ギーマ夢主の名前変換
ギーマ(BW)×固定夢主💮
🪙夢主の名前
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ギーマがイッシュリーグから突如として姿を消してしまった後も、この荘厳な建物には変わらずいつもの朝が訪れ、無情なほどに日常が繰り返されていた。
野心に満ちた挑戦者たちは次々と門を叩き、受付の電話は絶え間なく鳴り響き、処理すべき書類はスタッフのデスクに高く積み上がっていく。ポケモンリーグという巨大な組織は、誰か一人が欠けたからといってその喪失を嘆き、歩みを止めてくれるほど優しい場所ではない。
その冷酷な事実は、四天王の一人であるシキミにも痛いほど分かっていた。彼女自身、四天王としての役割に従い、挑戦者を迎え入れ、全力で戦い、勝ち、あるいは負けるという日々を粛々とこなすために、今日もこの控室に立っているのだ。
けれど、理屈では分かっていても、感情はそう簡単に割り切れるものではない。重厚な控室の扉がノックされ、ゆっくりと開くたびに、シキミは無意識のうちに反射的に顔を上げ、そこにいるはずのない姿を探してしまうようになった。
そこには、あの人がいるような気がしてならないのだ。少しだけ癖のある青み掛かった黒髪を揺らし、大人特有の余裕のある微笑みを浮かべて、コインを器用に指先で弄びながら現れるギーマ。そして、その少し後ろでは、抱えきれないほどの書類を持ったフランが、彼に何かを囁かれて頬を真っ赤に染めながら立っている。
ほんの少し前までは、息をするのと同じくらい当たり前のように存在していたその光景は、今はもう、どこにもない。
「……シキミ」
静寂を破るカトレアの落ち着いた声に、シキミははっと我に返った。視線を落とすと、テーブルの上には書きかけの原稿用紙が広げられているが、手元のペンは完全に止まっており、そこにはここ数十分、一行の文字も増えてはいなかった。
「筆が止まっているわ」
「あ……すみません」
「謝る必要はないけれど」
カトレアはふかふかのソファに優雅に腰掛け、微かに湯気を立てる紅茶のカップを静かに傾けていた。その立ち振る舞いはいつも通り完璧で、絵画のように優雅なものだったが、長く時間を共にしているシキミには痛いほどよく分かる。カトレアもまた、視線を落とすふりをして、扉の方を何度か気にしているのだと。
ギーマの空席。それは、ただでさえ広い控室の中で、あまりにも目立つ空白として横たわっていた。彼がいつも気怠げに身を沈めていた椅子。彼が好んで使っていたティーカップ。テーブルの端に、いつの間にか忘れられたままになっている一枚の古いトランプカード。
誰も、その空白に触れようとはしない。触れることができないのだ。
「……フランさん、大丈夫でしょうか」
耐えきれず、シキミはぽつりと不安をこぼすように呟いた。
カトレアはすぐには答えなかった。静かにカップをソーサーに置くわずかな音だけが響く。答えないことが、彼女なりの答えだった。
その重苦しい沈黙を破るように、コンコン、と控室の扉が控えめにノックされた。
「失礼します」
扉の向こうから聞こえてきたのは、聞き慣れた愛らしい声だった。シキミとカトレアの視線が、弾かれたように同時に扉へと向く。
そっと扉を開けて入ってきたのは、他でもないフランだった。彼女は腕に今日処理すべき書類の束をしっかりと抱えている。顔には、挑戦者に向けるのと同じような、にこやかな笑顔が貼り付いていた。
「シキミさん、カトレアさん。本日の挑戦者予定表と、連絡事項の確認書類をお持ちしました」
その声は、驚くほど明るかった。姿勢も真っ直ぐに伸びており、少しも崩れていない。彼女は今、周囲に少しの心配もかけまいと、完璧にいつも通りの仕事をこなそうとしているのだ。
シキミは、そのあまりにも完璧ないつも通りが、見ていて胸が張り裂けそうになるほど痛かった。
「ありがとうございます、フランさん」
シキミが慌てて立ち上がって書類を受け取ると、フランは明るくにこりと笑った。
「いえ! 今日も挑戦者さんが何人かいらっしゃる予定なので、必要そうな資料はまとめておきました。あと、カトレアさんの分の紅茶も補充しておきましたよ。シキミさんの原稿用紙も、いつもの引き出しに追加してあります」
「あら。気が利くわね」
カトレアが静かに相槌を打つ。
「ありがとうございます。何か他に必要なものがあれば言ってくださいね」
フランはそう言って、また明るく笑った。丁寧に、周囲の空気を一切崩さないように、細心の注意を払って。
しかし、その笑顔を見た瞬間、カトレアの白く細い指が、カップの取っ手にわずかに力を込めたのをシキミは見逃さなかった。シキミもまた、気づいてしまったのだ。
よく見れば、フランの目元は泣き明かしたようにうっすらと赤く腫れている。それを少しでも隠そうとしているのか、いつもより前髪を深く下ろしていることにも。そして何より、書類を渡した後に身体の横に下ろされた彼女の指先が、ほんの少しだけ、小刻みに震えていることに。
「フラン」
カトレアが、感情を読み取らせない静かな声で呼んだ。
「はい?」
「今日はもう少し休んだらどうかしら」
その提案に、フランはきょとんと目を丸くした後、慌てたようにぶんぶんと首を横に振った。
「だ、大丈夫です! あたし、ちゃんと働けますから」
「働けるかどうかを聞いているのではないわ」
「本当に大丈夫です。みなさんにご迷惑はかけられませんし、ギーマさ……」
そこで、フランの声が唐突に途切れた。
控室の空気が、わずかに揺らぐ。彼女がふいに言いかけてしまった名前。もう、この場所のどこを探してもいない人の名前。
フランは一瞬だけ、後悔を滲ませるようにギュッと唇を噛んだ。けれど、次の瞬間には、本当に何事もなかったかのように再び笑顔を作り直した。
「……四天王のみなさんが、バトルに集中できるようにするのが、あたしの仕事ですから!」
シキミは、胸の奥を強く締めつけられるような錯覚に陥った。
違う。そんなふうに、自分を殺してまで笑わなくていい。大好きな人がいなくなってしまったのだから、大声で泣いていいし、理不尽に置いていかれたことを怒っていい。ただ一言、寂しいと泣き喚いてくれた方が、どれほど安心できただろうか。
でも、フランは絶対に自分の口からは言わないのだ。彼女は自身の張り裂けそうな悲しみよりも先に、相手の仕事を、周囲への迷惑を、リーグ内の空気を優先して考えてしまう、そういう底抜けにお人好しな性質なのだ。それがフランという少女の本来の美徳でありらしさなのだが、今の状況下では、それが何よりも痛々しく映った。
「……そう」
カトレアはそれ以上、無理に彼女を休ませようとは言わなかった。ただ静かに、何かを見極めるような鋭い瞳でフランを見つめるだけだった。
「でも、疲れたらここへ来なさい」
「え?」
「お茶くらいは出すわ」
その言葉の裏に隠された不器用な優しさに触れ、シキミも慌てて大きく頷いた。
「そうです! わたしもいますから! 原稿の話でも、怖い話でも、楽しい話でも、何でもします!」
「シキミさんの怖い話は、今はちょっと心臓に悪いかもです」
フランが少しだけ肩の力を抜き、ふふっと笑った。その笑みは、先ほどまでの張り付いたような笑顔よりは、いくぶん自然なものに見えた。シキミはそれを見て、少しだけ安堵の息を吐き出す。
「では、甘いお話にします! お茶会とガトーショコラのお話です!」
「ふふ、それなら聞きたいです」
「約束ですよ」
「はい」
フランは小さく頷いた。けれど、彼女の顔はすぐにまた、隙のない仕事用の表情へと戻ってしまう。
「では、あたしは受付に戻りますね」
「フラン」
扉へ向かおうとした彼女の背中に、カトレアがもう一度声をかけた。フランが不思議そうに振り返る。
「無理をしたら、怒るわよ」
思いがけない言葉にフランは一瞬だけ目を丸くしたが、やがて困ったように眉尻を下げて、力なく笑った。
「……はい。気をつけます」
そう言い残し、彼女は足早に控室を出ていった。重い扉が閉まり、廊下を遠ざかっていく足音だけが微かに残る。
シキミは、閉じられた扉をしばらくの間、じっと見つめていた。
「……カトレアさん」
「なに」
「フランさん、泣いています」
「ええ」
カトレアは、完全に冷めてしまった紅茶のカップを静かに置いた。
「でも、泣いていない顔をしているわ」
その言葉が、鋭い棘のようにシキミの胸の奥深くへと刺さった。
心の中ではたくさん泣いているだろうに、表面上は絶対に泣いていない顔をしている。今のフランの危うい精神状態は、まさにその一言に尽きた。
「ギーマさんは……」
シキミは思わず言いかけて、慌てて口を閉じた。今、フランをこんなにも苦しめている元凶の名前を、責めるように呼びたくなかったからだ。けれど、心の底では彼に対するやり場のない怒りと疑問が渦巻いていた。
どうして。どうして、あんなにも純粋なあの子を無惨に置いていってしまったのですか。あんなに真っ直ぐに、何の見返りも求めず、ただあなたという存在を愛していた子を。あなたがいなくなってしまった今でさえ、あなたのことを一言も悪く言おうとしない、健気な子を。どうして、誰にも何も言わず、たった一人で何もかもを決めてしまったのですか。
「……怒っている?」
見透かしたように、カトレアが静かな声で尋ねた。
シキミは膝の上で両手をぎゅっと固く握りしめた。
「怒っています」
いつもなら物語のハッピーエンドを夢見るシキミの口から出たのは、珍しくはっきりとした、強い感情の乗った声だった。
「とても、怒っています」
「そう」
「でも……フランさんがギーマさんを庇うのも分かるんです。きっと、ギーマさんにも理由があったのだと思います。勝負に負けて、何かを失って、それで……」
「理由があれば、泣かせていいわけではないわ」
カトレアの声は、氷のように冷徹で冷静だった。けれど、その声音の奥底には、友人を傷つけられたことに対する確かな怒りの炎が揺らめいているのが分かった。
「フランは、ギーマのためなら自分の痛みを後回しにする。だからこそ、周りが怒らなければならない時もあるのよ」
「……はい」
シキミは小さく頷いた。
自分が書くような美しい物語であれば、悲劇の主人公はここで月明かりの下に一人佇み、美しい涙を流すのだろう。けれど、現実のフランは決して泣こうとはしない。少なくとも、誰かの目がある人前では絶対に崩れようとしないのだ。
その頑なさが、見守る側にとっては余計に苦しく、もどかしかった。
その日の夕方のことだ。
シキミは廊下の角を曲がったところで、ふと前を歩くフランの姿を見つけた。彼女は今日の受付業務をすべて終えたらしく、片付けのための書類を胸に抱えて資料室へと向かっているところだった。
後ろ姿を見る限り、背筋はピンと伸びているし、足取りも普段の彼女とほとんど変わらないように見えた。
けれど、資料室の重い扉の前まで来た時、彼女は不自然にピタリと足を止めたのだ。
そこは、在りし日のギーマが、よくフランを待ち伏せしては呼び止めていた場所だった。
書類を渡すふりをして大股で距離を詰めたり、彼女の艶やかな髪を優しく撫でたり、フランが耳の先まで真っ赤になるような大人の甘い言葉を囁いたり。シキミは物陰から、そのやり取りを何度も目撃したことがある。
それはまるで上質な恋愛小説のワンシーンのようで、シキミとしてはついペンを取り出してメモをしたくなるほど甘美な光景だった。けれど、今のフランにとっては、当時の記憶が鮮明に蘇るその場所は、あまりにも心臓に悪く、残酷な空間でしかなかった。
「……」
立ち尽くすフランは、何も言わなかった。ただ、固く閉ざされた資料室の扉を、すがるような目で見つめている。
そこからふいに扉が開き、あの人が現れることなど、もう二度とないというのに。ひんやりとした香水の匂いと共に、低く甘い声で「フラン」と愛しげに呼んでくれる人は、もうここにはいないというのに。
シキミは声をかけようとして、思わず口をつぐんで迷った。
今ここで声をかけてしまえば、フランは弾かれたように振り返り、いつものように完璧な笑顔を作って見せるだろう。そして、何も聞く前から「大丈夫です」と気丈に言うに決まっている。それが手に取るように分かっていたからだ。
だから、シキミは物陰に隠れたまま、少しだけ待つことにした。フランがずっと心の内に閉じ込めている本当の気持ちを、ほんの少しでも外の世界にこぼし出せるように。
やがて、静寂に包まれた廊下で、フランの華奢な肩が小さく震え始め、彼女は震える息を微かに吸い込んだ。
「……ギーマさん」
こぼれ落ちたその声は、本当に、今にも消え入ってしまいそうなほど小さかった。誰かに聞かせるためではない。限界まで膨れ上がった寂しさが、器から溢れ出すようにただこぼれてしまったように紡がれた、フランにとって世界の誰よりも愛しい男の名前。
その切実な響きに、シキミは胸をナイフで抉られたように痛くなった。
フランはすぐにハッとしたように顔を上げ、我に返って慌てて周囲を見回した。そして、物陰に立っていたシキミと、バッチリ目が合ってしまったのだ。
「……っ」
フランの顔から、さっと血の気が引いて青ざめていくのが分かった。
「シ、シキミさん……!」
「フランさん」
「あの、今のは……その、違うんです。あたし、別に……」
「違わなくていいです」
シキミは、言い訳をしようとする彼女の言葉を、静かに、けれど強い意志を持って遮った。
フランが驚きに息を呑む。
「違わなくて、いいんです」
「……」
「ギーマさんの名前を呼びたいなら、呼んでいいです。会いたいなら、会いたいって思っていいです。寂しいなら……寂しいって、思っていいんです」
シキミの温かく真っ直ぐな言葉に、フランの作られた表情が少しずつ崩れかけていく。けれど、彼女はそれでもなお、必死に歪む口角を上げて笑おうとした。
「でも……あたしがそんなこと言ったら、みなさん困っちゃうじゃないですか」
「困りません」
「だって、ギーマさんだってきっと……何か理由があって……」
「理由があっても、フランさんが辛いことに変わりはありません」
シキミは隠れていた角から歩み出て、フランへと一歩近づいた。いつものようなテンションの高い大げさな身振り手振りはない。ただ、一人の心から心配している友達として、彼女に向き合う。
「フランさん。アタシは物語を書くのが好きです。悲しい場面も、別れの場面も、たくさん書きます。けれど……」
シキミの声が、たまらず震えを帯びた。
「友達が本当に苦しんでいるのを、物語みたいだなんて思えません」
フランの瞳が、大きく揺らいだ。
「シキミさん……」
「だから、どうか、アタシたちの前では振る舞わないでください」
シキミは両手を伸ばし、フランの細い肩をそっと包み込んだ。
「泣いても、怒っても、弱音を吐いてもいいんです」
「……」
「アタシたち、友達でしょう?」
その決定的な一言に、ついにフランの顔がくしゃりと歪んだ。
固く結ばれていた唇が震え始める。それでも、彼女の大きな瞳からは、いまだに涙は落ちてこない。彼女は心の底から込み上げてくる慟哭を、必死に、痛々しいほどに堪えているのだ。
シキミはそれ以上言葉を重ねず、ただ力強くフランの身体を抱きしめた。制服越しに伝わってくるフランの体は、シキミが思っていたよりもずっと冷え切っていた。
少し遅れて、ためらいがちにフランの手が持ち上がり、シキミの背中へと回された。
「……会いたいです」
沈黙の末に、震える声がようやくこぼれ落ちた。
「ギーマさんに、会いたいです……」
それは、彼女がギーマの失踪以来、ずっと奥底に押し込めて、誰にも言えずにいた本当の本音だった。
シキミはフランの背中を、子どもをあやすようにそっと優しく撫で続ける。
「はい」
「あたし、怒りたいのに……でも、心配で……ギーマさんがどこかで苦しんでるんじゃないかって思うと、怒れなくて……」
「はい」
「でも、寂しいです……っ」
そこで、張り詰めていたフランの感情の糸が、完全にプツリと切れた。
「なんで何も言わずにいなくなっちゃったのって、思っちゃうんです……! あたし、そんなに頼りなかったのかなって……ギーマさんの隣にいたいなんて、やっぱりあたしの我儘だったのかなって……!」
「違います」
堰を切ったように自分を責め始めるフランの言葉を、シキミは強く否定した。
「それは違います、フランさん」
シキミの腕の中で、フランの肩が大きく震え始める。
「ギーマさんが何を考えていたとしても、フランさんが悪いわけではありません」
「でも……」
「ありません」
シキミは、自分自身に言い聞かせるように何度も繰り返した。フランがこれ以上、理不尽な喪失の中で自分自身を責めて傷つけることがないように。何度でも、この言葉が彼女の心の底に届くまで、言い続けるつもりだった。
その夜、カトレアは自室で、シキミから夕方の出来事を詳細に聞いていた。
フランが資料室の扉の前で一人立ち尽くし、泣いていたこと。誰にも聞かれないように、消え入りそうな声でギーマの名前を呼んだこと。そして、彼の失踪の理由を自分自身の力不足のせいだと思い込み、激しく自分を責めていたこと。
カトレアはシキミの報告を、途中で口を挟むことなく静かに聞いていた。怒鳴り散らすことも、大げさに驚くこともなかった。ただ、すべてを聞き終えた後、静かに目を閉じて、深く長い息を吐き出した。
「……やはりね」
「カトレアさん」
「フランは、自分の痛みをすべて一人で処理しようとする子よ。しかも、理不尽を強いた相手を責める前に、まず自分を責めてしまう」
「はい……」
「厄介ね」
その言葉だけを切り取れば少し冷たく聞こえるかもしれないが、シキミには痛いほどよく分かっていた。
カトレアは、心の底から怒っているのだ。それは不器用なフランに対してではない。フランをここまで追い詰め、一人で苦しませている今の残酷な状況に。そして、間違いなく、何も言わずに姿を消したギーマという男に対して。
「明日、フランをサザナミに呼びましょう」
「別荘ですか?」
「ええ」
カトレアはソファから優雅に立ち上がった。
「リーグという組織の中では、あの子はどうしても『完璧なスタッフ』の顔をしてしまうもの。彼女の心の鎧を脱がせるためには、物理的に場所を変える必要があるわ」
「お茶会、ですね」
「ええ。お茶会よ」
カトレアは窓の外の夜景に視線を向けながら、少しだけ瞳を細めた。
「ただし、今回は恋バナをしてからかうためではないわ」
「……はい」
「泣くための場所を用意するの」
その断固とした響きに、シキミの胸が熱く詰まった。
泣くための場所。誰にも気を遣わず、ただ自分の悲しみだけに溺れることができる安全な場所。今の張り詰めたフランには、きっと何よりもそれが必要だったのだ。
翌日の午後。
フランは予定通り、サザナミタウンにあるカトレアの豪奢な別荘へと呼び出された。
「えっと、あの、お二人とも……これは、どういう……?」
「座りなさい」
通された客間には、すでに極上のお茶会の準備が整えられていた。アンティークのテーブルには、芳醇な香りを漂わせる紅茶と、色とりどりの菓子が美しく並べられている。
フランが大好きな、濃厚なガトーショコラ。温かいエネココア。シキミが厳選して買ってきたという小さな焼き菓子たち。そして、ソファの上には柔らかな膝掛けが用意されていた。
それはまるで、これからどれだけ泣いて心が冷え切っても、絶対に寒くならないようにという、二人からの無言のメッセージのようだった。
フランはその至れり尽くせりの用意を見て、何のために自分が呼ばれたのかを察したのか、少しだけ表情を不安げに揺らした。
「……あの、カトレアさん、シキミさん」
「今日は仕事の話はしないわ」
カトレアが先手を打つように、ぴしゃりと言い放った。
「ギーマのことを、話してもいいし、話さなくてもいい。ただし、ここで『大丈夫です』という言葉を使うのは禁止よ」
フランが小さく息を呑む。シキミがソファでフランの隣に腰を下ろし、彼女の少し冷たい手を両手で優しく握りしめた。
「フランさん。今日は、頑張らなくていい日です」
「……」
「笑わなくてもいいです。明るく振る舞わなくてもいいです。わたしたちに気を遣う必要もありません」
フランの唇が、見る見るうちに小刻みに震え始めた。
「でも……」
「でも、ではないわ」
カトレアは静かに、けれど絶対に反論を許さない声で遮った。
「アナタは友達の前でも、ずっと完璧なスタッフでいるつもり?」
「……っ」
「アタクシたちは、アナタに完璧なリーグスタッフでいてほしくて、わざわざここへ呼んだわけではないの」
カトレアの冷たかった声が、春の雪解けのように、少しだけ柔らかく、甘く変化する。
「ただのフランとして、ここにいなさい」
その魔法のような言葉を聞いた瞬間。
フランの大きな瞳から、限界まで堪えられていた涙が、ついに重力に従ってぽろりと零れ落ちた。
一粒の涙を皮切りに、決壊したダムのように、堰を切ったように大粒の涙が次々と溢れ出し、彼女の頬を濡らしていく。
「あ……ごめ、なさ……っ」
「謝らなくていいです」
シキミが素早くポケットから清潔なハンカチを取り出し、差し出す。フランはそれを受け取ろうとしたが、手がガタガタと震えてうまく掴むことができなかった。シキミはそのままハンカチを持ち、子どもの涙を拭うように、そっと彼女の濡れた頬を拭った。
「ごめんなさい……あたし、ちゃんとしなきゃって……ギーマさんがいなくても、ちゃんと働かなきゃって……みなさんに迷惑かけちゃだめだって……」
「迷惑ではないわ」
カトレアが静かに肯定する。
「でも、あたし……っ」
フランは呼吸を乱しながら、自身の胸元の服をぎゅっと力強く握りしめた。
「ギーマさんがいないと、どうしたらいいか分からないんです……。朝起きても、リーグに行っても、控室に行っても、どこかにいる気がして……でも、いなくて……」
嗚咽に遮られ、言葉が何度も途切れる。それでも、カトレアとシキミは一切急かすことなく、彼女が言葉を紡ぎ終わるのをじっと待ち続けた。
「ギーマさん、あたしのこと……嫌いになったわけじゃないって、思いたいんです。きっと、彼なりの理由があるって。でも……何も言わずにいなくなるくらいなら、あたしには言えない、重たいことだったのかなって……」
「……」
「あたし、隣にいたかったです……。ギーマさんが落ちぶれたって、何も持ってなくたって、そんなの関係なかったのに……!」
フランの悲痛な叫び声が、客間に響き渡る。
「でも、そんなこと言ったら、ギーマさんの負担になるかもしれないって……。だから、言えなくて……っ」
もらい泣きしそうになるのを必死に堪え、シキミは奥歯を噛み締めた。今泣くべきなのは自分ではない。フランがすべての感情を吐き出せるように、自分がしっかりしなければならないのだ。
カトレアは優雅な足取りで静かに立ち上がり、フランの隣へと移動した。そして、躊躇うことなく、泣きじゃくる彼女の肩をそっと優しく抱き寄せた。
「フラン」
「……はい」
「アナタは、ギーマの荷物ではないわ」
その断言に、フランのしゃくり上げるような呼吸が一瞬だけピタリと止まった。
「彼の負担になるかどうかを、アナタ一人が想像で決めなくていい。まして、アナタの深い愛情が彼の重荷だなんて、勝手に自己完結して決めてはいけない」
「でも……」
「ギーマが何を思って、アナタの手を離したのかは、今のアタクシたちには分からないわ」
カトレアの声は、事実だけを述べるようにひどく冷静だった。
「でも、これだけははっきりと言える。アナタが彼を心から好きだったことは、絶対に間違いではない」
フランの瞳から、再び温かい涙がとめどなく溢れ出す。
「アナタがどんな状況になっても彼の隣にいたいと願ったことも、間違いではないわ」
「カトレアさん……」
「そして、今もこうして会いたいと思っていることも」
カトレアは、フランを労わるように、彼女の髪を優しく撫でた。
「間違いではない」
その肯定の言葉に包まれ、フランはついに声を上げて泣き崩れた。
今まで無意識のうちに堪え、蓋をしてきたあらゆる感情が、すべてこぼれ落ちていくように。ギーマの名前を何度も何度も呼びながら。会いたいと、狂おしいほどに繰り返しながら。どうして自分を置いていったのかと泣き叫びながら。
それでも、やっぱり彼が好きだと、途切れ途切れの声で泣きながら。
シキミは、震えるフランの手を両手でしっかりと握り続けた。カトレアは、泣き叫ぶ彼女の身体を温かく抱きしめ続けた。
二人は決して、フランを泣き止ませようとはしなかった。ただ、彼女がすべての涙を流し尽くすまで、安心して泣ける場所であり続けたのだ。
フランが泣き疲れ、そのまま電池が切れたように眠ってしまった後。
客間のソファには、膝掛けをしっかりと掛けられて横たわる彼女の姿があった。長時間泣き続けたため、目元は痛々しいほどに赤く腫れている。けれど、眠るその表情からは張り詰めていた緊張が消え、少しだけ穏やかに緩んでいた。
彼女の中でずっとギリギリに張り詰めていた糸が、二人の優しさによってようやくほどけたようだった。
シキミはソファの傍らに立ち、小さく安堵の息を吐き出した。
「……眠れましたね」
「ええ」
カトレアは窓辺に静かに佇み、夕暮れに染まるサザナミの海を眺めていた。オレンジ色の柔らかな光が、穏やかな海面に淡くキラキラと反射している。
「カトレアさん」
「なに」
「アタシ、ギーマさんにとても怒っています」
「知っているわ」
「でも……フランさんがあんなにギーマさんを好きでいるなら、いつかちゃんと再会して、向き合ってほしいとも思ってしまいます」
「ええ」
「矛盾していますね」
シキミの自嘲するような呟きに、カトレアは振り返らずに静かに答えた。
「友達の恋を傍で見守るなんて、だいたい矛盾だらけのものよ」
カトレアは海から視線を外し、眠るフランへと目を向けた。
「泣かせた相手を絶対に許したくない。でも、その憎い相手でなければ、友達が本当の意味で救われないこともある。ひどく腹立たしい事実だけれどね」
「……はい」
シキミは、眠るフランの手元を見つめた。彼女の小さな手は、掛けられた膝掛けの端をぎゅっと無意識に握りしめている。まるで、いなくなってしまった誰かの服の裾を、必死に掴もうとしているかのように。
「フランさん、きっと彼を探しに行きますね」
「そうでしょうね」
シキミの推測に、カトレアは少しも驚く様子を見せなかった。
「この子は、ただ泣いて待つだけでは終われない性格よ。たくさん泣いて、迷って、何度も自分を責めて、それでも最後には必ず自分の足で動く」
「止めますか?」
「危ないならもちろん止めるわ」
カトレアは窓辺から離れ、シキミの隣へと歩み寄った。
「でも、会いに行くこと自体は決して止めない」
「……」
「フランの抱く気持ちは、フランだけのものよ。いくら友達だからといって、アタクシたちがそれを取り上げる権利まではないわ」
カトレアはソファで眠るフランを見下ろし、彼女の顔にかかっていた前髪をそっと払って整えてやった。
「ただし」
続くその声は、深海の底のように低く、冷たかった。
「もし再会した時、ギーマがまた自己完結した理由でこの子を突き放すような真似をするなら」
その言葉に含まれた恐ろしい気迫に、シキミは思わず静かに息を呑んだ。
「その時は、今度こそ許さないわ」
「……アタシもです」
シキミは、涙の跡が痛々しく残るフランの寝顔を優しく見つめた。
「アタシが書く物語では、深い苦しみの先には必ず救いがあってほしいんです。少なくとも、フランさんの現実の物語には」
カトレアは、シキミの言葉に同調するように少しだけ切れ長の目を細めた。
「なら、今はこの子が自分自身で次のページをめくる決意ができるまで、アタクシたちがしっかりとそばにいて支えることね」
「はい」
その夜、フランはサザナミの別荘のふかふかのベッドで一晩を過ごした。
翌朝、目を覚ました彼女は、リビングにいた二人を見るなり、ひどく恥ずかしそうに身を縮めて謝った。
取り乱して泣いてしまってごめんなさい。大切な休日を潰して、迷惑をかけてごめんなさい。
そんなふうに申し訳なさそうに言葉を並べるフランに対し、カトレアは淹れたての紅茶のカップを彼女の手元にそっと置きながら、静かに言った。
「謝ったら怒ると言ったでしょう」
シキミは、昨日の残りのガトーショコラを切り分けながら明るく笑い飛ばした。
「たくさん泣いた後は、甘いものを摂取するのが鉄則です!」
そのやり取りに、フランは少しだけ泣きそうな顔をしたが、今度は誤魔化すような作り笑いではなく、心からの柔らかな笑みを浮かべた。
「……ありがとうございます」
その笑顔は、まだ少し弱々しかった。傷は完全に癒えたわけではないし、ギーマがこの世界から消えてしまったという絶望的な事実も、何も変わってはいない。
けれど、フランはもう一人ではなかった。
泣かない顔をして一人で立ち続けようとする彼女のそばには、いつでも「泣いていい」と言って抱きしめてくれる友達がいる。彼の名前を呼んでもいいと許してくれる友達がいる。自分を責めるなと、何度でも繰り返し教えてくれる友達がいるのだ。
シキミは、このサザナミでの一日のことを、自身の執筆する原稿には一切書かなかった。物語として消費するには、あまりにも個人的で、大切すぎる時間だったからだ。
カトレアもまた、この日の出来事を他のスタッフに詳しく話すことはなかった。ただ、その後もフランが無理をして「いつも通り」を装って笑おうとするたびに、その痛々しさを見抜いては、無言で温かい紅茶を淹れてやった。
そして、二人は心の奥底で、全く同じことを強烈に思っていた。
ギーマ。
アナタが今、世界のどこで何をしているのかは知らない。すべてを投げ打ってまで、何を思ってこの場所を去ったのかも、まだ誰にも分からない。
けれど。
この子があなたのために流した、血を吐くような涙の重さを、決して忘れないで。
この子が、すべてを失ったあなたであっても、それでも好きだと言い切ったその覚悟を、絶対に軽く見ないで。
もし、遠い未来に、もう一度フランの前にあなたが現れる日が来るのなら。
今度こそ、つまらないプライドで逃げずに、彼女のその手をしっかりと取りなさい。
そうでなければ、彼女の友達として、私たちが絶対に許さない。
窓の外に広がるサザナミの海は、今日も穏やかに太陽の光を反射して輝いていた。
その海のずっと向こう側に、いなくなってしまったギーマがいるということを、今はまだ誰も知らない。
けれど、いつかフランの足が、必ずそこへ辿り着く日が来る。
シキミとカトレアは、彼女が自分自身の意志で立ち上がり、決意の歩みを進めるその日まで、彼女が再び倒れてしまわないように、そっと優しく隣に立ち続けるのだった。
野心に満ちた挑戦者たちは次々と門を叩き、受付の電話は絶え間なく鳴り響き、処理すべき書類はスタッフのデスクに高く積み上がっていく。ポケモンリーグという巨大な組織は、誰か一人が欠けたからといってその喪失を嘆き、歩みを止めてくれるほど優しい場所ではない。
その冷酷な事実は、四天王の一人であるシキミにも痛いほど分かっていた。彼女自身、四天王としての役割に従い、挑戦者を迎え入れ、全力で戦い、勝ち、あるいは負けるという日々を粛々とこなすために、今日もこの控室に立っているのだ。
けれど、理屈では分かっていても、感情はそう簡単に割り切れるものではない。重厚な控室の扉がノックされ、ゆっくりと開くたびに、シキミは無意識のうちに反射的に顔を上げ、そこにいるはずのない姿を探してしまうようになった。
そこには、あの人がいるような気がしてならないのだ。少しだけ癖のある青み掛かった黒髪を揺らし、大人特有の余裕のある微笑みを浮かべて、コインを器用に指先で弄びながら現れるギーマ。そして、その少し後ろでは、抱えきれないほどの書類を持ったフランが、彼に何かを囁かれて頬を真っ赤に染めながら立っている。
ほんの少し前までは、息をするのと同じくらい当たり前のように存在していたその光景は、今はもう、どこにもない。
「……シキミ」
静寂を破るカトレアの落ち着いた声に、シキミははっと我に返った。視線を落とすと、テーブルの上には書きかけの原稿用紙が広げられているが、手元のペンは完全に止まっており、そこにはここ数十分、一行の文字も増えてはいなかった。
「筆が止まっているわ」
「あ……すみません」
「謝る必要はないけれど」
カトレアはふかふかのソファに優雅に腰掛け、微かに湯気を立てる紅茶のカップを静かに傾けていた。その立ち振る舞いはいつも通り完璧で、絵画のように優雅なものだったが、長く時間を共にしているシキミには痛いほどよく分かる。カトレアもまた、視線を落とすふりをして、扉の方を何度か気にしているのだと。
ギーマの空席。それは、ただでさえ広い控室の中で、あまりにも目立つ空白として横たわっていた。彼がいつも気怠げに身を沈めていた椅子。彼が好んで使っていたティーカップ。テーブルの端に、いつの間にか忘れられたままになっている一枚の古いトランプカード。
誰も、その空白に触れようとはしない。触れることができないのだ。
「……フランさん、大丈夫でしょうか」
耐えきれず、シキミはぽつりと不安をこぼすように呟いた。
カトレアはすぐには答えなかった。静かにカップをソーサーに置くわずかな音だけが響く。答えないことが、彼女なりの答えだった。
その重苦しい沈黙を破るように、コンコン、と控室の扉が控えめにノックされた。
「失礼します」
扉の向こうから聞こえてきたのは、聞き慣れた愛らしい声だった。シキミとカトレアの視線が、弾かれたように同時に扉へと向く。
そっと扉を開けて入ってきたのは、他でもないフランだった。彼女は腕に今日処理すべき書類の束をしっかりと抱えている。顔には、挑戦者に向けるのと同じような、にこやかな笑顔が貼り付いていた。
「シキミさん、カトレアさん。本日の挑戦者予定表と、連絡事項の確認書類をお持ちしました」
その声は、驚くほど明るかった。姿勢も真っ直ぐに伸びており、少しも崩れていない。彼女は今、周囲に少しの心配もかけまいと、完璧にいつも通りの仕事をこなそうとしているのだ。
シキミは、そのあまりにも完璧ないつも通りが、見ていて胸が張り裂けそうになるほど痛かった。
「ありがとうございます、フランさん」
シキミが慌てて立ち上がって書類を受け取ると、フランは明るくにこりと笑った。
「いえ! 今日も挑戦者さんが何人かいらっしゃる予定なので、必要そうな資料はまとめておきました。あと、カトレアさんの分の紅茶も補充しておきましたよ。シキミさんの原稿用紙も、いつもの引き出しに追加してあります」
「あら。気が利くわね」
カトレアが静かに相槌を打つ。
「ありがとうございます。何か他に必要なものがあれば言ってくださいね」
フランはそう言って、また明るく笑った。丁寧に、周囲の空気を一切崩さないように、細心の注意を払って。
しかし、その笑顔を見た瞬間、カトレアの白く細い指が、カップの取っ手にわずかに力を込めたのをシキミは見逃さなかった。シキミもまた、気づいてしまったのだ。
よく見れば、フランの目元は泣き明かしたようにうっすらと赤く腫れている。それを少しでも隠そうとしているのか、いつもより前髪を深く下ろしていることにも。そして何より、書類を渡した後に身体の横に下ろされた彼女の指先が、ほんの少しだけ、小刻みに震えていることに。
「フラン」
カトレアが、感情を読み取らせない静かな声で呼んだ。
「はい?」
「今日はもう少し休んだらどうかしら」
その提案に、フランはきょとんと目を丸くした後、慌てたようにぶんぶんと首を横に振った。
「だ、大丈夫です! あたし、ちゃんと働けますから」
「働けるかどうかを聞いているのではないわ」
「本当に大丈夫です。みなさんにご迷惑はかけられませんし、ギーマさ……」
そこで、フランの声が唐突に途切れた。
控室の空気が、わずかに揺らぐ。彼女がふいに言いかけてしまった名前。もう、この場所のどこを探してもいない人の名前。
フランは一瞬だけ、後悔を滲ませるようにギュッと唇を噛んだ。けれど、次の瞬間には、本当に何事もなかったかのように再び笑顔を作り直した。
「……四天王のみなさんが、バトルに集中できるようにするのが、あたしの仕事ですから!」
シキミは、胸の奥を強く締めつけられるような錯覚に陥った。
違う。そんなふうに、自分を殺してまで笑わなくていい。大好きな人がいなくなってしまったのだから、大声で泣いていいし、理不尽に置いていかれたことを怒っていい。ただ一言、寂しいと泣き喚いてくれた方が、どれほど安心できただろうか。
でも、フランは絶対に自分の口からは言わないのだ。彼女は自身の張り裂けそうな悲しみよりも先に、相手の仕事を、周囲への迷惑を、リーグ内の空気を優先して考えてしまう、そういう底抜けにお人好しな性質なのだ。それがフランという少女の本来の美徳でありらしさなのだが、今の状況下では、それが何よりも痛々しく映った。
「……そう」
カトレアはそれ以上、無理に彼女を休ませようとは言わなかった。ただ静かに、何かを見極めるような鋭い瞳でフランを見つめるだけだった。
「でも、疲れたらここへ来なさい」
「え?」
「お茶くらいは出すわ」
その言葉の裏に隠された不器用な優しさに触れ、シキミも慌てて大きく頷いた。
「そうです! わたしもいますから! 原稿の話でも、怖い話でも、楽しい話でも、何でもします!」
「シキミさんの怖い話は、今はちょっと心臓に悪いかもです」
フランが少しだけ肩の力を抜き、ふふっと笑った。その笑みは、先ほどまでの張り付いたような笑顔よりは、いくぶん自然なものに見えた。シキミはそれを見て、少しだけ安堵の息を吐き出す。
「では、甘いお話にします! お茶会とガトーショコラのお話です!」
「ふふ、それなら聞きたいです」
「約束ですよ」
「はい」
フランは小さく頷いた。けれど、彼女の顔はすぐにまた、隙のない仕事用の表情へと戻ってしまう。
「では、あたしは受付に戻りますね」
「フラン」
扉へ向かおうとした彼女の背中に、カトレアがもう一度声をかけた。フランが不思議そうに振り返る。
「無理をしたら、怒るわよ」
思いがけない言葉にフランは一瞬だけ目を丸くしたが、やがて困ったように眉尻を下げて、力なく笑った。
「……はい。気をつけます」
そう言い残し、彼女は足早に控室を出ていった。重い扉が閉まり、廊下を遠ざかっていく足音だけが微かに残る。
シキミは、閉じられた扉をしばらくの間、じっと見つめていた。
「……カトレアさん」
「なに」
「フランさん、泣いています」
「ええ」
カトレアは、完全に冷めてしまった紅茶のカップを静かに置いた。
「でも、泣いていない顔をしているわ」
その言葉が、鋭い棘のようにシキミの胸の奥深くへと刺さった。
心の中ではたくさん泣いているだろうに、表面上は絶対に泣いていない顔をしている。今のフランの危うい精神状態は、まさにその一言に尽きた。
「ギーマさんは……」
シキミは思わず言いかけて、慌てて口を閉じた。今、フランをこんなにも苦しめている元凶の名前を、責めるように呼びたくなかったからだ。けれど、心の底では彼に対するやり場のない怒りと疑問が渦巻いていた。
どうして。どうして、あんなにも純粋なあの子を無惨に置いていってしまったのですか。あんなに真っ直ぐに、何の見返りも求めず、ただあなたという存在を愛していた子を。あなたがいなくなってしまった今でさえ、あなたのことを一言も悪く言おうとしない、健気な子を。どうして、誰にも何も言わず、たった一人で何もかもを決めてしまったのですか。
「……怒っている?」
見透かしたように、カトレアが静かな声で尋ねた。
シキミは膝の上で両手をぎゅっと固く握りしめた。
「怒っています」
いつもなら物語のハッピーエンドを夢見るシキミの口から出たのは、珍しくはっきりとした、強い感情の乗った声だった。
「とても、怒っています」
「そう」
「でも……フランさんがギーマさんを庇うのも分かるんです。きっと、ギーマさんにも理由があったのだと思います。勝負に負けて、何かを失って、それで……」
「理由があれば、泣かせていいわけではないわ」
カトレアの声は、氷のように冷徹で冷静だった。けれど、その声音の奥底には、友人を傷つけられたことに対する確かな怒りの炎が揺らめいているのが分かった。
「フランは、ギーマのためなら自分の痛みを後回しにする。だからこそ、周りが怒らなければならない時もあるのよ」
「……はい」
シキミは小さく頷いた。
自分が書くような美しい物語であれば、悲劇の主人公はここで月明かりの下に一人佇み、美しい涙を流すのだろう。けれど、現実のフランは決して泣こうとはしない。少なくとも、誰かの目がある人前では絶対に崩れようとしないのだ。
その頑なさが、見守る側にとっては余計に苦しく、もどかしかった。
その日の夕方のことだ。
シキミは廊下の角を曲がったところで、ふと前を歩くフランの姿を見つけた。彼女は今日の受付業務をすべて終えたらしく、片付けのための書類を胸に抱えて資料室へと向かっているところだった。
後ろ姿を見る限り、背筋はピンと伸びているし、足取りも普段の彼女とほとんど変わらないように見えた。
けれど、資料室の重い扉の前まで来た時、彼女は不自然にピタリと足を止めたのだ。
そこは、在りし日のギーマが、よくフランを待ち伏せしては呼び止めていた場所だった。
書類を渡すふりをして大股で距離を詰めたり、彼女の艶やかな髪を優しく撫でたり、フランが耳の先まで真っ赤になるような大人の甘い言葉を囁いたり。シキミは物陰から、そのやり取りを何度も目撃したことがある。
それはまるで上質な恋愛小説のワンシーンのようで、シキミとしてはついペンを取り出してメモをしたくなるほど甘美な光景だった。けれど、今のフランにとっては、当時の記憶が鮮明に蘇るその場所は、あまりにも心臓に悪く、残酷な空間でしかなかった。
「……」
立ち尽くすフランは、何も言わなかった。ただ、固く閉ざされた資料室の扉を、すがるような目で見つめている。
そこからふいに扉が開き、あの人が現れることなど、もう二度とないというのに。ひんやりとした香水の匂いと共に、低く甘い声で「フラン」と愛しげに呼んでくれる人は、もうここにはいないというのに。
シキミは声をかけようとして、思わず口をつぐんで迷った。
今ここで声をかけてしまえば、フランは弾かれたように振り返り、いつものように完璧な笑顔を作って見せるだろう。そして、何も聞く前から「大丈夫です」と気丈に言うに決まっている。それが手に取るように分かっていたからだ。
だから、シキミは物陰に隠れたまま、少しだけ待つことにした。フランがずっと心の内に閉じ込めている本当の気持ちを、ほんの少しでも外の世界にこぼし出せるように。
やがて、静寂に包まれた廊下で、フランの華奢な肩が小さく震え始め、彼女は震える息を微かに吸い込んだ。
「……ギーマさん」
こぼれ落ちたその声は、本当に、今にも消え入ってしまいそうなほど小さかった。誰かに聞かせるためではない。限界まで膨れ上がった寂しさが、器から溢れ出すようにただこぼれてしまったように紡がれた、フランにとって世界の誰よりも愛しい男の名前。
その切実な響きに、シキミは胸をナイフで抉られたように痛くなった。
フランはすぐにハッとしたように顔を上げ、我に返って慌てて周囲を見回した。そして、物陰に立っていたシキミと、バッチリ目が合ってしまったのだ。
「……っ」
フランの顔から、さっと血の気が引いて青ざめていくのが分かった。
「シ、シキミさん……!」
「フランさん」
「あの、今のは……その、違うんです。あたし、別に……」
「違わなくていいです」
シキミは、言い訳をしようとする彼女の言葉を、静かに、けれど強い意志を持って遮った。
フランが驚きに息を呑む。
「違わなくて、いいんです」
「……」
「ギーマさんの名前を呼びたいなら、呼んでいいです。会いたいなら、会いたいって思っていいです。寂しいなら……寂しいって、思っていいんです」
シキミの温かく真っ直ぐな言葉に、フランの作られた表情が少しずつ崩れかけていく。けれど、彼女はそれでもなお、必死に歪む口角を上げて笑おうとした。
「でも……あたしがそんなこと言ったら、みなさん困っちゃうじゃないですか」
「困りません」
「だって、ギーマさんだってきっと……何か理由があって……」
「理由があっても、フランさんが辛いことに変わりはありません」
シキミは隠れていた角から歩み出て、フランへと一歩近づいた。いつものようなテンションの高い大げさな身振り手振りはない。ただ、一人の心から心配している友達として、彼女に向き合う。
「フランさん。アタシは物語を書くのが好きです。悲しい場面も、別れの場面も、たくさん書きます。けれど……」
シキミの声が、たまらず震えを帯びた。
「友達が本当に苦しんでいるのを、物語みたいだなんて思えません」
フランの瞳が、大きく揺らいだ。
「シキミさん……」
「だから、どうか、アタシたちの前では振る舞わないでください」
シキミは両手を伸ばし、フランの細い肩をそっと包み込んだ。
「泣いても、怒っても、弱音を吐いてもいいんです」
「……」
「アタシたち、友達でしょう?」
その決定的な一言に、ついにフランの顔がくしゃりと歪んだ。
固く結ばれていた唇が震え始める。それでも、彼女の大きな瞳からは、いまだに涙は落ちてこない。彼女は心の底から込み上げてくる慟哭を、必死に、痛々しいほどに堪えているのだ。
シキミはそれ以上言葉を重ねず、ただ力強くフランの身体を抱きしめた。制服越しに伝わってくるフランの体は、シキミが思っていたよりもずっと冷え切っていた。
少し遅れて、ためらいがちにフランの手が持ち上がり、シキミの背中へと回された。
「……会いたいです」
沈黙の末に、震える声がようやくこぼれ落ちた。
「ギーマさんに、会いたいです……」
それは、彼女がギーマの失踪以来、ずっと奥底に押し込めて、誰にも言えずにいた本当の本音だった。
シキミはフランの背中を、子どもをあやすようにそっと優しく撫で続ける。
「はい」
「あたし、怒りたいのに……でも、心配で……ギーマさんがどこかで苦しんでるんじゃないかって思うと、怒れなくて……」
「はい」
「でも、寂しいです……っ」
そこで、張り詰めていたフランの感情の糸が、完全にプツリと切れた。
「なんで何も言わずにいなくなっちゃったのって、思っちゃうんです……! あたし、そんなに頼りなかったのかなって……ギーマさんの隣にいたいなんて、やっぱりあたしの我儘だったのかなって……!」
「違います」
堰を切ったように自分を責め始めるフランの言葉を、シキミは強く否定した。
「それは違います、フランさん」
シキミの腕の中で、フランの肩が大きく震え始める。
「ギーマさんが何を考えていたとしても、フランさんが悪いわけではありません」
「でも……」
「ありません」
シキミは、自分自身に言い聞かせるように何度も繰り返した。フランがこれ以上、理不尽な喪失の中で自分自身を責めて傷つけることがないように。何度でも、この言葉が彼女の心の底に届くまで、言い続けるつもりだった。
その夜、カトレアは自室で、シキミから夕方の出来事を詳細に聞いていた。
フランが資料室の扉の前で一人立ち尽くし、泣いていたこと。誰にも聞かれないように、消え入りそうな声でギーマの名前を呼んだこと。そして、彼の失踪の理由を自分自身の力不足のせいだと思い込み、激しく自分を責めていたこと。
カトレアはシキミの報告を、途中で口を挟むことなく静かに聞いていた。怒鳴り散らすことも、大げさに驚くこともなかった。ただ、すべてを聞き終えた後、静かに目を閉じて、深く長い息を吐き出した。
「……やはりね」
「カトレアさん」
「フランは、自分の痛みをすべて一人で処理しようとする子よ。しかも、理不尽を強いた相手を責める前に、まず自分を責めてしまう」
「はい……」
「厄介ね」
その言葉だけを切り取れば少し冷たく聞こえるかもしれないが、シキミには痛いほどよく分かっていた。
カトレアは、心の底から怒っているのだ。それは不器用なフランに対してではない。フランをここまで追い詰め、一人で苦しませている今の残酷な状況に。そして、間違いなく、何も言わずに姿を消したギーマという男に対して。
「明日、フランをサザナミに呼びましょう」
「別荘ですか?」
「ええ」
カトレアはソファから優雅に立ち上がった。
「リーグという組織の中では、あの子はどうしても『完璧なスタッフ』の顔をしてしまうもの。彼女の心の鎧を脱がせるためには、物理的に場所を変える必要があるわ」
「お茶会、ですね」
「ええ。お茶会よ」
カトレアは窓の外の夜景に視線を向けながら、少しだけ瞳を細めた。
「ただし、今回は恋バナをしてからかうためではないわ」
「……はい」
「泣くための場所を用意するの」
その断固とした響きに、シキミの胸が熱く詰まった。
泣くための場所。誰にも気を遣わず、ただ自分の悲しみだけに溺れることができる安全な場所。今の張り詰めたフランには、きっと何よりもそれが必要だったのだ。
翌日の午後。
フランは予定通り、サザナミタウンにあるカトレアの豪奢な別荘へと呼び出された。
「えっと、あの、お二人とも……これは、どういう……?」
「座りなさい」
通された客間には、すでに極上のお茶会の準備が整えられていた。アンティークのテーブルには、芳醇な香りを漂わせる紅茶と、色とりどりの菓子が美しく並べられている。
フランが大好きな、濃厚なガトーショコラ。温かいエネココア。シキミが厳選して買ってきたという小さな焼き菓子たち。そして、ソファの上には柔らかな膝掛けが用意されていた。
それはまるで、これからどれだけ泣いて心が冷え切っても、絶対に寒くならないようにという、二人からの無言のメッセージのようだった。
フランはその至れり尽くせりの用意を見て、何のために自分が呼ばれたのかを察したのか、少しだけ表情を不安げに揺らした。
「……あの、カトレアさん、シキミさん」
「今日は仕事の話はしないわ」
カトレアが先手を打つように、ぴしゃりと言い放った。
「ギーマのことを、話してもいいし、話さなくてもいい。ただし、ここで『大丈夫です』という言葉を使うのは禁止よ」
フランが小さく息を呑む。シキミがソファでフランの隣に腰を下ろし、彼女の少し冷たい手を両手で優しく握りしめた。
「フランさん。今日は、頑張らなくていい日です」
「……」
「笑わなくてもいいです。明るく振る舞わなくてもいいです。わたしたちに気を遣う必要もありません」
フランの唇が、見る見るうちに小刻みに震え始めた。
「でも……」
「でも、ではないわ」
カトレアは静かに、けれど絶対に反論を許さない声で遮った。
「アナタは友達の前でも、ずっと完璧なスタッフでいるつもり?」
「……っ」
「アタクシたちは、アナタに完璧なリーグスタッフでいてほしくて、わざわざここへ呼んだわけではないの」
カトレアの冷たかった声が、春の雪解けのように、少しだけ柔らかく、甘く変化する。
「ただのフランとして、ここにいなさい」
その魔法のような言葉を聞いた瞬間。
フランの大きな瞳から、限界まで堪えられていた涙が、ついに重力に従ってぽろりと零れ落ちた。
一粒の涙を皮切りに、決壊したダムのように、堰を切ったように大粒の涙が次々と溢れ出し、彼女の頬を濡らしていく。
「あ……ごめ、なさ……っ」
「謝らなくていいです」
シキミが素早くポケットから清潔なハンカチを取り出し、差し出す。フランはそれを受け取ろうとしたが、手がガタガタと震えてうまく掴むことができなかった。シキミはそのままハンカチを持ち、子どもの涙を拭うように、そっと彼女の濡れた頬を拭った。
「ごめんなさい……あたし、ちゃんとしなきゃって……ギーマさんがいなくても、ちゃんと働かなきゃって……みなさんに迷惑かけちゃだめだって……」
「迷惑ではないわ」
カトレアが静かに肯定する。
「でも、あたし……っ」
フランは呼吸を乱しながら、自身の胸元の服をぎゅっと力強く握りしめた。
「ギーマさんがいないと、どうしたらいいか分からないんです……。朝起きても、リーグに行っても、控室に行っても、どこかにいる気がして……でも、いなくて……」
嗚咽に遮られ、言葉が何度も途切れる。それでも、カトレアとシキミは一切急かすことなく、彼女が言葉を紡ぎ終わるのをじっと待ち続けた。
「ギーマさん、あたしのこと……嫌いになったわけじゃないって、思いたいんです。きっと、彼なりの理由があるって。でも……何も言わずにいなくなるくらいなら、あたしには言えない、重たいことだったのかなって……」
「……」
「あたし、隣にいたかったです……。ギーマさんが落ちぶれたって、何も持ってなくたって、そんなの関係なかったのに……!」
フランの悲痛な叫び声が、客間に響き渡る。
「でも、そんなこと言ったら、ギーマさんの負担になるかもしれないって……。だから、言えなくて……っ」
もらい泣きしそうになるのを必死に堪え、シキミは奥歯を噛み締めた。今泣くべきなのは自分ではない。フランがすべての感情を吐き出せるように、自分がしっかりしなければならないのだ。
カトレアは優雅な足取りで静かに立ち上がり、フランの隣へと移動した。そして、躊躇うことなく、泣きじゃくる彼女の肩をそっと優しく抱き寄せた。
「フラン」
「……はい」
「アナタは、ギーマの荷物ではないわ」
その断言に、フランのしゃくり上げるような呼吸が一瞬だけピタリと止まった。
「彼の負担になるかどうかを、アナタ一人が想像で決めなくていい。まして、アナタの深い愛情が彼の重荷だなんて、勝手に自己完結して決めてはいけない」
「でも……」
「ギーマが何を思って、アナタの手を離したのかは、今のアタクシたちには分からないわ」
カトレアの声は、事実だけを述べるようにひどく冷静だった。
「でも、これだけははっきりと言える。アナタが彼を心から好きだったことは、絶対に間違いではない」
フランの瞳から、再び温かい涙がとめどなく溢れ出す。
「アナタがどんな状況になっても彼の隣にいたいと願ったことも、間違いではないわ」
「カトレアさん……」
「そして、今もこうして会いたいと思っていることも」
カトレアは、フランを労わるように、彼女の髪を優しく撫でた。
「間違いではない」
その肯定の言葉に包まれ、フランはついに声を上げて泣き崩れた。
今まで無意識のうちに堪え、蓋をしてきたあらゆる感情が、すべてこぼれ落ちていくように。ギーマの名前を何度も何度も呼びながら。会いたいと、狂おしいほどに繰り返しながら。どうして自分を置いていったのかと泣き叫びながら。
それでも、やっぱり彼が好きだと、途切れ途切れの声で泣きながら。
シキミは、震えるフランの手を両手でしっかりと握り続けた。カトレアは、泣き叫ぶ彼女の身体を温かく抱きしめ続けた。
二人は決して、フランを泣き止ませようとはしなかった。ただ、彼女がすべての涙を流し尽くすまで、安心して泣ける場所であり続けたのだ。
フランが泣き疲れ、そのまま電池が切れたように眠ってしまった後。
客間のソファには、膝掛けをしっかりと掛けられて横たわる彼女の姿があった。長時間泣き続けたため、目元は痛々しいほどに赤く腫れている。けれど、眠るその表情からは張り詰めていた緊張が消え、少しだけ穏やかに緩んでいた。
彼女の中でずっとギリギリに張り詰めていた糸が、二人の優しさによってようやくほどけたようだった。
シキミはソファの傍らに立ち、小さく安堵の息を吐き出した。
「……眠れましたね」
「ええ」
カトレアは窓辺に静かに佇み、夕暮れに染まるサザナミの海を眺めていた。オレンジ色の柔らかな光が、穏やかな海面に淡くキラキラと反射している。
「カトレアさん」
「なに」
「アタシ、ギーマさんにとても怒っています」
「知っているわ」
「でも……フランさんがあんなにギーマさんを好きでいるなら、いつかちゃんと再会して、向き合ってほしいとも思ってしまいます」
「ええ」
「矛盾していますね」
シキミの自嘲するような呟きに、カトレアは振り返らずに静かに答えた。
「友達の恋を傍で見守るなんて、だいたい矛盾だらけのものよ」
カトレアは海から視線を外し、眠るフランへと目を向けた。
「泣かせた相手を絶対に許したくない。でも、その憎い相手でなければ、友達が本当の意味で救われないこともある。ひどく腹立たしい事実だけれどね」
「……はい」
シキミは、眠るフランの手元を見つめた。彼女の小さな手は、掛けられた膝掛けの端をぎゅっと無意識に握りしめている。まるで、いなくなってしまった誰かの服の裾を、必死に掴もうとしているかのように。
「フランさん、きっと彼を探しに行きますね」
「そうでしょうね」
シキミの推測に、カトレアは少しも驚く様子を見せなかった。
「この子は、ただ泣いて待つだけでは終われない性格よ。たくさん泣いて、迷って、何度も自分を責めて、それでも最後には必ず自分の足で動く」
「止めますか?」
「危ないならもちろん止めるわ」
カトレアは窓辺から離れ、シキミの隣へと歩み寄った。
「でも、会いに行くこと自体は決して止めない」
「……」
「フランの抱く気持ちは、フランだけのものよ。いくら友達だからといって、アタクシたちがそれを取り上げる権利まではないわ」
カトレアはソファで眠るフランを見下ろし、彼女の顔にかかっていた前髪をそっと払って整えてやった。
「ただし」
続くその声は、深海の底のように低く、冷たかった。
「もし再会した時、ギーマがまた自己完結した理由でこの子を突き放すような真似をするなら」
その言葉に含まれた恐ろしい気迫に、シキミは思わず静かに息を呑んだ。
「その時は、今度こそ許さないわ」
「……アタシもです」
シキミは、涙の跡が痛々しく残るフランの寝顔を優しく見つめた。
「アタシが書く物語では、深い苦しみの先には必ず救いがあってほしいんです。少なくとも、フランさんの現実の物語には」
カトレアは、シキミの言葉に同調するように少しだけ切れ長の目を細めた。
「なら、今はこの子が自分自身で次のページをめくる決意ができるまで、アタクシたちがしっかりとそばにいて支えることね」
「はい」
その夜、フランはサザナミの別荘のふかふかのベッドで一晩を過ごした。
翌朝、目を覚ました彼女は、リビングにいた二人を見るなり、ひどく恥ずかしそうに身を縮めて謝った。
取り乱して泣いてしまってごめんなさい。大切な休日を潰して、迷惑をかけてごめんなさい。
そんなふうに申し訳なさそうに言葉を並べるフランに対し、カトレアは淹れたての紅茶のカップを彼女の手元にそっと置きながら、静かに言った。
「謝ったら怒ると言ったでしょう」
シキミは、昨日の残りのガトーショコラを切り分けながら明るく笑い飛ばした。
「たくさん泣いた後は、甘いものを摂取するのが鉄則です!」
そのやり取りに、フランは少しだけ泣きそうな顔をしたが、今度は誤魔化すような作り笑いではなく、心からの柔らかな笑みを浮かべた。
「……ありがとうございます」
その笑顔は、まだ少し弱々しかった。傷は完全に癒えたわけではないし、ギーマがこの世界から消えてしまったという絶望的な事実も、何も変わってはいない。
けれど、フランはもう一人ではなかった。
泣かない顔をして一人で立ち続けようとする彼女のそばには、いつでも「泣いていい」と言って抱きしめてくれる友達がいる。彼の名前を呼んでもいいと許してくれる友達がいる。自分を責めるなと、何度でも繰り返し教えてくれる友達がいるのだ。
シキミは、このサザナミでの一日のことを、自身の執筆する原稿には一切書かなかった。物語として消費するには、あまりにも個人的で、大切すぎる時間だったからだ。
カトレアもまた、この日の出来事を他のスタッフに詳しく話すことはなかった。ただ、その後もフランが無理をして「いつも通り」を装って笑おうとするたびに、その痛々しさを見抜いては、無言で温かい紅茶を淹れてやった。
そして、二人は心の奥底で、全く同じことを強烈に思っていた。
ギーマ。
アナタが今、世界のどこで何をしているのかは知らない。すべてを投げ打ってまで、何を思ってこの場所を去ったのかも、まだ誰にも分からない。
けれど。
この子があなたのために流した、血を吐くような涙の重さを、決して忘れないで。
この子が、すべてを失ったあなたであっても、それでも好きだと言い切ったその覚悟を、絶対に軽く見ないで。
もし、遠い未来に、もう一度フランの前にあなたが現れる日が来るのなら。
今度こそ、つまらないプライドで逃げずに、彼女のその手をしっかりと取りなさい。
そうでなければ、彼女の友達として、私たちが絶対に許さない。
窓の外に広がるサザナミの海は、今日も穏やかに太陽の光を反射して輝いていた。
その海のずっと向こう側に、いなくなってしまったギーマがいるということを、今はまだ誰も知らない。
けれど、いつかフランの足が、必ずそこへ辿り着く日が来る。
シキミとカトレアは、彼女が自分自身の意志で立ち上がり、決意の歩みを進めるその日まで、彼女が再び倒れてしまわないように、そっと優しく隣に立ち続けるのだった。