでどれほど極限の精神状態で張り詰めていたかが痛いほどに伝わってくる。
ずっと、暗闇の中で不安だったのだろう。ギーマが何も言わずにいなくなってしまった後。彼を地の果てまで追うべきなのか、この場所でひたすら待つべきなのか。彼を勝手だと怒るべきなのか、それとも己の無力さを嘆いて泣くべきなのか。
それすら分からない迷子のような状態のまま、それでも彼を好きでいることだけは、どうしてもやめられなかったのだ。
カトレアも、シキミも、その痛切な想いを誰よりも近くで知っていた。フランが周囲に心配をかけまいと「大丈夫です」と健気に笑った後、誰の目も届かない資料室の影で一人泣き崩れていたことも。ギーマの名を耳にするだけで悲しげに目を伏せ、それでも宝物を扱うように大切そうに彼との思い出を語っていたことも。
だからこそ、シキミはたまらず身を乗り出し、画面越しの友人に呼びかけた。
「フランさん……! よかった……本当によかったです……!」
『シキミさん……っ』
「ちゃんと抱きしめてもらいましたか?! ちゃんと謝ってもらいましたか?! ちゃんと、今度こそ離さないと誓わせましたか?!」
「シキミ、矢継ぎ早すぎるわ」
「だって!」
カトレアの冷静なツッコミにも、シキミの目には大粒の涙が浮かび上がっていた。
「だって、フランさんがどれだけ泣いていたか、アタシたち知っているじゃないですか……!」
シキミの涙ながらの抗議に、フランは画面の向こうで少しだけ困ったように、けれど心の底から嬉しそうにふわりと笑った。
『えへへ……ごめんなさい。たくさん心配かけちゃって……』
「謝るところではないわ」
カトレアは、ぴしゃりと、しかし静かな声で言った。
「アナタが泣いた分、責められるべき相手は別にいるもの」
『カ、カトレアさん……』
その鋭い言葉に、フランの顔に少しだけ焦りの色が浮かぶ。その分かりやすい反応を見て、カトレアはスッと目を細めた。
「……ふぅん。庇うのね」
『だ、だって……ギーマさんも、すごく苦しんでたんです。あたしのためだって思って、手を離したって……本当は、ギーマさんだって……』
「それで、アナタが理不尽に泣かされたという事実は決して消えないわ」
カトレアの声は、決して冷え切ってはいなかった。けれど、無条件で手放しに甘やかすようなものでもなかった。
「もちろん、無事に再会できたことは嬉しいわ。アナタがまた心から笑えるようになったなら、それは友達として心からよかったと思っている」
『……はい』
「でもね、フラン」
カトレアは、画面の向こうにいる友人の瞳を真っ直ぐに見据えた。
「大切な友達を泣かせた男を、何の確認も落とし前もなく無条件で許してあげるほど、アタクシたちは優しくないの」
フランが驚きに目を丸くする。横で聞いていたシキミも、あふれる涙をハンカチで拭いながら、これ以上ないほど力強く何度も頷いた。
「そうです! フランさんが幸せなのはとても嬉しいです。でも、それはそれとして、ギーマさんには一度きちんとお話ししなければなりません!」
『お、お話し……?』
「ええ」
カトレアは、かつての挑戦者たちを震え上がらせた、最高に優雅で恐ろしい微笑みを浮かべた。
「近いうちにアローラへ行くわ」
『ええっ?!』
フランの可愛らしい悲鳴が、穏やかなイッシュリーグの控室に高く響き渡った。
***
フランとの通信が切れた後、四天王控室にはしばらく静かな余韻が残る。
シキミはまだ涙を拭いきれず、ハンカチを両手で握りしめたまま、先ほどまでフランの顔が映っていたライブキャスターの画面をじっと見つめている。カトレアは優雅に紅茶を口元へ運んでいたが、その瞳の奥には明らかな安堵と、それ以上に鋭い決意が宿っていた。
「……本当に、会えたんですね」
シキミが、夢を見るように呟いた。
「ええ」
カトレアは静かに答える。
「けれど、これで終わりではないわ」
「はい……!」
シキミは強く頷いた。
「再会できたことは、物語で言えば大きな転換点です。でも、本当に大切なのは、その先ですものね」
「そういうこと」
カトレアはカップをソーサーへ戻した。
「フランはきっと、ギーマを庇うわ。あの子はそういう子だもの。自分がどれだけ傷ついたかより、彼がどれだけ苦しんでいたかを先に考えてしまう」
「……フランさんらしいですよね。でも、だからこそ心配です」
「ええ。だから、アタクシたちが行くのよ」
その時、控室の扉が静かに開いた。
二人が顔を向けると、そこにはレンブが立っていた。鍛えられた大柄な身体に、いつも通り無駄のない姿勢。彼は二人の様子を見て、すでに大方の事情を察しているようだった。
「フランから連絡があったのか」
「ええ」
カトレアが答える。
「ギーマに会えたそうよ」
レンブの表情が、ほんのわずかに動いた。それは驚きではなく、安堵に近い、けれどそれを表へ出しすぎない、彼らしい静かな反応だった。
「そうか」
短い一言。だが、その声には確かな重みがある。
シキミは涙の残る目元を拭いながら、少しだけ笑った。
「はい……! フランさん、泣いていましたけど、でも、とても嬉しそうでした」
「なら、まずはよかった」
レンブはそう言ってから、すぐにカトレアへ視線を向けた。
「お前たちは、アローラへ行くつもりか」
「当然でしょう」
カトレアは一切迷わず答えた。
「大切な友達を泣かせた男を、通信越しの報告だけで許してあげるほど、アタクシたちは甘くないわ」
「そうです!」
シキミも力強く身を乗り出す。
「フランさんが本当に笑えているのか、この目で見たいです。それから、ギーマさんにもちゃんとお話ししなければなりません!」
レンブは二人の言葉を聞き、静かに頷いた。
「なら、ギーマにしっかり釘を刺しておけ」
その低い声に、控室の空気がわずかに引き締まる。
カトレアが目を細めた。
「アナタがそう言うなんて、珍しいわね」
「珍しくはない」
レンブは表情を変えずに言った。
「フランは強い。だが、己を後回しにする癖がある。ギーマも、それを分かっていながら甘えすぎれば、また同じ過ちを繰り返す」
シキミは真剣な顔で聞いていた。
「……はい」
「あの男は勝負師だ。敗北から立ち上がる術は知っているはずだ」
レンブの声は静かだった。
けれど、そこには同じ四天王として長く並び立ってきた者だからこその信頼と、厳しさがあった。
「だが、フランのことになると、どうにも余計な札を切る。自分の弱さを隠すために、相手のためという言葉を使うなら、それはただの逃げだ」
「……まったく、その通りね」
カトレアは小さく息を吐いた。レンブはさらに続ける。
「ギーマに伝えろ。フランを隣に置くと決めたなら、格好をつけるな。弱さを見せることから逃げるな。彼女の優しさに甘えるなら、その分、彼女を支える覚悟を持て、と」
シキミは、胸の前で両手を握りしめた。
「レンブさん……」
「そして」
レンブの瞳が、ほんの少しだけ鋭くなる。
「もう一度フランを置いて逃げるようなことがあれば、次はわたしも黙ってはいない」
それは大きな声ではなかった。威圧的な怒鳴り声でもない。けれど、だからこそ重かった。
レンブが本気でそう言っているのだと、カトレアにもシキミにもはっきり伝わった。
カトレアは優雅に微笑んだ。
「分かったわ。アナタの分まで、しっかり言っておいてあげる」
「頼む」
「もちろん、アタシも言います!」
シキミは涙を拭い、きりっと顔を上げた。
「フランさんは、アタシたちの大切な友達ですから。もう二度と、一人で泣かせたりなんてさせません」
「そうだ」
レンブは短く頷いた。そして、少しだけ視線を窓の外へ向ける。
穏やかなイッシュの空。
その向こうの、遠い海の先。
アローラにいるであろう二人を思うように、彼は静かに言った。
「フランが自分の足で選んだ道なら、止める理由はない。だが、その道で彼女がまた傷つくなら、友として支える者が必要だ」
「ええ」
カトレアもまた、同じ方角を見る。
「そのために行くのよ」
レンブは二人へ向き直った。
「気をつけて行ってこい」
「はい!」
「ええ。任せておきなさい」
シキミは慌ただしくメモ帳を閉じ、すでに旅支度の段取りを考え始めている。カトレアは静かに紅茶を飲み干し、立ち上がった。
レンブはそんな二人を見送りながら、最後にもう一度だけ低く言った。
「ギーマには、伝えておけ」
二人が振り返る。
「フランは、勝負の賞品ではない。守るべき相手であり、共に立つ相手だ。そこを履き違えるな、と」
カトレアの唇に、満足げな笑みが浮かんだ。
「その言葉、必ず伝えるわ」
シキミも力強く頷く。
「はい。レンブさんの分まで、しっかり釘を刺してきます!」
こうして、アローラ行きは決まった。
フランの笑顔を確かめるため。
ギーマの覚悟を見定めるため。
そして、イッシュに残るもう一人の四天王の、寡黙だが確かな怒りと信頼を背負って。
カトレアとシキミは、遠い南国へ向かう準備を始めた。
***
それから数日後。
果てしなく広がるアローラの青い空の下に、カトレアとシキミの二人は立っていた。
突き刺さるような眩しい陽射し。肌を撫でる生温かい潮風。そして、サザナミでの海とはまるで違う、エメラルドグリーンに輝く透き通った海。
初めて訪れる南国の景色に、シキミは興奮を隠しきれない様子で目をキラキラと輝かせていた。
「ここがアローラ……! 南国の強い光、異国の風、そして遠い地で劇的な再会を果たす恋人たち……物語の舞台として完璧です!」
「観光に来たのではないわよ」
「分かっています。フランさんの尊い恋路を守るための、重要な遠征ですね!」
「その言い方も少し違うわ」
カトレアは小さくため息をつきつつも、その足取りに一切の迷いはなかった。
二人が地図を頼りに向かったのは、マリエシティの喧騒から少し離れた、ギーマとフランが暮らしているという海辺の小さな住まいだった。波の音が心地よく響き、潮風がよく通る穏やかな場所だ。
木造りの温かみのある玄関の前には、見覚えのある黒と灰色の毛並み――グラエナが、優秀な番犬のように伏せていた。エナは二人の姿を認めるなり、パタパタと嬉しそうに尻尾を振って立ち上がった。
「まあ、エナさん! お久しぶりです!」
シキミが顔をほころばせてしゃがみ込むと、エナは「わふっ」と愛想よく鳴いて、シキミの手のひらに湿った鼻先を擦り寄せた。
その楽しげな声を聞きつけたのか、ガチャリと音を立てて木製の扉が開く。
「……あれ? エナ、どうしたの?」
ひょっこりと顔を出したフランは、玄関先に立つ二人の姿を視界に捉えた瞬間、まるで大輪の花が咲いたようにぱあっと顔を輝かせた。
「カトレアさん! シキミさん!」
次の瞬間には、フランはサンダル突っ掛けのまま玄関から勢いよく飛び出してきていた。カトレアとシキミの目の前で急ブレーキをかけて立ち止まり、感極まったように泣きそうな顔で笑う。
「本当に来てくれたんですね……!」
「来ると言ったでしょう」
「フランさん……!」
シキミがたまらず両手を広げ、フランの身体を力いっぱい抱きしめた。フランもまた、シキミの背中に腕を回し、ぎゅっと強く抱き返す。
「よかった……本当によかったです……! フランさんが、ちゃんと笑ってる……!」
「シキミさん……っ」
シキミの安堵に満ちた涙声につられて、フランの瞳にもすぐに涙がじんわりと浮かんだ。
カトレアは少し離れた場所から、感涙にむせぶ二人の様子を静かに見守っていたが、やがてゆっくりと歩み寄り、フランの頬へ優しく手を伸ばした。
「少し痩せたわね」
「えっ、そうですか?」
「でも、顔色は前よりずっといいわ」
カトレアは、フランの目元に残る痕跡を注意深く見つめた。
「泣き腫らした跡はまだあるけれど、今の涙は、決して悪いものではなさそうね」
「……はい」
フランは照れくさそうにはにかんで笑った。
「あたし、今……幸せです」
その嘘偽りのない真っ直ぐな言葉を聞いて、カトレアの張り詰めていた表情が、ほんの少しだけ和らいだ。
「そう。なら、まずはよかったわ」
その時だった。
室内の奥から、低く、どこか涼やかな大人の男の声が聞こえてきた。
「フラン、誰か来たのかな」
玄関に姿を現したのは、白と黒の混じった特徴的な髪を持つ男だった。
アローラの温暖な気候と風に馴染むように着崩された、和装のようなゆったりした装い。かつてイッシュリーグの四天王控室で見慣れていた、あのかっちりとした豪奢な燕尾服ではない。
けれど、すべてを見透かすような切れ長の空色の瞳と、どこか気怠げでありながらも洗練された立ち居振る舞いは、間違いなく彼そのものだった。
ギーマ。
カトレアとシキミの視線が、同時に鋭く彼へと向けられる。フランが慌てたように振り返った。
「ギーマさん! カトレアさんとシキミさんが来てくださって……!」
「ああ」
ギーマは玄関先に立つ二人を見ると、驚く様子も見せず、ただ少しだけ眩しそうに目を細めた。
「久しぶりだね、カトレア。シキミ」
「ええ。久しぶりね、ギーマ」
「お久しぶりです、ギーマさん」
シキミはにこりと社交的な笑みを浮かべた。だが、その笑顔はいつもの朗らかなものとは違い、あきらかに少し硬く、緊張感を孕んでいた。
カトレアの方はといえば、最初から笑ってすらいなかった。氷点下の冷ややかな視線で、彼を頭の先から爪先まで値踏みするように見据えている。
ギーマは二人のその明白な態度を見て、訪問の意図をすぐに察したようだった。
「……なるほど」
彼は小さく、自嘲するように息を吐き出す。
「今日は、わたしに話があるようだね」
「ええ」
カトレアは、一切の妥協を許さない態度で優雅に頷いた。
「フラン、少し席を外してくれるかしら」
「えっ」
名指しされたフランの顔が、不安げに揺れる。
「で、でも……」
「大丈夫よ。取って食べたりはしないわ」
「そ、そういう心配じゃ……!」
「フランさん」
シキミが、心配する友人を宥めるように優しく声をかけた。
「アタシたちは、誰よりもフランさんの味方です。だからこそ、ギーマさんときちんとお話ししたいのです」
「……」
フランは迷うように、後ろに立つギーマを見上げた。ギーマはそんな彼女に向けて、ひどく穏やかで、慈しむような微笑みを向けた。
「行っておいで、フラン。少し街で買い物でもしてくるといい。きみが好きだと言っていた焼き菓子を、後で一緒に食べよう」
「ギーマさん……」
「大丈夫。逃げたりしないよ」
その静かな一言に、フランの瞳が大きく揺れた。
きっと、彼女にとってその言葉は何よりも特別で、心臓の奥深くに響く誓いだったのだろう。もう逃げない。もう勝手にいなくならない。ギーマは彼女の不安を拭い去るように、そうはっきりと告げているのだ。
フランは彼の言葉を信じるように、ゆっくりと深く頷いた。
「……分かりました。じゃあ、少しだけ行ってきます」
「ええ。気をつけて」
「はい」
フランは足元にいたエナと、奥から出てきたブラッキーのキキを連れて、少し名残惜しそうに何度も振り返りながら、海沿いの道へと歩いていった。
扉が静かに閉まる。フランの足音が完全に遠ざかり、波の音だけが聞こえるようになるのを待って。
室内に、かつてのイッシュ四天王である三人だけが残された。
最初に重い口を開いたのは、やはりカトレアだった。
「……ほんとうに、」
その声は、先ほどまでフランの前で聞かせていた優しい響きからは一変し、まるで絶対零度の吹雪のように冷ややかだった。
「ずいぶん好き勝手してくれたわね、ギーマ」
シキミもまた、いつになく真剣な面持ちで静かにギーマを見据えている。いつものような物語の展開を期待するような興奮の色はない。ただ、大切な友人の心を無惨に引き裂き、傷つけた相手を見る、厳しい審問官のような目だった。
二人の射抜くような視線を浴びても、ギーマは何も言い訳をしようとはしなかった。ただ静かに二人に向き直ると、深く、深く頭を下げた。
「……フランを泣かせたこと、心から申し訳なく思っている」
その光景に、カトレアの整った眉がわずかに動いた。シキミは信じられないものを見るように、小さく息を呑む。
あのギーマが、深く頭を下げている。常に飄々として、他人に弱みを見せることなど決してなかった、あの余裕に満ちた勝負師が。己の非を、一切の誤魔化しなく真っ直ぐに認めているのだ。
「わたしは、彼女を手放した」
頭を上げたギーマの声は、懺悔するように低かった。
「すべては彼女のためだと言い訳してね。何もかも失った今のわたしでは、純粋な彼女にふさわしくない。落ちぶれた泥沼の中にいる自分の隣に、光り輝く彼女を縛りつけるべきではないと。……そう言えば聞こえはいいが、結局のところ、それはわたしの弱さと、つまらないプライドの問題でしかなかった」
「自分の愚かさを分かっているのね」
「ああ」
ギーマは顔を上げ、カトレアを真っ直ぐに見返した。その空色の瞳には、かつて彼が好んで纏っていた、本心を隠すための飄々とした煙幕はもう存在しなかった。
「彼女なら、どんな惨めなわたしであっても受け入れてくれると分かっていた。だからこそ怖かったんだ。あの子の底なしの優しさに、すべてを委ねて甘えてしまう自分が。何もかも失った空っぽのわたしを、彼女の存在が完全に救い上げてしまうことが」
「だから、何も言わずに逃げた」
「そうだ」
カトレアの声が、刃のように鋭く研ぎ澄まされる。
「その独りよがりな選択の結果、残されたフランがどれだけ泣いたか、アナタは知っているの?」
「……全部は知らない」
ギーマは正直に答えた。
「知る資格もないだろう。だが、想像はしている」
「想像では足りないわ」
カトレアは一歩前へ踏み出し、彼に詰め寄った。
「フランはね、アナタが身勝手にいなくなってからも、ずっとアナタを庇い続けていたわ」
ギーマの瞳が、苦痛に耐えるようにわずかに揺れる。
「自分がもっと強ければ、彼の支えになれたかもしれない。自分がもっとふさわしい女であれば、ギーマさんは離れなかったかもしれない。……そうやって、アナタが勝手に選んだ別れの責任まで、全部自分のせいにして背負い込もうとしていたのよ」
「……」
「アナタが勝手に自分のちっぽけなプライドを守るために彼女の手を離した結果、あの子は自分自身を深く責め、傷つけたのよ」
ギーマは、反論の言葉を何一つ持たなかった。
そこで、カトレアの言葉を引き継ぐように、シキミが震える声で口を開いた。
「フランさんは、本当に、底抜けに優しい方です。ギーマさんのことを、誰の前でも絶対に悪く言わないんです。どれだけ泣いていても、『ギーマさんにも理由があるはずです』って……『あたしがちゃんと分かってあげられなかったのかも』って……」
シキミの大きな瞳に、再び涙がじわりと滲む。
「でも、アタシたちは傍でずっと見ていました。フランさんがどれだけ寂しそうに、抜け殻のようになっていたか。どれだけギーマさんの名前を、宝物のように大切そうに呼んでいたか。どれだけ、今すぐにでも会いたいという気持ちを必死に堪えていたか」
「……」
「だから、ギーマさん」
シキミは、涙声ながらも真っ直ぐな強い瞳で彼を射抜いた。
「もう二度と、フランさんを一人にしないでください」
その言葉は、相手を責め立てるというよりも、友人の幸せを心から願う切実な祈りに近かった。
だが、カトレアの言葉は違った。もっと鋭く、一切の容赦がない、明確な最終通告だった。
「もう一度、同じように彼女を泣かせるような真似をしたら、絶対に許さないわ」
ギーマは静かに、氷の女王のような彼女を見つめ返した。
「たとえアナタがまた、もっともらしい顔で『彼女のため』だなんて言い出しても、今度は絶対に聞かない。アナタの勝手な美学や薄っぺらいプライドで、フランを泣かせるのは二度と許さない」
「……ああ」
「フランは、アナタの敗北ごと、アナタのすべてを愛したのよ」
カトレアの凛とした声が、ほんの少しだけ感情に揺れて震えた。
「アナタが四天王であるかどうかなんて、あの子にとっては最初から最後までどうでもいいことだった。もちろん、アナタの鮮やかなバトルや、勝負師としての信念に強く憧れていたのは事実でしょう。でも、最後にあの子が選んだのは、イッシュ四天王という煌びやかな肩書きではない。ギーマという、一人の不器用な男よ」
ギーマは、その言葉の重みに耐えるように静かに目を伏せた。
「それを、アナタ自身が一番信じて、彼女の手を握ってあげなければならなかったのに」
「……その通りだ」
ギーマは、己の罪を噛み締めるように静かに言った。
「わたしは、フランのあまりにも無償の愛情を信じきれなかった。彼女ならすべてを受け入れてくれると分かっていながら、それに甘えてすがりつく自分が許せず、結局は彼女の気持ちを置き去りにした」
彼は膝の横で、力強く拳を握りしめた。
「わたしは彼女を守ったつもりになって、結果として、世界で一番彼女を傷つけた」
その声には、血を吐くような深い後悔が滲み出ていた。
シキミは痛ましそうに唇を噛んだ。カトレアは依然として厳しい目のまま、ギーマの覚悟を計るように見据えている。
「……今はどうなの」
「今は」
ギーマは、一切の迷いなく、力強く答えた。
「もう二度と、手放す気はない」
それは、声高に叫ぶわけでもない、静かな宣言だった。けれど、その響きにはいかなるカードにも負けない絶対的な重さがあった。
「彼女が、このわたしの隣にいることを選んでくれた。何もかも失った、空っぽのわたしでも、それでもいいと笑ってくれた。……ならば今度こそ、その手を強く取る」
ギーマは一度深く息を吐き出し、胸の内をさらけ出すように言った。
「わたしはまだ、どうしようもなく情けない男だよ。朝起きて隣に彼女がいないだけで、血の気が引くほど不安になる。彼女がわたしの惨めさに愛想を尽かし、置いていったのかもしれないと、すぐに最悪のカードを引いてしまう。彼女が笑っているだけで救われ、泣けば世界が崩れ去ったような暗闇に落ちる」
「……重いわね」
カトレアが、呆れたように率直な感想をこぼした。
「自覚している」
「その重さを、すべてフランに押しつけるつもり?」
「いいや」
ギーマは明確に首を横に振った。
「だが、見栄を張って隠して逃げるのもやめる。情けないなら情けないと素直に伝える。不安なら不安だと彼女に言う。彼女の愛情に甘えるなら、その分、わたしも全身全霊で彼女を支える男になる」
シキミが、そのあまりにも真っ直ぐな言葉に小さく息を呑む。
ギーマは言葉を続けた。
「彼女の優しさに甘えることを、もう自分の罪のように扱うことはしない。その代わり、わたしも底なしに彼女を甘やかす。彼女が何かあるごとに自分を責める前に、わたしが抱きしめる。彼女が泣くなら、最後には笑えるまでずっとそばにいる」
「……」
「勝負師としてではなく、一人の男として」
ギーマはカトレアとシキミの瞳を、交互にしっかりと見つめ返した。
「フランを、愛している」
室内に、波の音すら遠のくような静寂が降りた。
カトレアはじっと、ギーマの瞳の奥にある真実の色を探るように見ていた。シキミも、彼から発せられた本物の言葉の力に打たれ、泣きそうな顔で彼を見つめている。
その刺さるような沈黙の中で、ギーマは一切逃げなかった。目を逸らさなかった。かつてのように余裕ぶった笑みで煙に巻くようなこともしなかった。
ただ、フランという一人の女性を全身全霊で愛している男として、そこに真っ直ぐに立っていた。
「……それを」
やがて、カトレアがゆっくりと口を開いた。
「今度こそ、言葉だけでなく行動で示しなさい」
「ああ」
「言葉だけなら、いくらでも綺麗に飾れるわ。アナタは特に、そういう盤面を操るのが上手いのだから」
「耳が痛いね」
「痛いくらいでちょうどいいのよ」
カトレアは冷たく言い放った後、ふっと、ほんの少しだけ張り詰めていた表情を緩めた。
「フランは、アナタと再会できて本当に嬉しそうだったわ」
その一言で、ギーマの瞳が春の陽だまりのように柔らかく解ける。
「……そうか」
「泣いていたけれど、あの子の目は、一人でイッシュに残されていた頃よりずっと生き生きとしていたわ。ひどく悔しいけれど、アナタの隣に戻ったことで、あの子は真の意味で救われたのでしょうね」
「悔しいのかい?」
「当たり前でしょう。大切な友達を散々泣かせた男の手によって、友達が救われているのよ。ひどく複雑だわ」
ギーマは小さく、喉の奥で笑い声を立てた。それは少しだけ、イッシュ時代に控室で見せていた彼らしい笑みに近かった。けれど、以前のどこか人を食ったような冷たさはなく、ずっと柔らかく温かいものだった。
「それでも、感謝している」
「アタクシたちに?」
「ああ」
ギーマは深く頷いた。
「フランのそばにいてくれて。わたしが勝手にいなくなっている間、彼女の零れ落ちる涙を受け止めてくれて。彼女が過剰に自分を責めすぎないように、心強く支えてくれて」
シキミが、あふれる涙をハンカチで拭いながら言った。
「フランさんは、アタシたちの本当に大切なお友達ですから」
「ええ」
カトレアも静かに同意する。
「上司でも部下でもなく、対等な友達よ。だからこそ、アナタにこうして言っているの」
カトレアはさらに一歩近づき、少しだけ背伸びをするようにして長身のギーマを見上げた。
「フランを絶対に幸せにしなさい。もしできないというなら、今度こそアタクシたちが彼女をイッシュに連れて帰るわ」
「……それは困るね」
「困るなら、困らないように死ぬ気で努力しなさい」
「肝に銘じるよ」
シキミも両手でギュッと拳を握りしめ、宣言するように言った。
「もしまたフランさんを泣かせるようなことがあったら、アタシ、ギーマさんをとんでもない悪役として新作の小説に書きますからね!」
「それは恐ろしいな」
「世界中の読者全員に嫌われるくらいの、最低の悪役です!」
「シキミ、それは少し弱いわ」
「えっ?」
カトレアが、極めて涼しい顔で横槍を入れた。
「アナタがまどろっこしく小説に書くより、アタクシが直接、ギーマの脳内に最悪の悪夢を見せ続けた方が早いわ」
「カトレアさん、それは物理的に怖いです!」
ギーマは二人の恐ろしい報復宣言に少しだけ目を見開いた後、耐えきれずに低く笑い声を上げた。
「やれやれ。フランには、実にとんでもなく心強い友人がいるんだね」
「今さら気づいたの?」
「いや、分かってはいたさ」
ギーマは、窓の外の青い空を見つめながら柔らかく目を細めた。
「だから、少し安心しているんだ。彼女は、わたしだけの狭い世界に閉じ込めていいような子ではない。きみたちのような心から彼女を想う友人がいてくれることは、彼女にとっても、独占欲を持て余すわたしにとっても、この上ない幸運だ」
カトレアはその真摯な言葉に少しだけ沈黙し、相手の真意を計るように見つめた。そして、小さくため息をつく。
「……少しは自分の愚かさを分かっているようね」
「以前よりはね」
「本当に『以前より』、ならいいけれど」
その時、外からパタパタという軽快な足音と共に、フランの明るい声が聞こえてきた。
「ただいま戻りましたー! あの、みなさん、大丈夫ですか……?」
恐る恐るというように扉が開き、紙袋を大事そうに抱えたフランが顔を覗かせる。その表情は、中で揉め事が起きていないかと少し不安そうだった。
ギーマは扉が開いた瞬間、すぐに彼女へと視線を向けた。それだけで、彼の纏う空気が、顔つきが劇的に変わる。先ほどまでの過去の痛みも後悔も隠そうとはしないまま、それでも、ただ一人の愛しい女性へ向ける、柔らかく甘い愛情が全身から滲み出ていた。
「おかえり、フラン」
そのひどく優しい声に、フランの顔が強張りを解いてふわりと緩んだ。
「ただいまです、ギーマさん」
その自然で、甘さに満ちたやり取りを見て、シキミが尊いものを目撃したように小さく口元を押さえた。カトレアは黙って、呆れたように目を細める。
フランが買ってきた紙袋をテーブルに置きながら、おずおずと三人の顔を窺うように見る。
「あの……ちゃんとお話、できましたか……?」
「ええ」
カトレアが即答した。
「言うべきことはすべて言ったわ」
「カ、カトレアさん……何を言ったんですか……?」
「フランをもう二度と泣かせるな、と」
「ひゃっ……!」
あまりにもストレートな報告に、フランの顔が耳の先まで真っ赤に染まった。
「そ、そんな、直接……!」
「必要なことです!」
シキミが一歩前に出て、真剣な顔で言った。
「フランさんはすぐにギーマさんを庇ってしまいますから、アタシたちが代わりにきちんと言わなければなりません!」
「シキミさんまで……!」
フランは顔を覆い、わたわたと慌てふためく。
その可愛らしい様子を見て、ギーマは自然な動作で彼女のそばへ歩み寄った。
「フラン」
「は、はいっ」
「きみの友人たちは、本当にきみのことを大切に思っているんだね」
フランは少し驚いたようにパチパチと瞬きをした。そして、心の底から嬉しそうに、誇らしげに笑った。
「はい。カトレアさんもシキミさんも、あたしの大切な友達です」
「そうか」
ギーマは優しく、愛おしむように微笑む。
「なら、わたしも彼女たちにこれ以上嫌われないよう、死ぬ気で努力しなければならないな」
「嫌われ……?!」
「今のところ、まだかなり警戒されているようだからね」
カトレアが即座に言葉を挟んだ。
「当然でしょう」
シキミも深く頷く。
「現在、厳正な審査中です!」
「審査……?!」
フランはさらに慌てて、二人とギーマを交互に見た。
「でも、ギーマさんは……あの、今はちゃんと……!」
「フラン」
カトレアが静かに、彼女の慌てぶりを宥めるように呼ぶ。
「アナタが幸せなら、それでいいわ」
フランの動きがピタリと止まる。
「ただし」
カトレアは続けた。
「その幸せが、アナタ一人の理不尽な我慢や自己犠牲で成り立つものなら、アタクシたちは絶対に認めない」
「……」
「嬉しいことも、不安なことも、寂しいことも、これからはちゃんと言葉にしなさい。ギーマに。もちろん、アタクシたちにも」
シキミが歩み寄り、優しくフランの両手を取った。
「フランさんは、もう一人で隠れて泣かなくていいんです。ギーマさんにも、アタシたちにも、ちゃんと迷惑をかけて甘えてください」
「……っ」
フランの大きな瞳に、再び温かい涙がじんわりと浮かんだ。
ギーマが、彼女の涙を見て少し心配そうに身じろぎする。しかし、フランは首を横に振り、溢れそうな涙をこらえた。
「……はい」
彼女は、心底安心したように笑った。泣きそうで、でも世界中の誰よりも幸せそうな笑顔だった。
「ありがとうございます。カトレアさん、シキミさん」
カトレアはそっと歩み寄り、フランの華奢な身体を抱きしめた。シキミも反対側から、壊れ物を扱うように抱きつく。
フランは二人の間で少し驚いたように身を固くしたが、すぐに嬉しそうに目を閉じ、その温もりに身を委ねた。
「本当によかったです……フランさん……」
「もう、あんな遠いところまで一人で泣きに行かないでちょうだい」
「はい……」
その温かい光景を、ギーマは少し離れた場所から静かに見ていた。
胸の奥がチクリと痛む。自分が身勝手に彼女を置いて姿を消していた間、この二人がどれほど彼女の心を支え、暗闇からすくい上げてくれたのか、改めて思い知らされる。
それと同時に、深い感謝の念が湧き上がっていた。フランの世界が、自分というちっぽけな存在だけではないこと。彼女を心から大切に想い、守ろうとする人たちがいること。それは少しだけ独占欲を刺激されて妬けるほどに、けれど何よりもありがたく、尊いことだった。
やがて、シキミがフランから離れて顔を上げる。
「では、ギーマさん」
「なんだい?」
「今日のところは、フランさんをお返しします」
「お返し……?」
フランが不思議そうに小さく呟く。
カトレアが、凛とした声で付け加えた。
「ただし、一時的に預けているだけよ」
「……なるほど」
ギーマは甘く、けれどこの上なく真剣な眼差しで微笑んだ。
「大切に預からせてもらうよ」
「違うわ」
カトレアは即座に、鋭く訂正した。
「フランは物ではないわ。アナタの所有物でもない」
ギーマは一瞬ハッと目を見開き、それから自分の言葉の軽率さを恥じるように深く頷いた。
「……そうだね。失礼した」
彼は真っ直ぐにフランを見た。
「フランは、わたしが選び、そしてフラン自身もこんなわたしを選んでくれた、かけがえのない人だ」
真っ直ぐな愛の言葉に、フランの顔がみるみるうちに赤く染まっていく。
「ギーマさん……」
「だからこそ、二度とその彼女の選択を軽んじるような真似はしない」
ギーマはカトレアとシキミへ向き直り、誓いを立てるように言った。
「約束する。わたしはもう、彼女の手を勝手に手放さない。彼女の流す涙から逃げない。彼女の優しさを言い訳にして自分を守らない」
静かな声。けれど、そこには彼の魂のすべてが込められた、確かな誓いがあった。
「今度こそ、彼女の隣に立ち続ける」
カトレアはじっと、彼のその覚悟を見定めるように見ていた。やがて、ふっと小さく、安堵の息を吐き出す。
「……なら、見守ってあげるわ」
シキミも、涙をハンカチで拭いながら明るく笑った。
「物語の続きを、今度こそ誰もが羨むような幸せなものにしてくださいね」
「ああ」
ギーマはフランの横に立ち、彼女の小さな手をそっと取った。
フランは少し驚きながらも、すぐにその大きな手をしっかりと握り返す。以前の彼女なら、人前でのスキンシップに真っ赤になって手を引っ込めようとしたかもしれない。けれど今は、少し照れながらも、決して離すまいとちゃんと握り返していた。
その確かな関係性の変化を見て、カトレアとシキミは無言で顔を見合わせた。
言葉は交わさなかったが、二人とも全く同じことを思っていた。
フランは、ただ待つだけの少女から戻ってきた。ただギーマの元へ引き寄せられたのではない。たくさん泣いて、迷いながらも、自分で自分の道を選び取り、彼の隣へ立っているのだ。
ならば、友達としてその背中を見守ろう。ただし、もし彼がまた道を違えようとしたならば、即座に介入して口を出す。それくらいの特権は、彼女たちにはあるはずだ。
「ところで」
シキミが突然、何かを思い出したように明るい声を出した。
「せっかくアローラまで来たのですから、今日は四人でお茶会にしませんか?」
「えっ」
フランが驚いて目を丸くする。
「お茶会、ですか?」
「はい! 感動の再会祝いと、ギーマさんへの釘刺し完了記念です!」
「そんな物騒な記念、作らないでくださいぃ……!」
カトレアはどこ吹く風といった涼しい顔で言った。
「いいじゃない。アローラの菓子も買ってきたのでしょう?」
「あ、はい。皆さんと一緒に食べようと思って……」
フランがテーブルの上の紙袋を開き、中から甘い香りのする色鮮やかな焼き菓子を取り出す。
ギーマはそれを見て、ひどく穏やかに微笑んだ。
「そうだね、皆で食べよう。きみの大切な友人たちの歓迎会だ」
「……はい!」
フランが、太陽のように明るく、心から嬉しそうに笑う。
その屈託のない笑顔を見て、カトレアとシキミもようやく、肩の荷を下ろしたように表情を緩めた。
ギーマはそんな三人の賑やかな様子を眺めながら、胸の奥で静かに、けれど強く思う。
今度こそ。何があっても、この笑顔を守り抜く。彼女の友人たちが向けてくれた怒りも、心配も、鋭い釘刺しも、そのすべてを真正面から受け止める。それは、フランがこれまでどれほど周囲から愛されてきたかの証なのだから。
そして、彼女を愛するただ一人の男として、自分が一生をかけて背負うべき責任でもある。
「ギーマさん?」
視線に気づいたフランが、不思議そうに彼を見上げる。
「どうかしましたか?」
「いいや」
ギーマは繋いでいた彼女の手を、愛おしむようにもう一度優しく握り直した。
「きみは、本当にいい友人を持ったね」
「はい。あたしの自慢の友達です」
「そうだね」
彼は柔らかく、満ち足りたように笑った。
「わたしにとっても、ひどく手強く、そして心強い見張り役だ」
「見張り役……?」
フランがきょとんと首を傾げる。
カトレアがキッチンを借りて手際よく紅茶の準備をしながら、当然の権利とばかりに言い放った。
「当然でしょう。アナタがまた勝手に泣かされないよう、常に厳しく見張るわ」
「カトレアさん……!」
シキミもにこにこと楽しそうに続ける。
「何か少しでも怪しい動きがあったら、すぐ呼んでくださいね、フランさん!」
「シキミさんまで……!」
フランは恥ずかしさと嬉しさが入り混じったように、顔を覆って慌てる。ギーマはその愛らしい姿を見て、声を立てて穏やかに笑った。
アローラのゆったりとした午後。
爽やかな潮風が吹き抜ける海辺の小さな部屋で、波乱に満ちた再会を祝う、賑やかなお茶会が幕を開ける。
フランは照れて赤くなったり、笑ったりと大忙しで、シキミはその様子を新たな物語の構想を練るように温かく見守り、カトレアは優雅に紅茶を傾けながら時折切れ味鋭い言葉で核心を突く。
そしてギーマは、そんなフランのすぐ隣に、当たり前のように座っている。
もう、どこへも逃げない。もう、この手を絶対に手放さない。彼女の流す涙からも、友人たちの正当な怒りからも、そして何より、自分自身の弱さからも。
勝負師は、数多の敗北を経て、今度こそ自分が果たすべき役割を理解していた。
フランがすべてを捨ててまで選んでくれたこの愛しい未来を、二度と自分の手で壊すような真似はしないこと。
それが、今のギーマにとって、人生を賭けて守り抜くべき何より大切な勝利条件だった。
四天王控室では、カトレアが豪奢なソファに深く腰を掛け、立ち上る湯気を眺めながら優雅に紅茶を傾けていた。向かいの席では、シキミが愛用のペンを握りしめ、新作小説の構想を練るためのメモ帳を机いっぱいに広げている。ペン先が紙を走る微かな音と、陶器が触れ合う静かな音だけが、部屋を満たしていた。
数ヶ月前までは。ちょうどこの時間帯に、フランが抱えきれないほどの書類を胸に抱えて「失礼します」と元気よく顔を出すはずだった。
けれど、今のフランはここ、イッシュ地方にはいない。
彼女は今、広大な海を越えたはるか遠い地、アローラ地方にいる。すべてを捨てて姿を消した大好きな恋人、ギーマを追いかけて。
時計の針が進む音だけが静寂を際立たせていた、その時だった。
『……カトレアさん! シキミさん!』
静かな控室に唐突に鳴り響いたライブキャスターの着信音。慌てて通話ボタンを押したシキミの端末の小さな画面越しに映し出されたフランの顔は、とてもじゃないが見栄えが良いとは言えないほど、涙でぐしゃぐしゃだった。
けれど、その頬を伝う涙は、これまでイッシュで人知れず流していたような、悲しみや絶望の色に染まったものではなかった。赤く泣き腫らしたその瞳の奥には、確かな希望の光が、力強く灯っていた。
『あたし……ギーマさんに、会えました……っ』
その言葉を聞いた瞬間、シキミは弾かれたように両手で口元を覆い、言葉にならない歓喜の息を呑んだ。
向かいに座っていたカトレアは、手の中で微かに震えそうになったティーカップを、音を立てないようにゆっくりと、静かにソーサーへと戻した。
「……そう」
カトレアの声は、彼女自身でも驚くほどに穏やかで、そして深く安堵していた。
「会えたのね」
『はい……! 会えました……っ。ちゃんと、話せました……! ギーマさん、やっぱりアローラにいて……あたし、ずっと探してて……っ』
フランの口から紡がれるそれらは、嗚咽に遮られてまともな言葉になっていなかった。画面越しであっても、彼女がこれまでどれほど極限の精神状態で張り詰めていたかが痛いほどに伝わってくる。
ずっと、暗闇の中で不安だったのだろう。ギーマが何も言わずにいなくなってしまった後。彼を地の果てまで追うべきなのか、この場所でひたすら待つべきなのか。彼を勝手だと怒るべきなのか、それとも己の無力さを嘆いて泣くべきなのか。
それすら分からない迷子のような状態のまま、それでも彼を好きでいることだけは、どうしてもやめられなかったのだ。
カトレアも、シキミも、その痛切な想いを誰よりも近くで知っていた。フランが周囲に心配をかけまいと「大丈夫です」と健気に笑った後、誰の目も届かない資料室の影で一人泣き崩れていたことも。ギーマの名を耳にするだけで悲しげに目を伏せ、それでも宝物を扱うように大切そうに彼との思い出を語っていたことも。
だからこそ、シキミはたまらず身を乗り出し、画面越しの友人に呼びかけた。
「フランさん……! よかった……本当によかったです……!」
『シキミさん……っ』
「ちゃんと抱きしめてもらいましたか?! ちゃんと謝ってもらいましたか?! ちゃんと、今度こそ離さないと誓わせましたか?!」
「シキミ、矢継ぎ早すぎるわ」
「だって!」
カトレアの冷静なツッコミにも、シキミの目には大粒の涙が浮かび上がっていた。
「だって、フランさんがどれだけ泣いていたか、アタシたち知っているじゃないですか……!」
シキミの涙ながらの抗議に、フランは画面の向こうで少しだけ困ったように、けれど心の底から嬉しそうにふわりと笑った。
『えへへ……ごめんなさい。たくさん心配かけちゃって……』
「謝るところではないわ」
カトレアは、ぴしゃりと、しかし静かな声で言った。
「アナタが泣いた分、責められるべき相手は別にいるもの」
『カ、カトレアさん……』
その鋭い言葉に、フランの顔に少しだけ焦りの色が浮かぶ。その分かりやすい反応を見て、カトレアはスッと目を細めた。
「……ふぅん。庇うのね」
『だ、だって……ギーマさんも、すごく苦しんでたんです。あたしのためだって思って、手を離したって……本当は、ギーマさんだって……』
「それで、アナタが理不尽に泣かされたという事実は決して消えないわ」
カトレアの声は、決して冷え切ってはいなかった。けれど、無条件で手放しに甘やかすようなものでもなかった。
「もちろん、無事に再会できたことは嬉しいわ。アナタがまた心から笑えるようになったなら、それは友達として心からよかったと思っている」
『……はい』
「でもね、フラン」
カトレアは、画面の向こうにいる友人の瞳を真っ直ぐに見据えた。
「大切な友達を泣かせた男を、何の確認も落とし前もなく無条件で許してあげるほど、アタクシたちは優しくないの」
フランが驚きに目を丸くする。横で聞いていたシキミも、あふれる涙をハンカチで拭いながら、これ以上ないほど力強く何度も頷いた。
「そうです! フランさんが幸せなのはとても嬉しいです。でも、それはそれとして、ギーマさんには一度きちんとお話ししなければなりません!」
『お、お話し……?』
「ええ」
カトレアは、かつての挑戦者たちを震え上がらせた、最高に優雅で恐ろしい微笑みを浮かべた。
「近いうちにアローラへ行くわ」
『ええっ?!』
フランの可愛らしい悲鳴が、穏やかなイッシュリーグの控室に高く響き渡った。
***
フランとの通信が切れた後、四天王控室にはしばらく静かな余韻が残る。
シキミはまだ涙を拭いきれず、ハンカチを両手で握りしめたまま、先ほどまでフランの顔が映っていたライブキャスターの画面をじっと見つめている。カトレアは優雅に紅茶を口元へ運んでいたが、その瞳の奥には明らかな安堵と、それ以上に鋭い決意が宿っていた。
「……本当に、会えたんですね」
シキミが、夢を見るように呟いた。
「ええ」
カトレアは静かに答える。
「けれど、これで終わりではないわ」
「はい……!」
シキミは強く頷いた。
「再会できたことは、物語で言えば大きな転換点です。でも、本当に大切なのは、その先ですものね」
「そういうこと」
カトレアはカップをソーサーへ戻した。
「フランはきっと、ギーマを庇うわ。あの子はそういう子だもの。自分がどれだけ傷ついたかより、彼がどれだけ苦しんでいたかを先に考えてしまう」
「……フランさんらしいですよね。でも、だからこそ心配です」
「ええ。だから、アタクシたちが行くのよ」
その時、控室の扉が静かに開いた。
二人が顔を向けると、そこにはレンブが立っていた。鍛えられた大柄な身体に、いつも通り無駄のない姿勢。彼は二人の様子を見て、すでに大方の事情を察しているようだった。
「フランから連絡があったのか」
「ええ」
カトレアが答える。
「ギーマに会えたそうよ」
レンブの表情が、ほんのわずかに動いた。それは驚きではなく、安堵に近い、けれどそれを表へ出しすぎない、彼らしい静かな反応だった。
「そうか」
短い一言。だが、その声には確かな重みがある。
シキミは涙の残る目元を拭いながら、少しだけ笑った。
「はい……! フランさん、泣いていましたけど、でも、とても嬉しそうでした」
「なら、まずはよかった」
レンブはそう言ってから、すぐにカトレアへ視線を向けた。
「お前たちは、アローラへ行くつもりか」
「当然でしょう」
カトレアは一切迷わず答えた。
「大切な友達を泣かせた男を、通信越しの報告だけで許してあげるほど、アタクシたちは甘くないわ」
「そうです!」
シキミも力強く身を乗り出す。
「フランさんが本当に笑えているのか、この目で見たいです。それから、ギーマさんにもちゃんとお話ししなければなりません!」
レンブは二人の言葉を聞き、静かに頷いた。
「なら、ギーマにしっかり釘を刺しておけ」
その低い声に、控室の空気がわずかに引き締まる。
カトレアが目を細めた。
「アナタがそう言うなんて、珍しいわね」
「珍しくはない」
レンブは表情を変えずに言った。
「フランは強い。だが、己を後回しにする癖がある。ギーマも、それを分かっていながら甘えすぎれば、また同じ過ちを繰り返す」
シキミは真剣な顔で聞いていた。
「……はい」
「あの男は勝負師だ。敗北から立ち上がる術は知っているはずだ」
レンブの声は静かだった。
けれど、そこには同じ四天王として長く並び立ってきた者だからこその信頼と、厳しさがあった。
「だが、フランのことになると、どうにも余計な札を切る。自分の弱さを隠すために、相手のためという言葉を使うなら、それはただの逃げだ」
「……まったく、その通りね」
カトレアは小さく息を吐いた。レンブはさらに続ける。
「ギーマに伝えろ。フランを隣に置くと決めたなら、格好をつけるな。弱さを見せることから逃げるな。彼女の優しさに甘えるなら、その分、彼女を支える覚悟を持て、と」
シキミは、胸の前で両手を握りしめた。
「レンブさん……」
「そして」
レンブの瞳が、ほんの少しだけ鋭くなる。
「もう一度フランを置いて逃げるようなことがあれば、次はわたしも黙ってはいない」
それは大きな声ではなかった。威圧的な怒鳴り声でもない。けれど、だからこそ重かった。
レンブが本気でそう言っているのだと、カトレアにもシキミにもはっきり伝わった。
カトレアは優雅に微笑んだ。
「分かったわ。アナタの分まで、しっかり言っておいてあげる」
「頼む」
「もちろん、アタシも言います!」
シキミは涙を拭い、きりっと顔を上げた。
「フランさんは、アタシたちの大切な友達ですから。もう二度と、一人で泣かせたりなんてさせません」
「そうだ」
レンブは短く頷いた。そして、少しだけ視線を窓の外へ向ける。
穏やかなイッシュの空。
その向こうの、遠い海の先。
アローラにいるであろう二人を思うように、彼は静かに言った。
「フランが自分の足で選んだ道なら、止める理由はない。だが、その道で彼女がまた傷つくなら、友として支える者が必要だ」
「ええ」
カトレアもまた、同じ方角を見る。
「そのために行くのよ」
レンブは二人へ向き直った。
「気をつけて行ってこい」
「はい!」
「ええ。任せておきなさい」
シキミは慌ただしくメモ帳を閉じ、すでに旅支度の段取りを考え始めている。カトレアは静かに紅茶を飲み干し、立ち上がった。
レンブはそんな二人を見送りながら、最後にもう一度だけ低く言った。
「ギーマには、伝えておけ」
二人が振り返る。
「フランは、勝負の賞品ではない。守るべき相手であり、共に立つ相手だ。そこを履き違えるな、と」
カトレアの唇に、満足げな笑みが浮かんだ。
「その言葉、必ず伝えるわ」
シキミも力強く頷く。
「はい。レンブさんの分まで、しっかり釘を刺してきます!」
こうして、アローラ行きは決まった。
フランの笑顔を確かめるため。
ギーマの覚悟を見定めるため。
そして、イッシュに残るもう一人の四天王の、寡黙だが確かな怒りと信頼を背負って。
カトレアとシキミは、遠い南国へ向かう準備を始めた。
***
それから数日後。
果てしなく広がるアローラの青い空の下に、カトレアとシキミの二人は立っていた。
突き刺さるような眩しい陽射し。肌を撫でる生温かい潮風。そして、サザナミでの海とはまるで違う、エメラルドグリーンに輝く透き通った海。
初めて訪れる南国の景色に、シキミは興奮を隠しきれない様子で目をキラキラと輝かせていた。
「ここがアローラ……! 南国の強い光、異国の風、そして遠い地で劇的な再会を果たす恋人たち……物語の舞台として完璧です!」
「観光に来たのではないわよ」
「分かっています。フランさんの尊い恋路を守るための、重要な遠征ですね!」
「その言い方も少し違うわ」
カトレアは小さくため息をつきつつも、その足取りに一切の迷いはなかった。
二人が地図を頼りに向かったのは、マリエシティの喧騒から少し離れた、ギーマとフランが暮らしているという海辺の小さな住まいだった。波の音が心地よく響き、潮風がよく通る穏やかな場所だ。
木造りの温かみのある玄関の前には、見覚えのある黒と灰色の毛並み――グラエナが、優秀な番犬のように伏せていた。エナは二人の姿を認めるなり、パタパタと嬉しそうに尻尾を振って立ち上がった。
「まあ、エナさん! お久しぶりです!」
シキミが顔をほころばせてしゃがみ込むと、エナは「わふっ」と愛想よく鳴いて、シキミの手のひらに湿った鼻先を擦り寄せた。
その楽しげな声を聞きつけたのか、ガチャリと音を立てて木製の扉が開く。
「……あれ? エナ、どうしたの?」
ひょっこりと顔を出したフランは、玄関先に立つ二人の姿を視界に捉えた瞬間、まるで大輪の花が咲いたようにぱあっと顔を輝かせた。
「カトレアさん! シキミさん!」
次の瞬間には、フランはサンダル突っ掛けのまま玄関から勢いよく飛び出してきていた。カトレアとシキミの目の前で急ブレーキをかけて立ち止まり、感極まったように泣きそうな顔で笑う。
「本当に来てくれたんですね……!」
「来ると言ったでしょう」
「フランさん……!」
シキミがたまらず両手を広げ、フランの身体を力いっぱい抱きしめた。フランもまた、シキミの背中に腕を回し、ぎゅっと強く抱き返す。
「よかった……本当によかったです……! フランさんが、ちゃんと笑ってる……!」
「シキミさん……っ」
シキミの安堵に満ちた涙声につられて、フランの瞳にもすぐに涙がじんわりと浮かんだ。
カトレアは少し離れた場所から、感涙にむせぶ二人の様子を静かに見守っていたが、やがてゆっくりと歩み寄り、フランの頬へ優しく手を伸ばした。
「少し痩せたわね」
「えっ、そうですか?」
「でも、顔色は前よりずっといいわ」
カトレアは、フランの目元に残る痕跡を注意深く見つめた。
「泣き腫らした跡はまだあるけれど、今の涙は、決して悪いものではなさそうね」
「……はい」
フランは照れくさそうにはにかんで笑った。
「あたし、今……幸せです」
その嘘偽りのない真っ直ぐな言葉を聞いて、カトレアの張り詰めていた表情が、ほんの少しだけ和らいだ。
「そう。なら、まずはよかったわ」
その時だった。
室内の奥から、低く、どこか涼やかな大人の男の声が聞こえてきた。
「フラン、誰か来たのかな」
玄関に姿を現したのは、白と黒の混じった特徴的な髪を持つ男だった。
アローラの温暖な気候と風に馴染むように着崩された、和装のようなゆったりした装い。かつてイッシュリーグの四天王控室で見慣れていた、あのかっちりとした豪奢な燕尾服ではない。
けれど、すべてを見透かすような切れ長の空色の瞳と、どこか気怠げでありながらも洗練された立ち居振る舞いは、間違いなく彼そのものだった。
ギーマ。
カトレアとシキミの視線が、同時に鋭く彼へと向けられる。フランが慌てたように振り返った。
「ギーマさん! カトレアさんとシキミさんが来てくださって……!」
「ああ」
ギーマは玄関先に立つ二人を見ると、驚く様子も見せず、ただ少しだけ眩しそうに目を細めた。
「久しぶりだね、カトレア。シキミ」
「ええ。久しぶりね、ギーマ」
「お久しぶりです、ギーマさん」
シキミはにこりと社交的な笑みを浮かべた。だが、その笑顔はいつもの朗らかなものとは違い、あきらかに少し硬く、緊張感を孕んでいた。
カトレアの方はといえば、最初から笑ってすらいなかった。氷点下の冷ややかな視線で、彼を頭の先から爪先まで値踏みするように見据えている。
ギーマは二人のその明白な態度を見て、訪問の意図をすぐに察したようだった。
「……なるほど」
彼は小さく、自嘲するように息を吐き出す。
「今日は、わたしに話があるようだね」
「ええ」
カトレアは、一切の妥協を許さない態度で優雅に頷いた。
「フラン、少し席を外してくれるかしら」
「えっ」
名指しされたフランの顔が、不安げに揺れる。
「で、でも……」
「大丈夫よ。取って食べたりはしないわ」
「そ、そういう心配じゃ……!」
「フランさん」
シキミが、心配する友人を宥めるように優しく声をかけた。
「アタシたちは、誰よりもフランさんの味方です。だからこそ、ギーマさんときちんとお話ししたいのです」
「……」
フランは迷うように、後ろに立つギーマを見上げた。ギーマはそんな彼女に向けて、ひどく穏やかで、慈しむような微笑みを向けた。
「行っておいで、フラン。少し街で買い物でもしてくるといい。きみが好きだと言っていた焼き菓子を、後で一緒に食べよう」
「ギーマさん……」
「大丈夫。逃げたりしないよ」
その静かな一言に、フランの瞳が大きく揺れた。
きっと、彼女にとってその言葉は何よりも特別で、心臓の奥深くに響く誓いだったのだろう。もう逃げない。もう勝手にいなくならない。ギーマは彼女の不安を拭い去るように、そうはっきりと告げているのだ。
フランは彼の言葉を信じるように、ゆっくりと深く頷いた。
「……分かりました。じゃあ、少しだけ行ってきます」
「ええ。気をつけて」
「はい」
フランは足元にいたエナと、奥から出てきたブラッキーのキキを連れて、少し名残惜しそうに何度も振り返りながら、海沿いの道へと歩いていった。
扉が静かに閉まる。フランの足音が完全に遠ざかり、波の音だけが聞こえるようになるのを待って。
室内に、かつてのイッシュ四天王である三人だけが残された。
最初に重い口を開いたのは、やはりカトレアだった。
「……ほんとうに、」
その声は、先ほどまでフランの前で聞かせていた優しい響きからは一変し、まるで絶対零度の吹雪のように冷ややかだった。
「ずいぶん好き勝手してくれたわね、ギーマ」
シキミもまた、いつになく真剣な面持ちで静かにギーマを見据えている。いつものような物語の展開を期待するような興奮の色はない。ただ、大切な友人の心を無惨に引き裂き、傷つけた相手を見る、厳しい審問官のような目だった。
二人の射抜くような視線を浴びても、ギーマは何も言い訳をしようとはしなかった。ただ静かに二人に向き直ると、深く、深く頭を下げた。
「……フランを泣かせたこと、心から申し訳なく思っている」
その光景に、カトレアの整った眉がわずかに動いた。シキミは信じられないものを見るように、小さく息を呑む。
あのギーマが、深く頭を下げている。常に飄々として、他人に弱みを見せることなど決してなかった、あの余裕に満ちた勝負師が。己の非を、一切の誤魔化しなく真っ直ぐに認めているのだ。
「わたしは、彼女を手放した」
頭を上げたギーマの声は、懺悔するように低かった。
「すべては彼女のためだと言い訳してね。何もかも失った今のわたしでは、純粋な彼女にふさわしくない。落ちぶれた泥沼の中にいる自分の隣に、光り輝く彼女を縛りつけるべきではないと。……そう言えば聞こえはいいが、結局のところ、それはわたしの弱さと、つまらないプライドの問題でしかなかった」
「自分の愚かさを分かっているのね」
「ああ」
ギーマは顔を上げ、カトレアを真っ直ぐに見返した。その空色の瞳には、かつて彼が好んで纏っていた、本心を隠すための飄々とした煙幕はもう存在しなかった。
「彼女なら、どんな惨めなわたしであっても受け入れてくれると分かっていた。だからこそ怖かったんだ。あの子の底なしの優しさに、すべてを委ねて甘えてしまう自分が。何もかも失った空っぽのわたしを、彼女の存在が完全に救い上げてしまうことが」
「だから、何も言わずに逃げた」
「そうだ」
カトレアの声が、刃のように鋭く研ぎ澄まされる。
「その独りよがりな選択の結果、残されたフランがどれだけ泣いたか、アナタは知っているの?」
「……全部は知らない」
ギーマは正直に答えた。
「知る資格もないだろう。だが、想像はしている」
「想像では足りないわ」
カトレアは一歩前へ踏み出し、彼に詰め寄った。
「フランはね、アナタが身勝手にいなくなってからも、ずっとアナタを庇い続けていたわ」
ギーマの瞳が、苦痛に耐えるようにわずかに揺れる。
「自分がもっと強ければ、彼の支えになれたかもしれない。自分がもっとふさわしい女であれば、ギーマさんは離れなかったかもしれない。……そうやって、アナタが勝手に選んだ別れの責任まで、全部自分のせいにして背負い込もうとしていたのよ」
「……」
「アナタが勝手に自分のちっぽけなプライドを守るために彼女の手を離した結果、あの子は自分自身を深く責め、傷つけたのよ」
ギーマは、反論の言葉を何一つ持たなかった。
そこで、カトレアの言葉を引き継ぐように、シキミが震える声で口を開いた。
「フランさんは、本当に、底抜けに優しい方です。ギーマさんのことを、誰の前でも絶対に悪く言わないんです。どれだけ泣いていても、『ギーマさんにも理由があるはずです』って……『あたしがちゃんと分かってあげられなかったのかも』って……」
シキミの大きな瞳に、再び涙がじわりと滲む。
「でも、アタシたちは傍でずっと見ていました。フランさんがどれだけ寂しそうに、抜け殻のようになっていたか。どれだけギーマさんの名前を、宝物のように大切そうに呼んでいたか。どれだけ、今すぐにでも会いたいという気持ちを必死に堪えていたか」
「……」
「だから、ギーマさん」
シキミは、涙声ながらも真っ直ぐな強い瞳で彼を射抜いた。
「もう二度と、フランさんを一人にしないでください」
その言葉は、相手を責め立てるというよりも、友人の幸せを心から願う切実な祈りに近かった。
だが、カトレアの言葉は違った。もっと鋭く、一切の容赦がない、明確な最終通告だった。
「もう一度、同じように彼女を泣かせるような真似をしたら、絶対に許さないわ」
ギーマは静かに、氷の女王のような彼女を見つめ返した。
「たとえアナタがまた、もっともらしい顔で『彼女のため』だなんて言い出しても、今度は絶対に聞かない。アナタの勝手な美学や薄っぺらいプライドで、フランを泣かせるのは二度と許さない」
「……ああ」
「フランは、アナタの敗北ごと、アナタのすべてを愛したのよ」
カトレアの凛とした声が、ほんの少しだけ感情に揺れて震えた。
「アナタが四天王であるかどうかなんて、あの子にとっては最初から最後までどうでもいいことだった。もちろん、アナタの鮮やかなバトルや、勝負師としての信念に強く憧れていたのは事実でしょう。でも、最後にあの子が選んだのは、イッシュ四天王という煌びやかな肩書きではない。ギーマという、一人の不器用な男よ」
ギーマは、その言葉の重みに耐えるように静かに目を伏せた。
「それを、アナタ自身が一番信じて、彼女の手を握ってあげなければならなかったのに」
「……その通りだ」
ギーマは、己の罪を噛み締めるように静かに言った。
「わたしは、フランのあまりにも無償の愛情を信じきれなかった。彼女ならすべてを受け入れてくれると分かっていながら、それに甘えてすがりつく自分が許せず、結局は彼女の気持ちを置き去りにした」
彼は膝の横で、力強く拳を握りしめた。
「わたしは彼女を守ったつもりになって、結果として、世界で一番彼女を傷つけた」
その声には、血を吐くような深い後悔が滲み出ていた。
シキミは痛ましそうに唇を噛んだ。カトレアは依然として厳しい目のまま、ギーマの覚悟を計るように見据えている。
「……今はどうなの」
「今は」
ギーマは、一切の迷いなく、力強く答えた。
「もう二度と、手放す気はない」
それは、声高に叫ぶわけでもない、静かな宣言だった。けれど、その響きにはいかなるカードにも負けない絶対的な重さがあった。
「彼女が、このわたしの隣にいることを選んでくれた。何もかも失った、空っぽのわたしでも、それでもいいと笑ってくれた。……ならば今度こそ、その手を強く取る」
ギーマは一度深く息を吐き出し、胸の内をさらけ出すように言った。
「わたしはまだ、どうしようもなく情けない男だよ。朝起きて隣に彼女がいないだけで、血の気が引くほど不安になる。彼女がわたしの惨めさに愛想を尽かし、置いていったのかもしれないと、すぐに最悪のカードを引いてしまう。彼女が笑っているだけで救われ、泣けば世界が崩れ去ったような暗闇に落ちる」
「……重いわね」
カトレアが、呆れたように率直な感想をこぼした。
「自覚している」
「その重さを、すべてフランに押しつけるつもり?」
「いいや」
ギーマは明確に首を横に振った。
「だが、見栄を張って隠して逃げるのもやめる。情けないなら情けないと素直に伝える。不安なら不安だと彼女に言う。彼女の愛情に甘えるなら、その分、わたしも全身全霊で彼女を支える男になる」
シキミが、そのあまりにも真っ直ぐな言葉に小さく息を呑む。
ギーマは言葉を続けた。
「彼女の優しさに甘えることを、もう自分の罪のように扱うことはしない。その代わり、わたしも底なしに彼女を甘やかす。彼女が何かあるごとに自分を責める前に、わたしが抱きしめる。彼女が泣くなら、最後には笑えるまでずっとそばにいる」
「……」
「勝負師としてではなく、一人の男として」
ギーマはカトレアとシキミの瞳を、交互にしっかりと見つめ返した。
「フランを、愛している」
室内に、波の音すら遠のくような静寂が降りた。
カトレアはじっと、ギーマの瞳の奥にある真実の色を探るように見ていた。シキミも、彼から発せられた本物の言葉の力に打たれ、泣きそうな顔で彼を見つめている。
その刺さるような沈黙の中で、ギーマは一切逃げなかった。目を逸らさなかった。かつてのように余裕ぶった笑みで煙に巻くようなこともしなかった。
ただ、フランという一人の女性を全身全霊で愛している男として、そこに真っ直ぐに立っていた。
「……それを」
やがて、カトレアがゆっくりと口を開いた。
「今度こそ、言葉だけでなく行動で示しなさい」
「ああ」
「言葉だけなら、いくらでも綺麗に飾れるわ。アナタは特に、そういう盤面を操るのが上手いのだから」
「耳が痛いね」
「痛いくらいでちょうどいいのよ」
カトレアは冷たく言い放った後、ふっと、ほんの少しだけ張り詰めていた表情を緩めた。
「フランは、アナタと再会できて本当に嬉しそうだったわ」
その一言で、ギーマの瞳が春の陽だまりのように柔らかく解ける。
「……そうか」
「泣いていたけれど、あの子の目は、一人でイッシュに残されていた頃よりずっと生き生きとしていたわ。ひどく悔しいけれど、アナタの隣に戻ったことで、あの子は真の意味で救われたのでしょうね」
「悔しいのかい?」
「当たり前でしょう。大切な友達を散々泣かせた男の手によって、友達が救われているのよ。ひどく複雑だわ」
ギーマは小さく、喉の奥で笑い声を立てた。それは少しだけ、イッシュ時代に控室で見せていた彼らしい笑みに近かった。けれど、以前のどこか人を食ったような冷たさはなく、ずっと柔らかく温かいものだった。
「それでも、感謝している」
「アタクシたちに?」
「ああ」
ギーマは深く頷いた。
「フランのそばにいてくれて。わたしが勝手にいなくなっている間、彼女の零れ落ちる涙を受け止めてくれて。彼女が過剰に自分を責めすぎないように、心強く支えてくれて」
シキミが、あふれる涙をハンカチで拭いながら言った。
「フランさんは、アタシたちの本当に大切なお友達ですから」
「ええ」
カトレアも静かに同意する。
「上司でも部下でもなく、対等な友達よ。だからこそ、アナタにこうして言っているの」
カトレアはさらに一歩近づき、少しだけ背伸びをするようにして長身のギーマを見上げた。
「フランを絶対に幸せにしなさい。もしできないというなら、今度こそアタクシたちが彼女をイッシュに連れて帰るわ」
「……それは困るね」
「困るなら、困らないように死ぬ気で努力しなさい」
「肝に銘じるよ」
シキミも両手でギュッと拳を握りしめ、宣言するように言った。
「もしまたフランさんを泣かせるようなことがあったら、アタシ、ギーマさんをとんでもない悪役として新作の小説に書きますからね!」
「それは恐ろしいな」
「世界中の読者全員に嫌われるくらいの、最低の悪役です!」
「シキミ、それは少し弱いわ」
「えっ?」
カトレアが、極めて涼しい顔で横槍を入れた。
「アナタがまどろっこしく小説に書くより、アタクシが直接、ギーマの脳内に最悪の悪夢を見せ続けた方が早いわ」
「カトレアさん、それは物理的に怖いです!」
ギーマは二人の恐ろしい報復宣言に少しだけ目を見開いた後、耐えきれずに低く笑い声を上げた。
「やれやれ。フランには、実にとんでもなく心強い友人がいるんだね」
「今さら気づいたの?」
「いや、分かってはいたさ」
ギーマは、窓の外の青い空を見つめながら柔らかく目を細めた。
「だから、少し安心しているんだ。彼女は、わたしだけの狭い世界に閉じ込めていいような子ではない。きみたちのような心から彼女を想う友人がいてくれることは、彼女にとっても、独占欲を持て余すわたしにとっても、この上ない幸運だ」
カトレアはその真摯な言葉に少しだけ沈黙し、相手の真意を計るように見つめた。そして、小さくため息をつく。
「……少しは自分の愚かさを分かっているようね」
「以前よりはね」
「本当に『以前より』、ならいいけれど」
その時、外からパタパタという軽快な足音と共に、フランの明るい声が聞こえてきた。
「ただいま戻りましたー! あの、みなさん、大丈夫ですか……?」
恐る恐るというように扉が開き、紙袋を大事そうに抱えたフランが顔を覗かせる。その表情は、中で揉め事が起きていないかと少し不安そうだった。
ギーマは扉が開いた瞬間、すぐに彼女へと視線を向けた。それだけで、彼の纏う空気が、顔つきが劇的に変わる。先ほどまでの過去の痛みも後悔も隠そうとはしないまま、それでも、ただ一人の愛しい女性へ向ける、柔らかく甘い愛情が全身から滲み出ていた。
「おかえり、フラン」
そのひどく優しい声に、フランの顔が強張りを解いてふわりと緩んだ。
「ただいまです、ギーマさん」
その自然で、甘さに満ちたやり取りを見て、シキミが尊いものを目撃したように小さく口元を押さえた。カトレアは黙って、呆れたように目を細める。
フランが買ってきた紙袋をテーブルに置きながら、おずおずと三人の顔を窺うように見る。
「あの……ちゃんとお話、できましたか……?」
「ええ」
カトレアが即答した。
「言うべきことはすべて言ったわ」
「カ、カトレアさん……何を言ったんですか……?」
「フランをもう二度と泣かせるな、と」
「ひゃっ……!」
あまりにもストレートな報告に、フランの顔が耳の先まで真っ赤に染まった。
「そ、そんな、直接……!」
「必要なことです!」
シキミが一歩前に出て、真剣な顔で言った。
「フランさんはすぐにギーマさんを庇ってしまいますから、アタシたちが代わりにきちんと言わなければなりません!」
「シキミさんまで……!」
フランは顔を覆い、わたわたと慌てふためく。
その可愛らしい様子を見て、ギーマは自然な動作で彼女のそばへ歩み寄った。
「フラン」
「は、はいっ」
「きみの友人たちは、本当にきみのことを大切に思っているんだね」
フランは少し驚いたようにパチパチと瞬きをした。そして、心の底から嬉しそうに、誇らしげに笑った。
「はい。カトレアさんもシキミさんも、あたしの大切な友達です」
「そうか」
ギーマは優しく、愛おしむように微笑む。
「なら、わたしも彼女たちにこれ以上嫌われないよう、死ぬ気で努力しなければならないな」
「嫌われ……?!」
「今のところ、まだかなり警戒されているようだからね」
カトレアが即座に言葉を挟んだ。
「当然でしょう」
シキミも深く頷く。
「現在、厳正な審査中です!」
「審査……?!」
フランはさらに慌てて、二人とギーマを交互に見た。
「でも、ギーマさんは……あの、今はちゃんと……!」
「フラン」
カトレアが静かに、彼女の慌てぶりを宥めるように呼ぶ。
「アナタが幸せなら、それでいいわ」
フランの動きがピタリと止まる。
「ただし」
カトレアは続けた。
「その幸せが、アナタ一人の理不尽な我慢や自己犠牲で成り立つものなら、アタクシたちは絶対に認めない」
「……」
「嬉しいことも、不安なことも、寂しいことも、これからはちゃんと言葉にしなさい。ギーマに。もちろん、アタクシたちにも」
シキミが歩み寄り、優しくフランの両手を取った。
「フランさんは、もう一人で隠れて泣かなくていいんです。ギーマさんにも、アタシたちにも、ちゃんと迷惑をかけて甘えてください」
「……っ」
フランの大きな瞳に、再び温かい涙がじんわりと浮かんだ。
ギーマが、彼女の涙を見て少し心配そうに身じろぎする。しかし、フランは首を横に振り、溢れそうな涙をこらえた。
「……はい」
彼女は、心底安心したように笑った。泣きそうで、でも世界中の誰よりも幸せそうな笑顔だった。
「ありがとうございます。カトレアさん、シキミさん」
カトレアはそっと歩み寄り、フランの華奢な身体を抱きしめた。シキミも反対側から、壊れ物を扱うように抱きつく。
フランは二人の間で少し驚いたように身を固くしたが、すぐに嬉しそうに目を閉じ、その温もりに身を委ねた。
「本当によかったです……フランさん……」
「もう、あんな遠いところまで一人で泣きに行かないでちょうだい」
「はい……」
その温かい光景を、ギーマは少し離れた場所から静かに見ていた。
胸の奥がチクリと痛む。自分が身勝手に彼女を置いて姿を消していた間、この二人がどれほど彼女の心を支え、暗闇からすくい上げてくれたのか、改めて思い知らされる。
それと同時に、深い感謝の念が湧き上がっていた。フランの世界が、自分というちっぽけな存在だけではないこと。彼女を心から大切に想い、守ろうとする人たちがいること。それは少しだけ独占欲を刺激されて妬けるほどに、けれど何よりもありがたく、尊いことだった。
やがて、シキミがフランから離れて顔を上げる。
「では、ギーマさん」
「なんだい?」
「今日のところは、フランさんをお返しします」
「お返し……?」
フランが不思議そうに小さく呟く。
カトレアが、凛とした声で付け加えた。
「ただし、一時的に預けているだけよ」
「……なるほど」
ギーマは甘く、けれどこの上なく真剣な眼差しで微笑んだ。
「大切に預からせてもらうよ」
「違うわ」
カトレアは即座に、鋭く訂正した。
「フランは物ではないわ。アナタの所有物でもない」
ギーマは一瞬ハッと目を見開き、それから自分の言葉の軽率さを恥じるように深く頷いた。
「……そうだね。失礼した」
彼は真っ直ぐにフランを見た。
「フランは、わたしが選び、そしてフラン自身もこんなわたしを選んでくれた、かけがえのない人だ」
真っ直ぐな愛の言葉に、フランの顔がみるみるうちに赤く染まっていく。
「ギーマさん……」
「だからこそ、二度とその彼女の選択を軽んじるような真似はしない」
ギーマはカトレアとシキミへ向き直り、誓いを立てるように言った。
「約束する。わたしはもう、彼女の手を勝手に手放さない。彼女の流す涙から逃げない。彼女の優しさを言い訳にして自分を守らない」
静かな声。けれど、そこには彼の魂のすべてが込められた、確かな誓いがあった。
「今度こそ、彼女の隣に立ち続ける」
カトレアはじっと、彼のその覚悟を見定めるように見ていた。やがて、ふっと小さく、安堵の息を吐き出す。
「……なら、見守ってあげるわ」
シキミも、涙をハンカチで拭いながら明るく笑った。
「物語の続きを、今度こそ誰もが羨むような幸せなものにしてくださいね」
「ああ」
ギーマはフランの横に立ち、彼女の小さな手をそっと取った。
フランは少し驚きながらも、すぐにその大きな手をしっかりと握り返す。以前の彼女なら、人前でのスキンシップに真っ赤になって手を引っ込めようとしたかもしれない。けれど今は、少し照れながらも、決して離すまいとちゃんと握り返していた。
その確かな関係性の変化を見て、カトレアとシキミは無言で顔を見合わせた。
言葉は交わさなかったが、二人とも全く同じことを思っていた。
フランは、ただ待つだけの少女から戻ってきた。ただギーマの元へ引き寄せられたのではない。たくさん泣いて、迷いながらも、自分で自分の道を選び取り、彼の隣へ立っているのだ。
ならば、友達としてその背中を見守ろう。ただし、もし彼がまた道を違えようとしたならば、即座に介入して口を出す。それくらいの特権は、彼女たちにはあるはずだ。
「ところで」
シキミが突然、何かを思い出したように明るい声を出した。
「せっかくアローラまで来たのですから、今日は四人でお茶会にしませんか?」
「えっ」
フランが驚いて目を丸くする。
「お茶会、ですか?」
「はい! 感動の再会祝いと、ギーマさんへの釘刺し完了記念です!」
「そんな物騒な記念、作らないでくださいぃ……!」
カトレアはどこ吹く風といった涼しい顔で言った。
「いいじゃない。アローラの菓子も買ってきたのでしょう?」
「あ、はい。皆さんと一緒に食べようと思って……」
フランがテーブルの上の紙袋を開き、中から甘い香りのする色鮮やかな焼き菓子を取り出す。
ギーマはそれを見て、ひどく穏やかに微笑んだ。
「そうだね、皆で食べよう。きみの大切な友人たちの歓迎会だ」
「……はい!」
フランが、太陽のように明るく、心から嬉しそうに笑う。
その屈託のない笑顔を見て、カトレアとシキミもようやく、肩の荷を下ろしたように表情を緩めた。
ギーマはそんな三人の賑やかな様子を眺めながら、胸の奥で静かに、けれど強く思う。
今度こそ。何があっても、この笑顔を守り抜く。彼女の友人たちが向けてくれた怒りも、心配も、鋭い釘刺しも、そのすべてを真正面から受け止める。それは、フランがこれまでどれほど周囲から愛されてきたかの証なのだから。
そして、彼女を愛するただ一人の男として、自分が一生をかけて背負うべき責任でもある。
「ギーマさん?」
視線に気づいたフランが、不思議そうに彼を見上げる。
「どうかしましたか?」
「いいや」
ギーマは繋いでいた彼女の手を、愛おしむようにもう一度優しく握り直した。
「きみは、本当にいい友人を持ったね」
「はい。あたしの自慢の友達です」
「そうだね」
彼は柔らかく、満ち足りたように笑った。
「わたしにとっても、ひどく手強く、そして心強い見張り役だ」
「見張り役……?」
フランがきょとんと首を傾げる。
カトレアがキッチンを借りて手際よく紅茶の準備をしながら、当然の権利とばかりに言い放った。
「当然でしょう。アナタがまた勝手に泣かされないよう、常に厳しく見張るわ」
「カトレアさん……!」
シキミもにこにこと楽しそうに続ける。
「何か少しでも怪しい動きがあったら、すぐ呼んでくださいね、フランさん!」
「シキミさんまで……!」
フランは恥ずかしさと嬉しさが入り混じったように、顔を覆って慌てる。ギーマはその愛らしい姿を見て、声を立てて穏やかに笑った。
アローラのゆったりとした午後。
爽やかな潮風が吹き抜ける海辺の小さな部屋で、波乱に満ちた再会を祝う、賑やかなお茶会が幕を開ける。
フランは照れて赤くなったり、笑ったりと大忙しで、シキミはその様子を新たな物語の構想を練るように温かく見守り、カトレアは優雅に紅茶を傾けながら時折切れ味鋭い言葉で核心を突く。
そしてギーマは、そんなフランのすぐ隣に、当たり前のように座っている。
もう、どこへも逃げない。もう、この手を絶対に手放さない。彼女の流す涙からも、友人たちの正当な怒りからも、そして何より、自分自身の弱さからも。
勝負師は、数多の敗北を経て、今度こそ自分が果たすべき役割を理解していた。
フランがすべてを捨ててまで選んでくれたこの愛しい未来を、二度と自分の手で壊すような真似はしないこと。
それが、今のギーマにとって、人生を賭けて守り抜くべき何より大切な勝利条件だった。