どこにでもある恋物語
Name Change
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
ダーリン!!心の準備をさせて!
今日も疲れた、と眠れるはずの時間。それでもわたしの身体に眠気というものがやって来ない。思考は冴えわたりというよりも、興奮していると言っていいかもしれない。
――あれはやっぱり夢だったんじゃ。
何度も、何度も考えてもアレは夢ではない。その証拠に夢だと頭が思い込もうとする瞬間、唇に重なった感触が蘇って身体が熱くなる。
――わたし、トレイと、恋人になって、き、き、キスっ、しちゃったんだわ。
きゃぁ、と小さな悲鳴を上げベッドの上を転がる。本当は叫びたいくらいだが時計が頂点で重なる時間。明日も早い両親の睡眠を妨げる様な真似は出来ない。
発散できない衝撃を封じるとさらに目は冴えてくる。お蔭で明日から手伝うのに寝坊しそうだ。だから、寝ようと必死に目を瞑るが目を瞑ると――キスしたときのことを思い出してしまう。
もう眠れないと観念しつつあのときの自分の積極性を思い出して別の羞恥心が込み上げる。思わず自分から強請る様に目を瞑ってしまった最初のキス。でも、この夢にまでみた絶好の機会を逃したくなかった。
「わたしのキス顔、ブサイクじゃなかったかな……」
顔は平々凡々だ。そのキス顔が可愛いはずがない。今は自分からキス顔を積極的にさらしてしまったことを後悔する。
だからといって、近づいてくる彼の整ったカッコイイ顔を見つめていることなど出来ない。それこそわたしの〝死〟だ。
「でも、今でも信じられない」
ここの地区の女の子が一度は恋するカッコイイ男の子。その男の子が小さい頃から好きだったなんて。
「出逢ったときのわたしだって太っていたのよ?」
彼はそのときから好きだと言っていた。信じられない。ずっとわたしの片想いで叶うことのない恋になるはずだった。彼はきっとキラキラした女の子と付き合って、結婚すると思っていた。そのキラキラの世界はわたしに一生訪れることはないと思っていた。一生訪れない世界に夢を見ていつか覚めて普通に別の誰かを愛して、結婚して子ども産んで人生を全うするのだと思った。そのとき、彼のことが好きだったの、なんて可愛い初恋で終わる、と。
「わたしが、トレイと恋人――っっ!」
顔が熱くなってまた叫びたくなる。その衝動を抑え込む様に枕に顔を押し付ける。
夢のような出来事だ。やっぱり夢幻なのかもしれない。眠って起きたら誰かがかけた幻覚魔法の効果が切れてしまうかも。
「さすがに辛い」
でも、いい夢だったと思って前向きに生きていけるかもしれない。ポジティブな精神は大切だ。そう。何事も前向きに生きていこう。
徐々に興奮が冷めてきたのか瞼が重くなって来た。今なら意識を手放せそうとわたしはそのまま目を瞑って数を数える暇もなく眠った。
* * *
――すっごく眠い。
欠伸をかみ殺しながら店番をする。ウィンターホリデーの期間の花屋は忙しい。といっても、忙しいのは店というよりも宅配だ。注文された花々を両親とわたしが作りそれを届ける。届ける部分は車が必要なため両親が行う。近所ならわたしが届けるが基本両親の仕事。その間、わたしがするのは店番。
今の時間はちょうど人の波が切れて静かな時間が店に流れる。流れるBGMのなんと心地いいこと。夜更かしをしたわたしの眠気を誘発してくる。
こっくり、して頭を振って繰り返しているとカランとベルの音が鳴る。
「いらっしゃいませ」
と、言ってわたしは心の中でげぇと顔を歪めた。
「よぉ~」
にやにやと厭らしく入って来たのはかつての同級生だ。ここから数ブロック離れた派手な家に住んでいる同級生の男子で、エレメンタリースクール、ミドルスクールと幾度となくからかってきた人だ。
――最悪。去年は帰省していなかったみたいだったから油断したわ。
嫌な思い出が掘り起こされる。もう金輪際会いたくない人だ。わたしも全寮制の学校に進んで、相手も全寮制のハイスクールに入ったと聞く。お蔭で顔を合わせるとはなくなった。だのに、わたしの中で最悪の部類に入る人間と再会してしまった。
にやけた厭らしい笑みを浮かべた男はわたしの目の前に立った。もはや営業スマイルが保てない。頬がつりそうだ。さっさとどこかへ行けという気分だ。でも、心の中で強気なことは言えてもわたしは実際に口に出せない。
――まったく弱虫ね。
震えそうになる手をもう片方の手で握って押さえつける。何とか平静を保って唇を動かす。
「何かご注文ですか?」
「はぁ? こんなシケた花屋で注文なんてねぇよ」
なら何しに来たんだ。用がないならさっさとどこかへ行け。口が裂けても言えない言葉が心の底から湧き出て消えていく。
「では、何か御用ですか?」
「随分他人行儀だな。おれたち幼馴染だろ」
違うと即答できない。したところでこの人は何をするか分かったもんじゃない。うかつなことはできない。
「んで、その幼馴染のおれ様がお前をこれに招待しに来てやったんだよ」
ずいっと差し出されたのは下品な色をした紙きれだった。日時が書いてあることから何かのパーティーであるのは分かる。分かるが理解できない。
「これ、は、何でしょうか?」
「あぁ? ったく、お前は本当に昔からドンくさいなぁ」
得意げな顔のまま男はここの地区の同級生が集まって行われるパーティーらしい。ナイトクラブでするとかで絶対に行きたくない。
「わたし、お店の手伝いがあるので――」
「はぁ? こんな客もいない店なんてお前の両親だけで十分だろう?」
「この時間はお客さまが少ないんです」
「何だぁ? お前如きがおれの誘い断んのかよ」
どうやら男の逆鱗に触ってしまったようだ。ドッと冷や汗が出て来る。カウンター越しの男の手が動く。その手はわたしの腕を強く握った。
「ッ」
強い力に顔を顰める。でも、男は気にしないのかカウンター越しに引っ張る。身体がカウンターにぶつかって痛い。やめてください、と口を開こうとしても動かない。情けない。幼い頃に味わった痛みがぶりかえしてきた。
幼い頃は耐えていれば終わったはずだ。いや、違う。耐えていれば終わったのではない。こういうとき、そう。こういうときは――。
「何しているんだ」
すぅっと冷えた低い声が耳に届くと同時に身体の痛みが消えた。引っ張られる感覚が消えて目を開ける。
「トレイ……」
男の手首を掴んだのはコックコートを着たトレイだった。そして、手首を掴まれた男はトレイの顔を見て青ざめている。
「げ、トレイ・クローバー」
「へぇ。俺のこと知っているのか」
彼らしかぬ冷ややかな目に、声をしている。あからさまに分かる怒りを抱いているトレイをわたしは今まであまり見たことがない。ときおり、小さな弟妹を叱るところを見かけたことがあるがアレとは全然違う。
肌がピリピリするような怒りを孕んだトレイに男は怖気づいたようだ。先ほどまでの上から目線の得意げな態度が鳴りを潜めた。
「は、離せよ」
「ああ。悪い」
パッと言われてトレイはすぐに手首を離した。男はそれ幸いとトレイから距離を取るとわたしを睨んだ。
「くっそ。覚えているよ!」
何故かそんな負け犬の遠吠えをして去って行った。あまりにも滑稽すぎる男の捨て台詞にわたしは恐怖も何も去っていく。無様な後ろ姿を覚えておくつもりはないがあまりも無様過ぎて印象に残る。
「あんな無様な姿なんて逆に印象に残るわよ」
「ははっ。確かに」
笑うトレイにつられて笑う。けれど、やっぱり自分の力なさに情けない気持ちになる。魔法士養成学校に入っても一般人にむやみに魔法は使えない。そんな酷いことに魔法は使いたくもない。
「はぁ。駄目ね。またトレイに助けられてしまったわ」
「ありがとう。助かったわ」と言えばトレイが苦笑を零した。そして、まるで小さい頃に戻ったようにその大きな手で頭を撫でた。まるで昔みたいね、と言いかけた唇は開くことはなかった。彼の言葉で。
「助けるさ、俺の恋人なんだから」
心臓にクリーンヒット。グッサリと突き刺さる〝恋人〟の二文字。昔だったらそこは〝幼馴染〟だった。けれど、今日は〝恋人〟だった。いや、きっと別れる日が来るまで恋人なのだろうけど心臓に悪い。
あまりにも凄まじい破壊力に呻いて心臓を抑えてしまった。それにトレイは慌てるから。
「大丈夫。ちょっと死にそうなだけだから」
「いや。死ぬなよ」
若干呆れた目で見られたけれど彼は自分の持つ必殺攻撃の威力を知らない。あなたの言葉は鋭い刃なのだ。わたしはあなたの言葉で一喜一憂するほど大好きなのだということを。きっと彼は大袈裟だと笑うだろうけど。
「ほんとうに死にそうだわ」
「はぁ。付き合ったばかりの彼女が死なれては困るんだが」
「そ、そういうっ、ぐぅぅ」
そういうところなのよ、と言葉にならず呻く。
「ま。そう簡単死なないだろう。ちょっと今いいか?」
「これ持って来た」とケーキボックスを掲げるトレイ。どうやらケーキを持って来てくれたようだ。この時期のケーキ屋は忙しい。なのに、わざわざ茶菓子用に注文したケーキを持って来てくれたらしい。
「連絡してくれたら取りに行ったのに」
「別にいいさ。それに俺もお前に会いたかったしな」
「んんッ!」
そういうところよ、と二度目の心の叫びは呻き声に消えて行った。トレイは本当に自分がわたしに与える影響力を分っていない。もっとそこは勉強してほしい。
何とか平静を取り戻したわたしは〝Clause〟と書かれている看板を取り出す。
「閉めるのか?」
「お母さんが家に行くときは閉めていいって言ったの」
両親も忙しくて二人共で払うときは閉めている。それに気まぐれに閉めてしまうこともあるから可笑しいことはない。
カウンターから出て店の外に看板を掛ける。これで呼ばれることはないだろう。そのままトレイの前に立って「ケーキありがとう」と手を差し出すが中々ケーキはやってこない。
「トレイ。ケーキ受け取るわ。お店忙しいでしょ」
「あー。そのだな」
珍しく歯切れの悪いトレイに首を傾げる。彼はそれから「あー」と言って珍しく、非常に珍しく照れくさそうに笑って言う。
「お前と少し話そうと思って、な」
もうわたしを殺すつもりだ。しかも、はにかんで「休憩時間貰ったんだよ」と付け足す始末だ。もう、もう、一思いに殺してくれ、という気分だ。
呻き声も出ない。ただ、もう嬉しいという気持ちが言い表せないほど膨らんで何も言えない。
「あ、も、ぅぅぅ~あ~」
何とか声を振り絞った結果、恥ずかしい呻き声が出た。もう恥ずかしくて両手で顔を覆った。トレイがわたしの反応に「嫌だったか」と聞いてくる。分かっている癖に分かっていないのか。もう。そんなの答えはイエスだ。
「奥に行きましょう」
ようやくまともな返事が出来たのはそれから三分後だった。
* * *
「そうだ。あいつに掴まれたところは大丈夫?」
店の奥、居住スペースの台所でトレイはそうわたしに訊ねて来た。
先ほどの男のことなどすっかり忘れていたわたしは腕の痛みを思い出す。
「少しだけ痛むけど……大丈夫よ」
後で治癒魔法使うし、と言えばトレイの眉間に皺が寄った。
「今、治した方がいいだろう」
「え。だ、大丈夫よ、本当に」
「いいから。ほら、座って」
マジカルペンをどこからともなく取り出したトレイがわたしの前に立つ。そして、わたしは無理矢理座らせてしまってから気づく。
「ちょ、ちょっと待って!」
「何だ?」
手を伸ばしかけたトレイを前に声を上げる。彼は怪訝な顔をするがわたしは自分の服を指して説明する。
「この服。たぶん、腕のところまで上がらない」
今日は母が新作と渡してきたシャツワンピースだ。このシャツワンピースは身体にぴったりに近く作られている。つまり、シャツは腕のあたりも掴まれた腕のところまで上がらない。
「それでね。腕を見せるためには脱がないと……」
自分で言ってなんか恥ずかしい。だが、それ以上にピタリと手を止めてしまったトレイの方が気になって来た。
「だから、その、後で治すわ」
「…………それがいいな」
たっぷりと間を空けて笑みを作って手を引っ込めるトレイ。だが、短い髪から覗く耳が赤い。どうやら彼も照れたらしい。
――トレイも照れるのね……可愛い!
ひとつしか歳は変わらないのに大人びた彼。その彼が年相応の男の子のように彼女に言われたことに照れる姿が見られるとは。
――これも彼女の特権というやつかしら。なんてね! なんてねぇ~~!
トレイの可愛いところに微笑ましさを考えていたのが顔に出たのか。トレイが「何ニヤついているんだ」と声をかけてきた。
わたしは顔を上げて彼を見上げるとそこには不服そうな彼がいる。臍を曲げるような子どもっぽいことはないだろうと思っていたが違うようだ。
新しい一面にやっぱり頬が緩んでしまう。
「ふふ。トレイも可愛い一面があるのね」
「か、可愛いってそんなとこないぞ」
「あるわよ!」
照れくさそうに首を掻く彼はやっぱりどこか可愛い。
わたしはこのとき完全に油断していたのだろう。大人びてスマートな彼の可愛い一面に微笑ましさ一杯で。
「まぁ、でも、俺はお前の方が可愛いと思っているけどな」
「ッ!」
突然の攻撃である。わたしの余裕が崩壊を始める。
目の前に前に立っている彼を見上げたまま口をパクパクさせる。非情に間抜けだ。しかし、ずっと好きだった人から真っ直ぐに可愛いと言われて余裕が保てるほどの余裕はない。つまり、もう余裕のキャパシティはない。
それをすでに余裕を取り戻しているトレイは理解している。皮肉っぽく唇の端を上げて「今日は随分余裕があるな」と言って屈んで来た。
顔が近い。死ぬ。ぐっと近くなった距離は昨日のキスを思い出せて身体が熱くなる。きっと頬は真っ赤になっているに違いない。
――いや、でも昨日の、今日でキスしないわよね。
ない、ないわ、とすぐにでもキスが出来てしまいそうな距離だ。その距離に期待してしまう自分がいるなんてはしたない。でも、昨日恋人になったばかり、キスしたばかりだ。二回目ってこんなにすぐ来るのだろうか。友達と恋人の話をしたことから分からない。ネットなんて恥ずかしくて検索したことがない。だから、分からない。
ぐるぐると頭で考えが廻っても答えが出ない。いや、答えがないからぐるぐる思考が渦巻いているのだろう。
――こ、この先はどうすればいいの!
誰か答えちょうだい、と心で必死に叫んでいると空気が動いた。咄嗟に来ると現実に戻されてわたしの固まっていた身体が動いた。
「ちょ、待ってぇええええ!」
「ぶっ」
近寄って来たトレイの唇を手で抑え込んだ。いや、それよりも、なによりも驚くべきことがある。
「め、めが、めがね!」
驚きすぎて単語しか叫べなかった。そうだ。彼の顔にある黒縁眼鏡がいつの間にか無くなっている。至近距離で見た眼鏡なしのトレイの顔に容量の少ない何かが崩れた。
「な、して、なんで眼鏡!」
何でしていないのと訊きたいけどもうびっくりしすぎて何も言葉にならない。すると、トレイが気まずそうな瞳をしてわたしの手首を掴んで口から離した。そして、気まずそうな顔のままわたしから視線を少しずらして答えた。
「いや……その、昨日邪魔だなって」
今度は少し頬が赤い。だけど、普段照れない彼が照れるとこっちはもっと照れてしまう。そして、眼鏡邪魔って昨日より距離が近いキスをするってことだったのだろうか。死ぬ。昨日のキスでも死にかけたのに。
「べ、別に邪魔じゃ」
「いや、邪魔だった」
すっぱり答えるトレイにわたしは何も返せない。その代わりトレイが「嫌か」と窺うように聞いてくる。反則。それは反則だとわたしは呻く。
「やっぱり付き合って次の日はないか」
悪かった、と言うトレイにわたしは首を振って「違うのよ!」と声をあげる。それから羞恥心が込み上げる中、素直に何とか答える。
「い、イヤじゃないけど、いきなり驚いて……わたしもイヤじゃないのよ」
キスがしたい、とは流石に言えない。けれど、これで伝わってほしい。じっとトレイの蜜色の瞳を見る。でも恥ずかしいからすぐに視線を逸らす。こればっかりはもう少し慣れる時間が欲しい。
「そっか。嫌ではないのか」
「うん。そうよ」
「じゃ、いいか」と低い声で聞かれたらもう駄目だとは言えない。もとから言うつもりはないけれど。
わたしが彼の言葉に頷くと目尻が少し下がった。そんなにわたしとキスしたかったの、と恥ずかしいことが浮かぶ。調子に乗るな、己惚れるな。
慢心はいけないのよ、と心で呟きながら徐々に近づくトレイの顔面偏差値の高い顔に耐えられず目をそっと閉じる。閉じたタイミングとほぼ同じで唇が重なった。
「っ」
目を閉じると五感が鋭くなるらしい。掴まれていた手首からトレイの手が動いて指が絡まった。もう片方の手は解放されてわたしはすぐにトレイの服を掴む。では、トレイの手はどこに行ったのかと思えば頭に回って――。
「ッ、んぅ」
頭に回って固定されると先ほどより唇の重なりが深くなった。昨日より深いどうやら彼の言う通り眼鏡が障害物となっていたようだ。なるほど眼鏡は邪魔だ。
――今度から眼鏡外すのかな……なんか、恥ずかしい。
次があるなら眼鏡がキスの合図みたいになりそうで気恥ずかしい。分かりやすいようなつい身構えてしまうかもしれない。
どうしようかな、と考えていると不意にキスが終わる。
「はっ、は、ぁんむっ」
終わったのかなと短く息を吸う暇もなくもう一度キスされた。今度は不意打ちのキスで咄嗟に目を開いてしまった。すると、同じように目を開いていたトレイと目がバッチリあってしまった。その瞳があまりにもいつものトレイとかけ離れて怖かった。
そのいつもの違いに怖くて顔をずらしてキスをやめようとしたけれど頭を押さえつけられて出来ない。ならば、トレイの身体を押すが自分の小さな身体ではどうにも出来ない。
もがく身体もいつの間にか抱き込まれてしまい――。
――食べられる!
何てこと考えていると身体に絡まっていた拘束が外れた。
「ぇっ」
驚いて目を開くと同じように驚いているような、戸惑っているような顔をしたトレイがいた。そのトレイはすぐにはっとして膝をついてわたしを見上げる。
「悪かった。怖かったな」
「ぁ、や、ちがうの」
違うのよ、と随分と自分の声が消え入りそうだった。その所為で膝を着いてこちらを見上げるトレイの顔は酷く申し訳なさそうな――痛々しい顔をしている。
「トレイ。あの、違うの。怖かったけど違うのよ」
必死に何か伝えようとするが言葉が途切れ途切れでしかでない。お蔭で何も伝えられないのに話が終わりそうだ。
「いや、今のは俺が悪かったよ。怖い思いさせてごめんな」
触れないで言うトレイに寂しくなる。触れて言ってよ、と思うけれど身体は先ほどの名残が残って動かない。
「休憩時間も終わる頃だな。じゃ、戻るな」
立ち上がって眼鏡をかけた彼は「ケーキの感想、待ってるから」と言うとこちらに背を向ける。瞬間わたしの身体は驚くほど簡単に動いた。
「待って! トレイ!」
もつれそうな足で広い背中に抱き着く。ちゃんと逃げられないようにしっかりと抱き着く。それはもうギュッという音がつくくらい。
「行かないで、お願いよ」
ぎゅうと腕に力を込めて言う。すると、小さく溜息がついてわたしの手に彼の手が触れた。
「分かった。分かったから」
「行かない?」
「行かないって」
笑いを含んだ声に安心して彼から離れる。背を向けていた彼がこちらを見てくれた。それにまた安心する。
「あなたって結構勝手に思い込んで動くのね」
「……それそのまま返すぞ」
「うっ」
にこりと微笑む彼に確かにとしか言えず言葉に詰まる。しかし、今は詰まっている場合ではない。少し落ち着かない心臓でわたしは言葉を紡ぐ。
「も、もう少し心の準備をちょうだい」
そうしたらさっきみたいなキスも出来るから、と伝えると彼は目を瞠る。そして、大きな手で口元を隠して「あ~」と呻く。
「あ、や。分かった。うん。さっきは俺が性急過ぎただけだからな。本当に悪かった。ごめん」
「もう。いいのよ。でも、もう少し待ってね」
「……分かったよ」
少し間があったのはよく分らないが彼は頷いてくれた。
「よかった。あ、引き留め悪かったわ」
「いや、平気だ」
じゃ、今度こそと言って彼は手を振って店に戻って行った。その背中を見送ったわたしはひとつ悩みが晴れたようなそんな清々しい気分だった。
「あー! ケーキが楽しみ!」
今日も疲れた、と眠れるはずの時間。それでもわたしの身体に眠気というものがやって来ない。思考は冴えわたりというよりも、興奮していると言っていいかもしれない。
――あれはやっぱり夢だったんじゃ。
何度も、何度も考えてもアレは夢ではない。その証拠に夢だと頭が思い込もうとする瞬間、唇に重なった感触が蘇って身体が熱くなる。
――わたし、トレイと、恋人になって、き、き、キスっ、しちゃったんだわ。
きゃぁ、と小さな悲鳴を上げベッドの上を転がる。本当は叫びたいくらいだが時計が頂点で重なる時間。明日も早い両親の睡眠を妨げる様な真似は出来ない。
発散できない衝撃を封じるとさらに目は冴えてくる。お蔭で明日から手伝うのに寝坊しそうだ。だから、寝ようと必死に目を瞑るが目を瞑ると――キスしたときのことを思い出してしまう。
もう眠れないと観念しつつあのときの自分の積極性を思い出して別の羞恥心が込み上げる。思わず自分から強請る様に目を瞑ってしまった最初のキス。でも、この夢にまでみた絶好の機会を逃したくなかった。
「わたしのキス顔、ブサイクじゃなかったかな……」
顔は平々凡々だ。そのキス顔が可愛いはずがない。今は自分からキス顔を積極的にさらしてしまったことを後悔する。
だからといって、近づいてくる彼の整ったカッコイイ顔を見つめていることなど出来ない。それこそわたしの〝死〟だ。
「でも、今でも信じられない」
ここの地区の女の子が一度は恋するカッコイイ男の子。その男の子が小さい頃から好きだったなんて。
「出逢ったときのわたしだって太っていたのよ?」
彼はそのときから好きだと言っていた。信じられない。ずっとわたしの片想いで叶うことのない恋になるはずだった。彼はきっとキラキラした女の子と付き合って、結婚すると思っていた。そのキラキラの世界はわたしに一生訪れることはないと思っていた。一生訪れない世界に夢を見ていつか覚めて普通に別の誰かを愛して、結婚して子ども産んで人生を全うするのだと思った。そのとき、彼のことが好きだったの、なんて可愛い初恋で終わる、と。
「わたしが、トレイと恋人――っっ!」
顔が熱くなってまた叫びたくなる。その衝動を抑え込む様に枕に顔を押し付ける。
夢のような出来事だ。やっぱり夢幻なのかもしれない。眠って起きたら誰かがかけた幻覚魔法の効果が切れてしまうかも。
「さすがに辛い」
でも、いい夢だったと思って前向きに生きていけるかもしれない。ポジティブな精神は大切だ。そう。何事も前向きに生きていこう。
徐々に興奮が冷めてきたのか瞼が重くなって来た。今なら意識を手放せそうとわたしはそのまま目を瞑って数を数える暇もなく眠った。
* * *
――すっごく眠い。
欠伸をかみ殺しながら店番をする。ウィンターホリデーの期間の花屋は忙しい。といっても、忙しいのは店というよりも宅配だ。注文された花々を両親とわたしが作りそれを届ける。届ける部分は車が必要なため両親が行う。近所ならわたしが届けるが基本両親の仕事。その間、わたしがするのは店番。
今の時間はちょうど人の波が切れて静かな時間が店に流れる。流れるBGMのなんと心地いいこと。夜更かしをしたわたしの眠気を誘発してくる。
こっくり、して頭を振って繰り返しているとカランとベルの音が鳴る。
「いらっしゃいませ」
と、言ってわたしは心の中でげぇと顔を歪めた。
「よぉ~」
にやにやと厭らしく入って来たのはかつての同級生だ。ここから数ブロック離れた派手な家に住んでいる同級生の男子で、エレメンタリースクール、ミドルスクールと幾度となくからかってきた人だ。
――最悪。去年は帰省していなかったみたいだったから油断したわ。
嫌な思い出が掘り起こされる。もう金輪際会いたくない人だ。わたしも全寮制の学校に進んで、相手も全寮制のハイスクールに入ったと聞く。お蔭で顔を合わせるとはなくなった。だのに、わたしの中で最悪の部類に入る人間と再会してしまった。
にやけた厭らしい笑みを浮かべた男はわたしの目の前に立った。もはや営業スマイルが保てない。頬がつりそうだ。さっさとどこかへ行けという気分だ。でも、心の中で強気なことは言えてもわたしは実際に口に出せない。
――まったく弱虫ね。
震えそうになる手をもう片方の手で握って押さえつける。何とか平静を保って唇を動かす。
「何かご注文ですか?」
「はぁ? こんなシケた花屋で注文なんてねぇよ」
なら何しに来たんだ。用がないならさっさとどこかへ行け。口が裂けても言えない言葉が心の底から湧き出て消えていく。
「では、何か御用ですか?」
「随分他人行儀だな。おれたち幼馴染だろ」
違うと即答できない。したところでこの人は何をするか分かったもんじゃない。うかつなことはできない。
「んで、その幼馴染のおれ様がお前をこれに招待しに来てやったんだよ」
ずいっと差し出されたのは下品な色をした紙きれだった。日時が書いてあることから何かのパーティーであるのは分かる。分かるが理解できない。
「これ、は、何でしょうか?」
「あぁ? ったく、お前は本当に昔からドンくさいなぁ」
得意げな顔のまま男はここの地区の同級生が集まって行われるパーティーらしい。ナイトクラブでするとかで絶対に行きたくない。
「わたし、お店の手伝いがあるので――」
「はぁ? こんな客もいない店なんてお前の両親だけで十分だろう?」
「この時間はお客さまが少ないんです」
「何だぁ? お前如きがおれの誘い断んのかよ」
どうやら男の逆鱗に触ってしまったようだ。ドッと冷や汗が出て来る。カウンター越しの男の手が動く。その手はわたしの腕を強く握った。
「ッ」
強い力に顔を顰める。でも、男は気にしないのかカウンター越しに引っ張る。身体がカウンターにぶつかって痛い。やめてください、と口を開こうとしても動かない。情けない。幼い頃に味わった痛みがぶりかえしてきた。
幼い頃は耐えていれば終わったはずだ。いや、違う。耐えていれば終わったのではない。こういうとき、そう。こういうときは――。
「何しているんだ」
すぅっと冷えた低い声が耳に届くと同時に身体の痛みが消えた。引っ張られる感覚が消えて目を開ける。
「トレイ……」
男の手首を掴んだのはコックコートを着たトレイだった。そして、手首を掴まれた男はトレイの顔を見て青ざめている。
「げ、トレイ・クローバー」
「へぇ。俺のこと知っているのか」
彼らしかぬ冷ややかな目に、声をしている。あからさまに分かる怒りを抱いているトレイをわたしは今まであまり見たことがない。ときおり、小さな弟妹を叱るところを見かけたことがあるがアレとは全然違う。
肌がピリピリするような怒りを孕んだトレイに男は怖気づいたようだ。先ほどまでの上から目線の得意げな態度が鳴りを潜めた。
「は、離せよ」
「ああ。悪い」
パッと言われてトレイはすぐに手首を離した。男はそれ幸いとトレイから距離を取るとわたしを睨んだ。
「くっそ。覚えているよ!」
何故かそんな負け犬の遠吠えをして去って行った。あまりにも滑稽すぎる男の捨て台詞にわたしは恐怖も何も去っていく。無様な後ろ姿を覚えておくつもりはないがあまりも無様過ぎて印象に残る。
「あんな無様な姿なんて逆に印象に残るわよ」
「ははっ。確かに」
笑うトレイにつられて笑う。けれど、やっぱり自分の力なさに情けない気持ちになる。魔法士養成学校に入っても一般人にむやみに魔法は使えない。そんな酷いことに魔法は使いたくもない。
「はぁ。駄目ね。またトレイに助けられてしまったわ」
「ありがとう。助かったわ」と言えばトレイが苦笑を零した。そして、まるで小さい頃に戻ったようにその大きな手で頭を撫でた。まるで昔みたいね、と言いかけた唇は開くことはなかった。彼の言葉で。
「助けるさ、俺の恋人なんだから」
心臓にクリーンヒット。グッサリと突き刺さる〝恋人〟の二文字。昔だったらそこは〝幼馴染〟だった。けれど、今日は〝恋人〟だった。いや、きっと別れる日が来るまで恋人なのだろうけど心臓に悪い。
あまりにも凄まじい破壊力に呻いて心臓を抑えてしまった。それにトレイは慌てるから。
「大丈夫。ちょっと死にそうなだけだから」
「いや。死ぬなよ」
若干呆れた目で見られたけれど彼は自分の持つ必殺攻撃の威力を知らない。あなたの言葉は鋭い刃なのだ。わたしはあなたの言葉で一喜一憂するほど大好きなのだということを。きっと彼は大袈裟だと笑うだろうけど。
「ほんとうに死にそうだわ」
「はぁ。付き合ったばかりの彼女が死なれては困るんだが」
「そ、そういうっ、ぐぅぅ」
そういうところなのよ、と言葉にならず呻く。
「ま。そう簡単死なないだろう。ちょっと今いいか?」
「これ持って来た」とケーキボックスを掲げるトレイ。どうやらケーキを持って来てくれたようだ。この時期のケーキ屋は忙しい。なのに、わざわざ茶菓子用に注文したケーキを持って来てくれたらしい。
「連絡してくれたら取りに行ったのに」
「別にいいさ。それに俺もお前に会いたかったしな」
「んんッ!」
そういうところよ、と二度目の心の叫びは呻き声に消えて行った。トレイは本当に自分がわたしに与える影響力を分っていない。もっとそこは勉強してほしい。
何とか平静を取り戻したわたしは〝Clause〟と書かれている看板を取り出す。
「閉めるのか?」
「お母さんが家に行くときは閉めていいって言ったの」
両親も忙しくて二人共で払うときは閉めている。それに気まぐれに閉めてしまうこともあるから可笑しいことはない。
カウンターから出て店の外に看板を掛ける。これで呼ばれることはないだろう。そのままトレイの前に立って「ケーキありがとう」と手を差し出すが中々ケーキはやってこない。
「トレイ。ケーキ受け取るわ。お店忙しいでしょ」
「あー。そのだな」
珍しく歯切れの悪いトレイに首を傾げる。彼はそれから「あー」と言って珍しく、非常に珍しく照れくさそうに笑って言う。
「お前と少し話そうと思って、な」
もうわたしを殺すつもりだ。しかも、はにかんで「休憩時間貰ったんだよ」と付け足す始末だ。もう、もう、一思いに殺してくれ、という気分だ。
呻き声も出ない。ただ、もう嬉しいという気持ちが言い表せないほど膨らんで何も言えない。
「あ、も、ぅぅぅ~あ~」
何とか声を振り絞った結果、恥ずかしい呻き声が出た。もう恥ずかしくて両手で顔を覆った。トレイがわたしの反応に「嫌だったか」と聞いてくる。分かっている癖に分かっていないのか。もう。そんなの答えはイエスだ。
「奥に行きましょう」
ようやくまともな返事が出来たのはそれから三分後だった。
* * *
「そうだ。あいつに掴まれたところは大丈夫?」
店の奥、居住スペースの台所でトレイはそうわたしに訊ねて来た。
先ほどの男のことなどすっかり忘れていたわたしは腕の痛みを思い出す。
「少しだけ痛むけど……大丈夫よ」
後で治癒魔法使うし、と言えばトレイの眉間に皺が寄った。
「今、治した方がいいだろう」
「え。だ、大丈夫よ、本当に」
「いいから。ほら、座って」
マジカルペンをどこからともなく取り出したトレイがわたしの前に立つ。そして、わたしは無理矢理座らせてしまってから気づく。
「ちょ、ちょっと待って!」
「何だ?」
手を伸ばしかけたトレイを前に声を上げる。彼は怪訝な顔をするがわたしは自分の服を指して説明する。
「この服。たぶん、腕のところまで上がらない」
今日は母が新作と渡してきたシャツワンピースだ。このシャツワンピースは身体にぴったりに近く作られている。つまり、シャツは腕のあたりも掴まれた腕のところまで上がらない。
「それでね。腕を見せるためには脱がないと……」
自分で言ってなんか恥ずかしい。だが、それ以上にピタリと手を止めてしまったトレイの方が気になって来た。
「だから、その、後で治すわ」
「…………それがいいな」
たっぷりと間を空けて笑みを作って手を引っ込めるトレイ。だが、短い髪から覗く耳が赤い。どうやら彼も照れたらしい。
――トレイも照れるのね……可愛い!
ひとつしか歳は変わらないのに大人びた彼。その彼が年相応の男の子のように彼女に言われたことに照れる姿が見られるとは。
――これも彼女の特権というやつかしら。なんてね! なんてねぇ~~!
トレイの可愛いところに微笑ましさを考えていたのが顔に出たのか。トレイが「何ニヤついているんだ」と声をかけてきた。
わたしは顔を上げて彼を見上げるとそこには不服そうな彼がいる。臍を曲げるような子どもっぽいことはないだろうと思っていたが違うようだ。
新しい一面にやっぱり頬が緩んでしまう。
「ふふ。トレイも可愛い一面があるのね」
「か、可愛いってそんなとこないぞ」
「あるわよ!」
照れくさそうに首を掻く彼はやっぱりどこか可愛い。
わたしはこのとき完全に油断していたのだろう。大人びてスマートな彼の可愛い一面に微笑ましさ一杯で。
「まぁ、でも、俺はお前の方が可愛いと思っているけどな」
「ッ!」
突然の攻撃である。わたしの余裕が崩壊を始める。
目の前に前に立っている彼を見上げたまま口をパクパクさせる。非情に間抜けだ。しかし、ずっと好きだった人から真っ直ぐに可愛いと言われて余裕が保てるほどの余裕はない。つまり、もう余裕のキャパシティはない。
それをすでに余裕を取り戻しているトレイは理解している。皮肉っぽく唇の端を上げて「今日は随分余裕があるな」と言って屈んで来た。
顔が近い。死ぬ。ぐっと近くなった距離は昨日のキスを思い出せて身体が熱くなる。きっと頬は真っ赤になっているに違いない。
――いや、でも昨日の、今日でキスしないわよね。
ない、ないわ、とすぐにでもキスが出来てしまいそうな距離だ。その距離に期待してしまう自分がいるなんてはしたない。でも、昨日恋人になったばかり、キスしたばかりだ。二回目ってこんなにすぐ来るのだろうか。友達と恋人の話をしたことから分からない。ネットなんて恥ずかしくて検索したことがない。だから、分からない。
ぐるぐると頭で考えが廻っても答えが出ない。いや、答えがないからぐるぐる思考が渦巻いているのだろう。
――こ、この先はどうすればいいの!
誰か答えちょうだい、と心で必死に叫んでいると空気が動いた。咄嗟に来ると現実に戻されてわたしの固まっていた身体が動いた。
「ちょ、待ってぇええええ!」
「ぶっ」
近寄って来たトレイの唇を手で抑え込んだ。いや、それよりも、なによりも驚くべきことがある。
「め、めが、めがね!」
驚きすぎて単語しか叫べなかった。そうだ。彼の顔にある黒縁眼鏡がいつの間にか無くなっている。至近距離で見た眼鏡なしのトレイの顔に容量の少ない何かが崩れた。
「な、して、なんで眼鏡!」
何でしていないのと訊きたいけどもうびっくりしすぎて何も言葉にならない。すると、トレイが気まずそうな瞳をしてわたしの手首を掴んで口から離した。そして、気まずそうな顔のままわたしから視線を少しずらして答えた。
「いや……その、昨日邪魔だなって」
今度は少し頬が赤い。だけど、普段照れない彼が照れるとこっちはもっと照れてしまう。そして、眼鏡邪魔って昨日より距離が近いキスをするってことだったのだろうか。死ぬ。昨日のキスでも死にかけたのに。
「べ、別に邪魔じゃ」
「いや、邪魔だった」
すっぱり答えるトレイにわたしは何も返せない。その代わりトレイが「嫌か」と窺うように聞いてくる。反則。それは反則だとわたしは呻く。
「やっぱり付き合って次の日はないか」
悪かった、と言うトレイにわたしは首を振って「違うのよ!」と声をあげる。それから羞恥心が込み上げる中、素直に何とか答える。
「い、イヤじゃないけど、いきなり驚いて……わたしもイヤじゃないのよ」
キスがしたい、とは流石に言えない。けれど、これで伝わってほしい。じっとトレイの蜜色の瞳を見る。でも恥ずかしいからすぐに視線を逸らす。こればっかりはもう少し慣れる時間が欲しい。
「そっか。嫌ではないのか」
「うん。そうよ」
「じゃ、いいか」と低い声で聞かれたらもう駄目だとは言えない。もとから言うつもりはないけれど。
わたしが彼の言葉に頷くと目尻が少し下がった。そんなにわたしとキスしたかったの、と恥ずかしいことが浮かぶ。調子に乗るな、己惚れるな。
慢心はいけないのよ、と心で呟きながら徐々に近づくトレイの顔面偏差値の高い顔に耐えられず目をそっと閉じる。閉じたタイミングとほぼ同じで唇が重なった。
「っ」
目を閉じると五感が鋭くなるらしい。掴まれていた手首からトレイの手が動いて指が絡まった。もう片方の手は解放されてわたしはすぐにトレイの服を掴む。では、トレイの手はどこに行ったのかと思えば頭に回って――。
「ッ、んぅ」
頭に回って固定されると先ほどより唇の重なりが深くなった。昨日より深いどうやら彼の言う通り眼鏡が障害物となっていたようだ。なるほど眼鏡は邪魔だ。
――今度から眼鏡外すのかな……なんか、恥ずかしい。
次があるなら眼鏡がキスの合図みたいになりそうで気恥ずかしい。分かりやすいようなつい身構えてしまうかもしれない。
どうしようかな、と考えていると不意にキスが終わる。
「はっ、は、ぁんむっ」
終わったのかなと短く息を吸う暇もなくもう一度キスされた。今度は不意打ちのキスで咄嗟に目を開いてしまった。すると、同じように目を開いていたトレイと目がバッチリあってしまった。その瞳があまりにもいつものトレイとかけ離れて怖かった。
そのいつもの違いに怖くて顔をずらしてキスをやめようとしたけれど頭を押さえつけられて出来ない。ならば、トレイの身体を押すが自分の小さな身体ではどうにも出来ない。
もがく身体もいつの間にか抱き込まれてしまい――。
――食べられる!
何てこと考えていると身体に絡まっていた拘束が外れた。
「ぇっ」
驚いて目を開くと同じように驚いているような、戸惑っているような顔をしたトレイがいた。そのトレイはすぐにはっとして膝をついてわたしを見上げる。
「悪かった。怖かったな」
「ぁ、や、ちがうの」
違うのよ、と随分と自分の声が消え入りそうだった。その所為で膝を着いてこちらを見上げるトレイの顔は酷く申し訳なさそうな――痛々しい顔をしている。
「トレイ。あの、違うの。怖かったけど違うのよ」
必死に何か伝えようとするが言葉が途切れ途切れでしかでない。お蔭で何も伝えられないのに話が終わりそうだ。
「いや、今のは俺が悪かったよ。怖い思いさせてごめんな」
触れないで言うトレイに寂しくなる。触れて言ってよ、と思うけれど身体は先ほどの名残が残って動かない。
「休憩時間も終わる頃だな。じゃ、戻るな」
立ち上がって眼鏡をかけた彼は「ケーキの感想、待ってるから」と言うとこちらに背を向ける。瞬間わたしの身体は驚くほど簡単に動いた。
「待って! トレイ!」
もつれそうな足で広い背中に抱き着く。ちゃんと逃げられないようにしっかりと抱き着く。それはもうギュッという音がつくくらい。
「行かないで、お願いよ」
ぎゅうと腕に力を込めて言う。すると、小さく溜息がついてわたしの手に彼の手が触れた。
「分かった。分かったから」
「行かない?」
「行かないって」
笑いを含んだ声に安心して彼から離れる。背を向けていた彼がこちらを見てくれた。それにまた安心する。
「あなたって結構勝手に思い込んで動くのね」
「……それそのまま返すぞ」
「うっ」
にこりと微笑む彼に確かにとしか言えず言葉に詰まる。しかし、今は詰まっている場合ではない。少し落ち着かない心臓でわたしは言葉を紡ぐ。
「も、もう少し心の準備をちょうだい」
そうしたらさっきみたいなキスも出来るから、と伝えると彼は目を瞠る。そして、大きな手で口元を隠して「あ~」と呻く。
「あ、や。分かった。うん。さっきは俺が性急過ぎただけだからな。本当に悪かった。ごめん」
「もう。いいのよ。でも、もう少し待ってね」
「……分かったよ」
少し間があったのはよく分らないが彼は頷いてくれた。
「よかった。あ、引き留め悪かったわ」
「いや、平気だ」
じゃ、今度こそと言って彼は手を振って店に戻って行った。その背中を見送ったわたしはひとつ悩みが晴れたようなそんな清々しい気分だった。
「あー! ケーキが楽しみ!」