それに名前をつけるには
それに名前なんてあるのか
「トレイ先輩。明日の夜って空いてますか?」
ケーキを受け取りながら珍しいジャックからの誘いに今週のシフトを思い出す。明日は朝から夕方までのシフトで夜は空いている。
「ああ。空いているぞ」
「俺も夕方までなんでよかったらメシでもどうっすか?」
本当にどうしたことか。トレイは不思議そうに見れば伝わったのか。ジャックは空いている手で頬を掻いて視線を少し斜め下に向けた。
「ちょっと用があるんで」
濁すような言い方にトレイは訊ねようと口を開きかけた。だが、その時自動扉が動いて客が入って来た。それにもう一人の店員が対応してくれるがこれ以上話すことはできない。ジャックもわかったのか斜めを向いていた視線をまたトレイに戻した。
「お客さん来たんで俺はこれで。後で店の地図とか送っておくんで」
「予約も自分がします」と言いトレイが返事をする前にそそくさと出ていってしまった。引き留めようとも客がいる手前できずジャックの大きな背中を見送るしかできなかった。
仕事も終わりロッカーで服を着替える前にスマホを見ればメッセージが送られていた。ひとつは地図、もうひとつは店名と予約時間だった。
そのふたつのメッセージに頬が緩んでいると――。
「なんだ、なんだ? 恋人からか?」
最近他店舗から移動して来た同僚が身体を寄せてからかうような声をかけてきた。それにトレイは「は?」と思わず同僚に驚愕の眼差しを向ける。同僚はトレイの反応に目をにやけさせて「だって、随分嬉しそうな顔してんじゃん」と茶化し気味に言う。
「そんな嬉しそうな顔してたか?」
「おう。だから、大好きな恋人ちゃんからかなって。いいな~、オレも恋人ほしい~」
それっきり同僚はコックコートを脱いで帰る準備を始める。その同僚からの言葉をトレイは頭の中で反芻させる。
――嬉しそうな顔? 俺が?
確かに、珍しいジャックの誘いは懐かれた気分で嬉しかった。それにジャックは意外とここら辺で美味しい料理や菓子を取り扱う店をよく知っている。だから、選ぶ店の料理に間違いはない。
――だから、頬が緩んだとしか考えられない。
ほら何もおかしくない。けど、はた目からみれば恋人のメッセージを受け取った顔に見えたのか。いや、そもそも恋人からのメッセージ貰った顔ってどんな顔だ。
「おい! トレイ!」
「ッ!」
ぐるぐると頭の中の思考を巡らせていると突然肩を叩かれた。振り返ればすっかりと着替え帰り支度を終えた同僚がいた。
「そんな驚くなよ。オレ着替え終わったからここのロッカールームの鍵よろしくな」
「あ、ああ。わかった」
手を振って去っていく同僚を見送ってトレイもようやく着替えを始めた。
◆ ◆ ◆
あれから家に帰って眠りについたがスッキリとしないし、胸にも薄らとモヤが残る。お蔭であまり眠れなかった。とはいっても、今日は朝から出勤だ。
「はぁ」
顔を洗って一応サッパリする。それでも昨日の同僚の言葉がずっと残っている。
「そもそも気にすることじゃないだろう」
これが女の子だったら違ったかもしれない。好意を持つ女の子に変わった可能性もある。けれど、相手は男の後輩ジャックだ。恋愛対象になるかと言えばならない。そう。ならないはずだ。はずなのだが――。
「う、ぅん~」
思わず呻き声が漏れる。今まで恋愛対象に男がなったことはない。初恋らしい初恋の相手も女の子だった。いや、そもそもこの年まで恋愛という恋愛をしたことがない。ナイトレイブンカレッジのときだって男に惹かれたこともない。
だのに、今ここでそうなるのか。いやいや、違う。この輝石の国で他に知り合いらしい知り合いがいないからだ。ケイトとかいればきっとそんなことはなかった。
いや、ケイトがいたらそもそもジャックとここまで親しくもならなかった気がする。だから、やっぱりこの、これは、ジャックとしか交流していないからではないか。
「今度ケイト捕まえてメシでも食うか」
卒業後中々捕まらないが一年に一度は食事をしている。そろそろ会えるだろう。
「はぁぁ。何でこんなことで悩んでいるんだ」
普通に流してしまえばいいのに一人悶々と考えているのは馬鹿ではないだろうか。それにジャックだってこんなことで悩まれても困るはずだ。だから、考えるのをやめろと何度も念じるがトレイの頭から同僚の言葉が消えることはなかった。
退勤したトレイは時間に遅れないために足早に店を出る。その間も平素に戻ろうと何とか思考を同僚の言葉から引き離そうとする。お蔭で降りる予定のバス停を通り過ぎるところだった。
もう仕事のときからずっと調子が狂いっぱなしだ。この調子でジャックの前に出てもいいのか。変なこと口走らないだろうな。
スマホで地図を確認しながら頭の片隅でやっぱりそんなことばかり考えていた。
「あ、トレイ先輩」
「ッ、ぁ」
突然かけられた声にスマホを落としそうになる。それでも何とかキャッチしてドキドキする胸を抑えながらゆっくりと振り返る。そこに耳をふにゃと僅かに伏せたジャックがいた。何だか、そのふにゃり加減がいつもより少し下な気がする。ビッと伏せているのは音が煩いときに見たことがある。でも、この申し訳なさに伏せられる耳は――とじっと見ていると厚みのある耳が跳ね上がった。
その耳の動きが何だか可愛いなとか考えていると「すんません」と声をかけられた。
「驚かせちまいましたね」
「いや、俺も考えごとしていたからな。気にしないでくれ」
「っす。なんか、それもすんません。あ、えっと、じゃあ、予約した時間には少し早いっすけど行ってみますか?」
「そうだな」
横に並んで歩き出すジャックについて行く。ふと、その姿を見るといつも通りスーツだった。そういえばジャックはデュースと違い陸上選手としての採用だったはず。
「ジャックは選手としての採用なのにスーツ通勤なのか?」
「いや、ラフなときもありますよ。でも、そうっすね。なんか周りもスーツなんで」
自然とスーツを着る流れになったということか。
へぇ、と感心していると不思議そうに「突然どうしたんスか」と訊ねるジャックにトレイも深い意味はなかった。ただ。ジャックの身長と足の長さを見るとスーツが様になるなと思ったからだ。
「随分様になっているからな」
「ああ! それは多分レオナ先輩とアズール先輩たちのお蔭っすね」
途端、ジャックの薄く綺麗な金の瞳が輝き出す。いつもそうだ。尊敬する人の話をするときの彼の瞳は飴細工と同じくらい美しい。その美しさを以前なら普通に見ていた。レオナは可愛い後輩を持ったなくらいで済んでいたのに今日は違った。
頭の片隅にあった言葉と胸の僅かな靄が膨らんだ瞬間に頭を振る。
――まったくなんだ。
自分自身でも理解の範疇を越えた感情の禍々しさに一人目を白黒させる。もう今日は同僚の言葉に振り回されるしかないようだ。これ以上考えるのはやめてジャックとの会話に集中しよう。
「あの、先輩?」
「何でもない。ちょっとケーキのことを考えていたんだ」
「新作っスか?」
期待に瞳を輝かせるジャックはまるで子どものような愛らしさがあった。いつもの後輩然としたジャックに見えてトレイは胸を撫で下ろした。
「季節の変わり目も近いからな」
「そうっすね。楽しみにしてます」
パタパタ動く尻尾が目の端に映る。本当に元気な尻尾だな。学生の頃にもリドルの前で――と思い出しかけてやめる。何だか先ほどの同じような感覚になりそうだった。
忘れがたい感覚を必死に忘れようとトレイはジャックとの会話に勤しんだ。
予約より早く来たが個室だったためかすんなりと通された。食事が運ばれるまで少し時間はあるため何となく会話を続けようとするがその前にジャックが「ひとついいっすか」と遠慮がちに口を開いた。
「ん。構わないぞ」
「実は今日先輩に渡したい物があって」
「まぁ、今日はこれが目的だったんすけど」とジャックが持っていた紙袋を目の前に出す。小さなショッパーに何だと待っているとそこから小さな箱が出てきた。特にラッピングがないことからプレゼントというわけではなさそうだが。
まじまじと見ているとジャックは紙袋を片付けて「貰ってください」と箱を向けた。ジャックの大きな手に持っていると箱は本当に小さく見えた。
反射的に受け取ってみるがやはり贈物というにしては素っ気ない。
「誕生日はまだが、なんだ?」
「例の防犯ブザーっす」
「その話しまだ続いてたのか……」
頭が思わず下がる。だが、呆れている自分とは違ってジャックの声は真剣だった。
「また似たようなことが合ったらどうすんだ。毎回毎回一人でどうにかできるもんじゃないっすよ」
「大丈夫だって、別に何もない」
「分からないっス」
顔を上げて見ればジャックは声と同じく真剣な顔をしていた。ちょっと険しくて怖い顔だが十分に心配していることは伝わってくる。
「でも、大袈裟だ」
「大袈裟でもない。この間は一般人だったから何とか出来たかも知れない。でも、アンタより腕っぷしが強い男だったら、腕利きの女の魔法士だったらどうすんだ」
何だかジャックが年頃の娘を心配する父親に見えて来る。そういえば、自分も妹がミドルスクールに入る前から懇々と注意していた気がする。ジャックも妹がいると言っていたからもしかしたらそれと同じような気分にトレイに注意しているのかもしれない。
つまり、ジャックは純粋にトレイを心配しているのだろう。
――そういうところが綺麗だよな。
親切心の中にもトレイを心配する純粋な綺麗な気持ちが窺える。だから、ジャックはとても綺麗に見えるのだ。そういう人を世間はきっと親切で優しい人と称す。だからこそ自分は彼が言う優しい人から外れていると思う。
はぁ、と息をついて苦笑いを向ける。
「わかった。ありがたく貰ってくよ」
「なら、今箱から開けてちゃんと取り出せるようなポケットにいれてください」
「……」
じぃっと綺麗な金色の瞳でトレイの手元の箱を見ている。そうか。なるほど。貰ったからといってトレイが本当に身に着けるとは限らないと考えているのだろう。賢い後輩だ。ちょっと可愛げがないけれど。
「家に帰ったらちゃんと鞄に入れるから」
「……ほんとうすっか」
半目になった瞳は完全に疑っている。そんな顔で職質とかするのだろうか。初犯はすぐに吐いてしまうかもしれない。でも、トレイは犯罪者でもない。にこっと笑って「着けるよ」と言ってもじぃぃぃと見て来る。少しは信じてほしいものだ。
「はぁ。わかった、わかった。今開けて着ければいいんだろ」
「っす!」
ピコピコ動く尻尾に絆されているのかもしれない。可愛い、あの大きな尻尾は。
トレイは絆されているなと思いながら箱を開け、手のひらサイズのブザーを取り出す。ストラップがついている一見普通の防犯ブザーのように見えるが――。
「あ、これ魔法か?」
防犯ブザーの中心から魔力のようなものを感じる。ジャックに視線を向ければ彼は頷いて「魔法工学を使った防犯ブザーです」と答えた。
「おいおい。高いんじゃないかこれ?」
「まぁ、比較的高価かもしれませんけど先輩にはこれくらい持ってもらいたいんで」
「いや、いやいや、流石にこれは貰えないぞ」
魔法工学が使われているものはそれなりの値段がする。勿論、喉から手が出るほどとは言えないけれど自分たちの年齢では〝高価〟な部類だ。
「いいんす。気にしないでください」
キッパリと言うジャックにトレイはこの防犯ブザーは返品不可ということはすぐに理解できた。これはどうしたらいいんだ。
「使ってください。そんで、何かあったら絶対に使ってください」
「いいですか」と念を押すジャックもう断れない。「わかった、わかった」と返せば胡散臭いものを見る目をする。
「ほんとうっスか?」
「本当に使う、使うから、ほら、着けるところ見ていろ」
面倒くさいというか信用のあまりのなさに泣きたくなる。
鞄を手繰り寄せて外側のポケット入れてストラップをしっかりと付ける。
「これでいいだろ」
「……存在忘れるなよ」
「忘れないって」
そろそろ信用しろと睨めばジャックは満足げに頷く。そして、話しをさらっと変えた。
「もう少しで運ばれてきますかね」
「そうだな」
頷きながら疲れが身体に滲む。食事をする前に疲れた。でも、このままここで食事を楽しむつもりだ。なにせ態々ジャックが紹介してくれるのだ。だから、気になるし楽しみだ。食事のことを思い出したら忘れていた空腹に腹が鳴りそうになる。
「楽しみっスね!」
ニッと尖った八重歯を覗かせるジャックに先ほどの防犯ブザーの疲れがちょっと和らぐ。疲れの元凶に癒されるってなんだ。
トレイはその日疲れたんだか癒されたんだか分からなかった。
◆ ◆ ◆
ジャックは帰ってすぐに風呂に入った。シャワーを浴びながら手首に新しく付けたブレスレットを見る。これは防水加工もされているけれどオシャレが目的のものではない。
「あぁ~なんで言わなかったんだよ」
濡れる前髪を掻き上げながら一人後悔の念を零す。
このブレスレットは先ほどトレイに上げた防犯ブザーに使用されている魔法と連携している。だから、トレイが使えば即ジャックに伝わりすぐに駆けつけることができる。
「疚しい気持ちなんかねぇのに」
これっぽっちもない。だのに、何でその場で伝えることができなかったのか。わからない。全然わからない。本来であれば伝えておかなければいけないだろうにジャックは出来なかった。
「……俺こそ変質者じゃねぇか」
選手採用とはいえ現職の警察がすることじゃないだろう。
「うぅぅ~~何してんだよ」
ジャックはこの夜から自分の理解できない行動に悩む羽目になった。
「トレイ先輩。明日の夜って空いてますか?」
ケーキを受け取りながら珍しいジャックからの誘いに今週のシフトを思い出す。明日は朝から夕方までのシフトで夜は空いている。
「ああ。空いているぞ」
「俺も夕方までなんでよかったらメシでもどうっすか?」
本当にどうしたことか。トレイは不思議そうに見れば伝わったのか。ジャックは空いている手で頬を掻いて視線を少し斜め下に向けた。
「ちょっと用があるんで」
濁すような言い方にトレイは訊ねようと口を開きかけた。だが、その時自動扉が動いて客が入って来た。それにもう一人の店員が対応してくれるがこれ以上話すことはできない。ジャックもわかったのか斜めを向いていた視線をまたトレイに戻した。
「お客さん来たんで俺はこれで。後で店の地図とか送っておくんで」
「予約も自分がします」と言いトレイが返事をする前にそそくさと出ていってしまった。引き留めようとも客がいる手前できずジャックの大きな背中を見送るしかできなかった。
仕事も終わりロッカーで服を着替える前にスマホを見ればメッセージが送られていた。ひとつは地図、もうひとつは店名と予約時間だった。
そのふたつのメッセージに頬が緩んでいると――。
「なんだ、なんだ? 恋人からか?」
最近他店舗から移動して来た同僚が身体を寄せてからかうような声をかけてきた。それにトレイは「は?」と思わず同僚に驚愕の眼差しを向ける。同僚はトレイの反応に目をにやけさせて「だって、随分嬉しそうな顔してんじゃん」と茶化し気味に言う。
「そんな嬉しそうな顔してたか?」
「おう。だから、大好きな恋人ちゃんからかなって。いいな~、オレも恋人ほしい~」
それっきり同僚はコックコートを脱いで帰る準備を始める。その同僚からの言葉をトレイは頭の中で反芻させる。
――嬉しそうな顔? 俺が?
確かに、珍しいジャックの誘いは懐かれた気分で嬉しかった。それにジャックは意外とここら辺で美味しい料理や菓子を取り扱う店をよく知っている。だから、選ぶ店の料理に間違いはない。
――だから、頬が緩んだとしか考えられない。
ほら何もおかしくない。けど、はた目からみれば恋人のメッセージを受け取った顔に見えたのか。いや、そもそも恋人からのメッセージ貰った顔ってどんな顔だ。
「おい! トレイ!」
「ッ!」
ぐるぐると頭の中の思考を巡らせていると突然肩を叩かれた。振り返ればすっかりと着替え帰り支度を終えた同僚がいた。
「そんな驚くなよ。オレ着替え終わったからここのロッカールームの鍵よろしくな」
「あ、ああ。わかった」
手を振って去っていく同僚を見送ってトレイもようやく着替えを始めた。
◆ ◆ ◆
あれから家に帰って眠りについたがスッキリとしないし、胸にも薄らとモヤが残る。お蔭であまり眠れなかった。とはいっても、今日は朝から出勤だ。
「はぁ」
顔を洗って一応サッパリする。それでも昨日の同僚の言葉がずっと残っている。
「そもそも気にすることじゃないだろう」
これが女の子だったら違ったかもしれない。好意を持つ女の子に変わった可能性もある。けれど、相手は男の後輩ジャックだ。恋愛対象になるかと言えばならない。そう。ならないはずだ。はずなのだが――。
「う、ぅん~」
思わず呻き声が漏れる。今まで恋愛対象に男がなったことはない。初恋らしい初恋の相手も女の子だった。いや、そもそもこの年まで恋愛という恋愛をしたことがない。ナイトレイブンカレッジのときだって男に惹かれたこともない。
だのに、今ここでそうなるのか。いやいや、違う。この輝石の国で他に知り合いらしい知り合いがいないからだ。ケイトとかいればきっとそんなことはなかった。
いや、ケイトがいたらそもそもジャックとここまで親しくもならなかった気がする。だから、やっぱりこの、これは、ジャックとしか交流していないからではないか。
「今度ケイト捕まえてメシでも食うか」
卒業後中々捕まらないが一年に一度は食事をしている。そろそろ会えるだろう。
「はぁぁ。何でこんなことで悩んでいるんだ」
普通に流してしまえばいいのに一人悶々と考えているのは馬鹿ではないだろうか。それにジャックだってこんなことで悩まれても困るはずだ。だから、考えるのをやめろと何度も念じるがトレイの頭から同僚の言葉が消えることはなかった。
退勤したトレイは時間に遅れないために足早に店を出る。その間も平素に戻ろうと何とか思考を同僚の言葉から引き離そうとする。お蔭で降りる予定のバス停を通り過ぎるところだった。
もう仕事のときからずっと調子が狂いっぱなしだ。この調子でジャックの前に出てもいいのか。変なこと口走らないだろうな。
スマホで地図を確認しながら頭の片隅でやっぱりそんなことばかり考えていた。
「あ、トレイ先輩」
「ッ、ぁ」
突然かけられた声にスマホを落としそうになる。それでも何とかキャッチしてドキドキする胸を抑えながらゆっくりと振り返る。そこに耳をふにゃと僅かに伏せたジャックがいた。何だか、そのふにゃり加減がいつもより少し下な気がする。ビッと伏せているのは音が煩いときに見たことがある。でも、この申し訳なさに伏せられる耳は――とじっと見ていると厚みのある耳が跳ね上がった。
その耳の動きが何だか可愛いなとか考えていると「すんません」と声をかけられた。
「驚かせちまいましたね」
「いや、俺も考えごとしていたからな。気にしないでくれ」
「っす。なんか、それもすんません。あ、えっと、じゃあ、予約した時間には少し早いっすけど行ってみますか?」
「そうだな」
横に並んで歩き出すジャックについて行く。ふと、その姿を見るといつも通りスーツだった。そういえばジャックはデュースと違い陸上選手としての採用だったはず。
「ジャックは選手としての採用なのにスーツ通勤なのか?」
「いや、ラフなときもありますよ。でも、そうっすね。なんか周りもスーツなんで」
自然とスーツを着る流れになったということか。
へぇ、と感心していると不思議そうに「突然どうしたんスか」と訊ねるジャックにトレイも深い意味はなかった。ただ。ジャックの身長と足の長さを見るとスーツが様になるなと思ったからだ。
「随分様になっているからな」
「ああ! それは多分レオナ先輩とアズール先輩たちのお蔭っすね」
途端、ジャックの薄く綺麗な金の瞳が輝き出す。いつもそうだ。尊敬する人の話をするときの彼の瞳は飴細工と同じくらい美しい。その美しさを以前なら普通に見ていた。レオナは可愛い後輩を持ったなくらいで済んでいたのに今日は違った。
頭の片隅にあった言葉と胸の僅かな靄が膨らんだ瞬間に頭を振る。
――まったくなんだ。
自分自身でも理解の範疇を越えた感情の禍々しさに一人目を白黒させる。もう今日は同僚の言葉に振り回されるしかないようだ。これ以上考えるのはやめてジャックとの会話に集中しよう。
「あの、先輩?」
「何でもない。ちょっとケーキのことを考えていたんだ」
「新作っスか?」
期待に瞳を輝かせるジャックはまるで子どものような愛らしさがあった。いつもの後輩然としたジャックに見えてトレイは胸を撫で下ろした。
「季節の変わり目も近いからな」
「そうっすね。楽しみにしてます」
パタパタ動く尻尾が目の端に映る。本当に元気な尻尾だな。学生の頃にもリドルの前で――と思い出しかけてやめる。何だか先ほどの同じような感覚になりそうだった。
忘れがたい感覚を必死に忘れようとトレイはジャックとの会話に勤しんだ。
予約より早く来たが個室だったためかすんなりと通された。食事が運ばれるまで少し時間はあるため何となく会話を続けようとするがその前にジャックが「ひとついいっすか」と遠慮がちに口を開いた。
「ん。構わないぞ」
「実は今日先輩に渡したい物があって」
「まぁ、今日はこれが目的だったんすけど」とジャックが持っていた紙袋を目の前に出す。小さなショッパーに何だと待っているとそこから小さな箱が出てきた。特にラッピングがないことからプレゼントというわけではなさそうだが。
まじまじと見ているとジャックは紙袋を片付けて「貰ってください」と箱を向けた。ジャックの大きな手に持っていると箱は本当に小さく見えた。
反射的に受け取ってみるがやはり贈物というにしては素っ気ない。
「誕生日はまだが、なんだ?」
「例の防犯ブザーっす」
「その話しまだ続いてたのか……」
頭が思わず下がる。だが、呆れている自分とは違ってジャックの声は真剣だった。
「また似たようなことが合ったらどうすんだ。毎回毎回一人でどうにかできるもんじゃないっすよ」
「大丈夫だって、別に何もない」
「分からないっス」
顔を上げて見ればジャックは声と同じく真剣な顔をしていた。ちょっと険しくて怖い顔だが十分に心配していることは伝わってくる。
「でも、大袈裟だ」
「大袈裟でもない。この間は一般人だったから何とか出来たかも知れない。でも、アンタより腕っぷしが強い男だったら、腕利きの女の魔法士だったらどうすんだ」
何だかジャックが年頃の娘を心配する父親に見えて来る。そういえば、自分も妹がミドルスクールに入る前から懇々と注意していた気がする。ジャックも妹がいると言っていたからもしかしたらそれと同じような気分にトレイに注意しているのかもしれない。
つまり、ジャックは純粋にトレイを心配しているのだろう。
――そういうところが綺麗だよな。
親切心の中にもトレイを心配する純粋な綺麗な気持ちが窺える。だから、ジャックはとても綺麗に見えるのだ。そういう人を世間はきっと親切で優しい人と称す。だからこそ自分は彼が言う優しい人から外れていると思う。
はぁ、と息をついて苦笑いを向ける。
「わかった。ありがたく貰ってくよ」
「なら、今箱から開けてちゃんと取り出せるようなポケットにいれてください」
「……」
じぃっと綺麗な金色の瞳でトレイの手元の箱を見ている。そうか。なるほど。貰ったからといってトレイが本当に身に着けるとは限らないと考えているのだろう。賢い後輩だ。ちょっと可愛げがないけれど。
「家に帰ったらちゃんと鞄に入れるから」
「……ほんとうすっか」
半目になった瞳は完全に疑っている。そんな顔で職質とかするのだろうか。初犯はすぐに吐いてしまうかもしれない。でも、トレイは犯罪者でもない。にこっと笑って「着けるよ」と言ってもじぃぃぃと見て来る。少しは信じてほしいものだ。
「はぁ。わかった、わかった。今開けて着ければいいんだろ」
「っす!」
ピコピコ動く尻尾に絆されているのかもしれない。可愛い、あの大きな尻尾は。
トレイは絆されているなと思いながら箱を開け、手のひらサイズのブザーを取り出す。ストラップがついている一見普通の防犯ブザーのように見えるが――。
「あ、これ魔法か?」
防犯ブザーの中心から魔力のようなものを感じる。ジャックに視線を向ければ彼は頷いて「魔法工学を使った防犯ブザーです」と答えた。
「おいおい。高いんじゃないかこれ?」
「まぁ、比較的高価かもしれませんけど先輩にはこれくらい持ってもらいたいんで」
「いや、いやいや、流石にこれは貰えないぞ」
魔法工学が使われているものはそれなりの値段がする。勿論、喉から手が出るほどとは言えないけれど自分たちの年齢では〝高価〟な部類だ。
「いいんす。気にしないでください」
キッパリと言うジャックにトレイはこの防犯ブザーは返品不可ということはすぐに理解できた。これはどうしたらいいんだ。
「使ってください。そんで、何かあったら絶対に使ってください」
「いいですか」と念を押すジャックもう断れない。「わかった、わかった」と返せば胡散臭いものを見る目をする。
「ほんとうっスか?」
「本当に使う、使うから、ほら、着けるところ見ていろ」
面倒くさいというか信用のあまりのなさに泣きたくなる。
鞄を手繰り寄せて外側のポケット入れてストラップをしっかりと付ける。
「これでいいだろ」
「……存在忘れるなよ」
「忘れないって」
そろそろ信用しろと睨めばジャックは満足げに頷く。そして、話しをさらっと変えた。
「もう少しで運ばれてきますかね」
「そうだな」
頷きながら疲れが身体に滲む。食事をする前に疲れた。でも、このままここで食事を楽しむつもりだ。なにせ態々ジャックが紹介してくれるのだ。だから、気になるし楽しみだ。食事のことを思い出したら忘れていた空腹に腹が鳴りそうになる。
「楽しみっスね!」
ニッと尖った八重歯を覗かせるジャックに先ほどの防犯ブザーの疲れがちょっと和らぐ。疲れの元凶に癒されるってなんだ。
トレイはその日疲れたんだか癒されたんだか分からなかった。
◆ ◆ ◆
ジャックは帰ってすぐに風呂に入った。シャワーを浴びながら手首に新しく付けたブレスレットを見る。これは防水加工もされているけれどオシャレが目的のものではない。
「あぁ~なんで言わなかったんだよ」
濡れる前髪を掻き上げながら一人後悔の念を零す。
このブレスレットは先ほどトレイに上げた防犯ブザーに使用されている魔法と連携している。だから、トレイが使えば即ジャックに伝わりすぐに駆けつけることができる。
「疚しい気持ちなんかねぇのに」
これっぽっちもない。だのに、何でその場で伝えることができなかったのか。わからない。全然わからない。本来であれば伝えておかなければいけないだろうにジャックは出来なかった。
「……俺こそ変質者じゃねぇか」
選手採用とはいえ現職の警察がすることじゃないだろう。
「うぅぅ~~何してんだよ」
ジャックはこの夜から自分の理解できない行動に悩む羽目になった。
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