※ネームド

 あれから1年と数か月が過ぎ、エドワードと過ごした日々は夢だったのではないかと感じられるようになった。
 それでも、ふとした瞬間に彼の姿を探している。忘れられたら、どれだけ楽だっただろう。嫌いだと心を偽れたら、こんなにも引きずる事はなかっただろう。
 彼への気持ちを自覚した頃から、私は深く踏み込まないようにしてきた。いつか元恋人や親友のように、彼も私を置いていくのだろうと疑っていたからだ。
 こうなる未来を覚悟していたくせに今となって後悔が募る。せめて面と向かって別れを告げてくれたのならば、心の整理もついたと言うのに。
 そんな八つ当たりまがいな事を思ってしまうのは、いまだに彼を想っている証拠なのだろう。本当に痛みを伴わない教訓は身につかないのだと痛感させられるばかりだった。
 一人と一匹でエドワードの「ただいま」待っていたあの日、彼のランニング用のスニーカーが玄関先に行儀よく並んでいるのを見て、私は物置部屋に飛び込んでいた。
 そして置手紙を前に、私は声もなく泣いていた。心配そうなボスがすり寄って来たが、その時ばかりは頭を撫でてやる気力すら湧かなかった。
 でも、人間は良くも悪くも慣れる生き物だ。悲しみは時間と共に消化されていく。それでも、この想いだけはずっと色褪せず、私を捕えて放さない。
 特に出版社からの帰り道は彼の事を考えずにはいられなくなる。だって、ここで私とエドワード・エルリックは出会ったのだ、嫌でも記憶が蘇ってしまう。

 「あの人かっこよくない?」
 「すごい綺麗な金髪だね~、観光かな?」

 長く重苦しい溜め息を吐きつつオフィス街を歩いていれば、すれ違うOL二人組の楽しげな囁きが耳へと飛び込んでくる。
 当然のように足は止まり、OL達が見つめる先に視線が吸い込まれていく。心臓が急激に鼓動を速め、口の中が渇いて喉の奥がひりひらと痛み出す。
 ファー付きモッズコートに赤いチェックシャツを合わせたファッションの男性は、アメリカの片田舎から来ましたと云った感じだったが、隠しきれない華やかさがあった。
 他人の空似だと思う方が利口だろう。西洋人が東洋人の見分けを苦手とするように、私達日本人も外人の顔は、どれも同じに見えるものだ。整っているなら尚更だろう。
 それでも、ただただ縋るように私は「エドワード?」と呟いていた。振り返った男性と目が合い、冷たい風が二人の間を駆け抜けていく。
 
 「よぉ、家にいなかったから…ここかと思って探してたんだ」

 ひわまりが咲き誇るような笑顔に胸が締め上げられる。洩れかけた嗚咽を喉の奥で殺し、冷静を装えても、渦巻く感情を言葉にすることは難しい。
 また会いたい。それが叶わぬのなら、どうか幸せに生きてほしい。そう願っていた相手が、今、こうして目の前にいる。

 「…怒ってるか?」
 「怒っていないと言えば嘘になる、けど…」
 「けど?」
 「会えて、嬉しい」

 それが全てだった。それしか伝えられなかった。落ちていた視界に影が差したかと思えば、サラサラとした金糸が頬を撫で、優しいモスクの香りに包まれていた。
 抱きしめられている気づいた瞬間、鼻の奥がツンと痛み、火を灯したかのように目尻が熱くなる。それは、ずっと私が欲して止まなかった温もりだった。
 二度も同じ後悔はしたくない。都合のいい女と嘲笑われてもいい。鳴かぬ蛍が身を焦がすのなら、私だって秘めたままの恋に飛び込んで燃え尽きよう。
 エドワードの背中へと腕を回せば、微かに息を呑む音の後、抱き締める力が強まっていく。息苦しさすら心地よくて、私は彼の肩口に額を押し当てながら幸せを噛みしめていた。
 それぐらいそうしていただろうか。不意に肩を捕まれ引きはがされると、真っ赤に染まった彼の顔があった。その様子に私も此処が外である事を思い出す。
 オフィス街の真ん中で男女が抱き合っていれば否が応でも目立つ。そうでなくても彼の容姿は美丈夫なのだから、人目を集めるには十分だった。
 好奇の目に晒され気まずさに狼狽えていれば、あの時とは反対にエドワードが私の手首を掴んで歩き出していく。その後ろ姿は頼もしく、つい彼の名前を呼んでしまう。

 「エ、エドワード!」
 「俺、エドワルド・エルウィズって名前だった」
 「え?」

 彼の言っている意味が分からず、私は素っ頓狂な声を上げてしまう。混乱したまま手を引かれていれば、あの公園に連れてこられていた。
 二人並んで腰を下ろし、自販機で買った缶コーヒーに口を付ければ、安いけど落ち着く味が混乱していた心に染みわたっていく。

 「ここに来た時、ポケットに見覚えのない鍵があってさ」
 「…」
 「印字されたナンバーを頼りに探したら、俺名義…つーか、エドワルドの名前でパスポートとか諸々入ってたんだわ」

 正直、話に付いてくのがやっとだった。身元が用意されていたとか、世界は理不尽なのか親切なのか分からないと、現実逃避な事を考えてしまう。
 視線を握りしめてい缶コーヒーから彼へと移せば、まるで琥珀糖が紅茶の中で溶けるように甘い瞳が私を捉えていた。その一瞬で、心が奪われていく。

 「だから、ちょっくら故郷に帰ってた。弟はいなかったけど、家族の墓はあったぜ」
 「そう、なんだ」
 「あとな。俺の仕事、アメリカ国防総省から派遣された軍人だった。ビックリだよな?こっちでも軍の犬なんだぜ?」

 やっとこさ口から出たのは、そんな素っ気ない返事だった。それでもエドワードは気にせず話を続け、「今は休養中らしいけどな」と締めくくった。
 そう言えば、まだ私はエドワードが此処にいる理由を聞けていない。彼が何を思い、どうして戻ってきたのかを知るのは、途轍もなく恐ろしく思えた。
 それでも、もう私は逃げないと決めた。傷ついても苦しくも、この気持ちだけは嘘にしたくない。握りしめた拳こそが私の本音だった。

 「帰り方は…、探さなかったの?」
 「いや、探してねぇよ」
 「…どうして」
 「お前を独りにはしたくなかったから」

 片膝同時がぶつかり、宝物を手に取るように私の右手が救い上げられる。真っ直ぐに注がれた瞳は雄弁で、色恋に疎い私ですら浮かべられた熱の意味に気づいてしまう。
 期待してもいいの?そう問いかけそうになる気持ちを、ぐっと堪えて、私は彼の言葉を待つ。不思議と、周りの喧騒は遠ざかり、互いの息遣いだけが私達を包んでいく。

 「好きだ。俺の人生半分やるから、お前の人生半分くれないか?」
 
 聞き覚えのあるプロポーズを自信なさげに告げる彼が可笑しくて、殺しきれなかった笑いが喉から漏れていた。笑う場面ではないと思えば思うほど肩の震えは止まらなくなる。
 エドワードは困惑しながらも「笑うことないだろ!」と不貞腐れていたけど、笑い声が嗚咽に代わるにつれ慌てふためきだす。けど、そんな姿ですら堪らなく愛おしい。

 「半分なんて言わないで全部もらってよ!」

 泣き笑いの情けない顔で返事をした私を、同じ顔をした彼が抱きしめてくれたのは、数秒の事だった。

 *

 刺すような寒さから逃げるようにして家の戸を開けると、キッチンから食欲をそそる香りと、微かなアイツの鼻歌が漂っていた。
 足元に擦り寄ってきたボスを抱き上げ、顎下を撫でつつリビングに向かえば、地続きのキッチンに愛しい恋人の後ろ姿がある。

 「ただいま」
 「おかえりなさい。ふふふ、大分かかったね」
 「どれも美味そうなんだから仕方ねぇーだろ」

 普段の買い物は彼女がインターネットで済ましているのだが、急に俺が「シチューが食いてぇ!」とリクエストした結果、自ら買い物に出ていたのだ。
 今では日本語も流暢になり、お札の柄を見間違えたりもしない。最近では車の免許すら取ろうかと考えていて、すっかりこの世界に馴染んでいる。
 それでも、まだまだ驚かされる事は多かった。特に、日本人の持つ食への拘りは目を見張るものがあり、俺まで探求心に火を付けられてしまった。
 だってよぉ!スープに入れるだけでシチューが出来る食品があるんだぜ?しかも、何種類も棚に並んでるのを見たら、そりゃあ全部気になるだろ!?
 どれもメーカー事の工夫や特徴があって毎度悩まされ、錬金術は台所から生まれたつーぐらいだから、日本人は錬金術師なのかもしれないと思い至るのだ。

 「寒かったでしょ?こんな時は炬燵に潜れたらいいんだけどね~」
 「コタツ?」
 「暖房加減だよ。でも、エドは機械鎧で低温火傷しちゃうから使えないね…残念」

 彼女の心遣いにテーブルで頬杖をついていた俺の口元は気恥ずかしさから歪んでいる。そんな俺をボスが意味ありげな鳴き声で呼んだので、ピンク色の鼻をつつき返した。
 この世界のオートメイルは、軍の技術開発部が研究と開発結晶をしたものとして俺を支えてくれていた。昔ほど壊さなくなったとは言え、やっぱり専門家がいる事は有難い。
 それでも、彼女が残念そうにしていると損した気分になる。俺は彼女の楽しげな笑みが好きで、風の駆け抜ける陽だまりで寝転ぶよなう心地よさを、手放せなくなっていた。

 「二人とも、ご飯できたよ~」

 ご飯と聞くなり俺の腕から飛び出したボスは一目散に自分の皿へと駆け出していく。色気より食い気かよと笑いが漏れてしまう。
 一人残された俺も手を洗いにいってから、湯気すらも美味しそうなシチューと厚切りの食パンがテーブルの前へとつく。
 嗚呼、幸せだな。口には出さなかったが頬は勝手に緩む。それを誤魔化すように、俺はパンと両手を打ち鳴らして「いただきます」を唱えた。
 最初こそ、この礼儀作法に戸惑ったりもしたが、食事こそ“一は全・全は一”の最たるものと思い出してからは、すんなりと受け入れている。
 圧力を利用した調理器で煮込まれた具はとろとろで、あまり好きではない野菜しらもぺろりと入っていく。文明の利器最高!と鍋を掲げたのは記憶に新しいだろう。
 おかわりを二回してやっと満たされた腹を差すっていれば、俺の膝にボスが上がり込んでくる。「お前、また太ったか?」なんて嫌みは猫のボスには屁でもないようだった。
 くすくすと肩を揺らした彼女は俺の隣に腰を下ろし、二人分のアイスを目の前に置いた。それから無邪気な笑みを浮かべて声を弾ませる。

 「炬燵はないけど、冬の贅沢を味わなくちゃね」

 シチューで身も心も暖まり、汗すら滲む中で食べるアイスは確かに格別だった。そう上、暖房が効いた部屋で湯たんぽ代わりのボスがいれば底冷えしらずだ。
 しかも、まだ少し固いアイスの表面をスプーンで削り、唇を濡らす彼女は官能的で、じわじわと体温を上げていく。まさに目に毒とは、この事だ。
 彼女は顔を上げると手が止まっている俺に食べないの?と問うが、それ以上は踏み込みこまず、静寂を共有してくれる。それは口下手な俺を気遣う彼女なりの優しさだ。
 美味しいねと笑うアイツを見つめているだけで、どろどろに溶けたアイスのような感情が胸の底から湧いてくる。こんな自分を知ったら彼女は幻滅するだろうか。
 喉を流れる甘さに目眩を覚えていれば、俺を嗜めるようなボスの長い一鳴きが響いた。なぁ、その嫉妬はどっちに対してなんだ?

 彼女と共に暮らし始めてから、俺は美しい季節の移ろいとか、肌で感じる海の雄大さとか、香りたつ美味しさとか、色々なもので心を満たされてきた。
 感謝してもしきれないのに、その方法は未だ見つかっていない。十もらったら一足して十一にして返すと決意したのに、だ。こんな有様では弟に笑われてしまう。
 俺は憂鬱しい溜息を零して、ほんの少し伸びた前髪を書き上げる。元の世界への未練は、まだある。それでも、俺はアルやウィンリィ達より彼女を選んだ。
 なにより、俺が彼女を一人にしたくなかった。悩みも不安も全部この手で消してやりたいと、幸せだと笑う相手は俺であって欲しいと、願ってしまったのだ。
 俺にとって彼女は命の恩人だが、彼女にとっての俺はこの事態に巻き込んだ張本人でしかない。にもかかわらず、一度だって不平不満の類は言わなかった。
 だから、彼女だけでも帰れる方法はないかと探しに行ったのだ。その序に自分の事を調べていたにすぎない。まぁ、そのせいで彼女に寂しい想いをさせてしまったんだが。

 「ねぇ、エド」
 「ん?」
 「私ね、貴方を幸せにしたい」
 「………もう、十分幸せだぜ」

 合わさった肩に彼女の体重がかかる。ちらりと下した視線の先には、左手の薬指に付けたシンプルなシルバーリングをいじりながら、ふくふくと笑う彼女の姿があった。
 ああ幸せだな~と云う思いはそのまま口から零れ落ちていて、気恥ずかしさから咥えこんだスプーンが瞬く間に熱を帯びていく。甘ったるいアイスに酔ってしまいそうだった。
 そんな俺を他所に、彼女は「もっとよもっと!」と続けながら俺の右手を握り締めていた。そこには同じシルバーリングが嵌まり、蛍光灯を浴びながら誇らしげに輝いている。

 「あなたを想う人達の分まで、エドを幸せにしたいの」

 純粋に敵わないと思った。同時に、残りの人生全部使ってでも彼女に愛を返そうと思えた。
 触れ合った箇所から互いの熱が伝わり、目尻すらも溶かしていく。膝の上ではワガママボディを寛がした野良猫が気持ち良さそうに鼻提灯を作っている。
 その姿にくすくすと笑い合った後、俺達はどちらからともなくバニラの香る口付けを交わす。この出会いをくれた世界に、ありったけの感謝をしながら。

 END
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