月は恋をした
今日も変わらぬ朝。だが、刀剣男士歌仙兼定はその朝に変化を欲していた。
歌仙は華やかな戦装束ではなく内番服に身を包み足音荒々しく廊下を歩いていた。その姿に寝ぼけ眼の刀剣男士たちは目を覚まし大人しく道を譲っていく。そして、彼の向かう先にある部屋を思い出してひとつ苦笑を零した。
さて、爽やかな朝に雅の欠片もなく進んだ歌仙はとある部屋の前で足を止める。
穏やかな顔つきを険しくさせ彼は声を張り上げた。
「主っ! 朝だよっ! 一体、君はいつまで寝こけているつもりだいっ!」
ぴったりとしまった襖に向かって声をかけるも返事はない。
返事のないことはいつもと同じ。歌仙は眉間の皺をこくしながらもうひとつ声をかける。
「主ッ! いい加減にしないかッ! 遅刻すると何遍言ったら済むんだいッ! 主ッ!」
両手を腰に当ててもう一度叫び。だが、悲しいかなそれに答えはなかった。
歌仙の蟀谷に青筋がひとつ浮かぶ。形のいい唇の端は痙攣している。多くの仲間が見たら回れ右をしてそっとその場を去って行くほどの形相である。
痺れをきらした歌仙は襖に手をかけて勢いよく開いた。
「主っ! 起きろっ!」
「ふぇぁっ!」
襖の思いきり開く激しい音と歌仙の叫び声に部屋の主は間の抜けた声をあげて飛び上がった。
掛布団を跳ねのけながら起きた部屋の主に歌仙は腕を組みむすっとした顔で声をかける。
「主、朝だ。起きろ」
「ぅうん。あしゃぁ?」
眠り眼を擦りながらこちらを振り向く主たる少女の間抜け面に歌仙の怒りは若干納まる。初期刀馬鹿とでもいうのだろうか。それとも世話焼き心がついたのか。ここまで無防備な姿を晒されていると何とも言えない複雑な気持ちになる。だが、歌仙は心を鬼にして眉間に皺を刻んだまま声をかける。
「そう。朝だ。時間で言えばすでに八時近い。君の寝ぼけた頭でもこの意味は解るだろう」
「はちじぃ?」
「8時だよ。朝の8時」
「…………うっそぉぉぉぉ!」
暫くの間が空くと歌仙に少女は文字通り飛び起きた。
響く声に耳を塞ぎながら歌仙は慌てふためく少女に深い溜息を零す。
「どうせ遅くまでゲームでもしていたんだろう。まったく!」
ギャーギャー騒ぎながら身支度を始める主に歌仙は気づかれることなく襖を閉めた。
「もー! なんで、歌仙さん起してくれなかったのよぉ!」
襖を閉めたときに理不尽な文句も慣れたものだ。
怒りと呆れを混ぜながら歌仙は絞り出すように言い返す。
「僕は一応起こしたよ。でも、君は涎を垂らして寝ていただろう」
「涎……ちょっと! 勝手に部屋に入って乙女の寝顔を見るなんてありえない! 歌仙さんのエッチ!」
「ぐっ。何がエッチだ! 僕はそんな無礼はしていない! ただの予想だよ! というか、その言い方だと君は年頃の娘の癖に涎を垂らしてはしたない!」
「う、うるさいーい! ああ! やっだぁ! もう、歌仙さんの所為で髪の毛ほどけちゃったじゃない!」
「僕の所為にするな!」
襖越しにギャーギャーやり取りをするのももはや日課である。
その様子をとうに朝食を済ませ内番やらを始める仲間たちは微笑ましいと顔をする者、心底呆れた顔をする者といった感じで見ている。そして、暫らくすると歌仙が静かに閉じた襖が勢いよく開いた。それと同時に歌仙はさっと退く。
「きゃぁ! また遅刻しちゃぁぁああっ!」
飛び出してきた金糸の綺麗な髪を振り乱す少女はどこかに躓き体勢を崩す。
想定されたことに歌仙はすぐに少女の身体を抱き留める。
「はぁぁ。君は学習能力がなさすぎる」
「ぅぅっ、すいませ~ん」
申し訳なさそうに首を垂れる少女に歌仙はもうひとつ深い溜息を吐いて立たせてやる。
それに主が振り返ってぱっと華やかな表情を向けた。
「歌仙さん、ありがとう! あと、おはよう!」
「どういたしまして。あと、おはよう」
先ほどまでの怒りや呆れやらを吹き飛ばす少女の笑顔に歌仙は心の中で苦笑を零す。何だかんだ歌仙は彼女に甘いのだ。こうしてあっさりとほだされてしまうのだから。
一瞬漂う甘い穏やかな空気に歌仙はすぐに我に返る。
「主! 呑気に挨拶している場合じゃない! 早く弁当を貰って門に行かないか!」
「はっ。そうだ! ああん! また朝ごはん食べられない!」
途端に泣きべそをかく主に歌仙は再び呆れた感情が込み上げる。
「君が寝坊しなければ済む話だろう」
「そうだけどぉ~」
「言い訳は無用。いいから、早く行った!」
くるんと主の身体を回して背中をトンと押し出す。
「はぁい。じゃ、いってきま~すっ!」
「いってらっしゃい」
泣きべそ顔から再び愛らしい笑みを浮かべた主に歌仙は手を振って見送った。
きっと、また躓いてこけるのだろうなと予想できるほどの慌ただしい少女――月野うさぎこそが歌仙たち刀剣男士を励起させた審神者であった。
* * *
慌ただしい朝学校までの護衛の刀剣男士と別れたうさぎは絶賛廊下に立たされていた。
刀剣男士にまさかのお姫様抱っこまでしてもらいながらもやはり遅刻は遅刻であった。さらに、遅刻での注意を受けて朝食抜きで腹が減ったうさぎは早弁をしてしまった。それこそが現在うさぎが廊下に立たされている理由だった。
「もう! ちょっとくらいいいじゃないの。ちょっとくらい。先生のケチっ」
「月野さん、あなたの独り言聞こえているわよぉ」
「げぇっ!」
呼ばれた名に前方の入り口を見ると教室から顔を出している担任がいた。それにさっとうさぎは顔を青ざめさせた。
ぶすっと不満たらたらに文句を呟いているところをばっちり訊かれてしまったようだ。
「あ、あの~、えへへっ」
「もうしばらく立ってなさい!」
「あっ! せんせぇ!」
弁明しようにも担任にあっさりと見放されてしまった。
うさぎは肩を落としながら後ろで腕を組んで目の前で葉桜に成り駆けている桜並木を見つめる。
「春も終わりかぁ」
淡く色づく花びらが散り逝く姿を見ながら妙な感傷が湧き起る。
ついこの間、高校に入学したうさぎは中学生の頃よりひとつのお役目をしていた。それが、刀剣に宿る付喪神を励起させ歴史を改変とする歴史修正主義者の朔行軍と戦うことであった。物に宿る付喪神を励起させる者を審神者と呼ぶ。本来であれば18歳以上のみと年齢制限を設けられていたがうさぎが生れた時期より戦いは苛烈を極め、年齢制限が撤廃されたのだ。
故に今の審神者は生まれたばかりの乳飲み子から年配の方々と幅広い。うさぎもまた中学生の頃に「力」の検査により審神者へと招集されたのだ。
実際に戦いに身を投じるのはうさぎが励起させた刀剣男士たち。審神者も短時間であれば出陣可能ではあるが多くは役立たずとなり多くの審神者は本丸で待機している状態だ。それがうさぎにとってはとても歯がゆかった。
自分はのうのうと護られるだけの存在である。皆と出陣できても役に立たず足を引っ張るだけ。それが審神者になったばかりの頃はとても歯がゆかった。そして、今もそれは変わらない。こうしてうさぎが高校に通えるのも朔行軍と戦ってくれている刀剣男士たちのお蔭だ。
うさぎは目の前の散り逝く桜の花びらを見つめながら悔しさに奥歯を噛む。
自分はどこまでも護られる存在であるのだと見せつけられている気分であった。
何故、力がないのか。何故、無力にも近い自分でしかいられないのか。どうすれば彼らと共に戦えるのか。何度も、何度も自問自答した。だがしかし、答えはでない。どうしようもなく無力な自分がうさぎは嫌いであった。
「前、みたいに力があれば……っ」
その呟きにうさぎは我に返る。そして、唇を抑えて難しい顔をして見せる。
うさぎは物心ついた頃から「前みたいに」と呟く癖があった。
前とは一体いつのことを指しているのか。だが、その答えは自分でもなせない。しかし、一度初期刀で歌仙に相談したところ彼はひとつの答えをくれた。
「それは所謂――前世というものではないかな」
それにずっとうさぎの周りに纏わりついていた霧が晴れたような気がした。
前世という言葉は妙にしっくりときたのだ。記憶にはないが時折襲いくる既視感は前世のことが関係しているのだと納得する自分がいたのだ。だが、力があると思う前世は一体どのような自分だったのかうさぎは予想がつかなかった。もしかして男だったのか。そして、誰かの先頭に立つような武将だったのだろうか。全く想像できない前世にうさぎは首を幾度も傾け続けた。
今も続く前世への自問自答。いつか思い出す日が来るのだろうか。それはすごく恐ろしいような気もする。同時に、どうしようもなく思い出したくなる前世。
「一体、あたしに何があったんだろう」
しかし、その思い出せない前世のきっかけをひとつうさぎは知っていた。
そのきっかけは天下五剣に選ばれ最も美しいと称される刀剣男士――三日月宗近であった。彼を見かける度にどうしようもなく魅かれて、心が揺さぶられると同時に酷く痛かった。
早く迎えたいようなそうでないようなもどかしさによりうさぎの本丸に三日月宗近はいない。現在励起可能な刀剣男士を迎えながら彼だけいないのだ。
誰もが不思議に思いながらもうさぎはいつも彼がいないことに安心しつつ寂しかった。きっと、すでに何振りかの刀剣男士は気づいているだろう。
けれども、うさぎはやはり三日月宗近を迎えることに躊躇するのであった。だのに、彼を求めて止まない自分にやはり戸惑うのであった。
とはいっても、前世を思い出したからといってうさぎが超人的な者になれるとは限らない。故に、うさぎはいつも前世の可能性を、三日月宗近へ対する不安を心の奥底に閉じ込めた。しかし、それももう時間の問題なのかもしれない。
さうぎは、そのような考えを頭に浮かべたまま強い風に散る桜を見つめた。
* * *
雲ひとつない夜空には白く輝く満月があった。
あまりにも美しい満月に歌仙は思わず廊下で足を止めて見上げた。
本丸中を照らす月明りは太陽よりも淡く優しい。それに歌仙をはじめとした多くの刀剣男士たちが月を好み愛でていた。
月を満足するまで愛でた歌仙は草履を履き月明かりに照らされながら歩き出した。
歌仙の目的は山の中にあった。とはいっても草履で入れるほどの場所で足元も特悪くはない。故に多くの刀剣男士の散歩道になっている。
その散歩道のゴールには大きな湖があった。この湖は主たる少女うさぎの望みによって作られたらしい。しかし、当のうさぎは何故作られたのか皆目見当がつかないと来た不思議な湖であった。
だが、作られた見当もつかない湖をうさぎは好んでいた。故に、彼女は何かあるとすぐにその湖に赴き何をするでもなくずっと静かに波打つ水面を見つめていたのだ。
今日も、何だか湖に彼女がいるような気がした。そして、今宵は何故か足を向けなければいけないようなそんな考えが浮かんだの。
誰に言われるでもなく歌仙は簡素な着流しを身に纏いひとり足を進み続けた。そして、目的地に着くとそこにはやはり彼女が居た。
靡く金糸の髪は誰よりも美しく、誰よりも神々しく歌仙の瞳に映る。
普段あれほど騒がしい彼女は時折神の末端である付喪神である刀剣男士よりも神々しく近寄りがたい。
はっと息を飲むような美しさに誰もが心惹かれて止まない。他人からすればそれは恋情だろうと指摘されるかもしれない。だが、決してそのような想いはなかった。
ただただ美しい彼女の後姿に見惚れながら歌仙は一歩踏み出し彼女に近づき口を開く。
「そんな薄着でいたら風邪ひくよ」
「……歌仙さん」
片手に持っていた羽織を薄い肩に掛けてやる。それにはっと我に返ったような表情で見上げるうさぎに歌仙は微笑みかける。
「また、考え事かい」
「……うん。ちょっと、ね」
無理矢理微笑むような表情に歌仙はまたか、と思った。
彼女はいつも騒がしくて、よく躓くようなドジで、すぐ誰かに泣き着く弱虫だ。年頃の女の子としてはもう少しお淑やかにならないものかと思うこともしばしばある。
だのに、時折見せられる嫋やかな美しさに見惚れてしまう。もとより顔立ちの整った少女とは思っていたがそれとは違う美しさと神秘を感じるのだ。
だが、大抵その嫋やかさで淑やかさを見せるときは何か思いつめているときの証拠でもある。数年しか共に過ごしていないがそれでも彼女が何を考えているのか大体のことは解っているつもりだ。
歌仙は彼女の横に立つと月明りを反射させる水面を見つめる。
「今日はとても綺麗な月夜だったから水面も一等美しいね」
「うん。すごく綺麗であたしも思わず見惚れちゃった」
へへと照れくさそうな顔をする愛らしさを横目で見て口元を緩めながら歌仙は再び水面に視線を戻す。
「何かあったのかな?」
「……はぁ。歌仙さんは鋭いなぁ」
顔を見なくとも彼女がどのような表情をしているのかが解る。きっと困ったような、情けないような表情をしているに違いない。そして、それを隠そうとしているようなそんな表情だ。
「僕にくらい弱音吐いてくれてもいいんじゃないかい」
初期刀として長らく彼女と共に過ごしているのだ。自分にくらい弱い姿を見せてほしい。そんな願いを込めて囁く。
「弱音っていうほどでもないよ」
「嘘をつかないでくれよ」
湖から再びうさぎへと視線を戻せば彼女はただ穏やかに微笑んでいた。
その笑みは彼女の年齢としては大人びたものであまりにも似合っていなかった。しかし、似合わない笑みはやんわりとした拒絶とも受け取れる。
肝心なところで弱音を吐かない彼女に悔しさに唇を噛むと――。
「ねぇ! 歌仙さん、踊ろう!」
「は? ちょ、あ、主っ!」
ぐいっと小さくて華奢な手に手を引かれた。そして、お互い向き合うような形になる。
随分下にある彼女の顔は楽しげに目元を赤くさせている。先ほどの穏やかさとは違う笑みに安心しながらもはぐらかされたことにはしこりとなって歌仙に残った。
だが、これ以上彼女は踏み入ってほしくはないということを理解した歌仙はひとつ溜め息を吐いた。それから苦笑を零して空いている手を華奢な腰に添えた。
「はい。これでいいかな、お姫様」
「ふふ! じゃ! よろしくね、王子様」
はいはい、と適当に返事をしながら励起されてから何故か身体に沁みついたワルツを踊り出す。
大きなお城の舞台ではないけれど、大理石の床ではないけれど、音楽もない。だけれども、月から零れ落ちる光がスポットライトのように二人を照らした。
二人は月明りが輝く下でただ楽しげに踊り続けたのだった。
* * *
同じくとある本丸で美しい満月を見上げる刀剣男士がいた。
「満月か……」
見上げる刀剣男士は雲ひとつない夜空に柔らかく光を放つ月の名を冠する者。名を三日月宗近。天下五剣にして最も美しい刀剣である。
麗しい顔(かんばせ)を曇らせた彼は在りし日を頭に浮かべる。
月の姫君と別れすでに四季は何度廻っただろうか。千年以上の時を過ごした三日月にとってはその数十回廻った四季も些末なことだ。だが、あの日から廻り巡る季節は何と緩やかなものだろうか。そして、こうした月夜の美しい日はたった一度触れ合い、別れた日を思い出させる。あれから、やはり湖は作られることはなく、愛おしい少女と逢瀬することもなかった。
月の姫君は寂しがってはいないだろうか。泣き続ける日々を送っていないか。
何度も、何度も、問いかけた。だが、返事はなく無常に日々は過ぎていく。
己は歴史を守るために戦うのみに励起された者。だのに、こうして歴史を守るよりも頭を過る少女を何度忘れようとしたことか。それでも忘れられない愛おしい少女。
今日も元気にしているだろうか。恋しがっていないだろうか。
上弦の月を宿す瞳を閉じながら三日月は今宵も愛おしき無垢な乙女の無事を――幸せを願うのだった。
2024.07.21 一部修正
歌仙は華やかな戦装束ではなく内番服に身を包み足音荒々しく廊下を歩いていた。その姿に寝ぼけ眼の刀剣男士たちは目を覚まし大人しく道を譲っていく。そして、彼の向かう先にある部屋を思い出してひとつ苦笑を零した。
さて、爽やかな朝に雅の欠片もなく進んだ歌仙はとある部屋の前で足を止める。
穏やかな顔つきを険しくさせ彼は声を張り上げた。
「主っ! 朝だよっ! 一体、君はいつまで寝こけているつもりだいっ!」
ぴったりとしまった襖に向かって声をかけるも返事はない。
返事のないことはいつもと同じ。歌仙は眉間の皺をこくしながらもうひとつ声をかける。
「主ッ! いい加減にしないかッ! 遅刻すると何遍言ったら済むんだいッ! 主ッ!」
両手を腰に当ててもう一度叫び。だが、悲しいかなそれに答えはなかった。
歌仙の蟀谷に青筋がひとつ浮かぶ。形のいい唇の端は痙攣している。多くの仲間が見たら回れ右をしてそっとその場を去って行くほどの形相である。
痺れをきらした歌仙は襖に手をかけて勢いよく開いた。
「主っ! 起きろっ!」
「ふぇぁっ!」
襖の思いきり開く激しい音と歌仙の叫び声に部屋の主は間の抜けた声をあげて飛び上がった。
掛布団を跳ねのけながら起きた部屋の主に歌仙は腕を組みむすっとした顔で声をかける。
「主、朝だ。起きろ」
「ぅうん。あしゃぁ?」
眠り眼を擦りながらこちらを振り向く主たる少女の間抜け面に歌仙の怒りは若干納まる。初期刀馬鹿とでもいうのだろうか。それとも世話焼き心がついたのか。ここまで無防備な姿を晒されていると何とも言えない複雑な気持ちになる。だが、歌仙は心を鬼にして眉間に皺を刻んだまま声をかける。
「そう。朝だ。時間で言えばすでに八時近い。君の寝ぼけた頭でもこの意味は解るだろう」
「はちじぃ?」
「8時だよ。朝の8時」
「…………うっそぉぉぉぉ!」
暫くの間が空くと歌仙に少女は文字通り飛び起きた。
響く声に耳を塞ぎながら歌仙は慌てふためく少女に深い溜息を零す。
「どうせ遅くまでゲームでもしていたんだろう。まったく!」
ギャーギャー騒ぎながら身支度を始める主に歌仙は気づかれることなく襖を閉めた。
「もー! なんで、歌仙さん起してくれなかったのよぉ!」
襖を閉めたときに理不尽な文句も慣れたものだ。
怒りと呆れを混ぜながら歌仙は絞り出すように言い返す。
「僕は一応起こしたよ。でも、君は涎を垂らして寝ていただろう」
「涎……ちょっと! 勝手に部屋に入って乙女の寝顔を見るなんてありえない! 歌仙さんのエッチ!」
「ぐっ。何がエッチだ! 僕はそんな無礼はしていない! ただの予想だよ! というか、その言い方だと君は年頃の娘の癖に涎を垂らしてはしたない!」
「う、うるさいーい! ああ! やっだぁ! もう、歌仙さんの所為で髪の毛ほどけちゃったじゃない!」
「僕の所為にするな!」
襖越しにギャーギャーやり取りをするのももはや日課である。
その様子をとうに朝食を済ませ内番やらを始める仲間たちは微笑ましいと顔をする者、心底呆れた顔をする者といった感じで見ている。そして、暫らくすると歌仙が静かに閉じた襖が勢いよく開いた。それと同時に歌仙はさっと退く。
「きゃぁ! また遅刻しちゃぁぁああっ!」
飛び出してきた金糸の綺麗な髪を振り乱す少女はどこかに躓き体勢を崩す。
想定されたことに歌仙はすぐに少女の身体を抱き留める。
「はぁぁ。君は学習能力がなさすぎる」
「ぅぅっ、すいませ~ん」
申し訳なさそうに首を垂れる少女に歌仙はもうひとつ深い溜息を吐いて立たせてやる。
それに主が振り返ってぱっと華やかな表情を向けた。
「歌仙さん、ありがとう! あと、おはよう!」
「どういたしまして。あと、おはよう」
先ほどまでの怒りや呆れやらを吹き飛ばす少女の笑顔に歌仙は心の中で苦笑を零す。何だかんだ歌仙は彼女に甘いのだ。こうしてあっさりとほだされてしまうのだから。
一瞬漂う甘い穏やかな空気に歌仙はすぐに我に返る。
「主! 呑気に挨拶している場合じゃない! 早く弁当を貰って門に行かないか!」
「はっ。そうだ! ああん! また朝ごはん食べられない!」
途端に泣きべそをかく主に歌仙は再び呆れた感情が込み上げる。
「君が寝坊しなければ済む話だろう」
「そうだけどぉ~」
「言い訳は無用。いいから、早く行った!」
くるんと主の身体を回して背中をトンと押し出す。
「はぁい。じゃ、いってきま~すっ!」
「いってらっしゃい」
泣きべそ顔から再び愛らしい笑みを浮かべた主に歌仙は手を振って見送った。
きっと、また躓いてこけるのだろうなと予想できるほどの慌ただしい少女――月野うさぎこそが歌仙たち刀剣男士を励起させた審神者であった。
* * *
慌ただしい朝学校までの護衛の刀剣男士と別れたうさぎは絶賛廊下に立たされていた。
刀剣男士にまさかのお姫様抱っこまでしてもらいながらもやはり遅刻は遅刻であった。さらに、遅刻での注意を受けて朝食抜きで腹が減ったうさぎは早弁をしてしまった。それこそが現在うさぎが廊下に立たされている理由だった。
「もう! ちょっとくらいいいじゃないの。ちょっとくらい。先生のケチっ」
「月野さん、あなたの独り言聞こえているわよぉ」
「げぇっ!」
呼ばれた名に前方の入り口を見ると教室から顔を出している担任がいた。それにさっとうさぎは顔を青ざめさせた。
ぶすっと不満たらたらに文句を呟いているところをばっちり訊かれてしまったようだ。
「あ、あの~、えへへっ」
「もうしばらく立ってなさい!」
「あっ! せんせぇ!」
弁明しようにも担任にあっさりと見放されてしまった。
うさぎは肩を落としながら後ろで腕を組んで目の前で葉桜に成り駆けている桜並木を見つめる。
「春も終わりかぁ」
淡く色づく花びらが散り逝く姿を見ながら妙な感傷が湧き起る。
ついこの間、高校に入学したうさぎは中学生の頃よりひとつのお役目をしていた。それが、刀剣に宿る付喪神を励起させ歴史を改変とする歴史修正主義者の朔行軍と戦うことであった。物に宿る付喪神を励起させる者を審神者と呼ぶ。本来であれば18歳以上のみと年齢制限を設けられていたがうさぎが生れた時期より戦いは苛烈を極め、年齢制限が撤廃されたのだ。
故に今の審神者は生まれたばかりの乳飲み子から年配の方々と幅広い。うさぎもまた中学生の頃に「力」の検査により審神者へと招集されたのだ。
実際に戦いに身を投じるのはうさぎが励起させた刀剣男士たち。審神者も短時間であれば出陣可能ではあるが多くは役立たずとなり多くの審神者は本丸で待機している状態だ。それがうさぎにとってはとても歯がゆかった。
自分はのうのうと護られるだけの存在である。皆と出陣できても役に立たず足を引っ張るだけ。それが審神者になったばかりの頃はとても歯がゆかった。そして、今もそれは変わらない。こうしてうさぎが高校に通えるのも朔行軍と戦ってくれている刀剣男士たちのお蔭だ。
うさぎは目の前の散り逝く桜の花びらを見つめながら悔しさに奥歯を噛む。
自分はどこまでも護られる存在であるのだと見せつけられている気分であった。
何故、力がないのか。何故、無力にも近い自分でしかいられないのか。どうすれば彼らと共に戦えるのか。何度も、何度も自問自答した。だがしかし、答えはでない。どうしようもなく無力な自分がうさぎは嫌いであった。
「前、みたいに力があれば……っ」
その呟きにうさぎは我に返る。そして、唇を抑えて難しい顔をして見せる。
うさぎは物心ついた頃から「前みたいに」と呟く癖があった。
前とは一体いつのことを指しているのか。だが、その答えは自分でもなせない。しかし、一度初期刀で歌仙に相談したところ彼はひとつの答えをくれた。
「それは所謂――前世というものではないかな」
それにずっとうさぎの周りに纏わりついていた霧が晴れたような気がした。
前世という言葉は妙にしっくりときたのだ。記憶にはないが時折襲いくる既視感は前世のことが関係しているのだと納得する自分がいたのだ。だが、力があると思う前世は一体どのような自分だったのかうさぎは予想がつかなかった。もしかして男だったのか。そして、誰かの先頭に立つような武将だったのだろうか。全く想像できない前世にうさぎは首を幾度も傾け続けた。
今も続く前世への自問自答。いつか思い出す日が来るのだろうか。それはすごく恐ろしいような気もする。同時に、どうしようもなく思い出したくなる前世。
「一体、あたしに何があったんだろう」
しかし、その思い出せない前世のきっかけをひとつうさぎは知っていた。
そのきっかけは天下五剣に選ばれ最も美しいと称される刀剣男士――三日月宗近であった。彼を見かける度にどうしようもなく魅かれて、心が揺さぶられると同時に酷く痛かった。
早く迎えたいようなそうでないようなもどかしさによりうさぎの本丸に三日月宗近はいない。現在励起可能な刀剣男士を迎えながら彼だけいないのだ。
誰もが不思議に思いながらもうさぎはいつも彼がいないことに安心しつつ寂しかった。きっと、すでに何振りかの刀剣男士は気づいているだろう。
けれども、うさぎはやはり三日月宗近を迎えることに躊躇するのであった。だのに、彼を求めて止まない自分にやはり戸惑うのであった。
とはいっても、前世を思い出したからといってうさぎが超人的な者になれるとは限らない。故に、うさぎはいつも前世の可能性を、三日月宗近へ対する不安を心の奥底に閉じ込めた。しかし、それももう時間の問題なのかもしれない。
さうぎは、そのような考えを頭に浮かべたまま強い風に散る桜を見つめた。
* * *
雲ひとつない夜空には白く輝く満月があった。
あまりにも美しい満月に歌仙は思わず廊下で足を止めて見上げた。
本丸中を照らす月明りは太陽よりも淡く優しい。それに歌仙をはじめとした多くの刀剣男士たちが月を好み愛でていた。
月を満足するまで愛でた歌仙は草履を履き月明かりに照らされながら歩き出した。
歌仙の目的は山の中にあった。とはいっても草履で入れるほどの場所で足元も特悪くはない。故に多くの刀剣男士の散歩道になっている。
その散歩道のゴールには大きな湖があった。この湖は主たる少女うさぎの望みによって作られたらしい。しかし、当のうさぎは何故作られたのか皆目見当がつかないと来た不思議な湖であった。
だが、作られた見当もつかない湖をうさぎは好んでいた。故に、彼女は何かあるとすぐにその湖に赴き何をするでもなくずっと静かに波打つ水面を見つめていたのだ。
今日も、何だか湖に彼女がいるような気がした。そして、今宵は何故か足を向けなければいけないようなそんな考えが浮かんだの。
誰に言われるでもなく歌仙は簡素な着流しを身に纏いひとり足を進み続けた。そして、目的地に着くとそこにはやはり彼女が居た。
靡く金糸の髪は誰よりも美しく、誰よりも神々しく歌仙の瞳に映る。
普段あれほど騒がしい彼女は時折神の末端である付喪神である刀剣男士よりも神々しく近寄りがたい。
はっと息を飲むような美しさに誰もが心惹かれて止まない。他人からすればそれは恋情だろうと指摘されるかもしれない。だが、決してそのような想いはなかった。
ただただ美しい彼女の後姿に見惚れながら歌仙は一歩踏み出し彼女に近づき口を開く。
「そんな薄着でいたら風邪ひくよ」
「……歌仙さん」
片手に持っていた羽織を薄い肩に掛けてやる。それにはっと我に返ったような表情で見上げるうさぎに歌仙は微笑みかける。
「また、考え事かい」
「……うん。ちょっと、ね」
無理矢理微笑むような表情に歌仙はまたか、と思った。
彼女はいつも騒がしくて、よく躓くようなドジで、すぐ誰かに泣き着く弱虫だ。年頃の女の子としてはもう少しお淑やかにならないものかと思うこともしばしばある。
だのに、時折見せられる嫋やかな美しさに見惚れてしまう。もとより顔立ちの整った少女とは思っていたがそれとは違う美しさと神秘を感じるのだ。
だが、大抵その嫋やかさで淑やかさを見せるときは何か思いつめているときの証拠でもある。数年しか共に過ごしていないがそれでも彼女が何を考えているのか大体のことは解っているつもりだ。
歌仙は彼女の横に立つと月明りを反射させる水面を見つめる。
「今日はとても綺麗な月夜だったから水面も一等美しいね」
「うん。すごく綺麗であたしも思わず見惚れちゃった」
へへと照れくさそうな顔をする愛らしさを横目で見て口元を緩めながら歌仙は再び水面に視線を戻す。
「何かあったのかな?」
「……はぁ。歌仙さんは鋭いなぁ」
顔を見なくとも彼女がどのような表情をしているのかが解る。きっと困ったような、情けないような表情をしているに違いない。そして、それを隠そうとしているようなそんな表情だ。
「僕にくらい弱音吐いてくれてもいいんじゃないかい」
初期刀として長らく彼女と共に過ごしているのだ。自分にくらい弱い姿を見せてほしい。そんな願いを込めて囁く。
「弱音っていうほどでもないよ」
「嘘をつかないでくれよ」
湖から再びうさぎへと視線を戻せば彼女はただ穏やかに微笑んでいた。
その笑みは彼女の年齢としては大人びたものであまりにも似合っていなかった。しかし、似合わない笑みはやんわりとした拒絶とも受け取れる。
肝心なところで弱音を吐かない彼女に悔しさに唇を噛むと――。
「ねぇ! 歌仙さん、踊ろう!」
「は? ちょ、あ、主っ!」
ぐいっと小さくて華奢な手に手を引かれた。そして、お互い向き合うような形になる。
随分下にある彼女の顔は楽しげに目元を赤くさせている。先ほどの穏やかさとは違う笑みに安心しながらもはぐらかされたことにはしこりとなって歌仙に残った。
だが、これ以上彼女は踏み入ってほしくはないということを理解した歌仙はひとつ溜め息を吐いた。それから苦笑を零して空いている手を華奢な腰に添えた。
「はい。これでいいかな、お姫様」
「ふふ! じゃ! よろしくね、王子様」
はいはい、と適当に返事をしながら励起されてから何故か身体に沁みついたワルツを踊り出す。
大きなお城の舞台ではないけれど、大理石の床ではないけれど、音楽もない。だけれども、月から零れ落ちる光がスポットライトのように二人を照らした。
二人は月明りが輝く下でただ楽しげに踊り続けたのだった。
* * *
同じくとある本丸で美しい満月を見上げる刀剣男士がいた。
「満月か……」
見上げる刀剣男士は雲ひとつない夜空に柔らかく光を放つ月の名を冠する者。名を三日月宗近。天下五剣にして最も美しい刀剣である。
麗しい顔(かんばせ)を曇らせた彼は在りし日を頭に浮かべる。
月の姫君と別れすでに四季は何度廻っただろうか。千年以上の時を過ごした三日月にとってはその数十回廻った四季も些末なことだ。だが、あの日から廻り巡る季節は何と緩やかなものだろうか。そして、こうした月夜の美しい日はたった一度触れ合い、別れた日を思い出させる。あれから、やはり湖は作られることはなく、愛おしい少女と逢瀬することもなかった。
月の姫君は寂しがってはいないだろうか。泣き続ける日々を送っていないか。
何度も、何度も、問いかけた。だが、返事はなく無常に日々は過ぎていく。
己は歴史を守るために戦うのみに励起された者。だのに、こうして歴史を守るよりも頭を過る少女を何度忘れようとしたことか。それでも忘れられない愛おしい少女。
今日も元気にしているだろうか。恋しがっていないだろうか。
上弦の月を宿す瞳を閉じながら三日月は今宵も愛おしき無垢な乙女の無事を――幸せを願うのだった。
2024.07.21 一部修正
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