トレイ × ジャック

ハンドクリームのお裾分け



 不意に擦り合わせた手がザラッとしていて痛かった。その手を見下ろせば案の定ザラザラしていた。ジャックは周りを見回してベンチを見つけて腰掛ける。それからブレザーのポケットからチューブ型のハンドクリームを取り出す。キラキラしたキャップを外して中身を出したのだが――。

「やべぇ」

 手のひらに出し過ぎた。ジャックは半透明のクリームを手のひらに出して苛立ちに喉を唸らせた。
 ジャックがハンドクリームを塗るようになったのは数日前の朝のことだ。日課のジョギングをしているときに目敏くヴィルに手が荒れていることを指摘されたことが始まり。ジャックからすればたかが手荒れと思った。それをヴィルに言えば険しい顔をした小言をくらってしまった。その後、有無を言わせずヴィルに引きずられるようにポムフィオーレ寮に連れていかれキラキラした見た目をしたチューブ型のハンドクリームを貰った。
 貰った手前使わないのも失礼だ、と考えたジャックは律儀にハンドクリームを使っている。お蔭でここ最近手荒れもなくなってきたがたまに今みたいにクリームの容量を間違えてしまう。

「流石にこれはな……」

 以前にも何度か出し過ぎたことがあった。その際も勿体ないと手に塗りたくったがスマホも持てないという大変な目にあった。だから、今回は手に塗りたくるような真似をしたくはない。だがしかし、このクリームを捨てることなどジャックにはできない。

「ヴィルさんがくれたもんだからぜってぇ高けぇだろうしな」

 調べるのは無粋だからしていないが絶対に高い。化粧品に疎いジャックでも分かる。絶対にこのクリームは高級品だ。だから、むざむざ捨てることなどできない。さて、どうしたものか――。

「ジャック? こんなところでどうしたんだ?」

 親しみの籠った低い声に顔をあげると見知った人がそこにいた。「トレイ先輩、ちっす」とクリームを乗せたままみっともないが挨拶はする。トレイはそれから困ったように眉毛を上げて「そんな格好で固まってどうした」と訊いて来る。そうなるだろうな。

「ハンドクリームを出し過ぎちまって」
「へぇ。お前でも手荒れは気になるのか」

 心底意外そうな声。やっぱり自分と美容というかそういう方面には繋がらないのだろう。ジャック自身も気にしていなかったしいいのだが――ハッ、とトレイを見る。

「ど、どうしたんだ?」

 眼鏡の奥にある切れ長の目を見開き戸惑いを見せるトレイ。ジャックは次にトレイの手を見る。今の彼の手元には荷物らしい荷物はない。あるのは魔導書が一冊。しかも分厚くない。

「先輩。よければこのクリーム少し貰ってくれますか」
「それは構わないが……」

 一端言葉を切ったトレイが少し考える素振りをみせる。顎に手をかけるポーズに今のどこにそんな考え込むところがと思うが。

 ――あ、もしかして匂いが嫌だったのか。

 イヌ科の獣人属であるジャックでもあまりに気にならない香り。でも、人によって嫌悪感を覚える匂いは違う。嫌だったら断わってくれてもいいが、と言おうとした矢先だった。

「なら、ジャックが塗ってくれ」
「は?」

 爽やかな笑顔で自分と同じくらい大きな手を差し出して来た。ジャックは差し出された手と爽やかな笑みを浮かべるトレイの顔を交互に見て「ど、どういうことっすか?」と問いかける。

「お前が手にハンドクリームを塗った後にいらない分を俺の手に塗った方がいいと思ってな」
「いや、でも、この状態の方が」
「足りなくなったらもう一度出す方が勿体ないだろ」

 片眉を器用に下げるトレイになるほどと頷く。ならこの分を塗りたくって移す方がいいだろう。確かにその方がいい、とジャックは納得する。

「じゃ、すんません。待ってもらっていいっすか」
「ああ。これくらい構わないぞ」

 そういうとトレイはジャックの隣に座って小脇に抱えていた魔導書を開いた。三年生のトレイが読む魔導書が一体どんなのか気になりながら視線を自身の手に戻す。
 ジャックは手のひらに多く出し過ぎたハンドクリームを少し伸ばして手を重ねて温める。温まったと思ったら次にて全体に伸ばしていく。

 ――やっぱり出し過ぎた。

 明らかに馴染むには多い量に苦虫を潰しながら今度は指へと移る。指はつけ根から指先まで一本一本丁寧に塗るといいらしい。最後にしっかりと爪先も保湿するといいらしい。お蔭でジャックの指先は最近ザラつくこともなくなってきた。そのお蔭か魔法薬学など細かい作業がやりやすくなった気もする。

「っし」

 できたがやっぱり手全体は塗りすぎたのかベタベタする。不愉快感に眉を顰めながらジャックが身体ごとトレイに向ける。すると、そこには同じくこちらに身体ごと向けているトレイがいた。ジャックは驚きに尻尾の毛を逆立てる。

「ま、魔導書読んでいたんじゃないんすか?」
「いや。すぐに終わるかなって思ったら結構丁寧に塗っているから」

 「気になってな」と言うトレイにジャックはではずっと見られていたのかと頬が熱くなる。気づかなかったことにも、じっと観察されていたことにも、恥ずかしくなってジャックは喉を唸らせる。

「はは。悪かった、悪かった」
「いえ、別に」

 レオナの仔犬というガキ扱いとは違う子ども扱い。普段トレイが接しているのがエースやデュースだからだろう。でも、あの二人と同列に扱われるのは何だか癪だった。

「で、そのベタベタしていそうな手のままでいいのか」
「あ、」

 指摘されて目的を思い出した。

「じ、じゃあ、すんません」
「ああ。いいぞ」

 再び差し出された手。片手だけだが流石に両手に濡れるほど多く出し過ぎたわけではない。ちょうどいいと差し出された片手をジャックはベタベタの両手で包み込んだ。

「お。見た目以上だったんだな」
「っす」

 想像以上に色が白かった大きな手。いや、日焼けしている自分の手が傍にあるからだろうか。にしても、手も人によって違うんだなぁとレオナやラギー、それにヴィルの手を思い出しながら教わった通りにハンドクリームを塗っていく。

「先輩の手、結構冷たいっすね」
「うーん。そうかもしれないな」
「俺は手が温かいって言われるんで」
「へぇ。確かに温かいな」

 手のひらがザラついてからなかったが、監督生が暖を取るのによく握って来ていた。最近もザラつきがなくなってきたから監督生がよく小さな手を重ねてくる。

「監督生もよく俺の手で暖を取って来るんすよ」
「……へぇ。まぁ、あの寮じゃ仕方ないな」
「っす。なんか、あいつ『暖かさに飢えてるんだよ』って目が血走っていて」
「……目に浮かぶな」

 苦笑を浮かべるトレイに頷きながらジャックはそのときのことを思い出し恐怖が込み上げる。だから、ジャックの尻尾で暖を取ることも許可したくらいだ。流石に哀れにすら思ってくる。

「にしても塗り方は誰に習ったんだ?」
「ヴィル先輩っす。このクリームも先輩がくれました」
「ん? いつの間にヴィルとそんな間柄になったんだ?」
「ああ。ヴィル先輩が小さい頃俺の家の近所に住んでいたんです。そのときに仲良くなったっていうんすかね」
「幼馴染ってやつか?」
「いや、それほど長い付き合いでもなかっすね。先輩が引っ越してからも連絡を取り合っていたわけでもねぇし」

 それでもヴィルは覚えていてくれていたのは嬉しかったな。入学式当日のことを思い出して尻尾が揺れる。

「その割には仲がいいんだな」
「そうっすね。よくしてもらっています」

 パッと手から顔を上げるとトレイの顔が思いの外近く似合って思わずのけ反る。
 いきなりのけ反ったジャックにトレイは目を瞬かせるとまた困った顔をした。

「悪い、悪い。ヴィル直伝の塗り方が気になってな」
「そ、そうっすか」

 距離を取るトレイにジャックも元の位置に戻る。今もまだ心臓がちょっとドクドクしている。にしてもこの人は今日はどうして気配が薄い。ジャックはどんな状況でも気配に敏感だ。特にハーツラビュル寮生は薔薇や甘い菓子の匂いで少し近づくだけで分かる。特にトレイは菓子作りを担当しているから本当は甘い香りがするはずだ。だのに、今日は全然しない。
 何故だろうと思いながらジャックは手に視線を戻し、衛生的に切りそろえられている爪先を持つ指に手をかける。

「トレイ先輩。今日は甘い匂いしないっすね」
「ん? 俺っていつもそんな匂いがするのか?」
「先輩つーか、ハーツラビュル生はいつも薔薇と甘い匂いがするっす。先輩は特にっすけど」
「あ~なるほど」

 合点がいったトレイは苦笑を零しながら「まだ今日は作ってないからな」と言った。それでも普段からするものだけど不思議だ。そういえば、そもそもトレイと話す機会もそう多くない。もっと何か聞けないかと質問を考えているとあっという間に指全て終わってしまった。つまり、ハンドクリームのお裾分けが終わってしまった。

「先輩。終わりました」

 ちょっと惜しかった気持ちが芽生えながら手を離す。自分の手に有り余るハンドクリームは程よく移せたようだ。ついでによく馴染んだから今度何かあったらこうしよう。

「次も余ったらこうしようと思います」
「ああ。次も貰ってやるぞ」

 爽やかな笑みにジャックは「ん?」と疑問に思う。だが、すぐにその場にいたらという意味に辿り着く「じゃ、そのときは」と答えることにする。それにトレイの笑みが深まったような気がしたが付き合いの浅いジャックは分からなかった。


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