※ネームレス

 休日の駅前は賑わっていて、背の低い僕は人波に流されないよう柱に寄り添いながら、兄上の到着を待っていた。
 中高一貫校のキメツ学園で歴史教師を務めてから、一人暮らしを始めた兄上と会うのは久方ぶりだったので僕は浮き足だっていた。
 僕も中学生になってキメツ学園へ通ってはいるが、高等部の兄上と顔を合わせる機会が少なく、話したい事や聞きたい事がいっぱいあった。
 その気持ちが抑えきれずに待ち合わせよりも早く付いてしまった訳なのだが、こうして待つのも嫌いではないと町行く人々へと視線を向けていた。
 今日は兄上の秋物を見立てて、それからスイートポテトの専門店に行こう。そんな事を考えていた時、不意に懐かしい面影が目の前を横切っていく。
 咄嗟に出ていた僕の声で足を止めた女性は、不思議そうに小首を傾げてから、誰ですか?と尋ねてきそうな表情を浮かべていた。

 「“姉上”とは私の事でしょうか?」
 「す、すみません…僕っ」

 僕には家族にも言えない秘密がある。それは、前世の記憶が朧気にだがある事だ。前世でも僕は煉獄千寿郎で、代々鬼狩りを務める家の子だった。
 その記憶を初めのちは幼い僕が作った豊かな妄想だと思っていたが、時が立つにつれ出会う人々の顔触れに、そうではないと気づかされた。
 これが前世の記憶だと知った時は怖かった。前世同様、兄上は立派な人だったから、また使命感から亡くなってしまいそうで本当に怖かったのだ。
 でも今は、前世の享年を超えても生きている姿に一安心している。母上も父上も元気で笑っている、それこそが僕にとっては奇跡であり、一等大切な事だった。
 だから、前世では父上と僕を支えてくれた姉上がいない事が寂しくてならない。姉上とは血の繋がりはなかったけど本当の家族に違いなかった。
 鬼殺達の皆様が頑張って鬼のいない世を成してくださった後、お礼の手紙や感謝の言葉を下さる方々は多かったけど、共に煉獄家を支えてくれたのは姉上一人だった。

 「元鬼殺隊の者です。勝手ながら煉獄杏寿郎様への敬愛を返したく、ご奉公に参りました」

 お酒を辞められて立ち直った父上に、深々とお辞儀して懇願する姉上の背を、今でも僕は鮮明に覚えている。多分、兄上の面影と重なる部分があったからだ。

 「私(わたしく)は不甲斐なくも最終戦に参加できず生き残った身、ですから残りの生涯は煉獄家の為に使いたいと思っております」
 「気持ち有り難いが、それは親方様並びに産屋敷家に返すべきだろう」
 「はい、もちろん親方様には毎日感謝を申し上げますが、私の心は煉獄家にあります。給金はいりません、寝床だけ下されば身を粉にして働きます」

 頑なに申し出る姉上の姿は真剣そのもので、その圧には元柱の父上すらたじろぎ、困ったと言いたげに頭をかいていらっしゃった。
 お茶を運んできた僕は向かい合う二人の姿に固唾を飲んでいた。だから、父上が観念したように息を吐いた時は、喜びで緩む口元をお盆で隠したのだった。
 火が消えたような物悲しい家に、新しい風が入るのが嬉しかったのだ。蜜璃さんがいた頃みやく、また家の中が明るくなればと考えていたから。

 「分かった。だが、給金は出そう。嫁入り前の娘さんを家に置いといてタダ働きなど煉獄家の恥だからな」
 「それでしたら…私の働きいかんで、杏寿郎様のお嫁さんにして頂くのはどうでしょうか?」

 安易な考えに浮かれていた僕は父上と同様な声を漏らしていた。怪訝そうな顔をする父上に、姉上は落ち着き払った態度で、ご自身が産まれた村に残る風習を話し出す。
 それは、未婚の男性が亡くなると供養の為に花嫁を宛がう“冥婚”と云うらしく、もし自分の働きがお眼鏡に叶うものなら兄上の嫁にと姉上は続けていた。
 縁者であれば給金も不要になると云う、父上の意見を重んじる気遣いだったのだろうが、兄上にも負けず劣らぬ『こうと決めたら梃子でも動かない』強い意志が感じられた。

 「ですが、無理にとは言いません。杏寿郎様をよく知る御二方に認めて頂けなければ意味のない話ですから」
 「え?僕もですか?!」
 「はい、弟様にもです」

 思わず飛び出していた僕の声に、姉上は嬉しそうな微笑みを返してから、もう一度恭しくお辞儀を落としていく。
 これには父上も「考えておく」以外の言葉がなかったようで、渋い顔でお茶を啜っていた。一度決めたら何を言っても聞かない頑固者に父上は弱いのだ。
 それからの姉上は本当に良く働いてくださりました。朝は誰よりも早く起きて朝餉の準備をし、元隊士の腕っぷしで薪割りも洗濯物も手早くこなしていた。
 今まで一人だった家事を誰かと一緒に行うのはとても楽しく、気づけば僕は日々の大半を姉上と過ごすようになり、直ぐに「姉上」と呼ぶようになった。
 そんな僕を姉上も義弟として可愛がってくださり、ずっと抱えたまま持て余していた寂しみを、陽だまりにのような優しさで包み込んでくれていた。
 それは父上だって同じで、ぎこちなかった態度も半年後には抜け落ち、一年後には母上の着物を数枚仕立て直して姉上に送っていたのだった。

 「あの子は瑠火に少し似ているな…」

 そう零した父上の呟きを聞き逃さなかった僕は、すかさず「兄上との祝言、いつにしますか?」と聞いていた事もある。
 冗談ではない本気の後押しを続けた甲斐あってか、家族だけの細やかな宴と共に姉上は兄上のお嫁さんとなられたのだ。
 その際に少し驚いたのは、父上が姉上を養子に迎えて本当の娘にしてしまった事だ。仏壇に髪を備える形ばかりの冥婚を考えていた姉上も、それには珍しく狼狽していた。
 しかし、最後には白無垢まで着させれ嬉しいと顔を綻ばせていた。こうして名実共に煉獄の性になった姉上は、僕と共に父を見送り、享年50歳まで生きて この世を旅立たれた。
 あの当時では長寿な方だったから、「お疲れ様です」と笑顔で見送る事ができた。それが僕の覚えている姉上を見た最後だった。

 待てど暮らせど今世に姉上は現れない。どうしてですか?兄上も母上父上も一緒なのに、姉上はいらっしゃいのですか?もう僕には会いたくないのですか?
 雪のように降り積もる悲しみに枕を濡らしたのは一度や二度ではなかった。だから、眼前を通りかかった瓜二つの女性と呼び掛けてしまったのだ。
 もし、この方が姉上の生まれ変わりでも、過去の記憶などある訳ないと分かっていた。それでも、会えた喜び以上に募った想いが欲をかく。
 もう一度、僕の名前を呼んでほしい、そう両手で服の裾を握り締めてうつ向く僕に、女性は嫋やかな物腰で顔を覗き混んでくる。
 その仕草も僕が知る姉上とよく似ていたものだから余計に、声をかけてしまった羞恥心と相まって涙が滲み出す。

 「千寿郎さん?大丈夫ですか?」
 「ぁ、はい、大丈………え?」

 心配をかけてはいけないと瞼を強く閉じていた僕の耳に、聞きなれた懐かしい響きが届いた。恐る恐る顔を上げた先に映ったのは両の手を広げて微笑む姉上の姿だった。

 「もう煉獄ではありませんが、また“姉上”と呼んではくれませんか?」

 その言葉を聞いた瞬間、僕は堪らず「姉上!」と声を上げ、その懐に飛び込んでいた。変わらない暖かさに涙が堰を切ったように溢れだしてくる。
 姉上は服が濡れるのも厭わずに僕を引き寄せると、ゆっくりゆっくり髪をすくように頭を撫でてくださった。それが余計に僕の涙腺を緩めていく。
 嗚呼、元気でいらっしゃいましたか?今まで何処に居られたのですか?そう、聞きたい事は山ほどあったけれど、口を付いて出るのは嗚咽ばかりだった。
 だから、言葉の代わりに二度と離すものかと腕の力を強めれば、旋毛に嬉しそうな吐息が落とされる。それが堪らなく幸せで、また義姉弟に戻れた気がしていた。

 「千寿郎!」
 「…あにうえ?」

 よく通る呼び声に視線を上げれば、此方へと駆け寄る兄上の姿か歪んだ視界に写る。鼻を啜る僕を前に、兄上は心配を露わに何があったのか?と問いかけてきていた。
 しかし、感極まったままの僕は上手く答えらはず、おろおろと視線を彷徨わせてしまう。そんな姿を見かねてか、僕にハンカチを差し出した姉上から静かな声が零される。

 「感動の再開と云うだけですので」
 「君は………千寿郎と知り合いだったのか」
 「ええ、ずっと前から」

 兄上を先生と呼ぶ姉上は、どうやらキメツ学園の生徒らしく、今更ながら同じ敷地内にいた事を知るのだった。
 事情を知らない兄上の手前、詳しく問いかけられない僕を気遣ってか、姉上は「千寿郎さん、次は学園で」と返してくれた。
 姉上の方は僕の存在を知っていたようだが、記憶があるとは思っていなかったのだろう。お辞儀をして立ち去っていく姿は、どこか軽やかだ。
 名残惜しさから引き留めそうになった手を胸前で組んだ僕も、以前ほど感じられない喪失感に安堵しながら、その凛と美しい背を見送っていた。

 「千寿郎、彼女とは…いつごろ出会ったんだ?」
 「あね…先輩とは、ぁの、兄上が家を出てから、その」
 「そうか」

 兄上に嘘を付かなければならない重圧に、しどろもどろな受け答えになったが、何故か兄上は淡白な返事をするだけで、姉上の消えた方を真っ直ぐに見据えていた。
 これには、おや?と思いつつも期待は胸に収めたまま、僕は姉上のいる今の煉獄家を想像しながら口元を綻ばせていく。
 次は母上も一緒に三人でキッチンに立てたのなら、それはそれは幸せだろうと、手元のハンカチを大事に抱き寄せた。

 「さぁ、兄上。僕達も行きましょう」
 「ぁ、ああ、そうだな!」

 きっと無自覚で後ろ髪惹かれている兄上を微笑ましく眺めながら、その背を押して雑踏の中へと歩き出す。拭っても消えなかった悲しみが晴れた僕の足取りは最初よりも軽かった。

 *

 「炭治郎さん、お手伝い有難うございます」
 「いえ!俺で良ければ、いつでも!」

 穏やかな微笑みを浮かべながら手元の本を棚へと戻していく先輩に、俺は声を落としながらも歯切れよく答えてから本を指定の場所に押し込んでいく。
 長期休み明けの図書室は人の少なさに反して返却される本が多い。俺も例に漏れず本を返しにきた一人だったが、その量を見かねて手伝いを申し出ていたのだ。
 放課後独特の空気によく馴染む先輩は、善逸曰く、先輩はミステリアスで色っぽい人らしい。確かに、鼻のいい俺でも表情以外の意図は読み取れない事は多かった。
 いつも纏っている控えめな杏の香りが先輩の本心を隠しているからだ。それでも煉獄先生を見詰めている時は、香水ですら隠せない程に素直な気持ちが漂う。
 それは、俺が先輩を繋げる───前世とも呼べる記憶を思い出した切欠になった絵からも溢れんばかりに伝わってくる。
 藤の花に隠されていた炎を宿した瞳が、用意に連想できる絵を前にした時、俺は甦った記憶と胸に堪らず涙を流していた。
 再び胸に灯った灯を服の上から握りしめ、燃えるような羽織りに彩られた背を目蓋の裏で見つめながら奥歯を鳴らす。忘れていた事すら不思議なぐらいに、この心は震え叫んでいた。

 『その方、私の大切な人なんです。貴方もですか?』

 顔を上げた先にいたのは名も知らない女生徒だった。けど、その言葉と微笑だけで自分と同じ、あの時代を知る隊士なのだと直ぐに分かった。
 でも、その時は返事すら出来ずに泣き続けてしまった。あれだけ長男だからと誇っていた忍耐力も形無しだった。
 今、思い返してみても恥ずかしい話だが、それ程までに煉獄さんの記憶は俺にとって大きかったのだ。こればかりは何度繰り返しても泣いてしまう気がしてならない。

 「これで最後ですね。良かったら、この後、お茶にしませんか?お礼させてください」
 「え?そんな、お礼とか…俺が勝手に手伝っただけなので」
 「では、私の休憩に付き合ってくださりませんか?おすすめの喫茶店があるんです」

 するりと横を通りすぎていく先輩からは、やっぱり杏の甘さが鼻を擽るだけで心は読めなかった。それがこんなにも不安なのは俺に負い目があるからだろう。
 鞄を肩にかけて戸口へと立つ先輩に、俺は曖昧な笑みを浮かべつつ歩み寄る。ずっと言いたくても言えない言葉は胸の奥で焦げ付き、息苦しさを引き起こしていく。
 ただ、それも後数ヶ月後には後悔へと変わるだろう。先輩が卒業式してしまえば、こうして顔を合わせる機会もなくなってしまうのだから。

 俺と先輩は他愛のない話を楽しみながら、イチョウ並木の通学路を進んで個人経営の喫茶店へと入っていく。
 妹達が手作りシフォンケーキが美味しいと言っていた店内は、しっとりと落ちついた雰囲気で、男女問わず居心地のいい空間だった。
 ただ、大人な先輩にはぴったりだが、俺には仕切りが高いように感じられ気が引けていく。それでも、優しく「ご馳走させてくださいね」と笑い掛けられては断るのも忍びない。
 先輩は珈琲、俺は勧められるがままに頼んでしまったシフォンケーキと紅茶を注文してから、大きな窓際の席でレトロなレコードの音を聴きながら談笑に花を咲かせていく。
 友人や姉弟達と過ごす賑やかな時間も好きだが、こうして壁に染みついた珈琲の香りを楽しみむ時間も悪くない。
 じわりじわりと暖房で暖まっていく指先から伝わってくる幸せに、俺は知らず知らずのうちに口元を緩ませていた。

 「私、ずっと炭治郎さんお伝えしたい事がありまして」

 運ばれてきた珈琲を一口啜った先輩が、ソーサーにカップを戻しながら真っ直ぐに俺を射抜く。似たような事を考えていたからか、心を読まれたような感覚に俺は息を飲んだ。
 俺の鼻の良さを知る周りは毎度こんな思いなのかと考えたら何だから居たたまれない。これからは気を付けようと一人反省会をしながらも、俺は背筋を伸ばして「はい」と答えた。

 「私が言うもの可笑しな話だけど………杏寿郎様を看取ってくれたのが炭治郎さんで本当に良かったと思っているの」

 ゆっくりと、それでいてしっかりと頭を下げた先輩からは、泣きたくなるような優しい匂いが溢れていて、上げられた顔にも慈愛の笑みが浮かべられている。

 「だから、もう自分を責めるのは…お止しになってください」

 言葉にせずとも先輩は俺の抱える苦悩を理解してくれていた。正しく理解した上で、俺が一番欲しかった答えを易々と贈ってくれたのだ。
 膝の上に置いていた手が制服のズボンに皺を作り、目尻が急激に熱くなる。喉を鳴らして堪える俺に、先輩は見てみぬふりをするかのように珈琲へと唇を寄せていた。
 救われた想いと同時に、やっぱり不甲斐なさで鼻が鳴ってしまう。尊敬する煉獄さんを助けられなかった事、それは俺が俺である限り生涯消えない痼だった。

 「…俺、ずっと…許せなくて…無残を、倒した後も、自分を…誇れなくて…」

 涙が零れないようにとテーブルの木目を睨みつけながら言葉を探してみるが上手く頭が回らない。それが余計に歯痒くて情けなさに拍車がかかっていく。
 それでも先輩は耳を傾けながら、カップに視線を落としたまま不甲斐ない俺の顔を見ずにいてくれる。その優しさが暖かくて甘えずにはいられなかった。

 「悲しく、ても…立ち止まらず…に、来たけど………それでも、悔して…悔して!」

 等々、零れ落ちた一粒が紅茶の表面に波紋を作る。これで先輩の前で泣くのは二度目だ。いつもなら我慢できるのに、先輩を前にすると途端に難しくなる。
 普段は心の機微を隠しているのに、こんな時ばかりは容赦なく香り立たせる先輩は狡い人だ。親にすら話せない秘密を知る相手だからか、意地や虚勢は通用しないのだろう。

 「煉獄さん、を、助けられず…すみません、でした」

 諦めてしまえば胸に遣えていた懺悔は、呆気なく口から零れ落ちていた。押し寄せる罪悪感に歯を食いしばりながらも、俺は静かに咎めの言葉を待ち続けた。

 「………貴方が自分を許せなくても、私は炭治郎さんを誇りに思っております。だって、杏寿郎様が認めた方ですから」
 「っ!」
 「それに、私も同罪です。あの場にいる事すら出来なかったのですから」
 「そんなの!先輩は悪くありません!猗窩座が来るなんて誰も分からなかった事です!」

 顔を上げた先には、曖昧な笑みを浮かべたまま否定や肯定もせずに小首を傾げる先輩の姿があった。先程まで感じられていた匂いも、既に香水で紛れてしまう程に薄まっている。
 自分の気持ちは綺麗に隠してしまうのに、俺の心は大切に救い上げてくれる先輩は、やっぱり狡い人だと思った。そう、先輩の言う通り、俺が一番俺を許せずにいるのだ。
 前世の時から誰にも言えず抱えていた重りが、先輩のたった一言で癒えていく。深々と頭を下げたのは感謝と、言いようのない悲しみからだった。
 俺は容易く感情を押し込める先輩に歯がゆさを覚えていた。前世の辛さや喜びを分かち合える人に頼ってもらえなかった事が悲しくならなかった。
 俺が子供だから、泣いてしまったから、先輩は俺を頼ってくれないのだろうか。そんな悶々とした気持ちのまま口を開こうとした俺に、大きな影が覆い被さる。

 「うむ!話を遮って申し訳ないが、もう暗くなっているから、あまり遅くならないように!」

 その声の主は、煉獄先生だった。先輩は気付いていたのか、さして慌てるそぶりもなく残りの珈琲へと口を付けていた。
 驚きのあまり涙は引っ込んでいた。一人呆然と煉獄先生を見上げていた俺だったが、漂ってきた香りに息を飲み、急いで残りのシフォンケーキと紅茶を胃袋へと流し込んでいく。
 味わえなかったことを申し訳なく想いつつも、本能が「早くしろ!」と訴えるままに席を立つ。口元を隠すフリして鼻を押さえる俺に気づいた先輩は、眉をハの字にしていた。

 「杏寿郎さんったら…困ったお人」
 「…先生と呼びなさい」

 名前を呼ばれた途端に煉獄先生から放たれていた黒々とした匂いが少し薄まる。その代わりにと言わんばかりに、先輩から甘く煮詰まれたような香りが溢れだす。
 それは言葉よりも雄弁で、知ってはいけない秘密を知ってしまった俺は、瞬く間に頬を色付けていく。そうか、そうなんだ。高鳴る鼓動が喜びてうち震えていくのが分かった。
 俺の尊厳する二人は、ちゃんと幸せを掴み取っているんだと、先輩と煉獄先生の姿を瞳に写したまま、俺は眼前の事実に喉を締め上げていた。

 「先生は、炭治郎さんの特技を知らないのですね」
 「竈門少年の特技?」
 「彼、鼻がいいんですよ。汗の分泌などで人の感情が分かる程に」
 「………なっ!」

 嫉妬から困惑に変わった香りに堪えきれなかったのは俺の方だった。こちらに向けられた視線を直視できずに90度頭を下げる。自分の起こした風で耳の熱さが伝わってきた。

 「先輩!ご馳走様でした!俺、帰ります!」
 「ええ、また明日」
 「は、はい!れ、煉獄先生も!さようなら!」
 「ぅ、うむ、気をつけて帰りなさい」

 鞄を抱きしめながら出口まで駆け寄り、もう一度深々とお辞儀をしてから「俺、誰にもいいませんから!」と告げ、脱兎の如く店を飛び出していく。
 カランと響いたドアベルの音を背に走りながら、今の一言は要らなかっただろう!と、少し前に反省していた事を思い出して頭を抱えたのだった。
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