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『逃げたままの男に、勝ちはねえ』
その夜、酒場を出た後も、クチナシが吐き捨てるように言った言葉は、妙にわたしの耳の奥にこびりついて離れなかった。
「明日、海沿い歩けよ」
それだけならば、ただの風流な気まぐれにも聞こえただろう。
だが、あの男は意味のないことをわざわざ口にするほど親切な性質ではない。無駄口は多いようでいて、本当に必要な急所だけを雑に、しかし正確に突いてくる男なのだ。
逃げるためではなく、会うために歩け。
その言葉の真意を理解した瞬間、わたしの胸の奥底で、ずっと見ないふりをして伏せていた最後の一枚のカードが、見えざる手によって勝手に裏返されたような気がした。
まさか。
そんなはずはない。
すべてを失った男の元へ、フランがはるか遠いイッシュ地方から、このアローラの地まで来るはずがない。
いや。
来るかもしれない。
彼女はそういう、どうしようもないほど真っ直ぐで無鉄砲な子だ。
わたしがどれほど勝手に彼女の幸せを決めつけ、一方的に何も言わずに手を離したとしても。彼女はたくさん泣いて、理不尽さに怒って、それでも最後には自身の足で立ち上がって。あの濁りのない真っ直ぐな瞳で、わたしの逃げたこの世界の果てまで追いかけてくるかもしれない。
「……馬鹿な期待だ」
月明かりだけが差し込む薄暗い宿の窓辺で、わたしは湧き上がる感情をねじ伏せるように、自分に言い聞かせるように呟いた。
期待してはいけない。もし違ったら。もし彼女など来ておらず、すべてがわたしの都合のいい妄想であったなら。クチナシの言葉に勝手な意味を見出し、愚かな希望を抱いた自分だけが、泥沼の中でさらに惨めになるだけだ。
それに、もし万が一、本当に彼女が来ていたとして。わたしは一体、どんな顔をして彼女に会うつもりなのだ。
何も言わずに姿を消した、最低の男が。
最後の夜に、大層な別れの言葉を並べる勇気もなく、ただ愛情と未練と独占欲だけを彼女の真っ白な肌に痛いほど刻みつけて逃げた男が。
何もかも失った敗北者としての自分を見られたくないという、くだらなくも矮小な男の意地だけで、世界で一番愛しい彼女を置いてきた男が。
今さら、どんな言葉を並べて彼女の前に立てるというのか。
「……やれやれ」
思わず、自嘲するような笑いが漏れた。ひどく乾いて、ひび割れた笑いだった。
わたしは勝負師だ。盤面における敗北は、これまでの人生で何度も経験してきた。負けたなら、その事実を冷静に受け入れ、次の勝利のために今できる最善の選択をする。それが自分の絶対的な信条だったはずなのに。
フランのことになると、わたしはどうにも情けなく、酷く臆病になる。勝負台につく前から、決定的な負けを恐れて足が竦んでしまうのだ。彼女の真っ直ぐな瞳に失望され、完全に拒絶される未来を想像するだけで、身体の芯から血の気が引き、凍りつくように冷えていく。
けれど。
『逃げたままの男に、勝ちはねえ』
クチナシの低く気怠げな声が、また耳の奥で警鐘のように響いた。
そうだ。逃げたままでは、未来永劫、勝ちはないのだ。
わたしは一度、人生を賭けた大勝負に負けた。莫大な財も、四天王としての地位も、勝負師としての誇りも、手の中のすべてを失った。けれど、本当に取り返しがつかない致命的な敗北はそこではない。フランというただ一人の女の前から、尻尾を巻いて逃げ出したことだ。
その勝負から降りたままでは、わたしは一生、救いようのない惨めな敗北者のままだ。
***
翌日の夜。
見上げる夜空の月は、腹立たしいほどに丸く、そして明るかった。
アローラの海は、月からの銀色の光を一身に受けて、鱗のようにきらきらと静かに揺れている。生ぬるい潮風が頬を撫で、寄せては返す波音が規則正しく耳に届いていた。
わたしは、クチナシに言われた通り、あてもなく海沿いの道を歩いていた。
過去の幻影から逃げるためではない。未来に向き合うために歩くのだ。そう何度も自分に言い聞かせる。だが、一歩踏み出すごとの足取りは、鉛を引きずっているように重かった。
何度も立ち止まり、踵を返して引き返したくなった。
会いたい。けれど、会うのが恐ろしい。
その相反する二つの強烈な感情が、胸の中で醜くドロドロに絡み合う。
フランが来ているはずがないと自嘲気味に否定するたび、ほんの少しだけ胸の奥が冷え、落胆している自分がいる。フランが来ているかもしれないと淡い期待を抱くたび、彼女の失望の顔を想像して逃げ出したくなる自分がいる。
勝負師としては、判断力を欠いた最低の心理状態だ。相手の手札はまったく見えていない。盤面がどう転ぶかも読めない。それでも、今度ばかりはこのゲームから降りることだけはできなかった。
「……フラン」
潮風に紛れさせるように、その名を口の中でそっと転がした。
その名前は、今でもわたしの人生の中で一番柔らかく、そして一番痛みを伴う響きを持っていた。
すべてを捨てて逃げ出したあの夜から、狂おしいほどに何度も呼んだ。アルコールで感覚を麻痺させた酒の席で。熱にうなされるような夢の中で。そして、朝、誰もいない冷たい寝床で目覚め、隣に彼女がいないという現実に直面した時に。
けれど、返事があったことは一度もない。だから、その時も当然、返事などあるはずがないと思っていた。
けれど。
「……ギーマさん?」
波音の向こうから、幻ではない、確かに震える声がした。
その瞬間、わたしの心臓が完全に止まった。比喩ではなく、本当にそう思った。
足が地面に太い釘で縫い止められたように、ぴくりとも動かなくなる。わたしは恐る恐る、ゆっくりと顔を上げた。
明るすぎる月明かりの下。
少し離れた海沿いの道に、華奢なシルエットが一つ、ぽつりと立っていた。
夜の闇の中でもはっきりと分かる。長旅の過酷さが滲み出た疲れた顔。幾夜も泣き明かしたであろう、赤く泣き腫らした目元。
それでも、こちらを射抜くように見つめるその瞳は、わたしの記憶の中に鮮烈に焼き付いているのと同じ、美しい宝石のようで。大人の嘘など何一つ纏わない、何も偽らないまっすぐな光を放っていた。
彼女の足元には、鋭い眼光を放つグラエナ。少し後ろには、闇に溶け込むようなブラッキー。どちらのポケモンも、主である彼女を外敵から守るように立ちはだかり、油断なくわたしを睨みつけている。
わたしは、完全に言葉を失った。
夢かと思った。わたし自身の都合のいい願望が生み出した、幻かと思った。酒に溺れた果ての未練が見せる、あまりにも甘く残酷な幻覚。
けれど、彼女の瞳から、月光を反射してぽろりと一粒の涙が零れ落ちた瞬間、この情景が紛れもない現実なのだと理解した。
「……本当に」
フランの声が、微かに震える。
「本当に、ギーマさん……?」
「……フラン」
彼女のその愛しい名が、自然と口から零れ落ちる。
その瞬間、胸の奥で必死に保っていた何かの決壊が音を立てて崩れ去った。
会いたかった。狂おしいほどに、何度も何度も、そう願っていた。けれど、実際に彼女が目の前に立っているという現実を前にすると、わたしは自責の念に押し潰され、一歩も動くことができなかった。
彼女は数秒の間、まるで夢を見ているかのようにわたしをじっと見つめていた。
そして次の瞬間、弾かれたように走り出した。わたしの方へ向かって。
グラエナが一歩遅れて警戒しながらついてくる。ブラッキーも無言で地を蹴って走る。フランは、石畳につまずいて転びそうになりながらも、その勢いを殺すことなくこちらへ駆けてきた。
わたしは反射的に、彼女を受け止めるために腕を伸ばしかけた。この腕の中に抱きとめたい。そう、本能が叫んだ。
けれど、お前にその資格はないという理性の冷たい声が胸の奥で囁き、伸ばしかけた手は空中で行き場を失った。
わたしが迷いの中で腕を引こうとした、まさにその瞬間。
フランの小さな手が、わたしの着流しの胸元を、すがるように強く掴んだ。
「……っ」
ひどく細く、冷たい手だった。小刻みに震えている。けれど、その手はわたしの服の生地を絶対に離さないとばかりに、恐ろしいほどの強さで握りしめられていた。
「どうして」
フランは顔を伏せ、わたしの胸に視線を落としたまま、絞り出すように言った。
「どうして、何も言わずにいなくなったんですか」
その声は、泣いていた。理不尽な仕打ちに怒っていた。そして、どうしようもない悲しみに震えていた。
ずっと、アローラの地まで抱えてきた彼女の複雑な感情のすべてが、そのひとつの問いかけに凝縮されていた。
「フラン……」
「どうして、あたしに何も言ってくれなかったんですか」
彼女は勢いよく顔を上げた。その顔は、とめどなく溢れる涙でぐしゃぐしゃだった。けれど、その強い瞳は決してわたしから逸らされることはない。
「あたし、起きたらギーマさんがいなくて……部屋の中、どこを探してもいなくて……ギーマさんの靴も、レパルダスちゃんもいなくて……っ」
わたしの胸元を掴む手に、さらに強い力がこもる。
「あたし、何か悪いことしたのかと思いました……! あたしが頼りなかったのかなって、あたしじゃギーマさんの隣にいられなかったのかなって……!」
「違う」
その言葉だけは、一秒でも早く否定しなければならなかった。
「違う、フラン。きみは何も悪くない」
「じゃあ、どうして……!」
フランの悲痛な叫び声が、静寂の夜の海に震えて響いた。
「どうして、あたしを置いていったんですか……!」
言葉が喉に詰まり、息ができなかった。
いざ彼女に問い詰められた時のために、何度も頭の中でシミュレーションし、構築していた見栄えのいい言い訳のカードが、今の彼女を前にはひとつも使えなかった。
彼女のためだった。先のない泥沼に巻き込みたくなかった。こんな自分よりも、もっとふさわしい光の当たる幸せがあると思った。
そのどれもが、半分は真実であり、半分はただの体裁を取り繕う嘘だった。彼女のこの痛いほど真っ直ぐな瞳の前で、これ以上小賢しい嘘はつけない。
「……怖かった」
自身でも驚くほど、掠れて情けない声が出た。フランの瞳が、驚きにわずかに揺れる。
「怖かったんだ。すべてを失ったわたしを、きみに見られるのが」
「……」
「わたしは大一番の勝負に負けた。莫大な財も、四天王としての地位も、勝負師としての誇りも、何もかも失った。イッシュ四天王としてのわたしも、きみが憧れてくれた勝負師としてのわたしも、全部盤面から落ちて消え去った」
大人としての余裕などとうに剥がれ落ち、わたしの声は情けないほどに震えていた。
「それをきみに知られるのが耐えられなかった。きみなら、それでもわたしの手を取っただろう。ギーマさんはギーマさんですと、泣きながら肯定して言っただろう。……それが分かっていたから、余計に怖かったんだ」
フランの唇が、わなわなと震える。
「どうして……」
彼女の口から零れたその声は、自分勝手な理屈に対する怒りというよりも、深い悲しみに近かった。
「どうして、それをあたしに決めさせてくれなかったんですか」
「……」
「ギーマさんが何も持ってなくても、あたしが隣にいたいかどうかは、あたしが決めることじゃないんですか」
返す言葉が、何一つ見つからなかった。
クチナシにも酒場で言われたばかりだ。その女が何を望むかを、お前が勝手に決めるなと。
だが、本人の口から直接叩きつけられると、その言葉は鋭利な刃となって、わたしの急所を深く、残酷なまでに抉った。
「……その通りだ」
わたしは、ようやく絞り出すようにそう答えた。
「わたしが勝手に決めた。きみの幸せも、きみの強さも、きみの愛情も」
「……ひどいです」
「ああ」
「ギーマさん、本当にひどいです……!」
「ああ」
わたしの胸元を握るフランの手が、小刻みに震え続けている。
彼女はわたしを叩くことはしなかった。クチナシならば「一発くらい思いきり殴れ」と唆しそうな場面だ。けれど彼女は、わたしの胸元を掴んだまま、ただ大粒の涙をこぼして泣いていた。
「忘れて幸せになれって……思ってたんですか」
「……思っていた」
「できるわけないじゃないですか……!」
その魂からの叫びに、わたしの胸は物理的に潰れそうなほどの痛みを覚えた。
「ギーマさんが最後にあんなに抱きしめて、あんなに跡まで残して……それで忘れろなんて、そんな勝手なこと、できるわけないじゃないですか……!」
完全に言葉を失った。
あの別れの夜に残した、身勝手なまでの所有印。自分の意思で置いていくと決めていたくせに、彼女が他の誰かのものになることなど許せないと、それでも彼女を自分のものだと刻みつけた、あまりにも醜く業の深い未練。
彼女はそれを、消えない傷として、そしてわたしを探すための道しるべとして、しっかりと覚えていたのだ。
「……すまない」
情けなくも、それしか言えなかった。
「すまない、フラン」
「謝ってほしいです……でも、謝るだけじゃ足りないです……!」
「ああ」
「ちゃんと、言ってください」
フランは涙に濡れた美しい瞳で、わたしを強く睨むように見上げた。
「ギーマさんの本当の気持ち、ちゃんと言ってください」
本当の気持ち。
大人の狡猾な言い訳で幾重にもコーティングし、逃げ続けてきたもの。昨夜の酒場でクチナシに半ば引き出されるように吐き出し、夜の海に向かってようやく認めることができた、どうしようもない本音。
それを今、彼女の目の前で、何ひとつ誤魔化さずに言わなければならない。
逃げたままの男に、勝ちはない。
わたしは震える手をゆっくりと持ち上げ、フランの涙で濡れた頬にそっと触れた。彼女は身を引いて逃げることはしなかった。手のひらに伝わる彼女の頬は夜風で冷たく、けれど確かに、生きている温かい命の熱を帯びていた。
「……会いたかった」
言葉の封印を解いた瞬間、胸の奥が焼けるように痛んだ。
「毎晩、きみを思い出していた。きみの澄んだ声を、太陽のような笑顔を、ヤキモチを妬いて泣きそうな顔を。わたしを見て赤くなるところも、わたしの名前を呼ぶ愛らしい声も、何もかも忘れられなかった」
フランの瞳が、驚きと安堵に大きく揺れる。
「きみにわたしのことなど忘れて幸せになれと思った。だが、きみが別の男にその笑顔を向け、笑いかける未来を想像するだけで、吐き気がするほど嫌だった」
「……」
「わたしは、きみを手放したくなかった」
ようやく言えた。あの朝、隣で微睡む彼女の寝顔に向かって、どうしても言えなかった言葉。
「本当は、きみを連れて逃げたかった。何もかも失った空っぽのわたしでも、それでも隣にいてほしいと言いたかった」
フランの手が、さらに強い力でわたしの着流しの胸元を掴む。
「だが、言えなかった。すべてを失い、惨めな敗北者となった自分をきみに見られるのが恐ろしくて、ただ格好をつけて逃げたんだ」
わたしは、彼女の目の前でゆっくりと頭を下げた。かつての四天王としての驕りも誇りも、勝負師としての体裁も、今のわたしにはもう何も必要なかった。
「許してくれとは言わない。だが……すまなかった、フラン」
「……っ」
「きみを置いていったこと。きみの気持ちを勝手に決めたこと。最後の夜に、何も言わずに自分の未練だけを刻みつけたこと」
喉がひどく痛い。感情が溢れすぎて、息がうまく吸えない。
「本当に、すまなかった」
重たい沈黙が落ちた。ザザァ、と波の音だけが際立って聞こえる。
フランは何も言わなかった。わたしは下げた頭を上げることができなかった。彼女がこのまま絶望して手を離し、背を向けて去っていったとしても、当然の報いだと思った。憎まれてもいい。罵られてもいい。もう二度と顔を見たくないと言われても、すべて甘んじて受け入れるしかない。
けれど。
次の瞬間、どんっ、と軽い衝撃と共に、彼女の額がわたしの胸に勢いよくぶつかった。
「……馬鹿」
ひどく小さく、けれど確かな熱を持った声だった。
「ギーマさんの、馬鹿……っ」
フランの細い腕が、わたしの背中にしっかりと回される。そして、震える手で、わたしの身体にぎゅっと力強くしがみついてきたのだ。
「許さないです……まだ、全部は許せません……」
「……ああ」
「でも、嫌いになんてなれないです……っ」
その言葉に、わたしの呼吸が完全に止まった。
「忘れられるわけないです……! あたし、ギーマさんのこと、ずっと探してたんです……! イッシュリーグも辞めて、アローラまで来て……ギーマさんに会いたくて……!」
「フラン……」
「ギーマさんが何も持ってなくてもいいです……四天王じゃなくても、お金がなくても、負けちゃってても……っ」
フランは顔を上げた。涙で濡れたその瞳が、迷いの一切ない真っ直ぐな光でわたしを射抜く。
「ギーマさんが生きててくれるだけで、あたしはよかったんです」
ああ。やはり、彼女はそう言うのだ。わたしが恐れていた通りの、そして心の底から望んでいた通りの言葉を。
けれど、自責の念に駆られて逃げていた時とは違った。今はその言葉が、ただ恐ろしいだけではない。泣きたくなるほどに、痛いほどに温かかった。
「ギーマさんが惨めでも、情けなくても、かっこ悪くても……あたし、隣にいたかったです」
「……わたしは、かっこ悪い男だよ」
「知ってます」
考える隙も与えないほどの、即答だった。
思わず、言葉が詰まる。フランは泣きながら、少しだけ本気で怒ったように言った。
「何も言わずに逃げるし、勝手にあたしの幸せを決めるし、忘れろって思いながら跡を残すし……すごく、すごくかっこ悪いです」
「……手厳しいね」
「怒ってますから」
「ああ」
「でも」
フランの手が、わたしの胸元からゆっくりと離れた。その代わり、彼女はためらうことなくわたしの手を取った。自身の両手で、温かく、強く。
「それでも、あたしはギーマさんが好きです」
世界が、完全に止まった気がした。波の音も、風の音も、すべてが遠のいていく。
「かっこいいギーマさんも好きです。勝負師のギーマさんも、四天王のギーマさんも、あたしを甘やかしてくれるギーマさんも、意地悪なギーマさんも……全部好きです」
フランの声は震えていたが、そこに込められた感情はあまりにも巨大で、揺るぎないものだった。
「でも、負けてしまったギーマさんも、逃げちゃったギーマさんも、今こうして震えてるギーマさんも……あたしは、好きです」
「……」
「だから、もう勝手に置いていかないでください」
彼女の瞳から、また一つ、美しい涙の雫が零れ落ちる。
「もう一度いなくなるなら、今度はちゃんとあたしの目を見て言ってください。そうしたら、絶対に引き止めますから」
胸が苦しくて、まともに息ができなかった。
こんなにも愛されている。こんなにも深い情愛で、許される前から温かい手を伸ばされている。わたしは一体、なんというかけがえのないものを置いてきたのだろう。どれほど残酷で愚かなことをしたのだろう。
「……フラン」
ひどく声が掠れた。
「わたしは、まだ何も持っていない」
「はい」
「きみを幸せにできる保証もない」
「そんな保証、いりません」
「また弱さを見せるかもしれない」
「見せてください」
「わたしは、きみに甘えてしまう」
「甘えてください」
「……重い男だよ」
「知ってます」
またしても、迷いのない即答だった。そのあまりに真っ直ぐで力強い返事に、わたしは自嘲するように笑いそうになり、同時にどうしようもなく泣きそうになった。
「知っていて、それでも?」
「それでもです」
フランは、わたしの手を強く握りしめたまま、はっきりと言い切った。
「あたしも重いです。イッシュからアローラまで追いかけてきちゃうくらいには、ギーマさんが好きです」
その言葉は、わたしの中に残っていた罪悪感という名の最後の抵抗を、鮮やかにへし折った。いや、へし折ったのではない、完全に救済したのだ。
わたしは耐えきれず、彼女の身体を力強く抱き寄せた。逃がさないように強く。けれど、宝物を扱うように決して壊さないように。
フランは驚きに一瞬だけ息を詰め、それからすぐさまわたしの背に腕を回して抱きつき返してきた。
温かい。彼女の、確かな命の温度だ。
数ヶ月もの間、虚無の夢の中で何度も何度も求めてやまなかった温度。本物のフランが、今、確かにわたしの腕の中にいる。
「……会いたかった」
もう一度、今度は彼女の耳元で、甘く囁くように言った。
「会いたかったよ、フラン」
「……あたしもです」
フランの涙声が、胸の奥深くに染み渡っていく。
「ずっと、会いたかったです……」
その言葉だけで、わたしはもう一度、完璧な敗北を喫した。けれど今度の敗北は、不思議なことに少しも苦しくなかった。彼女の深い愛情に負けるなら、悪くない。むしろ、これ以上の幸福はない。
「……クチナシに会ったのかい」
彼女の温もりを堪能しながら、ふと気になっていたことを尋ねた。フランが腕の中で小さく身じろぎする。
「はい。マリエシティで……ギーマさんの居場所を、少しだけ教えてくれました」
「やはり」
「でも、直接教えられたわけじゃないです。海沿いを歩くといいかもって……」
「彼らしい」
思わず、呆れを含んだ苦笑が漏れた。あの男は最後まで、決定的な札を自分から渡すことはしない。こちらに考えさせ、自分で引かせる。まったく、ひどく手厳しい男だ。
「クチナシさん、言ってました」
「何を?」
「会ったら、ちゃんと本人から聞けって。ギーマさんが何を失って、何から逃げて、何を怖がってるのか……あたしが直接聞けって」
「……そうか」
いかにも彼らしい、ぶっきらぼうで的を射た言葉だ。そして、それは何よりも正しかった。わたしは今、ようやく自分の口で、彼女にすべてを告白できたのだから。
「それから」
フランはわたしの胸の中で少しだけ顔を上げ、悪戯っぽく言った。
「一発くらい殴ってもいいんじゃねえの、って」
「……殴るかい?」
半ば本気で、身構えながら尋ねた。フランは涙で濡れた顔のまま、ぶんぶんと首を振る。
「殴りません」
「優しいね」
「優しくないです」
彼女は少しだけ唇を尖らせ、拗ねたように言った。
「今は、殴るより抱きしめたいです」
胸の奥が、どうしようもなく甘く締めつけられた。
「……それは」
言葉が喉に詰まる。
「反則だね」
「ギーマさんに反則って言われるの、なんだか変です」
「きみはいつも、わたしの想定外のカードを切る」
「そうですか?」
「ああ」
わたしは、彼女の柔らかな髪にそっと口づけを落とした。
「わたしは、きみに勝てそうにない」
フランはわたしの胸元に顔を埋めたまま、小さく笑い声を立てた。泣きながら。それでも、確かに心からの安堵を含んで笑った。
その太陽のような笑顔を見た瞬間、わたしの心の中で、ようやくひとつの確信が生まれた。
まだ、すべてが終わったわけではないのだ。
イッシュで失ったものは数え切れないほど多い。取り戻せないものも確かにある。だが、何よりもかけがえのない彼女がここにいる。わたしの手を取って、逃げるなと強く叱り、すべてを失ったわたしをそれでも好きだと言ってくれている。
ならば、ここからもう一度、二人で始めるしかない。負けた後に、次の勝利を求めて盤面に立つ。それが本来の勝負師の姿だ。
「フラン」
「はい」
「今すぐ、きみにすべてを許してもらえるとは思っていない」
「……はい」
「わたしは、きみにした残酷な仕打ちを一生忘れない。きみを絶望させて泣かせた朝も、置いていった身勝手な罪も、すべてこの背に背負う」
「はい」
「それでも」
わたしは、彼女の手を自身の両手で強く握り直した。今度は、もう二度と離さないために。
「もし、まだわたしの隣にいてくれるなら」
喉が微かに震える。情けない。だが、彼女の前ではもう何も隠さないと決めた。
「もう一度、わたしの帰る場所になってほしい」
フランの瞳が、驚きと喜びで大きく揺れた。次の瞬間、彼女の目からまた新たな涙が溢れ出した。けれど、今度は確かに幸せそうに笑っていた。
「……はい」
涙に濡れた小さな返事。だが、それはわたしにとって、世界中のどんな財宝にも勝る、何より重く、何より尊い勝利の宣言だった。
「あたし、ギーマさんの帰る場所になります」
彼女は、わたしの大きな手を自身の小さな両手で大切そうに包み込んだ。
「だから、ギーマさんも……あたしのところに帰ってきてください」
「ああ」
わたしは迷うことなく、深く頷いた。今度こそ、もう二度と逃げはしない。
「帰るよ、フラン」
心地よい潮風が、二人の間をやさしく通り抜けていく。
見上げる月は相変わらず明るく海を照らし、波音は永遠のように静かに続いている。
数ヶ月前、わたしをすべてを失った敗北者としてこの見知らぬ地へ運んだ海が、今は世界で一番愛しいフランをわたしの元へと連れてきてくれた。
勝負師の勘というものは、時に残酷なほど正確に己の破滅を告げる。
だが、今夜だけは。その鋭い勘が、まったく別の未来を告げているような気がした。
ここから先は、破滅へと逃げ込む暗い道ではない。彼女と共に、もう一度光の中へと歩き出すための道だ。
「……フラン」
「はい?」
「もう一度、抱きしめてもいいかな」
フランは涙で赤くなった目をパチパチと瞬かせた。それから、少し拗ねたように唇を尖らせて言った。
「もう抱きしめてます」
「足りない」
「……ギーマさん」
「足りないんだ」
隠さずに正直な欲求を口にすると、フランは本当に困ったように、けれどひどく嬉しそうに笑った。そして、自分からわたしの胸にすり寄るように顔を埋めた。
「じゃあ、足りるまでどうぞ」
その無防備で甘すぎる言葉に、わたしは完全に白旗を揚げて負けを認めた。
愛しい彼女の身体を、力強く抱きしめる。今度は別れを告げるためではない。独りよがりな所有印を残して逃げるためでもない。彼女が確かにここにいると実感するために。そして、もう二度とその手を離さないと、魂の底から誓うために。
わたしは、フランの温もりをこの腕という鳥籠の中にしっかりと閉じ込めた。
遠くで、銀色の波が静かに寄せては返していく。
逃げたままの男に、勝ちはない。ならば今夜、わたしはようやく本当の意味で勝負台へと戻れたのだろう。
彼女のこの小さな手を、今度こそ永遠に離さないために。
その夜、酒場を出た後も、クチナシが吐き捨てるように言った言葉は、妙にわたしの耳の奥にこびりついて離れなかった。
「明日、海沿い歩けよ」
それだけならば、ただの風流な気まぐれにも聞こえただろう。
だが、あの男は意味のないことをわざわざ口にするほど親切な性質ではない。無駄口は多いようでいて、本当に必要な急所だけを雑に、しかし正確に突いてくる男なのだ。
逃げるためではなく、会うために歩け。
その言葉の真意を理解した瞬間、わたしの胸の奥底で、ずっと見ないふりをして伏せていた最後の一枚のカードが、見えざる手によって勝手に裏返されたような気がした。
まさか。
そんなはずはない。
すべてを失った男の元へ、フランがはるか遠いイッシュ地方から、このアローラの地まで来るはずがない。
いや。
来るかもしれない。
彼女はそういう、どうしようもないほど真っ直ぐで無鉄砲な子だ。
わたしがどれほど勝手に彼女の幸せを決めつけ、一方的に何も言わずに手を離したとしても。彼女はたくさん泣いて、理不尽さに怒って、それでも最後には自身の足で立ち上がって。あの濁りのない真っ直ぐな瞳で、わたしの逃げたこの世界の果てまで追いかけてくるかもしれない。
「……馬鹿な期待だ」
月明かりだけが差し込む薄暗い宿の窓辺で、わたしは湧き上がる感情をねじ伏せるように、自分に言い聞かせるように呟いた。
期待してはいけない。もし違ったら。もし彼女など来ておらず、すべてがわたしの都合のいい妄想であったなら。クチナシの言葉に勝手な意味を見出し、愚かな希望を抱いた自分だけが、泥沼の中でさらに惨めになるだけだ。
それに、もし万が一、本当に彼女が来ていたとして。わたしは一体、どんな顔をして彼女に会うつもりなのだ。
何も言わずに姿を消した、最低の男が。
最後の夜に、大層な別れの言葉を並べる勇気もなく、ただ愛情と未練と独占欲だけを彼女の真っ白な肌に痛いほど刻みつけて逃げた男が。
何もかも失った敗北者としての自分を見られたくないという、くだらなくも矮小な男の意地だけで、世界で一番愛しい彼女を置いてきた男が。
今さら、どんな言葉を並べて彼女の前に立てるというのか。
「……やれやれ」
思わず、自嘲するような笑いが漏れた。ひどく乾いて、ひび割れた笑いだった。
わたしは勝負師だ。盤面における敗北は、これまでの人生で何度も経験してきた。負けたなら、その事実を冷静に受け入れ、次の勝利のために今できる最善の選択をする。それが自分の絶対的な信条だったはずなのに。
フランのことになると、わたしはどうにも情けなく、酷く臆病になる。勝負台につく前から、決定的な負けを恐れて足が竦んでしまうのだ。彼女の真っ直ぐな瞳に失望され、完全に拒絶される未来を想像するだけで、身体の芯から血の気が引き、凍りつくように冷えていく。
けれど。
『逃げたままの男に、勝ちはねえ』
クチナシの低く気怠げな声が、また耳の奥で警鐘のように響いた。
そうだ。逃げたままでは、未来永劫、勝ちはないのだ。
わたしは一度、人生を賭けた大勝負に負けた。莫大な財も、四天王としての地位も、勝負師としての誇りも、手の中のすべてを失った。けれど、本当に取り返しがつかない致命的な敗北はそこではない。フランというただ一人の女の前から、尻尾を巻いて逃げ出したことだ。
その勝負から降りたままでは、わたしは一生、救いようのない惨めな敗北者のままだ。
***
翌日の夜。
見上げる夜空の月は、腹立たしいほどに丸く、そして明るかった。
アローラの海は、月からの銀色の光を一身に受けて、鱗のようにきらきらと静かに揺れている。生ぬるい潮風が頬を撫で、寄せては返す波音が規則正しく耳に届いていた。
わたしは、クチナシに言われた通り、あてもなく海沿いの道を歩いていた。
過去の幻影から逃げるためではない。未来に向き合うために歩くのだ。そう何度も自分に言い聞かせる。だが、一歩踏み出すごとの足取りは、鉛を引きずっているように重かった。
何度も立ち止まり、踵を返して引き返したくなった。
会いたい。けれど、会うのが恐ろしい。
その相反する二つの強烈な感情が、胸の中で醜くドロドロに絡み合う。
フランが来ているはずがないと自嘲気味に否定するたび、ほんの少しだけ胸の奥が冷え、落胆している自分がいる。フランが来ているかもしれないと淡い期待を抱くたび、彼女の失望の顔を想像して逃げ出したくなる自分がいる。
勝負師としては、判断力を欠いた最低の心理状態だ。相手の手札はまったく見えていない。盤面がどう転ぶかも読めない。それでも、今度ばかりはこのゲームから降りることだけはできなかった。
「……フラン」
潮風に紛れさせるように、その名を口の中でそっと転がした。
その名前は、今でもわたしの人生の中で一番柔らかく、そして一番痛みを伴う響きを持っていた。
すべてを捨てて逃げ出したあの夜から、狂おしいほどに何度も呼んだ。アルコールで感覚を麻痺させた酒の席で。熱にうなされるような夢の中で。そして、朝、誰もいない冷たい寝床で目覚め、隣に彼女がいないという現実に直面した時に。
けれど、返事があったことは一度もない。だから、その時も当然、返事などあるはずがないと思っていた。
けれど。
「……ギーマさん?」
波音の向こうから、幻ではない、確かに震える声がした。
その瞬間、わたしの心臓が完全に止まった。比喩ではなく、本当にそう思った。
足が地面に太い釘で縫い止められたように、ぴくりとも動かなくなる。わたしは恐る恐る、ゆっくりと顔を上げた。
明るすぎる月明かりの下。
少し離れた海沿いの道に、華奢なシルエットが一つ、ぽつりと立っていた。
夜の闇の中でもはっきりと分かる。長旅の過酷さが滲み出た疲れた顔。幾夜も泣き明かしたであろう、赤く泣き腫らした目元。
それでも、こちらを射抜くように見つめるその瞳は、わたしの記憶の中に鮮烈に焼き付いているのと同じ、美しい宝石のようで。大人の嘘など何一つ纏わない、何も偽らないまっすぐな光を放っていた。
彼女の足元には、鋭い眼光を放つグラエナ。少し後ろには、闇に溶け込むようなブラッキー。どちらのポケモンも、主である彼女を外敵から守るように立ちはだかり、油断なくわたしを睨みつけている。
わたしは、完全に言葉を失った。
夢かと思った。わたし自身の都合のいい願望が生み出した、幻かと思った。酒に溺れた果ての未練が見せる、あまりにも甘く残酷な幻覚。
けれど、彼女の瞳から、月光を反射してぽろりと一粒の涙が零れ落ちた瞬間、この情景が紛れもない現実なのだと理解した。
「……本当に」
フランの声が、微かに震える。
「本当に、ギーマさん……?」
「……フラン」
彼女のその愛しい名が、自然と口から零れ落ちる。
その瞬間、胸の奥で必死に保っていた何かの決壊が音を立てて崩れ去った。
会いたかった。狂おしいほどに、何度も何度も、そう願っていた。けれど、実際に彼女が目の前に立っているという現実を前にすると、わたしは自責の念に押し潰され、一歩も動くことができなかった。
彼女は数秒の間、まるで夢を見ているかのようにわたしをじっと見つめていた。
そして次の瞬間、弾かれたように走り出した。わたしの方へ向かって。
グラエナが一歩遅れて警戒しながらついてくる。ブラッキーも無言で地を蹴って走る。フランは、石畳につまずいて転びそうになりながらも、その勢いを殺すことなくこちらへ駆けてきた。
わたしは反射的に、彼女を受け止めるために腕を伸ばしかけた。この腕の中に抱きとめたい。そう、本能が叫んだ。
けれど、お前にその資格はないという理性の冷たい声が胸の奥で囁き、伸ばしかけた手は空中で行き場を失った。
わたしが迷いの中で腕を引こうとした、まさにその瞬間。
フランの小さな手が、わたしの着流しの胸元を、すがるように強く掴んだ。
「……っ」
ひどく細く、冷たい手だった。小刻みに震えている。けれど、その手はわたしの服の生地を絶対に離さないとばかりに、恐ろしいほどの強さで握りしめられていた。
「どうして」
フランは顔を伏せ、わたしの胸に視線を落としたまま、絞り出すように言った。
「どうして、何も言わずにいなくなったんですか」
その声は、泣いていた。理不尽な仕打ちに怒っていた。そして、どうしようもない悲しみに震えていた。
ずっと、アローラの地まで抱えてきた彼女の複雑な感情のすべてが、そのひとつの問いかけに凝縮されていた。
「フラン……」
「どうして、あたしに何も言ってくれなかったんですか」
彼女は勢いよく顔を上げた。その顔は、とめどなく溢れる涙でぐしゃぐしゃだった。けれど、その強い瞳は決してわたしから逸らされることはない。
「あたし、起きたらギーマさんがいなくて……部屋の中、どこを探してもいなくて……ギーマさんの靴も、レパルダスちゃんもいなくて……っ」
わたしの胸元を掴む手に、さらに強い力がこもる。
「あたし、何か悪いことしたのかと思いました……! あたしが頼りなかったのかなって、あたしじゃギーマさんの隣にいられなかったのかなって……!」
「違う」
その言葉だけは、一秒でも早く否定しなければならなかった。
「違う、フラン。きみは何も悪くない」
「じゃあ、どうして……!」
フランの悲痛な叫び声が、静寂の夜の海に震えて響いた。
「どうして、あたしを置いていったんですか……!」
言葉が喉に詰まり、息ができなかった。
いざ彼女に問い詰められた時のために、何度も頭の中でシミュレーションし、構築していた見栄えのいい言い訳のカードが、今の彼女を前にはひとつも使えなかった。
彼女のためだった。先のない泥沼に巻き込みたくなかった。こんな自分よりも、もっとふさわしい光の当たる幸せがあると思った。
そのどれもが、半分は真実であり、半分はただの体裁を取り繕う嘘だった。彼女のこの痛いほど真っ直ぐな瞳の前で、これ以上小賢しい嘘はつけない。
「……怖かった」
自身でも驚くほど、掠れて情けない声が出た。フランの瞳が、驚きにわずかに揺れる。
「怖かったんだ。すべてを失ったわたしを、きみに見られるのが」
「……」
「わたしは大一番の勝負に負けた。莫大な財も、四天王としての地位も、勝負師としての誇りも、何もかも失った。イッシュ四天王としてのわたしも、きみが憧れてくれた勝負師としてのわたしも、全部盤面から落ちて消え去った」
大人としての余裕などとうに剥がれ落ち、わたしの声は情けないほどに震えていた。
「それをきみに知られるのが耐えられなかった。きみなら、それでもわたしの手を取っただろう。ギーマさんはギーマさんですと、泣きながら肯定して言っただろう。……それが分かっていたから、余計に怖かったんだ」
フランの唇が、わなわなと震える。
「どうして……」
彼女の口から零れたその声は、自分勝手な理屈に対する怒りというよりも、深い悲しみに近かった。
「どうして、それをあたしに決めさせてくれなかったんですか」
「……」
「ギーマさんが何も持ってなくても、あたしが隣にいたいかどうかは、あたしが決めることじゃないんですか」
返す言葉が、何一つ見つからなかった。
クチナシにも酒場で言われたばかりだ。その女が何を望むかを、お前が勝手に決めるなと。
だが、本人の口から直接叩きつけられると、その言葉は鋭利な刃となって、わたしの急所を深く、残酷なまでに抉った。
「……その通りだ」
わたしは、ようやく絞り出すようにそう答えた。
「わたしが勝手に決めた。きみの幸せも、きみの強さも、きみの愛情も」
「……ひどいです」
「ああ」
「ギーマさん、本当にひどいです……!」
「ああ」
わたしの胸元を握るフランの手が、小刻みに震え続けている。
彼女はわたしを叩くことはしなかった。クチナシならば「一発くらい思いきり殴れ」と唆しそうな場面だ。けれど彼女は、わたしの胸元を掴んだまま、ただ大粒の涙をこぼして泣いていた。
「忘れて幸せになれって……思ってたんですか」
「……思っていた」
「できるわけないじゃないですか……!」
その魂からの叫びに、わたしの胸は物理的に潰れそうなほどの痛みを覚えた。
「ギーマさんが最後にあんなに抱きしめて、あんなに跡まで残して……それで忘れろなんて、そんな勝手なこと、できるわけないじゃないですか……!」
完全に言葉を失った。
あの別れの夜に残した、身勝手なまでの所有印。自分の意思で置いていくと決めていたくせに、彼女が他の誰かのものになることなど許せないと、それでも彼女を自分のものだと刻みつけた、あまりにも醜く業の深い未練。
彼女はそれを、消えない傷として、そしてわたしを探すための道しるべとして、しっかりと覚えていたのだ。
「……すまない」
情けなくも、それしか言えなかった。
「すまない、フラン」
「謝ってほしいです……でも、謝るだけじゃ足りないです……!」
「ああ」
「ちゃんと、言ってください」
フランは涙に濡れた美しい瞳で、わたしを強く睨むように見上げた。
「ギーマさんの本当の気持ち、ちゃんと言ってください」
本当の気持ち。
大人の狡猾な言い訳で幾重にもコーティングし、逃げ続けてきたもの。昨夜の酒場でクチナシに半ば引き出されるように吐き出し、夜の海に向かってようやく認めることができた、どうしようもない本音。
それを今、彼女の目の前で、何ひとつ誤魔化さずに言わなければならない。
逃げたままの男に、勝ちはない。
わたしは震える手をゆっくりと持ち上げ、フランの涙で濡れた頬にそっと触れた。彼女は身を引いて逃げることはしなかった。手のひらに伝わる彼女の頬は夜風で冷たく、けれど確かに、生きている温かい命の熱を帯びていた。
「……会いたかった」
言葉の封印を解いた瞬間、胸の奥が焼けるように痛んだ。
「毎晩、きみを思い出していた。きみの澄んだ声を、太陽のような笑顔を、ヤキモチを妬いて泣きそうな顔を。わたしを見て赤くなるところも、わたしの名前を呼ぶ愛らしい声も、何もかも忘れられなかった」
フランの瞳が、驚きと安堵に大きく揺れる。
「きみにわたしのことなど忘れて幸せになれと思った。だが、きみが別の男にその笑顔を向け、笑いかける未来を想像するだけで、吐き気がするほど嫌だった」
「……」
「わたしは、きみを手放したくなかった」
ようやく言えた。あの朝、隣で微睡む彼女の寝顔に向かって、どうしても言えなかった言葉。
「本当は、きみを連れて逃げたかった。何もかも失った空っぽのわたしでも、それでも隣にいてほしいと言いたかった」
フランの手が、さらに強い力でわたしの着流しの胸元を掴む。
「だが、言えなかった。すべてを失い、惨めな敗北者となった自分をきみに見られるのが恐ろしくて、ただ格好をつけて逃げたんだ」
わたしは、彼女の目の前でゆっくりと頭を下げた。かつての四天王としての驕りも誇りも、勝負師としての体裁も、今のわたしにはもう何も必要なかった。
「許してくれとは言わない。だが……すまなかった、フラン」
「……っ」
「きみを置いていったこと。きみの気持ちを勝手に決めたこと。最後の夜に、何も言わずに自分の未練だけを刻みつけたこと」
喉がひどく痛い。感情が溢れすぎて、息がうまく吸えない。
「本当に、すまなかった」
重たい沈黙が落ちた。ザザァ、と波の音だけが際立って聞こえる。
フランは何も言わなかった。わたしは下げた頭を上げることができなかった。彼女がこのまま絶望して手を離し、背を向けて去っていったとしても、当然の報いだと思った。憎まれてもいい。罵られてもいい。もう二度と顔を見たくないと言われても、すべて甘んじて受け入れるしかない。
けれど。
次の瞬間、どんっ、と軽い衝撃と共に、彼女の額がわたしの胸に勢いよくぶつかった。
「……馬鹿」
ひどく小さく、けれど確かな熱を持った声だった。
「ギーマさんの、馬鹿……っ」
フランの細い腕が、わたしの背中にしっかりと回される。そして、震える手で、わたしの身体にぎゅっと力強くしがみついてきたのだ。
「許さないです……まだ、全部は許せません……」
「……ああ」
「でも、嫌いになんてなれないです……っ」
その言葉に、わたしの呼吸が完全に止まった。
「忘れられるわけないです……! あたし、ギーマさんのこと、ずっと探してたんです……! イッシュリーグも辞めて、アローラまで来て……ギーマさんに会いたくて……!」
「フラン……」
「ギーマさんが何も持ってなくてもいいです……四天王じゃなくても、お金がなくても、負けちゃってても……っ」
フランは顔を上げた。涙で濡れたその瞳が、迷いの一切ない真っ直ぐな光でわたしを射抜く。
「ギーマさんが生きててくれるだけで、あたしはよかったんです」
ああ。やはり、彼女はそう言うのだ。わたしが恐れていた通りの、そして心の底から望んでいた通りの言葉を。
けれど、自責の念に駆られて逃げていた時とは違った。今はその言葉が、ただ恐ろしいだけではない。泣きたくなるほどに、痛いほどに温かかった。
「ギーマさんが惨めでも、情けなくても、かっこ悪くても……あたし、隣にいたかったです」
「……わたしは、かっこ悪い男だよ」
「知ってます」
考える隙も与えないほどの、即答だった。
思わず、言葉が詰まる。フランは泣きながら、少しだけ本気で怒ったように言った。
「何も言わずに逃げるし、勝手にあたしの幸せを決めるし、忘れろって思いながら跡を残すし……すごく、すごくかっこ悪いです」
「……手厳しいね」
「怒ってますから」
「ああ」
「でも」
フランの手が、わたしの胸元からゆっくりと離れた。その代わり、彼女はためらうことなくわたしの手を取った。自身の両手で、温かく、強く。
「それでも、あたしはギーマさんが好きです」
世界が、完全に止まった気がした。波の音も、風の音も、すべてが遠のいていく。
「かっこいいギーマさんも好きです。勝負師のギーマさんも、四天王のギーマさんも、あたしを甘やかしてくれるギーマさんも、意地悪なギーマさんも……全部好きです」
フランの声は震えていたが、そこに込められた感情はあまりにも巨大で、揺るぎないものだった。
「でも、負けてしまったギーマさんも、逃げちゃったギーマさんも、今こうして震えてるギーマさんも……あたしは、好きです」
「……」
「だから、もう勝手に置いていかないでください」
彼女の瞳から、また一つ、美しい涙の雫が零れ落ちる。
「もう一度いなくなるなら、今度はちゃんとあたしの目を見て言ってください。そうしたら、絶対に引き止めますから」
胸が苦しくて、まともに息ができなかった。
こんなにも愛されている。こんなにも深い情愛で、許される前から温かい手を伸ばされている。わたしは一体、なんというかけがえのないものを置いてきたのだろう。どれほど残酷で愚かなことをしたのだろう。
「……フラン」
ひどく声が掠れた。
「わたしは、まだ何も持っていない」
「はい」
「きみを幸せにできる保証もない」
「そんな保証、いりません」
「また弱さを見せるかもしれない」
「見せてください」
「わたしは、きみに甘えてしまう」
「甘えてください」
「……重い男だよ」
「知ってます」
またしても、迷いのない即答だった。そのあまりに真っ直ぐで力強い返事に、わたしは自嘲するように笑いそうになり、同時にどうしようもなく泣きそうになった。
「知っていて、それでも?」
「それでもです」
フランは、わたしの手を強く握りしめたまま、はっきりと言い切った。
「あたしも重いです。イッシュからアローラまで追いかけてきちゃうくらいには、ギーマさんが好きです」
その言葉は、わたしの中に残っていた罪悪感という名の最後の抵抗を、鮮やかにへし折った。いや、へし折ったのではない、完全に救済したのだ。
わたしは耐えきれず、彼女の身体を力強く抱き寄せた。逃がさないように強く。けれど、宝物を扱うように決して壊さないように。
フランは驚きに一瞬だけ息を詰め、それからすぐさまわたしの背に腕を回して抱きつき返してきた。
温かい。彼女の、確かな命の温度だ。
数ヶ月もの間、虚無の夢の中で何度も何度も求めてやまなかった温度。本物のフランが、今、確かにわたしの腕の中にいる。
「……会いたかった」
もう一度、今度は彼女の耳元で、甘く囁くように言った。
「会いたかったよ、フラン」
「……あたしもです」
フランの涙声が、胸の奥深くに染み渡っていく。
「ずっと、会いたかったです……」
その言葉だけで、わたしはもう一度、完璧な敗北を喫した。けれど今度の敗北は、不思議なことに少しも苦しくなかった。彼女の深い愛情に負けるなら、悪くない。むしろ、これ以上の幸福はない。
「……クチナシに会ったのかい」
彼女の温もりを堪能しながら、ふと気になっていたことを尋ねた。フランが腕の中で小さく身じろぎする。
「はい。マリエシティで……ギーマさんの居場所を、少しだけ教えてくれました」
「やはり」
「でも、直接教えられたわけじゃないです。海沿いを歩くといいかもって……」
「彼らしい」
思わず、呆れを含んだ苦笑が漏れた。あの男は最後まで、決定的な札を自分から渡すことはしない。こちらに考えさせ、自分で引かせる。まったく、ひどく手厳しい男だ。
「クチナシさん、言ってました」
「何を?」
「会ったら、ちゃんと本人から聞けって。ギーマさんが何を失って、何から逃げて、何を怖がってるのか……あたしが直接聞けって」
「……そうか」
いかにも彼らしい、ぶっきらぼうで的を射た言葉だ。そして、それは何よりも正しかった。わたしは今、ようやく自分の口で、彼女にすべてを告白できたのだから。
「それから」
フランはわたしの胸の中で少しだけ顔を上げ、悪戯っぽく言った。
「一発くらい殴ってもいいんじゃねえの、って」
「……殴るかい?」
半ば本気で、身構えながら尋ねた。フランは涙で濡れた顔のまま、ぶんぶんと首を振る。
「殴りません」
「優しいね」
「優しくないです」
彼女は少しだけ唇を尖らせ、拗ねたように言った。
「今は、殴るより抱きしめたいです」
胸の奥が、どうしようもなく甘く締めつけられた。
「……それは」
言葉が喉に詰まる。
「反則だね」
「ギーマさんに反則って言われるの、なんだか変です」
「きみはいつも、わたしの想定外のカードを切る」
「そうですか?」
「ああ」
わたしは、彼女の柔らかな髪にそっと口づけを落とした。
「わたしは、きみに勝てそうにない」
フランはわたしの胸元に顔を埋めたまま、小さく笑い声を立てた。泣きながら。それでも、確かに心からの安堵を含んで笑った。
その太陽のような笑顔を見た瞬間、わたしの心の中で、ようやくひとつの確信が生まれた。
まだ、すべてが終わったわけではないのだ。
イッシュで失ったものは数え切れないほど多い。取り戻せないものも確かにある。だが、何よりもかけがえのない彼女がここにいる。わたしの手を取って、逃げるなと強く叱り、すべてを失ったわたしをそれでも好きだと言ってくれている。
ならば、ここからもう一度、二人で始めるしかない。負けた後に、次の勝利を求めて盤面に立つ。それが本来の勝負師の姿だ。
「フラン」
「はい」
「今すぐ、きみにすべてを許してもらえるとは思っていない」
「……はい」
「わたしは、きみにした残酷な仕打ちを一生忘れない。きみを絶望させて泣かせた朝も、置いていった身勝手な罪も、すべてこの背に背負う」
「はい」
「それでも」
わたしは、彼女の手を自身の両手で強く握り直した。今度は、もう二度と離さないために。
「もし、まだわたしの隣にいてくれるなら」
喉が微かに震える。情けない。だが、彼女の前ではもう何も隠さないと決めた。
「もう一度、わたしの帰る場所になってほしい」
フランの瞳が、驚きと喜びで大きく揺れた。次の瞬間、彼女の目からまた新たな涙が溢れ出した。けれど、今度は確かに幸せそうに笑っていた。
「……はい」
涙に濡れた小さな返事。だが、それはわたしにとって、世界中のどんな財宝にも勝る、何より重く、何より尊い勝利の宣言だった。
「あたし、ギーマさんの帰る場所になります」
彼女は、わたしの大きな手を自身の小さな両手で大切そうに包み込んだ。
「だから、ギーマさんも……あたしのところに帰ってきてください」
「ああ」
わたしは迷うことなく、深く頷いた。今度こそ、もう二度と逃げはしない。
「帰るよ、フラン」
心地よい潮風が、二人の間をやさしく通り抜けていく。
見上げる月は相変わらず明るく海を照らし、波音は永遠のように静かに続いている。
数ヶ月前、わたしをすべてを失った敗北者としてこの見知らぬ地へ運んだ海が、今は世界で一番愛しいフランをわたしの元へと連れてきてくれた。
勝負師の勘というものは、時に残酷なほど正確に己の破滅を告げる。
だが、今夜だけは。その鋭い勘が、まったく別の未来を告げているような気がした。
ここから先は、破滅へと逃げ込む暗い道ではない。彼女と共に、もう一度光の中へと歩き出すための道だ。
「……フラン」
「はい?」
「もう一度、抱きしめてもいいかな」
フランは涙で赤くなった目をパチパチと瞬かせた。それから、少し拗ねたように唇を尖らせて言った。
「もう抱きしめてます」
「足りない」
「……ギーマさん」
「足りないんだ」
隠さずに正直な欲求を口にすると、フランは本当に困ったように、けれどひどく嬉しそうに笑った。そして、自分からわたしの胸にすり寄るように顔を埋めた。
「じゃあ、足りるまでどうぞ」
その無防備で甘すぎる言葉に、わたしは完全に白旗を揚げて負けを認めた。
愛しい彼女の身体を、力強く抱きしめる。今度は別れを告げるためではない。独りよがりな所有印を残して逃げるためでもない。彼女が確かにここにいると実感するために。そして、もう二度とその手を離さないと、魂の底から誓うために。
わたしは、フランの温もりをこの腕という鳥籠の中にしっかりと閉じ込めた。
遠くで、銀色の波が静かに寄せては返していく。
逃げたままの男に、勝ちはない。ならば今夜、わたしはようやく本当の意味で勝負台へと戻れたのだろう。
彼女のこの小さな手を、今度こそ永遠に離さないために。