初めての味、痺れる味覚
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舌先に触れた甘い果実
私にとって〝恋〟は他人事だった。ただ、自分と恋は繋がらなくても周りは違う。大好きな姉と双子の姉妹、大好きな友達は誰も恋する乙女だった。その姿ははた目から見ている私からとても可愛かった。恋すると可愛くなるっていうけれど本当だったと何度も噛みしめたものだった。ただ恋をすると夢中になることがあるし、恋をしていなければわらない話がある。そのときは弾き出されたようで寂しい。今も恋バナで盛り上がる姉妹を置いて私は大親友に慰めてもらおうと遊びに来ていた。
「ジェイドぉ。ジェイドぉ。寂しい、とっても寂しいわぁ」
しょぼしょぼしながら友達のジェイドの周りを泳ぎ周る。けど彼は興味無さそうに「はい、はい、そうですか」と流して熱心に瓶の中に入っているモノを覗き込んでいる。そういう素っ気ないところも好きだけれど今は適当にでも慰めてほしい。だから、瓶に意識を向けているジェイドに詰め寄る。
「親友の私がしょぼくれているのにその反応はないんじゃないの」
「いつ僕と貴方が親友になったんですか。それとしょぼくれているのは貴方の勝手でしょ」
瓶から上がった瞳は冷ややかだった。だけどその冷たい態度に私は腹が立ってムッと眉を寄せて「出逢った瞬間に親友になったのよ。忘れたの?」と訴える。それにジェイドは肩をすくめた。
「僕は親友でも友達でもないので身勝手もほどほどにお願いします」
シシッと手で追い払われて頬を膨らませる。
「親友よ。貴方といるととっても楽しいもの。だから、一生の友達」
「何ですかそれ」
呆れたとクスクス笑うジェイドの横顔が何だか好きだなと思った。
パチと目を開くとゆらゆらと揺れていた。何でかしら、と辺りに視線を向けるとそこは海の中だった。ふわと欠伸をひとつして身体をぐっぐっ伸ばして首を捻る。すると僅かに首に痛みを感じて眉を寄せる。
「寝違えたぁ」
サイアクと零しながら今度は尾ビレを伸ばして左右に動かす。尾ビレは痺れていないようでよかった。痺れていたら海面まで上がるのに時間がかかる。咄嗟に上を向こうとして寝違いの鈍痛にすぐに顔を戻す。
「地味に痛い……はぁ。今日はナイトレイブンカレッジに行くのにぃ~」
久々にジェイドたちに会うのに首が痛いなんてテンションが下る。
「ぁあ~今日は行くのやめよっかな」
〝海の館〟で寝ていようかなとさえ思う。ここ海の館は人魚の生徒のために作られた学校の施設のひとつだ。辺境の地にある学校は街がない分こうし施設が多い。他にも様々な用途で作られた施設は多いが在校生でもすべてを把握している者は少ない。上級生でも「そんな施設あったの?」なんてこともざらである。だが、ここは比較的によく知られている施設で私も頻繁に利用している。
昨晩も久々に人魚の姿に戻りたくてここに飛び込んでそのまま就寝した。だから、なのだろうか。とても懐かしい夢を見た気がする。でも、その内容はもう覚えていない。
大きな岩に寄り掛かりながらぼんやりとカラフルな海の中を見る。だが、それもすぐにつまらなくなって――。
「やっぱりジェイドに会いに行こう!」
そっちの方が絶対に楽しいし、何だか今はとてもジェイドに会いたい気分だったし。ならば、この機嫌が維持できている間に部屋に戻らなければいけない。
寄り掛かっていた岩から離れて尾ビレを動かして海面に向かって泳ぎ出した。この瞬間、何かを求める瞬間がとても楽しみで堪らなかった。
* * *
今日は全国高校陸上競技大会。毎年ナイトレイブンカレッジで行われる。
ブルームノヴァカレッジの生徒も出場しているため応援するために賢者の島に私は来ている。だけど、多くの生徒は応援というのが建前だったりする。本当は女子校という男っ気のない場所で得られない恋人を獲得するために来ている生徒が大半。
勿論、交流が盛んなロイヤルソードアカデミーで恋人をゲットしている生徒は多い。でも、タイプでない生徒はこうした外部に出られる機会を逃したくない。しかも、ロイヤルソードアカデミーとスペックの高いナイトレイブンカレッジの生徒を逃すはずがしたくない。
皆必死に理性を律しながらも男漁りという身もふたもない行動をしているということ。何だかその様子は人魚の婚活にも似ていて面白いなって双子の片割れに言ったら「絶対外で言わないこと」って釘を刺された。なので、言わないでいるけれど同じ制服を着た子たちの必死な取り繕いは雌の人魚の求愛じみていて寧ろ可愛らしい。
人間も、人魚も種族は違うけれどこういう必死なところは同じで陸と海を知っているとこんな面白い発見もできてしまう。
私もあんな必死なときが来るのかとなんて想像が出来ないけれど――と私の視界に探し人が映る。
「みぃつけた!」
サイドストリートフェステバルの人混みから頭ひとつ分以上はみ出している馴染みのある頭を発見した。丸い頭とターコイズブルー色の綺麗な髪。間違えるはずがない。いやそもそも私が彼を誰かと間違える可能性はない。ちなみに、彼の双子は姿勢があまりよろしくないから同じ丸い頭で同じ髪色でもバッチリと違いが分かる。なので、あそこを歩いている彼は探し人であることは間違いない。
鼻歌を歌い出すほどに心が浮足立つ。探し人ことジェイドとはしょっちゅう連絡を取っているけれど面と会うのはサマーホリデー以来だ。
ああ、早く話したい。こんな気持ちにさせるのはジェイドだけだった。
私は駆けだしたいのを我慢しながら歩き出す。制服のスカートを足に纏わりつかない長さにしておいてよかった。先生はいつも短いと言うけれどこれくらいが可愛いし動きやすい。それに自慢じゃないけれど私の足は綺麗だから隠すのは勿体ない。
すいすいと海中を泳ぐように人混みを掻き分ける。器用に人を避けて、避けて――やっとたどり着いた。無防備な腕に手を伸ばして掴みかかろうとしようとしたけれど直前になってすっと消えてしまった。
「わぁっ!」
目標物が消えて前のめりになったところで「おや」と声がする。その声と同時にガクンと身体が揺れた。お蔭で痛めた首に鈍痛が走る。
「い、いたっ」
咄嗟に首を手で押さえる。本当に鈍い痛みなのにどうして首だとこうも痛く感じるのか。鈍痛に地味にダメージを食らっていると。
「僕を驚かそうとするからですよ、レティシア」
「ぅう~」
呆れ声に首を動かそうとしても今は無理。地味に痛くて動かせない。
「はぁ。首、痛めたんですか?」
「寝違い」
「では、僕が心配することではありませんね」
呆れ声から一転あっけらかんとしたジェイドは「よいしょ」という掛け声で私の身体を無理矢理動かして立たせた。立たされた振動で首に痛みが走る。
「いっ」
「そんな大袈裟ですよ」
「大袈裟じゃないのよぉ」
「地味に痛いの」と首を抑えながらゆっくりと仰ぎ見る。でも、やっぱり痛くてすぐに顔を真っ直ぐにしてジェイドの胸の辺りを見る。痛さに涙ぐみながらジェイドの胸板結構ありそうだなって見ていれば――ガシと顔を掴まれると無理矢理上を向けさせられた。瞬く間に捻った首から痛さが広がっていく。
「いっ、いたぁい!」
「レティシアが視線を下げるからでしょ。話しにくいんですよ」
なんていい笑顔で言うジェイド。ここぞとばかりにイジワルをしてくるのは人魚としても最低だ。いや、もうそれどころじゃない。地味に、本当に首が痛い。
「首、いた、本当に痛いのッ」
ジェイドの顔を睨みながら叫ぶ。ついでバシバシと無駄に長い腕を叩く。それでも中々離してくれないジェイドはニタニタとギザ歯を見せながら「これで痛み引くかもしれませんよ」なんて言う。そんなことないのに。陸生活二年目でもわかるくせに。
そろそろ目尻に涙が滲むかもしれないというところでパッと顔から手が離れた。私はすぐに両手で首を擦る。本当に痛かった。
「痛くされて喜ぶ趣味はないのよ」
「そうでしたか。意外です」
マゾだと思われていたのは心外だがもう気分も萎えた。
「もう帰る……」
「そうですか……一人で帰れます?」
「せめて門まで送って行きなさいよ」
ベソベソとジェイドの胸を叩くけどその手もすぐに掴まれてしまった。離せと腕を動かそうとする前に彼が私の手を掴んだまま歩き出してしまった。
「どこ行くの?」
「モストロ・ラウンジです」
それだけ言うと進んでいた方角と逆に歩き出す。そういえば、モストロ・ラウンジはオクタヴィネル寮の中にあると幼馴染のアズールが言っていた。だから、寮に繋がる鏡へと行くのだろう。
長い足でいつもさっさと歩くのにゆっくりとした歩調だった。変なところで見せる優しさに萎えた気持ちが起き上がって来て楽しくなってくる。すると、自然に痛みが和らいでいくようでギュッとジェイドの手を握り返す。
「何ですか」
「迷子になりそうだから」
それにしても改めて過行く人々を見る。ここは外部の人間に紛れてナイトレイブンカレッジの生徒がチラホラ見える。ただ、その多くの生徒が驚愕の眼差しを向けている気がする。どうしてだろうか、と考えてきっとオクタヴィネル寮の副寮長が女の子を連れているからかもしれない。
「ふふ。明日には噂になったりするかもね」
「噂ですか?」
「うん。あのジェイド・リーチが女子を泣かして手を引っ張っていたって」
クスクス笑って言えばジェイドは「さぁ、どうでしょうかね」と愉しげに返して来た。何でそんな愉しげなのか。見当もつかないので考えるのをやめた。考えることに力は今使いたくない。それに使うべきときに使えないなら今は思考力を残しておいた方がいい。
そのままジェイドに連れられるように私がやって来たのは海の中にあるオクタヴィネル寮。海中にある寮はとても懐かしくそして美しかった。
「綺麗な海ね」
「泳ぎたくなる」と素直な感想を述べれば「わかります」と返された。それはそうだろう。彼も深海に生きる人魚とはいえ人魚なのだ。この美しい海中を泳ぎたくなるはずだ。
「海の中の寮いいな」
「それでも自由に泳げませんよ」
「え、そうなの?」
もったいないなと思いながらまた歩き始める。もう首の痛みは引き、帰る気も失せていた。寧ろ、海中にある寮や噂のカフェに気分は上がって行くばかりだ。
「モストロ・ラウンジってアズールが経営しているカフェよね」
「はい。従業員は寮生と他寮生で構成されています」
「へぇ。外部に行かないでいいお小遣い稼ぎができるのね」
私のところは気軽にアルバイトなんてできない。理由は学校が辺境にあるからだ。でも、そのぶん先生の研究のアルバイトや、学食でのアルバイトなどなど学内でアルバイトが出来るようになっている。他に、長期休暇も届け出を出せばアルバイトは可能だったりする。
「ここは辺境っていっても街もあるしアルバイトに困らなそうではあるけれどね」
「それでも学園から出ると色々不便ですから」
「距離?」
「はい」
なるほど、なるほど、頷きながら鼻歌を歌い出す。そして、廊下を歩きながら海中を見ているとジャズ調の音楽と賑やかな気配がしてきた。
入り口から見えるお客の多さに「すごい盛況ね」と感嘆の声が漏れる。
「ええ。今日は大会のお蔭でお客様が多くて大忙しです」
「それは邪魔をしたわね」
心にもないこと――ウソ。半分悪いなと思いながら言った。すると、ジェイドの手が離れて前を向いていたジェイドが私の方を振り返った。私は僅かに痛む首で彼を見上げると顎に指をかけて薄い唇からギザ歯が覗かせて微笑んだ。
「悪い顔している」
「思ったことを口に出し過ぎです」
「私、素直だから――で、何かお願いごとでもあるの?」
カフェを見るにとても忙しい。その中、現場を離れていたのだ。お使いか何かあったのだろう。その中態々私をここまで送り届けてきたのだ。何かあるのだろう。ジクジク痛くなる首に限界だなと首を降ろそうとしたらまた顔を掴まれた。
「まだ話は終わっていませんから」
痛いと言おうとしたのを塞ぐように遮られる。むぅと唇を尖らせながらにっと目尻を下げるジェイドを見る。これはきっと何か言われるに違いない。それが面白いことならいいなと待っていると。
「お使いの僕がここまで貴方をエスコートしたんです。頑張って宣伝塔になってもらいますよ」
「は?」
目を丸くさせればジェイドが離れていく。顔から手のぬくもりも離れていく。痛む首に顔を前に戻す。でも、ジェイドを見なければ意味がわからない。
「どういうこと? もう随分繁盛しているじゃない」
「ふふ。アズールはもう少し稼ぎたいようなので。で、貴方のマジカメ結構な人数のフォロワーがいますでしょう?」
「そうだとは思うけど」
思い出しても正確なフォロワーを思い出せない。そもそも私は趣味というか気まぐれで始めただから正直フォロワーとか興味がない。映えるとかも自分が興味なきゃ写真も取らないし、アップすることもない。
「で、宣伝のために写真をアップすればいいの?」
「ええ。それに今日は貴方以外にもルーシーさんにヴァネッサまでいる」
「あ、本命はそっちでしょ」
気まぐれにマジカメをしている私と違って姉様と双子の姉妹であるヴァネッサはしっかりとマジカメを利用している。姉様は仕事とプライベート用で、ヴァネッサは自分の活動に合わせ写真を取ってよくアップしている。つまり、私というよりこっちの二人が本命に違いない。
私は肩透かしを食らうと同時につまらなくなる。幼馴染のアズールの力になれるのは嬉しい。でも、ただの広告塔で姉妹のおまけのような扱い。
「レティシア、拗ねないでくださいよ。好きな物追加でつけますから」
完全に拗ねているのを把握したのかジェイドが子どもを宥めるように言う。別にそんなものは要らない。けど、以前モストロ・ラウンジを始める前にジェイドが試作で作ったデザートを試食したことがある。あのシンプルなシフォンケーキは美味しかった。
「なら、モストロ・ラウンジを始めるときに作ったシフォンケーキが食べたい。あと、貴方が淹れた紅茶で手をうつわ」
ジェイドは一瞬目を丸くししながらにこやかな笑みで「わかりました」と答えた。似非爽やかな顔を見ながら痛みに疼く首を擦りながら「そういえば」と切り出す。
「姉様とヴァニーは?」
「それぞれ連れてきますよ」
確信めいたジェイドの言葉に私もその気がして来た。
* * *
ジェイドが言った通りに二人は連れられて来た。姉様は人混みに酔っているところをアズールに助けられる形でやって来た。その次にプンプン怒りながらフロイドに茶化されながらヴァネッサがやって来た。姉妹の中でも特に顔が売れている姉様に気づいた人から避けるように私達三人は一旦VIPルームに通された。
そこで私達は限定メニューを中心に写真を取り、部屋の写真を取り、急いでマジカメにアップする。すると瞬く間に反応が返って来る。
「すごいわねぇ」
囁きながら私は一般フロアの奥からモストロ・ラウンジの繁盛ぶりを眺めた。端の方だからただ顔が知れ渡っている姉様だけサングラスを着けて観察を続ける。
私たち姉妹がアップした写真のお蔭かどうか分からないがお客が急激に増えた。多くは女の子だったのには驚いた。だけど内心私はメニューや写真に紛れるようにウェイターを撮影したからだと思う。もちろん、その子には許可を取ってからアップしたわ。そこはしっかりマナーを守らないと。
にしても、ナイトレイブンカレッジの式典服を着た生徒は人気が高いと改めて思う。座っている女子の目がずっとウェイターに向かっている。皆、瞳をキラキラさせて可愛くさえ見えて来た。その中でもひと際顔立ちが整っている子たちは連絡先が書かれたメモを渡されている。皆必死だなぁと見ていると人手が足りないからと式典服に着替えたジェイドが視界の端に映った。そっちを見ていれば頬を真っ赤に染めた子に捕まっていた。
ジェイドは渡された連絡先を困った顔で断っていた。そしてすっとその席を離れた。だけれど彼が横切るたびに惹きつけられるように皆見惚れていく。それもそうだ。ジェイドは綺麗な顔立ちで上品な雰囲気に合わせてモデル並みの美しい体型なのだから。でも、不思議だ。海にいるときより煌びやかな視線を集めているような気がする。
たぶん、故郷ではジェイドはウツボの人魚だと皆が知っていた。だから、見目が良くても一定数の人魚は怖がっていた気がした。だから、だろうか。モテてはいたけれどこんな、こんな――。
「レティシア」
「ん?」
ジェイドに向けていた視線を外して顔ごと横を向ける。そこにはサングラスを装備した姉様が美しく微笑んでいた。
「そろそろ帰ろうと思うのだけれどレティシアはどうする?」
「え? もうそんな時間?」
慌ててスマホを見ると確かに大会も終わりに近い時間だった。そろそろ学園から出る時間だ。ただ、あまりジェイドと話せていないこの状況で帰るのは少しためらわれる。
「今日は街のホテルに泊まるから早く戻らなくてもいいんだけれど時間がね」
「そうね……」
私が駄々を捏ねることを見越して姉様が困ったように言う。姉様を困らせたいわけではないのだけれどちょっと駄々を捏ねたくなるのも理解してほしいと思う。だから、察した姉様は「ごめんなさいね」と言うとちょんちょん私とは反対側を指さす。指が指す方向を見て私は「あ、なるほど」と理解した。
「……なによ」
姉様が指さす方には双子の姉妹。ヴァネッサがいた。その瞳は輝いてはおらず荒んでいた。綺麗に整えている眉も真ん中にギュッとなっている。ストローなんてはしたなくガシガシ状態だ。とても不機嫌なことが如実に伝わってくる。
「だいじょーぶ?」
「……もう限界。でも、八つ当たりするつもりはないわ」
ぶすっとした声にガシガシしたストローで氷を掻きまわす可愛い片割れ。不機嫌なことを自覚している。それはいいし何が原因かも分かっている。可愛い彼女がこんな怖くなってしまうのはいつもあの男の子が原因。
フロイドも人気みたいだしね、とさっきの光景を思い出す。ついさっきのことだ。気まぐれに出て来てジェイドに絡んで女子の黄色い声が上がった。それで気まぐれにウェイターをして女子の視線を一身に受けていたが、嫌気がさしたのかまた厨房に戻ってしまった。
「あたしが勝手に嫉妬しているだけだし……気にしないで」
「あらあら大人ねぇ」
名残惜しげに厨房の出入り口を見ているヴァネッサ。恋い焦がれる乙女であり嫉妬に燃える恐ろしい女が共存している。それが大人の女性のようで私はつい軽口を叩く。それにヴァネッサは「大人じゃないわ」と返す。
「ふふ。でも、頑張ってるいい子よ」
むぅと口を尖らせるヴァネッサの頭を姉様が慰めるよう撫でる。頭を撫でられるヴァネッサはちょっと恥ずかしそう肩をすくめた。私だったら大好きな姉様に撫でられたらぐいぐい頭を押し付けてしまうのにやっぱりまだ子どもなのかな。
「置いて行かないでね」
恋をしてから大人になっていく片割れに寂しくなってつい口から零れる。でも、ヴァネッサがきょとんとして「レティの方が置いて行きそうじゃない」と返した。それはないわ。と苦笑を浮かべながら席を立つ。
「あら。どこに行くの?」
「ちょっと化粧室」
トレイも行きたいし化粧も直した。それに了解と手を上げる姉様とヴァネッサに背を向けてモストロ・ラウンジを出た。けれど、一人で出るんじゃなかったと私はすぐに後悔することになった。
「キミ可愛いね? 暇なら街に下りてお茶しない?」
出た瞬間に軽薄な男と遭遇してしまった。制服からしてナイトレイブンカレッジ生じゃない。外部の生徒だろう。それにしてもカフェであるモストロ・ラウンジから出てきた私をお茶に誘うってナンパが下手過ぎでしょ。慣れていないようには見えないけれど百発百中ではないのだろう。
ふぅと息をついて首を傾げたところで寝違いの痛みに眉を顰める。男はそれを不機嫌と察したのだろうか「あ、それとも薔薇の王国とか行く?」と言い出した。
なんでそうなるの。馬鹿じゃないの。というか、その国をチョイスするってことは学校が薔薇の王国にあるみたいだ。ま、どうでもいいけれど。
無視してもいいけれど面倒くさそうだから「ムリ」と言って脇を横切ろうと歩き出した。すると、男がいきなり腕を掴まれた。サイアク。でも、これで声は上げやすいと思ったときだった。
「チッ。お嬢様学校のブルームノヴァの生徒だからってお高く留まってんなよ」
うげぇ。もうキレた。短気は損気だって知らないのか。というか、ブルームノヴァは別にお嬢様学校ではない。歴史のある魔法士養成学校なだけ。ただ、お高く留まっているのは否定しきれない。だって、実際皆プライド高いから。けど、だからってこの男に関係はないし、言われる筋合いもない。
「おい。聞いてんのかよッ」
「いっ」
ギュッとさらに掴まれた腕に呻きながら私は声をあげる。
「痛いです! やめてください!」
一応困っている女の子らしく声を出してあげてみる。とはいえ、本当に怖がっている子は十中八九出せ無さそうな声だけど。とりあえずオーバーに叫んでいれば周りが助けてはくれなくても証言はしてくれるだろう。全くこういうところ本当にどうにかならないかな。
にしてもこの男全然離してくれる気配がない。仕方ないな。何度か声をあげて後は魔法で適当にやり過ごそう。はぁ、と心の中で溜息をついて叫ぼうとしたところだった。
「これはこれはお困りのようですね?」
声に反応して咄嗟に振り返ると寝違えた首にまた痛みが走る。けど、痛みと代償に現れた人はとても頼もしい存在だった。そこに立っていたのは胸に手を当てた状態のジェイド。けど、よく見るとその後ろで縮こまっている寮生が見えた。どうやら呼んで来てくれたようだ。ありがとう、と後でお礼をしよう。
さて、と前を向いてもう一度腕を振ると呆気なく男の手が離れた。どうやらジェイドの存在感にすでに負けたらしい。ダサ過ぎて呆れる。でも痛いからさっと手を離してくれて助かった。
掴まれた部分を擦ると「おや?」とジェイドの声がした。そして、大きな手のひらが私の上にそっと重ねられ、ついでに後ろから覆いかぶさるような気配がした。それに身体から力が少しだけ抜ける。
「痛めましたか?」
「この人が無理矢理掴んできて、」
「怖かった」なんて付け足すように言ってみれば「それはそれは」とジェイドもノリよく答えてくれた。目元を手で覆って「本当にいきなりだったんです」と付け足す。すると、ジェイドの手が肩に慰めるように置かれた気がする。これもあってか周りの騒めきが大きくなっていく。下手をすれば警備員か先生が呼ばれるに違いない。
「くっ。別に、ただ」
「ただ、なんでしょうか?」
ジェイドの丁寧ながら圧のある問いかけに男は「クソッ」と捨て台詞を吐いて去って行った。ダサいなと思っていたら抱かれた肩がまた少し強く抱かれた気がする。
「ん? なに、ジェイド?」
「いえ。大丈夫ですか?」
「え? うん、平気よ?」
珍しく心配そうに眉を下げるジェイドに首を傾げる。すると、鋭い痛みに呻くとジェイドが「無茶をするから」と言う。別にこれはあの男とは関係はない。関係ないけれどちょっと掴まれた腕よりも痛いかもしれない。
「ちょ、痛い。痛い」
「はぁ。少し休憩して行ってください」
「うぅ、ありがとう」
途端呆れた顔をするジェイド。その後は何事かと聞きつけたアズールがやって来てちょっとした騒動になった。それからあれよ、あれよと私はまたVIPルームに連れられてしまった。姉様たちも心配して休んでいなさいと言ってどっか行ってしまった。
「痛い、死にそう」
「大袈裟な」
座り心地のいいソファに座りながら紅茶を入れるジェイド。それに「あ、約束の?」と言えば目を据わらせて「忙しいからできませんよ」と言われた。なんだ。じゃあ約束は後日ということか。
「つまらない」
「はぁ。全く貴方という人魚は」
「なに?」
「何も」
紅茶を入れたティーカップを置きながらジェイドが「ゆっくり休んでください」と言う。けれど、ゆっくり休むような時間はない気がする。
「もうすぐ時間でしょ」
「まだ休むくらいの時間はありますよ」
そうだけれど。姉様たちは大丈夫かしら。それが伝わったのか「少し学内を見て回るそうです」と言われた。二人でと心配したら「一応フロイドがいます」といた。それはそれで心配だけど何だかんだフロイドは二人を置いてはいかないと思う。
「二人は平気です。いいからこれ飲んでさっさとゆっくりしてください」
それだけ言うとジェイドは「仕事があるので」とサッと出ていってしまった。颯爽と出ていくジェイドに寂しさを感じる。
「さっさとって、ちょっとなぁ」
寂しいと言いながら目の前に置かれたティーカップを手にする。それから、ゆっくりと背もたれに寄り掛かって紅茶を飲むと――。
「おいしい!」
去年、会ったときに紅茶を入れて貰って美味しかったけれど今と比べ物にならない。短期間ですごく紅茶を入れるのが上手くなっている。それにこの紅茶の茶葉は飲んだことがない。オリジナルブレンドなのだろうか。
「ほしいな……戻ってきたらジェイドに聞いてみよう」
と、独り言を零し全部飲み干すとうつらうつらと眠くなっていた。だ徐々に重くなっていく瞼に素直に従って私は眠りについた。
深く落としていた意識が急上昇する瞬間が私は堪らなく嫌い。まだ揺蕩っていたいのに無理矢理引っ張って動かされるような気分になるから。
嫌だなと思っても私の身体は無遠慮に揺さぶられる。この遠慮のない起し方はきっと片割れだ。このまま無遠慮に叩き起こされる未来が待っている。しかも、その叩き方といったらまるで尾ビレでビンタされたように痛い。大人しく起きた方がいいと決まっている。
仕方ない、と起き上がっていつもの悪戯を仕掛ける。
「おはよぉ、ヴァニぃちゃぁ~ん」
寝ぼけたままぼやけた視界で服を掴む。そのまま顔を寄せてチュとキスをしたのだけれど唇に柔らかい感触がした。
「ん?」
おかしい。いつもならつるりとしたホッペの感触がするのにふにゅっと柔らかい。何だと目を開こうとすると――ぐいっと肩を掴まれて離された。
「レティシア」
「はぇ?」
名前を呼ばれてパチと目を開くとにっこり微笑んだジェイドがいた。あれ、何故ジェイドがいるのだろうか。ここは寮の部屋のはずなのに。
「どぅしているの?」
「起しに来たんです。忘れたんですか貴方が寝ている場所モストロ・ラウンジのVIPルームですよ」
捲し立てるジェイドをぼんやりしたまま周りを見やる。確かに寮の部屋じゃない。見覚えのあまりない部屋だ。あ、そうだった。私ここで休ませてもらったんだ。
私は痛めたはずの首に触れると大分増しになっていた。よかったと思いながら身体を解す。
「ん、ぅんん~~スッキリしたぁ」
「それはなによりです」
「ありがと」
ぽけっとしたまま答えるがジェイドはまだ笑みを張り付けたままだ。どうしたんだろうかと髪を直しながら訊ねる。
「どうしたのジェイド?」
「別に何も。それよりもう大会も終わりました。来客者の帰る時間です」
「あら、もうそんな時間になったの」
ジャケットからスマホを取り出すと確かにギリギリの時間だった。結構休ませてくれたんだろう。
「身支度したら来てください。ああ、ルーシーさんたちは先に正門で待っていますから」
「あとで送ります」と言うとジェイドはさっさと出ていってしまった。さっきみたいだなと思いながら私は手櫛で適当に直す。最後に治せなかった化粧を見ようと鞄を手繰り寄せてコンパクトを取り出す。鏡に映る自分の唇を見てはたと冷めた思考で思い出す。
「あれってジェイド?」
しかも向きからして頬とかそんなんじゃない気がした。たぶん、あの柔らかさはしたことがないけれど――唇。
「私、ジェイドにキスしちゃったってこと?」
嘘でしょ、とコンパクトに映る驚きに目を見開く子に私は問いかけた。
2021.10.31 一部文章改稿
2022.05.08 改題
私にとって〝恋〟は他人事だった。ただ、自分と恋は繋がらなくても周りは違う。大好きな姉と双子の姉妹、大好きな友達は誰も恋する乙女だった。その姿ははた目から見ている私からとても可愛かった。恋すると可愛くなるっていうけれど本当だったと何度も噛みしめたものだった。ただ恋をすると夢中になることがあるし、恋をしていなければわらない話がある。そのときは弾き出されたようで寂しい。今も恋バナで盛り上がる姉妹を置いて私は大親友に慰めてもらおうと遊びに来ていた。
「ジェイドぉ。ジェイドぉ。寂しい、とっても寂しいわぁ」
しょぼしょぼしながら友達のジェイドの周りを泳ぎ周る。けど彼は興味無さそうに「はい、はい、そうですか」と流して熱心に瓶の中に入っているモノを覗き込んでいる。そういう素っ気ないところも好きだけれど今は適当にでも慰めてほしい。だから、瓶に意識を向けているジェイドに詰め寄る。
「親友の私がしょぼくれているのにその反応はないんじゃないの」
「いつ僕と貴方が親友になったんですか。それとしょぼくれているのは貴方の勝手でしょ」
瓶から上がった瞳は冷ややかだった。だけどその冷たい態度に私は腹が立ってムッと眉を寄せて「出逢った瞬間に親友になったのよ。忘れたの?」と訴える。それにジェイドは肩をすくめた。
「僕は親友でも友達でもないので身勝手もほどほどにお願いします」
シシッと手で追い払われて頬を膨らませる。
「親友よ。貴方といるととっても楽しいもの。だから、一生の友達」
「何ですかそれ」
呆れたとクスクス笑うジェイドの横顔が何だか好きだなと思った。
パチと目を開くとゆらゆらと揺れていた。何でかしら、と辺りに視線を向けるとそこは海の中だった。ふわと欠伸をひとつして身体をぐっぐっ伸ばして首を捻る。すると僅かに首に痛みを感じて眉を寄せる。
「寝違えたぁ」
サイアクと零しながら今度は尾ビレを伸ばして左右に動かす。尾ビレは痺れていないようでよかった。痺れていたら海面まで上がるのに時間がかかる。咄嗟に上を向こうとして寝違いの鈍痛にすぐに顔を戻す。
「地味に痛い……はぁ。今日はナイトレイブンカレッジに行くのにぃ~」
久々にジェイドたちに会うのに首が痛いなんてテンションが下る。
「ぁあ~今日は行くのやめよっかな」
〝海の館〟で寝ていようかなとさえ思う。ここ海の館は人魚の生徒のために作られた学校の施設のひとつだ。辺境の地にある学校は街がない分こうし施設が多い。他にも様々な用途で作られた施設は多いが在校生でもすべてを把握している者は少ない。上級生でも「そんな施設あったの?」なんてこともざらである。だが、ここは比較的によく知られている施設で私も頻繁に利用している。
昨晩も久々に人魚の姿に戻りたくてここに飛び込んでそのまま就寝した。だから、なのだろうか。とても懐かしい夢を見た気がする。でも、その内容はもう覚えていない。
大きな岩に寄り掛かりながらぼんやりとカラフルな海の中を見る。だが、それもすぐにつまらなくなって――。
「やっぱりジェイドに会いに行こう!」
そっちの方が絶対に楽しいし、何だか今はとてもジェイドに会いたい気分だったし。ならば、この機嫌が維持できている間に部屋に戻らなければいけない。
寄り掛かっていた岩から離れて尾ビレを動かして海面に向かって泳ぎ出した。この瞬間、何かを求める瞬間がとても楽しみで堪らなかった。
* * *
今日は全国高校陸上競技大会。毎年ナイトレイブンカレッジで行われる。
ブルームノヴァカレッジの生徒も出場しているため応援するために賢者の島に私は来ている。だけど、多くの生徒は応援というのが建前だったりする。本当は女子校という男っ気のない場所で得られない恋人を獲得するために来ている生徒が大半。
勿論、交流が盛んなロイヤルソードアカデミーで恋人をゲットしている生徒は多い。でも、タイプでない生徒はこうした外部に出られる機会を逃したくない。しかも、ロイヤルソードアカデミーとスペックの高いナイトレイブンカレッジの生徒を逃すはずがしたくない。
皆必死に理性を律しながらも男漁りという身もふたもない行動をしているということ。何だかその様子は人魚の婚活にも似ていて面白いなって双子の片割れに言ったら「絶対外で言わないこと」って釘を刺された。なので、言わないでいるけれど同じ制服を着た子たちの必死な取り繕いは雌の人魚の求愛じみていて寧ろ可愛らしい。
人間も、人魚も種族は違うけれどこういう必死なところは同じで陸と海を知っているとこんな面白い発見もできてしまう。
私もあんな必死なときが来るのかとなんて想像が出来ないけれど――と私の視界に探し人が映る。
「みぃつけた!」
サイドストリートフェステバルの人混みから頭ひとつ分以上はみ出している馴染みのある頭を発見した。丸い頭とターコイズブルー色の綺麗な髪。間違えるはずがない。いやそもそも私が彼を誰かと間違える可能性はない。ちなみに、彼の双子は姿勢があまりよろしくないから同じ丸い頭で同じ髪色でもバッチリと違いが分かる。なので、あそこを歩いている彼は探し人であることは間違いない。
鼻歌を歌い出すほどに心が浮足立つ。探し人ことジェイドとはしょっちゅう連絡を取っているけれど面と会うのはサマーホリデー以来だ。
ああ、早く話したい。こんな気持ちにさせるのはジェイドだけだった。
私は駆けだしたいのを我慢しながら歩き出す。制服のスカートを足に纏わりつかない長さにしておいてよかった。先生はいつも短いと言うけれどこれくらいが可愛いし動きやすい。それに自慢じゃないけれど私の足は綺麗だから隠すのは勿体ない。
すいすいと海中を泳ぐように人混みを掻き分ける。器用に人を避けて、避けて――やっとたどり着いた。無防備な腕に手を伸ばして掴みかかろうとしようとしたけれど直前になってすっと消えてしまった。
「わぁっ!」
目標物が消えて前のめりになったところで「おや」と声がする。その声と同時にガクンと身体が揺れた。お蔭で痛めた首に鈍痛が走る。
「い、いたっ」
咄嗟に首を手で押さえる。本当に鈍い痛みなのにどうして首だとこうも痛く感じるのか。鈍痛に地味にダメージを食らっていると。
「僕を驚かそうとするからですよ、レティシア」
「ぅう~」
呆れ声に首を動かそうとしても今は無理。地味に痛くて動かせない。
「はぁ。首、痛めたんですか?」
「寝違い」
「では、僕が心配することではありませんね」
呆れ声から一転あっけらかんとしたジェイドは「よいしょ」という掛け声で私の身体を無理矢理動かして立たせた。立たされた振動で首に痛みが走る。
「いっ」
「そんな大袈裟ですよ」
「大袈裟じゃないのよぉ」
「地味に痛いの」と首を抑えながらゆっくりと仰ぎ見る。でも、やっぱり痛くてすぐに顔を真っ直ぐにしてジェイドの胸の辺りを見る。痛さに涙ぐみながらジェイドの胸板結構ありそうだなって見ていれば――ガシと顔を掴まれると無理矢理上を向けさせられた。瞬く間に捻った首から痛さが広がっていく。
「いっ、いたぁい!」
「レティシアが視線を下げるからでしょ。話しにくいんですよ」
なんていい笑顔で言うジェイド。ここぞとばかりにイジワルをしてくるのは人魚としても最低だ。いや、もうそれどころじゃない。地味に、本当に首が痛い。
「首、いた、本当に痛いのッ」
ジェイドの顔を睨みながら叫ぶ。ついでバシバシと無駄に長い腕を叩く。それでも中々離してくれないジェイドはニタニタとギザ歯を見せながら「これで痛み引くかもしれませんよ」なんて言う。そんなことないのに。陸生活二年目でもわかるくせに。
そろそろ目尻に涙が滲むかもしれないというところでパッと顔から手が離れた。私はすぐに両手で首を擦る。本当に痛かった。
「痛くされて喜ぶ趣味はないのよ」
「そうでしたか。意外です」
マゾだと思われていたのは心外だがもう気分も萎えた。
「もう帰る……」
「そうですか……一人で帰れます?」
「せめて門まで送って行きなさいよ」
ベソベソとジェイドの胸を叩くけどその手もすぐに掴まれてしまった。離せと腕を動かそうとする前に彼が私の手を掴んだまま歩き出してしまった。
「どこ行くの?」
「モストロ・ラウンジです」
それだけ言うと進んでいた方角と逆に歩き出す。そういえば、モストロ・ラウンジはオクタヴィネル寮の中にあると幼馴染のアズールが言っていた。だから、寮に繋がる鏡へと行くのだろう。
長い足でいつもさっさと歩くのにゆっくりとした歩調だった。変なところで見せる優しさに萎えた気持ちが起き上がって来て楽しくなってくる。すると、自然に痛みが和らいでいくようでギュッとジェイドの手を握り返す。
「何ですか」
「迷子になりそうだから」
それにしても改めて過行く人々を見る。ここは外部の人間に紛れてナイトレイブンカレッジの生徒がチラホラ見える。ただ、その多くの生徒が驚愕の眼差しを向けている気がする。どうしてだろうか、と考えてきっとオクタヴィネル寮の副寮長が女の子を連れているからかもしれない。
「ふふ。明日には噂になったりするかもね」
「噂ですか?」
「うん。あのジェイド・リーチが女子を泣かして手を引っ張っていたって」
クスクス笑って言えばジェイドは「さぁ、どうでしょうかね」と愉しげに返して来た。何でそんな愉しげなのか。見当もつかないので考えるのをやめた。考えることに力は今使いたくない。それに使うべきときに使えないなら今は思考力を残しておいた方がいい。
そのままジェイドに連れられるように私がやって来たのは海の中にあるオクタヴィネル寮。海中にある寮はとても懐かしくそして美しかった。
「綺麗な海ね」
「泳ぎたくなる」と素直な感想を述べれば「わかります」と返された。それはそうだろう。彼も深海に生きる人魚とはいえ人魚なのだ。この美しい海中を泳ぎたくなるはずだ。
「海の中の寮いいな」
「それでも自由に泳げませんよ」
「え、そうなの?」
もったいないなと思いながらまた歩き始める。もう首の痛みは引き、帰る気も失せていた。寧ろ、海中にある寮や噂のカフェに気分は上がって行くばかりだ。
「モストロ・ラウンジってアズールが経営しているカフェよね」
「はい。従業員は寮生と他寮生で構成されています」
「へぇ。外部に行かないでいいお小遣い稼ぎができるのね」
私のところは気軽にアルバイトなんてできない。理由は学校が辺境にあるからだ。でも、そのぶん先生の研究のアルバイトや、学食でのアルバイトなどなど学内でアルバイトが出来るようになっている。他に、長期休暇も届け出を出せばアルバイトは可能だったりする。
「ここは辺境っていっても街もあるしアルバイトに困らなそうではあるけれどね」
「それでも学園から出ると色々不便ですから」
「距離?」
「はい」
なるほど、なるほど、頷きながら鼻歌を歌い出す。そして、廊下を歩きながら海中を見ているとジャズ調の音楽と賑やかな気配がしてきた。
入り口から見えるお客の多さに「すごい盛況ね」と感嘆の声が漏れる。
「ええ。今日は大会のお蔭でお客様が多くて大忙しです」
「それは邪魔をしたわね」
心にもないこと――ウソ。半分悪いなと思いながら言った。すると、ジェイドの手が離れて前を向いていたジェイドが私の方を振り返った。私は僅かに痛む首で彼を見上げると顎に指をかけて薄い唇からギザ歯が覗かせて微笑んだ。
「悪い顔している」
「思ったことを口に出し過ぎです」
「私、素直だから――で、何かお願いごとでもあるの?」
カフェを見るにとても忙しい。その中、現場を離れていたのだ。お使いか何かあったのだろう。その中態々私をここまで送り届けてきたのだ。何かあるのだろう。ジクジク痛くなる首に限界だなと首を降ろそうとしたらまた顔を掴まれた。
「まだ話は終わっていませんから」
痛いと言おうとしたのを塞ぐように遮られる。むぅと唇を尖らせながらにっと目尻を下げるジェイドを見る。これはきっと何か言われるに違いない。それが面白いことならいいなと待っていると。
「お使いの僕がここまで貴方をエスコートしたんです。頑張って宣伝塔になってもらいますよ」
「は?」
目を丸くさせればジェイドが離れていく。顔から手のぬくもりも離れていく。痛む首に顔を前に戻す。でも、ジェイドを見なければ意味がわからない。
「どういうこと? もう随分繁盛しているじゃない」
「ふふ。アズールはもう少し稼ぎたいようなので。で、貴方のマジカメ結構な人数のフォロワーがいますでしょう?」
「そうだとは思うけど」
思い出しても正確なフォロワーを思い出せない。そもそも私は趣味というか気まぐれで始めただから正直フォロワーとか興味がない。映えるとかも自分が興味なきゃ写真も取らないし、アップすることもない。
「で、宣伝のために写真をアップすればいいの?」
「ええ。それに今日は貴方以外にもルーシーさんにヴァネッサまでいる」
「あ、本命はそっちでしょ」
気まぐれにマジカメをしている私と違って姉様と双子の姉妹であるヴァネッサはしっかりとマジカメを利用している。姉様は仕事とプライベート用で、ヴァネッサは自分の活動に合わせ写真を取ってよくアップしている。つまり、私というよりこっちの二人が本命に違いない。
私は肩透かしを食らうと同時につまらなくなる。幼馴染のアズールの力になれるのは嬉しい。でも、ただの広告塔で姉妹のおまけのような扱い。
「レティシア、拗ねないでくださいよ。好きな物追加でつけますから」
完全に拗ねているのを把握したのかジェイドが子どもを宥めるように言う。別にそんなものは要らない。けど、以前モストロ・ラウンジを始める前にジェイドが試作で作ったデザートを試食したことがある。あのシンプルなシフォンケーキは美味しかった。
「なら、モストロ・ラウンジを始めるときに作ったシフォンケーキが食べたい。あと、貴方が淹れた紅茶で手をうつわ」
ジェイドは一瞬目を丸くししながらにこやかな笑みで「わかりました」と答えた。似非爽やかな顔を見ながら痛みに疼く首を擦りながら「そういえば」と切り出す。
「姉様とヴァニーは?」
「それぞれ連れてきますよ」
確信めいたジェイドの言葉に私もその気がして来た。
* * *
ジェイドが言った通りに二人は連れられて来た。姉様は人混みに酔っているところをアズールに助けられる形でやって来た。その次にプンプン怒りながらフロイドに茶化されながらヴァネッサがやって来た。姉妹の中でも特に顔が売れている姉様に気づいた人から避けるように私達三人は一旦VIPルームに通された。
そこで私達は限定メニューを中心に写真を取り、部屋の写真を取り、急いでマジカメにアップする。すると瞬く間に反応が返って来る。
「すごいわねぇ」
囁きながら私は一般フロアの奥からモストロ・ラウンジの繁盛ぶりを眺めた。端の方だからただ顔が知れ渡っている姉様だけサングラスを着けて観察を続ける。
私たち姉妹がアップした写真のお蔭かどうか分からないがお客が急激に増えた。多くは女の子だったのには驚いた。だけど内心私はメニューや写真に紛れるようにウェイターを撮影したからだと思う。もちろん、その子には許可を取ってからアップしたわ。そこはしっかりマナーを守らないと。
にしても、ナイトレイブンカレッジの式典服を着た生徒は人気が高いと改めて思う。座っている女子の目がずっとウェイターに向かっている。皆、瞳をキラキラさせて可愛くさえ見えて来た。その中でもひと際顔立ちが整っている子たちは連絡先が書かれたメモを渡されている。皆必死だなぁと見ていると人手が足りないからと式典服に着替えたジェイドが視界の端に映った。そっちを見ていれば頬を真っ赤に染めた子に捕まっていた。
ジェイドは渡された連絡先を困った顔で断っていた。そしてすっとその席を離れた。だけれど彼が横切るたびに惹きつけられるように皆見惚れていく。それもそうだ。ジェイドは綺麗な顔立ちで上品な雰囲気に合わせてモデル並みの美しい体型なのだから。でも、不思議だ。海にいるときより煌びやかな視線を集めているような気がする。
たぶん、故郷ではジェイドはウツボの人魚だと皆が知っていた。だから、見目が良くても一定数の人魚は怖がっていた気がした。だから、だろうか。モテてはいたけれどこんな、こんな――。
「レティシア」
「ん?」
ジェイドに向けていた視線を外して顔ごと横を向ける。そこにはサングラスを装備した姉様が美しく微笑んでいた。
「そろそろ帰ろうと思うのだけれどレティシアはどうする?」
「え? もうそんな時間?」
慌ててスマホを見ると確かに大会も終わりに近い時間だった。そろそろ学園から出る時間だ。ただ、あまりジェイドと話せていないこの状況で帰るのは少しためらわれる。
「今日は街のホテルに泊まるから早く戻らなくてもいいんだけれど時間がね」
「そうね……」
私が駄々を捏ねることを見越して姉様が困ったように言う。姉様を困らせたいわけではないのだけれどちょっと駄々を捏ねたくなるのも理解してほしいと思う。だから、察した姉様は「ごめんなさいね」と言うとちょんちょん私とは反対側を指さす。指が指す方向を見て私は「あ、なるほど」と理解した。
「……なによ」
姉様が指さす方には双子の姉妹。ヴァネッサがいた。その瞳は輝いてはおらず荒んでいた。綺麗に整えている眉も真ん中にギュッとなっている。ストローなんてはしたなくガシガシ状態だ。とても不機嫌なことが如実に伝わってくる。
「だいじょーぶ?」
「……もう限界。でも、八つ当たりするつもりはないわ」
ぶすっとした声にガシガシしたストローで氷を掻きまわす可愛い片割れ。不機嫌なことを自覚している。それはいいし何が原因かも分かっている。可愛い彼女がこんな怖くなってしまうのはいつもあの男の子が原因。
フロイドも人気みたいだしね、とさっきの光景を思い出す。ついさっきのことだ。気まぐれに出て来てジェイドに絡んで女子の黄色い声が上がった。それで気まぐれにウェイターをして女子の視線を一身に受けていたが、嫌気がさしたのかまた厨房に戻ってしまった。
「あたしが勝手に嫉妬しているだけだし……気にしないで」
「あらあら大人ねぇ」
名残惜しげに厨房の出入り口を見ているヴァネッサ。恋い焦がれる乙女であり嫉妬に燃える恐ろしい女が共存している。それが大人の女性のようで私はつい軽口を叩く。それにヴァネッサは「大人じゃないわ」と返す。
「ふふ。でも、頑張ってるいい子よ」
むぅと口を尖らせるヴァネッサの頭を姉様が慰めるよう撫でる。頭を撫でられるヴァネッサはちょっと恥ずかしそう肩をすくめた。私だったら大好きな姉様に撫でられたらぐいぐい頭を押し付けてしまうのにやっぱりまだ子どもなのかな。
「置いて行かないでね」
恋をしてから大人になっていく片割れに寂しくなってつい口から零れる。でも、ヴァネッサがきょとんとして「レティの方が置いて行きそうじゃない」と返した。それはないわ。と苦笑を浮かべながら席を立つ。
「あら。どこに行くの?」
「ちょっと化粧室」
トレイも行きたいし化粧も直した。それに了解と手を上げる姉様とヴァネッサに背を向けてモストロ・ラウンジを出た。けれど、一人で出るんじゃなかったと私はすぐに後悔することになった。
「キミ可愛いね? 暇なら街に下りてお茶しない?」
出た瞬間に軽薄な男と遭遇してしまった。制服からしてナイトレイブンカレッジ生じゃない。外部の生徒だろう。それにしてもカフェであるモストロ・ラウンジから出てきた私をお茶に誘うってナンパが下手過ぎでしょ。慣れていないようには見えないけれど百発百中ではないのだろう。
ふぅと息をついて首を傾げたところで寝違いの痛みに眉を顰める。男はそれを不機嫌と察したのだろうか「あ、それとも薔薇の王国とか行く?」と言い出した。
なんでそうなるの。馬鹿じゃないの。というか、その国をチョイスするってことは学校が薔薇の王国にあるみたいだ。ま、どうでもいいけれど。
無視してもいいけれど面倒くさそうだから「ムリ」と言って脇を横切ろうと歩き出した。すると、男がいきなり腕を掴まれた。サイアク。でも、これで声は上げやすいと思ったときだった。
「チッ。お嬢様学校のブルームノヴァの生徒だからってお高く留まってんなよ」
うげぇ。もうキレた。短気は損気だって知らないのか。というか、ブルームノヴァは別にお嬢様学校ではない。歴史のある魔法士養成学校なだけ。ただ、お高く留まっているのは否定しきれない。だって、実際皆プライド高いから。けど、だからってこの男に関係はないし、言われる筋合いもない。
「おい。聞いてんのかよッ」
「いっ」
ギュッとさらに掴まれた腕に呻きながら私は声をあげる。
「痛いです! やめてください!」
一応困っている女の子らしく声を出してあげてみる。とはいえ、本当に怖がっている子は十中八九出せ無さそうな声だけど。とりあえずオーバーに叫んでいれば周りが助けてはくれなくても証言はしてくれるだろう。全くこういうところ本当にどうにかならないかな。
にしてもこの男全然離してくれる気配がない。仕方ないな。何度か声をあげて後は魔法で適当にやり過ごそう。はぁ、と心の中で溜息をついて叫ぼうとしたところだった。
「これはこれはお困りのようですね?」
声に反応して咄嗟に振り返ると寝違えた首にまた痛みが走る。けど、痛みと代償に現れた人はとても頼もしい存在だった。そこに立っていたのは胸に手を当てた状態のジェイド。けど、よく見るとその後ろで縮こまっている寮生が見えた。どうやら呼んで来てくれたようだ。ありがとう、と後でお礼をしよう。
さて、と前を向いてもう一度腕を振ると呆気なく男の手が離れた。どうやらジェイドの存在感にすでに負けたらしい。ダサ過ぎて呆れる。でも痛いからさっと手を離してくれて助かった。
掴まれた部分を擦ると「おや?」とジェイドの声がした。そして、大きな手のひらが私の上にそっと重ねられ、ついでに後ろから覆いかぶさるような気配がした。それに身体から力が少しだけ抜ける。
「痛めましたか?」
「この人が無理矢理掴んできて、」
「怖かった」なんて付け足すように言ってみれば「それはそれは」とジェイドもノリよく答えてくれた。目元を手で覆って「本当にいきなりだったんです」と付け足す。すると、ジェイドの手が肩に慰めるように置かれた気がする。これもあってか周りの騒めきが大きくなっていく。下手をすれば警備員か先生が呼ばれるに違いない。
「くっ。別に、ただ」
「ただ、なんでしょうか?」
ジェイドの丁寧ながら圧のある問いかけに男は「クソッ」と捨て台詞を吐いて去って行った。ダサいなと思っていたら抱かれた肩がまた少し強く抱かれた気がする。
「ん? なに、ジェイド?」
「いえ。大丈夫ですか?」
「え? うん、平気よ?」
珍しく心配そうに眉を下げるジェイドに首を傾げる。すると、鋭い痛みに呻くとジェイドが「無茶をするから」と言う。別にこれはあの男とは関係はない。関係ないけれどちょっと掴まれた腕よりも痛いかもしれない。
「ちょ、痛い。痛い」
「はぁ。少し休憩して行ってください」
「うぅ、ありがとう」
途端呆れた顔をするジェイド。その後は何事かと聞きつけたアズールがやって来てちょっとした騒動になった。それからあれよ、あれよと私はまたVIPルームに連れられてしまった。姉様たちも心配して休んでいなさいと言ってどっか行ってしまった。
「痛い、死にそう」
「大袈裟な」
座り心地のいいソファに座りながら紅茶を入れるジェイド。それに「あ、約束の?」と言えば目を据わらせて「忙しいからできませんよ」と言われた。なんだ。じゃあ約束は後日ということか。
「つまらない」
「はぁ。全く貴方という人魚は」
「なに?」
「何も」
紅茶を入れたティーカップを置きながらジェイドが「ゆっくり休んでください」と言う。けれど、ゆっくり休むような時間はない気がする。
「もうすぐ時間でしょ」
「まだ休むくらいの時間はありますよ」
そうだけれど。姉様たちは大丈夫かしら。それが伝わったのか「少し学内を見て回るそうです」と言われた。二人でと心配したら「一応フロイドがいます」といた。それはそれで心配だけど何だかんだフロイドは二人を置いてはいかないと思う。
「二人は平気です。いいからこれ飲んでさっさとゆっくりしてください」
それだけ言うとジェイドは「仕事があるので」とサッと出ていってしまった。颯爽と出ていくジェイドに寂しさを感じる。
「さっさとって、ちょっとなぁ」
寂しいと言いながら目の前に置かれたティーカップを手にする。それから、ゆっくりと背もたれに寄り掛かって紅茶を飲むと――。
「おいしい!」
去年、会ったときに紅茶を入れて貰って美味しかったけれど今と比べ物にならない。短期間ですごく紅茶を入れるのが上手くなっている。それにこの紅茶の茶葉は飲んだことがない。オリジナルブレンドなのだろうか。
「ほしいな……戻ってきたらジェイドに聞いてみよう」
と、独り言を零し全部飲み干すとうつらうつらと眠くなっていた。だ徐々に重くなっていく瞼に素直に従って私は眠りについた。
深く落としていた意識が急上昇する瞬間が私は堪らなく嫌い。まだ揺蕩っていたいのに無理矢理引っ張って動かされるような気分になるから。
嫌だなと思っても私の身体は無遠慮に揺さぶられる。この遠慮のない起し方はきっと片割れだ。このまま無遠慮に叩き起こされる未来が待っている。しかも、その叩き方といったらまるで尾ビレでビンタされたように痛い。大人しく起きた方がいいと決まっている。
仕方ない、と起き上がっていつもの悪戯を仕掛ける。
「おはよぉ、ヴァニぃちゃぁ~ん」
寝ぼけたままぼやけた視界で服を掴む。そのまま顔を寄せてチュとキスをしたのだけれど唇に柔らかい感触がした。
「ん?」
おかしい。いつもならつるりとしたホッペの感触がするのにふにゅっと柔らかい。何だと目を開こうとすると――ぐいっと肩を掴まれて離された。
「レティシア」
「はぇ?」
名前を呼ばれてパチと目を開くとにっこり微笑んだジェイドがいた。あれ、何故ジェイドがいるのだろうか。ここは寮の部屋のはずなのに。
「どぅしているの?」
「起しに来たんです。忘れたんですか貴方が寝ている場所モストロ・ラウンジのVIPルームですよ」
捲し立てるジェイドをぼんやりしたまま周りを見やる。確かに寮の部屋じゃない。見覚えのあまりない部屋だ。あ、そうだった。私ここで休ませてもらったんだ。
私は痛めたはずの首に触れると大分増しになっていた。よかったと思いながら身体を解す。
「ん、ぅんん~~スッキリしたぁ」
「それはなによりです」
「ありがと」
ぽけっとしたまま答えるがジェイドはまだ笑みを張り付けたままだ。どうしたんだろうかと髪を直しながら訊ねる。
「どうしたのジェイド?」
「別に何も。それよりもう大会も終わりました。来客者の帰る時間です」
「あら、もうそんな時間になったの」
ジャケットからスマホを取り出すと確かにギリギリの時間だった。結構休ませてくれたんだろう。
「身支度したら来てください。ああ、ルーシーさんたちは先に正門で待っていますから」
「あとで送ります」と言うとジェイドはさっさと出ていってしまった。さっきみたいだなと思いながら私は手櫛で適当に直す。最後に治せなかった化粧を見ようと鞄を手繰り寄せてコンパクトを取り出す。鏡に映る自分の唇を見てはたと冷めた思考で思い出す。
「あれってジェイド?」
しかも向きからして頬とかそんなんじゃない気がした。たぶん、あの柔らかさはしたことがないけれど――唇。
「私、ジェイドにキスしちゃったってこと?」
嘘でしょ、とコンパクトに映る驚きに目を見開く子に私は問いかけた。
2021.10.31 一部文章改稿
2022.05.08 改題