ギーマ夢主の名前変換
ギーマ(BW)×固定夢主💮
🪙夢主の名前
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しまキングだの警察官だのという厄介な肩書きを背負って長く生きていると、否が応でも人を見る目というものが養われてしまう。嘘をついている時のわずかな瞳の揺れ、何かを隠蔽しようとこわばる指先、あるいは逃走を企てている足の向き。そういった人間の微細な機微というものは、知りたくなくとも嫌でも肌で分かるようになってしまっていた。
だが、だからといって、興味のない相手の名前や顔まで律儀に脳内のファイルに記憶しておくほど、クチナシという男はまめな性格をしていない。
だからこそ、真っ昼間の往来でその女を見かけた時も、最初はただの熱心な観光客が迷い込んだだけだろうと高を括っていた。
ウラウラ島、マリエシティ。
アローラ地方の中でもジョウト地方の風情を色濃く残し、少し落ち着いた和の街並みが広がる通りの中を、彼女は場違いなほど必死な形相で歩いていた。
長旅のせいだろう、その顔にははっきりと疲労の色が滲んでいる。けれど、周囲を見渡す瞳だけは妙に強い光を宿していた。
そして何より目を引いたのは、その足元に一匹のグラエナがピタリと寄り添い、少し離れた死角をカバーするような位置にブラッキーが控えていることだった。どちらのポケモンも、ただの連れ歩きというような呑気なものではない。明確に彼女を外敵から守るように、周囲への警戒を怠らずに寄り添っていた。
「……」
クチナシは建物の陰に背中を預けたまま、その女の様子をぼんやりと眺めた。
観光客にしては、一歩一歩の足取りが重すぎる。かといって、道に迷って途方に暮れている迷子というほど呑気な雰囲気でもない。彼女は明確に、何かを探している。それも、自身の半身でも探すかのように、かなり必死な様子で。
やがて、女は通りすがりの土産物屋の店主に、すがるような様子で声をかけていた。
「あの、すみません。このあたりで……黒と白の着流しを着た、背の高い男性を見かけませんでしたか?」
その言葉が耳に届いた瞬間、クチナシの眉がわずかに動いた。
「髪は黒に白が混じっていて、目は空色で……すごく綺麗な方なんです。イッシュから来た人で……あの、ギーマさんっていうんですけど……」
ああ、なるほど。
クチナシは、口には出さずに心の中で深い深いため息をついた。
とんでもなく面倒なものを見つけちまったな、と。
クチナシの脳裏に、数日前の夜、行きつけの薄暗い酒場で散々と聞かされた愚痴——というより、見苦しいほどの未練の数々が蘇る。
イッシュ地方に置いてきたという、たった一人の女。フランという名の、勝負の世界の裏も表も知らないまま、何も偽らずにあの捻くれた男に真っ直ぐに向き合ってくれたという純粋な女。
ギーマが愛して、欲しがって、誰の目にも触れさせたくないほど独占したがっていたのに、すべてを失った自身の惨めな姿を見せたくないというくだらない男の意地だけで、無惨にも切り捨てて置いてきた女。毎晩のようにグラスを見つめながらその名を呼び、彼女が他の男に向かって笑っている姿を想像しただけで吐き気がするとまで言い放った女。
その女が今、海を越え、こんなアローラの片隅までやってきて、目の前に立っている。
クチナシは、建物の陰からもう一度、値踏みするように彼女を観察した。
確かに、ギーマが酒に酔うたびに語っていた通りの女だった。嘘などつけそうもない、感情がすべて顔に出てしまう素直な作り。疲労困憊で、幾夜も泣き腫らしたであろう痕跡が目元に残っているというのに、それでも決して諦めようとしない頑固な足取り。
心配そうに見上げるグラエナに「大丈夫だよ」と笑いかける声は微かに震えていたが、その瞳は過去への後悔ではなく、ただ前だけをしっかりと見据えていた。
あのすべてを斜めから見て生きてきたような勝負師を、ここまで骨抜きにし、理性を狂わせた女。実物をこの目で見れば、その理由が少しだけ分かる気がした。
「……おい、ねえちゃん」
これ以上放っておくわけにもいかず、クチナシは建物の壁から背を離し、気だるげな足取りで声をかけた。
女がビクッと肩を跳ねさせて振り返る。それと同時に、グラエナが低く喉を鳴らしてすぐに彼女の前に立ちはだかった。クチナシと彼女の間に割って入る、警戒心の強い、じつにいい動きだった。
「え……?」
「人探しか」
女は相手が素性の知れない中年の男であっても、一縷の望みにすがるように少し緊張した面持ちで背筋を伸ばした。
「あ、はい。すみません、もしかして何かご存じですか?」
「その前に」
クチナシはだらりと肩の力を抜き、気だるげな視線を彼女に向ける。
「イッシュから来たのか」
女の瞳が、驚きに大きく揺れた。
「はい……!」
声が、ほんの少しだけ明るい響きを帯びる。この得体の知れない男が、何か決定的な手がかりを掴んでいるかもしれない。そんな淡い期待が、あまりにも分かりやすいほど顔全体に広がっていた。
「イッシュリーグでスタッフをしていました。フランといいます」
決まりだ。
クチナシは心の中で、本日二度目となる深いため息をついた。
本当に、ひどくめんどくせえことになった。だが、ここまでまっすぐな目で見つめられて、何も知らないふりをして放り出すには、大人として少しばかり後味が悪すぎる。
「あんたがフランか」
「……え?」
自身の名を呼ばれ、フランの目が限界まで大きく見開かれた。
「どうして、あたしの名前を……」
「あー」
クチナシは後頭部をガリガリと掻いた。言い方を間違えた。遠回しに探りを入れるつもりが、つい核心を突いてしまった。このまま直接「お前の男なら夜な夜な酒場で管を巻いてるぞ」とでも言えば、すぐにでも胸倉を掴まんばかりの勢いで詰め寄られそうな顔をしている。それはそれでひどく面倒だ。
「まあ、ちょっとな。イッシュから来た変わった男が、酒場でその名前をぼそぼそ零してたのを聞いたことがある」
その言葉を聞いた瞬間、フランの顔から一瞬にして血の気が引いていくのが分かった。
「ギーマさんが……?」
「名前は言ってねえ」
「でも……!」
フランは堪えきれなくなったように一歩前に踏み出した。グラエナも彼女の動きに合わせて前進し、警戒を解かないままクチナシを見上げている。
「その人、ギーマさんなんですよね? 黒と白の服で、勝負師みたいな話し方をして、イッシュから来た人で……!」
「落ち着け」
クチナシは面倒くさそうに片手をヒラリと上げ、彼女の勢いを制した。
「ここで倒れられても困る」
「す、すみません……」
ハッとしたように、フランは慌てて深く頭を下げた。だが、顔を上げた彼女の目は決してクチナシから視線を逸らさない。
必死だった。その隠しきれない必死さが、ひどく面倒で、少し痛々しくて、そして妙に真っ直ぐで眩しかった。
クチナシの脳裏に、またしてもあの夜のギーマの顔が浮かび上がる。
『会いたい。彼女に会いたい。もう一度、フランの声が聞きたい』
酒の力を借りて、あれほどまでに情けない未練を垂れ流していた男が。この女がすべてを投げ打ってここまで自分を追ってきたと知ったら、果たしてどんな間抜けな顔をするのか。見ものではある。
ただ、クチナシが安易に居場所をピンポイントで教え、感動の再会を演出してやる義理などどこにもない。他人の色恋沙汰の世話まで焼くほど、暇な警察官ではないのだ。
だが。逃げたままの男に勝ちはない、と酒場で彼を突き放したのは自分だ。ならば、その勝負のテーブルに彼を再び引きずり戻すための札を、一枚くらいこの女に渡してやってもいいかもしれない。
「ねえちゃん」
「はい」
「あんた、そいつに会ってどうする」
クチナシの問いに、フランは息を呑み、すぐには答えなかった。ただ、胸元で抱えていた荷物の紐を、指の関節が白くなるほどぎゅっと力強く握りしめる。
「……怒ります」
沈黙の末に、彼女の口から最初に出てきた言葉は、それだった。
クチナシは意外に思い、片眉をわずかに釣り上げる。
「怒るのか」
「はい」
フランの声は微かに震えていた。けれど、その瞳に宿る意志に迷いは一切なかった。
「何も言わずにいなくなったこと。あたしを置いて行ったこと。勝手に、あたしの幸せを決めたこと。全部、ちゃんと怒ります」
「……」
「それから、謝ります」
「なんであんたが謝る」
「分からなかったからです」
フランは悔しそうに顔を伏せた。
「ギーマさんがそこまで追い詰められてたこと。あたしが隣にいたのに、何も気づけなかったこと……それは、あたしも悔しいから」
「そいつは、あんたのせいじゃねえだろ」
あまりにも理不尽な自責の念に、クチナシは思わず口を挟んでいた。フランが弾かれたように顔を上げる。
「そう、言われました。カトレアさんにも、シキミさんにも」
「なら聞いとけ」
「でも、悔しいものは悔しいんです」
射抜くような、まっすぐな目だった。
ああ、なるほど。クチナシは内心で一人ごちた。ギーマが何も言わずに逃げ出した理由が、今ならはっきりと分かる。
この女は、たぶんすべてを受け止めてしまうのだ。相手の惨めさも、隠しておきたい弱さも、這いずり回るような泥の汚れも、自分が汚れることなど一切構わずに、真正面から抱きしめに行ってしまう。ギーマの誇り高い勝負師としてのプライドが、それを受け入れることを恐れたのも無理はない。だからといって、愛する女を置いて逃げ出していい理由にはならないが。
「それで」
クチナシは再び問う。
「怒って、謝って、その後は?」
フランの瞳が揺れた。けれど、彼女は決してその問いから逃げなかった。
「……好きだって言います」
声は小さかった。だが、その響きは確かな熱を帯びていた。
「四天王じゃなくても、財産がなくても、負けてしまっても……何もかも無くなってしまったとしても。ギーマさんの全てがあたしは好きですって。あたしは、ギーマさんの隣にいたいですって……ちゃんと言います」
その淀みない言葉を聞いた瞬間、クチナシはこらえきれずに口元をわずかに歪めた。
あの面倒くさい勝負師に、今すぐこの言葉を聞かせてやりたい。男としての資格だの、彼女を守る役割だの、美しい鳥籠だの、果ては泥沼だのと言葉をこねくり回し、酒場で延々と自己完結していたあの愚かな男に。「お前が勝手に物事を難しくしているだけだ」と、もう一度言ってやりたい衝動に駆られた。
この女は、最初から揺るぎない答えを持っているのだから。
「……そうかよ」
クチナシは短く、吐き捨てるように言った。
「なら、探せばいい」
「探しています。でも、なかなか手がかりがなくて……」
フランはもどかしそうに唇を噛んだ。
「アローラにいるってところまでは分かったんです。海沿いで見た人がいるって。黒と白の服を着た、イッシュ訛りの綺麗な人がいたって。……でも、それ以上が……」
「あいつ、目立つからな」
「……あいつ?」
「いや」
クチナシはわざとらしく視線を明後日の方向へ逸らした。危ない、つい口が滑って旧知の仲のような言い方をしてしまった。フランはしっかりとその一言を聞き逃していなかったようで、ジトッとした目でこちらを観察してくる。本当に、感情の動きが分かりやすい顔をする女だ。疑念、期待、不安。そのすべてがパズルのように顔に表れている。
クチナシは首の後ろをさすりながら、面倒くさそうに息を吐き出した。
「直接居場所を教えてやるほど、おれは親切じゃねえ」
フランの顔が、あからさまに少し曇る。
「……そう、ですか」
「だが」
クチナシはポケットに両手を突っ込み、マリエシティのずっと先、潮風が吹き抜ける海側へと視線を向けた。
「夜になると、海沿いの古い酒場に変わった男が来ることがある」
フランの表情が、ぱっと花が咲いたように変わる。
「酒場……?」
「アローラの夜景なんざ少しも楽しんでねえ死んだ顔で、安くもねえ酒を飲んで、ただ海を見て、やたら勝負だの負けだのぐだぐだ言う男だ」
フランの瞳が、希望に大きく揺れた。
「……」
「黒と白の着流し。髪は黒に白が混じってる。目は……まあ、あんたが探してる男に似てるんじゃねえの」
「ギーマさん……」
彼女の唇が、まるで世界で最も愛しい宝物の名を呼ぶように、その名を優しく形作った。それを見ただけで、あの男が酒場で語っていた愛の言葉が決して嘘ではなかったということが嫌でも分かる。フランは本当に、ギーマという男のすべてを深く愛しているのだ。
「その人は……その酒場に、いつもいるんですか?」
「いつもじゃねえ」
「じゃあ、どこに……」
「月が明るい夜は、海沿いを歩いてることが多い」
クチナシは、あくまで独り言を装って、ぼそりと情報を落とした。
「マリエから少し外れた方だ。人の少ない道。波の音ばかりする場所」
フランは一言も聞き逃すまいと必死に耳を傾けていた。今すぐにでもその場所へ向かって走り出しそうな勢いだった。だが、クチナシはそこで少しだけ声を低くし、釘を刺すように言った。
「ただし」
「はい」
「会ったら、ちゃんと本人から聞け」
駆け出そうとしていたフランの動きがピタリと止まる。
「あいつが何を失って、何から逃げて、何を怖がってんのか。おれから聞いた半端な話で決めつけるな。あいつの口から直接吐かせろ」
「……」
「面倒くせえ男だぞ」
クチナシの忠告に対し、フランは泣き出しそうなのを堪えるように、小さく笑った。
「知ってます」
「重いぞ」
「それも、たぶん知ってます」
「格好つけだ」
「はい」
「意地も張る」
「はい」
「自分で勝手に抱え込んで、勝手に人の幸せを決める」
フランの大きな瞳に、ついに涙の膜が張った。それでも、彼女は真っ直ぐにクチナシを見て笑った。
「それは、今度ちゃんと怒ります」
そのあまりにも潔い返答に、クチナシは思わず鼻で笑ってしまった。
「そうしろ」
緊張が解けたのか、グラエナがフランの足元でパタパタと尻尾を振った。ブラッキーはじっとクチナシの目を見つめていた。まるで、「これ以上、主の邪魔をするような余計な真似はするな」と無言の圧をかけているような顔だ。本当に、主思いのいい手持ちだ。クチナシは感心するようにそう思った。
「ねえちゃん」
「はい」
「宿は取ってんのか」
「あ……はい。マリエの小さな宿に」
「今日は焦って走り回るな。倒れるぞ」
「でも……」
「でもじゃねえ」
クチナシはわざと面倒くさげな口調を強調して言った。
「そんなボロボロの顔で会いに行ったら、あいつ、また余計な罪悪感こじらせて逃げるぞ」
フランははっとしたように、慌てて自分の頬に手を当てた。幾夜も泣き腫らし、長旅の疲労が蓄積し、埃まみれの今の自分の姿。それでも彼女の目は十分に美しかったが、確かに今、このボロボロの状態で会いに行けば、あの神経質な勝負師は「自分が彼女をこんな目に遭わせた」と再び殻に閉じこもるかもしれない。
そう悟ったのか、フランはひどく悔しそうに唇を噛んだ。
「……分かりました。今日はちゃんと休みます」
「飯も食え」
「はい」
「ポケモンも休ませろ」
「はい」
「で、明日の夜にでも海沿いを歩いてみな」
クチナシは横目で彼女を盗み見る。
「運がよけりゃ、探してる勝負師に会えるかもしれねえ」
フランは、クチナシに向かって深々と、心からの感謝を込めて頭を下げた。
「ありがとうございます……!」
「礼を言われるほどのことはしてねえよ」
「でも、ありがとうございます」
頭を上げたフランの瞳には、先ほどまでの疲労感を上回る、はっきりとした希望の光が宿っていた。
「あなたのお名前を聞いてもいいですか?」
「クチナシ」
「クチナシさん……」
フランはその名を、恩人の名として脳裏に刻み込むように大切そうに繰り返した。
「本当に、ありがとうございます」
「礼はいい。あいつに会ったら」
クチナシは少しだけ意地悪な間を置いた。
「一発くらい殴ってもいいんじゃねえの」
フランは驚いたように目を丸くし、それから本当に困ったようにふわりと笑った。
「殴りません」
「甘いな」
「でも、怒ります」
「ならいい」
フランはもう一度丁寧にお辞儀をすると、グラエナとブラッキーを従えて、石畳の道を歩き出した。宿へ向かって体勢を立て直すのだろう。足取りにはまだ疲労が見え隠れしているが、クチナシが声をかけた時よりも、その背筋はずっと真っ直ぐに伸びていた。
クチナシはその小さな背中が人混みに紛れて見えなくなるまで、静かに見送った。
華奢で小さな背中だ。だが、その内にある芯は恐ろしいほどに強い。あのプライドの塊のような勝負師が、彼女のことを「眩しい」だの「人生の救い」だのと大仰に言っていた理由が、今ならはっきりと理解できた。
「……まったく」
クチナシは再び後頭部をガリガリと掻き回した。
「おれは何をやってんだか」
他人の色恋沙汰の面倒まで見る気はない。先ほど心の中でそう固く誓ったばかりだ。誓ったはずなのに、結局ヒントという名の誘導を出してしまった。
まあ、直接居場所を教えたわけではない。海沿いにいるかもしれない変わった男の話をしただけだ。そう自分に都合のいい言い訳をして、クチナシは交番のある反対方向へと歩き出した。
だが、数歩進んでから、ふと足を止める。
夜になったら、あの未練たらしい勝負師はきっとまた酒場に顔を出すだろう。その時、少しだけ彼に釘を刺しておいてやるのも悪くないかもしれない。
フランがはるばるアローラまで来たとは、決して言わない。それは彼女が自分自身の足で彼に辿り着くべき札だからだ。
ただ。
『逃げたままの男に、勝ちはねえ』
酒場で浴びせたあの言葉を、もう一度くらい、あの意地っ張りにぶつけてやってもいい。
***
その日の夜。
クチナシがいつもの薄暗い海沿いの酒場へ顔を出すと、案の定、見慣れたシルエットがそこにあった。
海の見える片隅の席。周囲の喧騒から切り離されたようなその空間で、黒と白の着流し姿の男は、グラスに注がれた琥珀色の液体の水面をただ虚ろな目で眺めている。どんなに落ちぶれても相変わらず絵になる男だが、纏っている空気は相変わらずひどく陰気だった。
「よう」
クチナシが気だるげに声をかけると、ギーマはゆっくりと顔を上げた。
「クチナシ」
「まだ自分の負けを数えてんのか」
「手厳しい挨拶だね」
「事実だろ」
クチナシは無遠慮にギーマの向かいの席に腰を下ろした。
しばらくの間、波の音と遠くの客の笑い声だけが二人の間を埋める沈黙が落ちた。ギーマは口を開きかけては何かを飲み込むようにして、結局黙ったままグラスを傾けるだけだった。
クチナシは、そんな彼の憔悴した顔をじっと観察した。
この男は、何も知らない。今日、自身が置いてきた女が海を渡り、必死の形相で自分を探してこの街を歩き回っていたことを。泣き腫らした目で、それでも自分を怒ると決めていたことを。すべてを失ったお前でも、それでも好きだと言いに来たことを。
もし今、ここでその事実を突きつければ、ギーマは果たしてどんな顔をするだろうか。焦燥に駆られるだろうか。罪悪感からさらに遠くへ逃げ出そうとするだろうか。それとも、ようやくその重い腰を上げて立ち上がるだろうか。
だが、クチナシは黙秘を貫いた。代わりに、店主から受け取ったグラスを傾けながら、ぼそりと切り出した。
「お前さん、明日の夜も海沿い歩くのか」
「……どうしたんだい、急に」
「別に」
「何かあったのかな」
妙なところで勝負師の勘が働くらしい。クチナシは表情に出さないよう内心で舌打ちをした。
「月が明るそうだからな。歩くには悪くねえだろ」
「きみがそんな風流なことを言うとは珍しい」
「うるせえ」
クチナシの悪態に、ギーマは少しだけ口角を上げて笑った。どん底に沈んでいた以前に比べれば、ほんのわずかだが生気が戻ってきているような気もした。
クチナシは酒を喉の奥に流し込み、極めて何気ない、ただの世間話を装った口調で言った。
「たまには逃げるためじゃなく、会うために歩いたらどうだ」
グラスを口に運ぼうとしていたギーマの手が、ピタリと空中で止まった。
「……」
「海沿いなんて、逃げるにも探すにも都合のいい道だ。誰がどこから来るか分かんねえしな」
「クチナシ」
ギーマの声が、一段と低く、鋭利な響きを帯びる。
「何か知っているのかい」
「さあな」
クチナシはとぼけるように視線を逸らした。
「おれは何も知らねえよ。ただ、いい女を置いて逃げた面倒くさい男が、いつまでここでうじうじしてんのかと思っただけだ」
ギーマは探るような鋭い視線で、クチナシの顔をじっと見つめていた。だが、それ以上問い詰めてくることはなかった。おそらく、勝負師としての直感で何らかの異常を感じ取ってはいるのだろう。それでも、まだ完全な確信には至っていない。
それでいい。勝負師を名乗るなら、最後のカードは自分で引け。自分で気づき、自分で歩き出して会いに行け。
「……明日の夜」
やがて、ギーマが静寂の中に溶けるような声で呟いた。
「海沿いを歩いてみるよ」
「そうしろ」
「何かが起こるかな」
「知らねえ」
クチナシは空になったグラスをテーブルにコトリと置いた。
「ただ、逃げたままの男に勝ちはねえってだけだ」
ギーマは静かに目を伏せた。そして、自嘲するようにかすかに笑みを零す。
「本当に、手厳しいね」
「優しくねえって言ったろ」
「ああ」
ギーマは再び、窓の外に広がる真っ暗な夜の海へと視線を向けた。その伏せられた横顔には、自分の選択に対する不安や、彼女を傷つけたことへの深い後悔がいまだに張り付いている。だが、それはもう以前のような完全な諦めの表情ではなかった。
クチナシはそれを見届け、心の中で小さく安堵の息を吐き出した。
本当に、面倒な二人だ。片方はすべてを失って逃げ出した先で未練を垂れ流し、もう片方は自分の何もかもを捨てて海を越えて探しに来る。どちらも、相手を諦める気など心の奥底では欠片も持ち合わせていないのだ。
ならば、この勝負の結果はカードをめくるまでもなく既に見えているようなものだ。あとは、二人が明日の夜、ちゃんと同じ盤面の上に立つことができるかどうか。それだけだ。
クチナシは立ち上がり、ポケットに手を入れた。
「帰るのかい?」
「ああ。他人の惚れた女の話を延々聞かされるのは、もうしばらく十分だ」
「今日はまだ話していないんだが」
「顔に出てんだよ」
ギーマは意表を突かれたように少しだけ目を丸くし、それからどうしようもないというように苦笑した。
「わたしも、随分分かりやすくなったものだね」
「その女のせいだろ」
「……そうだね」
ギーマの口から紡がれた肯定の声は、彼自身も驚くほど優しく、ひどく柔らかく甘い響きを持っていた。
クチナシは背を向けて歩き出しながら、肩越しに言い捨てた。
「明日、海沿い歩けよ」
「分かったよ」
「逃げるためじゃなくな」
「……ああ」
その確かな返事だけを背中で受け取り、クチナシは酒場の古びた扉を押し開けた。
外に出ると、アローラの生ぬるい夜風が湿った潮の匂いを運んできた。見上げれば、雲の切れ間から明るい月が顔を覗かせている。明日の夜も、きっと海はよく見えるだろう。
その月明かりに照らされた海沿いの道で、あの諦めの悪い女と、厄介な勝負師が出会うかどうか。
それはクチナシには分からない。分からないが、たぶん会う。警察官としての勘か、あるいはただの願望か、そういう気がしてならなかった。
勝負師の勘というやつは、時に残酷なほど正確に己の破滅を告げるらしい。だが、たまには。どうしようもなく面倒で不器用な二人の再会くらい、導いてやることもあるのかもしれない。
「……ま、せいぜいこっぴどく怒られてこいよ」
誰に聞かせるでもなく夜空に向かって呟き、クチナシはマリエシティの静寂の中を歩き出した。
遠ざかる背中の後ろでは、寄せては返す波の音だけが、永遠のように静かに続いていた。
だが、だからといって、興味のない相手の名前や顔まで律儀に脳内のファイルに記憶しておくほど、クチナシという男はまめな性格をしていない。
だからこそ、真っ昼間の往来でその女を見かけた時も、最初はただの熱心な観光客が迷い込んだだけだろうと高を括っていた。
ウラウラ島、マリエシティ。
アローラ地方の中でもジョウト地方の風情を色濃く残し、少し落ち着いた和の街並みが広がる通りの中を、彼女は場違いなほど必死な形相で歩いていた。
長旅のせいだろう、その顔にははっきりと疲労の色が滲んでいる。けれど、周囲を見渡す瞳だけは妙に強い光を宿していた。
そして何より目を引いたのは、その足元に一匹のグラエナがピタリと寄り添い、少し離れた死角をカバーするような位置にブラッキーが控えていることだった。どちらのポケモンも、ただの連れ歩きというような呑気なものではない。明確に彼女を外敵から守るように、周囲への警戒を怠らずに寄り添っていた。
「……」
クチナシは建物の陰に背中を預けたまま、その女の様子をぼんやりと眺めた。
観光客にしては、一歩一歩の足取りが重すぎる。かといって、道に迷って途方に暮れている迷子というほど呑気な雰囲気でもない。彼女は明確に、何かを探している。それも、自身の半身でも探すかのように、かなり必死な様子で。
やがて、女は通りすがりの土産物屋の店主に、すがるような様子で声をかけていた。
「あの、すみません。このあたりで……黒と白の着流しを着た、背の高い男性を見かけませんでしたか?」
その言葉が耳に届いた瞬間、クチナシの眉がわずかに動いた。
「髪は黒に白が混じっていて、目は空色で……すごく綺麗な方なんです。イッシュから来た人で……あの、ギーマさんっていうんですけど……」
ああ、なるほど。
クチナシは、口には出さずに心の中で深い深いため息をついた。
とんでもなく面倒なものを見つけちまったな、と。
クチナシの脳裏に、数日前の夜、行きつけの薄暗い酒場で散々と聞かされた愚痴——というより、見苦しいほどの未練の数々が蘇る。
イッシュ地方に置いてきたという、たった一人の女。フランという名の、勝負の世界の裏も表も知らないまま、何も偽らずにあの捻くれた男に真っ直ぐに向き合ってくれたという純粋な女。
ギーマが愛して、欲しがって、誰の目にも触れさせたくないほど独占したがっていたのに、すべてを失った自身の惨めな姿を見せたくないというくだらない男の意地だけで、無惨にも切り捨てて置いてきた女。毎晩のようにグラスを見つめながらその名を呼び、彼女が他の男に向かって笑っている姿を想像しただけで吐き気がするとまで言い放った女。
その女が今、海を越え、こんなアローラの片隅までやってきて、目の前に立っている。
クチナシは、建物の陰からもう一度、値踏みするように彼女を観察した。
確かに、ギーマが酒に酔うたびに語っていた通りの女だった。嘘などつけそうもない、感情がすべて顔に出てしまう素直な作り。疲労困憊で、幾夜も泣き腫らしたであろう痕跡が目元に残っているというのに、それでも決して諦めようとしない頑固な足取り。
心配そうに見上げるグラエナに「大丈夫だよ」と笑いかける声は微かに震えていたが、その瞳は過去への後悔ではなく、ただ前だけをしっかりと見据えていた。
あのすべてを斜めから見て生きてきたような勝負師を、ここまで骨抜きにし、理性を狂わせた女。実物をこの目で見れば、その理由が少しだけ分かる気がした。
「……おい、ねえちゃん」
これ以上放っておくわけにもいかず、クチナシは建物の壁から背を離し、気だるげな足取りで声をかけた。
女がビクッと肩を跳ねさせて振り返る。それと同時に、グラエナが低く喉を鳴らしてすぐに彼女の前に立ちはだかった。クチナシと彼女の間に割って入る、警戒心の強い、じつにいい動きだった。
「え……?」
「人探しか」
女は相手が素性の知れない中年の男であっても、一縷の望みにすがるように少し緊張した面持ちで背筋を伸ばした。
「あ、はい。すみません、もしかして何かご存じですか?」
「その前に」
クチナシはだらりと肩の力を抜き、気だるげな視線を彼女に向ける。
「イッシュから来たのか」
女の瞳が、驚きに大きく揺れた。
「はい……!」
声が、ほんの少しだけ明るい響きを帯びる。この得体の知れない男が、何か決定的な手がかりを掴んでいるかもしれない。そんな淡い期待が、あまりにも分かりやすいほど顔全体に広がっていた。
「イッシュリーグでスタッフをしていました。フランといいます」
決まりだ。
クチナシは心の中で、本日二度目となる深いため息をついた。
本当に、ひどくめんどくせえことになった。だが、ここまでまっすぐな目で見つめられて、何も知らないふりをして放り出すには、大人として少しばかり後味が悪すぎる。
「あんたがフランか」
「……え?」
自身の名を呼ばれ、フランの目が限界まで大きく見開かれた。
「どうして、あたしの名前を……」
「あー」
クチナシは後頭部をガリガリと掻いた。言い方を間違えた。遠回しに探りを入れるつもりが、つい核心を突いてしまった。このまま直接「お前の男なら夜な夜な酒場で管を巻いてるぞ」とでも言えば、すぐにでも胸倉を掴まんばかりの勢いで詰め寄られそうな顔をしている。それはそれでひどく面倒だ。
「まあ、ちょっとな。イッシュから来た変わった男が、酒場でその名前をぼそぼそ零してたのを聞いたことがある」
その言葉を聞いた瞬間、フランの顔から一瞬にして血の気が引いていくのが分かった。
「ギーマさんが……?」
「名前は言ってねえ」
「でも……!」
フランは堪えきれなくなったように一歩前に踏み出した。グラエナも彼女の動きに合わせて前進し、警戒を解かないままクチナシを見上げている。
「その人、ギーマさんなんですよね? 黒と白の服で、勝負師みたいな話し方をして、イッシュから来た人で……!」
「落ち着け」
クチナシは面倒くさそうに片手をヒラリと上げ、彼女の勢いを制した。
「ここで倒れられても困る」
「す、すみません……」
ハッとしたように、フランは慌てて深く頭を下げた。だが、顔を上げた彼女の目は決してクチナシから視線を逸らさない。
必死だった。その隠しきれない必死さが、ひどく面倒で、少し痛々しくて、そして妙に真っ直ぐで眩しかった。
クチナシの脳裏に、またしてもあの夜のギーマの顔が浮かび上がる。
『会いたい。彼女に会いたい。もう一度、フランの声が聞きたい』
酒の力を借りて、あれほどまでに情けない未練を垂れ流していた男が。この女がすべてを投げ打ってここまで自分を追ってきたと知ったら、果たしてどんな間抜けな顔をするのか。見ものではある。
ただ、クチナシが安易に居場所をピンポイントで教え、感動の再会を演出してやる義理などどこにもない。他人の色恋沙汰の世話まで焼くほど、暇な警察官ではないのだ。
だが。逃げたままの男に勝ちはない、と酒場で彼を突き放したのは自分だ。ならば、その勝負のテーブルに彼を再び引きずり戻すための札を、一枚くらいこの女に渡してやってもいいかもしれない。
「ねえちゃん」
「はい」
「あんた、そいつに会ってどうする」
クチナシの問いに、フランは息を呑み、すぐには答えなかった。ただ、胸元で抱えていた荷物の紐を、指の関節が白くなるほどぎゅっと力強く握りしめる。
「……怒ります」
沈黙の末に、彼女の口から最初に出てきた言葉は、それだった。
クチナシは意外に思い、片眉をわずかに釣り上げる。
「怒るのか」
「はい」
フランの声は微かに震えていた。けれど、その瞳に宿る意志に迷いは一切なかった。
「何も言わずにいなくなったこと。あたしを置いて行ったこと。勝手に、あたしの幸せを決めたこと。全部、ちゃんと怒ります」
「……」
「それから、謝ります」
「なんであんたが謝る」
「分からなかったからです」
フランは悔しそうに顔を伏せた。
「ギーマさんがそこまで追い詰められてたこと。あたしが隣にいたのに、何も気づけなかったこと……それは、あたしも悔しいから」
「そいつは、あんたのせいじゃねえだろ」
あまりにも理不尽な自責の念に、クチナシは思わず口を挟んでいた。フランが弾かれたように顔を上げる。
「そう、言われました。カトレアさんにも、シキミさんにも」
「なら聞いとけ」
「でも、悔しいものは悔しいんです」
射抜くような、まっすぐな目だった。
ああ、なるほど。クチナシは内心で一人ごちた。ギーマが何も言わずに逃げ出した理由が、今ならはっきりと分かる。
この女は、たぶんすべてを受け止めてしまうのだ。相手の惨めさも、隠しておきたい弱さも、這いずり回るような泥の汚れも、自分が汚れることなど一切構わずに、真正面から抱きしめに行ってしまう。ギーマの誇り高い勝負師としてのプライドが、それを受け入れることを恐れたのも無理はない。だからといって、愛する女を置いて逃げ出していい理由にはならないが。
「それで」
クチナシは再び問う。
「怒って、謝って、その後は?」
フランの瞳が揺れた。けれど、彼女は決してその問いから逃げなかった。
「……好きだって言います」
声は小さかった。だが、その響きは確かな熱を帯びていた。
「四天王じゃなくても、財産がなくても、負けてしまっても……何もかも無くなってしまったとしても。ギーマさんの全てがあたしは好きですって。あたしは、ギーマさんの隣にいたいですって……ちゃんと言います」
その淀みない言葉を聞いた瞬間、クチナシはこらえきれずに口元をわずかに歪めた。
あの面倒くさい勝負師に、今すぐこの言葉を聞かせてやりたい。男としての資格だの、彼女を守る役割だの、美しい鳥籠だの、果ては泥沼だのと言葉をこねくり回し、酒場で延々と自己完結していたあの愚かな男に。「お前が勝手に物事を難しくしているだけだ」と、もう一度言ってやりたい衝動に駆られた。
この女は、最初から揺るぎない答えを持っているのだから。
「……そうかよ」
クチナシは短く、吐き捨てるように言った。
「なら、探せばいい」
「探しています。でも、なかなか手がかりがなくて……」
フランはもどかしそうに唇を噛んだ。
「アローラにいるってところまでは分かったんです。海沿いで見た人がいるって。黒と白の服を着た、イッシュ訛りの綺麗な人がいたって。……でも、それ以上が……」
「あいつ、目立つからな」
「……あいつ?」
「いや」
クチナシはわざとらしく視線を明後日の方向へ逸らした。危ない、つい口が滑って旧知の仲のような言い方をしてしまった。フランはしっかりとその一言を聞き逃していなかったようで、ジトッとした目でこちらを観察してくる。本当に、感情の動きが分かりやすい顔をする女だ。疑念、期待、不安。そのすべてがパズルのように顔に表れている。
クチナシは首の後ろをさすりながら、面倒くさそうに息を吐き出した。
「直接居場所を教えてやるほど、おれは親切じゃねえ」
フランの顔が、あからさまに少し曇る。
「……そう、ですか」
「だが」
クチナシはポケットに両手を突っ込み、マリエシティのずっと先、潮風が吹き抜ける海側へと視線を向けた。
「夜になると、海沿いの古い酒場に変わった男が来ることがある」
フランの表情が、ぱっと花が咲いたように変わる。
「酒場……?」
「アローラの夜景なんざ少しも楽しんでねえ死んだ顔で、安くもねえ酒を飲んで、ただ海を見て、やたら勝負だの負けだのぐだぐだ言う男だ」
フランの瞳が、希望に大きく揺れた。
「……」
「黒と白の着流し。髪は黒に白が混じってる。目は……まあ、あんたが探してる男に似てるんじゃねえの」
「ギーマさん……」
彼女の唇が、まるで世界で最も愛しい宝物の名を呼ぶように、その名を優しく形作った。それを見ただけで、あの男が酒場で語っていた愛の言葉が決して嘘ではなかったということが嫌でも分かる。フランは本当に、ギーマという男のすべてを深く愛しているのだ。
「その人は……その酒場に、いつもいるんですか?」
「いつもじゃねえ」
「じゃあ、どこに……」
「月が明るい夜は、海沿いを歩いてることが多い」
クチナシは、あくまで独り言を装って、ぼそりと情報を落とした。
「マリエから少し外れた方だ。人の少ない道。波の音ばかりする場所」
フランは一言も聞き逃すまいと必死に耳を傾けていた。今すぐにでもその場所へ向かって走り出しそうな勢いだった。だが、クチナシはそこで少しだけ声を低くし、釘を刺すように言った。
「ただし」
「はい」
「会ったら、ちゃんと本人から聞け」
駆け出そうとしていたフランの動きがピタリと止まる。
「あいつが何を失って、何から逃げて、何を怖がってんのか。おれから聞いた半端な話で決めつけるな。あいつの口から直接吐かせろ」
「……」
「面倒くせえ男だぞ」
クチナシの忠告に対し、フランは泣き出しそうなのを堪えるように、小さく笑った。
「知ってます」
「重いぞ」
「それも、たぶん知ってます」
「格好つけだ」
「はい」
「意地も張る」
「はい」
「自分で勝手に抱え込んで、勝手に人の幸せを決める」
フランの大きな瞳に、ついに涙の膜が張った。それでも、彼女は真っ直ぐにクチナシを見て笑った。
「それは、今度ちゃんと怒ります」
そのあまりにも潔い返答に、クチナシは思わず鼻で笑ってしまった。
「そうしろ」
緊張が解けたのか、グラエナがフランの足元でパタパタと尻尾を振った。ブラッキーはじっとクチナシの目を見つめていた。まるで、「これ以上、主の邪魔をするような余計な真似はするな」と無言の圧をかけているような顔だ。本当に、主思いのいい手持ちだ。クチナシは感心するようにそう思った。
「ねえちゃん」
「はい」
「宿は取ってんのか」
「あ……はい。マリエの小さな宿に」
「今日は焦って走り回るな。倒れるぞ」
「でも……」
「でもじゃねえ」
クチナシはわざと面倒くさげな口調を強調して言った。
「そんなボロボロの顔で会いに行ったら、あいつ、また余計な罪悪感こじらせて逃げるぞ」
フランははっとしたように、慌てて自分の頬に手を当てた。幾夜も泣き腫らし、長旅の疲労が蓄積し、埃まみれの今の自分の姿。それでも彼女の目は十分に美しかったが、確かに今、このボロボロの状態で会いに行けば、あの神経質な勝負師は「自分が彼女をこんな目に遭わせた」と再び殻に閉じこもるかもしれない。
そう悟ったのか、フランはひどく悔しそうに唇を噛んだ。
「……分かりました。今日はちゃんと休みます」
「飯も食え」
「はい」
「ポケモンも休ませろ」
「はい」
「で、明日の夜にでも海沿いを歩いてみな」
クチナシは横目で彼女を盗み見る。
「運がよけりゃ、探してる勝負師に会えるかもしれねえ」
フランは、クチナシに向かって深々と、心からの感謝を込めて頭を下げた。
「ありがとうございます……!」
「礼を言われるほどのことはしてねえよ」
「でも、ありがとうございます」
頭を上げたフランの瞳には、先ほどまでの疲労感を上回る、はっきりとした希望の光が宿っていた。
「あなたのお名前を聞いてもいいですか?」
「クチナシ」
「クチナシさん……」
フランはその名を、恩人の名として脳裏に刻み込むように大切そうに繰り返した。
「本当に、ありがとうございます」
「礼はいい。あいつに会ったら」
クチナシは少しだけ意地悪な間を置いた。
「一発くらい殴ってもいいんじゃねえの」
フランは驚いたように目を丸くし、それから本当に困ったようにふわりと笑った。
「殴りません」
「甘いな」
「でも、怒ります」
「ならいい」
フランはもう一度丁寧にお辞儀をすると、グラエナとブラッキーを従えて、石畳の道を歩き出した。宿へ向かって体勢を立て直すのだろう。足取りにはまだ疲労が見え隠れしているが、クチナシが声をかけた時よりも、その背筋はずっと真っ直ぐに伸びていた。
クチナシはその小さな背中が人混みに紛れて見えなくなるまで、静かに見送った。
華奢で小さな背中だ。だが、その内にある芯は恐ろしいほどに強い。あのプライドの塊のような勝負師が、彼女のことを「眩しい」だの「人生の救い」だのと大仰に言っていた理由が、今ならはっきりと理解できた。
「……まったく」
クチナシは再び後頭部をガリガリと掻き回した。
「おれは何をやってんだか」
他人の色恋沙汰の面倒まで見る気はない。先ほど心の中でそう固く誓ったばかりだ。誓ったはずなのに、結局ヒントという名の誘導を出してしまった。
まあ、直接居場所を教えたわけではない。海沿いにいるかもしれない変わった男の話をしただけだ。そう自分に都合のいい言い訳をして、クチナシは交番のある反対方向へと歩き出した。
だが、数歩進んでから、ふと足を止める。
夜になったら、あの未練たらしい勝負師はきっとまた酒場に顔を出すだろう。その時、少しだけ彼に釘を刺しておいてやるのも悪くないかもしれない。
フランがはるばるアローラまで来たとは、決して言わない。それは彼女が自分自身の足で彼に辿り着くべき札だからだ。
ただ。
『逃げたままの男に、勝ちはねえ』
酒場で浴びせたあの言葉を、もう一度くらい、あの意地っ張りにぶつけてやってもいい。
***
その日の夜。
クチナシがいつもの薄暗い海沿いの酒場へ顔を出すと、案の定、見慣れたシルエットがそこにあった。
海の見える片隅の席。周囲の喧騒から切り離されたようなその空間で、黒と白の着流し姿の男は、グラスに注がれた琥珀色の液体の水面をただ虚ろな目で眺めている。どんなに落ちぶれても相変わらず絵になる男だが、纏っている空気は相変わらずひどく陰気だった。
「よう」
クチナシが気だるげに声をかけると、ギーマはゆっくりと顔を上げた。
「クチナシ」
「まだ自分の負けを数えてんのか」
「手厳しい挨拶だね」
「事実だろ」
クチナシは無遠慮にギーマの向かいの席に腰を下ろした。
しばらくの間、波の音と遠くの客の笑い声だけが二人の間を埋める沈黙が落ちた。ギーマは口を開きかけては何かを飲み込むようにして、結局黙ったままグラスを傾けるだけだった。
クチナシは、そんな彼の憔悴した顔をじっと観察した。
この男は、何も知らない。今日、自身が置いてきた女が海を渡り、必死の形相で自分を探してこの街を歩き回っていたことを。泣き腫らした目で、それでも自分を怒ると決めていたことを。すべてを失ったお前でも、それでも好きだと言いに来たことを。
もし今、ここでその事実を突きつければ、ギーマは果たしてどんな顔をするだろうか。焦燥に駆られるだろうか。罪悪感からさらに遠くへ逃げ出そうとするだろうか。それとも、ようやくその重い腰を上げて立ち上がるだろうか。
だが、クチナシは黙秘を貫いた。代わりに、店主から受け取ったグラスを傾けながら、ぼそりと切り出した。
「お前さん、明日の夜も海沿い歩くのか」
「……どうしたんだい、急に」
「別に」
「何かあったのかな」
妙なところで勝負師の勘が働くらしい。クチナシは表情に出さないよう内心で舌打ちをした。
「月が明るそうだからな。歩くには悪くねえだろ」
「きみがそんな風流なことを言うとは珍しい」
「うるせえ」
クチナシの悪態に、ギーマは少しだけ口角を上げて笑った。どん底に沈んでいた以前に比べれば、ほんのわずかだが生気が戻ってきているような気もした。
クチナシは酒を喉の奥に流し込み、極めて何気ない、ただの世間話を装った口調で言った。
「たまには逃げるためじゃなく、会うために歩いたらどうだ」
グラスを口に運ぼうとしていたギーマの手が、ピタリと空中で止まった。
「……」
「海沿いなんて、逃げるにも探すにも都合のいい道だ。誰がどこから来るか分かんねえしな」
「クチナシ」
ギーマの声が、一段と低く、鋭利な響きを帯びる。
「何か知っているのかい」
「さあな」
クチナシはとぼけるように視線を逸らした。
「おれは何も知らねえよ。ただ、いい女を置いて逃げた面倒くさい男が、いつまでここでうじうじしてんのかと思っただけだ」
ギーマは探るような鋭い視線で、クチナシの顔をじっと見つめていた。だが、それ以上問い詰めてくることはなかった。おそらく、勝負師としての直感で何らかの異常を感じ取ってはいるのだろう。それでも、まだ完全な確信には至っていない。
それでいい。勝負師を名乗るなら、最後のカードは自分で引け。自分で気づき、自分で歩き出して会いに行け。
「……明日の夜」
やがて、ギーマが静寂の中に溶けるような声で呟いた。
「海沿いを歩いてみるよ」
「そうしろ」
「何かが起こるかな」
「知らねえ」
クチナシは空になったグラスをテーブルにコトリと置いた。
「ただ、逃げたままの男に勝ちはねえってだけだ」
ギーマは静かに目を伏せた。そして、自嘲するようにかすかに笑みを零す。
「本当に、手厳しいね」
「優しくねえって言ったろ」
「ああ」
ギーマは再び、窓の外に広がる真っ暗な夜の海へと視線を向けた。その伏せられた横顔には、自分の選択に対する不安や、彼女を傷つけたことへの深い後悔がいまだに張り付いている。だが、それはもう以前のような完全な諦めの表情ではなかった。
クチナシはそれを見届け、心の中で小さく安堵の息を吐き出した。
本当に、面倒な二人だ。片方はすべてを失って逃げ出した先で未練を垂れ流し、もう片方は自分の何もかもを捨てて海を越えて探しに来る。どちらも、相手を諦める気など心の奥底では欠片も持ち合わせていないのだ。
ならば、この勝負の結果はカードをめくるまでもなく既に見えているようなものだ。あとは、二人が明日の夜、ちゃんと同じ盤面の上に立つことができるかどうか。それだけだ。
クチナシは立ち上がり、ポケットに手を入れた。
「帰るのかい?」
「ああ。他人の惚れた女の話を延々聞かされるのは、もうしばらく十分だ」
「今日はまだ話していないんだが」
「顔に出てんだよ」
ギーマは意表を突かれたように少しだけ目を丸くし、それからどうしようもないというように苦笑した。
「わたしも、随分分かりやすくなったものだね」
「その女のせいだろ」
「……そうだね」
ギーマの口から紡がれた肯定の声は、彼自身も驚くほど優しく、ひどく柔らかく甘い響きを持っていた。
クチナシは背を向けて歩き出しながら、肩越しに言い捨てた。
「明日、海沿い歩けよ」
「分かったよ」
「逃げるためじゃなくな」
「……ああ」
その確かな返事だけを背中で受け取り、クチナシは酒場の古びた扉を押し開けた。
外に出ると、アローラの生ぬるい夜風が湿った潮の匂いを運んできた。見上げれば、雲の切れ間から明るい月が顔を覗かせている。明日の夜も、きっと海はよく見えるだろう。
その月明かりに照らされた海沿いの道で、あの諦めの悪い女と、厄介な勝負師が出会うかどうか。
それはクチナシには分からない。分からないが、たぶん会う。警察官としての勘か、あるいはただの願望か、そういう気がしてならなかった。
勝負師の勘というやつは、時に残酷なほど正確に己の破滅を告げるらしい。だが、たまには。どうしようもなく面倒で不器用な二人の再会くらい、導いてやることもあるのかもしれない。
「……ま、せいぜいこっぴどく怒られてこいよ」
誰に聞かせるでもなく夜空に向かって呟き、クチナシはマリエシティの静寂の中を歩き出した。
遠ざかる背中の後ろでは、寄せては返す波の音だけが、永遠のように静かに続いていた。