※ネームレス

 キメツ学園高等の歴史教職をしていて、有難いことに生徒達から慕われていると実感する事は多い。
 バレンタインのチョコや誕生日プレゼントを貰う度、素直な感謝を返してきたが、愛の告白には教師としてはっきり断ってきた。
 多感な思春期に起こる恋と憧れの勘違いを、きちんと受け止めた上で正していくのが大人である俺の役目だと心得ていたからだ。
 生徒の心を傷つけてしまう事には胸を痛めたが、彼女らの人生を思えば仕方がないと割りれた。それに、一番辛いのは彼女達の方で、俺が悲嘆に暮れるのは筋違いだろう。
 しかし、一人だけ恋や憧れとは異なる感情を向けてくる女子生徒がいた。彼女の視線は底のない井戸が如く混沌としており、安易に手を下せるようなものではなかった。
 担任クラスではなかったものの授業態度や廊下ですれ違う彼女はいたって普通の生徒だった。にも関わらず、二年の月日が過ぎた今でも変わらぬ熱を俺へと注ぎ続けている。

 その異質さに初めて気付いたのは、男子生徒から誘われて休み時間に校庭でサッカーボールを追いかけていた時だ。
 シュートを決めた瞬間、刺すような視線を感じ振り向けば、そこに彼女は佇んでいた。目が合うなり軽い会釈を落として立ち去っていく姿に俺は小首を傾げるだけだった。
 あの強烈な視線は年端もいかない子供に出せるものではないと流してしまったからだ。しかし、それが間違いだと思い知る機会は割と直ぐに訪れた。
 廊下で生徒に声を掛けられて質問に答えていた日常の一幕に、また あの視線が声なき情を突き立ててくる。頬を炙られる視線の先には、またしても彼女の姿があった。
 机に頬杖をついたまま俺の瞳を見つめること数秒、ゆっくり落とされた瞬きの後には余韻も残さず、涼やかな眼差しだけが黒板を映していく。

 「煉獄先生?」
 「ぁ、いや、何でもない!」

 向かいの生徒から呼ばれた俺は、動揺を誤魔化すように語尾を強めていた。勘違いでは片付けられない光景に冷や汗が背筋を滑り落ちる。
 決して見間違いなどではない彼女の素顔は、到底少女と呼ぶには重々しく、酸いも甘いも溶かして煮詰めたような微笑みだった。
 間違って触れようものならば骨の髄まで食べられてしまうような、それでいて瞳の奥には慈愛が満ちていたから反らされた事が惜しいとすら思わせてくる。
 そこで初めて俺は彼女の恐ろしさを知ったのだ。それからは上手く隠されていた授業中の甘い視線にも気づいてしまい、悶々と耐える日々ばかりが過ぎていった。
 思い悩むなど俺らしくもないが解決しよう行動する事自体が難しかった。生徒が先生を欲目で見ていても、それを否定する権利は教師と云えど持ち合わせていないからだ。
 そして、危ぐする必要はないと言わんばかりに彼女も俺との関わりを持とうとはしなかった。おかげで清く正しい処か接点すらない生徒と先生の関係は保たれている。
 ここまで徹底させると、それはそれで肩透かしを食らった気分になり、安堵よりも先に彼女の本意が知りたいと云う気持ちの方が強くなっていく。
 目上の男性に慣れてないだけとも思ったが、宇随とは親しげに話しているのを見せつけられ、なぜ俺とは普通に接してくれないのか?そんな矛盾した気持ちを抱かせられた。
 それでも彼女の想い人は俺以外には考えられないだろう。自惚れだと笑われようが、それは疑いようもない事実として昇降口前に飾られている。
 彼女の描く人物は首から上が隠されていたが、間違いなくモデルは俺だった。あの視線と同じものを絵からも感じてしまえば間違いようがない。
 それだけの熱量を持ちながら歯牙にもかけない彼女の態度に、気付けば俺までもが罠に嵌った狐よろしく並々ならぬ感情を抱くようになっていた。

 そんな折に竈門少年へと寄り添う姿を見せつけられたのだから、到底、心中穏やかとはいかなかった。
 女性らしい手が竈門少年の額を滑るように視界を奪い、艶やかな唇から漏れた息が耳飾りを揺らす。それが、こんなにも腹立たしいとは知りたくもなかった。
 もちろん、そんな素振りは尾首にも出さなかったが、トマトジュースでまみれた腹の奥では醜い獣が蠢き、そこは俺の場所だと叫びそうにすらなる。
 それからは寝ても覚めても彼女一色な己を恥じて過ごしていた。しかし、このままではいけないと意を決して話しかけに行ったのだが、その選択肢こそが大きな間違だった。
 彼女は平然と甘く煮詰めた愛を口にしたかと思えば、俺の心中を“嫉妬”と名付けたのだ。言葉としては知っていたが初めて自覚する感情に、俺は困惑するしかなかった。
 その上、否定も肯定もいらないと告げられては途方にくれるしかない。こんなにも俺の心を かき乱しておいて、彼女は俺自身を必要としていないと云うのだ。
 酷い話だと打ちひしがれても彼女を求める気持ちは薄れてはくれず、教師にあるまじき願望に人知れず苦悩していた俺に追い打ちを掛けたのも、やはり彼女の存在だった。
 全身全霊で縋りつく千寿郎を、慈愛いっぱいに抱き留める彼女を見たら、もう心が決まっていた。俺は彼女が欲しい、あの視線を手放したくない、そう思ってしまったのだ。

 「卒業したら俺と付き合ってくれないか!」
 「何処にです?」
 「よもや?!そんなベタな返しがくるとは!?」

 この歳まで恋に焦がれた事がなかった俺は、もちろん告白の経験などなく、まさに玉砕覚悟で挑んでみれば闘牛士顔負けの軽やかさでかわされてしまう。

 「先生、私は忠告したはずですよ?」
 「うむ!分かっている!しかし、俺は君が好きだと気付いてしまった」
 「…本当に困ったお人」

 冬休みの前の今日、職権乱用と咎められそうな手で準備室に呼び出せたはいいものの、俺達は佇んだままで恋の駆け引きとも呼べない腹の探り合いをしていた。
 片手を頬に当てて視線を横に流す仕草は、高校生らしからぬ色香を漂わせいており、それは正直なところ目のやり場に困るものだった。
 しかし、返事を聞くまではと視線を逸らさずにいれば、溜息と呼ぶには甘ったるい吐息が落とされ、一歩、彼女が俺に歩み寄ってくる。
 その瞬間、本能がけたたましい警告を鳴らす。密室で彼女と二人っきりになった事を酷く後悔したが、今更逃げる訳にもいかないだろうと腹を括った。

 「私は先生を一等お慕い申しておりますが、先生の立場を…身を案じておりますの」
 「俺は自分で言うのもなんだが我慢強い方だ!断じて君が卒業後するまで手は出さん!」
 「いいえ、分かっておりません。私が心配しているのは先生の人生です」

 また一歩、彼女が俺へと近づいてくる。距離にして二メートル弱の空間がもどかしく、それでいて只ならぬ緊張感に組んでいた腕にも力が入っていく。
 まるで竹刀を構えた父上と向かい合った時のような感覚に、俺の神経は知らぬ間に高ぶっていた。読み間違いは許されない、そう理解するのも早かった。

 「もし、私が“はい”と答えたならば、もう先生は“逃げられません”よ?」
 「うむ、それは俺の望むところだな」
 「『お前死んでも寺へはやらぬ 焼いて粉にして酒で飲む』そう言っても?」

 情念を詠った都々逸(どどいつ)を口ずさみながら更に一歩、彼女は距離をつめにかかた。それでも俺は平常心を崩さずに見つめ返す。
 彼女は女鬼だ。女性に対して失礼な物言いだが、それ程までに隙を見せてはならない相手だと心得ていたからこそ、俺も歴史に名を馳せた武将さながらに言い放った。

 「ならば、俺も君の灰を飲もう」

 それだけの覚悟なら既にある。でなければ教え子に告白などする訳がなかった。ましてや、ここまで想い悩む事すらなく自分の気持ちを切り捨てていただろう。
 手を伸ばせば届く距離で目を瞬かせた彼女は、また「困ったお人」と零してから、ゆるりと微笑んでみせた。その愛らしさに喉から変な音が漏れそうになる。
 噛み締めた奥歯から微かに血の味がしたが、幸い割れた音はしていない。よもや、自分がここまで欲情的だとは想像もしていなかった。穴があったら入りたいぐらいだ。

 「“はい”、不束者ですが宜しくお願いします」
 「そ、そうか!ありがとう!」
 「ええ…では、私はこれで」

 そう答えた彼女は、くるりと身を翻して部屋から出て行こうとする。あれだけ恐れていた間合から解放されたと云うのに、気分は獲物を逃した狐のように毛羽だっていく。
 男とは本当に度しがたい生き物だと実感させられつつ、なだらかな彼女の後姿を名残惜しくも見送っていく。嗚呼、この腕に君を抱ける日が待ち遠しくて仕方がない。

 「杏寿郎さん、三月が楽しみですね」
 「っ!」

 彼女は来た時と同じく礼儀正しくお辞儀をすると、それはそれは美しい笑みを浮かべながら、完全に油断しきっていた俺へと強烈な置き土産物を残していった。
 ぴしゃりと閉められた扉を眺めながら全体重を窓枠に預けた俺は、燃えるように熱い顔へと手を当てて唸るような息を吐き出していく。
 やはり彼女は、恋する乙女と呼ぶには禍々しく、俺の手には余る程に妖艶な女性だった。それとて、この胸に一度灯った炎が揺らぐ事はない。
 本当に君の卒業が楽しみでならないと、忍耐力を試されながら呟いた言葉は、彼女のいなくなった部屋で静かに響いて消えていった。

 *

 キメツ学園高等部の卒業式が行われた日、彼女は煉獄杏寿郎と顔を会わせずに帰宅していた。
 卒業したとは云え三月中はまだ学園生の身、校舎で逢瀬を重ねるのは彼女の望むところではなかった。
 それでも、杏寿郎がよく使う準備室に連絡先を置いてきたのは、彼が心変わりをしていなければ約束通り恋仲になることを受け入れていた。
 これは決して余裕の現れなどではない。いまだ彼女は杏寿郎の好意を単なる興味心だと思っているのだ。向けられる熱視線や好意への愛着なのだ、と。
 彼女とて杏寿郎の想いを軽んじるつもりはなかった。それでも何処か他人事のように考えてしまうのは、一種の防衛本能とも呼べるものだった。
 狂おしいほど愛するが故に、自分から彼を守ろうとしたのだろう。その健気で、しかし御門違いな思案は、いたぬ虎の尾を踏むことになる。
 杏寿郎と云う男は、そんな彼女の考えに気付かぬほど愚かではなかった。むしろ、彼女に関しては気を揉んだ分だけ敏くなっていたのだ。
 散々校内を探し回った果てに準備室で見つけた、差出人の名前もない大義名分を果たすだけのメモに、杏寿郎は悪鬼も裸足で逃げ出す眼光を落とす。
 人の目を避け続ける彼女の判断は間違っていない。ともすれば、教師としての立場がある杏寿郎からすれば有難い気遣いなのだろう。
 だがしかし、この仕打ちはあまりにも不義理だと、杏寿郎は一人闘争心を燃やしていく。解らぬのなら骨の髄まで教えてやろうと、教員らしからぬ笑みすら浮かべていた。

 それからトークアプリ内でも釣れない彼女の態度にもめげず、四月の休みに会う予定をもぎ取った杏寿郎は、生家の居間で高らかな雄叫びと拳を上げたのだった。
 当然、青筋を浮かべた父親に「うるさい!」と叱られたが、そんなものはなんのそので冷めやらぬ興奮を落ち着けるべく道場で素振り千回をこなしていた。
 久々に帰ってきた息子の奇行に、両親は小首を傾げていたが、千寿郎ただ一人だけは、そんな兄の姿に微笑みを返していた。
 そして、約束の今日この日、彼女と杏寿郎は学園から離れた駅にあるコーヒーショップで膝を付き合わしている。
 初めてみる私服姿の彼女は制服姿よりも大人びていて、机の隙間から除く組み替えられた足が、容赦なく彼を困惑へと誘っていく。

 「お付き合いにあたって幾つかルールを設けましょう」
 「ルール?」
 「はい。私、卒業はしましたが まだ未成年ですから」

 控えめだが愛らしい色を乗せた唇が項を描き、カップについたグロスを指で拭う様は、未成年と言う形容詞が似合わないことこの上ない。
 一周回って皮肉にしか聞こえない台詞だったが、実際その通りだと杏寿郎は頷き返す。いまどきにしては身持ちが固い彼女を、彼が好意的に見ていたのもあるのだろう。

 「キスは勿論、過度な触れ合いは控えましょう」
 「…それは手を繋ぐのもか?」
 「ええ、嫌ですか?」

 しかし、これにはさしもの杏寿郎も、さてどうしたものかと腕を組む。さも意外とばかりに目を瞬かせる彼女に、なんと返したものかと彼は宙を睨み上げていた。
 今この時も熱く煮詰めた視線は健在で、少しも色褪せない彼女の想いが杏寿郎を襲っている。にもかかわらず、それすら勘違いだと袖にされるのは納得しかねるものだった。
 成人するまで待てと言うのなら待とう。だが、誤魔化してまで取り繕うのは許しがたい。隠さず全てさらけ出して欲しいと云うのが、杏寿郎の素直な気持ちだったのだ。
 生徒である竈門少年や、実の弟である千寿郎に、嫉妬がなかったかと問われれば答えは明白だが、これはそう単純な話ではない。もっと言うならば、身も蓋もない欲望なのである。
 故に、杏寿郎は彼女の提案に二の句を告げられずにいたのだ。この認識の差をどう埋めたものかと悩むあまり、彼の眉間には知らずしらず深い皺が刻まていった。

 「杏寿郎さん…我慢しているが自分お一人だと思っておりませんか?」

 その声で、上にあげていた視点を目前の彼女へと戻した杏寿郎は、向けられていた色濃い瞳と、告げられた言葉に息を呑むしかなかった。
 それは正しく杏寿郎が欲して止まなかったものであり、喉から手が出るほど渇望していた熱情だったからだ。食い入るように見つめ返したのは仕方のないことだった。

 「『手を繋ぐ』と簡単におっしゃいますけど、そう軽いものではないと思いますよ?」

 するり、伸びてきた指先が杏寿郎の手首へと宛がわれ、一番太い血管をなぞるように滑ってから、掌で円を描くように踊っていく。
 どくどくと耳裏で波打つ鼓動に、彼は無意識で生唾を飲み込むと、ここが公共の場であることも忘れて、はしたない唸り声を漏らしてしまう。

 「手って、神経が集まっていてキスと同じぐらい…“肌を重ねてる”ように思えませんか?」

 そう告げながら、彼女は杏寿郎の手をひっくり返すと舐めるように恋人繋ぎを作り上げた。そこでやっと、されるがままだった杏寿郎は我に返ったかのように体全体を震わせる。

 「ねぇ、杏寿郎さん。あと数年は“おわずけ”の私と、手を繋いでいられますか?」
 「ぐっ…」
 「私は耐えられる自信がありません」

 軽やかに笑って手を離した彼女に、杏寿郎は何も言い返せなかった。その通り、今しがたの触れ合いだけで杏寿郎は、並々ならぬ欲情を覚えたからである。
 それと同時に、じわじわと遅効性の羞恥心に顔を赤らめながら、自分の未熟さを痛感していた。これではどちらが大人か分かったものではないと、奥歯を噛みしめていく。

 「…すまなかった。だが、俺の想いも軽んじないで欲しい」

 それでも、杏寿郎は彼女の接し方に苦言を呈せずにはおられなかった。愛して病まないのが自分だけだとは、間違っても言わせたくなかったからだ。

 「…惚れた弱味とは恐ろしいものですね。そんな顔をされたら我慢すら難しい」
 「それは、此方の台詞だ………」

 蕩けるように甘く、目尻を染める彼女の表情は、あまりにも官能的で、男心を刺激するには十分過ぎた。額に血管を浮かべて唸る杏寿郎を誰が責められよう。
 それ程までに彼女の愛は度し難いのであった。それもそのはず、三度の人生を経てもなお色褪せぬ彼女の執着に、前世を知らぬ彼が適うはずがなかったのだ。

 恋路の果ては、成れの果て。巡りし縁が絡みつき、尽きぬ乾きを貪って、後は熟れて腐るのみ。これぞ転生恋道中なり。
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