ギーマ夢主の名前変換
ギーマ(BW)×固定夢主💮
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ギーマがいなくなってからの最初の数日、フランはそれでも必死に働いた。泣き出しそうになる顔を仕事用の笑顔でどうにか覆い隠し、書類を整理しては挑戦者を案内し、四天王たちに必要な資料を届け続けた。
「大丈夫です」
周囲の心配そうな視線に気づくたび、彼女は何度もそう口にした。
「ちゃんと働けます」
そう言って、無理に笑ってみせた。
けれど、控室の重厚な扉を開けるたび、どうしても彼女の目は無意識のうちに特定の場所を探してしまう。ギーマがよく座っていた椅子。彼がティーカップを置いていたテーブルの端。廊下の角。資料室の前。彼に何度も呼び止められ、甘い言葉を囁かれた場所。
そこにはもう、彼はいない。頭ではとうに理解しているはずなのに、心が勝手に彼の面影を探してしまうのだ。
「……ギーマさん」
誰もいない資料室の前で立ち止まり、フランは小さくその名を呼んだ。当然、返事はない。しんとした静寂だけが彼女を包み込む。それが当たり前なのだと分かっているのに、その事実が息が詰まるほど苦しくて、フランは胸元の制服をぎゅっと力強く握りしめた。
泣くのは、もうたくさんだと思った。どれだけ涙を流しても、どれだけこの場所で待ち続けても、彼が戻ってくることはないのだ。
ならば、自分から行くしかない。
ずっと彼を追いかけてきた。テレビの画面越しに彼を見つけ、心を奪われたあの日から。トレーナーとして強くなり、リーグへ辿り着き、彼と戦い、スタッフになって彼の傍で働くようになるまで。ずっと、フランは自分の足で、ギーマのいる場所へ向かってひたむきに歩みを進めてきたのだ。
それなのに、今さらここで待っているだけなんてできるはずがない。
「……あたし、行かなきゃ」
誰もいない廊下にぽつりとこぼれ落ちたその声は、自分でも驚くほどはっきりとした輪郭を持っていた。
「ギーマさんを、探しに行かなきゃ」
それは決して、悲しみに任せた一時的な衝動などではなかった。無謀な思いつきでもない。何日も泣き明かし、何度も迷い、カトレアとシキミという大切な友人たちに支えられながら、それでも最後に彼女の心に確固として残った気持ちだった。
会いたい。どうして何も言わずにいなくなってしまったのか、本当の理由を聞きたい。勝手な真似をしたことを怒りたい。そして、彼に会えなかった寂しさをぶつけて泣きたい。
それでも、やっぱり好きだと伝えたい。すべてを失って、どんな姿に成り果てたギーマであったとしても、あたしはあなたの隣にいたいのだと、今度こそ自分自身の口で真っ直ぐに言いたい。
フランはしっかりと顔を上げた。
その日の勤務を終えた後、彼女は自室のデスクに向かい、一通の退職願を用意した。何度も書き直すうちに、手が震えて文字が涙で滲みそうになった。けれど、最後には一文字一文字に魂を込めるようにして、しっかりと書き切った。
イッシュリーグスタッフとしての自分に一つの区切りをつけ、大好きな人を探しに行くための、たった一つの切符として。
***
翌日。四天王の控室には、カトレア、シキミ、そしてレンブの三人が揃っていた。テーブルを囲む彼らの視線の先には、相変わらず主を失ったギーマの椅子がぽつんと空席のまま置かれている。
フランはその空席へ一度だけ視線を向けてから、深く、ゆっくりと息を吸い込んだ。
「カトレアさん、シキミさん、レンブさん。少し、お時間をいただいてもいいですか」
いつもとは違う、ひどく硬く張り詰めた声。その響きだけで、室内にいた三人は彼女が何を口にしようとしているのかを即座に察した。原稿用紙に向かっていたシキミが顔を上げ、カトレアは音を立てずに紅茶のカップをソーサーに置く。レンブは腕を組んだまま、静寂の中で真っ直ぐにフランを見据えた。
「話しなさい」
カトレアが静かに促すと、フランは背筋を伸ばし、両手で持っていた白い封筒をぎゅっと握りしめてから、深く頭を下げた。
「あたし、イッシュリーグのスタッフを辞めます」
控室に、水を打ったような静寂が落ちた。驚きにシキミが小さく息を呑む音が、ひどく鮮明に響く。
「フランさん……」
「急なことで、ご迷惑をおかけするのは分かっています。引き継ぎ資料も作りました。後任の方が困らないように、受付業務も、四天王のみなさんのスケジュール管理も、できる限りまとめてあります」
震えそうになる声を必死に押さえ込みながら、フランは言葉を紡ぎ続けた。手の中で強く握られた封筒が、くしゃりと微かな音を立てる。
「でも……あたし、もう待っているだけはできません」
顔を上げ、三人の四天王をしっかりと見つめ返す。
「あたし、ギーマさんを探しに行きます」
その真っ直ぐな宣言を聞いた瞬間、シキミの大きな瞳にじわりと涙が浮かんだ。カトレアは何も言わず、ただ静かに、射抜くような視線でフランを見つめている。
フランは泣き出しそうになるのを堪えながらも、決して目を逸らさず、逃げることなく言葉を繋いだ。
「ギーマさんがどうしていなくなったのか、本当のところは分かりません。きっと、ギーマさんなりに考えたことがあったんだと思います。あたしのためだって、思ってくれたのかもしれません」
カトレアの整った眉がわずかに動いたが、彼女は口を挟まなかった。
「でも……あたしは、納得してません」
フランの声が、ついに微かに震えを帯びた。
「何も言わずにいなくなられて、悲しかったです。寂しかったです。どうしてって、何度も思いました。あたしじゃ支えられなかったのかなって、自分を責めました」
その痛切な響きに、シキミがぎゅっと唇を噛む。カトレアの細い指先が、膝の上で静かに、けれど強く握り込まれた。
「でも、カトレアさんとシキミさんが言ってくれました。あたしがギーマさんを好きだったことは、間違いじゃないって。会いたいと思うことも、間違いじゃないって」
フランは溢れそうになる涙を必死に堪えながら、三人に向けて凛とした視線を送った。
「だから、あたし、探しに行きます」
震えていた声に、少しずつ確かな強さが宿っていく。
「ギーマさんに会って、ちゃんと怒ります。勝手にいなくならないでくださいって、言います。あたしを置いていかないでくださいって、言います」
そして、己の心臓を確かめるように胸元に手を当てた。
「それでも、好きですって……ちゃんと伝えます」
その痛いほどに純粋な言葉に、シキミはとうとう堪えきれずに涙をこぼした。
「フランさん……」
「もしギーマさんが、今の自分はあたしにふさわしくないって思っているなら、そんなことないって言います。四天王じゃなくても、何も持っていなくても、ギーマさんがギーマさんなら、あたしは好きなんですって……ちゃんと、本人に言いたいんです」
フランの瞳から、大粒の涙が一粒だけ頬を伝い落ちた。だが、今度の涙は悲しみに崩れ落ちるためのものではない。迷いを断ち切り、前へ進むための決意の涙だった。
「あたし、もう一度、ギーマさんのところまで行きたいです」
控室は再び静けさに包まれた。遠くの廊下から、リーグスタッフが慌ただしく行き交う足音が微かに聞こえてくる。フランがこれまで何度も歩き回り、大好きな人を追いかけてようやく辿り着いた、思い入れのある場所。その場所を、彼女は自らの意思で去ろうとしているのだ。
長い沈黙の後、カトレアが静かに口を開いた。
「……本気なのね」
「はい」
「仕事を辞めるということは、簡単ではないわ。アナタがここで積み重ねてきたものを、一度手放すということよ」
「分かっています」
「ギーマを見つけられる保証もないわ」
「はい」
「見つけたとしても、アナタが望む言葉をくれるとは限らない」
最も残酷な可能性を突きつけられ、フランの肩が小さく揺れた。けれど、彼女は力強く頷き返した。
「それでも、行きます」
「……」
「会えないまま諦める方が、ずっと怖いです」
その迷いのない答えを聞いて、カトレアはまるで彼女の魂の奥底にある覚悟を確かめるように、一度静かに目を伏せた。そして、ふっと小さく息を吐き出す。
次に顔を上げた時、氷のように冷たかったカトレアの表情は、春の陽だまりのように少しだけ柔らかく解けていた。
「そう。……なら、止めないわ」
「カトレアさん……」
「アナタが泣きながら待っているだけなら、無理やりにでも休ませたでしょうね。けれど、自分で考えて、自分で選んで、自分の足で行くと言うのなら……友達として止める理由はないわ」
カトレアは優雅な身のこなしで立ち上がり、フランの目の前まで歩み寄った。
「ただし、条件があるわ」
「条件……?」
「自分を責めないこと」
強い口調で告げられ、フランはハッと息を呑んだ。
「ギーマがいなくなったのは、アナタのせいではない。彼を探す旅で何があっても、まずそれを忘れないこと」
「……はい」
「無理をしすぎないこと。食事と睡眠を削らないこと。危ない場所に一人で踏み込まないこと」
「は、はい」
「そして」
カトレアは、フランの額に冷たく美しい指先を軽く当てた。
「つらくなったら、必ず連絡しなさい。アタクシたちは、アナタがリーグスタッフでなくなっても友達なのだから」
その温かい言葉に、張り詰めていたフランの心から再び涙が溢れ出した。
「……はいっ」
すると、今まで泣いていたシキミが勢いよく立ち上がった。
「アタシも、アタシも条件があります!」
「シキミさん……」
「旅の記録をつけてください!」
「旅の記録?」
「はい! どこへ行ったのか、何を見たのか、どんな人に会ったのか、どんな気持ちになったのか。全部でなくてもいいです。でも、フランさんが迷子にならないように、心の地図を残してほしいんです」
シキミは机の引き出しを開け、一冊の真新しいノートを取り出した。深い藍色の表紙で、小さな花の模様が上品にあしらわれている。
「これ、使ってください」
「いいんですか?」
「もちろんです。フランさんの旅の物語ですから」
シキミは、そのノートを両手で包み込むようにしてフランの手にそっと乗せた。
「でも、物語にしなくていいです。綺麗に書かなくてもいいです。泣いた日は泣いたって書いて、怒った日は怒ったって書いて、ギーマさんに会いたい日は会いたいって、何度でも書いてください」
「……」
「そうすれば、フランさんがどこにいても、自分の気持ちを置いていかずに済みます」
フランは受け取ったノートを、お守りのように胸に抱きしめた。
「ありがとうございます、シキミさん……」
「それから」
シキミは涙をゴシゴシと拭いながら、少しだけいつもの明るい調子を取り戻して言った。
「ギーマさんに会えたら、ちゃんと怒ってくださいね!」
「はい」
「それから、ちゃんと泣いてください!」
「はい」
「それから、ちゃんと抱きしめてもらってください!」
「シ、シキミさん?!」
「大事なことです!」
涙で顔を濡らしたまま、フランの頬が真っ赤に染まる。その初々しい反応を見て、シキミはようやくふわりと笑みをこぼした。
「それで、最後には笑ってください。フランさんの物語が、悲しいまま終わらないように」
「……はい」
フランは泣き笑いの表情を浮かべながら、強く頷いた。
「絶対、笑って帰ってきます」
その時、ずっと無言を貫いていたレンブが、静かに立ち上がった。彼はここまで一切口を挟まなかったが、その沈黙は決して無関心によるものではなかった。フランが顔を向けると、レンブは武人らしい鋭くも真っ直ぐな眼差しで彼女を見据えた。
「フラン」
「はい、レンブさん」
「迷うな」
短く、飾らない言葉。けれど、そこにはレンブの生き様そのもののような重みがあった。
「お前が決めたことなら、最後まで自分の足で行け。だが、己を軽んじるな。お前は誰かの影ではない」
「……」
「ギーマを追うのだとしても、お前自身の道として進め」
その言葉は、フランの胸の奥深くにずしりと落ちた。
ギーマを探す。それは確かに彼を追いかける旅だが、ただ彼の背中や影を追うだけの盲目的な旅にしてはいけないのだ。自分の気持ちを確かめ、自分の言葉で彼と向き合うための、フラン自身の自立した道でなければならない。
「はい」
フランは迷いなく、しっかりと頷いた。
「あたしの足で、行きます」
「なら、良い」
レンブは短くそう言うと、満足そうに小さく頷いた。
カトレアが静かに手を差し出し、フランが握りしめていた退職願の封筒を受け取る。フランがこの愛着ある場所を正式に去るための、重みのある白い紙。カトレアはしばらくその封筒を見つめてから、静かに口を開いた。
「正式な手続きは、こちらで進めておくわ。引き継ぎも確認する。アナタは出発の準備をしなさい」
「ありがとうございます……!」
「ただし、出発前にサザナミの別荘へ来なさい」
「え?」
「荷造りの確認をするわ。どうせアナタ、必要なものより相手へのお土産ばかり詰めようとするでしょう」
「そ、そんなこと……ちょっとあるかもしれません……」
「あるのね」
図星を突かれたフランがしどろもどろになると、シキミがぱっと顔を輝かせて挙手をした。
「では、わたしも行きます! 旅の持ち物リストを作りましょう! ノート、筆記具、薬、地図、あとギーマさんに会った時に言うことリストも!」
「それは恥ずかしいです!」
「大事です!」
賑やかなやり取りを少し呆れたように見守っていたカトレアだったが、やがてふっと上品な笑みをこぼした。
「……本当に、手のかかる友達ね」
「す、すみません……」
「謝らなくていいと言ったでしょう」
カトレアは手を伸ばし、フランの頬に残っていた涙の跡を美しい指先でそっと拭った。
「アナタがここを辞めても、アタクシたちとの関係まで終わるわけではないわ」
「……はい」
「アナタはリーグスタッフである前に、フランよ。そして、アタクシたちの友達」
その慈愛に満ちた言葉に、フランの顔が再びくしゃりと歪む。すかさずシキミが駆け寄り、フランを力いっぱい抱きしめた。
「フランさん、行ってしまうのは寂しいです……!」
「シキミさん……」
「でも、行ってほしいです! フランさんが後悔しないために!」
矛盾しているようで、何よりもシキミらしい真っ直ぐな言葉。寂しいけれど、行ってほしい。それは相手の幸せを心から願う、本物の友人の証だった。
フランは腕を回し、シキミの背中を温かく抱き返した。
「ありがとうございます……」
「絶対に、無事でいてくださいね」
「はい」
「ギーマさんに会えたら、アタシたちの分も怒ってください」
「はい」
「それから、フランさんがどれだけ泣いたか、ちゃんと分からせてください」
「……はい」
二人のやり取りを見守っていたカトレアが、静かに付け加える。
「そして、それでも好きだと言うのなら、胸を張って言いなさい」
フランは目元を拭い、姿勢を正した。もはや声は震えてはいたが、視線が下を向くことはなかった。
「はい」
彼女は、澄み切った声ではっきりと言い切った。
「あたし、ちゃんと言ってきます」
***
出発の日までの数日間、フランは慌ただしく過ごした。
完璧な引き継ぎ資料を整え、後任のスタッフに業務の細かい手順を伝え、自身の使っていた机の整理を進める。
その作業の最中、引き出しの奥底から一枚の古いメモ用紙が出てきた。そこには、以前ギーマのスケジュールを書き留めた形跡があり、彼に渡す予定だった資料の控えと共に、結局渡せないままになっていた小さな手書きのメッセージが添えられていた。
『ギーマさんへ。お疲れのようでしたら、無理しすぎないでくださいね。いつでも紅茶を淹れます』
それを見た瞬間、甘く切ない記憶がフラッシュバックし、胸がギリッと痛んだ。けれど、今のフランはもう泣かなかった。
彼女はそのメモを丁寧に折り畳み、シキミから贈られた藍色の旅のノートのページにそっと挟み込んだ。これは、この場所に置いていくものではない。自分の中にある彼への想いの一部として、共に旅へと連れて行くのだ。
出発の前夜、サザナミタウンにあるカトレアの別荘では、フランを送るための小さなお茶会が開かれた。カトレア、シキミに加えて、チャンピオンのシロナも顔を出してくれた。
シロナはフランの整えられた旅支度を一瞥すると、大人びた穏やかな微笑みを向けた。
「誰かを探しに行く旅は、自分自身を知る旅でもあるわ。気をつけて行ってらっしゃい、フラン」
「はい。ありがとうございます、シロナさん」
シキミは、旅のノートのページに手作りのしおりを挟んでくれた。そしてカトレアは、上質な布で作られた小さなポーチをフランへと差し出した。
「ここに、ポケモンたちの回復用のくすりと非常用のお金を入れてあるわ」
「えっ、そんな、いただけません……!」
「貸すだけよ。返したければ、帰ってきた時にお土産と一緒に返しなさい」
「……はい」
フランはそのポーチを両手で大切に受け取った。
「必ず、帰ってきます」
「ええ」
カトレアは静かに頷き、凛とした眼差しでフランを見つめた。
「ギーマを連れてでも、一人でも。必ず一度は顔を見せなさい」
「……はい」
「できれば、二人で来なさい」
その言葉に、フランの頬がほんのりと朱に染まった。
「……頑張ります」
「そこは頑張るところなのね」
カトレアが上品に笑い声を立てると、横で見ていたシキミがすでにぽろぽろと涙を流し始めていた。
「フランさん……!」
「シキミさん、まだ出発してませんよ」
「分かっています。でも、もう泣いています」
「ふふ……」
フランもつられて涙ぐんだが、不思議と心は温かかった。今度の涙は決して恥ずかしいものではない。泣いてもいい、寂しいと言ってもいい、それでも前へ進んでいいのだと、目の前の素晴らしい友人たちが教えてくれたのだから。
***
翌朝。澄み渡るような青空の下、フランはイッシュリーグの荘厳な門の前に立っていた。
足元には、心配そうに見上げる相棒のエナが寄り添い、その隣ではブラッキーのキキが少し不機嫌そうな顔をしながらも尻尾を揺らしている。
背負った荷物は決して多くない。カトレアに厳しく確認され、シキミにリスト化され、シロナに旅慣れた者の視点から助言をもらったおかげで、本当に必要なものだけがコンパクトに詰め込まれていた。
門の前には、見送りのためにカトレア、シキミ、レンブが立っている。フランは彼らに向けて、深く、心を込めて頭を下げた。
「今まで、本当にお世話になりました」
「ええ」
「いってらっしゃい、フランさん!」
「気をつけて行け」
フランはゆっくりと顔を上げた。
見上げるイッシュリーグの本部。大好きなギーマを追いかけてようやく辿り着いた、夢のような場所。彼と同じ空気を吸い、彼の傍で働き、そして何よりもかけがえのない大切な友達に出会えた場所。
ここを離れるのは、やはり怖い。胸の奥がぎゅっと締め付けられるほど寂しい。けれど、もう彼女の足が立ち止まることはなかった。
「行ってきます」
フランは、晴れやかな笑顔を浮かべて言った。
「ギーマさんに、会いに行ってきます」
シキミが涙で顔を濡らしながら、両手を大きく振る。
「フランさんの物語が、幸せな続きになりますように!」
レンブが静かに、力強く頷く。
「己を見失うな」
カトレアは最後まで気高く、優雅な佇まいを崩さなかった。けれど、その美しい瞳は少しだけ潤みを帯びていた。
「フラン」
「はい」
「泣きたくなったら、泣きなさい」
「……はい」
「でも、最後には顔を上げなさい」
「はい」
「アナタの恋は、アナタが選んだものよ。誰にも恥じる必要はないわ」
フランは、胸元にそっと手を当てた。そこには、シキミにもらったノートがある。カトレアに託されたポーチもある。友人たちからもらった数え切れないほどの言葉と、心配と、温かい優しさが、確かな重みとなってそこにあった。
「あたし、ちゃんと行ってきます」
そう力強く告げ、フランは踵を返した。
一歩。また一歩。思い出の詰まったリーグの門から離れていく。けれど、その足取りは過去を捨て去るためのものではなかった。ここで得た愛情も友情もすべてを抱きしめ、次の場所へと向かうための希望に満ちた歩みだった。
大好きなギーマを探すために。自身の恋の続きを、決して諦めないために。
シキミは泣きじゃくりながら、いつまでも大きく手を振り続けた。カトレアは静かな眼差しで、その背中を見送っていた。
遠ざかっていくフランの小さな背中は、以前よりもずっと逞しく、強く見えた。
「……行ってしまいましたね」
シキミがぽつりと呟く。
「ええ」
カトレアは短く答えた。
「でも、あの子はもう、ただ泣いているだけではないわ」
「はい」
「自分で選んだのよ」
カトレアは、フランの姿が見えなくなった一本道の先を、いつまでも見つめていた。
「なら、信じて待つしかないわね」
シキミは袖口で乱暴に涙を拭い、力強く頷いた。
「フランさん、きっとギーマさんを見つけます」
「そうね」
「そして、ちゃんと怒って、ちゃんと泣いて、ちゃんと好きだと言います」
「ええ」
「……ギーマさん、逃げられませんね」
その言葉に、カトレアはふっと口角を上げ、不敵な笑みを浮かべた。
「逃げたら、今度こそ許さないわ」
その声は静かだったが、そこには絶対の凄みが込められていた。
イッシュの空はどこまでも高く、澄み切っている。その空の向こう側に、フランが目指すべき場所がある。
今はまだ、世界中の誰もギーマがどこにいるのかを知らない。けれど、カトレアとシキミには確かな確信があった。あの子ならば、どんな困難があろうとも必ず彼の元へ辿り着くはずだと。
テレビの向こうの憧れから始まった恋を、ただの悲恋で終わらせず、自分の足で続きを探しに行く。それがフランという芯の強い少女なのだと、彼女たちは誰よりも知っているのだから。
だからこそ、彼女たちは背中を押した。泣きながらでも、笑って見送った。大切な友達の恋が、どうか悲しいだけの物語で終わらないようにと祈りを込めて。
サザナミの海の向こう、さらに遠く離れたアローラの空の下。
いつかフランが、ギーマの名を力強く呼ぶ日が来ることを信じて。カトレアとシキミは、彼女が笑顔で帰還するその日を、静かに待つことにしたのだった。
「大丈夫です」
周囲の心配そうな視線に気づくたび、彼女は何度もそう口にした。
「ちゃんと働けます」
そう言って、無理に笑ってみせた。
けれど、控室の重厚な扉を開けるたび、どうしても彼女の目は無意識のうちに特定の場所を探してしまう。ギーマがよく座っていた椅子。彼がティーカップを置いていたテーブルの端。廊下の角。資料室の前。彼に何度も呼び止められ、甘い言葉を囁かれた場所。
そこにはもう、彼はいない。頭ではとうに理解しているはずなのに、心が勝手に彼の面影を探してしまうのだ。
「……ギーマさん」
誰もいない資料室の前で立ち止まり、フランは小さくその名を呼んだ。当然、返事はない。しんとした静寂だけが彼女を包み込む。それが当たり前なのだと分かっているのに、その事実が息が詰まるほど苦しくて、フランは胸元の制服をぎゅっと力強く握りしめた。
泣くのは、もうたくさんだと思った。どれだけ涙を流しても、どれだけこの場所で待ち続けても、彼が戻ってくることはないのだ。
ならば、自分から行くしかない。
ずっと彼を追いかけてきた。テレビの画面越しに彼を見つけ、心を奪われたあの日から。トレーナーとして強くなり、リーグへ辿り着き、彼と戦い、スタッフになって彼の傍で働くようになるまで。ずっと、フランは自分の足で、ギーマのいる場所へ向かってひたむきに歩みを進めてきたのだ。
それなのに、今さらここで待っているだけなんてできるはずがない。
「……あたし、行かなきゃ」
誰もいない廊下にぽつりとこぼれ落ちたその声は、自分でも驚くほどはっきりとした輪郭を持っていた。
「ギーマさんを、探しに行かなきゃ」
それは決して、悲しみに任せた一時的な衝動などではなかった。無謀な思いつきでもない。何日も泣き明かし、何度も迷い、カトレアとシキミという大切な友人たちに支えられながら、それでも最後に彼女の心に確固として残った気持ちだった。
会いたい。どうして何も言わずにいなくなってしまったのか、本当の理由を聞きたい。勝手な真似をしたことを怒りたい。そして、彼に会えなかった寂しさをぶつけて泣きたい。
それでも、やっぱり好きだと伝えたい。すべてを失って、どんな姿に成り果てたギーマであったとしても、あたしはあなたの隣にいたいのだと、今度こそ自分自身の口で真っ直ぐに言いたい。
フランはしっかりと顔を上げた。
その日の勤務を終えた後、彼女は自室のデスクに向かい、一通の退職願を用意した。何度も書き直すうちに、手が震えて文字が涙で滲みそうになった。けれど、最後には一文字一文字に魂を込めるようにして、しっかりと書き切った。
イッシュリーグスタッフとしての自分に一つの区切りをつけ、大好きな人を探しに行くための、たった一つの切符として。
***
翌日。四天王の控室には、カトレア、シキミ、そしてレンブの三人が揃っていた。テーブルを囲む彼らの視線の先には、相変わらず主を失ったギーマの椅子がぽつんと空席のまま置かれている。
フランはその空席へ一度だけ視線を向けてから、深く、ゆっくりと息を吸い込んだ。
「カトレアさん、シキミさん、レンブさん。少し、お時間をいただいてもいいですか」
いつもとは違う、ひどく硬く張り詰めた声。その響きだけで、室内にいた三人は彼女が何を口にしようとしているのかを即座に察した。原稿用紙に向かっていたシキミが顔を上げ、カトレアは音を立てずに紅茶のカップをソーサーに置く。レンブは腕を組んだまま、静寂の中で真っ直ぐにフランを見据えた。
「話しなさい」
カトレアが静かに促すと、フランは背筋を伸ばし、両手で持っていた白い封筒をぎゅっと握りしめてから、深く頭を下げた。
「あたし、イッシュリーグのスタッフを辞めます」
控室に、水を打ったような静寂が落ちた。驚きにシキミが小さく息を呑む音が、ひどく鮮明に響く。
「フランさん……」
「急なことで、ご迷惑をおかけするのは分かっています。引き継ぎ資料も作りました。後任の方が困らないように、受付業務も、四天王のみなさんのスケジュール管理も、できる限りまとめてあります」
震えそうになる声を必死に押さえ込みながら、フランは言葉を紡ぎ続けた。手の中で強く握られた封筒が、くしゃりと微かな音を立てる。
「でも……あたし、もう待っているだけはできません」
顔を上げ、三人の四天王をしっかりと見つめ返す。
「あたし、ギーマさんを探しに行きます」
その真っ直ぐな宣言を聞いた瞬間、シキミの大きな瞳にじわりと涙が浮かんだ。カトレアは何も言わず、ただ静かに、射抜くような視線でフランを見つめている。
フランは泣き出しそうになるのを堪えながらも、決して目を逸らさず、逃げることなく言葉を繋いだ。
「ギーマさんがどうしていなくなったのか、本当のところは分かりません。きっと、ギーマさんなりに考えたことがあったんだと思います。あたしのためだって、思ってくれたのかもしれません」
カトレアの整った眉がわずかに動いたが、彼女は口を挟まなかった。
「でも……あたしは、納得してません」
フランの声が、ついに微かに震えを帯びた。
「何も言わずにいなくなられて、悲しかったです。寂しかったです。どうしてって、何度も思いました。あたしじゃ支えられなかったのかなって、自分を責めました」
その痛切な響きに、シキミがぎゅっと唇を噛む。カトレアの細い指先が、膝の上で静かに、けれど強く握り込まれた。
「でも、カトレアさんとシキミさんが言ってくれました。あたしがギーマさんを好きだったことは、間違いじゃないって。会いたいと思うことも、間違いじゃないって」
フランは溢れそうになる涙を必死に堪えながら、三人に向けて凛とした視線を送った。
「だから、あたし、探しに行きます」
震えていた声に、少しずつ確かな強さが宿っていく。
「ギーマさんに会って、ちゃんと怒ります。勝手にいなくならないでくださいって、言います。あたしを置いていかないでくださいって、言います」
そして、己の心臓を確かめるように胸元に手を当てた。
「それでも、好きですって……ちゃんと伝えます」
その痛いほどに純粋な言葉に、シキミはとうとう堪えきれずに涙をこぼした。
「フランさん……」
「もしギーマさんが、今の自分はあたしにふさわしくないって思っているなら、そんなことないって言います。四天王じゃなくても、何も持っていなくても、ギーマさんがギーマさんなら、あたしは好きなんですって……ちゃんと、本人に言いたいんです」
フランの瞳から、大粒の涙が一粒だけ頬を伝い落ちた。だが、今度の涙は悲しみに崩れ落ちるためのものではない。迷いを断ち切り、前へ進むための決意の涙だった。
「あたし、もう一度、ギーマさんのところまで行きたいです」
控室は再び静けさに包まれた。遠くの廊下から、リーグスタッフが慌ただしく行き交う足音が微かに聞こえてくる。フランがこれまで何度も歩き回り、大好きな人を追いかけてようやく辿り着いた、思い入れのある場所。その場所を、彼女は自らの意思で去ろうとしているのだ。
長い沈黙の後、カトレアが静かに口を開いた。
「……本気なのね」
「はい」
「仕事を辞めるということは、簡単ではないわ。アナタがここで積み重ねてきたものを、一度手放すということよ」
「分かっています」
「ギーマを見つけられる保証もないわ」
「はい」
「見つけたとしても、アナタが望む言葉をくれるとは限らない」
最も残酷な可能性を突きつけられ、フランの肩が小さく揺れた。けれど、彼女は力強く頷き返した。
「それでも、行きます」
「……」
「会えないまま諦める方が、ずっと怖いです」
その迷いのない答えを聞いて、カトレアはまるで彼女の魂の奥底にある覚悟を確かめるように、一度静かに目を伏せた。そして、ふっと小さく息を吐き出す。
次に顔を上げた時、氷のように冷たかったカトレアの表情は、春の陽だまりのように少しだけ柔らかく解けていた。
「そう。……なら、止めないわ」
「カトレアさん……」
「アナタが泣きながら待っているだけなら、無理やりにでも休ませたでしょうね。けれど、自分で考えて、自分で選んで、自分の足で行くと言うのなら……友達として止める理由はないわ」
カトレアは優雅な身のこなしで立ち上がり、フランの目の前まで歩み寄った。
「ただし、条件があるわ」
「条件……?」
「自分を責めないこと」
強い口調で告げられ、フランはハッと息を呑んだ。
「ギーマがいなくなったのは、アナタのせいではない。彼を探す旅で何があっても、まずそれを忘れないこと」
「……はい」
「無理をしすぎないこと。食事と睡眠を削らないこと。危ない場所に一人で踏み込まないこと」
「は、はい」
「そして」
カトレアは、フランの額に冷たく美しい指先を軽く当てた。
「つらくなったら、必ず連絡しなさい。アタクシたちは、アナタがリーグスタッフでなくなっても友達なのだから」
その温かい言葉に、張り詰めていたフランの心から再び涙が溢れ出した。
「……はいっ」
すると、今まで泣いていたシキミが勢いよく立ち上がった。
「アタシも、アタシも条件があります!」
「シキミさん……」
「旅の記録をつけてください!」
「旅の記録?」
「はい! どこへ行ったのか、何を見たのか、どんな人に会ったのか、どんな気持ちになったのか。全部でなくてもいいです。でも、フランさんが迷子にならないように、心の地図を残してほしいんです」
シキミは机の引き出しを開け、一冊の真新しいノートを取り出した。深い藍色の表紙で、小さな花の模様が上品にあしらわれている。
「これ、使ってください」
「いいんですか?」
「もちろんです。フランさんの旅の物語ですから」
シキミは、そのノートを両手で包み込むようにしてフランの手にそっと乗せた。
「でも、物語にしなくていいです。綺麗に書かなくてもいいです。泣いた日は泣いたって書いて、怒った日は怒ったって書いて、ギーマさんに会いたい日は会いたいって、何度でも書いてください」
「……」
「そうすれば、フランさんがどこにいても、自分の気持ちを置いていかずに済みます」
フランは受け取ったノートを、お守りのように胸に抱きしめた。
「ありがとうございます、シキミさん……」
「それから」
シキミは涙をゴシゴシと拭いながら、少しだけいつもの明るい調子を取り戻して言った。
「ギーマさんに会えたら、ちゃんと怒ってくださいね!」
「はい」
「それから、ちゃんと泣いてください!」
「はい」
「それから、ちゃんと抱きしめてもらってください!」
「シ、シキミさん?!」
「大事なことです!」
涙で顔を濡らしたまま、フランの頬が真っ赤に染まる。その初々しい反応を見て、シキミはようやくふわりと笑みをこぼした。
「それで、最後には笑ってください。フランさんの物語が、悲しいまま終わらないように」
「……はい」
フランは泣き笑いの表情を浮かべながら、強く頷いた。
「絶対、笑って帰ってきます」
その時、ずっと無言を貫いていたレンブが、静かに立ち上がった。彼はここまで一切口を挟まなかったが、その沈黙は決して無関心によるものではなかった。フランが顔を向けると、レンブは武人らしい鋭くも真っ直ぐな眼差しで彼女を見据えた。
「フラン」
「はい、レンブさん」
「迷うな」
短く、飾らない言葉。けれど、そこにはレンブの生き様そのもののような重みがあった。
「お前が決めたことなら、最後まで自分の足で行け。だが、己を軽んじるな。お前は誰かの影ではない」
「……」
「ギーマを追うのだとしても、お前自身の道として進め」
その言葉は、フランの胸の奥深くにずしりと落ちた。
ギーマを探す。それは確かに彼を追いかける旅だが、ただ彼の背中や影を追うだけの盲目的な旅にしてはいけないのだ。自分の気持ちを確かめ、自分の言葉で彼と向き合うための、フラン自身の自立した道でなければならない。
「はい」
フランは迷いなく、しっかりと頷いた。
「あたしの足で、行きます」
「なら、良い」
レンブは短くそう言うと、満足そうに小さく頷いた。
カトレアが静かに手を差し出し、フランが握りしめていた退職願の封筒を受け取る。フランがこの愛着ある場所を正式に去るための、重みのある白い紙。カトレアはしばらくその封筒を見つめてから、静かに口を開いた。
「正式な手続きは、こちらで進めておくわ。引き継ぎも確認する。アナタは出発の準備をしなさい」
「ありがとうございます……!」
「ただし、出発前にサザナミの別荘へ来なさい」
「え?」
「荷造りの確認をするわ。どうせアナタ、必要なものより相手へのお土産ばかり詰めようとするでしょう」
「そ、そんなこと……ちょっとあるかもしれません……」
「あるのね」
図星を突かれたフランがしどろもどろになると、シキミがぱっと顔を輝かせて挙手をした。
「では、わたしも行きます! 旅の持ち物リストを作りましょう! ノート、筆記具、薬、地図、あとギーマさんに会った時に言うことリストも!」
「それは恥ずかしいです!」
「大事です!」
賑やかなやり取りを少し呆れたように見守っていたカトレアだったが、やがてふっと上品な笑みをこぼした。
「……本当に、手のかかる友達ね」
「す、すみません……」
「謝らなくていいと言ったでしょう」
カトレアは手を伸ばし、フランの頬に残っていた涙の跡を美しい指先でそっと拭った。
「アナタがここを辞めても、アタクシたちとの関係まで終わるわけではないわ」
「……はい」
「アナタはリーグスタッフである前に、フランよ。そして、アタクシたちの友達」
その慈愛に満ちた言葉に、フランの顔が再びくしゃりと歪む。すかさずシキミが駆け寄り、フランを力いっぱい抱きしめた。
「フランさん、行ってしまうのは寂しいです……!」
「シキミさん……」
「でも、行ってほしいです! フランさんが後悔しないために!」
矛盾しているようで、何よりもシキミらしい真っ直ぐな言葉。寂しいけれど、行ってほしい。それは相手の幸せを心から願う、本物の友人の証だった。
フランは腕を回し、シキミの背中を温かく抱き返した。
「ありがとうございます……」
「絶対に、無事でいてくださいね」
「はい」
「ギーマさんに会えたら、アタシたちの分も怒ってください」
「はい」
「それから、フランさんがどれだけ泣いたか、ちゃんと分からせてください」
「……はい」
二人のやり取りを見守っていたカトレアが、静かに付け加える。
「そして、それでも好きだと言うのなら、胸を張って言いなさい」
フランは目元を拭い、姿勢を正した。もはや声は震えてはいたが、視線が下を向くことはなかった。
「はい」
彼女は、澄み切った声ではっきりと言い切った。
「あたし、ちゃんと言ってきます」
***
出発の日までの数日間、フランは慌ただしく過ごした。
完璧な引き継ぎ資料を整え、後任のスタッフに業務の細かい手順を伝え、自身の使っていた机の整理を進める。
その作業の最中、引き出しの奥底から一枚の古いメモ用紙が出てきた。そこには、以前ギーマのスケジュールを書き留めた形跡があり、彼に渡す予定だった資料の控えと共に、結局渡せないままになっていた小さな手書きのメッセージが添えられていた。
『ギーマさんへ。お疲れのようでしたら、無理しすぎないでくださいね。いつでも紅茶を淹れます』
それを見た瞬間、甘く切ない記憶がフラッシュバックし、胸がギリッと痛んだ。けれど、今のフランはもう泣かなかった。
彼女はそのメモを丁寧に折り畳み、シキミから贈られた藍色の旅のノートのページにそっと挟み込んだ。これは、この場所に置いていくものではない。自分の中にある彼への想いの一部として、共に旅へと連れて行くのだ。
出発の前夜、サザナミタウンにあるカトレアの別荘では、フランを送るための小さなお茶会が開かれた。カトレア、シキミに加えて、チャンピオンのシロナも顔を出してくれた。
シロナはフランの整えられた旅支度を一瞥すると、大人びた穏やかな微笑みを向けた。
「誰かを探しに行く旅は、自分自身を知る旅でもあるわ。気をつけて行ってらっしゃい、フラン」
「はい。ありがとうございます、シロナさん」
シキミは、旅のノートのページに手作りのしおりを挟んでくれた。そしてカトレアは、上質な布で作られた小さなポーチをフランへと差し出した。
「ここに、ポケモンたちの回復用のくすりと非常用のお金を入れてあるわ」
「えっ、そんな、いただけません……!」
「貸すだけよ。返したければ、帰ってきた時にお土産と一緒に返しなさい」
「……はい」
フランはそのポーチを両手で大切に受け取った。
「必ず、帰ってきます」
「ええ」
カトレアは静かに頷き、凛とした眼差しでフランを見つめた。
「ギーマを連れてでも、一人でも。必ず一度は顔を見せなさい」
「……はい」
「できれば、二人で来なさい」
その言葉に、フランの頬がほんのりと朱に染まった。
「……頑張ります」
「そこは頑張るところなのね」
カトレアが上品に笑い声を立てると、横で見ていたシキミがすでにぽろぽろと涙を流し始めていた。
「フランさん……!」
「シキミさん、まだ出発してませんよ」
「分かっています。でも、もう泣いています」
「ふふ……」
フランもつられて涙ぐんだが、不思議と心は温かかった。今度の涙は決して恥ずかしいものではない。泣いてもいい、寂しいと言ってもいい、それでも前へ進んでいいのだと、目の前の素晴らしい友人たちが教えてくれたのだから。
***
翌朝。澄み渡るような青空の下、フランはイッシュリーグの荘厳な門の前に立っていた。
足元には、心配そうに見上げる相棒のエナが寄り添い、その隣ではブラッキーのキキが少し不機嫌そうな顔をしながらも尻尾を揺らしている。
背負った荷物は決して多くない。カトレアに厳しく確認され、シキミにリスト化され、シロナに旅慣れた者の視点から助言をもらったおかげで、本当に必要なものだけがコンパクトに詰め込まれていた。
門の前には、見送りのためにカトレア、シキミ、レンブが立っている。フランは彼らに向けて、深く、心を込めて頭を下げた。
「今まで、本当にお世話になりました」
「ええ」
「いってらっしゃい、フランさん!」
「気をつけて行け」
フランはゆっくりと顔を上げた。
見上げるイッシュリーグの本部。大好きなギーマを追いかけてようやく辿り着いた、夢のような場所。彼と同じ空気を吸い、彼の傍で働き、そして何よりもかけがえのない大切な友達に出会えた場所。
ここを離れるのは、やはり怖い。胸の奥がぎゅっと締め付けられるほど寂しい。けれど、もう彼女の足が立ち止まることはなかった。
「行ってきます」
フランは、晴れやかな笑顔を浮かべて言った。
「ギーマさんに、会いに行ってきます」
シキミが涙で顔を濡らしながら、両手を大きく振る。
「フランさんの物語が、幸せな続きになりますように!」
レンブが静かに、力強く頷く。
「己を見失うな」
カトレアは最後まで気高く、優雅な佇まいを崩さなかった。けれど、その美しい瞳は少しだけ潤みを帯びていた。
「フラン」
「はい」
「泣きたくなったら、泣きなさい」
「……はい」
「でも、最後には顔を上げなさい」
「はい」
「アナタの恋は、アナタが選んだものよ。誰にも恥じる必要はないわ」
フランは、胸元にそっと手を当てた。そこには、シキミにもらったノートがある。カトレアに託されたポーチもある。友人たちからもらった数え切れないほどの言葉と、心配と、温かい優しさが、確かな重みとなってそこにあった。
「あたし、ちゃんと行ってきます」
そう力強く告げ、フランは踵を返した。
一歩。また一歩。思い出の詰まったリーグの門から離れていく。けれど、その足取りは過去を捨て去るためのものではなかった。ここで得た愛情も友情もすべてを抱きしめ、次の場所へと向かうための希望に満ちた歩みだった。
大好きなギーマを探すために。自身の恋の続きを、決して諦めないために。
シキミは泣きじゃくりながら、いつまでも大きく手を振り続けた。カトレアは静かな眼差しで、その背中を見送っていた。
遠ざかっていくフランの小さな背中は、以前よりもずっと逞しく、強く見えた。
「……行ってしまいましたね」
シキミがぽつりと呟く。
「ええ」
カトレアは短く答えた。
「でも、あの子はもう、ただ泣いているだけではないわ」
「はい」
「自分で選んだのよ」
カトレアは、フランの姿が見えなくなった一本道の先を、いつまでも見つめていた。
「なら、信じて待つしかないわね」
シキミは袖口で乱暴に涙を拭い、力強く頷いた。
「フランさん、きっとギーマさんを見つけます」
「そうね」
「そして、ちゃんと怒って、ちゃんと泣いて、ちゃんと好きだと言います」
「ええ」
「……ギーマさん、逃げられませんね」
その言葉に、カトレアはふっと口角を上げ、不敵な笑みを浮かべた。
「逃げたら、今度こそ許さないわ」
その声は静かだったが、そこには絶対の凄みが込められていた。
イッシュの空はどこまでも高く、澄み切っている。その空の向こう側に、フランが目指すべき場所がある。
今はまだ、世界中の誰もギーマがどこにいるのかを知らない。けれど、カトレアとシキミには確かな確信があった。あの子ならば、どんな困難があろうとも必ず彼の元へ辿り着くはずだと。
テレビの向こうの憧れから始まった恋を、ただの悲恋で終わらせず、自分の足で続きを探しに行く。それがフランという芯の強い少女なのだと、彼女たちは誰よりも知っているのだから。
だからこそ、彼女たちは背中を押した。泣きながらでも、笑って見送った。大切な友達の恋が、どうか悲しいだけの物語で終わらないようにと祈りを込めて。
サザナミの海の向こう、さらに遠く離れたアローラの空の下。
いつかフランが、ギーマの名を力強く呼ぶ日が来ることを信じて。カトレアとシキミは、彼女が笑顔で帰還するその日を、静かに待つことにしたのだった。