ジェイド × ジャック
花に囲まれる貴方を見つめる
彼の目尻に一本の皺を見つけた。長寿の人魚である僕には縁遠いもの。
珍しいその皺に手袋を外して素手で触れる。指先に久々に感じた肌の感触も僅かに変わっている。張りがなくなっている。
「くすぐってぇな」
僕の触れ方がこそばゆかったのか。彼は僅かに目尻を下げて笑い「なんだよ」と付け足す。そんな笑い方も愛しいと思いつつ「いえ何も」と答える。
そっと彼の皺から指を離す。僕にはまだ出来る傾向がない皺。縁遠い老化の証。老化、と浮かんだ言葉にひとり息を飲む。
――僕とジャックくんは時の流れが違う。
初めて彼と僕自身の時の流れが違うことを意識した。同時にすぐに訪れるだろう別れに戸惑いを覚えた。だって、もっと長く一緒にいられると思っていたから。
どうして忘れていたのか。人魚は人間よりも長く生きる生き物だ。流石に妖精と比べたら短い生涯だが他から見れば同じくらい長い一生だ。
僕は長く生きることは決まっている。僕が不治の病や、事故で死なない限り彼より先に逝くことはない。
そんな〝未来 〟を考えたことなどなかった。考えたところで意味がないのだ。今をより愉しく生きることの方が僕は、僕らは性に合っていた。勿論、未来の投資ということはするがそれも今のためだ。生の終わりのことなど考えたこともなかった。けれど、皆が、皆そうではなかった。
「……学園を卒業してもう十年になりますか?」
目尻に触れていた指で彼の頬を撫でる。くすぐったいだろというように肩を縮こませた彼は「そうっすね。あ~。もうそんなになりますか」と他人事のように言う。
「十年も経てば皺の一本も出来ますか」
「ここに」と言ってもう一度目尻を撫でて名残惜しげに離れる。そして、僕の指が離れたところを今度は彼が触れた。
「はぁ。十年かぁ……」
しみじみした様子の彼に前のめりになって「今度いいスキンケア商品を贈りますね」と告げる。それに彼は分かりやすく顔を顰めた。
「げっ。いいっすよ」
「ジャックくん。今は男性でもスキンケアをする時代なんですよ。嫌がらないでください」
嫌そうに眉を顰める彼に僕は微笑みかける。はたしてその笑みは上手く出来ていていただろうか。どうか一時抱いた戸惑いが滲んでしまわないように。なんて僕らしくないことを考えながら彼との時間を過ごした。
◆ ◆ ◆
時間は残酷に流れていく。なんていつの時代の小説の書き出しだろうか。けれど、今その陳腐な一文が痛いほど心に突き刺さって離れない。
彼は故郷の輝石の国に戻ってひとりひっそりと暮らしていた。意外にもその緩やかな生活がよく似合っていた。
シンシンと曇天の空から降り積もる雪が窓から見える小さな家だった。けれど、暖炉のおかげで家の中はとても暖かかった。
その傍で彼はロッキングチェアにチェック柄のひざ掛けをかけて座っていた。彼は随分と年老いていた。以前は艶やかな艶を放っていた毛並みは失われていた。ピンと元気のよかった耳もどこか元気を失っている。
「あんたは相変らずだ」
低く掠れた声に以前よりも柔らかく下がる目尻に深い皺が何本もある。いや、目尻だけじゃなくて口元に、逞しかった首に、大きな手に、彼の身体全体に広がっているのだろう。
「フロイド先輩や、アズール先輩は息災か?」
「ええ。今日もここからずぅっと離れた南の方角に飛んでいますよ」
「ハハ。忙しそうでなによりだ」
からから笑う姿は変わらない。だのに、どうして彼の姿は変わっているのだろう。
「あんたも行くのか?」
「はい。これから。そうだ。これを貴方に届けに来たんです」
アタッシュケースを床に置いてパカっと開く。胸ポケットからマジカルペンを取り出して一振りする。すると、アタッシュケースから鮮やかな瑞々しい薔薇の花束が現れる。
薔薇の花束は十一本で成り立っている。その花束を片手に恭しく彼に渡す。
「はい。薔薇の王国に寄ったお土産です」
「……あそこは薔薇の一大産地だからな」
「懐かしいな」彼は僕の手から薔薇の花束を受け取り眺める。けれど、薄れた金色の瞳は薔薇を通してどこか遠くを見ているようだった。
まだ、遠くを見るには早いですよ。なんて心で囁きながら口に出せない。出したところで彼の寿命が変わることなんてない。
「それにしてもあんたまた随分とキザな真似をしたもんだな」
遠くを見ていた瞳がこちらを見た。かつて精悍だったことをありありと伝える顔をくしゃっとして照れくさそうに笑った。随分と素直に言うようになって。いくつになってもそういう顔は可愛らしい。
「ありがとな、ジェイド先輩」
「ふふ。どういたしまして」
早速活けるかと、重い腰を上げる彼に手を伸ばす。彼は僕の手を躊躇なく取る。少し前だったら「必要ねぇ! 年寄扱いすんな!」と叫んでいたのに。
ドキと胸が鳴る。また、彼は歳をとっている。当たり前のように僕よりも早く命の灯を燃やしている。
「先輩、どうしたんすか?」
「……いいえ。何でもありません」
「さ、行きましょう」とにっこりと仮面を貼りつける。その仮面はもう彼には利かないのはわかっている。以前ならば「無理すんな」と顔を顰めて言っていたけれど――。
「そうか。悪いが頼む。最近どうにも足が悪くてな」
また遠くを見てそう言う。もう彼は何も言わない。それがどうしても悲しかった。
◆ ◆ ◆
「ねぇ。ジェイド、ウニちゃん。いつまでそこに居させんの」
低くなった声は少しだけ剣呑としていた。珍しいフロイドが僕のやることに意を唱えるなんて。いや、学生の頃のキノコ尽くしのときに何度も声を上げていた。
「僕も歳を取ったんですかね」
「なぁに言ってんだよ。オレらまだ全然若い分類だし」
隣にフロイドの気配がした。けれど、僕の視線はずっと目の前にある。
「ウニちゃん。すっごくいい顔だね」
悼む声を出すフロイド。フロイドもまた彼の死に哀悼を捧げているようだ。
――ああ。僕はまだ出来ないというのに。
フロイドも、アズールも、彼の生き残っている友人も簡単に彼の死を受け入れていく。
「ジェイド。まだ、無理?」
僕はその問いに答えない。けれど無言は肯定の証だ。自ずとフロイドの問いに答えていることになる。
「……お墓作る気ないの?」
「ないです」
間髪入れずに答えた。だって、まだ僕の中では彼は死んでいないのだから。まだ生きている。まだこの手は彼の温もり覚えている。
ギュッと手袋に包まれている手を握りしめる。
「そう。じゃ、ちゃんと魔法で守ってあげなよ」
「んじゃ。オレ仕事だから」フロイドはそう言って僕の肩を叩いて教会から出て行った。バタンと扉の音がしてようやく息が出来た気がする。
真っ黒で艶やかな棺桶がある。大きな棺桶は彼の体格に見合った立派なものだ。
僕は棺桶に恐る恐る触れて、あまりの冷たさに慌てて手を引く。
「冷たい……」
まるで彼の生まれ故郷のように鋭い冷たさだ。その中に眠って彼は大丈夫なのだろう。でも、きっと「これくらい大丈夫だ」と鋭い犬歯を覗かせて笑うのだろう。
「けど、これじゃ駄目ですね」
あまりにも可哀想だ。ふむと顎に指をかけて考える。パッとひとつ閃いた。
「フフ。いいことを思いつきました……ジャックくん。少し待っていてくださいね」
冷たい棺桶にマジカルペンを振る。中にいる彼に向けてまた違う魔法をかける。暫くはこれでいいだろう。あとは、腕利きの魔法道具マスターを探さがして補助道具を購入しなければ。目標が立つと意外にやることが次から次へと出て来る。
「では、いってきますね」
満足げに笑った僕は暫しの別れと棺に口づけて教会を後にした。
◆ ◆ ◆
高台にひっそりと建っている教会。木造作りの教会は何だか彼にぴったりだ。本当はもっと立派なものをと思ったが「やめてくれ」と言われているようでやめた。
その教会に足を踏み入れて結婚式ではバージンロードになる道を一人歩く。最近新調したばかりの靴の音は真っ赤な絨毯に吸い込まれる。音がない世界だった。
静寂の世界の祭壇には真っ黒で艶やかな棺桶があった。その棺桶の前に立って僕は眉を顰める。
「おや。薄らと埃が……そんなに時間を空けたつもりはないんですけど」
嫌だな、と考えながら掃除をしようと決める。だが、掃除の前にやることがある。
僕は棺桶の蓋をゆっくりとずらしていく。
「こんにちは。ジャックくん。今日もよいお天気ですよ」
彼は死んだそのときのまま時を止めたように眠っていた。朽ち果てることのない美しい姿にひとり満足しながら再びマジカルペンを振って真っ白な薔薇を取り出す。
「白い薔薇も美しいですが今日は久々に赤い薔薇を持ってきましたよ」
白い薔薇をパッと消し去り、代わりに瑞々しい赤い薔薇を出す。そして、白い薔薇が合ったところに赤い薔薇を敷き詰めていく。
「この薔薇はリドルさんの玄孫さんからいただいたものなんです」
「玄孫さんは今ハーツラビュル寮の寮長をしていらっしゃるそうです」と世間話のように続ける。返事はないのだけれどどこかから「流石リドル先輩の玄孫さんっすね!」と聞こえてくる。そういえば、彼はリドルさんのことをすごく尊敬していた。この僕がヤキモチをするほどに。
「懐かしいですねぇ」
くすくす笑いながら薔薇に囲まれた彼を見下ろす。白い薔薇も、黄色い薔薇も、青い薔薇も、紫の薔薇も、何でも似合う。その中でも赤い薔薇に囲まれている彼が一等好きだ。
「あ。そうだ。ジャックくん。いいお知らせですよ」
棺桶の縁に手をかけて中を覗き込む様に話しかける。
「実はこの間、僕もですが、フロイドや、アズールに何と小皺が出来たんです」
「皺ですよ、皺」まるで彼の耳に必ず届くかのように僕は報告する。
「ようやくあの時の貴方と同じところに立てましたよ……ああ。それにしても小皺だけでここまで時間がかかるなんて」
貴方のところに逝けるのはもう暫くかかるみたいです。
「ジャックくん。まだ待たせてしまいますが待っていてくださいね」
「あちらで別の番いを作ってはいけませんよ」浮気しないように釘を刺しつつ愛おしげに見つめ蓋を閉めた。
少し埃が積もった棺桶を綺麗に掃除して最後にまた口づけて教会を後にする。
教会から出ると少し風が吹いていた。その風は少しだけ冷たくて身体に少しだけ刺すような痛みを残した。
僕ははっと目を瞠ってひとり笑った。
「陸で寒さを感じるとは――僕も老いたものですね」
今日はなんていい日なんでしょうね、ジャックくん。風が少しだけ強く吹いた。
彼の目尻に一本の皺を見つけた。長寿の人魚である僕には縁遠いもの。
珍しいその皺に手袋を外して素手で触れる。指先に久々に感じた肌の感触も僅かに変わっている。張りがなくなっている。
「くすぐってぇな」
僕の触れ方がこそばゆかったのか。彼は僅かに目尻を下げて笑い「なんだよ」と付け足す。そんな笑い方も愛しいと思いつつ「いえ何も」と答える。
そっと彼の皺から指を離す。僕にはまだ出来る傾向がない皺。縁遠い老化の証。老化、と浮かんだ言葉にひとり息を飲む。
――僕とジャックくんは時の流れが違う。
初めて彼と僕自身の時の流れが違うことを意識した。同時にすぐに訪れるだろう別れに戸惑いを覚えた。だって、もっと長く一緒にいられると思っていたから。
どうして忘れていたのか。人魚は人間よりも長く生きる生き物だ。流石に妖精と比べたら短い生涯だが他から見れば同じくらい長い一生だ。
僕は長く生きることは決まっている。僕が不治の病や、事故で死なない限り彼より先に逝くことはない。
そんな〝
「……学園を卒業してもう十年になりますか?」
目尻に触れていた指で彼の頬を撫でる。くすぐったいだろというように肩を縮こませた彼は「そうっすね。あ~。もうそんなになりますか」と他人事のように言う。
「十年も経てば皺の一本も出来ますか」
「ここに」と言ってもう一度目尻を撫でて名残惜しげに離れる。そして、僕の指が離れたところを今度は彼が触れた。
「はぁ。十年かぁ……」
しみじみした様子の彼に前のめりになって「今度いいスキンケア商品を贈りますね」と告げる。それに彼は分かりやすく顔を顰めた。
「げっ。いいっすよ」
「ジャックくん。今は男性でもスキンケアをする時代なんですよ。嫌がらないでください」
嫌そうに眉を顰める彼に僕は微笑みかける。はたしてその笑みは上手く出来ていていただろうか。どうか一時抱いた戸惑いが滲んでしまわないように。なんて僕らしくないことを考えながら彼との時間を過ごした。
◆ ◆ ◆
時間は残酷に流れていく。なんていつの時代の小説の書き出しだろうか。けれど、今その陳腐な一文が痛いほど心に突き刺さって離れない。
彼は故郷の輝石の国に戻ってひとりひっそりと暮らしていた。意外にもその緩やかな生活がよく似合っていた。
シンシンと曇天の空から降り積もる雪が窓から見える小さな家だった。けれど、暖炉のおかげで家の中はとても暖かかった。
その傍で彼はロッキングチェアにチェック柄のひざ掛けをかけて座っていた。彼は随分と年老いていた。以前は艶やかな艶を放っていた毛並みは失われていた。ピンと元気のよかった耳もどこか元気を失っている。
「あんたは相変らずだ」
低く掠れた声に以前よりも柔らかく下がる目尻に深い皺が何本もある。いや、目尻だけじゃなくて口元に、逞しかった首に、大きな手に、彼の身体全体に広がっているのだろう。
「フロイド先輩や、アズール先輩は息災か?」
「ええ。今日もここからずぅっと離れた南の方角に飛んでいますよ」
「ハハ。忙しそうでなによりだ」
からから笑う姿は変わらない。だのに、どうして彼の姿は変わっているのだろう。
「あんたも行くのか?」
「はい。これから。そうだ。これを貴方に届けに来たんです」
アタッシュケースを床に置いてパカっと開く。胸ポケットからマジカルペンを取り出して一振りする。すると、アタッシュケースから鮮やかな瑞々しい薔薇の花束が現れる。
薔薇の花束は十一本で成り立っている。その花束を片手に恭しく彼に渡す。
「はい。薔薇の王国に寄ったお土産です」
「……あそこは薔薇の一大産地だからな」
「懐かしいな」彼は僕の手から薔薇の花束を受け取り眺める。けれど、薄れた金色の瞳は薔薇を通してどこか遠くを見ているようだった。
まだ、遠くを見るには早いですよ。なんて心で囁きながら口に出せない。出したところで彼の寿命が変わることなんてない。
「それにしてもあんたまた随分とキザな真似をしたもんだな」
遠くを見ていた瞳がこちらを見た。かつて精悍だったことをありありと伝える顔をくしゃっとして照れくさそうに笑った。随分と素直に言うようになって。いくつになってもそういう顔は可愛らしい。
「ありがとな、ジェイド先輩」
「ふふ。どういたしまして」
早速活けるかと、重い腰を上げる彼に手を伸ばす。彼は僕の手を躊躇なく取る。少し前だったら「必要ねぇ! 年寄扱いすんな!」と叫んでいたのに。
ドキと胸が鳴る。また、彼は歳をとっている。当たり前のように僕よりも早く命の灯を燃やしている。
「先輩、どうしたんすか?」
「……いいえ。何でもありません」
「さ、行きましょう」とにっこりと仮面を貼りつける。その仮面はもう彼には利かないのはわかっている。以前ならば「無理すんな」と顔を顰めて言っていたけれど――。
「そうか。悪いが頼む。最近どうにも足が悪くてな」
また遠くを見てそう言う。もう彼は何も言わない。それがどうしても悲しかった。
◆ ◆ ◆
「ねぇ。ジェイド、ウニちゃん。いつまでそこに居させんの」
低くなった声は少しだけ剣呑としていた。珍しいフロイドが僕のやることに意を唱えるなんて。いや、学生の頃のキノコ尽くしのときに何度も声を上げていた。
「僕も歳を取ったんですかね」
「なぁに言ってんだよ。オレらまだ全然若い分類だし」
隣にフロイドの気配がした。けれど、僕の視線はずっと目の前にある。
「ウニちゃん。すっごくいい顔だね」
悼む声を出すフロイド。フロイドもまた彼の死に哀悼を捧げているようだ。
――ああ。僕はまだ出来ないというのに。
フロイドも、アズールも、彼の生き残っている友人も簡単に彼の死を受け入れていく。
「ジェイド。まだ、無理?」
僕はその問いに答えない。けれど無言は肯定の証だ。自ずとフロイドの問いに答えていることになる。
「……お墓作る気ないの?」
「ないです」
間髪入れずに答えた。だって、まだ僕の中では彼は死んでいないのだから。まだ生きている。まだこの手は彼の温もり覚えている。
ギュッと手袋に包まれている手を握りしめる。
「そう。じゃ、ちゃんと魔法で守ってあげなよ」
「んじゃ。オレ仕事だから」フロイドはそう言って僕の肩を叩いて教会から出て行った。バタンと扉の音がしてようやく息が出来た気がする。
真っ黒で艶やかな棺桶がある。大きな棺桶は彼の体格に見合った立派なものだ。
僕は棺桶に恐る恐る触れて、あまりの冷たさに慌てて手を引く。
「冷たい……」
まるで彼の生まれ故郷のように鋭い冷たさだ。その中に眠って彼は大丈夫なのだろう。でも、きっと「これくらい大丈夫だ」と鋭い犬歯を覗かせて笑うのだろう。
「けど、これじゃ駄目ですね」
あまりにも可哀想だ。ふむと顎に指をかけて考える。パッとひとつ閃いた。
「フフ。いいことを思いつきました……ジャックくん。少し待っていてくださいね」
冷たい棺桶にマジカルペンを振る。中にいる彼に向けてまた違う魔法をかける。暫くはこれでいいだろう。あとは、腕利きの魔法道具マスターを探さがして補助道具を購入しなければ。目標が立つと意外にやることが次から次へと出て来る。
「では、いってきますね」
満足げに笑った僕は暫しの別れと棺に口づけて教会を後にした。
◆ ◆ ◆
高台にひっそりと建っている教会。木造作りの教会は何だか彼にぴったりだ。本当はもっと立派なものをと思ったが「やめてくれ」と言われているようでやめた。
その教会に足を踏み入れて結婚式ではバージンロードになる道を一人歩く。最近新調したばかりの靴の音は真っ赤な絨毯に吸い込まれる。音がない世界だった。
静寂の世界の祭壇には真っ黒で艶やかな棺桶があった。その棺桶の前に立って僕は眉を顰める。
「おや。薄らと埃が……そんなに時間を空けたつもりはないんですけど」
嫌だな、と考えながら掃除をしようと決める。だが、掃除の前にやることがある。
僕は棺桶の蓋をゆっくりとずらしていく。
「こんにちは。ジャックくん。今日もよいお天気ですよ」
彼は死んだそのときのまま時を止めたように眠っていた。朽ち果てることのない美しい姿にひとり満足しながら再びマジカルペンを振って真っ白な薔薇を取り出す。
「白い薔薇も美しいですが今日は久々に赤い薔薇を持ってきましたよ」
白い薔薇をパッと消し去り、代わりに瑞々しい赤い薔薇を出す。そして、白い薔薇が合ったところに赤い薔薇を敷き詰めていく。
「この薔薇はリドルさんの玄孫さんからいただいたものなんです」
「玄孫さんは今ハーツラビュル寮の寮長をしていらっしゃるそうです」と世間話のように続ける。返事はないのだけれどどこかから「流石リドル先輩の玄孫さんっすね!」と聞こえてくる。そういえば、彼はリドルさんのことをすごく尊敬していた。この僕がヤキモチをするほどに。
「懐かしいですねぇ」
くすくす笑いながら薔薇に囲まれた彼を見下ろす。白い薔薇も、黄色い薔薇も、青い薔薇も、紫の薔薇も、何でも似合う。その中でも赤い薔薇に囲まれている彼が一等好きだ。
「あ。そうだ。ジャックくん。いいお知らせですよ」
棺桶の縁に手をかけて中を覗き込む様に話しかける。
「実はこの間、僕もですが、フロイドや、アズールに何と小皺が出来たんです」
「皺ですよ、皺」まるで彼の耳に必ず届くかのように僕は報告する。
「ようやくあの時の貴方と同じところに立てましたよ……ああ。それにしても小皺だけでここまで時間がかかるなんて」
貴方のところに逝けるのはもう暫くかかるみたいです。
「ジャックくん。まだ待たせてしまいますが待っていてくださいね」
「あちらで別の番いを作ってはいけませんよ」浮気しないように釘を刺しつつ愛おしげに見つめ蓋を閉めた。
少し埃が積もった棺桶を綺麗に掃除して最後にまた口づけて教会を後にする。
教会から出ると少し風が吹いていた。その風は少しだけ冷たくて身体に少しだけ刺すような痛みを残した。
僕ははっと目を瞠ってひとり笑った。
「陸で寒さを感じるとは――僕も老いたものですね」
今日はなんていい日なんでしょうね、ジャックくん。風が少しだけ強く吹いた。
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