月の始まり

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 今日も今日とて三日月宗近は早朝の散歩をしに山に入っていった。
 その足取りはいつものようにゆったりとしているがどこか浮足立っている。心なしか表情もいつもの朗らかな柔らかいというよりも何か楽しみなことがある様だ。だが、その様子を見かける仲間は早朝のためほとんどいない。居たとしてもほとんどの者が気付かない本当に些細な変化なのであった。

 機嫌の良さとは違う何かを秘めた三日月は目的地に向かって歩いていた。
 つい数日前まで三日月の散歩に目的地は無かった。しかし、とある日を境に彼の散歩にはそれができた。その目的地に向かってしばらく歩き続けると大きな湖のある場所に出る。
 眼前に広がる湖は朝日の日差しを浴びて相変わらず美しく水面を揺らしている。

「今日も美しいな……さて、と」

 美しい水面に目を細めた三日月は畔にしゃがみ込む。そして、恐る恐ると水面を覗き込むとそこには自分の姿ではなく可憐な少女が映っていた。

 初めてここを発見したときに同じく可憐な少女に出逢った。夢かと思っていたあの出来事に次の日も確認するように行くと湖があり夢はなかった。そして、同じように湖を覗き込めばそこには同じように前日と変わらぬ少女が映っていた。さらに、次の日も、その次の日も水面を覗けば愛らしい少女は同じように覗き込んでいたのだ。

 なんと不思議な出逢いだろうかと感慨深く思うと同時に三日月は少女と逢うことが楽しみでならなかった。

「おはよう。名も知らぬ乙女よ」

 聞こえぬ挨拶を口にして手を振る。それに少女は愛らしい唇を動かし小さな手を振り返してくれた。

 この水面は不思議な力がある癖に声は届けてくれぬという意地悪なところがある。故に二人は会話を交わすことなくただただ見つめ合い時に微笑み合うだけにとどまっている。ただ、それだけのことを三日月はとても至福に思うと同時に心の奥がぽっと暖かくなるのだ。

 この愛らしい乙女の名前はなんであろう。雰囲気からして尊い身分の姫君なのだろうか。では、その姫君はどこにおわすのであろうか。
 尽きることのない問いが浮かんでは沈み浮かぶ。だが、声が届かないならば言葉を交わすことなどできない。何ともじれったいと三日月は何度思ったことであろうか。

 可憐な少女と言葉を交わしたくて、名を呼び合いたくて、触れ合いたくてたまらない。その考えに至ることの多さに自分自身でも辟易もする。

「ああ。今日も言葉を交わすことができないのだな……」

 そうぽつりと聞こえないことをいいことに囁くと水面越しの少女の顔が曇る。

「おや。どうした。何を哀しむ」

 首を横にして心配している体を見せると少女が身振り手振りで返してきた。
 それはまるで三日月が寂しそうだ、悲しそうだ、と伝えているようであった。ああ、と三日月は苦笑しながら大丈夫だと身振りで返してやる。いといけない乙女を哀しませるなど言語道断。三日月は何度も大丈夫、大丈夫と心配そうにこちらを窺う乙女に訴える。すると、ようやく少女の顔が安心したのか微笑む。

 その顔が一等好きであった。三日月もつられるように微笑む。すると少女の真珠のように美しい肌が薄ら染まるといつもと違う微笑みを浮かべる。
 ちょっと照れくさそうな、恥ずかしそうな、何とも言えない表情に首を傾げる。
 真っ赤になった頬を抑える様もとても愛らしい。しかし、三日月はこの少女の行動がよく解らない。具合でも悪くなったかと思うもそのようにも見えない。

 こういう時ほど声をかけられないほど歯がゆいものはない。心配げに触れられないのもまた辛い。
 すると、しばらくして少女の視線が一度外れる。そして、少女は寂しそうな微笑みを浮かべた。それに別れの時間であると三日月は悟る。

 優雅に振る手に三日月もまた緩やかに手を振り返す。
 この時が何よりも辛い。だが、これが三日月だけが思っているのではないと少女の顔を思うとどこか嬉しく思えてならない。
 酷い考えを浮かべるものだと自嘲したこともあった。この少女と逢う度にその想いは強くなるばかりなのだ。
 そんなことを考えていると水面が大きく揺れる。まるで少女を掻き消すような動きに悲しさが募る。瞬く間に消え失せる乙女の姿に三日月はひとつ深い溜息を吐き出した。

「明日もここに来るだろうか」

 少女と終わったあといつもこのような不安に苛まれる。
 ゆるゆると緩慢に立ち上がりながら三日月は澄み渡る青空を見上げながら目を閉じる。

「声を聞きたいものだ、な」

 そっと開いた目には悲しげに揺れる上弦の月があった。



   * * *



 プリンセス・セレニティは広がるドレスの裾を揺らしながら熱の籠った吐息を零す。そして、火照る両頬を小さな手で覆いながらもう一度深く吐息を零す。

 まさに恋する乙女といったところだろうか。傍から見ればまるで恋しているようなセレニティの様子に四守護戦士は落ち着きなく、クイーンはどこか微笑ましそうにだが困ったように娘を見守っている。しかし、その本人は恋していることなど自覚していなかった。

「ああ。明日もいらっしゃるかしら」

 火照る頬から手を離し胸の前で手を組ながら呟く。
 逢えるのか問うのはここにはいない水面の殿方。彼の人に出逢えるあの時はとても幸せで、でも声を聞けないのは寂しくて、別れの時は一等悲しい。それを繰り返しながら幼い少女の心に名も知らない愛おしさが募る。

 たった数日、されど数日。恋に日数は関係ないのだろう。

 彼女の世界は大好きな母に四守護戦士に民に国だけしかなかった。しかし、最近は水面の殿方が誰よりも彼女の心の中を占めている。

「声が聞きたい」

 贅沢など言わないから水面の殿方の声を聞きたい。
 あの素敵な殿方はどのような声をしているのか、どのような言葉を話すのか。知りたいことはたくさんある。きっと一日あっても語りつくせないであろう。

「水面の殿方はどこの方なのかしら」

 見たことのない服を着ている。この月からずっと離れた惑星の人なのかしら。

 逢えるのなら逢いたい。

 水面の殿方を思うほどに心が苦しくなる。

「……あら? もしかして、わたしはあの方に恋しているのかしら?」

 セレニティは我に返った。
 この想いは書物であるが読んだことがある。異性を想うと心が苦しくなること。逢えないと寂しいこと。逢った時がとても至福であること。
 カッと血が廻りセレニティの白い肌がすべて赤く染まった。

「やだ。やだ。わたしったら、今度からどんな顔をしてよいのかしら」

 無知な自分を恥じながらセレニティは顔を覆う。

「……どうしましょう」

 次に逢った時はちゃんと笑えるかしらと透き通る青の瞳を潤ませるセレニティであった。



2024.07.21 一部修正
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