トレイ × ジャック

雨宿りの魔法



 ザァザァと一歩踏み出せばずぶ濡れ間違いなしの大雨。獣人属のジャックからしたらなんて不愉快な音。だって、これじゃ人の足音も掻き消されてしまうではないか。僅かに離れた唇で言えば。同じく離れた唇で目の前の男が笑いながら言う。

「こんな大雨、傘を差しても出歩かないよ」

 間近に灰色の交じった黄色の瞳の持ち主がそう言って身体を揺らした。それもそうかと思いながら目の前の瞳を見る。
 熱を帯びた瞳の前には黒縁で囲まれた度の入ったレンズがない。素のままの瞳が間近にある。つまり、偶然に一緒に雨宿りすることになった人はジャックの近いところにいる。何でこんなことになったのか。近い、近い、と思っていたらまたより近くなった。睫の長さがわかるくらい同時に濡れた唇に熱が重なる。血が滲む切れた唇は相手の柔らかい唇が触れる度にピリピリする。それでもジャックはその熱を手放せない。

 ――あれでもなんでキスしてんだ?

 ふっ、ふっ、と慣れないキスの合間に酸欠にならないように必死に考える。すると、記憶はずっと前というほど前ではない時間まで遡っていく。




 急に降ってきた大雨。監督生の用事を終えてオンボロ寮を出ていたジャックは慌て近くに東屋であったろう建物に飛び込む。あと少しで植物園に辿り着けそうであったが雨の強さに抗うことはできなかった。その場所へどこからともなく雨宿りに駆け込んで来たのがトレイだった。
 ジャックと同じくらいまたはそれ以上にびしょ濡れのトレイ。一体何をしていたのかと訊ねれば森にしか生えていない植物の採取に来ていたようだ。なるほどだから実験着を着ていたのか。
 それにしてもお互い凄まじい濡れ具合。ジャックはまだ魔法で衣服を乾かすことができない。仕方なしにジャケットを脱いでさらにワイシャツも脱ぐ。色付きの手シャツ一枚になって濡れて崩れた前髪を掻き上げると。

「すげぇ雨っすね」
「そうだな……」

 貴重品を取った白衣の水気を払うトレイにジャックは首を傾げる。三年生なら魔法ですぐに乾かせるのではないだろうか。レオナならすぐに出来る。副寮長であるトレイなら簡単にできそうだが。それが伝わったのか眼鏡のない状態で苦笑いを向けられた。

「魔法で乾かしたいんだけどな、さっき結構使って来たんだ」
「そうだったんすか。すんません」
「はは、謝るなよ」

 ゴーグルも、眼鏡も、マジカルペンさえもベンチに置く。そして、水気を払った白衣を背もたれにかける。

「何も面白くないと思うんだけどな」
「あ、その、すんません」
「だから謝るなって」

 言いながら僅かに目尻を下げるトレイに居心地が悪くて尻尾の水気を気にするふりをする。いや、実際尻尾はすごく水気を含んでいる。これは絞らないといけないなと絞ると。

「おお。やっぱりすごいな」

 トレイの方から感嘆の声が上がる。ふいっと腕を組んで目を眇めているトレイがいてジャックは目を見開く。

「先輩、すっげぇ眼つき悪いんすね」
「そうかって、お前普通に失礼じゃないか?」
「すんません。でも結構意外で……」

 パッと元に戻ったトレイの顔をまじまじ見つめる。やっぱりその顔つきは鋭かった。いや、鋭いのは目元だけだ。目尻が意外に鋭い。でも、眼鏡のお蔭かトレイが形作り表情のせいか。
 意外だな、とずっと見ていればトレイからの視線が逸れる。何だか目元の方が赤い。もしかして身体が冷えたのか。

「先輩。大丈夫っすか」

 濡れるとはいえまだましなジャケットを持って近づく。顔を覗き込んでみると鋭い目尻がパッと広がった。目が丸くなったトレイが「ぅわ」と後ずさりした。瞬間トレイの体勢が崩れるのがジャックに見えた。

「あぶねっ」

 ジャケットを放りだしてトレイの腕を掴んで自分の方に引っ張る。するとトレイの身体がこちらに倒れて来る。強く引っ張った反射でトレイが飛び込んで来るのは予想できた。それをしっかり踏ん張って抱き留めるが――。

「いッッ」
「いっ」

 トレイの額が唇に激突した。あまりの痛さにお互い声に呻き声を上げる。ジャックはトレイの腕を離してから唇を抑えてじわじわと口の中に広がる血の味に眉を顰める。

「いたた……ぁ、おい! ジャック、大丈夫か!」
「っ、だ、じょ、っす」

 唇を手で隠しながら顔を覗き込むトレイに言う。トレイは額を抑えながら眉を下げる。

「悪かった。すぐに治療しよう」
「いや、おれが、わるかったんで……だか、ら、ちりょ、いいっす」

 平気と首を横に振る。そもそもトレイを驚かせてしまったのは自分。そのトレイを引っ張ったのも自分。寧ろ、ジャックの歯が当ってトレイの額に傷がなくてよかった。

「せんぱ、は?」
「ああ。平気だ、平気だ。いいから少し見せてみろ」

 え、と驚きに耳も尻尾も立てる。でも、トレイは気にしている様子はない。寧ろ、唇を切ったジャックの方を心配してくれている。なんか自然とこう優しい先輩に出会ったのは初めてなのではと痛みで思考がブレブレになっていく。

「ジャック。ほら」
「す、ませ」

 手を外してトレイに見せる。グロくなっていなければいいな。というか、それくらい酷い状況の場合は保健室に行かないと。いや、行ったところでサボり魔の養護教諭はいるのだろうか。
 ぐるぐると考えていると「ああ。よかった」と安堵の声がトレイから零れる。

「唇は切っているけれど深くはない。でも、血が滲んでいるな」
「歯、ぶじっすか?」
「ああ、もちろん。いやぁ、綺麗な歯並びだな!」

 ニカと笑うトレイの無邪気さに何だか力が抜ける。酷い状況でなかった安心もあるけれど歯がぶつかって切れた唇は痛いままだ。

「ぁの、せん――」
「お前の犬歯も尖っている方なんだな」

 八重歯とは違うのか、と観察を始めるトレイ。それにジャックは困惑していく。唇を見るだけだったはずなのに何故こうなった。

「せんぱい、あの血が」
「ん。ああ。そうだな。止血くらいの魔法は大丈夫だ」

 マジカルペンを取り出し呪文を唱えるトレイ。同時に魔法石からカラフルな光の粒が出て来てジャックに向かってぶつかる。痛くはないが反射的に目を瞑る。

「あ、ジャック。口を閉じるな」
「す、すんまッ!」

 ほら、と同時に顎を掴まれ口を開かされた。お蔭で魔法の粒が口に向かってキラキラ降りていくのが見えた。それに口の中の血が薄まったような気もしなくもない。

「ん。これでいいな――にしてもやっぱり綺麗だな、お前の歯」
「は、は?」

 え、自分何されてる。唇の怪我の具合を確認してもらうだけだったのに。止血も終わったのに何故トレイはまじまじと見ている。途端に他人を前に口を開いていることが恥ずかしくなる。

「せ、せんぱっ」

 慌てて顎を掴むトレイの手を掴む。そしてぐっと身体を後ろに引く。トレイと距離が出来た。安心しながらもどこか物足りなさそうなトレイにジャックはドギマギしてしまう。

「あ、ありがとうございました」
「いや、いいさ」

 柔らかく微笑むトレイの違和感。その違和感はきっと眼鏡がない。眼鏡をしていないからだ。だから、いつもと、違うから何だか心臓が可笑しい。そうに違いない。
 雨で濡れた身体の熱が上がるのはそうなんだ。自分自身に言い聞かせて目を逸らす。ついでに唇も隠すと笑い声がした。

「な、なんすか」
「ふっはは、いや、もう見ないから大丈夫だぞ」
「あ、ちげぇ。やっ、その、そうじゃなく」
「ん? 何だ? もしかしてまだ違和感が?」
「違うッす!」

 目を細めて意地悪そうに口角を上げるトレイ。その顔にさえ何だか心臓が反応してしまう。ドキッと跳ねる心臓の意味にジャックは混乱していく。

「ん。ジャック、何だか顔が赤いな」

 大丈夫か。先ほどとは逆にトレイが近づいて顔を覗き込んで来る。まだ眼鏡をしていないトレイが目を細めて見て来る。ぶわっと尻尾の毛が逆立った気がした。

「ジャック?」

 プツン。ジャックの中の緊張の糸のようなものが外れた。
 身体が勝手に動いて身を屈めてトレイに顔を近づけていた。一瞬だけ目に映った灰色の混ざった黄色が笑みを描いたような気がした。



「ふっ、ぅ」

 それからずっと唇を合わせている。ぼんやりとした頭では何も考えられないくらいになっている。酸欠しそうになりそうなほど熱を分かち合う唇。恋人でもないのにどうして。
 疑問がずっとぐるぐる周りながらも離れられない。もう突き飛ばされた方がましだ。トレイから離れてくれと願いながらキスをしていると――耳に雨音ではない音が聞こえた。
 身体が自然と動いてトレイから離れる。

「誰か来るのか?」

 辺りを見回すトレイは何でもない態度だ。ジャックはどうしてと平然としていられるのかと思いながら耳を動かす。そして、辺りを見回すと雨はすっかりと小雨になっていた。

 ――だから人の気配を、音が聞こえたのか。

 息を整えながらジャックはまるで夢が覚めたような心地になってきた。今の今まで自分が目の前の先輩とキスしていたのが夢だと。

「夢から覚めた顔をしているな」

 パッとトレイを見ればいつのまにか白衣を見に纏い黒縁の眼鏡をかけていた。ゴールを首から下げてマジカルペンを胸ポケットにしまっている。いつも見かけるトレイだ。そのトレイが言ったのだろうか。

「夢だと思うか?」

 柔らかいいつもの微笑み。その甘やかな笑みに囚われてしまいそうなそんな気がする。それくらい優しげに見える微笑みが何故か少し怖い。

「風邪引くぞ。お前も早くジャケット着た方がいい」

 シャツはまだだな、と指さすトレイの先を見れば確かにワイシャツはまだ無理だ。なら確かにジャケットだけでも着よう。落ちているジャケットを拾って羽織る。まだ濡れているような気がするけどちょうどいいかもしれない。

「ジャック、またな」

 呼ばれて振り返れば一歩ボロの東屋を出るトレイがいた。肩越しに振り返っていたトレイは目尻を下げて前を向いて歩き出した。その背中をジャックは暫く見送る。

「いや、やっぱ、夢だよな」

 見えなくなった背中に安堵しながら自分の唇に触れた。
 ジャックが東屋を出るころにはすでに雨はすっかりと上がり大きな虹がかかっていた。


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