魔法にかけられた

魔法にかけられた



「チッ。雨か」

 曇天の空から細やかに降り注ぐ雨を睨みつける。今日はあいにくの雨。ジャックは眉を顰めながら鏡舎から出る。
 校舎まで歩き始めると、制服は想像していたよりもしっとりと濡れていった。
 ジャックはひとつ舌打ちをしてマジカルペンを取り出して防壁を張る。防御魔法の応用だ。まさか得意の魔法がこんなことで役に立つとは少し前の自分だったら想像しなかっただろう。いや、案外便利とすぐに今みたいに活用したかもしれない。

「今日は一日雨なのか……?」

 独り言を口にしながら天気予報を後で確認しようとまた舌打ちをしながら忌々しい自分の行動を思い出す。
 こうした雨の日ジャックはあの夢のような出来事を思い出して例の場所・・へと向かって、あの人をまた待ってしまうのだ。来ないあの人を、主人を待つ犬のように待ってしまう。そして、あの人が来ないと分かった瞬間に去来する凄まじい失望感に襲われる。あの夢のような日からもう何度雨の日にそんなことに襲われただろうか。
 ジャックはギと奥歯を噛んで目尻をつり上げる。

「次はぜってぇにそうならねぇ」
「なにが?」
「ッ!」

 突然聞こえた声にジャックは驚きにぶわっと全身の毛を逆立てる。
 まさか、いま考えていた人の声が聞こえるなんて。幻聴じゃないのか。イヌ科の獣人属はヒト属よりは聴力はいいがネコ科よりは劣る。幻聴である可能性は否定できない。で、その可能性は、と恐る恐る見下ろせば困った顔で笑う――トレイ・クローバーがいた。またぶわっと毛が逆立つ。

「と、とれい、せんぱい」
「はは。そんなに驚かせたか?」

 いつもの先輩然としているトレイ。ジャックはあの夢のような出来事で見た妖しい空気を纏う男と目の前にいるごくごく普通な男が同一人物とはとても思えなかった。やはり何か幻覚を見せる魔法にでもかかってしまっているんでないか。そう、あの日から何度も考え、今もジャックはそう錯覚してしまいそうになる。

「ジャック? どうした?」
「あ、いや、何でもないっす……先輩も早いっすね」
「そうか? でも、早く行かないと食堂も込むからな」
「ああ。確かにそうっすね」

 何気ない会話。何気ないやり取り。雨降りしきる中、東屋であった出来事はやはり夢なのか。はたまた幻なのか。身体の緊張が消えてもうすぐ校舎入り口に着きかけたときだった。

「そういえばジャック」

 「なんすか」と言う前にトレイが下から顔を覗き込んで来た。眼鏡のレンズの向こうの灰色がかった黄色の瞳。その瞳に夢幻だったと移行しかけていた記憶が揺さぶられる。

「雨、これから激しくなって夜まで降るらしいぞ」

 「その傘じゃ危ないからな」とマジカルペンを握るジャックの手にそっと触れた。その場所から一気に熱が広がった気がした。

「ッ」

 たまらず逃げるように手を引いてしまった。その反動で雨を遮っていた防壁も消えてなくなる。でも、今は雨に濡れてしまう心配よりも目を丸くさせるトレイに何て言い訳するかの方が大事だった。

「あ、あー」

 言い訳もできないほどの驚き方だった。自分でも分かるほど忙しなく耳を動かし、尻尾を動かす。視線を逸らすと負けた気がするが視線は勝手に泳いでしまう。これでは聡いこの人にジャックの感情が全て筒抜けになってしまう。

「そんなに驚いたか?」

 眉を片方下げていつもの困った笑い顔。先ほどの瞳の妖しさもなくいつも通りの「トレイ先輩」に戻っている。それでもジャックは先ほどの熱は忘れられない。

「あ、っと、すんません。俺、トレイン先生の授業の準備があったの忘れてました」
「そうだったのか。なら、早く行った方がいい」

 「トレイン先生は厳しい人だからな」ジャックのウソに合わせてくれたのが何となく分かった。それでも平然としているのが少し恐ろしくもあった。

 ――何考えてんだ、この人。

 さっぱり分からねぇ、と心の中で零しながら頭を下げて駆ける。こうしてジャックは朝食を食べることができなかった。腹をすかせながら逆恨みだと分かってもトレイを少々恨んだ。



   ◆ ◆ ◆



 ザァザァと激しい雨の音がする。本当に雨が酷くなった。あの人が言ったことが本当になった。いや、本当になったのではない。元から酷くなるものだった。だから、別にあの人が言ったから雨が酷くなったわけじゃない。

「考え事か?」
「え」

 パチと視界が鮮明になった。すると、雨に囲まれている東屋の中にジャックはびしょ濡れになって佇んでいた。

「……どうしてだ、」
「ん? 雨宿りしていたんだろ?」

 戸惑いの声にしっかりとした返事があった。ジャックは声のした方へと顔を向ける。そこには自分と同じびしょ濡れ状態のトレイ・クローバーが佇んでいた。トレイは濡れた手を払ってから眼鏡を外した。そして、現れたのは鋭い眼つきをした目だった。
 その瞳にある日の光景が頭にパッと浮かぶ。ジャックは慌てて振り払うように頭を左右に振る。すると、水気を含んだ髪から水滴が飛んでいく。どうやら自分が想像している以上に濡れているらしい。認識したとたん前髪が重くべちゃっと額に張り付き鬱陶しくなる。

「くそ。どうしてここに」
「なんだ? 監督生のところからの帰りじゃないのか?」
「ぇ、あ」

 そうだったか。ジャックは記憶を手繰ろうとするけれど靄がかかったように思い出せない。朝は思い出せる。昼も思い出せる。では、放課後はどうだっただろうか。部活は雨で運動場ではなくて室内でのストレッチとなった。だから、普段よりも一時間短い活動だった――では、そのあとは、どこへ向かったのか。

「思い出せないのか?」
「そうみたいっす」
「何か魔法でもかかったか?」

 心配げな声をしながら覗き込んで来た顔。その顔についている双眸はとても眼つきが悪かった。目が悪く睨むようになっているのだろう。何だか優しい表情作りなのに勿体ない人だ。

「先輩の眼つきの悪さは眼鏡のお蔭でカバーされてるんすね」
「ハハ。ジャック、お前の素直さは嫌いじゃないがちょっと傷付くぞ」

 そんな心臓の持ち主でもないくせに。心の中で悪態を打ちながらもジャックは目が離せなくなっていた。ザァザァと聞こえていた雨音さえも遠くに聞こえる。この感覚はあの夢だと断定した日以来だ。

「夢だと思ったか?」
「あれは夢だ」
「それは……どうして?」
「だって夢じゃないとおかしいじゃないっすか」

 そうだと思わないと自分から恋人とてもましてや一生を誓った相手でもない人にキスするわけがない。だから違う。あれは夢なのだ。ジャックはあの日からずっとそう言い聞かせている。

「あんただって、あれは夢の方がいいんじゃないか」

 恋人でもない他人からキスされるなんて嫌なはずだ。なら夢だと断定してしまった方がいい。あれは夢幻であったとしてしまった方がいい。

「ん? 俺は全然構わないぞ」

 それこそどうしてという話ではないか。じっと灰色がかった黄色の瞳を見つめれば鋭い眦が柔くなったように見えた。でも、それに安心するわけでもなく恐ろしく思えた。
 だのに、どうしようもなく惹きつけられるのは何か暗示だろうか。そういえば、トレイ先生の授業だっただろうか。瞳は即席の魔法をかけることができる。すなわち魔力を用いた暗示をかけることができると言っていた。

「先輩。魔法、使ってんのか?」
「いいや。俺みたいな奴がそんな高等な魔法使えないさ」

 嘘ばっかり。副寮長の中でも優秀だという話を聞いたことがある。器用貧乏なだけだ。いや、本当はなんでもそつなく熟すことができるはずなのにしないだけかもしれない。
 徐々に近づく黄色の瞳。よくよく見れば妖しく輝いている。その輝きは魔法の煌めきか。それとも何か熱の籠った煌めきか。

「あんたは何がしてぇんだ?」
「そうだなぁ。お前と仲良くなりたい」
「はっ。仲良くなりてぇ相手全員にこんなことしてんのか?」
「まさか。お前だけだよ」

 どうだか、と言いたかった唇は言葉を奪おうように塞がれた。


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