限りなく普通の恋
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似た者同士な女の子と男の子
ずっと好きだったトレイと晴れて恋人となったわたしは新学期早々忙しい日々を送っていた。副寮長ということもあるけれどすぐ二月に開催される総合文化祭での研究発表があるからなのだけれど。
四年生ではないわたしは忙しくないと思われるだろうけれど二年生となった今年は寮長である先輩 との共同研究の発表がある。昨年のただ参加するだけの一年生とは異なり研究の追い上げで忙しい。他にも出店する部活の作品をつくるのに部活にも顔を出さないといけないから目が回るほど忙しい。そんな追われる日々の中でも楽しみはあった。
「会えるかなぁ」
疲れた身体でなんとか寝る支度を澄ませたわたしはぼんやりと天井を見上げていた。
今年の総合文化祭はナイトレイブンカレッジで開催される。それに頬が緩むなというのは無理からぬ話よね。だって、恋人となったトレイと初めて迎えるイベントよ。ニューイヤーも結局一緒に過ごすこともなかったから今回のイベントが嬉しい。
とはいっても、わたしは研究発表や部活の活動で忙しいから一緒に回るとかできないと思う。それにトレイも今年の実行委員長であるリドルくんの補佐で忙しいとこの間の電話で言っていた。それに所属している部活は文化部だと言っていたし、時間はないんだろうな。
「無理かなぁ……でも、会えたらいいな」
ふふ、と笑ってスマホのカレンダーアプリを開いて眺める。時間がない時間がないと思っていたらあっという間に文化祭の日まで残り一週間をきっていた。
ぼんやりとスマホを見上げて一人でついだらしなく笑ってしまう。
「トレイと恋人なんてまだ信じられないわ」
もう何度も考えて、呟いたし、何なら友達にも零した吐息のような言葉。だって、ずっと恋に恋していたとでもいうような夢のような相手に女の子として見られていたんだから。夢心地なのが抜けない。新学期の始めは研究しているときにさえ夢のふわふわした空間に行ってしまう。何度も注意された挙句先輩 に心配されてしまったくらい。
「わたし、トレイと恋人なのよ、ね……ふっ、ふふ、嬉しい」
夢と幸せを綯交ぜにして噛みしめると甘い気持ちになる。行き場のないこのフワフワした気持ちを解き放つことができたらどれほどいいことか。いや、駄目よ。この気持ちはわたしだけの物にしておきたい。ああ、でも、ふわふわした甘い気持ちの吐口がなくて身体が落ち着かない。
「えへへ!」
だから顔にすべて出てしまう。だらしなく緩んでしまうのは自室まで我慢しているからこうして寝る前の一時誰にも見せられない酷い顔になってしまう。
「ふっ、ふふふっ!」
あーもう堪らなく嬉しい。行き場のない気持ちが今度は足をジタバタさせる。こういうとき本当に一人部屋で良かったと思う。
ジタバタするだけではどうにもならずベッドの幅めいいっぱいにごろごろする。ひとりジタバタするのに満足して身体を横たえる。すると、興奮していた神経も落ち着いて瞼が重くなってきた。
「文化祭で少し話せればいいな」
一緒に回ろうなんて期待はしないわ。しないけれど少し話したいし、あわよくば学生生活をしているトレイをこの目に焼きつきたい。制服姿は何度も見ているけれど寮服はまだケイトさんのマジカメアカウントでしか見たことがない。これを機会に直に見たい。
「楽しみだなぁ……」
ふふふ、と笑って眠りに落ちた。
* * *
先輩 は研究発表が終わると「ヴィル様の雄姿を見に行くわ」と一瞬にして姿を消してしまった。最近知ったことだけどわたしの上司というか所属する寮の寮長の先輩 は隠れヴィル様推しだった。今思うと、新学期の際に話したトレイの発言で消されなかった。これも日々の行いかと思ってしまう。
「さて、部活の様子を見に行こうかしら」
サイドストリートに店を構えている部活に顔を出してみると一年生が店番をしていて初々しい様子でちょこんと座っていた。可愛いな、と思いながら声をかける。
「お疲れ様」
「アンジェリーナ先輩 ! お疲れ様です!」
「お疲れ様ですっ」
ふわっと愛らしい後輩たちに癒されながら作品の売り上げについて聞く。
「順調ですよ! 女性の方が多いですが、男性も購入してくださる方もいました」
「参加している学生さんもたくさん……あ、年齢層は幅広かったです」
「そっか。よかった」
わたしの所属しているフラワーアレンジメント部で部員は全校生徒の数を考えると多い方かもしれない。それでも個数を作るのは意外に大変でいつも終盤は上級生があらゆる魔法を駆使して作品作りを必死にする。わたしも今回は大掛かりな作品をいくつか頑張って作った。そさて、その売れ行きはどうかしら。
「わたしの作った作品はどうかしら?」
「先輩 の作った〝フラワーティアラ〟は即完売しました!」
「え。ほんとう?」
パッと並ばれた作品を見ればわたしが用意したフラワーティアラはサンプルさえない。
「まさかサンプルも売れたの?」
「はい! サンプルでも欲しいと!」
元気よく返事をする後輩と隣の大人しい後輩が首をこくこくと動かす。
「うわぁ。そうなの……」
わたしの作ったフラワーティアラというのは花を編んで作られた花の冠だ。とはいっても、着けやすいようにカチューシャタイプにしているので実際のティアラとは違う。他に違うのは〝花〟だ。この花は魔法で加工されている。生花を魔法で加工するのはもちろん。さらに、魔法で花の美しさをより一層引き出すように煌めきを与える。そうして完成したのが花の冠 。わたしはここにやってくる子ども向けに作成したのだがどうやら無事完売できたらしい。
「ふふ、嬉しいわ」
「あたしたちも嬉しいです……それに自分たちの作品も売れましたし、ね」
「うん。頑張って作ったかいがありました」
癒しオーラがほわほわ出る子たちに癒される。可愛い、可愛い。
「ねぇ。店番はわたしがするから遊びにいってらっしゃい」
「え! そんな悪いです!」
ギョッとする後輩と無言で頷く後輩。どうやら大人しく店番をしようと言うらしい。でも、どこかそわそわ落ち着かないのはVDCが気になっているからだろう。他にも、このお祭りの雰囲気にも充てられているに違いない。何せ二年生の自分だってそうなのだから、初めての一年生がそうでないわけない。
「いいよ。VDCが終わったら戻って来てくれれば」
「うっ、で、でも……ねぇ」
「はい。悪い、です」
と言いつつもじぃっとこっちを見つめるから「行ってきなさいな」と言う。それに後輩二人はキラキラと瞳を輝かせた。その姿に「やっぱり、わたしの後輩可愛いなぁ」と思った。
VDCのお蔭で本当に客足も緩やかだった。店番を代わる前に買ったドーナッツ……うん、今日くらいはいいだろうと思って買ったドーナッツもゆっくりと味わっているときだった。
「うぇっ、な、なに?」
ワッと湧き上がる歓声が聞こえた。落としかけたドーナッツを何とか掴んで紙ナプキンで口を拭うと楽しげな音楽が遠くから聞こえ出すと――。
「これって! ネージュが発表する予定の曲じゃない!」
「あ! リハーサル動画のやつ? 見た見た!」
「え! 今歌ってんのマジで!」
「チケット取れなかったし見に行こうぜ!」
「やった!」
サイドストリートに残っていたお客さんが一気に会場のある方角へとなだれ込んでいく。あまりのすさまじさは既視感を覚える。
「これがヌーの群れ……」
いつだか夕焼けの草原出身の友達が野次馬たちの行進を見て呟いた言葉を思い出す。あのときはピン来なかったが今ならわかる。たしかに、テレビで見たことがある光景だ。
ポカンと残っている人たちと同じように見つめながらその大群を見送った。
そんな賑やかなVDCも閉幕し優勝したのはネージュくん率いるロイヤルソードアカデミーだった。ヴィル様率いるナイトレイブンカレッジは一票差で準優勝だったとか。この結果に先輩 は無事かなと心配してしまう。あそこまで苛烈に推しているのだからヴィル様たち本人以上に悔しがっていそうなんだけど。
不安になって、戻って来た部員に店番を代わってもらい控室に向かっているときだった。
「あの、トレイ・クローバーくん」
終了に近い時間のせいか人の気配がすっかりなくなった学園内。その静かな廊下で緊張気味の女の子の声が響いた。あ、そういえばわたしトレイと会えていないけれどこんな形で会うことになるなんて――。
わたしは出しかけた足を引っ込めて壁にぴたりと張り付いて気配を消した。気配遮断の魔法まで使って思わず隠れてしまった。
「あの、今時間大丈夫ですか?」
見ていなくても緊張気味な女の子がトレイに何を言わんとしているのかわかる。今からこの静かな廊下で彼女の青春の一頁が刻まれようとしているんだわ。
今までになく嫌だと思う気持ちが込み上げる。だって、わたしトレイの恋人なんだもの。恋人が誰かに告白される姿は見たくない。もう今までみたいに見たくない。
嫌な女だと思う。そんな狭量な自分が心底嫌になる。恋人がモテるくらい前向きに考えられないのかしら。こんなんじゃいつか束縛までしてしち面倒くさい女になりそうっていうかなりかけている。本当にこんな自分嫌でたまらない。
「にゃ~、なぁに魔法使って隠れてんだで~」
「んぎっ!」
突然かけられた声に心臓が口から飛び出そうになった。ドッドッドッと驚きに跳ねる心臓を抑えながら横を見れば顔だけ浮かべたチェーニャがいた。
「お、驚かさないでよ、チェーニャ」
「別に驚かそうなんてしてないにゃぁ」
にひぃと口角をめいいっぱい広げながら目を細めて笑うチェーニャを睨む。
「勝手にすり抜けて来ないで」
「んじゃ、もう少し上手くなるんじゃにゃぁ」
「うぐっ」
それはごもっと。というか、ナイトレイブンカレッジと同じく名門のロイヤルソードアカデミーに通っていて一学年上のチェーニャならわたし程度の魔法容易く攻略できちゃうんだろう。
「悔しそうだにゃ、まぁ、せいぜい頑張るにゃあ~」
「頑張るわよ」
フンと鼻をならせばさらに気配が近くなった気がする。横目で見ればやっぱり距離が近いし先ほど消えていた身体が現れている。
「な、なに?」
「いんや、おみゃがなに隠れてなにを覗き見してるのか気になってにゃ」
「覗き見って、人聞き悪いわよ!」
「でも、そうだろ?」
また言い返せなくて近寄る顔からそっぽ向く。
「にゃはは。アンジェリーナももう少しトレイにそんな顔見せてもいいんじゃにゃいか?」
「……いやよ」
こんな可愛げな態度トレイなんかに見せられないし見せたくない。
「俺には見せんてんのに?」
「あなたはいいでしょ」
チェーニャに対して可愛げな態度取る必要もない。そもそもこのちょっと意地の悪い猫に可愛げな態度を見せたところでいいこともない。
「にゃはっ。可愛げがないから弄られるって思わんだで?」
「可愛げがあってもあなた弄ってるはずよ」
まったくトレイの性格を見習ったら、と言えば猫の目が丸く鳴りピアスバチバチにつけた猫の耳がピコと動く。
「おみゃ、マジで言ってんのか?」
「何をよ?」
わからないと眉を顰めればチェーニャが身体を離して首を振った。
「はぁ~~これりゃトレイの仕業だにゃ」
呆れ顔のチェーニャはとたんにまたニヒと笑った。その笑い方に小さい頃からいいことなんてなかった。じりっと距離を取ってから「なに」と警戒心をたらふく込めて訊ねる。
「そう怖がることねぇにゃ」
「ええ。怖がっているんじゃないからね」
何か悪戯されるってわかっているからよ! もはやこのときのわたしは曲がったすぐさきに行われている恋人が告白されているということが頭らか消えていた。だから、色々うかつだったんだと思うし、結局チェーニャの罠にはまっていたんだと後々気づいた。
「危ないにゃ」
「え?」
何が、と言う前に腕が引っ張られた。身構えていたはずなのに引っ張られたまま足が軽く地面から離れた。そのまま何故かチェーニャの腕の中に飛び込むことになってしまった。
「な、なに、チェーニャ?」
ほんとうに小さい頃から意味のわからないことする。頬っぺたにチェーニャの熱を感じながら上を見ればチェーニャは真っ直ぐ前を見ていた。
「よぉ~トレイぃ、さっきぶりだにゃ~」
トレイ、と呼ぶチェーニャの声にザッと忘れていたことを思い出す。そうだ。ここで壁際に隠れていたことを思い出す。でも、トレイにチェーニャの姿が見えているということは魔法もすっかりと解けているということで――。
サァと久々に血の気が引く音が聞こえる。ぐるぐると果てしなく回る思考に動けずにいる――。
「わっ!」
ぐいっと今度は後ろに引っ張られた。トンと背中にあたる感触と腰にぐるっと何かが巻き付いた感触がしたて見下ろせば黒い腕が回っていた。恐る恐る上を見上げれば表情を失くして一切の感情が読めないトレイの顔がバッチリと目に入った。
ヒッ、と心の中だけ声をあげた。いや、実際は喉が引き攣って出なかったからだ。それからじわじわと彼から怒っている雰囲気を感じて、わたしはその怒気を孕んだ空気に包まれていく。
「チェーニャ、さっきロイヤルソードアカデミーの奴が探していたぞ」
「お? そうなのか?」
ならいかないとにゃぁ、とわたしを見ながら目を三日月にするチェーニャ。まるで悪戯成功とでも言いたいような。面白いものを見させてもらったと言わんばかりの顔をしている。
ちょっと待ってと引き留めようとしたけれど引き留める理由もない。声が出ずにいるとチェーニャは「じゃあな~」とすぅっとお得意の魔法で姿を消して去ってしまった。途端ここの空気が大分冷え込んでいることに気づく。
「ま、まだまだ、寒いわね」
「そうか? 学園内は妖精のお蔭で暖かいはずだぞ?」
風邪でも引いたか、といつもの調子で言うトレイと額が温かい何かに包まれた。
「熱はないみたいだな」
額を包んでいるのはトレイのあの大きな手のひらだった。その事実に気づいて尚「ぅっ、ぇ、ぅん!」と裏返った声が出てしまったのが恥ずかしい。というより、より背中にぴったりとくっついたトレイの身体に身体が燃えそうだった。
「ん? なんか熱くなったな?」
先ほどまでよりもからかいを含んだ声が耳元で囁かれた。僅かに掠めた吐息にまた身体の熱があがる。このままでは身が持たない。でも、額にある手はまだどかないし、腰に回った腕にガッツリと抱き込まれてしまえば身動きができない。それに――。
「っ」
まだ耳元にあるトレイの唇が触れてしまいそうな距離も熱をあげる手助けとなっている。
以前抱きしめられたときとは違う体勢と距離間に狂ってしまいそうだった。まさに死にそうな状況に追い詰められているとゼロ距離みたいな近さで名前を呼ばれる。
「アンジェリーナ」
「ッ!」
耳の奥の鼓膜響くような低い声は妙に艶を感じてしまった。声なき声を出して身じろぐ。もう様々な感覚が限界になってしまった。
「とれっ、も、はなしっ、あっ」
額から離れた暖かな熱が次は顎を掴んだ。大きな手がいとも簡単にわたしの顔を上げた。瞬間に身体の向きも僅かに代わりわたしの身体はいとも簡単に動かされてしまった。
僅かにトレイの方に向けられた身体はいまだに腰を抱かれているせいもあって近いし、顔も近くなってしまった。
「ぁ、と、とれいっ」
黒縁眼鏡が顔に触れそうになる距離までトレイの顔が近くにある。この状況に火が吹き出しそうになる。うわずった声で呼びかけながら目の前の黄色味帯びた瞳を見つめる。わたしはその瞳に慌ただしかった心が凪いでいく気がした。
トレイの瞳は特別な色をしているわけではない。わたしの周りでもよく見かける瞳の色だ。でも、わたしにとっては特別な瞳だと改めて思う。だって、その瞳が向けられるだけで心が躍りときに、心を忙しなくさせる。
吸い込まれてしまいそうなレンズ越しの瞳に魅せられていると近くなった。近くなって、近くなって――。
「ん」
唇に柔らかなものが触れた。でも、一瞬のことでその柔らかいものはすっと離れていった。同時に拘束されていた身体が離されてトレイの熱が離れていく。
時間にすれば僅かな時間だったのにあれだけ身体の熱を上げた熱が今は恋しい。
「なんだ、アンジェリーナ」
「ぁ、」
離れる恋しさに無意識にトレイのジャケットを掴んでいた。途端に恥ずかしくて手放すと今度はその手を優しく掴まれてそっと手のひらを開くように指が這って行く。わたしはそれに逆らうことなく這う指に従うように手のひらを開く。すると、わたしの手はあっという間に彼の大きな手に包まれ指は長い節だった指に絡め取られてしまった。
「ぁ、あの、とれい」
「ん?」
おずおずと彼を見れば満足げにわたしを見つめ返して来た。彼の行動が一切理解できなかったがキスをした事実だけがわたしの中に残っている。
「アンジェリーナ」
呼ばれて反射的に「なに」と返せば困った顔でこっちを見ていた。その困った顔にわたしも戸惑ってしまう。何か困らせることをしただろうか、と。
「チェーニャと何してたんだ」
「ぇ、えっと……」
唐突な質問に思わず視線を彷徨わせてしまう。別にチェーニャの間に疚しいことはない。ただ、そこに至るまでの流れに後ろめたさを覚える。
「何かしていたのか?」
「ぁ」
ぐいっと引っ張られてわたしの身体は簡単にトレイの胸へと飛び込んだ。そのままギュッと抱きしめられてまた耳元に吐息が触れ身体が強張る。けれど、彼はそんなわたしの様子を気にする様子はなく耳元で低く囁く。
「アンジェリーナ……俺たちは恋人だろ?」
「っん、も、もちろんよ」
「なら言えるだろ?」
疚しいことがないなら、と含まれる声は僅かな不機嫌さが滲んでいた。もしかして何か勘違いされている。サァと血の気が引く。
まさかチェーニャとの仲を勘違いされている。確かに、そうだ。トレイが見た瞬間わたしはチェーニャの腕に抱かれていた。でも、まさか、まさか、そんな。
「もしかして本当はあいつの方が好きなのか?」
「そんなことないわ!」
咄嗟に顔をあげて反論の声をあげる。チェーニャがただの幼馴染だってことはトレイが一番よく知っているのに。まさか、あれだけで勘違いするなんて。
わたしを見下ろすトレイの瞳は冷ややかさを感じた。今までそんな瞳見たこともなければ、向けられたこともない。ドドドと心臓が嫌に跳ねていく。わたしは不安が込み上げる中、必死に口を回す。
「違うわ。トレイ、わたしがチェーニャをそういう男の子って見ていないのは知っているでしょ」
「さぁ、それはどうだろうな」
「ぇ」
身体が凍るような彼の返事に胸に凄まじい痛みが走る。どうして、なんで、そんなことを言うのと。
「違うわ、違うのよ、ただっ」
「ただ、なんだ」
「ただ……あなたが告白されているのを見たくなくて、隠れていたら、たまたま、」
会っただけ、というか声をかけられただけなのよ。蚊の鳴く声でトレイに告げる。だって、それは本当なんだもの。腕の中に飛び込んだのだって、よくわからない。でも、好きな彼を裏切る行為ではない。ただ、それだけは信じてほしい。
ギュとジャケットを握ると「そうか」と冷えた瞳でトレイが告げた。それは突き放しているような心地だった。鼻の奥がツンとして泣きたくなって来た。
「と、トレイ、あのっ、ほんと、ちが、んぅっ」
弁明の言葉を封じるように唇に噛みつかれた。さっきの触れるだけのキスとは違う荒いキスにすぐに頭も、心も、悲しさと戸惑いに掻き混ぜられていく。
ずっと、ずっと、優しいだけのトレイを見ていた。もちろん、彼が時折怖い顔を見せることは知っている。でも、わたしに向けられたことはない。だから、今、どうしてこんなことになっているのかわからない。
「んぁ、ふぅ、ん、むっ、んん」
唇を食まれながら僅かに眼鏡の縁が当る。それでもキスは終わらない。
「ふっぁっ、むぅ、んふ」
慣れないキスに息が上がっていく。でも、どうすればいいのかわからない。酸欠になっていく頭でどうしよう、どうしよう、と考えていると不意に長いような短いような荒々しいキスが終わる。
「ふっぅ、はっ、はっぅぅ、とれ、ちがう、の」
間近にあるトレイの瞳を見ながら途切れ途切れに告げる。すると、彼は眉を下げて「うん、知ってる」と言う。なら、どうして、という意味の眼差しを向ける。
「……悪いな」
わたしの眼差しの問いかけの答えなのか。ギュウと抱きすくめられた。
「とれい」
どうしたらいいかわからず大人しくしながら彼の名前を呼ぶ。
「……嫉妬したんだよ」
「しっと?」
「うん」
彼らしくない幼い返事にわたしはどうしていいのか困ると同時に嬉しく思ってしまった。本当は身勝手な嫉妬で怒るべきところなんだろうけれど――彼からの愛情表現に飢えているわたしは嬉しい。身勝手な嫉妬さえ嬉しい。
「チェーニャに嫉妬したの?」
「ああ、そういうことだ」
そうなの、としか返せなかった。冷や水を浴びていた心がじんと暖かくなる。単純明快な心に笑ってしまいたくなる。
「あ、それで告白の件だが」
抱きしめられたままトレイの言葉に身体が跳ねる。それに抱きしめられているからすぐに気づかれクスクス笑われながら背中を撫でられた。これは流石に子どもの扱いではと思うけれど落ち着くので何も言えない。
「断ったよ。当たり前だろ」
「ぅん」
そうだけど、恋人になって間もないからちょっと心もとなかった。それにちょっとドロドロした感情もあったから。純粋な気持ちがあったわけではないから。
「わたしは嫉妬もしたけれど――とてもドロドロしていたの」
恋人になった途端今まで我慢していたモノが綯交ぜになってしまったもの。まるでインク瓶の中身のようなものだった。
「すごく嫌だった」
この感情がすごく嫌。嫉妬はいくらでもした。でも、あるときから意味もないと無視していた。無視し続けたそのツケがアレなんだと思う。
「嫌だったのか」
「うん……」
「俺は嬉しかった」
「嬉しかったよ」と喜色の滲む声が嘘ではないと伝える。それを聞いたわたしはギュとトレイの背中に回した腕に力を入れる。
「そうなの?」
「ああ……なら、聞くけどな。お前は俺の嫉妬が嫌なのか」
「嫌じゃないわ」
即答すれば抱き着いた身体が震えた。トレイが笑っているのが伝わる。
「だろ。だから、俺は嬉しい」
「わたしも同じよ……とても嬉しかった」
たぷん、とわたしの中のどこかが満たされた気がした。今まで枯渇していたのか。飢えていたのかわからない身体のどこか。心のどこか。何かが満たされた気がした。
それをどうも形にできなくてわたしはギュッと抱きしめる。それは数秒だったか数分だったかわからない。けれど、満足して腕の力を抜かすとふわっと身体を離された。また離された寂しさを覚えたけれど何だか今は満たされているから何ともない。
離れて最後にトレイの顔を見上げると――綺麗な黄色み帯びた瞳と合った。その瞳に宿る何かにわたしは静かに目を伏せた。
三度触れた唇は初めての触れるキス、二度目の荒いキスと違い何よりも甘かった。
ずっと好きだったトレイと晴れて恋人となったわたしは新学期早々忙しい日々を送っていた。副寮長ということもあるけれどすぐ二月に開催される総合文化祭での研究発表があるからなのだけれど。
四年生ではないわたしは忙しくないと思われるだろうけれど二年生となった今年は寮長である
「会えるかなぁ」
疲れた身体でなんとか寝る支度を澄ませたわたしはぼんやりと天井を見上げていた。
今年の総合文化祭はナイトレイブンカレッジで開催される。それに頬が緩むなというのは無理からぬ話よね。だって、恋人となったトレイと初めて迎えるイベントよ。ニューイヤーも結局一緒に過ごすこともなかったから今回のイベントが嬉しい。
とはいっても、わたしは研究発表や部活の活動で忙しいから一緒に回るとかできないと思う。それにトレイも今年の実行委員長であるリドルくんの補佐で忙しいとこの間の電話で言っていた。それに所属している部活は文化部だと言っていたし、時間はないんだろうな。
「無理かなぁ……でも、会えたらいいな」
ふふ、と笑ってスマホのカレンダーアプリを開いて眺める。時間がない時間がないと思っていたらあっという間に文化祭の日まで残り一週間をきっていた。
ぼんやりとスマホを見上げて一人でついだらしなく笑ってしまう。
「トレイと恋人なんてまだ信じられないわ」
もう何度も考えて、呟いたし、何なら友達にも零した吐息のような言葉。だって、ずっと恋に恋していたとでもいうような夢のような相手に女の子として見られていたんだから。夢心地なのが抜けない。新学期の始めは研究しているときにさえ夢のふわふわした空間に行ってしまう。何度も注意された挙句
「わたし、トレイと恋人なのよ、ね……ふっ、ふふ、嬉しい」
夢と幸せを綯交ぜにして噛みしめると甘い気持ちになる。行き場のないこのフワフワした気持ちを解き放つことができたらどれほどいいことか。いや、駄目よ。この気持ちはわたしだけの物にしておきたい。ああ、でも、ふわふわした甘い気持ちの吐口がなくて身体が落ち着かない。
「えへへ!」
だから顔にすべて出てしまう。だらしなく緩んでしまうのは自室まで我慢しているからこうして寝る前の一時誰にも見せられない酷い顔になってしまう。
「ふっ、ふふふっ!」
あーもう堪らなく嬉しい。行き場のない気持ちが今度は足をジタバタさせる。こういうとき本当に一人部屋で良かったと思う。
ジタバタするだけではどうにもならずベッドの幅めいいっぱいにごろごろする。ひとりジタバタするのに満足して身体を横たえる。すると、興奮していた神経も落ち着いて瞼が重くなってきた。
「文化祭で少し話せればいいな」
一緒に回ろうなんて期待はしないわ。しないけれど少し話したいし、あわよくば学生生活をしているトレイをこの目に焼きつきたい。制服姿は何度も見ているけれど寮服はまだケイトさんのマジカメアカウントでしか見たことがない。これを機会に直に見たい。
「楽しみだなぁ……」
ふふふ、と笑って眠りに落ちた。
* * *
「さて、部活の様子を見に行こうかしら」
サイドストリートに店を構えている部活に顔を出してみると一年生が店番をしていて初々しい様子でちょこんと座っていた。可愛いな、と思いながら声をかける。
「お疲れ様」
「アンジェリーナ
「お疲れ様ですっ」
ふわっと愛らしい後輩たちに癒されながら作品の売り上げについて聞く。
「順調ですよ! 女性の方が多いですが、男性も購入してくださる方もいました」
「参加している学生さんもたくさん……あ、年齢層は幅広かったです」
「そっか。よかった」
わたしの所属しているフラワーアレンジメント部で部員は全校生徒の数を考えると多い方かもしれない。それでも個数を作るのは意外に大変でいつも終盤は上級生があらゆる魔法を駆使して作品作りを必死にする。わたしも今回は大掛かりな作品をいくつか頑張って作った。そさて、その売れ行きはどうかしら。
「わたしの作った作品はどうかしら?」
「
「え。ほんとう?」
パッと並ばれた作品を見ればわたしが用意したフラワーティアラはサンプルさえない。
「まさかサンプルも売れたの?」
「はい! サンプルでも欲しいと!」
元気よく返事をする後輩と隣の大人しい後輩が首をこくこくと動かす。
「うわぁ。そうなの……」
わたしの作ったフラワーティアラというのは花を編んで作られた花の冠だ。とはいっても、着けやすいようにカチューシャタイプにしているので実際のティアラとは違う。他に違うのは〝花〟だ。この花は魔法で加工されている。生花を魔法で加工するのはもちろん。さらに、魔法で花の美しさをより一層引き出すように煌めきを与える。そうして完成したのが花の
「ふふ、嬉しいわ」
「あたしたちも嬉しいです……それに自分たちの作品も売れましたし、ね」
「うん。頑張って作ったかいがありました」
癒しオーラがほわほわ出る子たちに癒される。可愛い、可愛い。
「ねぇ。店番はわたしがするから遊びにいってらっしゃい」
「え! そんな悪いです!」
ギョッとする後輩と無言で頷く後輩。どうやら大人しく店番をしようと言うらしい。でも、どこかそわそわ落ち着かないのはVDCが気になっているからだろう。他にも、このお祭りの雰囲気にも充てられているに違いない。何せ二年生の自分だってそうなのだから、初めての一年生がそうでないわけない。
「いいよ。VDCが終わったら戻って来てくれれば」
「うっ、で、でも……ねぇ」
「はい。悪い、です」
と言いつつもじぃっとこっちを見つめるから「行ってきなさいな」と言う。それに後輩二人はキラキラと瞳を輝かせた。その姿に「やっぱり、わたしの後輩可愛いなぁ」と思った。
VDCのお蔭で本当に客足も緩やかだった。店番を代わる前に買ったドーナッツ……うん、今日くらいはいいだろうと思って買ったドーナッツもゆっくりと味わっているときだった。
「うぇっ、な、なに?」
ワッと湧き上がる歓声が聞こえた。落としかけたドーナッツを何とか掴んで紙ナプキンで口を拭うと楽しげな音楽が遠くから聞こえ出すと――。
「これって! ネージュが発表する予定の曲じゃない!」
「あ! リハーサル動画のやつ? 見た見た!」
「え! 今歌ってんのマジで!」
「チケット取れなかったし見に行こうぜ!」
「やった!」
サイドストリートに残っていたお客さんが一気に会場のある方角へとなだれ込んでいく。あまりのすさまじさは既視感を覚える。
「これがヌーの群れ……」
いつだか夕焼けの草原出身の友達が野次馬たちの行進を見て呟いた言葉を思い出す。あのときはピン来なかったが今ならわかる。たしかに、テレビで見たことがある光景だ。
ポカンと残っている人たちと同じように見つめながらその大群を見送った。
そんな賑やかなVDCも閉幕し優勝したのはネージュくん率いるロイヤルソードアカデミーだった。ヴィル様率いるナイトレイブンカレッジは一票差で準優勝だったとか。この結果に
不安になって、戻って来た部員に店番を代わってもらい控室に向かっているときだった。
「あの、トレイ・クローバーくん」
終了に近い時間のせいか人の気配がすっかりなくなった学園内。その静かな廊下で緊張気味の女の子の声が響いた。あ、そういえばわたしトレイと会えていないけれどこんな形で会うことになるなんて――。
わたしは出しかけた足を引っ込めて壁にぴたりと張り付いて気配を消した。気配遮断の魔法まで使って思わず隠れてしまった。
「あの、今時間大丈夫ですか?」
見ていなくても緊張気味な女の子がトレイに何を言わんとしているのかわかる。今からこの静かな廊下で彼女の青春の一頁が刻まれようとしているんだわ。
今までになく嫌だと思う気持ちが込み上げる。だって、わたしトレイの恋人なんだもの。恋人が誰かに告白される姿は見たくない。もう今までみたいに見たくない。
嫌な女だと思う。そんな狭量な自分が心底嫌になる。恋人がモテるくらい前向きに考えられないのかしら。こんなんじゃいつか束縛までしてしち面倒くさい女になりそうっていうかなりかけている。本当にこんな自分嫌でたまらない。
「にゃ~、なぁに魔法使って隠れてんだで~」
「んぎっ!」
突然かけられた声に心臓が口から飛び出そうになった。ドッドッドッと驚きに跳ねる心臓を抑えながら横を見れば顔だけ浮かべたチェーニャがいた。
「お、驚かさないでよ、チェーニャ」
「別に驚かそうなんてしてないにゃぁ」
にひぃと口角をめいいっぱい広げながら目を細めて笑うチェーニャを睨む。
「勝手にすり抜けて来ないで」
「んじゃ、もう少し上手くなるんじゃにゃぁ」
「うぐっ」
それはごもっと。というか、ナイトレイブンカレッジと同じく名門のロイヤルソードアカデミーに通っていて一学年上のチェーニャならわたし程度の魔法容易く攻略できちゃうんだろう。
「悔しそうだにゃ、まぁ、せいぜい頑張るにゃあ~」
「頑張るわよ」
フンと鼻をならせばさらに気配が近くなった気がする。横目で見ればやっぱり距離が近いし先ほど消えていた身体が現れている。
「な、なに?」
「いんや、おみゃがなに隠れてなにを覗き見してるのか気になってにゃ」
「覗き見って、人聞き悪いわよ!」
「でも、そうだろ?」
また言い返せなくて近寄る顔からそっぽ向く。
「にゃはは。アンジェリーナももう少しトレイにそんな顔見せてもいいんじゃにゃいか?」
「……いやよ」
こんな可愛げな態度トレイなんかに見せられないし見せたくない。
「俺には見せんてんのに?」
「あなたはいいでしょ」
チェーニャに対して可愛げな態度取る必要もない。そもそもこのちょっと意地の悪い猫に可愛げな態度を見せたところでいいこともない。
「にゃはっ。可愛げがないから弄られるって思わんだで?」
「可愛げがあってもあなた弄ってるはずよ」
まったくトレイの性格を見習ったら、と言えば猫の目が丸く鳴りピアスバチバチにつけた猫の耳がピコと動く。
「おみゃ、マジで言ってんのか?」
「何をよ?」
わからないと眉を顰めればチェーニャが身体を離して首を振った。
「はぁ~~これりゃトレイの仕業だにゃ」
呆れ顔のチェーニャはとたんにまたニヒと笑った。その笑い方に小さい頃からいいことなんてなかった。じりっと距離を取ってから「なに」と警戒心をたらふく込めて訊ねる。
「そう怖がることねぇにゃ」
「ええ。怖がっているんじゃないからね」
何か悪戯されるってわかっているからよ! もはやこのときのわたしは曲がったすぐさきに行われている恋人が告白されているということが頭らか消えていた。だから、色々うかつだったんだと思うし、結局チェーニャの罠にはまっていたんだと後々気づいた。
「危ないにゃ」
「え?」
何が、と言う前に腕が引っ張られた。身構えていたはずなのに引っ張られたまま足が軽く地面から離れた。そのまま何故かチェーニャの腕の中に飛び込むことになってしまった。
「な、なに、チェーニャ?」
ほんとうに小さい頃から意味のわからないことする。頬っぺたにチェーニャの熱を感じながら上を見ればチェーニャは真っ直ぐ前を見ていた。
「よぉ~トレイぃ、さっきぶりだにゃ~」
トレイ、と呼ぶチェーニャの声にザッと忘れていたことを思い出す。そうだ。ここで壁際に隠れていたことを思い出す。でも、トレイにチェーニャの姿が見えているということは魔法もすっかりと解けているということで――。
サァと久々に血の気が引く音が聞こえる。ぐるぐると果てしなく回る思考に動けずにいる――。
「わっ!」
ぐいっと今度は後ろに引っ張られた。トンと背中にあたる感触と腰にぐるっと何かが巻き付いた感触がしたて見下ろせば黒い腕が回っていた。恐る恐る上を見上げれば表情を失くして一切の感情が読めないトレイの顔がバッチリと目に入った。
ヒッ、と心の中だけ声をあげた。いや、実際は喉が引き攣って出なかったからだ。それからじわじわと彼から怒っている雰囲気を感じて、わたしはその怒気を孕んだ空気に包まれていく。
「チェーニャ、さっきロイヤルソードアカデミーの奴が探していたぞ」
「お? そうなのか?」
ならいかないとにゃぁ、とわたしを見ながら目を三日月にするチェーニャ。まるで悪戯成功とでも言いたいような。面白いものを見させてもらったと言わんばかりの顔をしている。
ちょっと待ってと引き留めようとしたけれど引き留める理由もない。声が出ずにいるとチェーニャは「じゃあな~」とすぅっとお得意の魔法で姿を消して去ってしまった。途端ここの空気が大分冷え込んでいることに気づく。
「ま、まだまだ、寒いわね」
「そうか? 学園内は妖精のお蔭で暖かいはずだぞ?」
風邪でも引いたか、といつもの調子で言うトレイと額が温かい何かに包まれた。
「熱はないみたいだな」
額を包んでいるのはトレイのあの大きな手のひらだった。その事実に気づいて尚「ぅっ、ぇ、ぅん!」と裏返った声が出てしまったのが恥ずかしい。というより、より背中にぴったりとくっついたトレイの身体に身体が燃えそうだった。
「ん? なんか熱くなったな?」
先ほどまでよりもからかいを含んだ声が耳元で囁かれた。僅かに掠めた吐息にまた身体の熱があがる。このままでは身が持たない。でも、額にある手はまだどかないし、腰に回った腕にガッツリと抱き込まれてしまえば身動きができない。それに――。
「っ」
まだ耳元にあるトレイの唇が触れてしまいそうな距離も熱をあげる手助けとなっている。
以前抱きしめられたときとは違う体勢と距離間に狂ってしまいそうだった。まさに死にそうな状況に追い詰められているとゼロ距離みたいな近さで名前を呼ばれる。
「アンジェリーナ」
「ッ!」
耳の奥の鼓膜響くような低い声は妙に艶を感じてしまった。声なき声を出して身じろぐ。もう様々な感覚が限界になってしまった。
「とれっ、も、はなしっ、あっ」
額から離れた暖かな熱が次は顎を掴んだ。大きな手がいとも簡単にわたしの顔を上げた。瞬間に身体の向きも僅かに代わりわたしの身体はいとも簡単に動かされてしまった。
僅かにトレイの方に向けられた身体はいまだに腰を抱かれているせいもあって近いし、顔も近くなってしまった。
「ぁ、と、とれいっ」
黒縁眼鏡が顔に触れそうになる距離までトレイの顔が近くにある。この状況に火が吹き出しそうになる。うわずった声で呼びかけながら目の前の黄色味帯びた瞳を見つめる。わたしはその瞳に慌ただしかった心が凪いでいく気がした。
トレイの瞳は特別な色をしているわけではない。わたしの周りでもよく見かける瞳の色だ。でも、わたしにとっては特別な瞳だと改めて思う。だって、その瞳が向けられるだけで心が躍りときに、心を忙しなくさせる。
吸い込まれてしまいそうなレンズ越しの瞳に魅せられていると近くなった。近くなって、近くなって――。
「ん」
唇に柔らかなものが触れた。でも、一瞬のことでその柔らかいものはすっと離れていった。同時に拘束されていた身体が離されてトレイの熱が離れていく。
時間にすれば僅かな時間だったのにあれだけ身体の熱を上げた熱が今は恋しい。
「なんだ、アンジェリーナ」
「ぁ、」
離れる恋しさに無意識にトレイのジャケットを掴んでいた。途端に恥ずかしくて手放すと今度はその手を優しく掴まれてそっと手のひらを開くように指が這って行く。わたしはそれに逆らうことなく這う指に従うように手のひらを開く。すると、わたしの手はあっという間に彼の大きな手に包まれ指は長い節だった指に絡め取られてしまった。
「ぁ、あの、とれい」
「ん?」
おずおずと彼を見れば満足げにわたしを見つめ返して来た。彼の行動が一切理解できなかったがキスをした事実だけがわたしの中に残っている。
「アンジェリーナ」
呼ばれて反射的に「なに」と返せば困った顔でこっちを見ていた。その困った顔にわたしも戸惑ってしまう。何か困らせることをしただろうか、と。
「チェーニャと何してたんだ」
「ぇ、えっと……」
唐突な質問に思わず視線を彷徨わせてしまう。別にチェーニャの間に疚しいことはない。ただ、そこに至るまでの流れに後ろめたさを覚える。
「何かしていたのか?」
「ぁ」
ぐいっと引っ張られてわたしの身体は簡単にトレイの胸へと飛び込んだ。そのままギュッと抱きしめられてまた耳元に吐息が触れ身体が強張る。けれど、彼はそんなわたしの様子を気にする様子はなく耳元で低く囁く。
「アンジェリーナ……俺たちは恋人だろ?」
「っん、も、もちろんよ」
「なら言えるだろ?」
疚しいことがないなら、と含まれる声は僅かな不機嫌さが滲んでいた。もしかして何か勘違いされている。サァと血の気が引く。
まさかチェーニャとの仲を勘違いされている。確かに、そうだ。トレイが見た瞬間わたしはチェーニャの腕に抱かれていた。でも、まさか、まさか、そんな。
「もしかして本当はあいつの方が好きなのか?」
「そんなことないわ!」
咄嗟に顔をあげて反論の声をあげる。チェーニャがただの幼馴染だってことはトレイが一番よく知っているのに。まさか、あれだけで勘違いするなんて。
わたしを見下ろすトレイの瞳は冷ややかさを感じた。今までそんな瞳見たこともなければ、向けられたこともない。ドドドと心臓が嫌に跳ねていく。わたしは不安が込み上げる中、必死に口を回す。
「違うわ。トレイ、わたしがチェーニャをそういう男の子って見ていないのは知っているでしょ」
「さぁ、それはどうだろうな」
「ぇ」
身体が凍るような彼の返事に胸に凄まじい痛みが走る。どうして、なんで、そんなことを言うのと。
「違うわ、違うのよ、ただっ」
「ただ、なんだ」
「ただ……あなたが告白されているのを見たくなくて、隠れていたら、たまたま、」
会っただけ、というか声をかけられただけなのよ。蚊の鳴く声でトレイに告げる。だって、それは本当なんだもの。腕の中に飛び込んだのだって、よくわからない。でも、好きな彼を裏切る行為ではない。ただ、それだけは信じてほしい。
ギュとジャケットを握ると「そうか」と冷えた瞳でトレイが告げた。それは突き放しているような心地だった。鼻の奥がツンとして泣きたくなって来た。
「と、トレイ、あのっ、ほんと、ちが、んぅっ」
弁明の言葉を封じるように唇に噛みつかれた。さっきの触れるだけのキスとは違う荒いキスにすぐに頭も、心も、悲しさと戸惑いに掻き混ぜられていく。
ずっと、ずっと、優しいだけのトレイを見ていた。もちろん、彼が時折怖い顔を見せることは知っている。でも、わたしに向けられたことはない。だから、今、どうしてこんなことになっているのかわからない。
「んぁ、ふぅ、ん、むっ、んん」
唇を食まれながら僅かに眼鏡の縁が当る。それでもキスは終わらない。
「ふっぁっ、むぅ、んふ」
慣れないキスに息が上がっていく。でも、どうすればいいのかわからない。酸欠になっていく頭でどうしよう、どうしよう、と考えていると不意に長いような短いような荒々しいキスが終わる。
「ふっぅ、はっ、はっぅぅ、とれ、ちがう、の」
間近にあるトレイの瞳を見ながら途切れ途切れに告げる。すると、彼は眉を下げて「うん、知ってる」と言う。なら、どうして、という意味の眼差しを向ける。
「……悪いな」
わたしの眼差しの問いかけの答えなのか。ギュウと抱きすくめられた。
「とれい」
どうしたらいいかわからず大人しくしながら彼の名前を呼ぶ。
「……嫉妬したんだよ」
「しっと?」
「うん」
彼らしくない幼い返事にわたしはどうしていいのか困ると同時に嬉しく思ってしまった。本当は身勝手な嫉妬で怒るべきところなんだろうけれど――彼からの愛情表現に飢えているわたしは嬉しい。身勝手な嫉妬さえ嬉しい。
「チェーニャに嫉妬したの?」
「ああ、そういうことだ」
そうなの、としか返せなかった。冷や水を浴びていた心がじんと暖かくなる。単純明快な心に笑ってしまいたくなる。
「あ、それで告白の件だが」
抱きしめられたままトレイの言葉に身体が跳ねる。それに抱きしめられているからすぐに気づかれクスクス笑われながら背中を撫でられた。これは流石に子どもの扱いではと思うけれど落ち着くので何も言えない。
「断ったよ。当たり前だろ」
「ぅん」
そうだけど、恋人になって間もないからちょっと心もとなかった。それにちょっとドロドロした感情もあったから。純粋な気持ちがあったわけではないから。
「わたしは嫉妬もしたけれど――とてもドロドロしていたの」
恋人になった途端今まで我慢していたモノが綯交ぜになってしまったもの。まるでインク瓶の中身のようなものだった。
「すごく嫌だった」
この感情がすごく嫌。嫉妬はいくらでもした。でも、あるときから意味もないと無視していた。無視し続けたそのツケがアレなんだと思う。
「嫌だったのか」
「うん……」
「俺は嬉しかった」
「嬉しかったよ」と喜色の滲む声が嘘ではないと伝える。それを聞いたわたしはギュとトレイの背中に回した腕に力を入れる。
「そうなの?」
「ああ……なら、聞くけどな。お前は俺の嫉妬が嫌なのか」
「嫌じゃないわ」
即答すれば抱き着いた身体が震えた。トレイが笑っているのが伝わる。
「だろ。だから、俺は嬉しい」
「わたしも同じよ……とても嬉しかった」
たぷん、とわたしの中のどこかが満たされた気がした。今まで枯渇していたのか。飢えていたのかわからない身体のどこか。心のどこか。何かが満たされた気がした。
それをどうも形にできなくてわたしはギュッと抱きしめる。それは数秒だったか数分だったかわからない。けれど、満足して腕の力を抜かすとふわっと身体を離された。また離された寂しさを覚えたけれど何だか今は満たされているから何ともない。
離れて最後にトレイの顔を見上げると――綺麗な黄色み帯びた瞳と合った。その瞳に宿る何かにわたしは静かに目を伏せた。
三度触れた唇は初めての触れるキス、二度目の荒いキスと違い何よりも甘かった。