フロイド × ジャック

生き苦しいオレに 生命いのちを吹き込んで



 無性に水を求めてしまうことがある。しかたない。何せ自分は〝人間〟ではなく〝人魚〟なのだから。それも深い、深い、深い、太陽の明りも届かないところ。凍えるような深海で育った人魚。どうしようもなく水を求め恋しがってしまうのは性だ。

 フロイドは長い足で学園内をさ迷い歩いていた。あっちへ、ふらふら、こっちへ、ふらふら。自分自身が求める場所を探し歩き続ける。けれど、一向に見つからない。

 そもそも、だ。フロイドはぴたりと足を止めて茜色に変わり出した空を仰ぐ。フロイドが求める〝水〟を求めるなら寮に帰るのが一番だ。何せオクタヴィネル寮は海中にあるのだ。そこへバシャンと飛び込めばいい。なんなら、モストロ・ラウンジの水槽に飛び込むのだっていい。

「あ~、ちげぇんだよな」

 顔を再び正面に戻し頭を掻く。違う。フロイドが求めているのはいつもの場所ではない。では、一体自分は何を求めて当てもなく歩き続けているのだろう。

 いつもならズバンと突き抜けるような直感があるのに今日はない。自分の考えがクラゲのようにふわふわしている。はっきりとしない欲求はついに苛立ちへと生まれ変わってしまった。

「チッ」

 人知れずに舌打ちをすると「随分機嫌が悪ぃな」と低い声をかけられた。「あ゛?」と不機嫌な声に返事をして前方を見る。
 道のど真ん中を陣取っていたのはジャック・ハウルであった。フロイドとほぼ同じ身長だが、体格はひと回りか、ふた回りは彼の方が上回っていた。その大きな身体が道のど真ん中を陣取っているとかなり邪魔だということが客観的に見てよくわかる。
 道のど真ん中を陣取っているジャックはフロイドを見ると顔を顰めた。
どい

「どつもこいつも何で回れ右して避けるのかわかったぜ」

 腕を組んで首を振るジャックにフロイドは「チッ」ともう一度舌を鋭く鳴らす。今苛立ちの最中なのだ。その中、四角四面で融通の利かないオオカミなんかと話したくはない。フロイドはそのまま横を通り過ぎようとするが――。

「おい。ちょっと待て」
「ンだよ」

 腕を掴まれて足を止められた。苛立ちから出た尖った声を出し、ほぼ真横にあるジャックの顔を見る。鋭く睨んでもジャックの顔は全く変わっていない。凪いだ水面に映り込んだ満月のような瞳でじぃっとこちらを見つめる。
 その瞳にささくれた心が撫でられたように落ち着いていく。顔の中心に集めていた力を抜いてフロイドもその瞳をじぃっと見つめ返す。

「具合悪そうっすね。保健室行くか?」
「別にそういうんじゃない。ただ、ちょっと行くところ探していただけ」
「行くところ?」

 「うん」頷きフロイドは少しだけ腕を振る。すぐに離せと理解したのかジャックがあっけなく手を離した。代わりに今度はフロイドがジャックの手首を掴む。

「ちょっとさ。一緒に探してくんねぇ?」
「……まぁ、いいぜ」

 一瞬斜め上を見たが彼は意外にあっさりと承諾してくれた。心の片隅で「嬉しい」と歓喜する自分がいた。

「んじゃ。行こっかぁ」

 頬が緩み、眦が下り、顔が緩んでしまう。心の片隅に生じた歓喜が顔から滲み出行く。もう嬉しくってしかたない。身体が今にも踊り出したくなる。

「なんすか。いきなり機嫌よくなりましたね」
「うん? う~ん。うん。機嫌いいかもぉ」

 掴んでいた手首からするりと手を移動させて大きくて分厚い手を握る。彼の手は体格と同じように大きい。フロイドの薄い手と全く違う。

「あんたの手冷たいな」
「そうかなぁ。ウニちゃんの手は大きくて温かいね」
「っすか……つか、男同士で手繋ぐのって」
「やだ?」

 ずいっと満月の瞳を覗き込む。満月には自分が映り込んでいた。とっくりと瞳の中の自分を覗き込み続けていると、不意に満月は三日月になった。
 鼻にかかえるような笑い声を出すジャックから離れる。

「なに?」
「いや。何が面白いんだかって」
「んー。別に。面白くねぇよ」
「そっすか」

 フッと小さく笑うジャックを見たのは初めてかもしれない。普段の彼は口を真っ直ぐに引き結びオオカミらしく鋭い眼差しをしている。けれど、今は柔らかな月明りを零す満月そのもののようだ。柔らかい表情も、空気も、何もかも。

「ウニちゃんも、そういう顔すんだね」

 言った瞬間、ジャックはいつも通りの顔に戻ってしまった。先ほどの柔らかな彼は鳴りを潜めてしまった。残念と肩をすくめる。

「……で。どこに探しに行くんだよ」
「あ。そうだった」

 言われてすっかり頭の中で抜け落ちていたことが戻って来た。フロイドはジャックの目を再び真っ直ぐ見つめた。

「オレ、ずっと探してたんだよ」
「何を」
「水」

 「水?」不思議そうなジャックに首を縦に動かす。フロイドは水場を探していた。いつもの場所ではなく。違う別の水辺を探してさ迷い歩いていた。行く当てもない場所探し。何も考えずに探していたから一向に見つからなかった場所。恋い焦がれる場所に辿り着けず腹立たしさに苛ついていたときにジャックに鉢合わせたのだ。

「はぁ。水辺なぁ。行きつくしたのか?」
「たぶん。でも、この学園まだ知らないところあるかもしれねぇし」

 フロイドとてまだ二年生だ。学園内のことはそれなりに把握しているが全てではない。あのアズールや、ジェイドだってきっと完全に把握していない。だから、恋しい場所を探す足が止まらなかった。

「そうか……なら、いいところ知ってるぜ」
「え」

 パチリ目を瞬かせる。目を細めて真一文字だった唇の端を上げるジャックを目にしたのは初めてだった。生真面目な青年も悪戯っ子みたいな少し意地悪そうな顔もするのか。

「ほら。行くぜ、フロイド先輩」
「うん」

 フロイドが握った手をジャックが引っ張り出して歩き出す。一体どこにフロイドを連れていってくれるのだろう。そもそも一年生のジャックが二年生のフロイドが知らない場所なんてあるのだろうか。
 身体の中心に近い部分。心臓があるところがソワソワしだす。一年長くいる自分の知らない場所を紹介される楽しみ。

「ウニちゃ~ん。どこに行くの?」

 握った手をくいくいと引っ張る。ジャックは「秘密だ」としか返してくれなかった。フロイドはそれに文句はない。ただ、何となく聞いただけだったからだ。それに場所を教えてもらっては楽しみが半減してしまう。

「そっかぁ。楽しみにしてる」
「そうしておいた方がいいっすよ」

 クスクス笑うこともあるのか。今日のジャックはフロイドが知らない顔を、声をよく見せて、聞かせてくれる。

  ――他の奴らはとっくに知ってんのかな?

 彼の仲のいい一年生たち。彼が所属するライオンとハイエナの先輩ら。フロイドより長く時間を共にしている人間たちは先に知っているのだろうか。想像して心臓の居心地が悪くなる。身体にも嫌な力が入って彼の大きな手に力を込めてしまった。

「フロイド先輩?」
「何でもねぇ」

 肩越しに視線を寄越すジャックに首を振る。「そっすか」不思議に思うことなくジャックは間を見た。何か言われなくてよかった。安堵してから力を込めてしまった手の力を抜く。爪は立てていなくてよかった。傷つけるのは本意ではない。
 はた、とフロイドは自身の不思議な思考に気づく。

  ――傷つけたくないってなんだし。

 何故そんなことを考える。なぜ大切にしたいと考える。
 フロイドが大切にしているのは〝面白いか〟どうかだ。面白くなければすぐに捨てる。視界にだって入れない。この学園は面白いが溢れているから好き。授業は面倒くさいが。ジャックもその一部だと思っていた。珍しいから構っているだけの一年生の一人にすぎない。もっと言えば面白さでいえば監督生だ。あれに勝るものは早々ない。

 だのに、フロイドが興味を持ち大切にしたいと思った。そこまで想うのは片割れのジェイド、面白いことを提供してくれるアズールだ。
 このジャックはなんだ。なぜフロイドの大切な部分に入っている。
 フロイドの頭は再び水場を探すことがすっかり抜け落ちた。自身の手を引く後輩を傷つけたくない、大切にしたいと考えるのでいっぱいになった。
 直感で行動するフロイド。その直感は基本的に外れず、フロイドが考える楽しいことに導いてくれる。直感的に考えたことをだから真剣に考えたことがない。

  ――ぜんぜんっ、わかんねぇ。

 あっさりと思考を放棄した。考えることをやめてはいけないのはわかる。しかし、わからないことはわからない。わからないならばそのまま少し置いて置くといい考えが浮かぶ。フロイドはとりあえずむずむずする感情を置いて置くことにした。

 ふぅ、と息をついたところだった。「フロイド先輩、大丈夫っすか?」心配げな声でジャックに訊かれた。訊かれた内容にフロイドは目を瞬かせて答える。

「全然だいじょーぶ」
「よかった。なんか不気味なほど静かだったんで」

 「あんた、お喋りのイメージが強いから」ジャックの言葉にフロイドは心外だった。

「おしゃべりなのはアズールじゃん。オレはアズールみたいじゃないし」
「あんたも結構口数多い方っすよ」
「は? そんなことねぇし」

 心外、心外、心外、という念を込めればからりと笑われた。また、だ。フロイドは自分の知らない笑い声に心臓がざわざわした。

「ウニちゃんも笑うんだね」
「俺も面白ければ笑いますよ」
「それこそ意外ぃ。だって、ウニちゃんいつも唇真っ直ぐじゃん」

 見てはいないだろうが真似をしてみせる。ジャックはいつも口を真っ直ぐ引き結んでいるか、への字にしている。時折、牙を剥いてこちらに威嚇することもある。思い起こせばフロイドはジャックが笑った声も、顔も知らなかった。

「オレ、初めてだったな」
「いや。あんたらがいつもおちょくるからっすよ」

 「そんな相手に笑かけませんし」と塩っけたっぷりに答えるジャック。フロイドからすればおちょくった記憶はない。

「えーしてなくね?」
「はぁ。自覚なしか」

 自覚もなにもしていないのだからない。フロイドからすればそこでする行動はすべて思うがままだ。相手のことの反応が面白ければ一番面白いが気にしていないときもある。自分が面白ければいいのだから。
 さて、いつまで歩き続けるのか。気づいたことをすぐに口に出そうとすると身体に衝撃がくる。

「いってぇ。ウニちゃんいきなし止まんなよ」
「あ。すんません。でも、ここなんで」
「は?」

 ここと言うが目の前には林だ。何もないとフロイドが目を眇めた瞬間だった。景色が僅かに歪んだ。凪いだ水面に小石を投げたように一瞬だけ歪みが現れた。

 よく見たくてジャックの横に立って林を見つめる。でも、波紋は出来なかった。フロイドはジャケットの胸ポケットからマジカルペンを手に取る。そから呪文を小さく呟く。魔法石から妖精の通った後のようなキラキラした粒が出てぶつかる。途端、波紋がぶわっと広がる。結界であると見当をつけると、波紋の奥に茶色い扉を見つけた。
 ピンとフロイドの頭の中の引き出しが動いて紙が出る。

「あれって魔法の扉?」
 横に立つジャックを横目に言う。ジャックはニッと笑って「流石っす!」と答えた。どうやら当たったらしい。
「へぇ。こんなところに魔法の扉かぁ」

 「全然知らなかった」と囁けばジャックが得意げに説明する。

「俺もこの前見つけたんすよ」

 ジャック曰く、この近くはランニングコースらしい。少し休憩しようとしたときにこの波紋を一瞬目にしたらしい。

「でも、開かないんじゃない?」

 フロイドは魔法の扉があるところを触れる。そこからブワブワと波紋が広がる。その波紋はカモフラージュするための結界魔法の一種だろう。つまり、この結界を解かないと奥にある不自然に林の中にある魔法の扉に辿り着けない。けれど、態々ここに彼がフロイドを連れて来るということは――。

「開けられんの?」
「うっす!」

 後ろの方で何かが動く気配がした。きっと彼の触り心地のいい尻尾だろう。そこまで得意げなのと思う。随分とこのオオカミが可愛く見える。

「へぇ。んじゃ、開けてみてよ」

 「さぁ、どうぞ」恭しげに手を扉に向ける。ジャックもそれに「じゃ頑張ります」言って大きく一歩前に出る。
 反対にフロイドは一歩下がって頭の後ろで手を組む。面白なってきた。ワクワク心臓が再び躍り出す。ニヤニヤする唇のまま目の前の大きな背中の後輩を見る。

「いつでも助けてあげるよぉ」
「対価エグそうなんでいいっす」
「ざぁーんねん!」

 ハハと笑うとジャックの腕が動く。しかし、その手にマジカルペンがない。あれ、と思う前にジャックの腕が先ほどの結界に向かって動く。
 ドン、と結界に拳をぶつけた。何と物理。ジャックは物理的に結界を壊そうとしている。

「力技かよ!」

 滅多にしない普通のツッコミをしてしまった。フロイドは自分の反応素人臭さにすぐに口を閉じる。いや、それにしてももっと厳かなものかと思えば力技。

  ――やべぇ。ウケんじゃん。

 冷静になった頭で考えるとすごく笑える話だ。フロイドは唇がむずむずして結局我慢が出来なかった。

「ギャハハハッ! ウニちゃん! 物理はねぇだろ!」
「いや。意外に物理なんすよ」

 「ほら」と結界の前から身体を避ける。その光景にフロイドは笑い声を上げていた口をあんぐり開けた。あの波打つ結界が壊れて宝石を散りばめた扉が出現しているではないか。

「はぁ? 嘘だろ?」
「最初は俺も思いました。けど、ヒントくれた人が言うには魔法は使わないらしいんで」

 「拳でやってみたら意外に」と肩をすくめるジャック。フロイドもこの結界作った奴やべぇと思った。色々やべぇと。
 世の中まだ面白いことに溢れている。改めて実感したらフロイドはずかずか前に進み出て魔法の扉の前に立つ。金色のドアノブを掴んで捻って見るがガチャガチャと言って開かない。

「鍵かかってんね。これも物理?」
「いや。それはこれっすよ」

 ジャックの方に目を向けるとマジカルペンを持っていた。やはり、ここは魔法なのかとフロイドはドアノブから手を離して離れる。

「どーぞ」
「うっす。んじゃ――」
「え?」

 ジャックはマジカルペンを扉の中心の方に刺した。それから捻るとカチャと音がした。

「はぁあああ? そっちぃ! それマジなの!」
「まぁ。学生なら全員持っていますしね」
「ガバじゃん! ガバガバじゃん!」

 なんてことない感じのジャックだがフロイドは驚きっぱなしだ。面白しろさ越えてここを隠した意味はあるのか。頭を捻るレベルだ。

「鍵も開けたし入るか」

 ガチャと大きな手でドアノブを捻ると確かに動いた。

「これでいいのかよ……」
「俺は考えるやめたっすよ」

 何か遠くを見るジャックにフロイドも考えるのをやめた。きっとそうした方がいい。けれど、面白いからあとで色々調べよう。何せ、まずはこの先をフロイドは知りたい。

「ここが俺の知っている、とっておきの場所っすよ」
「ッ!」

 ガチャ――開いた扉の奥から風が吹き込んで来る。咄嗟に目を閉じて風をやり過ごす。けれど風はずっと強い。これはヤバイとフロイドが薄目を開くと同時に腕を引かれた。

「このままなんで俺が先導するっす」

 ぐいっと強い力で風の中に引き込まれる。たたらを踏むようにフロイドは風の中連れて行かれた。
 扉を潜る瞬間、ぶわっと風が爆ぜた。もう一度目を瞑って風が行くのを待つ。風は刺すような痛みはないが髪はきっとぼさぼさになるに間違いない強風。
 うげぇ、と心の中で呟くと肌に当たる風が止んだ。恐る恐る目を開いて目を慣らすと――そこには高い空と大きな湖が広がっていた。

「は?」

 ポカンと間抜けに口を開き、目を瞬かせる。

「ウニちゃん、ここどこ?」
「さぁ。知らないッス」
「はぁ?」

 とっておきの場所なのに知らないってなんだ。フロイドは隣に立つジャックを直視する。視線を感じたジャックは肩をすくめて苦笑する。

「いや。知らないんすよ。ただ、俺があの魔法の扉を潜るときに〝水〟の多い場所って考えたらここに繋がっただけなんで」
「ああ~そっかぁ」

 フロイドはすっかりと失念していた。魔法の扉は扉を潜る者が望む場所へと道を開く道具だ。魔法の鏡に限りなく近いとされているが厳密には違うとも言われている。

  ――ウニちゃんの潜在意識から魔法の扉がここを選んだってことか。

 彼は輝石の国の雪深いところの出身だと聞いた。ならば、海よりも湖の方に親しみがあったのかもしれない。異なる環境に住めば〝水場〟の認識も変わる。当たり前のことなのに何故か背中がむず痒くなる。

「で。フロイド先輩。近くに行ってみるか?」
「うん」

 まだ繋がれたままの手に引かれて歩く。いつまで手を握っているのか。そもそも握っていることに違和感がなくなってジャックも気にしていないのか。ふらふらと振ってみても離れないし、彼は何も言わない。

 馴染み過ぎない。誰かとも普段からこうなの。考えて馬鹿らしいとすぐにフロイドは得も言えぬ感情を振り払う。
 今日は変な方向に考えが向かう。なぜだろう。直感で生活している自分にとってこうして細かく考えることは苦手だった。

「うわ。すっげぇ透明度だな」
「ん?」

 ジャックの声に意識を戻すと空気の水気が強くなった気がした。それもそうだ。湖が眼前にあるのだから。
 フロイドは湖を見下ろすと小さな小魚が悠々と泳いでいるのを見る。海で見たことがない小魚は淡水魚なのだろう。

 こんなところで呑気に泳げているなんて気楽なヤツだ。フロイドとジェイドが生活していた深海は生き残るのにも大変な場所であったのに。
 その平穏な場所を少しでも乱してやろうか。屈んでフロイドは袖が濡れるのも気にせずに透明度の高い湖に手を突っ込む。

「おい! フロイド先輩! 袖!」
「気にしなぁい、気にしなぁい!」

 バシャバシャと湖に突っ込んだ手は急速に冷えていく。深海のような鋭いすべてを凍らせるような冷たさはない。程よく人間の身体を冷やしてくれる居心地の良さだった。

「お気楽すぎぃ」

 バシャンッと最後に水を掻き上げるようにえ手を前に動かす。キラキラと輝く水粒は海のものと変わらなかった。ついっと湖を再び見れば小魚はいなかった。すぐに逃げるほどの危機感は備わっているようだ。

「ふぅん」

 よくわからない声を出してフロイドは再び水に手を突っ込み遊ぶ。

「あの、気に入らなかったっすか?」
「ん?」

 ついっと斜め上に視線をやれば身を屈めたジャックがいた。その顔はいつもの凛々しさがない。大きなオオカミの耳がしょんもりと下がっている。凛々しい眉も八の字で鋭い目尻も情けなく下がっている。もう全体に情けない顔をしているのだ。生意気なオオカミが。

 くふっとフロイドは笑いが零れる。彼が献身を向けるのはハイエナか、ライオンだけだと思った。けれど、どうだ。今彼の献身はフロイドにだけ向けられている。
 身体がむずむずして、ふわふわしてくる。

「ねぇ。ウニちゃん、踊ろっか」

 「え」ピンと大きな耳が立つ。やっぱり立っている方が可愛い。
 フロイドは「よいしょ」と長い足で立ちあがり彼の腕を取る。そして、片手にマジカルペンを回して足に向けて呪文を唱える。

「forzen―凍結―」

 「え。おい!」と非難めいたジャックの声がした。けれど、フロイドはお構いなしに靴にある魔法をかける。同じようにフロイドはジャックの足元にも魔法をかける。

「よし。んじゃ、行こっか!」
「ちょ、フロイド先輩!」

 彼の腕を掴んで透明度の高い湖に駆け出す。
 一歩踏み出すとピキンと湖が高く鳴いた。その音にフロイドはジャックににぃっと笑いかける。ジャックは驚いた顔をして足元を見ていた。その足元にはきっと雪の結晶が花開いているのだろう。

「驚いた?」
「すっげぇ。これ、どうやって……」
「フフフ。湖を凍らせるのもいいけどさぁ。せっかくだし上歩きたいじゃん?」

 だから、靴に氷の魔法をかけてみた。でも、靴が凍る魔法ではない。靴底が触れた場所を凍らせる氷の応用魔法だ。

「すっげぇな!」

 パッとこちらに向けられた金は満月のように丸くなっていた。キラキラ魔法の粉のような輝きにフロイドは眩しくなってくる。ふいと視線を逸らしてジャックの腕を引く。

「ほら。踊ろうってば」
「え。そ、それは」

 尻込みするジャックの腕をするりと撫でて手を取る。

「だーいじょうぶ! どこまで行っても魔法は解けねぇし。オレがリードしてあげる」

 「オレを信じてよ」言って前に一歩踏み出す。ピキンと足元に花開く雪の結晶。二人の歩いたところに、踊り回った後に出来る結晶の花。




 どれくらいフロイドはジャックと共に踊っていただろうか。最初こそ、おぼつかなかったジャック。今ではフロイドの好き勝手なステップに上手く着いてきている。

「ウニちゃん、随分上手になったねぇ。えらい、えらい!」
「そりゃどうも」

 フンと鼻を鳴らすジャックにフロイドは笑かける。

「な、なんすか」
「うーん。なんでも!」

 もう少しこの時間を楽しみたいけどそろそろフロイドの体力が限界だ。

  ――やだな。

 楽しい時間はあっという間に終わりを迎える。嫌だなと思っても終わりは終わりだ。楽しく刻んでいたステップを止める。つられるようにジャックの足も止まる。

「もう。お終いっすか?」
「うーん。そう」
「帰りましょうか」
「そーだね」

 早く畔に戻らなければ魔法が解ける。だのに、フロイドの足どりも、ジャックの足どりもゆっくりとした足取りであった。
 足元で鳴り響く音が小さくなっていく。小さく、小さくなって――。

「あ」

 小さな声はどちらのものだっただろうか。足元がいっきに崩れる瞬間に声が出た。足場を失くした身体はそのまま湖に吸い込まれていく。
 綺麗にすいっと落ちたためか水音がしなかった。フロイドは久々に水に包まれる感触に襲われた。圧迫される感じと不可思議な浮遊感。人魚では得られない感覚だ。すると、久々に人魚に戻りたくなった。欲求のままに戻ろうかと考えたが、それを邪魔した者がいた。
 ぐいっと強い力に身体が引っ張られる。

  ――なんだよ。

 苛立ちに水中で目を開けてもぼんやりとし見えない。けれど、白いぼんやりとした者が見えた。そのぼんやりとしたものが何か上に向けて動いているように見えた。

 「何だ。あれは」一瞬考えてすぐに見当がついた。ジャックだ。そうだ。湖に吸い込まれたのはフロイドだけではない。ジャックも一緒だ。
 彼を呼ぼうとするとゴポゴポと口から空気の泡が零れる。忘れていた。今の自分は人魚ではない。人間だったのだ。
 咄嗟に口を手で覆う。少し息苦しくなった。このままでは息も続かない。そう。息が続かない。

  ――このまま陸に上がっても苦しそう。

 途端に浮上するやる気がなくなる。やる気がないと身体は動かないのだ。フロイドは唇から手を離して唇を開く。ゴボゴポと自分の口から信じられないほどの生命の空気が逃げていく。苦しいけれどなんかどうでもいい。
 フロイドは目を閉じて身を任せて沈もうとしたけれど――。

「ッ!」

 逃げていく生命の息を留めるように唇が塞がれた。そして、逃げた分同じだけの生命いのちが吹き注がれた。いらないのに無駄なことしてくれる。唇を塞ぐそれに尖った歯を立てる。けれど、唇は塞がれたままだ。

 しつこい、ともう一度強く噛みつくが唇は離れない。唇を塞ぐ本人と同じくらい頑固だ。当たり前だ。フロイドの唇を塞いでいるのはジャックなのだから。
 息苦しさが納まると身体を強く引っ張られる。底から逃げるように引っ張られる。嫌だと抵抗も諦めて大人しく浮上することにした。

「はぁっ!」
「ぶはっ!」

 二人一緒に水中から飛び出し、噎せて咳き込んだ。
 人間状態の水中は苦しかった。潜るならやっぱり人魚の姿が一番だ。今度はそうしよう。先ほどの薄らぐらい感情を一人で払拭していると肩を強く掴まれた。

「何してんだ!」

 「なにすんの」と言う前に怒鳴られた。「うるせぇし」と言い返そうとしてできなかった。ジャックの顔が酷く歪んで――満月が濡れていた。濡れているから泣いているかわからない。けれど、彼は今泣いている。

「ごめん。ごめんね?」

 フロイドは引き攣ったジャックの目尻を拭った。拭ったそれは涙かわからない。

「はっ。はぁ、はぁーはっ。あんたっ、が、死ぬのかと、思ったぁ」

 痛々しい唇で怒りを零しながら恐怖に震えるように囁く。何故だろうか。とても彼が可愛くて愛おしくて仕方がなくなった。
 フロイドは衝動に抑えられず痛めつけた唇にもう一度唇を重ねた。その唇はとても冷たくて、血の味がした。これがフロイドの忘れられないファーストキスの味になった。

 最後に離れるのを名残惜しむように食んで唇をゆっくりと離れる。間近に見えた真ん丸の金の瞳に笑かけ、溶けて消える様な声で愛を紡ぐ。
 目を丸くさせるジャックにフロイドは「ねぇ、返事」と催促する。

「へ、んじ?」
「そ。恋人になって? なろう? やだ?」

 攻め立てるように答えを催促する。フロイドの勘は大丈夫だというのに安心できない。答えが早くほしい。確信がほしい。自分の手を取ってほしい。

「ね。どう?」
「……ぅ、あ……はぃ」

 ジャックらしくない彼の鳴くような声の返事。でも、フロイドにはそれで十分。

「へへ。じゃ、これからよろしくぅ~」
「っす」

 素っ気ない返事で恥ずかしげに視線を逸らすジャックがとても可愛らしい。

「ウニちゃんったら随分可愛いね!」
「う、うるせぇっ! っくし、ふっくしっ」
「そろそろ上がろっか」

 くしゃみを繰り返すジャックを見てフロイドは彼の腕を取る。それから慣れたように引っ張っていく。思いのほか、畔は近くすぐに陸に上がることが出来た。

「びしょ濡れぇ。よいしょっと」

 マジカルペンを一振りすれば服は綺麗に乾燥していく。まだ、習っていないだろうジャックにもフロイドはマジカルペンを向けて魔法をかける。

「ありがとうございます」
「いいよ。さ、戻ろっか」

 頭を下げるジャック。目の前に現れた頭をぐしゃぐしゃに出てやる。「やめろ」すぐに手を払われて睨まれた。

「恋人なのにぃ」
「うっ。そ、それはそれ! これはこれだ!」
「なに! それ!」

 笑えると腹を抱えて笑う。

「っ! うるせぇな! 帰るぞ!」

 あまりにもフロイドが笑うからジャックは怒ってしまった。背を向けて足鳴らしながら扉に向かっていく。その背中を目尻に涙を拭って追いかける。
 先に扉を潜るジャックに続こうとして一度振り返る。

「じゃあね」

 誰にもなく別れの言葉を囁いてフロイドは扉を潜った。瞬間その青空が黒いシミに覆われていく。美しい湖はゴポリと黒く濁ってインクのようなとろみを生み出す。
 誰もが見惚れる美しい世界は瞬く間に黒いインクにかき消されていった。

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