限りなく普通の恋
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女の子はずっと恋していました
母と父に連れられるようにやって来た斜向かいのケーキ屋さん。可愛らしい見た目と同じく店内のショーケースの中には可愛らしいケーキが並んでいた。
幼心にも擽られる光景に誘われるようにショーケースを覗いていると――。
「引っ越して来た花屋さんのとこの子?」
突然かけられた声に驚いて「ひっ」と引き攣った声が出た。前住んでいたところでも驚いて出た声が変だと言われたことのあるわたし。そんな声を聞かれて恥ずかしくなって口を押えて黙り込んでしまった。
顔を向けることも出来ずに口を押えてうつむくわたし。声をかけた子も早くどっか行ってくれないかと思ったのだけれど。
「いきなり声をかけて驚かせて、ごめん」
傍に気配が感じると優しい声が降って来た。わたしよりも大きい子にまた身体が震える。返事しないわたしに早くどっか行けばいいのに。相手の子は中々去らない。
怒っている雰囲気も感じない。そろそろうつむいていた顔を上げてわたしは驚く。
わたしの隣に居たのは男の子だった。大きい子なのも当たり前だ。
「ッ~~」
男の子だと気づいてわたしは距離を取る。男の子は苦手なのだ。いつも意地悪なことばかりしてくる。髪の毛を引っ張ったり、強い力で押してきたり、強く腕を掴んで引っ張ってきたり酷いことばかり子たちが多かった。
「えっと、あ~~おれはトレイ。トレイ・クローバー。きみは?」
黒縁眼鏡の男の子は困ったように眉を下げて名前を聞いて来た。わたしは何か言ったら馬鹿にされるかなと思っていた。けど、目の前の男の子が意地悪をしてきた男の子たちと雰囲気が違うことに気づく。
口元から手を離して「アンジェリーナ……」と小さな声で言う。きっと小さすぎて聞こえないとか、似合ってないとか、からかわれるんだろう。でも、大きな声なんて男の子に向かって出せない。恥ずかしくなって視線を足元に向ける。
つま先をもじもじさせていると「アンジェリーナ? 間違えてない?」と優しく聞き返された。
「え……」
足元を見ていたわたしは顔を上げる。男の子はにっこりと微笑んだ。
瞬間、ぶわっと身体が熱くなった。今まで男の子は意地悪な怖い顔ばっかりだった。そもそもこんな優しくしてくれたことない。
「あ、えっと、あってる、よ」
「よかった! これからよろしく!」
男の子は――トレイは手を出しかけたけれど引っ込めた。わたしの反応を気にしてくれていたのだろう。その気遣いが嬉しかった。わたしはまだこの優しそうな男の子に触れる勇気はなかった。けど、このときわたしは他の男の子よりもトレイを受け入れていた。
わたしにとって特別な男の子が出来た瞬間で、長い片想いの始まりだった。
* * *
わたしは膝をついてうちひしがれていた。パジャマを脱ぎ払った下着姿で年頃の女の子としてはアウトな格好。いや、年頃の女の子じゃなくても人間としてアウトな格好かもしれない。でも、そんなこと知らない。それよりもわたしは目の前の体重計の数字の方がアウトなのだから。
「うっそでしょっ! 昨日ちゃんと食べた分しっかりと運動したのよ!」
何で一キロも増えているの。いや、わかっているのよ。やっぱり、昨日分けてもらった美味しすぎるケーキのせい。とても美味しかったからペロリと食べちゃった。そしたら、同じお店のクッキーをあの子たちが一枚も、二枚も、三枚もくれたから食べてしまった。でもとても美味しかった。わたしの中でヒットした。
と、原因がわかっても体重計が現した数字が理解したくなかった。理解して現実を受け入れたくなかったから。
「これは、出ていない分ではないの? でも最近お通じいいのよ? そうよ。きっと、そもそも、こんな数字誤差の範囲よね……そうよ! 誤差の範囲よ!」
まだ寝起きで髪の毛が酷く絡んだ状態の髪を振り乱しながら立ち上がる。
誤差の範囲、誤差の範囲、と呪文を暗記するように唱えながら小さなノートをひっつかむ。そして、傍に置いてある鉛筆で乱暴に数字を記録して――泣きたくなった。
「やっぱり太っている! 昨日の朝は痩せたのにぃ~~!」
何でサマーホリデーの前に太るの。本来は痩せていなければいけない時期に。
涙ぐみながらノートに体重をメモする。こんなわたしを見て他人はいつも言うの。ちょっとくらい、と。そう簡単に言うけれど大抵その人は細くて太らない体質なのだ。わたしみたいに食べたものがすぐに贅肉変わることを知らない体質。羨ましい太らない体質が欲しい。すぐに痩せる体質が欲しい。
ないものねだりなのよね。柔らかい頬をむにゅむにゅ弄る。一度太ったせいか頬も柔らかい。触り心地の良さが学年で有名になるほど柔らかい。
「はぁ。サマーホリデーまで……残り一週間」
卓上カレンダーを睨む。三百グラムならなんとかなるけれどこれ以上太ったら大変だ。
「せっかく先輩 たちに色々教えてもらったのに」
体型の維持はどうしても難しい。とはいっても、以前どうしたら聞いたら先輩 に訊いたら十六歳の今の時期ならしかたないと言われた。その後、口をすっぱくして無理なダイエットはしないようにと言われてしまった。
わたしも無理なダイエットはしたくない。だから、ちゃんと栄養も色々考えて食べているし運動もしている。お蔭で生理不順などは起こしていない。数値の平均より少し痩せているかもしれないけれど許容範囲のはずだ。
はずなのだけど、なんでムチムチするのかわからない。
「おかしいな……」
腕や、脇腹、太腿も、なんかムチムチしている。さらに言えば魔法士養成学校――つまり高校生の年齢になってから胸が大きくなった気がする。
「脂肪の塊なんかいらないのに!」
ここか、ここなのか! 思わず胸を揉んでしまってすぐにやめる。胸は揉む大きくなる。これ以上大きくならないでほしい。
「胸の分の脂肪どこかにいかないのかな……」
ムチムチな身体から卒業したい。いつできるかなと考えながらクローゼットからブラウスを取り出して腕を通す。
「とりあえずサマーホリデーまではこのまま、このままでいさせて!」
好きな男の子だけにはせめて可愛く見られたい! だから、このまませめて維持させてと悲痛な願いを心の中で叫びながら登校の準備を始める。
「ぐっ。今日も髪の毛からみ過ぎ!」
* * *
一キロの悲劇を乗り越えてサマーホリデーを無事に迎えられた。
学校から特別な馬車で最寄り駅まで送られ、地元に降り立つ。
「ッ」
瞬間、太陽から燦燦と降り注ぐ日差しに肌が焼けそうになる。慌ててボストンバックの中から折りたたみ式の日傘を取り出して差す。紫外線カット、太陽光カット、太陽熱カットの先輩 おススメの可愛らしい繊細なレースのついた日傘だ。学校制服姿で差してもおかしくないからわたしのお気に入り。
「痛いくらいの日差しだし暑い……」
学校は妖精と魔法工学のおかげで日差しは強くなく地元は違う。さらに今日は熱波のせいだろうか暑く感じる。つつと首筋に流れる汗に学校を出る前に髪の毛を結んでおいてよかった。結んでいなかったらきっと地獄だ。
とはいっても、今日のヘアアレンジはシニヨン。ゆるっと可愛い感じにしたから後れ毛がちょっと張りつく。けれどお洒落は我慢がときに必要なので気にしないようにする。
気にしない、気にしない。張り付く髪に意識を向けないようにしながらバスを待っていると――。
「暑そうだな」
爽やかさの滲む聞き慣れた声だけど前よりもまた少しだけ低くなったかもしれない。
お互い寮生活で通話のやり取りも全くしていない。たまに実家関係でやり取りもするけれど基本メッセージだけ。懐かしい声に胸をドキドキ鳴らしながら日傘を少し後ろにずらして顔をあげる。
「トレイ……久しぶり」
「久しぶり」
若草色の髪が太陽の光りでキラキラ光って眩しい。違う。キラキラきっと眩しいのはトレイ自身の魅力が上がっているせいだ!
眩しいと目を眇めているとトレイが困ったように笑う。
「そんなに眩しいなら日傘しっかり差した方がいいぞ」
「……うん。そうさせてもらうね」
あ、今の少しだけツンとした言い方に聞こえたかも。嫌だな、と思いながら日傘を戻す。そして、傘越しに視線をトレイの方に向ける。
スプリング・ブレイクのときよりもまた身長が伸びたんじゃないのかな。なんて見ていると「年々日差しが強くなっていくな」と話しかけられた。
「う、うん。日焼け止めとか、日傘差していないと肌が赤くなって痛くなっちゃう」
ここ数年、男の人も日傘を差していると訊く。トレイも肌が白いし痛くならないのかな。「トレイは大丈夫」思わず訊ねる。
「まだこれくらい俺は平気だよ。でも、ヴィルはこの時期は日傘をしているな」
さらりと出てきた名前。トレイが言うヴィルとは世界のスーパーモデルでインフルエンサーのヴィル・シェーンハイト。わたしの学校にそういう人はいるけどその人は同世代の中では頭が何個も飛び出している格別な人間だ。そんな人を普通にヴィルと気軽に呼べるトレイはすごい。
「ヴィル、さまとはよくお話するの?」
「さまって、ヴィルも普通に男子高校生しているぞ」
トレイは笑いを含んで答えてくれた。いや、それでも気さくなトレイはすごい。わたしは想像しても出来そうな気がする。
「アンジェリーナも友達になれると思けどな」
「え!」
心の中を見透かされたようなトレイの言葉に日傘をずらして顔をあげる。
やっぱり笑っているトレイがいる。一体何を持ってわたしがスーパーモデルと仲良くできるというのだ。
「ヴィルは魔法薬草学が得意なんだ」
「だから気が合うと思う」と言うトレイにわたしは目を瞬かせる。魔法薬草学が得意というのは意外だったけれど――。
「わたしの得意科目が魔法薬草学ってよく知っていたわね」
言ったからし、と記憶を探っても言った記憶がない。それにトレイが眉を下げて苦笑いをする。
「ウィンターホリデーの宿題で熱弁振るうくらいだ。得意科目か好きな科目なんだろうなって思ったからな」
「え。そんなに?」
一緒に宿題できて嬉しかったくらいしか覚えていない。記憶のガバガバ具合に恥ずかしくなる。そして、好きな人の前で薬草学の熱弁を振るう姿にさらに恥ずかしい。
どうにもならない恥ずかしさに日傘で顔を隠す。これ以上この話はやめてと心の中で念じるとトレイが「そうだと」話を変えた。ありがたいとわたしは「なに」と聞き返す。
「学校から帰る前に新作のケーキを考えてみたんだ。寮で試す時間がなくてな。よかったら試食してくれないか?」
「え! トレイの新作ケーキ!」
恥ずかしい姿を隠していた傘をずらしてトレイを見上げる。
トレイは一瞬目を瞠ってからくしゃり顔を崩して「ああ」と言った。
自分の瞳が輝くのがわかる。太りやすいわたしの天敵の甘いお菓子。それでもわたしは甘いお菓子が大好きで、その中でも一等好きなのがトレイの作るケーキ好き。
わたしは一歩トレイに歩み寄って「寮の皆より先に食べていいの?」と訊ねる。トレイは「試食だからな。ダメだったら寮の奴らには出せないよ」と返した。それもそうだ。失敗だと思うものはパーティーに出されないだろう。けれど、トレイのケーキは試食の段階で大体成功しているのだ。
「ぜひ、ぜひ、食べさせて」
「ありがとう。助かるよ。じゃ、早速で悪いんだけど明日午後三時にいいか?」
「もちろんよ!」
「やった」と声をあげればトレイは「大袈裟だな」と言う。そんなこと言うトレイはわかっていないのだと思う。わたしが大好きなトレイのケーキをとても大好きなことを。好きな人の新作ケーキを初めて食べられるかもしれないこと。好きな人と一緒に午後のディータイムを一緒に過ごせることを。
トレイはきっと何にも知らない。わたしがトレイ のために頑張って可愛くなろうと、綺麗になろうとしていることを。
知らなくてもいいと思うけれど、知ってほしいと思うわたしもいる。
だって、少しでもいいから女の子らしく見られたい。少しでもいいから恋愛対象に入りたいんだもの。
明日の午後三時に向けてやることがたくさんできた。家に帰ったらまずスケジュール調整をしようと決意を固めたところで待っていたバスがやって来た。
* * *
次の日、わたしは何度も何度も鏡台の鏡を覗き込む。先輩 と友達に教えてもらったお化粧。唇に本当はグロスを着けたいけれどケーキを食べるから色付きリップクリームだけにしておく。
「トレイ……褒めてくれるかな」
人気のブランドの花びらの刺繍がされた白いワンピース。お小遣いと友達経由で紹介してもらったアルバイトという名の内職でお金を貯めて買ったワンピース。お金を貯める大変さも帳消しに出来るほどのこのワンピースは可愛い。
「すっごく可愛い」
この可愛いワンピースに似合うくらいには自分磨きを頑張った。これならトレイも少しは女の子として意識してくれると思う。そしたら、そしたら、告白してみよう。
もう一度鏡を覗き込んで手鏡を取って頑張ったヘアアレンジを確認する。今日は試食するときに邪魔にならないようにハーフアップの編み込み。髪留めはワンピースを買う時に一緒に選んだ白いリボン。
「うん。崩れてない……よし、行こう!」
時計を見ればちょうど約束の時間十五分前だった。靴を履いて行けばちょうどいいかちょっと早いくらいにはつく。何せ斜め向かいなのだから。
わたしは気合を入れて部屋を出た。
トレイの家の居住区は店の裏手側に入り口がある。知り合いに見つからないようにこっそり、こっそりと移動する。見つかったら何を言われるかわからない。魔法使った方がいいかもしれないと習ったばかりの魔法を使うか迷いながらいつの間にかドアの前に立っていた。
玄関の前に立つと心臓がすごくドキドキと煩い。今までのわたしと違うわたしを見せるのだ。どうしても緊張してしまう。
胸の前に組んだ手を解いてインターフォンのベルを押す。ピーンポンと鳴る音。誰が出てもいいように身構えていると「いま出るな」とトレイの声がした。
心の準備はしていたのに「う、うん」どもった声が出て嫌になる。せっかく全身武装しているのに中身はまだ追いつけていないみたい。もっと頑張らないと。
トレイがやって来るのに必死に心の準備をしていると――ガチャと玄関扉が開いた。
制服姿ではないラフな格好をしたトレイが出てきた。けど、いつもみたいに「いらっしゃい」とは言ってくれなかった。
目を見開いて「ぁ、ああ」なんてトレイらしくない声を出した。その反応に身体の血が引いていく気がした。お世辞でも「可愛い」と言われるかと思っていた。なんて思い上がりだろうか。いや、いつもお世辞でもトレイは「可愛い」と言ってくれていたから。いや、そうじゃないでしょ。本当は心から「可愛い」が欲しかったのに。
泣きそう、なんて思いながらへらっと何とか笑って見せた。
「な、なんか可笑しいかな?先輩 とか、友達に教えてもらった感じにしてみたんだけど」
「似合わなかった」なんて自分で言っていて悲しくなる。ちょっと泣きそうかもとトレイを窺うとようやく目が瞬いた。
「あ、やー違う。似合っているよ。うん」
にっこりと張り付けた笑みが作られたものだということがわかる。こういうとき幼馴染なのが嫌だと思う。このにっこりと微笑んだ笑みに騙される女の子であればよかったのに。
ズキズキと痛くなる胸にわたしは「お邪魔してもいいかしら?」と訊く。トレイは「どうぞ」と招き入れてくれた。そのときの彼はとても紳士だった。
トレイの家の中は数回だけ訪れたことがある。その度にとても賑やかな雰囲気がしたのだけれど――。
「今日は静かね」
前を歩くトレイに言う。トレイは「弟と妹は外に遊びに行っているからな」と返された。どうやらあの賑やかなチビちゃんたちは外出中らしい。
ということは、実質的にはトレイと二人きりにというわけになる。けど、出鼻くじかれたわたしの気分は上昇しない。
これならいつも通りのわたしでくればよかった。でも、やっぱり、それでも可愛いって。でも、あんな反応されてしまうとやっぱり平凡な普通のわたしのままで来ればよかった。
ぐるぐる回る後悔と後悔を排除しようとする思考。頭がいっぱいになっていると甘い香りが鼻を擽った。
「あ、いい匂い」
「鼻がいいな」
トレイが肩越しに振り返ってにやり口角を上げた。その姿にときめいてしまった。調子のいい自分に若干嫌になりながらもわたしは新作のケーキに気分がやっと上昇した。
前に置かれたホールケーキはカラフルで大きかった。
「大きいわね」
「まぁ、寮のパーティー用だからな」
困った顔のトレイは「全部食べる必要はない」と言う。
うん、と返しながらホールケーキの上にある薔薇とうさぎの飾りを見る。
「可愛い飾り。トレイが作ったの?」
「ああ。薔薇はクリームでうさぎはマジパンだ」
「うさぎの争奪戦になりそうね」
「ふはっ。さすがにそうはならないと思うが」
そんなことない。とても可愛い飾りなんだから。わたしはじぃっとうさぎを見る。
ラッパを持ったうさぎはとても可愛い。グレートセブンのハートの女王の傍仕えに確かうさぎがいた気がする。
「ハートの女王の傍仕えのうさぎ?」
「そうだ。よく気づいたな」
トレイは切ったケーキをサーブしてくれた。ありがとうと言って受け取ろうとしたけれどわたしの手からお皿を過ぎていった。
「トレイ?」
「ちょっと待ってくれ」
不思議に名を呼ぶと待てと言われてわたしは自分の行動が恥ずかしくなる。
意地汚いと思われないことを祈っていると「ほら」と目の前にお皿が現れる。そのお皿に乗ったケーキを見て目を瞬かせる。
「うさぎ……」
「じっと見ていたから食べたかったのかと思ってな」
「うっ」
食べたいというか可愛いなと思っていただけなのだが。食べたいような顔をしていたのだろうか。意地汚い顔じゃなければいいけど。
「ありがとう……食べるのが勿体ないけど食べるね」
「うん。その方が俺も嬉しい」
作った本人がそう言うなら遠慮なく食べます。可愛いうさぎさんごめんね。
わたしはトレイにエスコートされるようにキッチンの椅子に座って、差
し出されたフォークを受け取ってケーキを食べる。
ふわりと口の中に広がる甘くて重いクリーム。ずっしり来るクリームがとても心地いい。とろりと溶けていくクリームとスポンジを飲み込む。
「美味しい! やっぱりトレイのケーキは美味しいわ!」
「大袈裟だな」
「大袈裟じゃないわ! この間食べたケーキもとっても美味しかったけどやっぱりトレイのケーキが一番ね」
美味しかったけれど忌々しいケーキを思い出してちょっと体重が気になる。トレイのケーキを食べるから昨日から食べる量と運動量を増やしたけどこのケーキはもう一切れ食べれば二キロは太りそうな気がする。
でも、美味しいからもう一切れなんて考えていると「そのケーキってなんだ」と声をかけられた。わたしは「え」とお皿から顔を上げて目を丸くさせる。
トレイが真剣な顔で腕を組んでこちらを見ていた。一体何を真剣に首を傾げて「ケーキって?」と返してしまった。
「アンジェリーナが食べたケーキだよ。お前が菓子を褒めるのは珍しいからな」
「え。そうかしら?」
「うん。だから、どこのだ?」
ちょっと真剣か空気のせいか圧のあるトレイ。どうしたのかなと思いながらわたしはケーキを思い出す。
「確か、友達が家の用事でちょっと外出したのよ。でね。その外出先が輝石の国の首都だったの」
友達はそこで急に呼び出したことを両親が詫びるというので人気のパティスリーのケーキを頼んだのだ。そして、帰る時に魔法で保冷効果を持続させて学校に持って帰って来たのだ。
「どこのパティスリーなんだ?」
「んと、えーと、最近人気でわたしも記事を見たことあるの。ちょっと待ってね」
わたしはスマホを取り出してすぐにマジカメのアカウントを開いて探す。そして、見つけたパティスリーの公式アカウントをトレイに見せる。
「ここよ。外見も可愛いくてオシャレでしょ。でね、ほら、ケーキも可愛いし、マジカメ映えするって人気なの」
もちろん、見た目ばかりではなく味もとっても美味しかった。
「クッキーも美味しかったのよ」
今でも思い出せるくらいクッキーも、ケーキも美味しかった。もちろん、わたしの中で不動のナンバーワンはトレイのケーキに焼き菓子なのだけど。
「……ベタ褒めだな」
「そう?」
何だかトレイの様子がおかしい。何だか重苦しい空気が漂い初めてわたしは思わず「どうしたの?」と聞いてしまう。
わたしの問いかけにトレイは少し間を空けて眉を下げて首を振った。
「何でもない。ただお前がすごく褒めるからな嫉妬しただけだ」
「え、嫉妬?」
ドキと小さく心臓が跳ねた。それからドキドキドキドキと心臓は忙しなく期待に弾んでいく。上昇していく体温。わたしは必死に声を震わせないように訊き返した。
「嫉妬ってどいうこと?」
「……だって、アンジェリーナは昔から俺のケーキが一番だって言っていただろ? だのに、ここにきてとても美味しいってベタ褒めのケーキが現れたんだ。嫉妬しないわけないだろ」
フンと鼻を鳴らすトレイに肩の力が抜ける。幼馴染としてずっとトレイのケーキが好きだと連呼していたのはわたしだ。わたしの言葉が少しでもトレイのケーキ作りの糧になっていたことは嬉しい、嬉しいのだけれど――。
自分の期待が猛烈に恥ずかしい。トレイが女の子として意識してくれるのはまだ遠い道のりかもしれない。いや一生ないかもしれない。そういうときはどうしよう。この長らく想い続けた恋心は。
考えてもせんないこと。トレイにわたしの長い片想いなど関係ない。寧ろ優しいトレイだから振ることも気を使いそう。その後も気を使って接してくれそう。想像しただけでも申し訳なさが募る。
「アンジェリーナ」
「ッ! な、なに?」
思考がどんどん堕ちていきかけたところで呼ばれた。顔をあげるとトレイが一瞬目を瞠って笑った。
「ぼんやりしてどうしたんだ?」
「な、なんでもないわ。えっと、何かしら?」
「このケーキに合いそうな紅茶淹れたから合うか試してくれ」
「わかったわ」
ふわりとフルーティな香りがする紅茶。嗅いだことがあるようなないような気もする。でも、オリジナルブレンドかもしれない。わたしはそっとティーカップに手を伸ばす。
一口飲むと口の中に残るケーキの甘い味と絡む。さっぱりというわけではないけれど。ほどよく甘くフルーツのような味が絡み合って美味しい。
美味しいな、と思ってもう一口飲んだときだった。トレイにまた呼ばれた。
「なに?」
ティーカップを置いてトレイを仰ぎ見ると彼は腕を組んで首を傾げていた。眉を下げたちょっと厳しい顔つき。今日のトレイはコロコロ表情が変わるなと思ってわたしもつられるように首を傾ける。
「なにかしら?」
「……アンジェリーナ。痩せすぎじゃないか?」
今まで体型についてトレイに突っ込まれたことはなかった。わたしは嬉しさとかよりも戸惑いが勝った。
「そうかしら? 今まで太っていたから標準になったって思うんだけど」
「いや今までだって太っていなかっただろう」
「え」
今度こそ声を出した。トレイは今までわたしの何を見ていたのだろうか。わたしは周りの女の子に比べると太っていた。小さい頃にケーキを食べ過ぎた後遺症なのか、第一次性徴期のときだって周りの女の子よりも太って大変だった。周りからもデブと言われていたのに――そういえばトレイはいつも太ってないと言っていた。
「標準よ。痩せすぎじゃないわ」
ちょっと強く言い返せばトレイの眉間に皺が出来た。
「いや、痩せすぎだ。もう少し太っていいと思うぞ」
「ふと、ちょっと! わたし、頑張ってダイエットしているのよ!」
言ってわたしはすぐに口を隠す。言ってしまった。今までダイエットしているなんて宣言したことがない。
恐る恐るトレイを見れば綺麗な笑顔を浮かべていた。わたしはその笑顔の恐ろしさを知っている。わたしがちょっと危ないことをしたときとかおチビちゃんたちを怒る時の顔だ。
けど、わたしももう十六歳よ。別に無理なダイエットもしていないのだから怒られる筋合いはない。
「わ、悪いことをしていないわ。無理だってしていないもの。ちゃんと先輩 たちにもチェックしてもらっているのよ」
「ふぅん。けど、成長期にやっぱりダイエットはどうかと思うけどな」
ずいっと覗き込んで来る顔。カッコイイ顔にいつもなら乙女の心臓に悪いけれど、今は別の意味で心臓に悪い。冷や汗を拭き出しながらわたしは必死に抵抗する。
「でも、この時期の女の子はすぐに太っちゃうし甘いものも食べ過ぎるとニキビも出来ちゃうのよ!」
色々メンテナンスが忙しいのと訴える。それでもトレイは肯定してくれない。
「ニキビは確かに俺の周りでも悩んでいるやつがいるからわかる。けど、態々ダイエットしなくてもいいだろ」
「うっ、ふ、太るの!」
「太ってないって」
わたしは心の中でトレイのわからず屋と叫ぶ。でも、わからないというその事実がわたしの恋をズタズタにさせていく。だって、ほんとに無駄な努力をしていると思うじゃない。トレイに女の子として意識してほしいのにこれじゃ無駄だわ。わたしの努力はこれっぽっちもトレイに伝わっていない。
じわじわとインクのように滲んでいく心が叫んだ。
「トレイにはわからないけれど……太っていたの。ほんとうに嫌になっちゃうくらい。だから、好きな物を食べるときだって大変なの!」
勢いよく立ち上がるとトレイがのけ反る。そして、驚いた顔でわたしを見る。その驚いた顔を睨む。
「ケーキとても美味しかったわ。寮生の皆に出しても全然問題ない。あと、紅茶もすごく美味しかった。オリジナルブレンドだと思うけどすごいわ」
「アンジェリーナ」捲し立てるわたしの名を呼ぶトレイの声を今聞きたくない。心が尖ってこれ以上ここにいたら余計なことを言ってしまいそうだった。
「帰るね。お母さんとお父さんの手伝いがあるの」
じゃあね、と言ってわたしはキッチンを飛び出す。そして、玄関から飛び出すけれど後ろからトレイの声もしなければ追いかけて来る気配はない。
「そんなわけないでしょ……」
恋人でもなんでもない、わたしたちはただの幼馴染なんだから。
でも、どうしようもなく悲しくなってわたしは自室で思いきり泣いた。
その後のサマーホリデーはトレイと会うことはなかった。たまに外で会って挨拶を交わしてトレイが何か言いかけるのを無視して逃げた。その度に心が痛くて泣いて――臆病者の自分が嫌だったけれど終ぞホリデー期間中に治ることはなかった。
* * *
新年度が始まった。二年生になってわたしは副寮長に任命されてしまった。お蔭で新学期から忙しかった。
「疲れたぁ」
重い身体に鞭を打って自室に戻る。学生がロイヤルソードアカデミーや、ナイトレイブンカレッジよりも少ない我が魔法士養成学校は一年生から一人部屋だ。そのまま卒業まで使えるからほぼ実家の部屋と変わらない。
だらだらと制服を脱いでいく。寮長には怒られそうだけど今は身体が重いのだから見逃してほしい。
制服を脱いでお風呂セットの鞄を掴みシャワールームに行く。この時間だったらいるのは上級生だけだろう。なら、いい一年生の声は甲高くて疲れた頭に響くから。
何とか身体に鞭を打ってシャワールームに行った。その帰り同級生に宿題のヘルプを頼まれながらも何とか部屋に戻った。
身だしなみは脱衣所で全て終わらせた。明日はもう休みでようやくゆっくり出来る。
「あ~でも、せめて今日分の宿題はしないと」
よろよろしながら机に座ってスマホが光っているのが目に入った。メッセージかなと思って開くと案の定宿題のヘルプを頼んできたクラスメイトだ。明日お願いしますというメッセージがおびただしいほど送られてきた。
ゾッとしながら必死さの伝わるメッセージに〝わかった〟と返す。再び感謝のメッセージに苦笑いしスマホを置こうとして、わたしは最近マジカメを開いていないことに気づく。
頭の中にトレイの顔が浮かぶ。あれいらいメッセージのやりとりもしていない。三年生になったトレイは忙しいのもあるかもしれない。けど、もとからお互いまめにメッセージのやり取りをしていたわけではない。
わたしはこっそりとフォローしているトレイの友達のアカウントを見ることにした。けど、それをすぐに後悔した。
ケイトさんのマジカメは普段全然映っていないトレイも、リドルくんもたくさん映っていた。新入生だろうか知らない寮生も同じくたくさん映っている。
あの気難しいリドルくんが笑っている。怒っている顔もあるけれどとても楽しそうだ。周りも今まで以上に楽しそうで――写真が苦手なトレイも楽しそうに映っている。
「ふふっ、楽しそう」
想像していた以上に乾いた声が出た。虚しさと悲しさが綯交ぜになりながらスライドしていると一枚の写真が目に飛び込んできた。
ポッキリと心の中で折れた音がした。わたしの長年の軸になっていた柱が案外あっけなく折れた。
「はは。何で男子校に女の子がいるのよ」
ゾワリ込み上げた黒い感情に泣きたくなる。やだ。やだ。こんな真っ黒な感情。嫉妬が可愛く見えるほどわたしの心が真っ黒になった。それはとても汚い。
スマホを閉じてじわじわ込み上げる涙を拭う。鼻の奥がツンツンして痛くなってきて慌てて鼻をかむ。けれど、ぐちゃぐちゃになってしまった心に合わせて感情が乱れてコントロール出来ない。
何度も何度も涙を拭って、鼻をかんで疲れてわたしは眠ってしまった。次の日当たり前だけど酷い惨状になっていたけどこれで腹が括れた。
「ウィンターホリデーで告白するわよ!」
顔を冷やしながらわたしは高らかに宣言したのだった。
母と父に連れられるようにやって来た斜向かいのケーキ屋さん。可愛らしい見た目と同じく店内のショーケースの中には可愛らしいケーキが並んでいた。
幼心にも擽られる光景に誘われるようにショーケースを覗いていると――。
「引っ越して来た花屋さんのとこの子?」
突然かけられた声に驚いて「ひっ」と引き攣った声が出た。前住んでいたところでも驚いて出た声が変だと言われたことのあるわたし。そんな声を聞かれて恥ずかしくなって口を押えて黙り込んでしまった。
顔を向けることも出来ずに口を押えてうつむくわたし。声をかけた子も早くどっか行ってくれないかと思ったのだけれど。
「いきなり声をかけて驚かせて、ごめん」
傍に気配が感じると優しい声が降って来た。わたしよりも大きい子にまた身体が震える。返事しないわたしに早くどっか行けばいいのに。相手の子は中々去らない。
怒っている雰囲気も感じない。そろそろうつむいていた顔を上げてわたしは驚く。
わたしの隣に居たのは男の子だった。大きい子なのも当たり前だ。
「ッ~~」
男の子だと気づいてわたしは距離を取る。男の子は苦手なのだ。いつも意地悪なことばかりしてくる。髪の毛を引っ張ったり、強い力で押してきたり、強く腕を掴んで引っ張ってきたり酷いことばかり子たちが多かった。
「えっと、あ~~おれはトレイ。トレイ・クローバー。きみは?」
黒縁眼鏡の男の子は困ったように眉を下げて名前を聞いて来た。わたしは何か言ったら馬鹿にされるかなと思っていた。けど、目の前の男の子が意地悪をしてきた男の子たちと雰囲気が違うことに気づく。
口元から手を離して「アンジェリーナ……」と小さな声で言う。きっと小さすぎて聞こえないとか、似合ってないとか、からかわれるんだろう。でも、大きな声なんて男の子に向かって出せない。恥ずかしくなって視線を足元に向ける。
つま先をもじもじさせていると「アンジェリーナ? 間違えてない?」と優しく聞き返された。
「え……」
足元を見ていたわたしは顔を上げる。男の子はにっこりと微笑んだ。
瞬間、ぶわっと身体が熱くなった。今まで男の子は意地悪な怖い顔ばっかりだった。そもそもこんな優しくしてくれたことない。
「あ、えっと、あってる、よ」
「よかった! これからよろしく!」
男の子は――トレイは手を出しかけたけれど引っ込めた。わたしの反応を気にしてくれていたのだろう。その気遣いが嬉しかった。わたしはまだこの優しそうな男の子に触れる勇気はなかった。けど、このときわたしは他の男の子よりもトレイを受け入れていた。
わたしにとって特別な男の子が出来た瞬間で、長い片想いの始まりだった。
* * *
わたしは膝をついてうちひしがれていた。パジャマを脱ぎ払った下着姿で年頃の女の子としてはアウトな格好。いや、年頃の女の子じゃなくても人間としてアウトな格好かもしれない。でも、そんなこと知らない。それよりもわたしは目の前の体重計の数字の方がアウトなのだから。
「うっそでしょっ! 昨日ちゃんと食べた分しっかりと運動したのよ!」
何で一キロも増えているの。いや、わかっているのよ。やっぱり、昨日分けてもらった美味しすぎるケーキのせい。とても美味しかったからペロリと食べちゃった。そしたら、同じお店のクッキーをあの子たちが一枚も、二枚も、三枚もくれたから食べてしまった。でもとても美味しかった。わたしの中でヒットした。
と、原因がわかっても体重計が現した数字が理解したくなかった。理解して現実を受け入れたくなかったから。
「これは、出ていない分ではないの? でも最近お通じいいのよ? そうよ。きっと、そもそも、こんな数字誤差の範囲よね……そうよ! 誤差の範囲よ!」
まだ寝起きで髪の毛が酷く絡んだ状態の髪を振り乱しながら立ち上がる。
誤差の範囲、誤差の範囲、と呪文を暗記するように唱えながら小さなノートをひっつかむ。そして、傍に置いてある鉛筆で乱暴に数字を記録して――泣きたくなった。
「やっぱり太っている! 昨日の朝は痩せたのにぃ~~!」
何でサマーホリデーの前に太るの。本来は痩せていなければいけない時期に。
涙ぐみながらノートに体重をメモする。こんなわたしを見て他人はいつも言うの。ちょっとくらい、と。そう簡単に言うけれど大抵その人は細くて太らない体質なのだ。わたしみたいに食べたものがすぐに贅肉変わることを知らない体質。羨ましい太らない体質が欲しい。すぐに痩せる体質が欲しい。
ないものねだりなのよね。柔らかい頬をむにゅむにゅ弄る。一度太ったせいか頬も柔らかい。触り心地の良さが学年で有名になるほど柔らかい。
「はぁ。サマーホリデーまで……残り一週間」
卓上カレンダーを睨む。三百グラムならなんとかなるけれどこれ以上太ったら大変だ。
「せっかく
体型の維持はどうしても難しい。とはいっても、以前どうしたら聞いたら
わたしも無理なダイエットはしたくない。だから、ちゃんと栄養も色々考えて食べているし運動もしている。お蔭で生理不順などは起こしていない。数値の平均より少し痩せているかもしれないけれど許容範囲のはずだ。
はずなのだけど、なんでムチムチするのかわからない。
「おかしいな……」
腕や、脇腹、太腿も、なんかムチムチしている。さらに言えば魔法士養成学校――つまり高校生の年齢になってから胸が大きくなった気がする。
「脂肪の塊なんかいらないのに!」
ここか、ここなのか! 思わず胸を揉んでしまってすぐにやめる。胸は揉む大きくなる。これ以上大きくならないでほしい。
「胸の分の脂肪どこかにいかないのかな……」
ムチムチな身体から卒業したい。いつできるかなと考えながらクローゼットからブラウスを取り出して腕を通す。
「とりあえずサマーホリデーまではこのまま、このままでいさせて!」
好きな男の子だけにはせめて可愛く見られたい! だから、このまませめて維持させてと悲痛な願いを心の中で叫びながら登校の準備を始める。
「ぐっ。今日も髪の毛からみ過ぎ!」
* * *
一キロの悲劇を乗り越えてサマーホリデーを無事に迎えられた。
学校から特別な馬車で最寄り駅まで送られ、地元に降り立つ。
「ッ」
瞬間、太陽から燦燦と降り注ぐ日差しに肌が焼けそうになる。慌ててボストンバックの中から折りたたみ式の日傘を取り出して差す。紫外線カット、太陽光カット、太陽熱カットの
「痛いくらいの日差しだし暑い……」
学校は妖精と魔法工学のおかげで日差しは強くなく地元は違う。さらに今日は熱波のせいだろうか暑く感じる。つつと首筋に流れる汗に学校を出る前に髪の毛を結んでおいてよかった。結んでいなかったらきっと地獄だ。
とはいっても、今日のヘアアレンジはシニヨン。ゆるっと可愛い感じにしたから後れ毛がちょっと張りつく。けれどお洒落は我慢がときに必要なので気にしないようにする。
気にしない、気にしない。張り付く髪に意識を向けないようにしながらバスを待っていると――。
「暑そうだな」
爽やかさの滲む聞き慣れた声だけど前よりもまた少しだけ低くなったかもしれない。
お互い寮生活で通話のやり取りも全くしていない。たまに実家関係でやり取りもするけれど基本メッセージだけ。懐かしい声に胸をドキドキ鳴らしながら日傘を少し後ろにずらして顔をあげる。
「トレイ……久しぶり」
「久しぶり」
若草色の髪が太陽の光りでキラキラ光って眩しい。違う。キラキラきっと眩しいのはトレイ自身の魅力が上がっているせいだ!
眩しいと目を眇めているとトレイが困ったように笑う。
「そんなに眩しいなら日傘しっかり差した方がいいぞ」
「……うん。そうさせてもらうね」
あ、今の少しだけツンとした言い方に聞こえたかも。嫌だな、と思いながら日傘を戻す。そして、傘越しに視線をトレイの方に向ける。
スプリング・ブレイクのときよりもまた身長が伸びたんじゃないのかな。なんて見ていると「年々日差しが強くなっていくな」と話しかけられた。
「う、うん。日焼け止めとか、日傘差していないと肌が赤くなって痛くなっちゃう」
ここ数年、男の人も日傘を差していると訊く。トレイも肌が白いし痛くならないのかな。「トレイは大丈夫」思わず訊ねる。
「まだこれくらい俺は平気だよ。でも、ヴィルはこの時期は日傘をしているな」
さらりと出てきた名前。トレイが言うヴィルとは世界のスーパーモデルでインフルエンサーのヴィル・シェーンハイト。わたしの学校にそういう人はいるけどその人は同世代の中では頭が何個も飛び出している格別な人間だ。そんな人を普通にヴィルと気軽に呼べるトレイはすごい。
「ヴィル、さまとはよくお話するの?」
「さまって、ヴィルも普通に男子高校生しているぞ」
トレイは笑いを含んで答えてくれた。いや、それでも気さくなトレイはすごい。わたしは想像しても出来そうな気がする。
「アンジェリーナも友達になれると思けどな」
「え!」
心の中を見透かされたようなトレイの言葉に日傘をずらして顔をあげる。
やっぱり笑っているトレイがいる。一体何を持ってわたしがスーパーモデルと仲良くできるというのだ。
「ヴィルは魔法薬草学が得意なんだ」
「だから気が合うと思う」と言うトレイにわたしは目を瞬かせる。魔法薬草学が得意というのは意外だったけれど――。
「わたしの得意科目が魔法薬草学ってよく知っていたわね」
言ったからし、と記憶を探っても言った記憶がない。それにトレイが眉を下げて苦笑いをする。
「ウィンターホリデーの宿題で熱弁振るうくらいだ。得意科目か好きな科目なんだろうなって思ったからな」
「え。そんなに?」
一緒に宿題できて嬉しかったくらいしか覚えていない。記憶のガバガバ具合に恥ずかしくなる。そして、好きな人の前で薬草学の熱弁を振るう姿にさらに恥ずかしい。
どうにもならない恥ずかしさに日傘で顔を隠す。これ以上この話はやめてと心の中で念じるとトレイが「そうだと」話を変えた。ありがたいとわたしは「なに」と聞き返す。
「学校から帰る前に新作のケーキを考えてみたんだ。寮で試す時間がなくてな。よかったら試食してくれないか?」
「え! トレイの新作ケーキ!」
恥ずかしい姿を隠していた傘をずらしてトレイを見上げる。
トレイは一瞬目を瞠ってからくしゃり顔を崩して「ああ」と言った。
自分の瞳が輝くのがわかる。太りやすいわたしの天敵の甘いお菓子。それでもわたしは甘いお菓子が大好きで、その中でも一等好きなのがトレイの作るケーキ好き。
わたしは一歩トレイに歩み寄って「寮の皆より先に食べていいの?」と訊ねる。トレイは「試食だからな。ダメだったら寮の奴らには出せないよ」と返した。それもそうだ。失敗だと思うものはパーティーに出されないだろう。けれど、トレイのケーキは試食の段階で大体成功しているのだ。
「ぜひ、ぜひ、食べさせて」
「ありがとう。助かるよ。じゃ、早速で悪いんだけど明日午後三時にいいか?」
「もちろんよ!」
「やった」と声をあげればトレイは「大袈裟だな」と言う。そんなこと言うトレイはわかっていないのだと思う。わたしが大好きなトレイのケーキをとても大好きなことを。好きな人の新作ケーキを初めて食べられるかもしれないこと。好きな人と一緒に午後のディータイムを一緒に過ごせることを。
トレイはきっと何にも知らない。わたしが
知らなくてもいいと思うけれど、知ってほしいと思うわたしもいる。
だって、少しでもいいから女の子らしく見られたい。少しでもいいから恋愛対象に入りたいんだもの。
明日の午後三時に向けてやることがたくさんできた。家に帰ったらまずスケジュール調整をしようと決意を固めたところで待っていたバスがやって来た。
* * *
次の日、わたしは何度も何度も鏡台の鏡を覗き込む。
「トレイ……褒めてくれるかな」
人気のブランドの花びらの刺繍がされた白いワンピース。お小遣いと友達経由で紹介してもらったアルバイトという名の内職でお金を貯めて買ったワンピース。お金を貯める大変さも帳消しに出来るほどのこのワンピースは可愛い。
「すっごく可愛い」
この可愛いワンピースに似合うくらいには自分磨きを頑張った。これならトレイも少しは女の子として意識してくれると思う。そしたら、そしたら、告白してみよう。
もう一度鏡を覗き込んで手鏡を取って頑張ったヘアアレンジを確認する。今日は試食するときに邪魔にならないようにハーフアップの編み込み。髪留めはワンピースを買う時に一緒に選んだ白いリボン。
「うん。崩れてない……よし、行こう!」
時計を見ればちょうど約束の時間十五分前だった。靴を履いて行けばちょうどいいかちょっと早いくらいにはつく。何せ斜め向かいなのだから。
わたしは気合を入れて部屋を出た。
トレイの家の居住区は店の裏手側に入り口がある。知り合いに見つからないようにこっそり、こっそりと移動する。見つかったら何を言われるかわからない。魔法使った方がいいかもしれないと習ったばかりの魔法を使うか迷いながらいつの間にかドアの前に立っていた。
玄関の前に立つと心臓がすごくドキドキと煩い。今までのわたしと違うわたしを見せるのだ。どうしても緊張してしまう。
胸の前に組んだ手を解いてインターフォンのベルを押す。ピーンポンと鳴る音。誰が出てもいいように身構えていると「いま出るな」とトレイの声がした。
心の準備はしていたのに「う、うん」どもった声が出て嫌になる。せっかく全身武装しているのに中身はまだ追いつけていないみたい。もっと頑張らないと。
トレイがやって来るのに必死に心の準備をしていると――ガチャと玄関扉が開いた。
制服姿ではないラフな格好をしたトレイが出てきた。けど、いつもみたいに「いらっしゃい」とは言ってくれなかった。
目を見開いて「ぁ、ああ」なんてトレイらしくない声を出した。その反応に身体の血が引いていく気がした。お世辞でも「可愛い」と言われるかと思っていた。なんて思い上がりだろうか。いや、いつもお世辞でもトレイは「可愛い」と言ってくれていたから。いや、そうじゃないでしょ。本当は心から「可愛い」が欲しかったのに。
泣きそう、なんて思いながらへらっと何とか笑って見せた。
「な、なんか可笑しいかな?
「似合わなかった」なんて自分で言っていて悲しくなる。ちょっと泣きそうかもとトレイを窺うとようやく目が瞬いた。
「あ、やー違う。似合っているよ。うん」
にっこりと張り付けた笑みが作られたものだということがわかる。こういうとき幼馴染なのが嫌だと思う。このにっこりと微笑んだ笑みに騙される女の子であればよかったのに。
ズキズキと痛くなる胸にわたしは「お邪魔してもいいかしら?」と訊く。トレイは「どうぞ」と招き入れてくれた。そのときの彼はとても紳士だった。
トレイの家の中は数回だけ訪れたことがある。その度にとても賑やかな雰囲気がしたのだけれど――。
「今日は静かね」
前を歩くトレイに言う。トレイは「弟と妹は外に遊びに行っているからな」と返された。どうやらあの賑やかなチビちゃんたちは外出中らしい。
ということは、実質的にはトレイと二人きりにというわけになる。けど、出鼻くじかれたわたしの気分は上昇しない。
これならいつも通りのわたしでくればよかった。でも、やっぱり、それでも可愛いって。でも、あんな反応されてしまうとやっぱり平凡な普通のわたしのままで来ればよかった。
ぐるぐる回る後悔と後悔を排除しようとする思考。頭がいっぱいになっていると甘い香りが鼻を擽った。
「あ、いい匂い」
「鼻がいいな」
トレイが肩越しに振り返ってにやり口角を上げた。その姿にときめいてしまった。調子のいい自分に若干嫌になりながらもわたしは新作のケーキに気分がやっと上昇した。
前に置かれたホールケーキはカラフルで大きかった。
「大きいわね」
「まぁ、寮のパーティー用だからな」
困った顔のトレイは「全部食べる必要はない」と言う。
うん、と返しながらホールケーキの上にある薔薇とうさぎの飾りを見る。
「可愛い飾り。トレイが作ったの?」
「ああ。薔薇はクリームでうさぎはマジパンだ」
「うさぎの争奪戦になりそうね」
「ふはっ。さすがにそうはならないと思うが」
そんなことない。とても可愛い飾りなんだから。わたしはじぃっとうさぎを見る。
ラッパを持ったうさぎはとても可愛い。グレートセブンのハートの女王の傍仕えに確かうさぎがいた気がする。
「ハートの女王の傍仕えのうさぎ?」
「そうだ。よく気づいたな」
トレイは切ったケーキをサーブしてくれた。ありがとうと言って受け取ろうとしたけれどわたしの手からお皿を過ぎていった。
「トレイ?」
「ちょっと待ってくれ」
不思議に名を呼ぶと待てと言われてわたしは自分の行動が恥ずかしくなる。
意地汚いと思われないことを祈っていると「ほら」と目の前にお皿が現れる。そのお皿に乗ったケーキを見て目を瞬かせる。
「うさぎ……」
「じっと見ていたから食べたかったのかと思ってな」
「うっ」
食べたいというか可愛いなと思っていただけなのだが。食べたいような顔をしていたのだろうか。意地汚い顔じゃなければいいけど。
「ありがとう……食べるのが勿体ないけど食べるね」
「うん。その方が俺も嬉しい」
作った本人がそう言うなら遠慮なく食べます。可愛いうさぎさんごめんね。
わたしはトレイにエスコートされるようにキッチンの椅子に座って、差
し出されたフォークを受け取ってケーキを食べる。
ふわりと口の中に広がる甘くて重いクリーム。ずっしり来るクリームがとても心地いい。とろりと溶けていくクリームとスポンジを飲み込む。
「美味しい! やっぱりトレイのケーキは美味しいわ!」
「大袈裟だな」
「大袈裟じゃないわ! この間食べたケーキもとっても美味しかったけどやっぱりトレイのケーキが一番ね」
美味しかったけれど忌々しいケーキを思い出してちょっと体重が気になる。トレイのケーキを食べるから昨日から食べる量と運動量を増やしたけどこのケーキはもう一切れ食べれば二キロは太りそうな気がする。
でも、美味しいからもう一切れなんて考えていると「そのケーキってなんだ」と声をかけられた。わたしは「え」とお皿から顔を上げて目を丸くさせる。
トレイが真剣な顔で腕を組んでこちらを見ていた。一体何を真剣に首を傾げて「ケーキって?」と返してしまった。
「アンジェリーナが食べたケーキだよ。お前が菓子を褒めるのは珍しいからな」
「え。そうかしら?」
「うん。だから、どこのだ?」
ちょっと真剣か空気のせいか圧のあるトレイ。どうしたのかなと思いながらわたしはケーキを思い出す。
「確か、友達が家の用事でちょっと外出したのよ。でね。その外出先が輝石の国の首都だったの」
友達はそこで急に呼び出したことを両親が詫びるというので人気のパティスリーのケーキを頼んだのだ。そして、帰る時に魔法で保冷効果を持続させて学校に持って帰って来たのだ。
「どこのパティスリーなんだ?」
「んと、えーと、最近人気でわたしも記事を見たことあるの。ちょっと待ってね」
わたしはスマホを取り出してすぐにマジカメのアカウントを開いて探す。そして、見つけたパティスリーの公式アカウントをトレイに見せる。
「ここよ。外見も可愛いくてオシャレでしょ。でね、ほら、ケーキも可愛いし、マジカメ映えするって人気なの」
もちろん、見た目ばかりではなく味もとっても美味しかった。
「クッキーも美味しかったのよ」
今でも思い出せるくらいクッキーも、ケーキも美味しかった。もちろん、わたしの中で不動のナンバーワンはトレイのケーキに焼き菓子なのだけど。
「……ベタ褒めだな」
「そう?」
何だかトレイの様子がおかしい。何だか重苦しい空気が漂い初めてわたしは思わず「どうしたの?」と聞いてしまう。
わたしの問いかけにトレイは少し間を空けて眉を下げて首を振った。
「何でもない。ただお前がすごく褒めるからな嫉妬しただけだ」
「え、嫉妬?」
ドキと小さく心臓が跳ねた。それからドキドキドキドキと心臓は忙しなく期待に弾んでいく。上昇していく体温。わたしは必死に声を震わせないように訊き返した。
「嫉妬ってどいうこと?」
「……だって、アンジェリーナは昔から俺のケーキが一番だって言っていただろ? だのに、ここにきてとても美味しいってベタ褒めのケーキが現れたんだ。嫉妬しないわけないだろ」
フンと鼻を鳴らすトレイに肩の力が抜ける。幼馴染としてずっとトレイのケーキが好きだと連呼していたのはわたしだ。わたしの言葉が少しでもトレイのケーキ作りの糧になっていたことは嬉しい、嬉しいのだけれど――。
自分の期待が猛烈に恥ずかしい。トレイが女の子として意識してくれるのはまだ遠い道のりかもしれない。いや一生ないかもしれない。そういうときはどうしよう。この長らく想い続けた恋心は。
考えてもせんないこと。トレイにわたしの長い片想いなど関係ない。寧ろ優しいトレイだから振ることも気を使いそう。その後も気を使って接してくれそう。想像しただけでも申し訳なさが募る。
「アンジェリーナ」
「ッ! な、なに?」
思考がどんどん堕ちていきかけたところで呼ばれた。顔をあげるとトレイが一瞬目を瞠って笑った。
「ぼんやりしてどうしたんだ?」
「な、なんでもないわ。えっと、何かしら?」
「このケーキに合いそうな紅茶淹れたから合うか試してくれ」
「わかったわ」
ふわりとフルーティな香りがする紅茶。嗅いだことがあるようなないような気もする。でも、オリジナルブレンドかもしれない。わたしはそっとティーカップに手を伸ばす。
一口飲むと口の中に残るケーキの甘い味と絡む。さっぱりというわけではないけれど。ほどよく甘くフルーツのような味が絡み合って美味しい。
美味しいな、と思ってもう一口飲んだときだった。トレイにまた呼ばれた。
「なに?」
ティーカップを置いてトレイを仰ぎ見ると彼は腕を組んで首を傾げていた。眉を下げたちょっと厳しい顔つき。今日のトレイはコロコロ表情が変わるなと思ってわたしもつられるように首を傾ける。
「なにかしら?」
「……アンジェリーナ。痩せすぎじゃないか?」
今まで体型についてトレイに突っ込まれたことはなかった。わたしは嬉しさとかよりも戸惑いが勝った。
「そうかしら? 今まで太っていたから標準になったって思うんだけど」
「いや今までだって太っていなかっただろう」
「え」
今度こそ声を出した。トレイは今までわたしの何を見ていたのだろうか。わたしは周りの女の子に比べると太っていた。小さい頃にケーキを食べ過ぎた後遺症なのか、第一次性徴期のときだって周りの女の子よりも太って大変だった。周りからもデブと言われていたのに――そういえばトレイはいつも太ってないと言っていた。
「標準よ。痩せすぎじゃないわ」
ちょっと強く言い返せばトレイの眉間に皺が出来た。
「いや、痩せすぎだ。もう少し太っていいと思うぞ」
「ふと、ちょっと! わたし、頑張ってダイエットしているのよ!」
言ってわたしはすぐに口を隠す。言ってしまった。今までダイエットしているなんて宣言したことがない。
恐る恐るトレイを見れば綺麗な笑顔を浮かべていた。わたしはその笑顔の恐ろしさを知っている。わたしがちょっと危ないことをしたときとかおチビちゃんたちを怒る時の顔だ。
けど、わたしももう十六歳よ。別に無理なダイエットもしていないのだから怒られる筋合いはない。
「わ、悪いことをしていないわ。無理だってしていないもの。ちゃんと
「ふぅん。けど、成長期にやっぱりダイエットはどうかと思うけどな」
ずいっと覗き込んで来る顔。カッコイイ顔にいつもなら乙女の心臓に悪いけれど、今は別の意味で心臓に悪い。冷や汗を拭き出しながらわたしは必死に抵抗する。
「でも、この時期の女の子はすぐに太っちゃうし甘いものも食べ過ぎるとニキビも出来ちゃうのよ!」
色々メンテナンスが忙しいのと訴える。それでもトレイは肯定してくれない。
「ニキビは確かに俺の周りでも悩んでいるやつがいるからわかる。けど、態々ダイエットしなくてもいいだろ」
「うっ、ふ、太るの!」
「太ってないって」
わたしは心の中でトレイのわからず屋と叫ぶ。でも、わからないというその事実がわたしの恋をズタズタにさせていく。だって、ほんとに無駄な努力をしていると思うじゃない。トレイに女の子として意識してほしいのにこれじゃ無駄だわ。わたしの努力はこれっぽっちもトレイに伝わっていない。
じわじわとインクのように滲んでいく心が叫んだ。
「トレイにはわからないけれど……太っていたの。ほんとうに嫌になっちゃうくらい。だから、好きな物を食べるときだって大変なの!」
勢いよく立ち上がるとトレイがのけ反る。そして、驚いた顔でわたしを見る。その驚いた顔を睨む。
「ケーキとても美味しかったわ。寮生の皆に出しても全然問題ない。あと、紅茶もすごく美味しかった。オリジナルブレンドだと思うけどすごいわ」
「アンジェリーナ」捲し立てるわたしの名を呼ぶトレイの声を今聞きたくない。心が尖ってこれ以上ここにいたら余計なことを言ってしまいそうだった。
「帰るね。お母さんとお父さんの手伝いがあるの」
じゃあね、と言ってわたしはキッチンを飛び出す。そして、玄関から飛び出すけれど後ろからトレイの声もしなければ追いかけて来る気配はない。
「そんなわけないでしょ……」
恋人でもなんでもない、わたしたちはただの幼馴染なんだから。
でも、どうしようもなく悲しくなってわたしは自室で思いきり泣いた。
その後のサマーホリデーはトレイと会うことはなかった。たまに外で会って挨拶を交わしてトレイが何か言いかけるのを無視して逃げた。その度に心が痛くて泣いて――臆病者の自分が嫌だったけれど終ぞホリデー期間中に治ることはなかった。
* * *
新年度が始まった。二年生になってわたしは副寮長に任命されてしまった。お蔭で新学期から忙しかった。
「疲れたぁ」
重い身体に鞭を打って自室に戻る。学生がロイヤルソードアカデミーや、ナイトレイブンカレッジよりも少ない我が魔法士養成学校は一年生から一人部屋だ。そのまま卒業まで使えるからほぼ実家の部屋と変わらない。
だらだらと制服を脱いでいく。寮長には怒られそうだけど今は身体が重いのだから見逃してほしい。
制服を脱いでお風呂セットの鞄を掴みシャワールームに行く。この時間だったらいるのは上級生だけだろう。なら、いい一年生の声は甲高くて疲れた頭に響くから。
何とか身体に鞭を打ってシャワールームに行った。その帰り同級生に宿題のヘルプを頼まれながらも何とか部屋に戻った。
身だしなみは脱衣所で全て終わらせた。明日はもう休みでようやくゆっくり出来る。
「あ~でも、せめて今日分の宿題はしないと」
よろよろしながら机に座ってスマホが光っているのが目に入った。メッセージかなと思って開くと案の定宿題のヘルプを頼んできたクラスメイトだ。明日お願いしますというメッセージがおびただしいほど送られてきた。
ゾッとしながら必死さの伝わるメッセージに〝わかった〟と返す。再び感謝のメッセージに苦笑いしスマホを置こうとして、わたしは最近マジカメを開いていないことに気づく。
頭の中にトレイの顔が浮かぶ。あれいらいメッセージのやりとりもしていない。三年生になったトレイは忙しいのもあるかもしれない。けど、もとからお互いまめにメッセージのやり取りをしていたわけではない。
わたしはこっそりとフォローしているトレイの友達のアカウントを見ることにした。けど、それをすぐに後悔した。
ケイトさんのマジカメは普段全然映っていないトレイも、リドルくんもたくさん映っていた。新入生だろうか知らない寮生も同じくたくさん映っている。
あの気難しいリドルくんが笑っている。怒っている顔もあるけれどとても楽しそうだ。周りも今まで以上に楽しそうで――写真が苦手なトレイも楽しそうに映っている。
「ふふっ、楽しそう」
想像していた以上に乾いた声が出た。虚しさと悲しさが綯交ぜになりながらスライドしていると一枚の写真が目に飛び込んできた。
ポッキリと心の中で折れた音がした。わたしの長年の軸になっていた柱が案外あっけなく折れた。
「はは。何で男子校に女の子がいるのよ」
ゾワリ込み上げた黒い感情に泣きたくなる。やだ。やだ。こんな真っ黒な感情。嫉妬が可愛く見えるほどわたしの心が真っ黒になった。それはとても汚い。
スマホを閉じてじわじわ込み上げる涙を拭う。鼻の奥がツンツンして痛くなってきて慌てて鼻をかむ。けれど、ぐちゃぐちゃになってしまった心に合わせて感情が乱れてコントロール出来ない。
何度も何度も涙を拭って、鼻をかんで疲れてわたしは眠ってしまった。次の日当たり前だけど酷い惨状になっていたけどこれで腹が括れた。
「ウィンターホリデーで告白するわよ!」
顔を冷やしながらわたしは高らかに宣言したのだった。