どこにでもある恋物語
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普通の男子と普通の女子の恋愛一頁
俺は自分自身をごくごく普通な人間だと思っているし、実際ごくごく普通の人間だ。
子どもの頃からその認識は変わっていないし、そもそも子どもの頃は普通だのなんだの考えたことがなかった。
学校に行って、勉強して、休み時間はニーチェたちと遊んで、放課後は店の手伝いをしての日々が普通だった。普通じゃないといえば両親がケーキ屋を営んでいたことくらいだろうか。でも、自分の周りの子どもたちは家が何か営んでいること自体珍しい地区ではなかった。
普通を意識するきっかけはリドル・ローズハートと出会ったときからだ。ひとつ下の彼の生活は俺からすれば〝普通〟ではなかった。けれど、リドルにとっては〝普通〟だった。リドルもまた自分の〝普通〟が普通ではないことを知ったし、俺も人によっては〝普通〟とは違うのだと知った。でも、自分はやっぱり〝平凡〟で普通な人間なのだと着地した頃もうひとつの出逢いがあった。
彼女は俺と同じ限りなく〝普通〟の女の子だった。斜向かいで花屋を営む両親のもとで育ち、ケーキが大好きな少しふっくらした普通な女の子。
徐々に俺は彼女に惹かれていく。でも、惹かれていく中で彼女が俺自身を特別視していることに気づいた。
彼女は俺を特別な存在として羨望の眼差しで見つめる。その眼差しに嫉妬などは含まれていないただ純粋に俺をリドルと肩を並べるくらいすごい存在と見ている。
「トレイ、すごいわ。わたしなんかと大違いね」
出逢って数年くらいしてから彼女は眉を下げてそう言うようになった。俺と自分は違うのだと彼女から線引きされたような気がした。
それに気づいた頃にはもう彼女に対する恋心を自覚し始めていた。何故同じところに立っているのに自分と彼女の間に溝が出来ているのかは分からなかった。
俺は何かを成し遂げる様なすごい存在じゃない。ただ、彼女と変わらない普通な人間なのに。何が〝すごい〟のか分からない。
分からないことは知らないといけない。そうしなければ彼女が離れていってしまう気がした。それは嫌だった。
傍から離れたくなくて彼女の言動などを注意深く見て、聞いた。結果、やはり彼女の瞳には俺が漫画に出てくるようなヒーローのように見えているらしい。なんていう勘違いだ。
勉強が出来ているのは放課後の補習が面倒だからで皆考えている普通のことだ。スポーツは出来ない訳ではないけれど得意でもない。むしろ動くのは苦手だ。料理や、菓子作りが出来るのは家がケーキ屋だから。なんてことない。
その俺自身が普通だと思っていることは彼女の大きな瞳にはキラキラとした特別なことに映るらしい。なら、彼女だって同じだろう。
彼女は勤勉だ。たまに小さなミスをするけれど要領がいいからすぐに理解して修正できる。スポーツは苦手だというけれど成績は悪くない。手先が器用で何でも彼女に手にかかれば女子が好きそうなキラキラした存在を放つモノに変わる。でも、それは彼女は実家が花屋だからと言う。俺だって同じなのに。
全部同じ〝普通〟なのに何故彼女の大きな瞳には違って見えるのか。不思議な現象だった。時折彼女のすごいという眼差しに呆れてしまう。けれど、彼女が俺自身を〝すごい〟と見てくれている間は離れないのかと思う弱い自分がいた。俺は自分が想う以上に彼女に惹かれていた。
* * *
実家の繁忙期も終わり自由な時間が少し増えた頃。学園に戻る前に会おうと彼女に声をかけた。電話越しの彼女は少し声を高くさせて「ええ! もちろんよ!」と答えてくれた。顔を見なくても浮かぶ表情に自然と口が緩む。だが、次の瞬間スマホの向こう側から情けない声が聞こえた。曰く、課題がひとつ出来ていないという。
「珍しいな。お前がこんな時期まで宿題が終わっていないなんて」
『調べるのに時間を取られてしまったの』
どうやら二年生である彼女に対しては手厳しい宿題が出ていたらしい。調べものを終わったがまだ時間がかかるというらしい。ここまで来てピンと来た。電話越しに意地の悪い笑みが浮かぶ。
「ふぅん。つまり、俺の力が借りたいってことか?」
『そう! あ、いや、違うのよ。もちろん、あなたに会いたいのだけど、その宿題はついでのようなものでね』
焦っている彼女の表情がありありと浮かぶ。でも、彼女の宿題を手伝うのも悪くない。
「はは。いいよ。俺でよければ力になるよ」
『ほんと! 助かるわ! ありがとう、トレイ!』
「どういたしまして」
こうして学園に戻る前に彼女と宿題デートをすることになった。
宿題だから図書館の学習室を利用するのかと思ったが見当が外れた。
「今日は丁度定休日だからわたしの家でしましょう! あ、お父さんも、お母さんも今留守だから静かにできるわ」
店の出入り口から入って早々彼女が言った。それに頬が引き攣りそうになる。
――おいおい。流石に二人きりはヤバイんじゃないか?
彼女の両親がいたらいたで気まずいことは間違いない。けれど、二人きりというのは不味い。何が不味いって前回みたいなことになりかねないだ。
――いやいや。次こそあんな失態はしない。繰り返すつもりもない。
そうだ。前回のようなガッツかなければ問題ないのだ。そもそもまだ恋人になったばかりにガツガツなんてみっともない。いや、長らく片想いしていた女の子と恋人同士になれたならば普通はガッツくのか。でも、前回の怖いとはっきりと言われたのはまだ傷が癒えていない。ちょっとトラウマだ。
恋人同士のやり取りを考えなければいい。自分も宿題のことだけ考えていればいいじゃないかと思考がぐるぐると回し続けていると――。
「トレイ!」
「っ! な、なんだ?」
自宅に続く扉で彼女が目を丸くさせて立っていた。
「どうしたの? 何回も呼んだのだけれど具合でも悪いの?」
「いや、違う。悪い。何でもない。大丈夫だ」
「そう? それならいいけど。さ、早く来て、来て」
手招く彼女に覚悟を決めるときが来た。何も起きない。起さない。理性は大丈夫と念じる。宿題が終わったら彼女を連れて家を出よう。それがいい。何度か最後に念じ決意を新たに彼女の家に足を踏み入れた。
彼女の部屋に通されることなくリビングに通された。キスの失態を起したリビングでまだ癒えていない傷が痛む。だが、それもテーブルいっぱいに置かれた辞書、教科書、参考図書にノートにメモを見て吹き飛ぶ。
準備万端だな、とテーブルの傍まで行って見る。ふと目の端にレポート用紙が映って徐に手に取る。ザッと目を通して瞬く。
「なんだ。あと少しで終わりそうじゃないか」
手に取ったレポート用紙は終盤に差し掛かっていた。ついでにレポート用紙の傍にあったノートを捲って見れば俺の力など全然必要ないところまでまとめられていた。拍子抜けして彼女を見る。視線の先にいる彼女の視線があからさまに泳いでいた。
「あ、うん。実は、その、あの……恥ずかしいのだけど」
白い頬を真っ赤に染めて窺うようにこちらを見る。そういう姿は心臓に悪い。呻きたくなるが何とか堪えて彼女の言葉を待っていると。
「家で一緒に過ごすための誘う口実が欲しかったの。ただ、それだけなのだけど」
恥じらう彼女に呻き声が漏れそうになるのをもう一度耐えた。可愛いが過ぎるとよく分からない言葉を聞いたことがあるがなるほどこういうことらしい。今の彼女はほんとうに可愛らしい。
恋人からの可愛らしい誘いに俺も答えなければいけない。なるべく紳士的に。
「まぁ、この時期はどこも人混みだからな」
「そう! そうでしょ! とくにこの時期は地元の子もたくさんいるし……」
途端に顔に影を落とす彼女。不意に今の今まで忘れていた何時ぞやの男が浮かぶ。後で思い出したがあの男は小さい頃からやたらと彼女に絡んで挙句の果てに苛めていた奴だった。その都度、俺が間に入れば男は嫉妬に塗れた顔でこちらを睨んできた。
――馬鹿な男だよな。
好きな子ほど苛めたいなんて苛められた方からしたら嫌な思い出にしかならない。しかも、苛めた代償として好きな子から苦手意識を持たれ挙句の果てには嫌われる。恋心とは正反対の特別意識を生むだけの無駄な行動だ。とはいっても、それを助言するつもりは全くない。
意外に自分でもこんな意地の悪いことを考えるのだなと恋の力に感心していると。彼女の顔を強張らせて小さく叫んだ。
「それに! 地元の女の子にトレイと恋人になったなんて知られたら不幸の手紙が送られてくるに違いないわ!」
明日死ぬわ、に引き続く言葉に脱力しかける。だが、彼女が地元の女子たちを恐れるのも理解できる。彼女は何故か俺と同学年の女子から嫌がらせを受けていた時期があった。その都度口を挟んでいたが男と違って女子は逆上してさらに嫌がらせが過激化したのは今でも嫌な思い出だ。
だが、その女子が別の誰かに興味を移したことで嫌がらせあっさりと終わった。彼女のためによかったと思ったが、あれほど無力だと感じたことはなかった。結局あの女子たちは一体俺と彼女の関係の何が気に食わなかったのか分からない。
――とはいえ、今の彼女に手を出す女子もいない気がするが。
俺からしたら彼女は昔から変わらず可愛い女の子だったが、今の彼女の魅力はさらに増して眩いばかりだ。だから、この間の男のように興味を持ってやってくる彼女の同級生の男たちが後を絶たないのを知っているが、彼女は知らないようだ。夏休みの時も気を揉んだが今は恋人になったから余計にそういう輩が気になってしまう。
思わず溜息をつけば彼女の肩が跳ねた。
「ご、ごめんなさいね。トレイ、せっかく宿題を手伝いに来てくれたのに……」
俺の溜息を勘違いしたらしい彼女は身体を縮こませた。その様子は小動物的で可愛らしいが勘違いしたままではこじれそうなのですぐに首を振る。
「違う。ちょっと別のことを考えていたんだ。お前のことじゃないから気にしないでくれ」
「そう?」と窺う彼女に頷き返すと肩の力が抜けた。こじれる前に解決できてよかったとこちらも安堵の胸を降ろすと俺は話を変えようとレポート用紙を指さす。
「ちょっと気になっているところがあるんだがいいか?」
「え。どこ?」
こちらに近寄って手元を覗く彼女と花の甘い香りが鼻を擽る。鼓動が早くなって身体の熱が上がる。
――前はそれほど気にしなかったんだけどなぁ。
以前にもまして彼女の香りやらを鋭く感じ取ってしまう。手に入ったが故に彼女に対して想像していた邪な心が働いてしまっているのだろうか。それはそれで最低だと罵る自分がいる。その自分は彼女を繊細な飴細工を扱うがごとく大切にしたいと思っている自分だ。この邪な心の自分と、大切にしたい心の自分が今非常に難しいバランスなのだ。
「まぁ、何とかなるだろう」
「そう? 何とかなる?」
え、と漏らす前に何とか飲み込む。独り言はどうやら彼女の耳が拾ったようだ。言葉の先は違うが拾ってしまったならば仕方ない。不安げに見上げる彼女に安心させるように言葉を紡ぐ。
「ああ。少しの間違いだ。すぐに終わるよ」
「そう。よかった」
強張った表情を解いた彼女はすぐに真面目な顔になる。
「で、どこがどう違うのかしら?」
「ああ。ここの魔法式なんだが――」
こうして何だかんだと予定通り宿題をすることになった。
「終わったわ! ありがとう、トレイ!」
「どういたしまして」
間違いを指摘するついでに当初の目的通り宿題を最後までやることになった。彼女はやはり要領がよく一時間程度で終わった。
「それにしても本当にあと少しだったじゃないか」
「はは。一人だとどうしてもやる気の波があってね」
誤魔化すように笑う彼女はでもこのような顔をするのかと思うと新鮮な気持ちになる。でも、彼女の知らない姿が俺にもあるように、彼女も俺の知らないところがあるということだ。それをこれから知って行くというのはとても楽しみだった。
「トレイ。紅茶しかないんだけど大丈夫?」
「うん? ああ、大丈夫だ」
「良かった。この間、お母さんが美味しい茶葉を買って来たの」
「準備してくるわ」と言って彼女はパタパタと台所へ向かった。その後ろ姿を見送ってリビングの時計を見る。まだほんの一時間しか経っていなかった。体感時間は間違っていなかったようだ。
――いつになったら帰って来るんだ。
彼女の両親は出かけていると言っていたがいつ帰って来るのだろうか。もうすぐと言うのであればやはり外に出かけた方がいいのではないだろうか。
テーブルをトントンと叩きながら一人この後の予定を考える。彼女は地元の人間に見られることを嫌がっている。俺が隣にいるというよりも俺の隣にいる自分見られたくないといった風だ。誰も気にしないとは思うが噂になっても七十五日程度だろう。
「トレイ。準備が出来たわよ」
「ん。ありがとう」
外出の提案をしようと天秤が傾いているときに彼女がティーカップセットと茶請けを持って現れた。カチャと盆を置くとテキパキと彼女は慣れた手つきで準備していく。
「随分と慣れているな」
「え。ああ……まぁね」
曖昧なというか若干遠い目をする彼女に学校で苦労が垣間見えた。これはやはり一度話を聞こうと外出の話がトンと自分の中から消えた瞬間だった。
「副寮長は忙しいのか」
「忙しいってもんじゃないわ」
カッと目を見開く彼女はそれでも優しい手つきで俺の前にティーカップを置いた。ふわりとダージリンによく似た香りが鼻を擽る。
「いい匂いだな」
つい話が紅茶の方に飛んでしまった。それでも彼女は気にすることなくパッと表情を輝かせて自分に紅茶を入れて座って話し出す。
「そうでしょ! ここのブランドはね!」
饒舌に話し出す彼女に耳を傾けることにした。どうやらこちらの方が彼女にとっていい気がした。
* * *
紅茶の話に始まり結局突然任命された副寮長の話にと話は飛んでいく。女の子の話は飛ぶと姉が二人いるケイトからぽつりと聞いたことがあるが本当だ。そういえば妹の話もよく飛んだ。
一息ついた彼女は時計を見る。つられるように時計を見ればあれから一時間と半経っている。つまりこの家に来て二時間半経っている。
「そろそろご両親が帰って来る時間か?」
「……ええ。三時間くらいで帰って来るって言っていたから」
「ならもうすぐだな」
「ええ」
ピタリと止まってしまった会話。くるくる動いていた表情も止まって小さな唇がキュッと結ばれている。
――何か言っちゃいけないことでも言ったか?
今までの流れで何か気に障ること俺は口にしてしまったのだろうか。見当がつかない。けれど彼女はムッツリとしている。いや、空気は別にトゲトゲしていない。一体何が機嫌を悪くさせたのだろうか。それが分からないと謝ったところで意味はない。
何だ、何だと頭を捻っていると「トレイ」と呼ばれて彼女を見る。
彼女は大きな瞳でこっちを真っ直ぐに見つめていた。あまりにも澄んだ瞳に吸い込まれそうになる。本当にそういうことがあるのか、と澄んだ瞳を見ていると小さな口が動いた。
「トレイ。本当にわたしでいいの?」
一瞬、理解できなかった。理解できないと人間は反応が遅れる。それでも口を動かそうとした俺は今だけは中々優秀だと思う。
「それはどういう意味、だ?」
「……ねぇ。トレイ、わたし、あなたの隣に立って恥ずかしくない?」
澄み渡った瞳が不安に揺れた。彼女はどうやらまだ幼い頃から変わらないままだった。彼女は自分と同じく〝普通〟の女の子だ。でも、付け足すならばどうしてか自分自身に自信を持つことが出来ない。特に自分の身にあまるモノを与えられたとき。
――俺はお前にとってそういう存在なのか。
まだお前にとって俺は〝普通〟ではないのか。それはそうだ。特別視されれば離れないと思いそのままにしていたのだ。恋人になってまだ日も浅い。お互い特別だけど特別にし過ぎているのかもしれない。
それを壊さなければいけない。彼女は俺にとって特別だ。変わらない。でも彼女の中にある〝特別〟すぎる俺を壊さないとこれから歩いていけない。
怖いと思ったのはリドルの母親と相対したときくらいだろうか。でも、あれはと今感じる恐怖とはまた異なる。せっかく手に入れた立場を手放さなければいけないかもしれない恐怖だ。
――格好悪いな。いつもならごちゃごちゃと考えないのに。
だが、考えすぎてもいけない。空気が悪くなっていくだけだ。
徐に立ち上がれば彼女の不安に濡れた瞳がより濃くなる。その瞳は何も言わずに動く俺に合わせて着いてくる。面白いなと思いつつそのまま彼女の傍に立って膝を着く。まるで童話に出て来る王子様のように彼女の小さな手を取る。
「トレイ……」
か細くなった自信のない声に呼ばれた。彼女は本当に自分に自信がないのだろう。何故そこまで自信がないのだろうか。でも、そんな彼女が俺の言葉で自信が少しでも芽生えるなら言葉にしてあげたいし、彼女を不安にさせる理想の俺を壊してやりたい。
「お前は俺に夢を見過ぎている。俺はお前が思い描くほどヒーローでも何でもない。だお前を好きな普通の男で、そこらへんにいる普通の男と変わらない」
彼女は言葉にならないのか首を左右に振る。違うということなのだろう。小さな手から片方外して沈痛な面持ちをする彼女の丸い頬に触れる。
「違うってことはない。俺が言っているんだ。お前が思い描くほど特別な男じゃないんだ」
「そんなっ! そんなことないわっ」
力強く俺の言葉を拒絶する彼女は頬に触れている俺の手に自分の手を重ねた。それから強く、強くこちらを見つめる。
「あなたはわたしにとって特別よ。小さい頃からずっと憧れていたわ。だから――」
「なら、もう憧れるな」
「え」
目を見開いて驚く彼女は困惑気味に眉を下げる。握った指の先にも僅かに力が入り彼女から恐怖のようなものを感じる。それでも俺自身はさっきまで怖がっていた割には落ち着いていた。ひとつ息をついてから話し出す。
「お前が俺を憧れることはイヤじゃなかった。何せ、その間は俺に興味を持ってくれている証拠に近いからな。だけど、俺たちはもうただの幼馴染じゃない。恋人同士だ。そうだろう」
「ええ。そうね……」
力のない返事のようで彼女の指先から力がすっかり抜けた。やはり彼女は賢くか弱いだけの女の子じゃない。
「俺に憧れてくれてありがとう。でも、これからは恋人のトレイ・クローバーとしてよろしくな」
最後にキザったらしく小さな指先に口づける。
――うん。自分でしておいてなんか照れくさいな。
急激に込み上げる羞恥心から何事もなく席に戻ろう。彼女から手を引こうとしたが出来なかった。今度は彼女が俺の手を握っていた。
いつの間に、という行動に平常心、平常心と唱えながら「どうした」と訊ねる。
「ねぇ。トレイ。あなたは自分をただの普通の男だと言うけれど――それは違うわ」
まだ言うのかと思ったが中身はどうやら違うようだ。彼女は先ほどの不安はどこに吹き飛ばしたのか力強くこちら見て微笑んで言う。
「あなたがわたしの好きな人である時点でもうわたしからしたら普通ではないの。ただ一人の特別な人よ。だからね。そのあなたが選んでくれたことが信じられなかったの。でも、ごめんなさいね。不安になるのはやめるわ……」
最後に「出来るだけ」とはにかむ彼女は今まで一番大人びて見えた。まだ十七歳の彼女は今この瞬間一人の〝女〟に見えた。
これは一生勝てないかもしれない。そして、一生共にいたいと心の底から想った。
「でも、あなたの言う通りね。もうあなたに憧れるのはもうやめるわ。これからはあなたの隣に居て恥じない女性を目指すわ」
「え、あ、あ~。うん」
勇ましい顔をしてやる気に満ちている彼女に悪いがやはりまだ伝わっていない。
「もう俺の隣に居ても恥ずかしくないぞ」
「まだよ! ちょっとホリデーの間に太ってしまったし……痩せないと」
その言葉に俺はいち早く反応して見せた。
「大丈夫だ。全然太っていない。寧ろ、やつれたんだからちょうどいいだろう」
「よくないわよ! この時期のトレイのケーキは本当に美味しいから食べ過ぎたくらいなのよ!」
目尻をつり上げる彼女に首を横に振る。
「いい。今くらいがちょうどいい。いや、もう少し俺としては太っても平気だ」
「ふ、太るって言わないで!」
「じゃぁ、なんていえば言いんだ」
「そ、それは」
口篭もる彼女を見て自然と笑みが零れた。それを見た彼女も目尻を戻して微笑んだ。その微笑みが心底愛おしいと思った。
「俺もお前が好きだよ」
ほろりと零れた告白に目を丸くさせて照れくさそうにはにかむ女の子。その女の子が握った手を引いた。先ほどの引き留めるものではなく何かを誘うものだった。
積極的なその誘いに小さく笑って屈んで来る彼女を引き寄せてキスをした。
* * *
ナイトレイブンカレッジに戻る前夜。彼女の部屋の方角を見る。その部屋は灯りがまだついているようで彼女が起きていることを示している。流石にもう連絡を取る時間ではないからしないがあの方角を見ると身体の奥底に熱が籠る。
これ以上は見てはいけないとカーテンを閉める。でも、脳裏に様々と浮かぶ姿にここ連日眠れていない。寮に戻ってからの睡眠が不安になってくる。
「はぁ。寝るか」
眼鏡を外してサイドテーブルに置く。それから布団に潜り込むが今日も中々寝付けない。
寝返りを打って今回のホリデーバケーションを振り返る。ずっと片想いをしていた女の子と恋人になって、キスをした。瞬く間にステップアップしてしまったがこんなものなのだろうか。今まで恋人がいたことがないから流石に普通が分からない。
それでもどこかでそのまだ普通でない日々を楽しんでいる自分がいた。今度は一体どういったことが普通になるのか楽しみになってくるとストンと意識が落ちた。
2021.1.29 一部文章修正
俺は自分自身をごくごく普通な人間だと思っているし、実際ごくごく普通の人間だ。
子どもの頃からその認識は変わっていないし、そもそも子どもの頃は普通だのなんだの考えたことがなかった。
学校に行って、勉強して、休み時間はニーチェたちと遊んで、放課後は店の手伝いをしての日々が普通だった。普通じゃないといえば両親がケーキ屋を営んでいたことくらいだろうか。でも、自分の周りの子どもたちは家が何か営んでいること自体珍しい地区ではなかった。
普通を意識するきっかけはリドル・ローズハートと出会ったときからだ。ひとつ下の彼の生活は俺からすれば〝普通〟ではなかった。けれど、リドルにとっては〝普通〟だった。リドルもまた自分の〝普通〟が普通ではないことを知ったし、俺も人によっては〝普通〟とは違うのだと知った。でも、自分はやっぱり〝平凡〟で普通な人間なのだと着地した頃もうひとつの出逢いがあった。
彼女は俺と同じ限りなく〝普通〟の女の子だった。斜向かいで花屋を営む両親のもとで育ち、ケーキが大好きな少しふっくらした普通な女の子。
徐々に俺は彼女に惹かれていく。でも、惹かれていく中で彼女が俺自身を特別視していることに気づいた。
彼女は俺を特別な存在として羨望の眼差しで見つめる。その眼差しに嫉妬などは含まれていないただ純粋に俺をリドルと肩を並べるくらいすごい存在と見ている。
「トレイ、すごいわ。わたしなんかと大違いね」
出逢って数年くらいしてから彼女は眉を下げてそう言うようになった。俺と自分は違うのだと彼女から線引きされたような気がした。
それに気づいた頃にはもう彼女に対する恋心を自覚し始めていた。何故同じところに立っているのに自分と彼女の間に溝が出来ているのかは分からなかった。
俺は何かを成し遂げる様なすごい存在じゃない。ただ、彼女と変わらない普通な人間なのに。何が〝すごい〟のか分からない。
分からないことは知らないといけない。そうしなければ彼女が離れていってしまう気がした。それは嫌だった。
傍から離れたくなくて彼女の言動などを注意深く見て、聞いた。結果、やはり彼女の瞳には俺が漫画に出てくるようなヒーローのように見えているらしい。なんていう勘違いだ。
勉強が出来ているのは放課後の補習が面倒だからで皆考えている普通のことだ。スポーツは出来ない訳ではないけれど得意でもない。むしろ動くのは苦手だ。料理や、菓子作りが出来るのは家がケーキ屋だから。なんてことない。
その俺自身が普通だと思っていることは彼女の大きな瞳にはキラキラとした特別なことに映るらしい。なら、彼女だって同じだろう。
彼女は勤勉だ。たまに小さなミスをするけれど要領がいいからすぐに理解して修正できる。スポーツは苦手だというけれど成績は悪くない。手先が器用で何でも彼女に手にかかれば女子が好きそうなキラキラした存在を放つモノに変わる。でも、それは彼女は実家が花屋だからと言う。俺だって同じなのに。
全部同じ〝普通〟なのに何故彼女の大きな瞳には違って見えるのか。不思議な現象だった。時折彼女のすごいという眼差しに呆れてしまう。けれど、彼女が俺自身を〝すごい〟と見てくれている間は離れないのかと思う弱い自分がいた。俺は自分が想う以上に彼女に惹かれていた。
* * *
実家の繁忙期も終わり自由な時間が少し増えた頃。学園に戻る前に会おうと彼女に声をかけた。電話越しの彼女は少し声を高くさせて「ええ! もちろんよ!」と答えてくれた。顔を見なくても浮かぶ表情に自然と口が緩む。だが、次の瞬間スマホの向こう側から情けない声が聞こえた。曰く、課題がひとつ出来ていないという。
「珍しいな。お前がこんな時期まで宿題が終わっていないなんて」
『調べるのに時間を取られてしまったの』
どうやら二年生である彼女に対しては手厳しい宿題が出ていたらしい。調べものを終わったがまだ時間がかかるというらしい。ここまで来てピンと来た。電話越しに意地の悪い笑みが浮かぶ。
「ふぅん。つまり、俺の力が借りたいってことか?」
『そう! あ、いや、違うのよ。もちろん、あなたに会いたいのだけど、その宿題はついでのようなものでね』
焦っている彼女の表情がありありと浮かぶ。でも、彼女の宿題を手伝うのも悪くない。
「はは。いいよ。俺でよければ力になるよ」
『ほんと! 助かるわ! ありがとう、トレイ!』
「どういたしまして」
こうして学園に戻る前に彼女と宿題デートをすることになった。
宿題だから図書館の学習室を利用するのかと思ったが見当が外れた。
「今日は丁度定休日だからわたしの家でしましょう! あ、お父さんも、お母さんも今留守だから静かにできるわ」
店の出入り口から入って早々彼女が言った。それに頬が引き攣りそうになる。
――おいおい。流石に二人きりはヤバイんじゃないか?
彼女の両親がいたらいたで気まずいことは間違いない。けれど、二人きりというのは不味い。何が不味いって前回みたいなことになりかねないだ。
――いやいや。次こそあんな失態はしない。繰り返すつもりもない。
そうだ。前回のようなガッツかなければ問題ないのだ。そもそもまだ恋人になったばかりにガツガツなんてみっともない。いや、長らく片想いしていた女の子と恋人同士になれたならば普通はガッツくのか。でも、前回の怖いとはっきりと言われたのはまだ傷が癒えていない。ちょっとトラウマだ。
恋人同士のやり取りを考えなければいい。自分も宿題のことだけ考えていればいいじゃないかと思考がぐるぐると回し続けていると――。
「トレイ!」
「っ! な、なんだ?」
自宅に続く扉で彼女が目を丸くさせて立っていた。
「どうしたの? 何回も呼んだのだけれど具合でも悪いの?」
「いや、違う。悪い。何でもない。大丈夫だ」
「そう? それならいいけど。さ、早く来て、来て」
手招く彼女に覚悟を決めるときが来た。何も起きない。起さない。理性は大丈夫と念じる。宿題が終わったら彼女を連れて家を出よう。それがいい。何度か最後に念じ決意を新たに彼女の家に足を踏み入れた。
彼女の部屋に通されることなくリビングに通された。キスの失態を起したリビングでまだ癒えていない傷が痛む。だが、それもテーブルいっぱいに置かれた辞書、教科書、参考図書にノートにメモを見て吹き飛ぶ。
準備万端だな、とテーブルの傍まで行って見る。ふと目の端にレポート用紙が映って徐に手に取る。ザッと目を通して瞬く。
「なんだ。あと少しで終わりそうじゃないか」
手に取ったレポート用紙は終盤に差し掛かっていた。ついでにレポート用紙の傍にあったノートを捲って見れば俺の力など全然必要ないところまでまとめられていた。拍子抜けして彼女を見る。視線の先にいる彼女の視線があからさまに泳いでいた。
「あ、うん。実は、その、あの……恥ずかしいのだけど」
白い頬を真っ赤に染めて窺うようにこちらを見る。そういう姿は心臓に悪い。呻きたくなるが何とか堪えて彼女の言葉を待っていると。
「家で一緒に過ごすための誘う口実が欲しかったの。ただ、それだけなのだけど」
恥じらう彼女に呻き声が漏れそうになるのをもう一度耐えた。可愛いが過ぎるとよく分からない言葉を聞いたことがあるがなるほどこういうことらしい。今の彼女はほんとうに可愛らしい。
恋人からの可愛らしい誘いに俺も答えなければいけない。なるべく紳士的に。
「まぁ、この時期はどこも人混みだからな」
「そう! そうでしょ! とくにこの時期は地元の子もたくさんいるし……」
途端に顔に影を落とす彼女。不意に今の今まで忘れていた何時ぞやの男が浮かぶ。後で思い出したがあの男は小さい頃からやたらと彼女に絡んで挙句の果てに苛めていた奴だった。その都度、俺が間に入れば男は嫉妬に塗れた顔でこちらを睨んできた。
――馬鹿な男だよな。
好きな子ほど苛めたいなんて苛められた方からしたら嫌な思い出にしかならない。しかも、苛めた代償として好きな子から苦手意識を持たれ挙句の果てには嫌われる。恋心とは正反対の特別意識を生むだけの無駄な行動だ。とはいっても、それを助言するつもりは全くない。
意外に自分でもこんな意地の悪いことを考えるのだなと恋の力に感心していると。彼女の顔を強張らせて小さく叫んだ。
「それに! 地元の女の子にトレイと恋人になったなんて知られたら不幸の手紙が送られてくるに違いないわ!」
明日死ぬわ、に引き続く言葉に脱力しかける。だが、彼女が地元の女子たちを恐れるのも理解できる。彼女は何故か俺と同学年の女子から嫌がらせを受けていた時期があった。その都度口を挟んでいたが男と違って女子は逆上してさらに嫌がらせが過激化したのは今でも嫌な思い出だ。
だが、その女子が別の誰かに興味を移したことで嫌がらせあっさりと終わった。彼女のためによかったと思ったが、あれほど無力だと感じたことはなかった。結局あの女子たちは一体俺と彼女の関係の何が気に食わなかったのか分からない。
――とはいえ、今の彼女に手を出す女子もいない気がするが。
俺からしたら彼女は昔から変わらず可愛い女の子だったが、今の彼女の魅力はさらに増して眩いばかりだ。だから、この間の男のように興味を持ってやってくる彼女の同級生の男たちが後を絶たないのを知っているが、彼女は知らないようだ。夏休みの時も気を揉んだが今は恋人になったから余計にそういう輩が気になってしまう。
思わず溜息をつけば彼女の肩が跳ねた。
「ご、ごめんなさいね。トレイ、せっかく宿題を手伝いに来てくれたのに……」
俺の溜息を勘違いしたらしい彼女は身体を縮こませた。その様子は小動物的で可愛らしいが勘違いしたままではこじれそうなのですぐに首を振る。
「違う。ちょっと別のことを考えていたんだ。お前のことじゃないから気にしないでくれ」
「そう?」と窺う彼女に頷き返すと肩の力が抜けた。こじれる前に解決できてよかったとこちらも安堵の胸を降ろすと俺は話を変えようとレポート用紙を指さす。
「ちょっと気になっているところがあるんだがいいか?」
「え。どこ?」
こちらに近寄って手元を覗く彼女と花の甘い香りが鼻を擽る。鼓動が早くなって身体の熱が上がる。
――前はそれほど気にしなかったんだけどなぁ。
以前にもまして彼女の香りやらを鋭く感じ取ってしまう。手に入ったが故に彼女に対して想像していた邪な心が働いてしまっているのだろうか。それはそれで最低だと罵る自分がいる。その自分は彼女を繊細な飴細工を扱うがごとく大切にしたいと思っている自分だ。この邪な心の自分と、大切にしたい心の自分が今非常に難しいバランスなのだ。
「まぁ、何とかなるだろう」
「そう? 何とかなる?」
え、と漏らす前に何とか飲み込む。独り言はどうやら彼女の耳が拾ったようだ。言葉の先は違うが拾ってしまったならば仕方ない。不安げに見上げる彼女に安心させるように言葉を紡ぐ。
「ああ。少しの間違いだ。すぐに終わるよ」
「そう。よかった」
強張った表情を解いた彼女はすぐに真面目な顔になる。
「で、どこがどう違うのかしら?」
「ああ。ここの魔法式なんだが――」
こうして何だかんだと予定通り宿題をすることになった。
「終わったわ! ありがとう、トレイ!」
「どういたしまして」
間違いを指摘するついでに当初の目的通り宿題を最後までやることになった。彼女はやはり要領がよく一時間程度で終わった。
「それにしても本当にあと少しだったじゃないか」
「はは。一人だとどうしてもやる気の波があってね」
誤魔化すように笑う彼女はでもこのような顔をするのかと思うと新鮮な気持ちになる。でも、彼女の知らない姿が俺にもあるように、彼女も俺の知らないところがあるということだ。それをこれから知って行くというのはとても楽しみだった。
「トレイ。紅茶しかないんだけど大丈夫?」
「うん? ああ、大丈夫だ」
「良かった。この間、お母さんが美味しい茶葉を買って来たの」
「準備してくるわ」と言って彼女はパタパタと台所へ向かった。その後ろ姿を見送ってリビングの時計を見る。まだほんの一時間しか経っていなかった。体感時間は間違っていなかったようだ。
――いつになったら帰って来るんだ。
彼女の両親は出かけていると言っていたがいつ帰って来るのだろうか。もうすぐと言うのであればやはり外に出かけた方がいいのではないだろうか。
テーブルをトントンと叩きながら一人この後の予定を考える。彼女は地元の人間に見られることを嫌がっている。俺が隣にいるというよりも俺の隣にいる自分見られたくないといった風だ。誰も気にしないとは思うが噂になっても七十五日程度だろう。
「トレイ。準備が出来たわよ」
「ん。ありがとう」
外出の提案をしようと天秤が傾いているときに彼女がティーカップセットと茶請けを持って現れた。カチャと盆を置くとテキパキと彼女は慣れた手つきで準備していく。
「随分と慣れているな」
「え。ああ……まぁね」
曖昧なというか若干遠い目をする彼女に学校で苦労が垣間見えた。これはやはり一度話を聞こうと外出の話がトンと自分の中から消えた瞬間だった。
「副寮長は忙しいのか」
「忙しいってもんじゃないわ」
カッと目を見開く彼女はそれでも優しい手つきで俺の前にティーカップを置いた。ふわりとダージリンによく似た香りが鼻を擽る。
「いい匂いだな」
つい話が紅茶の方に飛んでしまった。それでも彼女は気にすることなくパッと表情を輝かせて自分に紅茶を入れて座って話し出す。
「そうでしょ! ここのブランドはね!」
饒舌に話し出す彼女に耳を傾けることにした。どうやらこちらの方が彼女にとっていい気がした。
* * *
紅茶の話に始まり結局突然任命された副寮長の話にと話は飛んでいく。女の子の話は飛ぶと姉が二人いるケイトからぽつりと聞いたことがあるが本当だ。そういえば妹の話もよく飛んだ。
一息ついた彼女は時計を見る。つられるように時計を見ればあれから一時間と半経っている。つまりこの家に来て二時間半経っている。
「そろそろご両親が帰って来る時間か?」
「……ええ。三時間くらいで帰って来るって言っていたから」
「ならもうすぐだな」
「ええ」
ピタリと止まってしまった会話。くるくる動いていた表情も止まって小さな唇がキュッと結ばれている。
――何か言っちゃいけないことでも言ったか?
今までの流れで何か気に障ること俺は口にしてしまったのだろうか。見当がつかない。けれど彼女はムッツリとしている。いや、空気は別にトゲトゲしていない。一体何が機嫌を悪くさせたのだろうか。それが分からないと謝ったところで意味はない。
何だ、何だと頭を捻っていると「トレイ」と呼ばれて彼女を見る。
彼女は大きな瞳でこっちを真っ直ぐに見つめていた。あまりにも澄んだ瞳に吸い込まれそうになる。本当にそういうことがあるのか、と澄んだ瞳を見ていると小さな口が動いた。
「トレイ。本当にわたしでいいの?」
一瞬、理解できなかった。理解できないと人間は反応が遅れる。それでも口を動かそうとした俺は今だけは中々優秀だと思う。
「それはどういう意味、だ?」
「……ねぇ。トレイ、わたし、あなたの隣に立って恥ずかしくない?」
澄み渡った瞳が不安に揺れた。彼女はどうやらまだ幼い頃から変わらないままだった。彼女は自分と同じく〝普通〟の女の子だ。でも、付け足すならばどうしてか自分自身に自信を持つことが出来ない。特に自分の身にあまるモノを与えられたとき。
――俺はお前にとってそういう存在なのか。
まだお前にとって俺は〝普通〟ではないのか。それはそうだ。特別視されれば離れないと思いそのままにしていたのだ。恋人になってまだ日も浅い。お互い特別だけど特別にし過ぎているのかもしれない。
それを壊さなければいけない。彼女は俺にとって特別だ。変わらない。でも彼女の中にある〝特別〟すぎる俺を壊さないとこれから歩いていけない。
怖いと思ったのはリドルの母親と相対したときくらいだろうか。でも、あれはと今感じる恐怖とはまた異なる。せっかく手に入れた立場を手放さなければいけないかもしれない恐怖だ。
――格好悪いな。いつもならごちゃごちゃと考えないのに。
だが、考えすぎてもいけない。空気が悪くなっていくだけだ。
徐に立ち上がれば彼女の不安に濡れた瞳がより濃くなる。その瞳は何も言わずに動く俺に合わせて着いてくる。面白いなと思いつつそのまま彼女の傍に立って膝を着く。まるで童話に出て来る王子様のように彼女の小さな手を取る。
「トレイ……」
か細くなった自信のない声に呼ばれた。彼女は本当に自分に自信がないのだろう。何故そこまで自信がないのだろうか。でも、そんな彼女が俺の言葉で自信が少しでも芽生えるなら言葉にしてあげたいし、彼女を不安にさせる理想の俺を壊してやりたい。
「お前は俺に夢を見過ぎている。俺はお前が思い描くほどヒーローでも何でもない。だお前を好きな普通の男で、そこらへんにいる普通の男と変わらない」
彼女は言葉にならないのか首を左右に振る。違うということなのだろう。小さな手から片方外して沈痛な面持ちをする彼女の丸い頬に触れる。
「違うってことはない。俺が言っているんだ。お前が思い描くほど特別な男じゃないんだ」
「そんなっ! そんなことないわっ」
力強く俺の言葉を拒絶する彼女は頬に触れている俺の手に自分の手を重ねた。それから強く、強くこちらを見つめる。
「あなたはわたしにとって特別よ。小さい頃からずっと憧れていたわ。だから――」
「なら、もう憧れるな」
「え」
目を見開いて驚く彼女は困惑気味に眉を下げる。握った指の先にも僅かに力が入り彼女から恐怖のようなものを感じる。それでも俺自身はさっきまで怖がっていた割には落ち着いていた。ひとつ息をついてから話し出す。
「お前が俺を憧れることはイヤじゃなかった。何せ、その間は俺に興味を持ってくれている証拠に近いからな。だけど、俺たちはもうただの幼馴染じゃない。恋人同士だ。そうだろう」
「ええ。そうね……」
力のない返事のようで彼女の指先から力がすっかり抜けた。やはり彼女は賢くか弱いだけの女の子じゃない。
「俺に憧れてくれてありがとう。でも、これからは恋人のトレイ・クローバーとしてよろしくな」
最後にキザったらしく小さな指先に口づける。
――うん。自分でしておいてなんか照れくさいな。
急激に込み上げる羞恥心から何事もなく席に戻ろう。彼女から手を引こうとしたが出来なかった。今度は彼女が俺の手を握っていた。
いつの間に、という行動に平常心、平常心と唱えながら「どうした」と訊ねる。
「ねぇ。トレイ。あなたは自分をただの普通の男だと言うけれど――それは違うわ」
まだ言うのかと思ったが中身はどうやら違うようだ。彼女は先ほどの不安はどこに吹き飛ばしたのか力強くこちら見て微笑んで言う。
「あなたがわたしの好きな人である時点でもうわたしからしたら普通ではないの。ただ一人の特別な人よ。だからね。そのあなたが選んでくれたことが信じられなかったの。でも、ごめんなさいね。不安になるのはやめるわ……」
最後に「出来るだけ」とはにかむ彼女は今まで一番大人びて見えた。まだ十七歳の彼女は今この瞬間一人の〝女〟に見えた。
これは一生勝てないかもしれない。そして、一生共にいたいと心の底から想った。
「でも、あなたの言う通りね。もうあなたに憧れるのはもうやめるわ。これからはあなたの隣に居て恥じない女性を目指すわ」
「え、あ、あ~。うん」
勇ましい顔をしてやる気に満ちている彼女に悪いがやはりまだ伝わっていない。
「もう俺の隣に居ても恥ずかしくないぞ」
「まだよ! ちょっとホリデーの間に太ってしまったし……痩せないと」
その言葉に俺はいち早く反応して見せた。
「大丈夫だ。全然太っていない。寧ろ、やつれたんだからちょうどいいだろう」
「よくないわよ! この時期のトレイのケーキは本当に美味しいから食べ過ぎたくらいなのよ!」
目尻をつり上げる彼女に首を横に振る。
「いい。今くらいがちょうどいい。いや、もう少し俺としては太っても平気だ」
「ふ、太るって言わないで!」
「じゃぁ、なんていえば言いんだ」
「そ、それは」
口篭もる彼女を見て自然と笑みが零れた。それを見た彼女も目尻を戻して微笑んだ。その微笑みが心底愛おしいと思った。
「俺もお前が好きだよ」
ほろりと零れた告白に目を丸くさせて照れくさそうにはにかむ女の子。その女の子が握った手を引いた。先ほどの引き留めるものではなく何かを誘うものだった。
積極的なその誘いに小さく笑って屈んで来る彼女を引き寄せてキスをした。
* * *
ナイトレイブンカレッジに戻る前夜。彼女の部屋の方角を見る。その部屋は灯りがまだついているようで彼女が起きていることを示している。流石にもう連絡を取る時間ではないからしないがあの方角を見ると身体の奥底に熱が籠る。
これ以上は見てはいけないとカーテンを閉める。でも、脳裏に様々と浮かぶ姿にここ連日眠れていない。寮に戻ってからの睡眠が不安になってくる。
「はぁ。寝るか」
眼鏡を外してサイドテーブルに置く。それから布団に潜り込むが今日も中々寝付けない。
寝返りを打って今回のホリデーバケーションを振り返る。ずっと片想いをしていた女の子と恋人になって、キスをした。瞬く間にステップアップしてしまったがこんなものなのだろうか。今まで恋人がいたことがないから流石に普通が分からない。
それでもどこかでそのまだ普通でない日々を楽しんでいる自分がいた。今度は一体どういったことが普通になるのか楽しみになってくるとストンと意識が落ちた。
2021.1.29 一部文章修正
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